『ホツマツタエ』
『ホツマツタエ』は、「真(まこと)の中の真(まこと)の言い伝え」と言う意味で、「正式な歴史書;正式な伝記:正式な正史(正しい歴史)」などと解釈して、「記紀」と同じく、正しいことも嘘(うそ)や偽(いつわ)りも記すが、古代天皇家の最も正式な歴史書で間違いない。
『ホツマツタエ』は、日本最古の書物で、「記紀」よりも古い古代天皇家の歴史を記す第一級史料で、最低でも3段階でまとめたと2022年11月3日に気付いた。
昔から歴史研究した僕は、『ホツマツタエ』を彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と曾孫の2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)が別々にまとめ上げて、4世紀後半から5世紀中に日本神話がまとめ上げられて、6世紀から7世紀中に西暦年を組み込んだと何となく考えて、それが間違いと納得できる結論が出た。
『ホツマツタエ』は、6代目・大物主神(おおものぬしのかみ)と直系子孫の2代目・大田田根子(おおたたねこ)がまとめて、藤原氏の先祖の大鹿島(おおかしま)が花押(かおう;自著の代わりに使う記号)で署名(しょめい)して、景行(けいこう)天皇56年に献上したと記す。
6代目・大物主神(おおものぬしのかみ)と大鹿島(おおかしま)は、景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)の息子の神櫛皇子(かんぐしのみこ)と稲背彦皇子(いなせひこのみこ)で、神櫛皇子(かんぐしのみこ)が6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)で、息子の飯入根(いいいりね)を7代目出雲国王にして、隠居したと考えられる。
大田田根子(おおたたねこ)は、初代と2代目がいて、2代目・大田田根子(おおたたねこ)が血筋から2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)と判明して、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)の曾孫で、明らかに祖父と曾孫が協力して、『ホツマツタエ』をまとめたと考えられる。
大鹿島(おおかしま)は、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)の兄弟で、稲背彦皇子(いなせひこのみこ)と考えられて、2人とも生死を記してなくて、『ホツマツタエ』の署名(しょめい)をして、6代目・大物主神(おおものぬしのかみ)と2代目・大田田根子(おおたたねこ)と大鹿島(おおかしま)が出雲王国(物部(もののべ)氏)の養子と直系子孫である。
この3人は、その存在を日本神話と史実(歴史上の事実)に記して、『ホツマツタエ』を西暦306年に神功(じんぐう)皇后に献上して、出雲王国の崩壊(出雲の国譲りの歴史)までを記して、出雲王国の関係者にまとめさせたのが第1段階と考えられる。
『ホツマツタエ』の第2段階は、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の古代朝鮮国家と古代中国王朝との外交が途絶して、西暦366年に百済(くだら)と外交を再開して、古代中国王朝とも外交を再開して、『三国志・魏志倭人伝』を読んで、4世紀後半から5世紀中に日本神話を作り上げて、継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月上旬)に継体(けいたい)天皇が即位した。
武烈(ぶれつ)天皇は、血縁断絶して、継体(けいたい)天皇が母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の直系子孫である女系男子天皇だから天皇になって、日本神話の作成が第2段階の正体で、出雲でなく、天皇家が中心で、複数人でまとめたと考えられる。
日本神話は、4世紀から5世紀中に成立して、「記紀」と同時期にできた『風土記(ふどき)』が日本各地の独自の神話を記して、日本各地で独自の神話を生み出す時間が必要で、『ホツマツタエ』の第2段階が日本神話の成立で間違いない。
『ホツマツタエ』の第3段階は、西洋の西暦年が使われた証明で、これを偶然の一致とするほど僕が馬鹿でなく、間違いない事実と考えられる。
天日槍(あめのひぼこ)の子孫の年代は、垂仁(すいにん)天皇3年が垂仁(すいにん)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)年(西暦191年)から逆算しての3年の西暦188年、垂仁(すいにん)天皇88年が西暦188年の変更で、崇神(すじん)天皇60年の出雲平定が仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)神無月の出雲王国の崩壊である。
景行(けいこう)天皇27年は、景行(けいこう)天皇57年(西暦247年)の熊襲(くまそ)王国の反乱で、『三国志・魏志倭人伝』の西暦247年の狗奴国(くぬこく)攻撃を隠して、これらの西暦年の使用が『日本書紀』にも影響して、摂政(せっしょう)39年の魏王朝への遣使が西暦239年などである。
『ホツマツタエ』の第3段階は、西暦年が西暦525年(6世紀前半)にできて、672年(7世紀後半)の壬申(じんしん)の乱より前に成立して、『ホツマツタエ』が完成したと考えられる。
『ホツマツタエ』は、第1段階が3世紀後半頃までの古代天皇家の歴史を記録して、第2段階が4世紀後半から5世紀中に日本神話を完成させて、第3段階が6世紀の西暦525年にヨーロッパで西暦年ができて、6世紀から7世紀中に西暦年を組み込んで、日本最古の書物の『ホツマツタエ』が完成した。
6世紀から7世紀中に完成した『ホツマツタエ』は、6世紀前半の西暦525年にヨーロッパで作られた西暦年を組み込んで、和珥(わに)氏が6世紀頃に春日(かすが)氏と大宅(おおやけ)氏と粟田(あわた)氏などに分家したことを記して、7世紀前半の推古(すいこ)天皇30年2月22日(西暦622年4月8日)に亡くなった聖徳太子が作った可能性があるが、あくまで想像にすぎなくて分からない。
景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)は、長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)を生んで、6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)に当たって、次男が稲背彦皇子(いなせひこのみこ)で、神櫛皇子(かんぐしのみこ)と曾孫の2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)で、『ホツマツタエ』の第1段階をまとめて、稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が花押(かおう)を押して、『ホツマツタエ』を4世紀初頭に神功(じんぐう)皇后に献上したと考えられる。
『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇56年(西暦246年)の献上は、干支(えと)の一周60年間を加算して、神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)天皇46年(西暦306年)が正しくて、歴史学(歴史書解釈)から『ホツマツタエ』の献上の年数が正しいと考えられる。
摂政(せっしょう)天皇46年(西暦306年)は、『ホツマツタエ』の第一段階の献上年と考えられて、6世紀から7世紀の『ホツマツタエ』の完成年と干支(えと)の年月が合致して、日本最古の書物の『ホツマツタエ』の完成年が定まる可能性がある。
『ホツマツタエ』の献上年の景行(けいこう)天皇56年(西暦246年)は、干支(えと)の60年周期を加算すると、西暦546年と西暦606年と西暦666年に完成した可能性があって、6世紀から7世紀の年数が完全な想像で、「ユーチューブが紹介する宮内庁所蔵のホツマ文字」から、西暦672年の壬申(じんしん)の乱で、燃えないように『ホツマツタエ』を持ち出したと考えられる。
古代の紙(かみ)は、紀元前2世紀頃に古代中国で作成して、2世紀初めの西暦105年頃に後漢(ごかん)王朝の役人の蔡倫(さいりん)が製紙法を改良して、使いやすい実用的な紙(かみ)を大量生産して、景行(けいこう)天皇元年(191年)に帰還した遣漢使(けんかんし)が製紙法を伝えて、4世紀初頭に『ホツマツタエ』を紙(かみ)に書いた可能性を考えられて、2024年6月29日の午後5時頃に求めた。
紀年法は、特定の年を紀元と定めて、それからたし算した経過年数で年代を表示して、紀元が理論上どの年でもかまわなくて、通常が政治的に定められて、日本で西暦年を使う前が神武(じんむ)天皇元年(紀元前660年)から始まる神武(じんむ)紀元や皇紀と呼んで、干支(えと)を使った干支紀年法(かんしきねんほう)などもある。西暦年は、
6世紀前半の西暦525年に神学者ディオニシウスがイエス・キリストの生誕年の翌年を西暦1年とした紀年法で、イエス・キリストの本当の生誕年が紀元前4年以前と考えられて、当時のヨーロッパで、ディオクレティアヌス紀元の紀年法が西暦284年8月29日を紀元として使われた。
西暦年は、その後も長く受け入れられず、西暦731年にベーダ・ヴェネラビリスが『イングランド教会史(イギリス教会史)』を西暦年で記して、だんだん普及して、10世紀頃に一部の国で使われ始めて、西ヨーロッパで一般化したのが15世紀以降で、世界中で最も使う暦法になったのがヨーロッパ各地の世界進出や植民地拡大で、非キリスト教国でも一般化した。
しかし古代天皇家は、ディオクレティアヌス紀元の紀年法でなく、西暦年の100年分割した紀年法を使って、西暦年が西暦731年以降に普及したが、『日本書紀』を献上した西暦720年以前に『ホツマツタエ』が採用して、絶対に覆(くつがえ)せない論理的根拠である。
『日本書紀』欽明(きんめい)天皇14年6月(西暦553年7月頃)は、古代朝鮮国家の百済(くだら)から暦博士(こよみはかせ)を賜(たまわ)ったと記すが、『ホツマツタエ』の暦法がスス暦とアスス暦とキアエ暦の3つで、日本神話から歴代天皇時代まで、詳細な日付を記して、古代天皇家で独自の暦法があったのが間違いなくて、正しく理解する必要がある。
ヨーロッパの太陽暦は、紀元前45年に導入したユリウス暦を1582年10月15日(金)にグレゴリオ暦へ変更して、日本がグレゴリオ暦と西暦年を導入したのが1873年(明治6年)1月1日(水)で、グレゴリオ暦と西暦年が別の暦法で、正しく理解する必要がある。
古代日本の暦法は、太陰太陽暦で、『ホツマツタエ』が採用した西暦年がヨーロッパの太陽暦のユリウス暦のはずで、欽明(きんめい)天皇14年6月(西暦553年7月頃)に初めて古代天皇家が暦法を知ったと誤解して、現在の歴史学会(歴史書解釈)の間違った常識につながったと考えられる。
『ホツマツタエ』の3つの暦法は、1世紀中頃の彦坐王(ひこいますのみこ)と崇神(すじん)天皇の誕生日を記して、独自の暦(こよみ)で記録して、太陰太陽暦と太陽暦の違いなどもしっかり理解して、古代天皇家の認識力が非常に優秀だった理由である。
『ホツマツタエ』は、天足彦国押人命(あまたりひこくにおしひとのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)の子孫が和珥(わに)氏で、春日(かすが)氏と大宅(おおやけ)氏と粟田(あわた)氏と小野(おの)氏と柿本(かきのもと)氏などと消えた名字(みょうじ)のイチシ氏とソトミ氏などに分かれたと記す。
彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の和珥(わに)氏は、6世紀頃に春日(かすが)氏と大宅(おおやけ)氏と粟田(あわた)氏と小野(おの)氏と柿本(かきのもと)氏などに分かれて、『ホツマツタエ』の第3段階の成立時期と合致する。
僕が彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の全部は、古代太陽神氏族の和珥(わに)氏と定義付けて、春日(かすが)氏と大宅(おおやけ)氏と粟田(あわた)氏と小野(おの)氏と柿本(かきのもと)氏などと同一氏族で、物部(もののべ)氏と海部(あまべ)氏なども含む。
『ホツマツタエ』の第1段階は、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と曾孫の2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)が西暦306年にまとめて、この2人以外の編者がいないと考えられて、『日本書紀』よりはるかに正確な情報を散りばめて、「記紀」以上の最上の第一級史料で、これから日本最古の書物と認識して、歴史研究で重宝(ちょうほう)するのが間違いない。
『ホツマツタエ』の第2段階は、4世紀後半から5世紀中に日本神話をまとめ上げて、この作業が出雲でなく、天皇家の命令で国家規模の編集で、当時の精鋭が必死に作ったと考えられる。
『ホツマツタエ』の第3段階は、旧暦と西暦年の対比を適応した作業で、6世紀から7世紀中に西洋と交流して、西暦年を把握したのが事実で、シルクロードが紀元前2世紀から15世紀で、日本のシルクロードが遣隋使や遣唐使で7世紀から9世紀頃で、西暦年を知るのも十分に可能で、正しい状況確認が大切で、『ホツマツタエ』の西暦年を2022年11月4日に求めた。
『ホツマツタエ』は、日本神話と邪馬台国(大和国;やまとこく)時代が関連して、崇神(すじん)天皇から仁徳(にんとく)天皇の時代まで記して、倭(わ)の五王が含まれず、『ホツマツタエ』より後世にできた「記紀」が倭(わ)の五王を改竄(かいざん)して、『ホツマツタエ』が史実・真実・事実を改竄(かいざん)したことを「記紀」も受け継いだ。
『ホツマツタエ』は、神武(じんむ)天皇元年(紀元前660年)から景行(けいこう)天皇56年(西暦126年)に年代を改竄(かいざん)して、崇神(すじん)天皇元年(紀元前97年)から仁徳(にんとく)天皇元年(西暦313年)までの嘘(うそ)の年代を作って、崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)から仁徳(にんとく)天皇元年(西暦334年)までの正しい年代を隠した。
仁徳(にんとく)天皇元年(西暦334年)から武烈(ぶれつ)天皇32年(西暦506年)は、僕が特定した正しい年代で、「記紀」の応神(おうじん)天皇元年(西暦270年)から武烈(ぶれつ)天皇8年(西暦506年)が改竄(かいざん)した嘘(うそ)の年代で、『ホツマツタエ』に倭(わ)の五王が含まれないことで、天武(てんむ)天皇が皇室の歴史を「記紀」にまとめることにした。
年代の偽装工作は、日本最古の書物『ホツマツタエ』が最初の偽装工作で、2番目と3番目に古い書物の「記紀」が同時に2回目の偽装工作で、『ホツマツタエ』と「記紀」の偽装工作で、神武(じんむ)天皇元年(紀元前660年)からの歴代天皇の在位期間を信じた専門家(歴史学会)の勘違いで、余計に現代人(僕以外の人間)の勘違いの常識(当たり前)を強めて、僕の対抗心を育てて、正しい年代を特定した。
『ホツマツタエ』は、「記紀」以上に古代天皇家の歴史を正確に残す歴史書で、旧暦の年月日や神名や人名や系図や特徴などを細かく記して、「記紀」程度の歴史書と比較できず、最も信頼できる重要な第一級史料である。
『ホツマツタエ』の正当性は、僕がその存在を見つけた時から、確実に後世の希望となって、歴史上で最重要の皇室の秘史を語って、誰にも手出しできない史実・真実・事実を僕が求めて、人類史上で最も謎多き皇室を語る生き証人の書物だった。
『ホツマツタエ』の基礎は、「記紀」の神様や人物を正しく把握して、神名や人名や性別などの特徴を正させて、何が正しいか間違いか疑問を挙例して、解決するための大切な道筋である。
『ホツマツタエ』は、漢字以前の時代の古代文字とされる神代(しんだい)文字で記して、『ホツマツタエ』が「記紀」以上の正史(正確に正しい歴史)と僕が証明して、もはや専門家(考古学会と歴史学会)も沈黙できなくて、日本の古代文字の存在を認めない限り一歩も前に進めない。
『ホツマツタエ』は、『日本書紀』と同じで、旧暦(太陰太陽暦)を西暦年月日に当てはめられる書物で、「記紀」以上に神名や人名や系図や時代の出来事の内容などが詳しく、歴史研究に必要不可欠な歴史書で、僕が正しいのか間違いか情報を選別して、現代人(僕以外の人間)が理解できるように作り直して、この作業が想像を絶する超感覚(超頭脳)で可能にした。
『ホツマツタエ』は、「記紀」と同じように本当と嘘(うそ)を混在して、正史(正確に正しい歴史)を求められない偽装工作をほどこしたが、奇跡の超天才の僕が不可能を可能にして、疑問点を解答に変えて行って、後世の教本を作り上げた。
『ホツマツタエ』は、垂仁(すいにん)天皇3年が垂仁(すいにん)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)年から逆算しての3年の垂仁(すいにん)天皇37年(西暦188年)で、垂仁(すいにん)天皇88年が垂仁天皇37年(西暦188年)で、天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)と神格化)の子孫で共通すると特定した。
『ホツマツタエ』は、他にも西暦年を使用すると証明して、凡人(僕以外の人間)が「記紀」に西暦年の使用を証明できないが、超天才の僕が『ホツマツタエ』と「記紀」が西暦年の使用を証明して、あまりに段違いな超天才である。
『ホツマツタエ』は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の生没年月日を求められて、「記紀」が倭姫命(やまとひめのみこと)の生没年月日と葬礼日を隠して、倭姫命(やまとひめのみこと)の異母弟が景行(けいこう)天皇だが、「記紀」が景行(けいこう)天皇の実妹が倭姫命(やまとひめのみこと)と偽装工作して、卑弥呼(ひみこ)と男弟(だんてい)の正体を隠しても、僕の超感覚をごまかせなかった。
『ホツマツタエ』は、台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后の生年月日を記さず、景行(けいこう)天皇56年までを記して、『日本書紀』が神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)の任命と没年月日を記して、逆算して生年月日を予測して、僕を騙(だま)そうなんて恐れ知らずである。
『ホツマツタエ』は、太陽神の天照神(あまてるかみ)と豊受(とよけ)が男性の神様で、「記紀」が太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)と豊受大神(とようけおおかみ)が女神で、伊勢神宮の内宮と外宮の祭神として重要で、男性と女性の性別変更が疑問で、一番簡単なのが「記紀」の時代の女性天皇の正当化で、これが一番しっくりくる。
男性の太陽神の天照神(あまてるかみ)は、アマテラスとヲヲンカミの別名があっても男性で、後世に語源と性別が変化して、女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)になったのが間違いない。
『ホツマツタエ』の花子(倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)が機殿(はたどの)に馬の死骸を投げ込んだが、「記紀」で花子を天照大神(あまてらすおおみかみ)に変更して、太陽神の存在が『ホツマツタエ』の方が古いことを意味して、僕が正しく認識させた。
『ホツマツタエ』の最初の元伊勢は、奈良県の笠縫邑(かさぬいむら)が所在地不明で、第2の元伊勢が京都府宮津市の真名井(まない)神社で、その後に滋賀県と岐阜県を巡って、三重県に落ち着いて点在して、垂仁(すいにん)天皇26年(西暦177年)に現在の伊勢神宮内宮に最終遷宮したと記す。
『日本書紀』は、笠縫邑(かさぬいむら)を記して、その後に京都府宮津市の元伊勢が記されず、滋賀県と岐阜県を巡って、三重県に落ち着いて、垂仁(すいにん)天皇26年(西暦177年)に現在の伊勢神宮内宮に最終遷宮して、元伊勢の詳細を希薄(きはく)にさせた。
『倭姫命世紀;倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』は、鎌倉時代中期に成立したと考えられて、元伊勢を愛知県や岡山県などにも記して、僕が論理的根拠で、各地の元伊勢を実証して、『ホツマツタエ』の正当性を証明した。『ホツマツタエ』の元伊勢は、最も信頼できる第一級史料で、その意味と価値を正しく認識して、後世に伝えるのが僕たちの役目である。
『古事記』の建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、『日本書紀』に神名がなくて、『ホツマツタエ』に登場して、日本武尊(やまとたけのみこと)の出雲との関係を証明して、大切な意味を持つ。
『古事記』の因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)神話や根(ね)の国下(くにくだ)り神話は、『ホツマツタエ』と『日本書紀』に記されず、『古事記』の編者が日本神話の意味を理解して、出雲の史実(歴史上の事実)を神話化したのが間違いない。
誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)の実兄の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)は、神功(じんぐう)皇后の長男で、『日本書紀』と『古事記』で同母か異母の違いがあって、僕が同母兄弟と信じる。
『ホツマツタエ』は、年齢を数え年で記して、『日本書紀』が『ホツマツタエ』を踏襲して、数え年を使って、『日本書紀』が数え年と実年齢が混在して、登場人物の年齢が混乱したが、僕が古代皇族の年齢を予測して記した。
『ホツマツタエ』は、2004年2月に僕が参考文献『ホツマ辞典』を購入して、倭姫命(やまとひめのみこと)の異母弟が景行(けいこう)天皇の記述を見つけて、卑弥呼(ひみこ)と男弟(だんてい)の血筋が合致してから、ずっと第一級史料と確信して、僕の重要な情報源で、僕と『ホツマツタエ』の出会いが運命付けられて、これがなければ歴史が変わった。
世界中で聖書は、最も多く読まれた書物だが、『ホツマツタエ』が聖書よりも超高度な情報や知識でまとめて、人類史上最高の超文書と考えられて、これを参考に「記紀」を編集して、現代人(僕以外の人間)が『ホツマツタエ』の偉大さを理解してない。
『ホツマツタエ』は、日本神話が実話を神話化して、実話を系図や内容の祖先化・子孫化をして、神話と実話の2重構造が偉大すぎで、第1段階を神櫛皇子(かんぐしのみこ)と稲背彦皇子(いなせひこのみこ)と2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の3人でまとめて、第2段階と第3段階を国家規模でまとめたと考えられる。
この偉大さは、実際に読んで体験して初めて感じる超感覚で、聖書やギリシア神話などの神話と実話の2重構造と同様で、古代天皇家の先祖が生み出した神話のはずで、世界中の神話を作り出した人物の偉大さが『ホツマツタエ』の製作と同レベルと考えられる。
『ホツマツタエ』と「記紀」は、人類史上最高の超高度な技術で生み出した本と理解して、いずれ世界中の人々が恐れおののいて、その偉大すぎる超知識を学ぶ礎(いしずえ)になるだろう。
『ホツマツタエ』の序章から5章(黄泉国下(よみのくにくだ)り神話)の日本神話は、僕が完全解釈して、全て文章をパソコン入力して、膨大な量を記して、6章から10章(出雲の国譲(くにゆず)り神話)までと11章から16章(遺伝子レベルと現代医学レベルの知識を含む)が一から文章をパソコン入力して、どこかの出版社から3冊の本を出版予定である。
これは僕が日本神話を証明して、人類史上初めて神様を証明して、100%神様の証明が事実で、それを否定できる事実がない。
『ホツマツタエ』は、無意識に働きかける日本最古の書物で、この特徴を日本で2番目に古い書物「記紀」も受け継いで、読んだ人が無意識に日本神話や歴代天皇時代を勘違いさせて、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争を特定できないように偽装工作する一方で、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい)を史実・真実・事実を記すなど、矛盾した記述を残した歴史書である。
『ホツマツタエ』は、卑弥呼(ひみこ)をヤマトトトヒモモソヒメで、男弟(だんてい)を崇神(すじん)天皇と思わせて、他にも何例か思わせて、本当の卑弥呼(ひみこ)のヤマトヒメと男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇を記して、凡人(僕以外の人間)が無意識に思い込まされて、騙(だま)された真実である。
僕は無意識の思い込みを排除して、正しい物と間違った物に分別して、正しい方を新しい情報と結び付けて、新しい思い込みをまた正否判断して、どんどんと新しい情報を更新して、この考え方を説明するのが現代哲学理論「現象学」で、それら全てを理論的に定義付けた超天才が僕である。
『ホツマツタエ』の無意識は、僕の考えすぎの可能性もあるが、絶対に間違いのない史実・真実・事実で、それを特定できた人類史上初めての人物の僕が凡人(僕以外の人間)に教えて、知らず知らずのうちに編者(へんしゃ;編集した人)の罠(わな)にはめられて、永久ループしたと考えられる。
『ホツマツタエ』16章は、精子が骨や脂肪になって、卵子が血液や内臓になって、圧倒的な遺伝子レベルの超知識で、精子と卵子が結び付いて起きる現象を記して、子宮の中で胎児の何ヶ月目の様子を記して、現代医学も真っ青の成長記録で、『ホツマツタエ』の他の章に人間の男女の染色体23個が合体して、人間一人の染色体46個になると解釈して、6世紀から7世紀の遺伝子レベルが現代の遺伝子学を超越したのか?
『ホツマツタエ』の遺伝子の超知識は、2024年7月22日の7時半頃に気付いて、日本の建国(天皇家誕生)の西暦84年から6世紀から7世紀の『ホツマツタエ』の完成まで、古代天皇家の医療レベルや遺伝子レベルの超知識があって、超古代文明と結び付けるのが間違いで、1300年以上前に現代の遺伝子学を超越して、驚愕(きょうがく)の史実・真実・事実で、聖徳太子が未来を見て、未来の遺伝子工学から得た知識でないか?
『ホツマツタエ』の遺伝子の超知識は、顕微鏡や遺伝子を調査・研究する圧倒的な機械が必要だが、6世紀から7世紀頃にそのような考古学的証拠が出土しなくて、大きな謎(なぞ)で、鬼と河童(かっぱ)のミイラや巨人の骨など、UMA(ユーマ;未確認生物)が遺伝子操作で生まれて、オーパーツ(未確認の超技術の加工品)やUMA(ユーマ;未確認生物)が5千年近く前の産物でもおかしくない。
恐竜の生存説や恐竜人間や鳥の進化説の否定などは、現代人が生み出した想像力だが、恐竜と人の足跡が存在するのがタイムトラベル(時間旅行)の証拠だが、過去と未来の往復が可能か証明できない。
世界中のUMA(ユーマ;未確認生物)や突然変異は、ツチノコやネッシーや海中カメラに映(うつ)る十数メートルのサメなどが過去の人間の遺伝子操作で生まれた突然変異なら、未確認生物と突然変異が遺伝子の関係で、出現する少ない例と考えられて、めったに見つからなくても当然で、『ホツマツタエ』の遺伝子の超知識から、過去の人間の遺伝子操作が夢物語でないかもしれない。
今の世界中で人類滅亡説は、出回って第3次世界大戦が起きるかもしれないが、人類が存続して、精子が骨や脂肪で、卵子が血液や内臓になる未来を見て、人類が環境汚染や地球温暖化で絶滅するまでに猶予(ゆうよ)があって、人類が滅亡するカウントダウンが近い可能性を忘れないことが大切である。
世界中の革命児たちは、先祖代々の超古代文明時代のパソコンを秘匿(ひとく)・発見して、圧倒的な知識を得たわけで、万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチや発明王トーマス・エジソンやアルバート・アインシュタイン博士なども、未来を見て独創的な理論のカンニングをした卑怯(ひきょう)な盗人(ぬすっと)かもしれないが、僕が超古代文明時代のパソコンに頼らない独学で、求めた独(ひと)り(アローン;alone:単身で)である。
聖徳太子は、黒船来航や2020年代頃の皇室を予言して、南極大陸やムー大陸を刻んだ地球儀を作って、未来を見る超古代文明時代のパソコンを所有して、『ホツマツタエ』の遺伝子レベルの超知識を今から数十年後より後の遺伝子情報を知って、聖徳太子が推古(すいこ)天皇30年2月22日(西暦622年4月8日)に天然痘(てんねんとう)を発症して、49才で亡くなる前に『ホツマツタエ』をまとめた最後の人物の可能性がある。
未来を予測や予言した聖徳太子は、歴史書の編纂(へんさん)をして、未来を見るパソコンで、約1400年後の未来に『ホツマツタエ』や正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』や「記紀」が残って、歴史研究を公表する超天才の僕の存在も知って、2020年代頃の皇室の予言も残して、現代人に全てを託したと考えられて、これを2024年9月16日の午後0時頃に記した。
『ホツマツタエ』は、歴史研究で「記紀」以上に必読で、後世の最重要な史料になって、それほどに非常に重要で、他にも独自の特徴などがあるが、興味があったら自分で調べてほしい。
ユーチューブが紹介する宮内庁所蔵のホツマ文字
福島県の山中にある二岐(ふたまた)温泉の旅館は、新しい旅館を建てるために古い家の開(あ)かずの間を取り壊すと、昭和42年(1967年)頃に大量のホツマ文字が見つかって、現在の宮内庁が保管して、そのマイクロフィルムが富士銀行の地下金庫にあると言う。
旅館の経営者一族は、約1300年前に滋賀県から木地挽(きじびき;木地(きじ)のままで盆や椀(わん)や玩具(おもちゃ)を細工する職人)として、福島県に移住して、天栄村(てんえいむら)の周辺の土地が戦前まで一族の物で、戦後の土地の開放で、それらの財産を失っても、お金があったと言う。
開(あ)かずの間の家は、国の文化財の仮(かり)指定で、家の後ろの崖(がけ)が崩(くず)れて、後ろの建物が壊れて、修理に3千万円が必要で、文化財の仮(かり)指定を解除して、取り壊すことにして、宮内庁や文化庁の係官(かかりかん)が立ち会った。
古い家の3階は、開(あ)かずの間があると昔から知らされて、家の解体に多くの近隣住民が駆(か)り出されたが、部屋の物を見ただけで、宮内庁の係官(かかりかん)が工事の中止を申し出て、以降を宮内庁の直属の者で工事して、地元の人たちが解体工事から外(はず)された。
約1300年前に福島県に移住した旅館の経営者一族は、西暦672年の壬申(じんしん)の乱で、弘文(こうぶん)天皇の側(がわ)の皇族かそれに近い一族の末裔(まつえい)と考えられて、弘文(こうぶん)天皇が自殺して、多くの文章も共に燃えたが、一族の末裔(まつえい)がホツマ文字を持ち出して、木地挽(きじびききじ)になって、滋賀県から福島県に移住したと考えられる。
ユーチューブのミカヅキ(3KAZUKI)の『宮内庁はホツマツタヱを隠している?偽書扱い?』は、宮内庁所蔵のホツマ文字が『ホツマツタエ』と言ってなくて、『ホツマツタエ』とホツマ文字の違いが重要で、『ホツマツタエ』の完成した時期とホツマ文字の記した時期が一緒か分からなくて、これを2024年2月12日の午後5時半頃に修正した。
『ホツマツタエ』の言霊(ことだま;言葉の霊魂)の超知識
ユーチューブのハテナ見聞録の『謎の古代文字!ホツマツタエとヲシテ文字に秘められた謎』は、『ホツマツタエ』の言霊(ことだま;言葉の霊魂)がどのような物で、漢字以降の6世紀から7世紀に作られた古代文字のホツマ文字で記すが、僕が詳細に研究・分析して、2024年7月20日の午後5時頃に記し終えた。
垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)に田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)は、初めて古代中国の後漢(ごかん)王朝に遣使(遣漢使;けんかんし:遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)して、10年ほど遣漢使(けんかんし)の使者たちが古代中国の文化(漢字や製紙業など)を学んだと考えられる。
景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に遣漢使(けんかんし)で帰国した祖別命(みおやわけのみこと)は、父の垂仁(すいにん)天皇が亡くなったと知って、禁止した殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)をしたが、祖別命(みおやわけのみこと)が病(やまい)で、帰国して亡くなった可能性もある。
帰国した遣漢使(けんかんし)の使者たちは、古代中国の文化を古代天皇家に取り込んで、漢字の音読みと訓読みを作って、音読みが中国語発音で、訓読みが日本語発音で、天皇家が漢字を初めて使ったのが景行(けいこう)天皇元年(西暦191年)である。
古代の紙(かみ)は、紀元前2世紀頃に古代中国で作成して、2世紀初めの西暦105年頃に後漢(ごかん)王朝の役人の蔡倫(さいりん)が製紙法を改良して、使いやすい実用的な紙(かみ)を大量生産して、遣漢使(けんかんし)が製紙法を勉強して、漢字の音読みと訓読みの開発・研究に紙(かみ)を使った可能性を考えられる。
『ホツマツタエ』の第一段階は、景行(けいこう)天皇56年(西暦246年)でなく、60年後の摂政(せっしょう)天皇46年(西暦306年)に6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)の神櫛皇子(かんぐしのみこ)と曾孫の2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)が2人で記して、神櫛皇子(かんぐしのみこ)の実弟の稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が署名して、神功(じんぐう)皇后に献上したと考えられて、日本最古の本である。
『ホツマツタエ』は、前半の28章までを神櫛皇子(かんぐしのみこ;彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と同一人物)が記して、残りの40章までを曾孫の2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)が記して、景行(けいこう)天皇16年1月3日(西暦206年2月上旬頃)生まれの神櫛皇子(かんぐしのみこ)が28章の西暦330年代に登場する人物のホホデミ(仁徳(にんとく)天皇を神格化)とアメタネコ(誰を神格化したか不明)を記せなくて、『ホツマツタエ』の制作過程の嘘(うそ)を見破った。
『ホツマツタエ』や「記紀」の本当と嘘(うそ)は、超天才の僕が一つ一つの知識を確実につぶして、地道な作業の積み重ねが僕の研究・分析の助けになって、重大な間違いを一つ一つ確認して、見直すことで修正していく一大作業になって、僕の圧倒的な超知識を生み出して、地道な努力の結晶である。
『ホツマツタエ』の第二段階は、4世紀中頃の西暦366年以降から5世紀中に日本神話を完成させて、6世紀前半の西暦525年にヨーロッパで西暦年ができて、第三段階で6世紀から7世紀中に西暦年を組み込んで、日本最古の書物の『ホツマツタエ』が完成して、摂政(せっしょう)天皇46年(西暦306年)に献上した日本最古の本と同じ内容でも、追記して全く別の書物になった。
『ホツマツタエ』の第二段階は、西暦366年に古代朝鮮国家の新羅(しらぎ)と外交を始めて、古代中国の王朝とも外交を再開したと考えられて、『三国志・魏志倭人伝』の登場人物の卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)と男弟(だんてい)と男王(だんおう)を知って、卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)をアマテラスで、男弟(だんてい)をツクヨミで、男王(だんおう)をスサノオに神格化して、4人の登場人物が古代天皇家の人物で、5世紀までに日本神話が成立したと考えられる。
父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)は、一生独身で子孫がいなくて、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后を神格化)の孫が仁徳(にんとく)天皇で、子孫の武烈(ぶれつ)天皇で血筋が断絶して、神功(じんぐう)皇后の子孫で、新しい血筋の継体(けいたい)天皇が6世紀初頭の西暦507年に即位して、その子孫が現在の女系男子天皇の天皇陛下で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の血筋を6世紀以降に追加したと考えられる。
日本神話に天照大神(あまてらすおおみかみ)を6世紀以降に追加したのは、6世紀初頭の西暦507年に神功(じんぐう)皇后の子孫の継体(けいたい)天皇が即位したが、それより後に日本神話が全国的に広がったなら、地方性のある日本神話の成立が難しくて、地方性のある日本神話の作成期間を考えると、4世紀後半から5世紀中が妥当(だとう)である。
『ホツマツタエ』の文字は、丸や三角のようなホツマ文字を書いて、隣に漢文の翻訳を付けて、2つの理由から、6世紀から7世紀中に『ホツマツタエ』が完成したと僕が証明して、漢字以前の古代文字とする神代(しんだい)文字の定義にならないが、極秘で継承し続けて、誰も知らない古代文字と考えて、間違いないと僕は思う。
渡来人による言葉や風紀の乱(みだ)れを心配した皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)は、父の景行(けいこう)天皇に相談して、『ホツマツタエ』を記録に残すことを提案して、摂政(せっしょう)天皇46年(西暦306年)に景行(けいこう)天皇の孫娘の神功(じんぐう)皇后に献上したのが真実である。
『ホツマツタエ』の第一段階は、景行(けいこう)天皇の息子で、実兄弟の神櫛皇子(かんぐしのみこ)と稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が関係して、神功(じんぐう)皇后に献上したが、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が父の景行(けいこう)天皇に『ホツマツタエ』を記録に残すことを提案した証拠がなくて、事実か作り話か分からなくて、景行(けいこう)天皇の子孫が『ホツマツタエ』の制作に関係した事実が変わらない。
『ホツマツタエ』は、古代天皇家の歴史だけでなく、和歌の成立や自然観や宇宙観や政治観や祭祀(さいし)や言霊(ことだま;言葉の霊魂)の考え方などを記して、これらが『日本書記』と『古事記』も高度な考え方だが、『ホツマツタエ』がそれ以上の超高度な考え方をするのが圧倒的に実感して、ここまでの超高レベルな書物が存在するのかとも考える。
『ホツマツタエ』の宇宙創造は、創造神のアメミヲヤ(天御祖;崇神(すじん)天皇を神格化か?:僕の知識が中途半端で、正しいか不明)が大きな息(いき)を吐(は)いて、ビッグバン「アウワ」を起こして、それがグルグルと回転して、宇宙の大きな壺(つぼ)ができて、やがてメ(陰)とヲ(陽)に分かれて、宇宙が回りだして、ヲ(陽)が上(のぼ)って天体になって、メ(陰)が重く凝(こ)り固まって、地球になった。
創造神のアメミヲヤは、地球上に生命エネルギーを吹(ふ)き込んで、エネルギーの一部が初めて現れた人間がミナカヌシ(御中主;崇神(すじん)天皇を神格化)で、ミナカヌシがト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メの八方八下(やもやくだ)りの子供を生んで、8ヶ国を統治させて、後にウツホ(空)とカゼ(風)とホ(火)とミヅ(水)とハニ(土)が生まれて、この5元素がホツマ文字の由来になった。
ホツマ文字は、表意文字(それぞれの文字に意味がある)と考えられて、中心のアメミヲヤ(アウラ)と他の48の神々とその配置を示した図が「太占図(ふとまにず)」で、古代日本が神様と言葉が同義とする考え方で、『ホツマツタエ』以外のホツマ文字の書物『フトマニ(太占)』が男性の古代太陽神のアマテルカミ(天照神;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が占(うらな)いに使ったと伝える。
ホツマ文字の「太占図(ふとまにず)」は、現在でも持っているだけで、お守りの効果があるなど、スピリチュアル(目に見えない科学で証明できない世界のこと)な分野が信じるらしく、『ホツマツタエ』の「渦(うず)」や「太占図(ふとまにず)」などの独自の概念が現代科学にも共通する部分があると言う。
『ホツマツタエ』の「アワの歌」は、基本の音が48音で表わす歌で、48音を半分に分けて、アメノミハシラ(天御柱)を左回りする男性イサナキ(垂仁(すいにん)天皇を神格化)の「あ」に続く23と1の合計24個の言葉、右回りする女性イサナミ(垂仁(すいにん)天皇の皇后を神格化)の「わ」に続く23と1の合計24個の言葉がかけ合わさった。
「アワの歌」は、秘儀(ひぎ;秘密にする儀式)で、口伝(くでん;言葉で伝えること)で継承して、「歌うと元気になる」が逆に「歌うと危険になる」などの意見もあって、個人的に調べてみることを忠告(ちゅうこく)する。
現代科学は、「左回り」と「右回り」と「23」が遺伝子DNAの螺旋(らせん)構造を現わす可能性があって、『ホツマツタエ』16章で、精子が骨や脂肪になって、卵子が血液や内臓になって、遺伝子レベルの超知識と考えられて、男女の片方23本ずつの染色体が結び付いて、人間一人が46本の染色体を持っていて、1953年にこの遺伝子の構造が発見された。
化学者メンデレーエフの「元素の周期律表」は、両端をつなぐ円図をつなぐと「太占図(ふとまにず)」になると言う指摘もあって、現代の常識(当たり前)が古代日本も常識(当たり前)で、同じように人体や物質の仕組みが常識になって、合致した可能性がある。
『ホツマツタエ』でイサナキ(垂仁(すいにん)天皇を神格化)とイサナミ(垂仁(すいにん)天皇の皇后を神格化)は、結婚して生まれた子供が4人で、ワカヒメ(和歌姫;大中姫(おおなかひめ)を神格化)とアマテルカミ(天照神;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)とツキヨミ(月読;景行(けいこう)天皇を神格化)とスサノヲ(素戔嗚;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)と特定した。
アマテルカミ(天照神;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)は、男性の古代太陽神で、後世に女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)に変更して、男性の古代太陽神のアマテルカミ(天照神)が倭姫命(やまとひめのみこと)の直系先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化して、彦坐王(ひこいますのみこ)が初代の太陽神の宮司で、初代出雲国王で、出雲王家(物部(もののべ)氏)の直系先祖でもあって、あまりに凄(すご)い伝説的な存在である。
『ホツマツタエ』は、神様のイサナキやイサナミやアマテルカミやツキヨミが神様でなく、古代日本に存在した実在の人物として、日本神話の神々が実在した人物と僕が完全解釈した一大史料を100%否定できなくて、僕の凄(すさ)まじすぎる神技(かみわざ)の中の神技(かみわざ)である。
『古事記』は、伊邪那岐神(いざなぎのかみ;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と伊邪那美神(いざなみのかみ;樺井月姫(かばいつきひめ)を神格化)と天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)の関係を示さず、伊邪那美神(いざなみのかみ;狭穂姫(さほひめ)を神格化)の父親の5代目・高御産巣日神(たかみむすびのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が豊受大神(とようけおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と同一神だが、まったく登場しない。
『ホツマツタエ』のイサナミやアマテルカミは、祖先神の5代目タカミムスビとの関係などを僕の自論で求めて、『ホツマツタエ』と「記紀」との物語の食い違いを僕が特定して、求めた教本を残して、『ホツマツタエ』でアマテルカミ(天照神)の出生地の富士山が重要で、「記紀」で富士山が一切登場しなくて、多くの人が研究する課題である。
『古事記』は、伊邪那岐神(いざなぎのかみ;垂仁(すいにん)天皇を神格化)が伊邪那美神(いざなみのかみ;狭穂姫(さほひめ)を神格化)のいる黄泉国(よみのくに;地獄)から帰還して、汚(けが)れた体を禊(みそぎ)して、三貴子(みはしらのうずのみこ)のアマテラスとツクヨミとスサノオが生まれて、『記紀』でイザナギ(垂仁(すいにん)天皇を神格化)とイザナミ(垂仁(すいにん)天皇の皇后を神格化)の夫婦がそれぞれバラバラに三貴子(みはしらのうずのみこ)を生んだのを神格化して、事実が神話化された。
『ホツマツタエ』は、ミナカヌシ(御中主;崇神(すじん)天皇を神格化)の八方八下(やもやくだ)りの子供が8ヶ国を統治して、その子孫の歴代タカミムスビがヒタカミ(日高見;ひだかみ:東北地方南部のどこか)に都(みやこ)を置いて、7代目タカミムスビ(武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)が東北地方南部までを平定して、縄文時代の東北地方に植物をもたらしたと言う。
八方八下(やもやくだ)りの子孫は、ヒタカミ(東北地方南部のどこか)に派遣されて、栽培する草や木の品種を持って行って、木草を土産(つと;贈り物にする土地の産物)にして、生活の向上に役立てて、イサナキ(垂仁(すいにん)天皇を神格化)時代(西暦152年から190年)以前にヒタカミ(東北地方南部のどこか)で、栗を主食にして、青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡(約5900年前から4200年前)で、栗が遺伝的に同じで、住民が植樹して、食料や材木として育てて、農耕をした証拠と考えられる。
ホツマ文字の書物『ホツマツタエ(秀真伝)』と『ミカサフミ(三笠文)』と『フトマニ(太占)』は、発見されているが、江戸時代以前のホツマ文字のみの書物や『ホツマツタエ』の原本の『ミミノハ(耳の葉)』と『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の文)』が存在して、6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと;神櫛皇子(かんぐしのみこ)と同一人物)と曾孫の2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)がまとめた原本と日本神話をまとめた原本の2冊の可能性がある。
「記紀」を想像で聞いたのが『ホツマツタエ』は、あまりにも古代天皇家の皇族の生年月日や功績などが具体的で、「記紀」以上に正確な西暦年月日と合致するなど、僕の求めた超知識を100%否定できなくて、縄文時代や弥生時代の母音(ぼいん)がもっと多い説があって、『ホツマツタエ』が現代日本語と同じ5母音(ぼいん)で、「記紀」より少し古い6世紀から7世紀に完成した書物のためである。
『ホツマツタエ』は、推古(すいこ)天皇30年2月22日(西暦622年4月8日)に49才で亡くなった聖徳太子が最後の編者(へんしゃ;編集する人)の可能性があって、聖徳太子が国史を編纂(へんさん)したが、あくまで僕の想像で、7世紀後半の西暦672年に壬申(じんしん)の乱で、ホツマ文字の書物が福島県の山中にある二岐(ふたまた)温泉の旅館に持ち去られて、それまでに『ホツマツタエ』が完成したと考えられる。
『ホツマツタエ』の言霊(ことだま;言葉の霊魂)は、あまりにも奥深くて、超高レベルで作られた歴史書と証明して、後世にできた「記紀」の基礎と考えられるが、「記紀」以上に超高レベルな知識を駆使した書物と僕は考える。
<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『ホツマ辞典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古事記(上)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
https://www.youtube.com/watch?v=LdOh8yg7cH0
https://www.youtube.com/watch?v=7f7KKaj9hJg
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