『ホツマツタエ』


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

『ホツマツタエ』は、「真(まこと)の中の真(まこと)の言い伝え」の意味で、「正式の歴史書;正式の伝記:正式の正史(正確に正しい歴史)」などと解釈できて、「記紀」と同じく嘘(うそ)と偽(いつわ)りを記すが、古代天皇家の最も正式な歴史書で間違いない。
『ホツマツタエ』は、日本最古の書物で、「記紀」よりも古い古代天皇家の歴史を記す第一級史料で、最低でも3段階でまとめたと2022年11月3日に気付いた。
昔から歴史研究した僕は、『ホツマツタエ』を彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と曾孫の2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)が別々にまとめ上げて、4世紀後半から5世紀中に日本神話がまとめ上げられて、6世紀から7世紀中に西暦年を組み込んだと何となく考えて、ようやく納得できる結論が出て、2023年6月19日に修正した。

『ホツマツタエ』は、6代目・大物主神(おおものぬしのかみ)と直系子孫の2代目・大田田根子(おおたたねこ)がまとめて、藤原氏の先祖の大鹿島(おおかしま)が花押(かおう;自著の代わりに使う記号)で署名(しょめい)して、景行(けいこう)天皇56年に献上したと記す。
6代目・大物主神(おおものぬしのかみ)と大鹿島(おおかしま)は、景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)の息子の神櫛皇子(かんぐしのみこ)と稲背彦皇子(いなせひこのみこ)で、神櫛皇子(かんぐしのみこ)が6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)で、息子の飯入根(いいいりね)を7代目出雲国王にして、隠居したと考えられる。
大田田根子(おおたたねこ)は、初代と2代目がいて、2代目・大田田根子(おおたたねこ)が血筋から2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)と判明して、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)の曾孫で、明らかに祖父と曾孫が協力して、『ホツマツタエ』をまとめたと考えられる。
大鹿島(おおかしま)は、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)の兄弟で、稲背彦皇子(いなせひこのみこ)と考えられて、2人とも生死を記してなくて、『ホツマツタエ』の署名(しょめい)をして、6代目・大物主神(おおものぬしのかみ)と2代目・大田田根子(おおたたねこ)と大鹿島(おおかしま)が出雲王国(物部(もののべ)氏)の養子と直系子孫である。
この3人は、その存在を日本神話と史実(歴史上の事実)に記して、『ホツマツタエ』を3世紀後半頃に神功(じんぐう)皇后に献上して、出雲王国の崩壊(出雲の国譲りの歴史)までを記して、出雲王国の関係者にまとめさせたのが第一段階と考えられる。

『ホツマツタエ』の第二段階は、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の古代朝鮮国家と古代中国王朝との外交が途絶して、西暦366年に百済(くだら)と外交を再開して、古代中国王朝とも外交を再開して、『三国志・魏志倭人伝』を読んで、4世紀後半から5世紀中に日本神話を作り上げて、継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月上旬)に継体(けいたい)天皇が即位した。
武烈(ぶれつ)天皇は、血縁断絶して、継体(けいたい)天皇が母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の直系子孫である女系男子天皇だから天皇になって、日本神話の作成が第二段階の正体で、出雲でなく、天皇家が中心で、複数人でまとめたと考えられる。

『ホツマツタエ』の第三段階は、西洋の西暦年が使われた証明で、これを偶然の一致とするほど僕が馬鹿でなく、間違いない事実と考えられる。
天日槍(あめのひぼこ)の子孫の年代は、垂仁(すいにん)天皇3年が垂仁(すいにん)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)年(西暦191年)から逆算しての3年の西暦188年、垂仁(すいにん)天皇88年が西暦188年の変更で、崇神(すじん)天皇60年の出雲平定が仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)神無月の出雲王国の崩壊である。
景行(けいこう)天皇27年は、景行(けいこう)天皇57年(西暦247年)の熊襲(くまそ)王国の反乱で、『三国志・魏志倭人伝』の西暦247年の狗奴国(くぬこく)攻撃を隠して、これらの西暦年の使用が『日本書紀』にも影響して、摂政(せっしょう)39年の魏王朝への遣使が西暦239年などで、西暦年の使用が6世紀から7世紀中で、西暦712年(8世紀初頭)にできた『古事記』より古くて、西洋とのつながりが実感できる。

『ホツマツタエ』は、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の春日(かすが)氏と大宅(おおやけ)氏と粟田(あわた)氏と小野(おの)氏と柿本(かきのもと)氏などと消えた名字(みょうじ)のイチシ氏とソトミ氏を記す。
彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の和珥(わに)氏は、6世紀頃に春日(かすが)氏と大宅(おおやけ)氏と粟田(あわた)氏と小野(おの)氏と柿本(かきのもと)氏などに分かれて、『ホツマツタエ』の第三段階の成立時期と合致する。

西暦年は、西暦525年(6世紀前半)にできてから長く受け入れられず、西暦731年にベーダ・ヴェネラビリスが『イングランド教会史(イギリス教会史)』を西暦年で記して、だんだん普及して、10世紀頃に一部の国で使われ始めて、西ヨーロッパで一般化したのが15世紀以降で、世界中で最も使う暦法になったのがヨーロッパ各地の世界進出や植民地拡大で、非キリスト教国でも一般化した。
『ホツマツタエ』は、3世紀後半頃に出雲王家の関係者が献上して、4世紀後半から5世紀中に日本神話を作り上げて、6世紀から7世紀に西暦年を組み込んで、完成したのが間違いなくて、僕の超天才ぶりをごまかせなかった。

『ホツマツタエ』の第一段階は、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と曾孫の2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)が3世紀中にまとめて、この2人以外の編者がいないと考えられて、『日本書紀』よりはるかに正確な情報を散りばめて、「記紀」以上の最上の第一級史料で、これから日本最古の書物と認識して、歴史研究で重宝(ちょうほう)するのが間違いない。
『ホツマツタエ』の第二段階は、4世紀後半から5世紀中に日本神話をまとめ上げて、この作業が出雲でなく、天皇家の命令で国家規模の編集で、当時の精鋭が必死に作ったと考えられる。
『ホツマツタエ』の第三段階は、旧暦と西暦年の対比を適応した作業で、6世紀から7世紀中に西洋と交流して、西暦年を把握したのが事実で、シルクロードが紀元前2世紀から15世紀で、日本のシルクロードが遣隋使や遣唐使で7世紀から9世紀頃で、西暦年を知るのも十分に可能で、正しい状況確認が大切で、『ホツマツタエ』の西暦年を2022年11月4日に求めた。

『ホツマツタエ』は、「記紀」以上に古代天皇家の歴史を正確に残す歴史書で、旧暦の年月日や神名や人名や系図や特徴などを細かく記して、「記紀」程度の歴史書と比較できず、最も信頼できる重要な第一級史料である。
『ホツマツタエ』の正当性は、僕がその存在を見つけた時から、確実に後世の希望となって、歴史上で最重要の皇室の秘史を語って、誰にも手出しできない史実・真実・事実を僕が求めて、人類史上で最も謎多き皇室を語る生き証人の書物だった。
『ホツマツタエ』の基礎は、「記紀」の神様や人物を正しく把握して、神名や人名や性別などの特徴を正させて、何が正しいか間違いか疑問を挙例して、解決するための大切な道筋である。

『ホツマツタエ』は、漢字以前の時代の古代文字とされる神代(しんだい)文字で記して、『ホツマツタエ』が「記紀」以上の正史(正確に正しい歴史)と僕が証明して、もはや専門家(考古学会と歴史学会)も沈黙できなくて、日本の古代文字の存在を認めない限り一歩も前に進めない。
『ホツマツタエ』は、『日本書紀』と同じで、旧暦(太陰太陽暦)を西暦年月日に当てはめられる書物で、「記紀」以上に神名や人名や系図や時代の出来事の内容などが詳しく、歴史研究に必要不可欠な歴史書で、僕が正しいのか間違いか情報を選別して、現代人(僕以外の人間)が理解できるように作り直して、この作業が想像を絶する超感覚(超頭脳)で可能にした。
『ホツマツタエ』は、「記紀」と同じように本当と嘘(うそ)を混在して、正史(正確に正しい歴史)を求められない偽装工作をほどこしたが、奇跡の超天才の僕が不可能を可能にして、疑問点を解答に変えて行って、後世の教本を作り上げた。

『ホツマツタエ』は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の生没年月日を求められて、「記紀」が倭姫命(やまとひめのみこと)の生没年月日と葬礼日を隠して、倭姫命(やまとひめのみこと)の異母弟が景行(けいこう)天皇だが、「記紀」が景行(けいこう)天皇の実妹が倭姫命(やまとひめのみこと)と偽装工作して、卑弥呼(ひみこ)と男弟(だんてい)の正体を隠しても、僕の超感覚をごまかせなかった。
『ホツマツタエ』は、台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后の生年月日を記さず、景行(けいこう)天皇56年までを記して、『日本書紀』が神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)の任命と没年月日を記して、逆算して生年月日を予測して、僕を騙(だま)そうなんて恐れ知らずである。

『ホツマツタエ』は、太陽神の天照神(あまてるかみ)と豊受(とよけ)が男性の神様で、「記紀」が太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)と豊受大神(とようけおおかみ)が女神で、伊勢神宮の内宮と外宮の祭神として重要で、男性と女性の性別変更が疑問で、一番簡単なのが「記紀」の時代の女性天皇の正当化で、これが一番しっくりくる。
男性の太陽神の天照神(あまてるかみ)は、アマテラスとヲヲンカミの別名があっても男性で、後世に語源と性別が変化して、女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)になったのが間違いない。
『ホツマツタエ』の花子(倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)が機殿(はたどの)に馬の死骸を投げ込んだが、「記紀」で花子を天照大神(あまてらすおおみかみ)に変更して、太陽神の存在が『ホツマツタエ』の方が古いことを意味して、僕が正しく認識させた。

『ホツマツタエ』の最初の元伊勢は、奈良県の笠縫邑(かさぬいむら)が所在地不明で、第2の元伊勢が京都府宮津市の真名井(まない)神社で、その後に滋賀県と岐阜県を巡って、三重県に落ち着いて点在して、垂仁(すいにん)天皇26年(西暦177年)に現在の伊勢神宮内宮に最終遷宮したと記す。
『日本書紀』は、笠縫邑(かさぬいむら)を記して、その後に京都府宮津市の元伊勢が記されず、滋賀県と岐阜県を巡って、三重県に落ち着いて、垂仁(すいにん)天皇26年(西暦177年)に現在の伊勢神宮内宮に最終遷宮して、元伊勢の詳細を希薄(きはく)にさせた。
『倭姫命世紀;倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』は、鎌倉時代中期に成立したと考えられて、元伊勢を愛知県や岡山県などにも記して、僕が論理的根拠で、各地の元伊勢を実証して、『ホツマツタエ』の正当性を証明した。
『ホツマツタエ』の元伊勢は、最も信頼できる第一級史料で、その意味と価値を正しく認識して、後世に伝えるのが僕たちの役目である。

『古事記』の建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、『日本書紀』に神名がなくて、『ホツマツタエ』に登場して、日本武尊(やまとたけのみこと)の出雲との関係を証明して、大切な意味を持つ。
『古事記』の因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)神話や根(ね)の国下(くにくだ)り神話は、『ホツマツタエ』と『日本書紀』に記されず、『古事記』の編者が日本神話の意味を理解して、出雲の史実(歴史上の事実)を神話化したのが間違いない。
誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)の実兄の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)は、神功(じんぐう)皇后の長男で、『日本書紀』と『古事記』で同母か異母の違いがあって、僕が同母兄弟と信じる。

『ホツマツタエ』は、年齢を数え年で記して、『日本書紀』が『ホツマツタエ』を踏襲して、数え年を使って、『日本書紀』が数え年と実年齢が混在して、登場人物の年齢が混乱したが、僕が古代皇族の年齢を予測して記した。

『ホツマツタエ』は、2004年2月に僕が倭姫命(やまとひめのみこと)の異母弟が景行(けいこう)天皇の記述を見つけて、卑弥呼(ひみこ)と男弟(だんてい)の血筋が合致してから、ずっと第一級史料と確信して、僕の重要な情報源で、僕と『ホツマツタエ』の出会いが運命付けられた出来事で、これがなければ歴史が変わっていた。
世界中で聖書は、最も多く読まれた書物だが、『ホツマツタエ』が聖書よりも超高度な情報や知識でまとめて、人類史上最高の超文書と考えられて、これを参考に「記紀」を編集して、現代人(僕以外の人間)が『ホツマツタエ』の偉大さを理解してない。
『ホツマツタエ』は、日本神話が実話を神話化して、実話を系図や内容の祖先化・子孫化をして、神話と実話の2重構造が偉大すぎで、第1段階を神櫛皇子(かんぐしのみこ)と稲背彦皇子(いなせひこのみこ)と2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の3人でまとめて、第2段階と第3段階を国家規模でまとめたと考えられる。
この偉大さは、実際に読んで体験して初めて感じる超感覚で、聖書やギリシア神話などの神話と実話の2重構造と同様で、古代天皇家の先祖が生み出した神話のはずで、世界中の神話を作り出した人物の偉大さが『ホツマツタエ』の製作と同レベルと考えられる。
『ホツマツタエ』と「記紀」は、人類史上最高の超高度な技術で生み出した本と理解して、いずれ世界中の人々が恐れおののいて、その偉大すぎる超知識を学ぶ礎(いしずえ)になるだろう。

『ホツマツタエ』は、それほどに非常に重要で、古代日本史研究で「記紀」以上に必読で、後世の最重要な史料になって、他にも独自の特徴などがあるが、興味があったら自分で調べてほしい。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古事記(上)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
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