福知山市と大門(だいもん)の歴史

僕の生まれ暮らす京都府福知山市大門(だいもん)の歴史は、少し起源と由来などを辿(たど)ろうと思って、2025年10月11日の午後5時40分頃に修正した。

福知山市夜久野町(やくのちょう)は、2億年ほど前に海底で、タコやイカの先祖のアンモナイトなどが出土して、夜久野町(やくのちょう)の稚児野(ちごの)遺跡が3万6千年前の旧石器時代の遺跡で、30万年から2万年前まで、福知山市が湖か沼(ぬま)の底と考えられて、隣の兵庫県丹波(たんば)市で、日本最大の恐竜の丹波竜(たんばりゅう)や世界最小である恐竜の卵の化石などが出土した。
福知山市夜久野町(やくのちょう)のアンモナイトや稚児野(ちごの)遺跡や兵庫県丹波(たんば)市の丹波竜(たんばりゅう)などは、現物を見たことがなくて、ニュースや知識で知っただけで、聞きかじりの知識である。

福知山市は、最初に歴史に登場したのが崇神(すじん)天皇10年11月頃(西暦93年12月頃)で、『但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)』や『丹後風土記残缺(たんごふどきざんけつ)』が福知山市大江町の血原(ちはら;千原:せんばら)か蟻道(ありじ;有路)で、丹波(たには;古代の京都府北中部)王国の女武将の匹女(ひきめ;僕は丹波(たんば)王妃の可能性を指摘する)が戦死したと記す。
福知山市大江町で戦死した匹女(ひきめ)は、土蜘蛛(つちぐも;古代天皇家に抵抗する者たちの蔑称(べっしょう)の一人で、丹波(たんば)国王の玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)と共に、日本最古の鬼退治の伝承で、最古の大江山(おおえやま)の鬼退治でもあって、これ以前の鬼を証明できなくて、人を鬼と例(たと)えた。
『但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)』や『丹後風土記残缺(たんごふどきざんけつ)』などの丹波(たんば)王国の平定は、福知山市で最古の地名が登場して、地名の由来の研究・分析が重要である。

崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)は、丹波(たんば)王国平定の総大将で、実弟の崇神(すじん)天皇に丹波(たんば)王国の平定を報告して、従軍した息子(甥;おい)の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の人名から、丹波国(たにはのくに;古代の京都府北中部)と命名して、日本最古の書物『ホツマツタエ』の国名がタニハ(丹波)で、僕が「田庭(たにわ)」の国名を否定した。
元伊勢外宮の祭神の豊受大神(とようけおおかみ)は、「あなにえし、おも植えみし、田庭(たにわ;立派に実(みの)った田んぼの庭だ)」と言って、田庭(たにわ)の漢字を当てはめて、田場(たんば)に変わって、さらに丹波(たんば)に変わった説が嘘(うそ)と考えて、古代から京都府が豊かな土地で、丹波栗(たんばぐり)や丹波(たんば)マツタケや丹波(たんば)黒豆などが名産である。
西暦720年に献上した『日本書紀』は、丹波栗(たんばぐり)を思わせる記述があって、丹波(たんば)・篠山(ささやま)地方で取れた栗を指して、特定の品種が存在しないようで、現在でもブランド品だが、近年に生産量が少しずつ減少した。丹波(たんば)マツタケは、マツタケの最上級品とされて、マツタケの全国ブランドで重宝(ちょうほう)して、丹波(たんば)黒豆もブランド品で、江戸時代に徳川将軍へ献上した話を記して、昭和に入って丹波黒大豆(たんばくろだいず)が正式名になって、他にも米など多くのブランド品がある。

崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)の丹波(たんば)平定の報告は、褒美(ほうび)の土地を彦坐王(ひこいますのみこ)の息子で、将軍の武刀米命(たけとめのみこと;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を祖先化)が丹波六人部連(たにはむとべむらじ)の先祖で、福知山市六人部(むとべ)地域を与えられて、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家である海部(あまべ)氏の先祖の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が福知山市六人部(むとべ)地域の統治氏族(六人部(むとべ)氏)の先祖で間違いない。
丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、西暦74年以前の生まれで、西暦94年に統治者を任命して、息子が「記紀」に記す以外にいるはずで、息子がいる成人年齢である。

『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)に2番目の元伊勢は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の奥宮(おくみや)である真名井(まない)神社に遷宮して、8月18日(9月中旬頃)に瑞籬(みずがき;石の祭壇)を作って、場所が判明した最古の元伊勢で、元伊勢真名井(まない)神社と呼ぶべきで、『ホツマツタエ』に天橋立(あまのはしだて)が登場して、2022年が遷宮1900年目だった。
『ホツマツタエ』の天橋立(あまのはしだて)は、1900年以上前の西暦122年から存在したと証明して、仲哀(ちゅうあい)天皇2年に宮津と名付けた可能性を2024年6月7日の夜に特定して、『ホツマツタエ』が6世紀から7世紀にできて、宮津の地名の由来を連想させられて、『丹後国風土記逸文(たんごのくにふどきいつぶん)』も天橋立(あまのはしだて)を記して、西暦730年頃に記したと考えられる。
宮津の地名は、崇神(すじん)天皇11年(西暦94年)に京都府宮津市に都(みやこ)を置いたこと、崇神(すじん)天皇39年(西暦122年)に元伊勢真名井(まない)神社を遷宮したこと、仲哀(ちゅうあい)天皇2年9月(西暦253年10月頃)に京都府宮津市に皇居の丹波由良宮(たにはゆらのみや;別名が宮津由良宮(みやづゆらのみや)を築造して、仲哀(ちゅうあい)天皇が居住し始めて、僕が命名したため、皇居に決まった名前がなくて、3つの説が考えられる。

崇神(すじん)天皇39年8月18日(西暦122年9月中旬頃)に元伊勢真名井(まない)神社は、京都府宮津市に鎮座して、豊受大神(とようけおおかみ;実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を祭って、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと;実弟の崇神(すじん)天皇を神格化)と同一神だが、実兄と実弟を同一神に神格化して、僕以外に誰も特定できなかった。
その後に元伊勢真名井(まない)神社の豊受大神(とようけおおかみ;実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)に伊勢神宮外宮(げぐう)に鎮座して、福知山市大江町の元伊勢外宮(げぐう)に3世紀後半以降に鎮座したと考えられて、富士山の山頂と出雲大社を結ぶレイライン(太陽の道)上に元伊勢内宮(ないぐう)があって、創建年代の計算が正しい。
元伊勢は、昔の元々の伊勢神宮を意味して、伊勢神宮より古い歴史を超天才の僕が証明して、ひもといた西暦年月の年表などが後世の教本になって、その役割があまりにも大きい意味・価値を持つ。

福知山市の前方後円墳は、「景初(けいしょ)4年(西暦240年)」の年号が入った三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が出土した福知山市東羽合町の4世紀後半の広峯(ひろみね)15号墳が全長40メートルで、今の墳丘が失われて、本格的な調査をしてない福知山市牧の牧正一(まきしょういち)古墳が全長35メートルである。
福知山市大門(だいもん)の前方後円墳は、妙見(みょうけん)神社の隣の妙見(みょうけん)11号墳が全長39.1メートルで、妙見(みょうけん)14号墳が全長35メートルの前方後円墳で、妙見(みょうけん)1号墳の後にできた古墳時代中期の古墳で、他にも福知山市の前方後円墳があると思うが、妙見(みょうけん)14号墳が正しい情報か分からない。
大門(だいもん)の妙見(みょうけん)1号墳は、一辺45メートルの古墳時代中期の方墳で、福知山市で最大の古墳らしい。福知山市大門(だいもん)の八柱(やはしら)神社本殿の裏にある大門(だいもん)古墳は、直径15メートルの円墳で、南向きの横穴式石室の入口が露出するが、内部がほとんど埋まって、長さ3.2メートル以上で、幅1.4メートルの裏側の天井石も一部露出する。
福知山市大門(だいもん)の毘沙門(びしゃもん)神社本殿の裏にある古墳は、名前がネット検索でも分からず、上部より発掘されて、石室の石が持ち去られた円墳で、他にも大門(だいもん)に幾つか古墳があるが、記録が少なくて求められず、福知山市の古墳埋葬者が記録になくて、僕でも特定できるはずがない。

福知山市土師(はぜ)の地名は、出雲王家(物部(もののべ)氏)の分家で、古墳に立てる埴輪(はにわ)を作る一族の土師(はじ)氏が居住した可能性を考えて、隣の綾部(あやべ)市にある5世紀中頃の私市丸山(きさいちまるやま)古墳の埴輪(はにわ)などを作って、土師(はぜ)の地名が残ったと考えられる。

西暦713年は、丹波(たんば;京都府中部)と丹後(たんご;京都府北部)に分かれて、福知山市が天田郡(あまだぐん)に属して、福知山の地名の由来が丹波(たんば)平定の戦国武将の明智光秀(あけちみつひで)が城下町を名付けたと考えられて、近世初頭から幕末まで「福智山」とも書いて、「福知山」と「福智山」のどちらが正しいか分からない。
戦国武将の明智光秀(あけちみつひで)は、天下人の織田信長を殺した悪者とするが、地元の福知山市で慕(した)われて、福知山市の御霊(ごりょう)神社で、明智光秀(あけちみつひで)の魂を鎮魂するなど、活躍が偲(しの)ばれる。

『日本書紀』に記す日本国の美称の豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいおあきのみずほのくに)は、「福知山市下豊富(しもとよとみ)にいる芦田(あしだ)の腹(はら)に当たる実在の継体(けいたい)天皇即位年から千五百年後の2007年秋9月に瑞穂(みずほ)が刈り取れる時期に僕の最初の著書が出版された国」で、僕を指し示す言霊(ことだま;言葉の魂)と予言だった。
僕の暮らす下豊富(しもとよとみ)は、上豊富(かみとよとみ)と合わせて、豊富(とよとみ)と言う一地域で、平安時代中期の地名辞典『和名抄(わみょうしょう)』に「豊富庄(とよとみしょう)」と記して、平安時代中期に荘園(しょうえん;天皇家の直轄地)で、南北朝時代に京都市の天龍寺(てんりゅうじ)に寄進された。

実家から見上げる姫髪山(ひめがみやま)は、姫神山(ひめがみやま)と書き換えられて、姫神(ひめがみ)が女神や天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化)などを指して、太陽神のご加護があって、僕の名前に太陽神のご加護があるのと同じである。
下豊富(しもとよとみ)や姫髪山(ひめがみやま)の言霊(ことだま;言葉の魂)は、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)に通じて、神功(じんぐう)皇后の消された名前が豊姫命(とよひめのみこと)で、元伊勢外宮の豊受大神(とようけおおかみ)にも通じる。

福知山市最古の3神社は、福知山市今安(いまやす)の天照玉命(あまてるたまのみこと)神社と大江町の元伊勢内宮と大江町蓼原(たでわら)の舟戸(ふなと)神社で、創建時期がはっきり分かるのが天照玉命(あまてるたまのみこと)神社だけで、他の2社が予測である。
元宮(もとみや;元々の神社)の福知山市半田(はんだ)の阿光照(あこうしょう)神社は、成務(せいむ)天皇時代に天照神(あまてるかみ)を京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家である海部(あまべ)氏出身の大倉岐命(おおくらきのみこと)が祭って、正しく求めると仲哀(ちゅうあい)天皇か神功(じんぐう)皇后の時代の西暦260年代から290年代頃と考えられて、その後に福知山市今安(いまやす)の天照玉命(あまてるたまのみこと)神社に遷宮した。
大倉岐命(おおくらきのみこと)は、叔母(おば)の宮簀姫(みやずひめ)が日本武尊(やまとたけのみこと)の妃で、2人の息子を生んで、弟の尾綱根命(おづなねのみこと)が尾張(おわり)氏の氏祖(しそ)で、天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の社伝が正しい可能性が高い。
天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の2代目・火明命(ほあかりのみこと)は、一番長い正式名を天照国照彦火明天櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこほあかりあめのくしたまにぎはやひのみこと)で、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)と火明命(ほあかりのみこと)と饒速日命(にぎはやひのみこと)の3神が合体した神名である。
天照神(あまてるかみ)は、女性の太陽神である天照大神(あまてらすおおみかみ)の前身で、天照大神(あまてらすおおみかみ)が誕生した時期が7世紀後半から8世紀前半で、天照神(あまてるかみ)が元々の天皇家の最高神で、福知山市で最も神格の高い神社だった時期があると考えられる。
阿光照(あこうしょう)神社の創建年代は、3世紀後半以降の社殿がない時代で、古代信仰の石などを御神体にして、仏教が伝来して、社殿を建てて祭った可能性が考えられる。

京都府福知山市大江町の元伊勢内宮は、女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)を本殿に祭って、祠(ほこら)に蛇体の古代太陽神の八岐大蛇(やまたのおろち)も祭って、その真実に気付いたのが僕だけで、3世紀後半以降に祭った可能性を2023年12月15日の午後5時頃に求めた。
本当の京都府北部の元伊勢は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社で、元伊勢内宮の御神体山の日室岳(ひむろだけ;別名を一願(いちがん)さん)が奈良県桜井市の御神体山の三輪山(みわやま)と同様の古代信仰と考えられる。
日室岳(ひむろだけ)は、両丹日日新聞2003年2月7日号に禁足地(立ち入り禁止の聖域)の山頂に岩座(いわくら;神のよりしろ)と思われる巨岩があって、1500年以上前の人工的な古代信仰の証拠と考えられるが、多くの人が踏み入るらしい話を聞いた。
レイライン(LeyLine;太陽の道)は、1921年にイギリスのアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスが提唱して、古代遺跡が直線的に並(なら)ぶように建造された仮説で、その遺跡群が指す直線を言うが、「太陽の道」がレイラインを扱ううちに太陽信仰の直線が存在すると言われるようになった。
富士山の山頂と出雲大社を結ぶレイライン(太陽の道)は、線上に元伊勢内宮(ないぐう)があって、富士山の山頂を古代天皇家が測量したのが西暦255年以降で、高度な測量と天文学の知識を駆使して、3世紀後半に大倉岐命(おおくらきのみこと)が福知山市今安(いまやす)の天照玉命(あまてるたまのみこと)と共に元伊勢内宮を創建した可能性が考えられる。
元伊勢内宮は、聖徳太子(しょうとくたいし)の異母弟である麻呂子親王(まろこしんのう)時代の伝承があって、約1400年前から存在したと考えられる。
大江山の鬼退治伝承は、西暦93年から94年の彦坐王(ひこいますのみこ)による丹波(たんば)王国の滅亡、約1400年前の麻呂子親王(まろこしんのう)の鬼退治、平安時代の源頼光(みなもとのよりみつ)の酒呑童子(しゅてんどうじ)退治の3つで、彦坐王(ひこいますのみこ)の鬼退治が人を鬼とたとえた。
僕は幼い頃に福知山市の近辺の寺社で、黒焦(くろこ)げの御神木を見て、おそらく元伊勢内宮の落雷した龍灯(りゅうとう)の杉だと思う。

舟戸(ふなと)神社は、『丹後風土記残缺(たんごふどきざんけつ)』の丹波(たんば)王国平定で、由良川を下る舟(ふね)を福知山市大江町蓼原(たでわら)に祭ったと記して、西暦100年までに祭って、創建の時期が福知山市で最古の可能性があって、1965年に国道175号線の改修工事で、社域を福知山市大江町蓼原(たでわら)の冨士(ふじ)神社の社域に遷座された。
『但馬国司文書(たじまこくしもんじょ)』は、丹波(たんば)王国の平定で、舞鶴市から兵庫県豊岡市の近くまで舟(ふね)で行ったと記して、舟(ふね)が川と海の違いを伝えて、舟戸(ふなと)神社の伝承が一方的な情報で、福知山市最古の神社と断定するのが不十分で、『丹後風土記残缺(たんごふどきざんけつ)』の成立以前から舟戸(ふなと)神社が存在したと考えられて、明確な創建年代を求められない。
舟戸(ふなと)神社は、丹波(たんば)平定で用いた舟(ふね)を祭って、海で乗った舟(ふね)を祭った可能性も考えられて、福知山市最古の神社がこの3候補を僕の自論で定めた。

大門(だいもん)の言霊(ことだま;言葉の魂)は、門が門(と)とも呼んで、大きい門(と)で大門(やまと)と呼べて、僕と大和(やまと;奈良県)がつながる。
福知山市大門(だいもん)は、地名の由来が不明で、1306年(鎌倉時代後半)に「大門(だいもん)村 下司名(房暁法印 御年貢千疋 両所各五百疋)」で初見して、隣の和久寺(わくでら)が平安時代中期の古代地名辞典『和名抄(わみょうしょう)』で「天田郡(あまだぐん)和久郷(わくごう)」で初見して、和久郷(わくごう)の地域の一区分で、大門(だいもん)村がいつ頃からか形成したと考えられる。
福知山市大門(だいもん)の記録は、大門(だいもん)に暮らした故・田辺弘さんの著書の『ひっぱり壁』に基づく所が多々ある。

大門(だいもん)の神社は、秋葉(あきば)神社と八柱(やはしら)神社と妙見(みょうけん)神社と毘沙門(びしゃもん)神社の4社があって、八柱(やはしら)神社の本殿の神名が分からなくて、一番神格の高い神社が分からない。
秋葉(あきば)神社は、静岡県浜松市の秋葉山本宮秋葉(あきはさんほんぐうあきは)神社が有名で、この神社の祭神が軻遇突智(かぐつち)またの名を火産霊(ほむすび)で、国生みの男性の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が斬殺した息子で火の神様であって、神社本庁の傘下の秋葉(あきば)神社が全国に800社以上あって、秋葉(あきば)神社が火伏(ひぶせ)の神様を祭る。
大門(だいもん)は秋葉(あきば)神社と呼ぶが、秋葉山本宮秋葉(あきはさんほんぐうあきは)神社が秋葉(あきば)と呼ばず、全国的に秋葉(あきば)神社か秋葉(あきは)神社と呼ぶ。軻遇突智(かぐつち)は、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化して、垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に従兄弟の垂仁(すいにん)天皇に皇位継承権争いで反逆した逆賊で、垂仁天皇7年(西暦158年)までに稲城(いなき)で焼死して、狭穂彦王(さほひこのみこ)が古代太陽神の2代目・大物主神(おおものぬしのかみ)に神格化された。
軻遇突智(かぐつち)の別名の火産霊(ほむすび)は、火の神様を生み出す意味があって、産霊(むすび)が「生み出す」という意味があって、狭穂彦王(さほひこのみこ)の子孫の物部(もののべ)氏だけが火の神様に神格化した。
古代太陽神の2代目・大物主神(おおものぬしのかみ)に神格化した狭穂彦王(さほひこのみこ)は、秋葉(あきば)神社の軻遇突智(かぐつち)に神格化なら大門(だいもん)で一番に神格が高いと考えられるが、単に火伏(ひぶせ)の神様を祭ったなら神格が低くて、秋葉(あきば)神社の創建時期が不明である。

大門(だいもん)の八柱(やはしら)神社の本殿は、神様が不明で、誰を神格化したのか分からなくて、神殿が本殿造(ほんでんづくり)で、構造や建築様式などから、かなり古いようで、創建年代が不明で、申請すれば福知山市の文化財になると言う。
八柱(やはしら)神社の祠(ほこら)は、聖神(ひじりのかみ)や厄除(やくよけ)や天満(てんまん)や八幡(はちまん)や稲荷(いなり)などである。
聖神(ひじりのかみ)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の孫や先祖で、月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の孫の2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)を指して、先祖の意味で、初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)も指して、先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫の飯入根(いいいりね)を古代太陽神に神格化するため、大門(だいもん)で一番神格の高い神様の一人である。
厄除(やくよけ)や天満(てんまん)や稲荷(いなり)は、一般的に全国的に祭られて、その由来や意味を日本神話に結び付けたり、仏教に結び付けられたりと色々とある。
厄除(やくよけ)や厄払(やくばら)いは、日本人なら当たり前の考え方で、八柱(やはしら)神社の厄除(やくよけ)の由来が分からない。
八柱(やはしら)神社の天満(てんまん)は、天神(てんじん)でなく、天満宮の菅原道真(すがわらのみちざね)を指して、菅原道真(すがわらのみちざね)が天神(てんじん)と混同されたりするが、区別する場合もある。
八幡(はちまん)の総本山は、宇佐(うさ)神宮で、母親の神功(じんぐう)皇后と息子の応神(おうじん)天皇と宗像(むなかた)三神を祭って、全国的に多く祭られる。
稲荷(いなり)は、全国的に祭られて、狐を想像するが眷属(けんぞく;従者や家来など)で、日本神話の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が狐と混同されるが、『ホツマツタエ』でウケノミタマ(うかのみたま)を守護するように命じられた3匹の妖狐の伝承に基づく。
八柱(やはしら)神社は、8柱(はしら)つまり8人の神様の意味で、本殿と祠(ほこら)7つで、八柱(やはしら)だが、石の祭壇も含めて9柱(はしら)を祭る。

妙見(みょうけん)神社は、北極星や天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)を祭るが、明確な由来などがはっきり分からなくて、創建年代が不明である。
毘沙門(びしゃもん)神社の仏像は、その昔に古い毘沙門天(びしゃもんてん)の仏像が京都市で売りに出されたと聞いて、京都市に買いに行って、数人が交代でおんぶして、三日三晩かけて運んで、現在のお堂に安置した言い伝えがあって、毘沙門天(びしゃもんてん)の仏像がお堂に納(おさ)まって、創建年代が分からない。

大門(だいもん)の寺は、天台宗の凌雲山(りょううんざん)高正寺(こうしょうじ)吉祥院(きっしょういん)で、文明(ぶんめい)12年3月(西暦1480年4月頃)に建立(こんりゅう)して、寛政(かんせい)3年6月(1791年7月頃)に火災で燃えて、寛政(かんせい)11年7月(1799年8月頃)に再建して、昭和28年(1953年)にも火災があって、昭和32年(1957年)に再建した。

「記紀」や日本神話を完全解釈できる僕は、福知山市や大門(だいもん)の由来などを求めて、世界中の誰にも求められないことが簡単に求められて、日本神話の神々の正体を求められる意味で、神様に最も近い人間としての本領発揮である。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『竹内文書・但馬故事記』
著者・吾郷清彦 発行・新国民社
『日本古代地名事典』
著者・吉田茂樹 発行・新人物往来社
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『ひっぱり壁』
著者・田辺弘 発行・株式会社オカムラ
天照玉命神社の伝承
インターネットの不明サイトから少々拝借
https://tangonotimei.com/amata/daimon.html
https://kyonoreijo.sakura.ne.jp/kyt/pf/kytpf33knad.htm

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