経津主神(ふつぬしのかみ)
これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。
『ホツマツタエ』によるとフツヌシ(武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)は両親が書かれておらず、別名をカトリカミと言うのが記されて、経津主神を祭る千葉県の香取(かとり)神宮の名前である。
『日本書紀』に磐裂神(いわさくのかみ;景行(けいこう)天皇を神格化)の次に根裂神(ねさくのかみ;欝色謎命(うつしこめのみこと)を神格化)で、その子である磐筒男神(いわづつのおのかみ;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の次に磐筒女神(いわづつのめのかみ;誰を神格化したか不明)で、その子である経津主神が生まれたと記して、磐裂神と根裂神が磐筒男神と磐筒女神が夫婦である。
大彦命(おおびこのみこと)が安倍(あべ)氏の始祖であり、武虎別皇子が祖父を安倍氏として明らかに共通で、大彦命の息子の武渟川別が本当は武虎別皇子の息子となって、名前に「武」と「別」の字が入っているのが共通する。
武渟川別は武家の物部(もののべ)氏の出身で、古代の安倍氏も武家で、後世に陰陽師の安倍晴明(あべのせいめい)を輩出した。
経津主神は茨城県にある大甕(おおがめ)神社に伝わる邪神の天津甕星(あまつみかほし;別名を天香香背男(あめのかかせお)と言う)を討伐させた神様で、出雲の国譲り神話においても活躍する神様である。
武渟川別は東海を平定する将軍に任命されて、『古事記』に相津(あいづ)まで行ったと記されて、東北地方南部の福島県会津盆地のことであって、出雲を平定したとも記される。
経津主神と武渟川別は明らかに関東地方と出雲に行ったことが共通して、武渟川別を神格化したのが経津主神に当たると考えて間違いない。
景行天皇60年(西暦250年)に武虎別皇子が北陸を平定する将軍で、息子の武渟川別が皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)の東海平定に付き従う武将である。
武虎別皇子が7代タカミムスビとして神格化されている時、姉の神功(じんぐう)皇后がタクハタチチヒメで、弟の武渟川別がフトダマとして神格化されている。
武渟川別がフトダマとして神格化されている根拠は、『古事記』で布刀玉命(ふとだまのみこと)と言う名前が記されていて、神刀の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を連想させて、『先代旧事本紀』に布都御魂剣の別名で布都主神魂刀(ふつぬしのかみのみたまのかたな)があって経津主神の神刀に当たり、布刀玉命と経津主神の名前に共通性を感じられる。
姉の神功皇后が景行天皇38年(西暦228年)頃の生まれである時、景行天皇60年(西暦250年)に弟の武渟川別がせいぜい20歳といった所でだと考えられる。
経津主神は日本神話の軍神(いくさがみ)で、葦原中国(あしはらなかつくに)平定が『日本書紀』によると関東地方と出雲王国になっている。
『常陸国風土記』に普都大神(ふつのおおかみ)が記されて、他ならぬ経津主神のことである。
『ホツマツタエ』でオシホミミ(仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)の左の臣にフツヌシが任命されて、仲哀天皇の左大臣が武渟川別と考えられる。
『日本書紀』の記述によると成務(せいむ)天皇4年2月1日(正しくは仲哀天皇3年で、西暦254年3月上旬頃)に天皇が国の長(おさ)にふさわしい者を取り立てて国郡(くにこおり)の首長に任命しろと言われたと記されて、この時までに武渟川別による東海平定が終了したことを意味する。
武渟川別は若干20代で将来有望なこと、東海平定の功績、古代からの武家である物部氏の出身であることなどから大臣に任命されたと考えられる。
『ホツマツタエ』で崇神(すじん)天皇60年が出雲王国崩壊で、正しくは西暦260年神無月と考えられて、仲哀天皇9年(西暦260年)に当たって、総大将がタケミカツチで副将がフツヌシである。
出雲振根(いずもふりね;日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)は、武渟川別と吉備武彦(きびたけひこ)に殺されて、出雲王国が全面降伏して王国が崩壊した。
出雲の国譲り神話において経津主神と武甕槌神の二神は、重要な役割を果たした軍神として出てくる。
『出雲国風土記』に経津主神は、布都怒志命(ふつぬしのみこと)などと記されて、武甕槌神(たけみかづちのかみ)の名前が出てこないのが謎で、逆に『古事記』に経津主神の名前が出てこないのも謎である。
『日本書紀』で太玉命(ふとだまのみこと;武渟川別を神格化)は、姉の皇祖神・天照大神(あまてらすおおみかみ;神功皇后を神格化)の息子・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊・ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を神格化)が天孫降臨するときに付き従っている。
姉の神功皇后の息子で皇太子の誉田別尊は武渟川別の甥で、自分が武将として身辺警護をすることを願い出たのだと考えられる。
経津主神は日本神話の軍神で、物部氏の出身で安倍氏の先祖なのが武家として有力で、武勇に秀(ひい)でた大臣として生きたと考えられる。
経津主神の活躍は物部氏の氏神として当然で、後世に摂関(せっかん)藤原氏の氏神にされたようだが、正しいことを求められる僕がひもといた。
<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟:著者 株式会社講談社:発行
『古事記(中)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
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