経津主神(ふつぬしのかみ)


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、軍神(戦神;いくさがみ)や武神などと呼ばれて、関東地方から東北地方南部と中国地方を平定した神様で、物部(もののべ)氏と藤原氏の氏神で、2神を同一神とする解釈がある。
経津主神(ふつぬしのかみ)は、『日本書紀』に登場して、『古事記』に記されず、斎主神(伊波比主神;いわいぬしのかみ)とも呼ばれて、『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』に普都大神(ふつのおおかみ)と記す。
武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、『日本書紀』で武甕雷神(たけみかづちのかみ)や武甕雷男神(たけみかづちのおのかみ)とも記して、『古事記』で建御雷神(たけみかづちのかみ)や建御雷男神(たけみかづちのおのかみ)や建布都神(たけふつのかみ)や豊布都神(とよふつのかみ)と記して、『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』に香島天之大神(かしまあめのおおかみ)と記す。
経津主神(ふつぬしのかみ)は、茨城県の香取(かとり)神宮に祭られて、武甕槌神(たけみかづちのかみ)が千葉県の鹿島(かしま)神宮に祭られて、両方の神宮が20キロメートルほど離れる程度で、互いに深く関わる。

経津主神(ふつぬしのかみ)は、関東地方から東北地方南部の平定と出雲の国譲(くにゆず)り神話に出てきて、武甕槌神(たけみかづちのかみ)も同じ地域に出てくるが、日本神話を完全解釈できる僕なら完全に求められる。
古代天皇家の人物で、この地域に行った人物は、武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)で、経津主神(ふつぬしのかみ)が武渟川別(たけぬなかわわけ)を神話化したのが間違いない。
武渟川別(たけぬなかわわけ)は、孝元(こうげん)天皇の息子の大彦命(おおびこのみこと)を父で、母が分からなくて、この親子が阿部(あべ)氏の先祖で、大彦命が物部(もののべ)氏の出身で、『ホツマツタエ』で「たけぬわけ」と「たけぬなかわ」の名前で出て来た。
景行(けいこう)天皇と高田姫(たかだひめ)の息子の武虎別皇子(たけこわけのみこ)は、母の父を阿部氏木事(あべうじのこごと)で、明らかに共通する。
景行(けいこう)天皇は、孝元(こうげん)天皇に祖先化して、武虎別皇子(たけこわけのみこ)が大彦命(おおびこのみこと)に祖先化して、祖先化した人物が作られた人物である。
2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の娘である高田姫(たかだひめ)は、景行(けいこう)天皇との間に息子の武虎別皇子(たけこわけのみこ)をもうけて、その息子が武渟川別(たけぬなかわわけ)で、親子で「武(たけ)」と「別(わけ)」の漢字が共通して、物部(もののべ)氏と阿部(あべ)氏の血筋が共通する。

崇神(すじん)天皇10年9月9日に武虎別皇子(たけこわけのみこ)は北陸地方で、武渟川別(たけぬなかわわけ)が東海地方の平定に向かって、親子が福島県会津(あいづ)地方で出会って、崇神(すじん)天皇11年4月28日に奈良県に帰還したが、こんな短期間に行き来できるはずもなく、全てが作り話だろうか?
景行(けいこう)天皇60年10月2日(西暦250年11月上旬頃)に武虎別皇子(たけこわけのみこ)は北陸地方で、武渟川別(たけぬなかわわけ)が東海地方の平定に向かって、仲哀(ちゅうあい)天皇3年2月1日(西暦254年3月上旬頃)までに奈良県に帰って、これなら十分な期間である。
福島県河沼(かわぬま)郡会津坂下町の杵ヶ森(きねがもり)古墳は、3世紀末から4世紀初頭の前方後円墳と考えられて、石背国造(いわせくにみやつこ)か阿尺国造(あさかくにみやつこ)のどちらかが古墳埋葬者だと考えられる。
考古学(杵ヶ森(きねがもり)古墳)と歴史学(歴史書解釈)は、福島県会津(あいづ)地方で、武虎別皇子(たけこわけのみこ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)の親子が出会った完全な証拠である。
『日本書紀』で経津主神(ふつぬしのかみ)は、茨木県日立市で星の神の天津甕星(あまつみかほし;別名を天香香背男(あめのかかせお)と言う)を征する斎主神(伊波比主神;いわいぬしのかみ)で登場して、武渟川別(たけぬなかわわけ)が討伐した関東地方から福島県までの土地と合致する。

崇神(すじん)天皇60年7月14日に出雲に向かう崇神(すじん)天皇の命令で、武渟川別(たけぬなかわわけ)と吉備津彦(きびつひこ)が出雲振根(いずもふりね)を殺して、出雲が降伏した。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月(西暦260年11月頃)に神功(じんぐう)皇后の命令で、武渟川別(たけぬなかわわけ)と吉備武彦(きびたけひこ)が日本武尊(やまとたけのみこと)を殺して、出雲王国が崩壊して、これが本当の事実である。
旧暦の崇神(すじん)天皇60年と西暦260年は合致して、『ホツマツタエ』と『日本書紀』が西暦年を使う根拠で、吉備津彦(きびつひこ)でなく、息子の吉備武彦(きびたけひこ)の時代で、出雲振根(いずもふりね)が仲哀(ちゅうあい)天皇の父の日本武尊(やまとたけのみこと)で、息子を殺して夫を殺された神功(じんぐう)皇后が義父の日本武尊(やまとたけのみこと)を殺させて、肉親同士の内乱(皇位継承権争い)だった。
出雲の国譲(くにゆず)り神話で経津主神(ふつぬしのかみ)は、静観するだけでも登場して、経津主神(ふつぬしのかみ)も武渟川別(たけぬなかわわけ)も関東地方と出雲に登場して、間違いなく経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の結論になる。
宮城県塩竈(しおがま)市の鹽竈(しおがま)神社に祭る塩土老翁(しおつちのおじ)は、経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)を東北地方南部まで道案内した。
塩土老翁(しおつちのおじ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化して、経津主神(ふつぬしのかみ)が武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化した。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、日高見(ひだかみ;東北地方南部のどこか)に行って、東北地方南部にいる塩土老翁(しおつちのおじ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)と共通する。
武渟川別(たけぬなかわわけ)は、父の武虎別皇子(たけこわけのみこ)と福島県会津(あいづ)地方で出会って、東北地方南部にいる経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)と共通する。
「記紀」は、何の根拠もなく成立しなくて、史実(歴史上の事実)を反映する。

『ホツマツタエ』でフツヌシは、妹アサカヒメがココトムスビと結婚して、藤原氏の祖先神のアマノコヤネが生まれて、物部(もののべ)氏の出身の氏神で、血筋が薄(うす)い藤原氏の氏神でもある。
武渟川別(たけぬなかわわけ)は、妹の虚空津比売命(そらつひめのみこと)がいるが、アサカヒメに神格化したか分からず、他にも妹が存在すると考えられる。

『日本書紀』の神刀の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)は、石上(いそのかみ)神宮の禁足地から明治7年(1874年)に発掘した刀が布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)本体である。
鹿島(かしま)神宮の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)は、全長271センチメートルの直刀で、奈良時代末から平安時代初期に作られて、日本最古で最大の剣で、神様の剣として飾り物が作られて、『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』で西暦704年(慶運1年)に鹿島の砂鉄で作った神剣に当たると考えられる。
布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)は、『ホツマツタエ』や「記紀」などの記述で、経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)の帯刀と考えられる。
布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)は、日本神話に直接登場せず、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を思わせる武器が登場しても断定できなくて、神武(じんむ)天皇東征で、動物霊を操(あやつ)る丹敷戸(にしきど)の眠気(ねむけ)を取り除いて、武甕雷神(たけみかづちのかみ)から神武(じんむ)天皇に託して、その後に石上(いそのかみ)神宮の禁足地に封じた。

『日本書紀』の太玉命(ふとだまのみたま)は、『古事記』で布刀玉命((ふとだまのみたま)と記して、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を連想させて、太玉命(ふとだまのみたま)が経津主神(ふつぬしのかみ)と同一神で、武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化したと考えられる。
『ホツマツタエ』でタクハタチチヒメの弟フトタマは、姉の息子(甥;おい)のニニキネに付き従って、共に宮崎県に行った。
神功(じんぐう)皇后の弟(同母か異母か不明)の武渟川別(たけぬなかわわけ)は、姉の息子(甥;おい)で皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を守る護衛の将軍として、共に宮崎県に行って、誰を神格化したか明白である。
太玉命(ふとだまのみたま)は、祭祀氏族の忌部(いんべ)氏の祖先神で、経津主神(ふつぬしのかみ)の別名の斎主神(伊波比主神;いわいぬしのかみ)と布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)の神力とも関わって、経津主神(ふつぬしのかみ)と布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)が霊魂に影響して、鎮魂(みたましずめ)の物部(もののべ)氏とも関わると考えられる。
太玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の孫か曾孫が軍神(いくさがみ)の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)で、安倍(あべ)氏と忌部(いんべ)氏の先祖が武渟川別(たけぬなかわわけ)と考えられる。

経津主神(ふつぬしのかみ)は、景行(けいこう)天皇の孫(皇族)で、母方が物部(もののべ)氏の血筋で、忌部(いんべ)氏と阿部(あべ)氏の先祖で、仲哀(ちゅうあい)天皇の左大臣で、武勇も多い忠臣と考えられる。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『総図解よくわかる日本の神社』
著者・渋谷申博 発行・株式会社新人物往来社
『週刊 神社紀行 題27回配本』
編者・山本尚幸 発行・株式会社学習研究社
インターネット

戻る