古代日本人のイメージ

古代日本人のイメージは、縄文人や弥生人などがワザと低能で野蛮に思い込ませて、昔のネアンデルタール人などのイメージと同じように思わせて、古代日本人のひどいイメージを植え付けた集団が日本国内にいたかもしれない。
しかし近年の日本考古学は、あまりに発展がめざましくて、縄文人や弥生人の文化レベルが高度すぎて、全てを否定して、おまけに僕が日本の建国(天皇家誕生)を西暦年で特定して、完全な歴史研究の革命を起こした。
この事実は、低能な古代日本人のイメージを壊して、高度な文明を築いた古代日本人のイメージに塗り替えて、これからの日本の未来を照らす大いなる希望で、2023年2月16日に記した。

旧石器捏造(ねつぞう)事件は、2000年11月にアマチュア考古学研究家の藤村新一が石器を埋めて、発掘したように自作自演で捏造(ねつぞう)して、約30万年前のネアンデルタール人などの旧人の時代まで偽った事件で、旧石器時代の混乱を生んだ。
これによって日本の旧石器時代は、大打撃を受けて日本中の遺跡や遺物の信頼性を疑われて、根本的な見直しをして、考古学会の信頼性の回復が急務となって、考古学会の真偽性を揺るがした。
日本の旧石器時代は、4万年前から日本最古の土器が作られた1万6500年前頃までで、旧石器捏造(ねつぞう)事件の年代がまやかしで、十数万年までさかのぼるか不明で、4万年前よりさかのぼる遺跡が全ての研究者が賛同する物がないとして、縄文時代との区別が土器の有無である。

旧石器時代は、石を打ち欠いて作った打製石器を使って、縄文時代になると石や土器を磨(みが)いた磨製(ませい)石器が使われて、縄文時代を新石器時代と呼んで、旧石器時代が石をそのまま使った打製石器などの原始的な道具で、縄文時代が加工した磨製(ませい)石器や土器など使いやすく改良した道具を使って、道具の違いで時代区分した。
旧石器時代の打製石器は、種類も豊富で、狩りや採取に使って、縄文時代の磨製(ませい)石器が弓矢や漁具(ぎょぐ)などに使って、煮炊きのために土器を使って、石器の違いが極端だった。
旧石器時代の食生活は、マンモスやナウマンゾウやヘラジカなどを狩って、大型哺乳類が絶滅すると、ウサギやイノシシや鹿などの小型哺乳類を狩って、魚なども取っていたらしく、落とし穴などで捕まえて、木の実などが少なくて、縄文時代に木の実が増えて、土器で煮炊きして、殺菌や灰汁(あく)抜きをして、食生活の幅が広がった。
旧石器時代の衣服は、鹿などの毛皮を使ったと考えられて、掻器(そうき)と言う石器に残る傷を調べると、皮の加工で使われたと分かって、北海道のピリカ遺跡や岩手県の垰山(とうげやま)牧場1遺跡で首飾りが見つかって、アクセサリーを身に付けて、魔よけや身分の意味があったと考えられる。
旧石器時代の住居は、草原にテントのような住まいを作ったり、洞窟(どうくつ)や岩陰を利用して、この時代のはっきりした建物跡が少ないが、石器がまとまって見つかって、ある程度の集団生活をしたと考えられる。

日本の旧石器人骨は、静岡県の浜北人と沖縄県の港川人(みなとがわじん)ぐらいで、遺伝的に調べたのが港川人(みなとがわじん)1号人骨だけで、縄文人と弥生人の人骨、現代人2千人のミトコンドリアDNAを比較して、母系(女系)をたどって、国内に共通の子孫がいなくて、オーストラリアのアボリジニーやニューギニア人に近い説がある。
現代日本人の一部は、縄文人の母系(女系)の遺伝子グループ「M7a」、弥生人の母系(女系)の遺伝子グループ「D4」を受け継いで、港川人(みなとがわじん)1号人骨が「M7a」と「D4」を含む広義の「M」に分類して、アジア人の祖先集団に属するが、縄文人と弥生人と現代日本人の祖先でないと判明して、旧石器時代の研究に課題が多い。

縄文時代は、土器の存在が条件で、日本最古の土器が青森県の大平山元(おおだいやまもと)遺跡で放射性炭素年代測定法によって1万6500年前と判明して、これが縄文時代の始まりで、終わりが諸説あって、3千年前の意見があって、1万3300年前から縄文様の縄文土器が作られ始めて、世界最古の土器が中国の江西省の洞窟(どうくつ)で出土した2万年前の物だと言う。
縄文時代は、世界最古の物が多く出土して、青森県の大平山元(おおだいやまもと)遺跡で世界最古の石鏃(せきぞく;矢の先に付ける石の矢じり)が出土して、北海道の函館(はこだて)市で世界最古の漆(うるし)製品が出土して、青森県の八戸(はちのへ)市で世界最古の弦(げん)楽器が出土して、縄文時代が非常に高度な文化と証明した。
縄文時代は、1万3千年以上続いても、全く戦争の痕跡(こんせき)がなくて、争いの跡が数件しか見つからず、武器もなく平和な時代を維持して、男女や貧富の差が存在しなかった。

縄文土器は、非常に丁寧な細工の土器が多くて、十分に時間をかけて作る余裕があって、戦争をした証拠がないから、戦いで割って壊すこともなく、戦いでゆっくり作る時間ができるわけもなく、武器を作った方が速く、平和な時代の理由である。
縄文時代は、9万ヶ所以上も遺跡が見つかって、定住したことが革命で、千年以上も定住した遺跡が複数見つかって、北海道の垣ノ島(かきのしま)遺跡が6千年も定住して、石川県の真脇(まわき)遺跡が4千年も定住して、徹底的に何でも共用する文化が大きな理由と考えられる。
旧石器時代は、狩猟採集の移動生活をして、不安定で食事にあり付けないこともあって、縄文時代が定住して、土器に適した粘土を探したり、土器を焼いたりする作業をして、縄文土器が定住の証明で、縄文土器から弥生土器に移行して、メソポタミア文明やインダス文明が周辺に後継の文明が見つからないのと比べて、文化の継承を証明できる。

青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡は、1700年続いた大規模集落遺跡で、海と山の幸(さち)が豊富で、直径が約2メートルで、深さが約2メートルで、間隔が4.2メートルの6本柱で長方形の大型掘立(ほったて)柱が出土して、他にも長さが32メートルで、幅9.8メートルの楕円形の大型建物が出土して、集会所か真冬の作業場などとも考えられて、縄文時代の建築技術の高さを証明した。
縄文時代の衣服は、布で作られて、頭がボサボサでなく、スッキリまとめられて、清潔感のある姿として、縄文土器から麻(あさ)などの自然植物の繊維(せんい)を使った布の跡が見つかって、毛皮のような暑苦しい物でなく、通気性の良い布を着たと考えられる。
三内丸山(さんないまるやま)遺跡は、ヒノキ科の針葉樹の樹皮で編(あ)んだ小さな籠(かご)が出土して、全国で編(あ)み籠(かご)やゴザのような筵(むしろ)も出土して、長野県の栃原岩陰(とちばらいわかげ)遺跡から縫(ぬ)い針と考えられる骨角器が出土した。
縄文時代の男性の装飾品は、腰飾りに限られるのに対して、女性が耳飾りや腕輪などの装飾品が種類も多くて、細かな彫刻をして、首飾りもヒスイやコハクなどの宝石を使って、ヒスイの原産地が新潟県の姫川の辺りで、コハクの原産地が千葉県銚子(ちょうし)や岩手県久慈(くじ)で、ヒスイやコハクが全国で出土して、黒曜石も北海道から新潟県の佐渡ヶ島や長野県の霧ヶ峰など日本海を中心とした地域で交易した。
装飾品の腕輪は、大きな貝殻を切り抜いた美しい物が多数あって、千葉県市原市の縄文遺跡で貝の輪がたくさん出土して、女性の人骨がこのような装飾品で飾られて、ヒスイなどに穴をあける作業を男性がして、女性にプレゼントしたと考えられる。
三内丸山(さんないまるやま)遺跡は、住居に近い道路に沿(そ)って人々を埋葬して、一人ずつ丁寧に穴を掘って埋葬した跡が見つかって、近辺から花や木の実や魚の骨などが出土して、この遺跡が調査するまで遺体を集落から離して遠い場所にまとめて捨てたり、洞窟(どうくつ)などで風葬したりと考えられて、遺体が貝塚や洞窟(どうくつ)に集中したためである。
しかし通説は、火山が多い日本で、酸性の強い火山灰が多く積もって、土葬すると骨が解けるため出土しにくくて、貝塚や洞窟(どうくつ)がアルカリ性の強い土壌だったりして、三内丸山(さんないまるやま)遺跡が非常に丁寧な埋葬方法と証明した。
子供への愛情は、北海道の入江(いりえ)貝塚で、筋肉が痩(や)せて介護して成長したと考える4千年前の人骨が出土して、障害者を見捨てずに育てたと考えられる。
縄文時代は、全国規模で交流して、共同で大きな建物も作って、大人も子供も障害者も大切にする優れた文化と言える。

遺伝子の調査は、父系(男系)が精子のY染色体で調べて、母系(女系)がミトコンドリアDNAを調べて、近年の縄文人や弥生人が核内DNAを調べて、核内DNAと精子のY染色体が遺伝子の合致で、縄文人をたどる方法がある。
今の日本人は、アイヌ人と本土日本人と琉球人の3つに大別して、縄文人が狩猟採集して、弥生人が農耕をして、縄文人と弥生人が骨格的にも遺伝的にも全く違って、縄文時代と弥生時代の移行期に東北アジア系統の弥生人が渡来して混血して、本土日本人が遺伝的に混血を受け継いで、弥生人が北と南まで広がらず、遺伝的にアイヌ人と琉球人が縄文人に近くなった証拠である。
縄文人の母系(女系)の遺伝子グループ「M7a」と「N9b」は、「M7a」が北方と南東の縄文人で、「N9b」が北方の縄文人で、アイヌ人と琉球人が特に多い割合で、アイヌ人と琉球人が縄文人の遺伝子を受け継ぐ証拠である。
縄文人のY染色体は、遺伝子グループ「D」がアイヌ人と琉球人で多くて、遺伝子グループ「C」も縄文人に由来するとして、アイヌ人の遺伝子が特別で、縄文人の父系(男系)の遺伝子グループが東南アジアの遺伝子集団と合致しない。
縄文人とアイヌ人は、遺伝的な系統で同じでなく、アイヌ人が東アジア人よりも古い民族で、今のアイヌ人が遺伝子グループ「Y」と「D」と「G」が混ざって、「Y」がオホーツク人から来て、「D」と「G」が本土日本人から来て、アイヌ人が縄文人とオホーツク人と本土日本人の混血である。
オホーツク人は、5世紀から13世紀に北海道東岸からサハリンや千島列島に分布した漁労民で、遺伝的にアイヌ人と縄文人が同一でないと証明して、縄文人の各ゲノムを直接分析する必要がある。
縄文人は、歯の形態やミトコンドリアDNAで、東南アジア人やポリネシア人やアボリジニーなどに近くて、縄文土器が太平洋の島々で見つかって、縄文人が航海して広がって、南米のバルディビア土器が縄文土器と合致する説がある。
縄文人の父系(男系)の遺伝子グループ「D1b」は、縄文人と今の日本人特有の遺伝子で、中国の漢民族が遺伝的に琉球人と本土日本人に近くて、アイヌ人が遠いことを証明して、アジア人と縄文人の分岐時期が2万6千年前から3万8千年前と考えられるが、本当か分からない。
北海道の縄文人は、海生哺乳類を多く食べて、他の全国の縄文人が海産物(魚や貝類)や植物を食べて、食生活の遺伝的な変化もあったと考えられる。
愛知県田原市の縄文人骨は、遺伝子配列を詳細に解析して、アフリカから東アジアに到達したホモ・サピエンスでも最古級の系統に属して、純粋な縄文人が存在しない。

現代日本人の父系(男系)の遺伝子グループは、「O」系統が50%で、「D」系統が40%で、残りが「C」系統やその他で、「O」系統が弥生人で、「D」系統が縄文人に由来して、「D1b」が日本人に高頻度で受け継がれて、世界でも貴重な遺伝子系統で、日本人の「D1b」が圧倒的に集中する。
遺伝子グループ「D1a」系統は、チベットやインド東部のアンダマン諸島などの限られたアジア地域でも観測するが、「D1b」系統が日本国内だけで、アイヌ人が約80%で、琉球人が約40%で、本土日本人が約35%で、「D1b」系統が縄文人に由来する遺伝子である。
遺伝子グループ「D」と「E」の系統は、特殊な遺伝子の系統で、遺伝子グループ「DE」系統をまとめたYAP(ヤップ)遺伝子の変異した物に定義して、YAP(ヤップ)遺伝子が約7万年前に東アフリカにすむ一人の男性の遺伝子が変異して、遺伝子グループ「DE」系統ができたと考えられる。
YAP(ヤップ)遺伝子は、日本人の多くが持っていて、特徴としてがっしりした体形で毛深くて、彫りが深くて、目鼻立ちがしっかりして、縄文人の特徴と合致する。
遺伝子グループ「E」系統は、アフリカや中東やヨーロッパの人々で、遺伝子グループ「D」の日本人と遠く離れて、「E」系統で名前が挙がるのが古代イスラエル人で、紀元前722年に北イスラエル王国の滅亡後に消えた「失われた10支族」のほとんどが「E」系統で、エフライム族とマナセ族が「D」系統で、日本に行ったとして、日ユ同祖論(日本人とユダヤ人が同一氏族とする説)を提唱する。
突拍子もない説は、天皇家とエフライム族の系図の似た点や聖書と「記紀」などの関連性もあって、多くの共通点が存在して、日ユ同祖論を簡単に否定できない。
天皇家は、イスラエル文明やメソポタミア文明やエジプト文明などと関係して、正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』の関連性や都市伝説と片付けられず、超古代文明などと同様で、いつかひもとける未来も来るだろう。

縄文土器は、焚火(たきび)のように火を焚(た)いて、その上に土器を置いて、野焼きと言う感じだが、弥生土器が火の上に土器を置いて、さらにその上に藁(わら)や土をかぶせて、蒸し焼きのようにして、より高温で土器を熱して、縄文土器よりも固くできて、縄文時代と弥生時代の区分が農機具と稲作と青銅器と鉄器などである。
弥生時代は、始まりが3千年前から2千3百年前まで諸説あって、終わりが西暦200年頃で、弥生人が渡来して、農耕と鉄器と青銅器などが持ち込まれて、稲作が陸稲(りくとう)の焼き畑が縄文時代で、弥生時代に水田の水稲(すいとう)に変わった。
長期保存の水田稲作は革命で、農作業の道具の鋤(すき)と鍬(くわ)と稲穂を刈(か)る石包丁などを使って、米の貯蔵庫として高床式倉庫を作って、弥生時代の水田稲作が九州と四国と本州の限定で、北海道が寒くて定着しなかった。
縄文時代末期の寒冷化は、漁業や木の実などの食料生活に大打撃を与えて、田んぼの稲作が一大革命で、稲作の普及で食糧生産が安定して、寒冷化の食糧危機を脱して、稲作が縄文時代になかった副産物の戦争を生み出して、稲作で定住して、竪穴式住居で暮らした。
稲作は少人数でできず、大人数になるほど生産量が向上して、大規模な稲作で分業化も進んで、縄文時代の役割分担の優劣があまりなかったと考えられる。
弥生時代の稲作は、大きな作業で色々な作業を分担して、より重要な役割と重要性の低い役割の優劣ができて、また稲作の土地の持つ主と水源を確保する者が自然と優位になって、弥生時代の早期から前期の弥生人が稲作の集落を拡大して、稲作を公共事業として、水を引くための水路の整備、田んぼを畔(あぜ)で区切ったり、高度な水田稲作で定住した。
水田稲作は、田植えや稲刈りなど多くの人手が必要で、稲刈りが稲穂を束ねたり干したり重労働で、米の生産量が少ないと略奪して戦争が起きて、敵の攻撃から守る環濠集落を作って、集落の周りに堀(ほり)を作った。
縄文人的な考え方は、最初に米を均等に分けたが、米の収穫の量に差があって、集落で必要な貯蔵量を収穫できれば、米の貯蔵で管理者が必要で、管理者が米を操(あやつ)る権力を持って、収穫の多い集落が余剰分で、他の地域から人手を呼んで、人手が増えるとまた生産性が上がって、より多くの米を持つ集落の管理者がさらに権力を持って、この貧富が身分の差で、王や国が生まれた。
王と民などの階級の分化は、弥生時代前期後半から中期前半に始まったようで、その頃の埋葬跡が身分で埋葬場所が違ったり、副葬品の内容が明確に違うなどの変化ができ始めて、縄文時代の平和から変わって、戦争が当たり前の時代に突入した。

弥生時代の住居は、初め頃に円形や筒形や角が丸い四角形など色々な形だが、終わり頃の古代天皇家の統治下で、正方形の住居が急速に普及して、規格統一した一大国家で、まとまったためである。
弥生時代早期は、縄文時代晩期と同時期で、全国で発展に地域差があって作った区分で、この頃に福岡県の板付(いたつけ)遺跡などで水田稲作が始まって、縄文時代の稲作が焼き畑の陸稲(りくとう)と考えられて、水田で米の大量生産が画期的な食料生産だった。
2800年前から2400年前の弥生時代前期は、前半に北九州で支石墓や甕棺墓の葬礼方法が出現し始めて、埋葬に手が込んで、権力者が出現した証拠で、佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡が前半中頃に現れて、前期末に青銅器を武器として輸入したと考えられる。
2400年前から西暦100年頃の弥生時代中期は、前半頃に縄文土器が弥生土器に進化して、青銅器が武器から祭具に変わって、北九州が銅鏡で、西日本で祭具の銅剣が多く出土して、中頃に全国で大規模な環濠集落を作って国ができて、戦争で傷ついた人骨が出土した。
弥生時代の人骨は、傷ついたのが多くて戦争の証拠で、剣や矛の先端が一緒に見つかったり、溝(みぞ)に多数の人骨が無造作に重なって出土して、戦争で人が死にすぎて、一つ一つ埋葬する時間がなくて、適当にまとめて遺棄したと考えられる。
西暦100年から200年頃の弥生時代後期は、この頃の集落が深い堀(ほり)を作って、土塁(どるい)を巡らせた防衛設備が顕著で、戦争の規模が拡大して、激しさが増しと考えられて、高地性集落が数多く作られて、戦略的な要所と考えられた。
西日本は、邪馬台国(大和国;やまとこく)が出現して、祭具の銅鐸(どうたく)を大量に作り始めて、近畿地方と山陰(鳥取県と島根県)で鉄器が大量に出土して、古代天皇家と鉄器の関係性を証明した。

弥生時代の最初は、中国や朝鮮から鉄器を少し輸入して、道具の主力が石器だったが、弥生時代後期に石器がほとんど消えて、石器から青銅器文化にならなくて、鉄器時代に移(うつ)り変わる途中で、鉄器と青銅器を同時に使い始めて、青銅器が実用の道具でなく、銅鏡や銅鐸(どうたく)のような宝物や祭具で、鉄器が木工用の工具や農具や武器など実用的な物に使われて、青銅器が鉄器よりすごく脆(もろ)かった。
石器のサヌカイトや黒曜石の薄い刃は、鉄器の刃物よりも鋭(するど)い刃も作れるが、鉄器の耐久性に勝てなくて、石器が使えなくなると捨てて、鉄器が鋳造(ちゅうぞう)し直して使える利点がある。
日本で鉄鉱石や砂鉄から鉄を生産したのは、前者が弥生時代後期にほとんど石器が消えて、鉄器が生産して普及して、後者が古墳時代に鉄器の鍛冶炉(かじろ)や鉄クズが見つかって、この2説が対立して意見が分かれた。

京都府の弥生時代後期は、大量の鉄器が出土して、弥生時代中期の奈具岡(なぐおか)遺跡から鉄器文化を継承したか、古代天皇家が独自の鉄器生産をしたか不明で、海部(あまべ)氏の先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)と息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)たちが製鉄技術を教えたと考えられる。
崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、丹波(たんば;古代の京都府北中部)平定を崇神(すじん)天皇に報告して、彦坐王(ひこいますのみこ)が出雲王国(物部(もののべ)氏)を建国して、崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)に崇神(すじん)天皇に出雲王国の建国を報告したと考えられて、丹波(たんば)から出雲までの鉄器文化が証明できる。
鳥取県鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡と米子(よなご)市と西伯(さいはく)郡大山町にまたがると妻木晩田(むきばんだ)遺跡などは、弥生時代後期の鉄器が大量に出土して、鳥取県が鉄器生産の産地で、出雲王国の建国を証明する。
島根県の鉄器は、弥生時代後期から古墳時代前期に大量出土して、崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)以前の出雲王国の建国が間違いなくて、古代天皇家が鉄器生産を伝えたと考えられる。

弥生時代は、文字がなかったのが一般的な解釈だが、日本最古の書物『ホツマツタエ』が漢字以前の古代文字の神代(しんだい)文字で記して、日本の建国(天皇家誕生)の西暦84年から完全に記録して、弥生時代後期初頭から神代(しんだい)文字と言う文字のある時代に入って、日本の文字の年代特定ができた。
文字は、言葉の通じない者同士の意思疎通(そつう)の道具で、大陸の交通の要所で、4大文明などの文字が同時多発的に生まれて、一方で日本が島国で、広くても旧石器時代から閉ざした世界で進化して、北から南まで方言があっても、文字が必要なほど言葉の壁がなかったと考えられた。
しかし『ホツマツタエ』を完全解釈した僕は、神代(しんだい)文字が日本の古代文字で、他に何十種類も存在して、凡人(僕以外の人間)の認識力が間違いで、特殊な日本語が独自の口語で、独自の神代(しんだい)文字で記録して、弥生時代に中国や朝鮮と交流して、漢字を受け入れて、神代(しんだい)文字(日本語)と漢字を対比して、当てはめて漢字の和約を作った。
「記紀」は、日本語を初めて記した歴史書と勘違いして、日本最古の書物『ホツマツタエ』が神代(しんだい)文字で記して、古代文字がないと思わせたかった集団がいて、縄文人や弥生人を野蛮人と思わせたかった者たちと同一集団と考えられる。

日本の神道は、西暦84年以降の始まりで、それ以前の万物に霊魂(神様)が宿(やど)る考え方か不明で、勝手に縄文時代や弥生時代中期までの思想を推測せず、古代天皇家の考え方と正しく理解して、世界中に教え導く必要がある。
卑弥呼(ひみこ)の鬼道(きどう)は、伊勢神宮の巫女(みこ)である倭姫命(やまとひめのみこと)の神道で、今の神道の起源がそのまま続いて、伊勢神宮が1900年以上前からの宗教で、その重要性を知るべきである。

縄文人は、元々の日本に土着して、そこに大陸から弥生人が渡来して、遺伝子から北東アジアが起源で、中国や朝鮮半島やロシア東部の辺りで、縄文人と弥生人が共生して、混血が進んで、古墳時代に移行する頃に東アジアから古墳人が入って来て、これを三重構造説と言う。
三重構造説は、縄文人が縄文人の祖先の遺伝情報で、弥生人が縄文系と北東アジア系の祖先の遺伝情報で、古墳人が縄文系と北東アジア系と東アジア系の祖先の遺伝情報で、それが混血して現代日本人につながった。
日本に水田稲作をもたらしたのは、父系(男系)の遺伝子グループ「O1b2」で、満州や朝鮮などの東アジア北東部に多く分布して、「O1b2」系統が朝鮮に多くて、朝鮮から水田稲作を伝えたのが弥生人と考えられる。
日本人の母系(女系)の遺伝子グループとGm遺伝子は、北方型の極東ロシア南部に起源を求めて、弥生人の起源の一つと考えられる。
弥生人の人骨は、見つからない地域もあって、弥生人が背が高くて太って、縄文人と違って太い手足や指が特徴で、髪の毛がまっすぐで、眉毛と目が細くて、鼻が狭(せま)くて、体毛が薄(うす)くて、お酒に弱くて、他にも歯や骨格など違いが多くて、鹿や猪やマグロや海豚などを食べて、植物を採集した主食が米の食事に変化した。
水田稲作の米は、遺伝的に調べて、朝鮮半島以外もあって、色々な地域から米が入って来たと考えられる。
弥生人が日本に来たのは、中国の春秋(しゅんじゅう)戦国時代が理由と考えられて、周王朝が衰(おとろ)えて、地位を巡る戦争が起きて、休戦しながらも200年続いて、権力争いで将軍や貴族が主人を下克上して、この乱世を逃れた人々が移動して、弥生人になったと考えられる。

僕の自論は、弥生時代後期初頭の西暦84年が日本の建国(天皇家誕生)で、西暦84年から西暦329年までを大和時代と定義して、僕の自論の否定が100%できない。
崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に崇神(すじん)天皇は、102才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に崇神(すじん)天皇の亡骸(なきがら)を山辺(やまのべ)に葬礼して、孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)陵で、従者5人を殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)した。
奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、2世紀中頃から後半頃の築造年代で、前方後円墳の形で、初代の崇神(すじん)天皇陵の最有力候補と考えられる。
竹内(たけうち)氏の口伝(くでん;言葉で伝えること)の正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』は、前方後円墳の形の不明な伝承を残して、歴代天皇陵の全てに前方後円墳の形を採用したと伝承して、西暦152年に葬礼した崇神(すじん)天皇陵の最有力候補が確定して、1900年以上の伝承が『ホツマツタエ』の完成より古くて、古墳時代の前方後円墳の呼び名を残す可能性も考えられる。

垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、実妹で皇后の狭穂姫(さほひめ)が垂仁(すいにん)天皇に実兄の反乱を告白した日で、垂仁(すいにん)天皇と狭穂彦王(さほひこのみこ)が従兄弟で、倭国大乱(わこくたいらん)が邪馬台国(大和国;やまとこく)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の最初の内乱(皇位継承権争い)である。
垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)に皇后の樺井月姫(かばいつきひめ)は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)たち3つ子を生んだ難産で、翌月10月2日(11月上旬頃)に樺井月姫(かばいつきひめ)が産後の病状悪く亡くなった。
垂仁(すいにん)天皇22年12月28日(西暦174年1月下旬頃)に倭姫命(やまとひめのみこと)は、2代目の伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に奉仕する未婚の皇女)となるため、新年の初日(2月上旬頃)が明けると伊勢の高宮(たかみや)に入って、初代の斎王(さいおう)の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に仕(つか)えて、2代目の伊勢神宮斎王(さいおう)の見習い任命で、仮(かり)の卑弥呼(ひみこ)共立である。
垂仁(すいにん)天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に倭姫命(やまとひめのみこと)は、女王国(伊勢国)で正式な伊勢神宮の斎王(さいおう)に任命して、皇女を女王と勘違いして、鬼道(神道)で皆を導いて、正式な卑弥呼(ひみこ)共立である。
垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)に卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)は、現在の伊勢神宮内宮に最終遷宮して、元伊勢を何回も遷宮して、伊勢神宮の遷宮の終わりで、卑弥呼(ひみこ)の誕生日と同日である。
垂仁(すいにん)天皇37年(西暦188年)に遣漢使(けんかんし)の田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)は、後漢王朝の皇帝に謁見(えっけん)して、古代中国が初めて邪馬台国(やまとこく;大和国)と外交して、東大寺山(古墳出土)鉄刀(国宝)と京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の神宝である息津鏡(おきつかがみ)と邊津鏡(へつかがみ)などを下賜したと考えられる。

垂仁(すいにん)天皇39年7月1日に垂仁(すいにん)天皇は、78才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、48日間の喪(も)祭り後の8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜に墓(はか)へ埴輪(はにわ)を立てて、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に亡骸(なきがら)を菅原伏見(すがわらふしみ)に葬礼して、最古の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳に当たって、葬礼日が古墳時代の始まりである。
最古の埴輪(はにわ)は、纏向(まきむく)石塚古墳で出土した最古の土師器(はじき)で、殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)も考古学的に証明した。
景行(けいこう)天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)に帰られて、都市遺跡の纏向(まきむく)遺跡に当たって、邪馬台国(大和国;やまとこく)の王都でもある。
景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、皇居の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)で、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇の亡骸(なきがら)を倭国(やまとのくに;奈良県)の山辺道上陵(やまのべのみちうえのみささぎ)の箸墓(はしはか)古墳に葬礼した。
古墳時代は、垂仁(すいにん)天皇陵と景行(けいこう)天皇陵と皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)を特定して、僕の自論を100%否定できなくて、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が完全に合致した。

古墳人は、遺伝的に弥生人と別の人種で、古墳時代に東アジアからやって来て、弥生人と似たのっぺりした薄(うす)い顔で、縄文的な要素が下がって、女性も古墳人がより薄(うす)いのっぺりした顔立ちで、古墳人が現代日本人に最も近くて、古墳人の遺伝子データが前方後円墳でなく、横穴墓に埋葬した社会的に下層の人々で、エリートでない階級の遺伝子で、これから色々な研究が進んでいく。

旧石器時代から古墳時代までの古代日本人は、特徴や遺伝子などを細かく調べて、縄文人や弥生人が野蛮で、文字を持たない下等民族などのイメージが変わって、非常に高度で優秀な民族と判明して、僕が求めた古代天皇家の歴史も含めて、これから圧倒的な研究が進むことになる。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼編・著者 八幡書店・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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