伊未自由来記(いみじゆらいき)


日本海に浮かぶ島根県の隠岐(おき)は、旧石器時代から縄文時代の生活必需品だった黒曜石の産地で、隠岐の黒曜石が日本列島側の日本海沿岸だけでなく、朝鮮半島からも出土して先史時代に大いに繁栄した。
その隠岐の古代に関する伝承を書き記したと言われるのが『伊未自由来記』である。

隠岐に初めて現れた人をコノハビトと言って、彼らは獣の皮の上に木の葉を干したもの、木や川柳の皮をつづったものを着て、後世に「木の葉爺」や「木の葉婆」や「蓑(みの)爺」や「蓑婆」という妖怪として伝承された。
彼らが好んだ甘い団子は、今も隠岐の村々で作られ続けている。
コノハビトは元々「西方千里加羅斯呂触(からのしろふれ)」や「韓之徐羅(からのそら)国」と呼ばれる国から隠岐に渡って来たと言う。
「斯呂触(しろふれ)」や「徐羅(そら)」は、新羅(しらぎ)の別名であるソラブルへの音写か?
コノハビトは新羅からやって来た民族なら、新羅の建国の紀元前57年以降に来たことになるが、隠岐に初めて現れた人というのが間違いになる。
隠岐に初めて現れた人は先史時代の縄文人などを指すべきで、『伊未自由来記』の記述が間違いなのか、全くの作り話なのか分からない。
やがて顔や全身にいれずみをした人々がやって来て、コノハビトと雑居するようになって、この人々をアマと言って、やがてコノハビトがアマに同化されてしまった。
コノハビトは縄文人で、アマが弥生人なら雑居して硬化したのも分かるが、そうなのかよく分からない。
アマが栄えた頃に隠岐はオノゴロ島と呼ばれて、また出雲からオオヤマヅミの一族も来航するようになった。
オオヤマヅミは出雲神話で、アシナヅチとテナヅチの父親とされて、スサノオから始まる出雲系譜の先祖とされて、西暦200年頃の人物を神格化していると考えられる。
アマの長(おさ)の神が海賊に襲われて殺された時、出雲から来たオキツクシヤマヅミがオノゴロ島の隠岐の神となって、一時の平穏を保った。
オキツクシヤマヅミは日本神話のどこにも名前のない神様で、『伊未自由来記』に出てくる独自の神様と考えられる。
ところが出雲本土がオロチという民族に奪われて、隠岐もオロチの襲撃にさらされて、ヤマヅミは流宮(竜宮)加須屋(かすや;福岡県粕屋(かすや)郡か?)のオオアマヅミに救援を求めた。
オオアマヅミも日本神話のどこにも名前のない神様で、『伊未自由来記』に出てくる独自の神様と考えられる。
流宮からの救援の指揮を執(と)ったのは、オオアマヅミの子で奈賀(なが;隠岐の東の小島)のオオヒトで、オオヒトが隠岐島後にあってオロチと戦い続けた。
6代目のオオヒトは、出雲のオオヤマヅミの娘をめとって、その援助を得てオロチを一掃して、隠岐全体の統一を成し遂げた。
オロチは八岐大蛇(やまたのおろち)なら西暦251年の伊勢(三重県中部)の神話で、6代目のオオヒトまでかかって討伐したのが年代的に合わない。
オオヒトの子孫は、奈岐命(なぎのみこと)と呼ばれて隠岐を治めていたが、やがて天津神(あまつかみ)の子のミズワケノヌシに国を譲った。
ミズワケノヌシは隠岐に祭られる水若酢命(みずわかすのみこと)と同一神と考えられて、水若酢命が『伊未自由来記』に出てくる独自の神様と考えられる。
その後に隠岐の統治権は、出雲の神の系譜であるナガ、そして天皇家から派遣された隠岐国造(おきくにみやつこ)へと受け継がれていったと言う。
ナガは出雲神話のどこにも名前のない神様で、『伊未自由来記』に出てくる独自の神様と考えられる。
隠岐国造の億岐(おき)氏は、大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)の子孫で、神功(じんぐう)皇后時代頃に億岐氏の十挨(とあい)が国造に任命されたと考えられる。

『伊未自由来記』は「記紀」に見られる神々と独自の神々を交(ま)ぜ合わせて、年代的なものや内容が少しおかしなところが見受けられるが、隠岐の独自の神話体系が存在したことがうかがえる。
隠岐の独自の神話体系は、海の孤島で独自の進化をして現代まで伝え続けられて、貴重な歴史研究の遺産である。

<参考文献>
『『古史古伝』異端の神々』
僕・原田実 株式会社ビイング・ネット・プレス:発行
インターネット

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