稲荷山(いなりやま)鉄剣
稲荷山(いなりやま)鉄剣は、1968年(昭和43年)に埼玉県行田(ぎょうだ)市の稲荷山(いなりやま)古墳から出土した鉄剣で、1978年の保存目的で]線撮影して、鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌(きんぞうがん;彫刻した溝に純金を埋め込む技法)で彫(ほ)ったのを発見して、1978年9月に新聞がスクープして有名になって、1983年に国宝に指定して、その全文を表記して下記に記す。
<表>辛亥(かのとい)年七月中記、乎獲居臣(おわくこのおみ)、上祖名意富比土(いふひき)、其児多加利足尼(たかりのすくね)、其児名弖己加利獲居(てこかりわくこ)、其児名多加披次獲居(たかひじわくこ)、其児名多沙鬼獲居(たさきわくこ)、其児名半弖比(はんてひ)。
獲は「獣へん」に草かんむりがなくて、隻と記すのが正しくて、ホームページで表示できるが注意書きにする。
土は「土へん」に危で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
<裏>其児名加差披余(かさひよ)、其児名乎獲居臣(おわくこのおみ)、世々爲杖刀人(じょうとうじん)首、奉事来至今、獲加多支鹵大王(わくかたしるおおきみ)寺、在斯鬼宮(しきのみや)時、吾左治天下、今作此百練利刀、記吾奉事根原也。
干支(えと)の辛亥(かのとい)年7月(西暦471年8月頃)中に記して、乎獲居臣(おわくこのおみ)の一番上の先祖名が意富比土(いふひき)で、其の児が多加利足尼(たかりのすくね)で、其の児の名前が弖己加利獲居(てこかりわくこ)で、其の児の名前が多加披次獲居(たかひじわくこ)で、其の児の名前が多沙鬼獲居(たさきわくこ)で、其の児の名前が半弖比(はんてひ)である。
其の児の名前は加差披余(かさひよ)で、其の児の名前が乎獲居臣(おわくこのおみ)で終わって、世々に渡って杖刀人(じょうとうじん;刀剣で武装した人)の首領を奉仕して今に至って、獲加多支鹵大王(わくかたしるおおきみ;雄略(ゆうりゃく)天皇)の皇居が斯鬼宮(しきのみや)の時、私が天皇の左腕として天下を治めるのを補佐して、今百度も鍛錬したこの鋭利な刀に私が奉じた理由を記す。
先祖の「意富比土(いふひき)」と「多加利足尼(たかりのすくね)」の親子は、「意富(いふ)」が「大(おお)」に直して、凡人(僕以外の人間)が大彦命(おおびこのみこと)と次男の比古伊那許士別命(ひこいなこしわけのみこと)で、「多加披次獲居(たかひじわくこ)」を高橋別(たかはしわけ)と当てはめて、料理担当の膳(かしわで)氏系統の高橋氏と想像して、名前を適当に当てはめて、氏族を勘違いした。
僕が「意富比土(いふひき)」は、大彦命(おおびこのみこと)で、武虎別皇子(たけこわけのみこ)の別名で、息子の「多加利足尼(たかりのすくね)」が武宿禰(たけるのすくね)で、長男の武渟川別(たけぬなかわわけ)で、武渟川別(たけぬなかわわけ)の子孫の阿倍(あべ)氏系統が古墳埋葬者一族と考えられる。
先祖代々の「獲居(わくこ)」は、「別(わけ)」で間違いなく、「意富比土(いふひき)」と「多加利足尼(たかりのすくね)」が武虎別皇子(たけこわけのみこ)の長男の武渟川別(たけぬなかわわけ)で、直系子孫で稲荷山(いなりやま)古墳の埋葬者の乎獲居臣(おわくこのおみ)が乎別臣(おわけのおみ)に修正して、料理担当の膳(かしわで)氏系統でなく、武家の阿倍(あべ)氏系統だから、先祖代々の軍人家系と考えられる。
大彦命(おおびこのみこと)は、「記紀」の編者が武虎別皇子(たけこわけのみこ)を祖先化して作った名前でなく、稲荷山(いなりやま)古墳の埋葬者一族の名前で「別(わけ)」が続いて、実在系譜の武虎別皇子(たけこわけのみこ)の別名が大彦命(おおびこのみこと)で、「記紀」の実在系譜が祖先化・子孫化した人物名も名乗った可能性が高い。
実在系譜が複数の名前を名乗った可能性は、少数の考古学敵証拠などが示唆しただけで、まだ架空の推論だが、十分に検討して可能性を調べる必要がある。
武虎別皇子(たけこわけのみこ)と長男の武渟川別(たけぬなかわわけ)と次男の比古伊那許士別命(ひこいなこしわけのみこと)は、景行(けいこう)天皇60年(西暦250年)から北陸と東海の平定に従軍して、「意富比土(いふひき)」の7世代後が「乎獲居臣(おわくこのおみ)」で、辛亥(かのとい)年7月(西暦471年8月頃)が世代的に計算して、おかしくないと考えられる。
乎獲居臣(おわくこのおみ)は、杖刀人(じょうとうじん;刀剣で武装した人)の首領を務(つと)めて、雄略(ゆうりゃく)天皇の皇居が斯鬼宮(しきのみや)の時、私が天皇の左腕として補佐した。
「獲加多支鹵大王(わくかたしるおおきみ)」は、雄略(ゆうりゃく)天皇の国風諡号(しごう)の大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)で、在位期間が西暦427年から429年で、倭(わ)の五王の2番目・倭王(わおう)「珍(ちん)」と考えられて、辛亥(かのとい)年七月(西暦471年8月頃)に刀に文字を記して、雄略(ゆうりゃく)天皇の在位期間と稲荷山(いなりやま)鉄剣の刻銘した年代が合致しなくて、拡大解釈の間違いにすぎない。
乎獲居臣(おわくこのおみ)は、雄略(ゆうりゃく)天皇に仕(つか)えた人物で、辛亥(かのとい)年七月(西暦471年8月頃)で間違いなく、さらに60年後の西暦531年8月頃があり得なくて、稲荷山(いなりやま)古墳が5世紀後半の築造と考えられる。
拡大解釈は、超天才の僕も凡人(僕以外の人間)も当たり前に繰り返して、一生逃げられない常識で、凡人(僕以外の人間)に理解できるかまた別の話である。
雄略(ゆうりゃく)天皇の皇居の斯鬼宮(しきのみや)は、奈良県磯城(しき)郡(桜井市全域と橿原市と宇陀市と天理市の3市の一部)に存在した説、志紀(しき;大阪府八女市志紀町)に存在した2説があって、雄略(ゆうりゃく)天皇が倭(わ)の五王の一人だから大阪府の可能性が高いが、考古学的証拠の遺跡が出土してない以上、単なる想像でしかない。
『日本書紀』の雄略(ゆうりゃく)天皇の皇居・泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)は、勝手に磯城(しき)郡に比定したが、単なる想像にすぎなくて、早まった先走りである。
歴代天皇の皇居や天皇陵は、「記紀」が信用できなくて、専門家(考古学会と歴史学会)の認識力も低すぎて、僕が全てを覆(くつがえ)すから問題ない。
稲荷山(いなりやま)鉄剣の記述の「吾左治天下」は、「私が天皇の左腕として天下を治めるのを補佐して」と僕が訳して、左が右より上のイメージが出来上がる。
日本には、飛鳥時代(592年から710年)頃から「左上右下(さじょううげ;左が上で、右が下)」の考え方があって、古代中国の唐王朝が皇帝から見て、太陽が左の東から登って、右の西に沈むと考えて、中国から日本に伝わって、「左上位」が日本の礼法の基本で、平安時代も左大臣が右大臣よりも上だった。
しかし現在は、右利きが多くて、社長の右腕などとよく使って、世界的に右が上の例が多くて、右が左より上のイメージになるが、日本国内で左が上の伝統が守られ続けた。
稲荷山(いなりやま)鉄剣の記述の「左」は、飛鳥時代(592年から710年)以前の辛亥(かのとい)年七月(西暦471年8月頃)に「左上右下(さじょううげ)」の考え方で、『ホツマツタエ』でオシホミミ(仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)の左大臣のフツヌシ(武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と右大臣のタケミカツチ(初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)がいて、他にも左右を記して、「左上右下(さじょううげ)」の考え方がかなり古い。
『ホツマツタエ』の「左上右下(さじょううげ)」は、天皇家誕生(建国)の西暦84年以降の考え方で、どこまで遡(さかのぼ)るか研究が難しいが、古代中国でなく、日本古来の考え方と訂正すべきである。
しかし左大臣は、右大臣よりも新しく作られて、『ホツマツタエ』を完全解釈できる僕の考えが正しいなら、歴代の出雲国王が右大臣で、西暦254年に左大臣が作られて、「左上右下(さじょううげ;左が上で、右が下)」の考え方が作られた可能性が出て来た。
初代出雲国王(初代オオモノヌシ)の彦坐王(ひこいますのみこ)から7代目出雲国王(7代目オオモノヌシ)の飯入根(いいいりね)は、武家の物部(もののべ)氏だから、剣臣(つるぎとみ)の右大臣で、仲哀(ちゅうあい)天皇時代に左大臣のフツヌシ(武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と右大臣のタケミカツチ(初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)に任命したのが間違いの可能性がある。
景行(けいこう)天皇60年10月2日(西暦250年11月上旬頃)に男王(だんおう)の日本武尊(やまとたけのみこと)は、東海平定の総大将で、武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)と大伴武日(おおとものたけひ)と吉備武彦(きびたけひこ)と稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)が従軍して、日本武尊(やまとたけのみこと)の異母弟の武虎別皇子(たけこわけのみこ)が北陸平定の総大将で、彦狭島命(ひこさしまのみこと)が従軍して、それぞれが出陣した。
仲哀(ちゅうあい)天皇3年1月7日(西暦254年2月上旬頃)は、帰還してない武渟川別(たけぬなかわわけ)を左大臣で、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を右大臣に任命して、事後承諾(しょうだく)させたと考えられる。
仲哀(ちゅうあい)天皇3年1月7日(西暦254年2月上旬頃)は、東国平定の将軍たちが仲哀天皇の皇居(おそらく京都府宮津市の丹波由良宮(たんばゆらのみや)に帰還して、平定が終了した。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)に台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、出雲王国(物部(もののべ)氏)を攻撃して、義父の日本武(やまとたけ)天皇が7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を暗殺して、17日に67才の日本武(やまとたけ)天皇を殺して、10年間の日本武(やまとたけ)天皇の反乱が完全に決着した。
武渟川別(たけぬなかわわけ)は、仲哀(ちゅうあい)天皇3年1月7日(西暦254年2月上旬頃)に左大臣の任命を事後承諾(しょうだく)させて、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が右大臣でなく、他の大臣に任命したが、『ホツマツタエ』の前後関係から、左右の大臣とした可能性が高い。
『ホツマツタエ』から求めるのは、仲哀(ちゅうあい)天皇3年1月7日(西暦254年2月上旬頃)に左大臣が誕生して、右大臣の誕生が日本の建国(天皇家誕生)の崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)を任命したか、彦坐王(ひこいますのみこ)が初代出雲国王になって任命されたかで、その2つのどちらかで間違いないと考えられる。
『ホツマツタエ』は、左大臣の羽臣(はねのおみ)のフトタマ(武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)が左大臣を鏡臣(かがみおみ;別名を八咫臣(やたおみ)のアマノコヤネに譲渡して、子供のオシクモと孫のアメタネコと曾孫のウサマロに継いで、子孫のオオカシマも任命されて、平安時代の藤原氏の先祖だが、全員が誰を神格化や祖先化したか不明で、僕でも求められない。
アマノコヤネ(誰を神格化したか不明)は、ツハヤムスビ(稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)の曾孫で、摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に2才弱のニニキネ(誉田別尊(ほむだわけのみこと);即位しない応神(おうじん)天皇)を立太子(りったいし;皇太子になること)して、三種の神器と共にニニキネとアマノコヤネが日向(ひうが;宮崎県)に天孫降臨した。
稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)は、景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)の次男で、景行(けいこう)天皇19年(209年)までに生まれて、曾孫のアマノコヤネ(誰を神格化したか不明)が摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に宮崎県に旅立って、年齢の計算がおかしくない。
このページと『藤原氏の系図』の章は、系図の混乱が見られて、兵主神(つわものぬしのかみ)が別名を津速産霊(つはやむすび;稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)で、天児屋命(あまのこやねのみこと;誰を神格化したか不明)が孫か曾孫として、そもそも『ホツマツタエ』の間違いでなく、他の歴史書の記述が間違ったと考えられて、詳細な研究・分析が必要である。
『ホツマツタエ』は、ツハモノヌシとツハヤムスビ(稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)が同一神で、その子供(誰を神格化したか不明)の神名が分からなくて、孫のココトムスビとイチヂ(誰を神格化したか不明)が同一神で、曾孫がアマノコヤネ(誰を神格化したか不明)で、これが正しい系図と考えられる。
興台産霊(こごとむすび;誰を神格化したか不明)は、市千魂命(いちぢたまのみこと)と同一神で、天児屋命(あまのこやねのみこと;誰を神格化したか不明)の父親で間違いなくて、日本神話を完全解釈できる僕なら簡単に分かる。
神統譜(しんとうふ;日本神話の神々の戸籍簿)と皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)は、日本神話と邪馬台国(大和国;やまとこく)論争と倭(わ)の五王を完全解釈できる人類史上ただ一人の超天才の僕が一番理解して、誰にもその座を譲(ゆず)らない。
『ホツマツタエ』の奈良県のアスカノミヤ(飛鳥宮)は、2代目ホノアカリ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)から始まる出雲王国(物部(もののべ)氏)で、出雲王国の歴代オオモノヌシが右大臣で、実弟の崇神(すじん)天皇から始まる奈良県の古代天皇家との2朝廷並列時代を例(たと)えるが、古代天皇家が政治で、出雲王国(物部(もののべ)氏)が古代天皇家の属国で、古代太陽神の祭祀(さいし)を担当したと考えられて、『ホツマツタエ』の記述の精度が超高レベルと認識した。
右大臣の初代オオモノヌシ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、初代の崇神(すじん)天皇時代に右大臣になって、フツヌシ(武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)が仲哀(ちゅうあい)天皇3年1月7日(西暦254年2月上旬頃)に左大臣の任命を事後承諾(しょうだく)させて、フツヌシから摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)以降にアマノコヤネ(誰を神格化したか不明)が左大臣を継いで、直系子孫に左大臣を継いだと考えられる。
『ホツマツタエ』は、6世紀から7世紀にできた日本最古の書物だが、漢字以前でなく、以後の古代文字のホツマ文字が言霊(ことだま;言葉の霊魂)の超知識の集合体で、日本神話と邪馬台国(大和国;やまとこく)時代を含む古代天皇家の歴史が超高レベルな知識を駆使して、『日本書紀』と『古事記』と比較できない天上の書物と思えるほど、超天才の僕を驚愕(きょうがく)させる。
稲荷山(いなりやま)鉄剣は、非常に興味深い発見で、多くの文字が教えた事実が僕の自論を強化して、後世の希望の光になって、ずっと前に下地を記して、全体を2024年6月17日の午前7時頃に記して、アスカノミヤ(飛鳥宮)の2代目ホノアカリ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と出雲王国の右大臣の歴代オオモノヌシと左大臣の藤原氏の祖先神を2024年7月19日の午後6時半頃に記し終えた。
<参考文献>
インターネットの不明サイトから少々拝借
戻る