古代日本人の入(い)れ墨(ずみ)

古代日本人の入れ墨は、縄文時代から弥生時代に存在したと考えられて、考古学的証拠と歴史書の記述に見られる。
縄文時代の土偶には入れ墨らしきものが彫られたものがあって、入れ墨が存在したのでないかと考えられる。
邪馬台国(やまとこく;大和国)時代には『後漢書』と『魏志倭人伝』の記述から、北九州の農民の間で入れ墨が存在したと考えられて、古代天皇家に仕える古代豪族たちが入れ墨をほどこしたか疑問が浮かぶ。
『後漢書』に「男子皆黥面文身、以其文左右大小、別尊卑之差」と記されて、「男子は皆が顔や体に入れ墨をして、その文(入れ墨)の左右や大小で、身分の上下を区別する」と訳せる。
『魏志倭人伝』に「男子無大小、皆黥面文身…今倭水人、好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾、諸国文身各異、或左或右或大或小、尊卑有差」と記す。
これを訳すと、「男子は大小の区別なく、皆が顔や体に入れ墨をする…今の日本の水に潜(もぐ)る人が好んで潜って魚やハマグリを捕まえて、体の入れ墨で大魚や水鳥の危害をふせいで、後に入れ墨が飾りになった。諸国の入れ墨がおのおの異なって、あるいは左や右や大きく小さく、身分の上下で差がある」となる。
『魏志倭人伝』に「諸国の入れ墨がおのおの異なって」と記すが、『後漢書』も『魏志倭人伝』も北九州の農民を指して、諸国の農民が入れ墨をすると解釈したら、古代豪族が入れ墨をしたのか疑問視することになる。
古代豪族にも農民にも身分の差があるなら、『後漢書』も『三国志・魏志倭人伝』も一般人を対象とした記述と考えられて、古代豪族を指すべきか疑問である。
弥生時代に確かな入れ墨が存在した記述はあるが、古代豪族か農民のどちらを指すべきか疑問で、邪馬台国(古代天皇家)時代の入れ墨が誰にほどこされたのか分からない。

『古事記』の神武(じんむ)天皇から伊須気余理比売(いけすけよりひめ)への求婚の使者として来た大久米命(おおくめのみこと)は、黥利目(さけるとめ;目の周囲にほどこされた入れ墨)をしていて、それを見た伊須気余理比売が驚いた記述がある。
神武天皇は実在の初代の崇神(すじん)天皇と5代目の仁徳(にんとく)天皇を祖先化していて、邪馬台国時代に入れ墨が存在したが、近畿地方に入れ墨が存在しなかった根拠になるかもしれない。
しかし古墳時代に顔に入れ墨と思われる線が刻まれた人物の埴輪(はにわ)が近畿地方から出土して、出土地域によって図案の違いが類型化された可能性もあって、入れ墨が存在したかどうかよく分からない。
『日本書紀』の履中(りちゅう)天皇元年4月と雄略(ゆうりゃく)天皇10年10月の記述は入れ墨の記述が出てきて、4世紀から5世紀の国内で入れ墨が行なわれていた根拠になるかもしれないが、入れ墨の記述自体が少なくて根拠として足りないかもしれない。
入れ墨は、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代に九州北部で一般的で、近畿地方などや東日本などで一般的か不明で、古墳時代の埴輪(はにわ)を例にして、入れ墨が全国各地にあったのが確かだろう。

「記紀」が編纂(へんさん)されて、辺境の民族が慣習で、入れ墨をして、奈良時代頃に刑罰で、入れ墨をするようになって、時代が変わって、入れ墨の衰退や復活を繰り返して、入れ墨の文化が生まれた。
縄文時代から古墳時代までは、一般的な文化か分からないが、入れ墨が存在して、日本人の心の表れだったと言える。

<参考文献>
『新訂魏志倭人伝他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・著者 株式会社岩波書店・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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