伊勢神宮


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

伊勢神宮は昔から太陽神を祭って、古代に男性のアマテルカミ(天照神)で後世に女性の天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭神として、太陽神として卑弥呼の倭姫命(やまとひめのみこと)と台与の神功(じんぐう)皇后を神格化しているのが間違いない。
『ホツマツタエ』と「記紀」と『倭姫命世記』などの歴史書を見ると、現在の伊勢神宮より前の元伊勢が存在したことが記されて、元伊勢と現在の伊勢神宮の歴史をたどっていこうと思う。

『ホツマツタエ』の伊勢神宮の記述を青字で記す。

崇神(すじん)天皇4年10月23日(西暦87年11月下旬頃)に詔(みことのり;天皇の述べた言葉)があり、「アマテルカミ(天照神)を笠縫邑(かさぬいのむら)に皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祭らせ、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を山辺里(やまのべのさと)に皇女の渟名城姫命(ぬなきひめのみこと)に祭らせる」と。
三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)を新しく造って、三種の神器を皇位継承の神宝(かんだから)にすることにした。
崇神天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)の夜に倭大国魂神を山辺里に遷宮して八重垣剣を奉納して、翌日の夜にアマテルカミを笠縫邑に遷宮して八咫鏡を奉納した。


これが日本最古の神社を作る勅命(ちょくめい)で、最古の元伊勢である笠縫邑の所在地が不明で、山辺里が倭大国魂神を祭る奈良県天理市新泉町にある大和(おおやまと)神社に当たる。
インターネット検索すると笠縫邑の比定地が幾つか出てくるが、全て後世の作られたもので何の根拠もなく、日本最古の神社は場所の分かっている大和神社で、他の日本最古の神社と語るのが嘘であって、アインシュタイン博士以上の天才の僕を甘く見ないでほしい。
『ホツマツタエ』によると崇神天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)に第2の元伊勢として京都府北部に遷宮したと記されて、日本最古の神社の創建が崇神天皇時代だと証明している。
崇神天皇時代の古代天皇家が実在した人物を神格化して八百万(やおよろず)の神々としたか不明で、『ホツマツタエ』成立の西暦330年代以降に神格化したのか、それとも崇神天皇時代から少しずつ神格化していったのか全く何の証拠もなく分からないが、アマテルカミは別格で崇神天皇時代からの太陽神だったのでないかと考えられる。
アマテルカミは世界中の太陽神や光の神様と同じ男性で、古代天皇家が皇族を神格化することがなくても元からあがめていた太陽神と考えるべきだろう。
第2の元伊勢の京都府北部は飛ばす。

アマテルカミの斎王(さいおう;伊勢神宮で太陽神に仕える未婚の皇女)の豊鍬入姫命は、丹国(たには;古代の京都府北中部)の与謝(よさ)から筱幡宮(ささはたのみや;奈良県宇陀市榛原町)に帰った。
そこでまた神託を受けてアマテルカミの形見を持って、近江(おうみ;滋賀県)から美濃(みの;岐阜県南部)を巡って伊勢の飯野(三重県飯南郡)に至り、高日の小川に御鈴をとどめた。


『倭姫命世記』に佐々波多宮(ささはたのみや)が記されて、奈良県宇陀市の篠畑(ささはた)神社に当たり、滋賀県が『倭姫命世記』から甲賀日雲宮(こうがのひぐものみや)か坂田宮(さかたのみや)か分からなくて、岐阜県が『倭姫命世記』から伊久良河宮(いくらがわのみや)と分かるが、滋賀県と岐阜県の元伊勢の候補地が多すぎてどこか分からず、飯野が『倭姫命世記』の飯野高宮(いいののたかみや)とすべきか分からない。
『ホツマツタエ』に記される元伊勢が正しいと考えられて、もっと後世に記された『倭姫命世記』によるとその後20ヶ所ほど遷宮したと記されるが追加されたものが多いと考えられて、『倭姫命世記』の弥和乃御室嶺上宮(みわのみむろみねうえのみや)が三輪山(みわやま)山頂の宮を指して、三輪山の祭神・大物主神(おおものぬしのかみ)をアマテルカミと同一神とする根拠である。
『倭姫命世記』の吉備(きび;古代の岡山県と広島県東部)国の名方浜宮(なかたはまのみや)は、崇神天皇時代の元伊勢とされるが、吉備を平定したのが垂仁(すいにん)天皇の皇子の祖別命(みおやわけのみこと)で、吉備国の名方浜宮の記述が確実な間違いとなって、『倭姫命世記』の記述に間違いが多いことを証明できる。

垂仁(すいにん)天皇25年2月8日(西暦176年3月上旬頃)に家臣に詔があり、「我が父親の崇神天皇は聡明(そうめい)で、天皇家の道理をよくご存じだった。政治のあやまりを正して、神の前に謙遜(けんそん)してあがめ献身された。ゆえに穀物も豊穣となり、国民も豊かににぎわった。今わが世にもこれをおこたらず、父親のように神を祭ろうと思う」と。

詔した家臣は、大鹿島(おおかしま)と物部十市根(もののべのといちね)が垂仁天皇時代の人物で、彦国葺(ひこくにふく)が西暦146年頃に孫の潮乗津彦(しおのりつひこ)がいるからこの時代の人物と考えにくく、武渟川別(たけぬなかわわけ)と大伴武日(おおとものたけひ)が西暦250年頃の人物たから間違いで、『ホツマツタエ』に記される人名に混乱が見られると考えられる。
垂仁天皇が父親の崇神天皇を見習って、伊勢神宮を遷宮しようとして太陽神を安定して祭ろうと考えたのは確かだろう。

垂仁天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)にアマテルカミ(天照神)の御霊(みたま)を103歳の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)から離して、幼少の倭姫命(やまとひめのみこと)に付けて、倭姫命が念願だった大内(おうち)の大巫女(おみこ;正式な斎王)となった。
倭姫命は八咫鏡(やたのかがみ)の入った御霊笥(みたまげ)をかついで高宮(たかみや)を出て、飯野(いいの)から磯部(いそべ;三重県志摩市の伊雑(いさわ)宮)に遷宮されて、御霊を鎮められてもっと良い宮所があると神託を得て、若子(わかご)を派遣して五十鈴川(いすずがわ)に至った。
そこには208万歳になる猿田彦(さるたひこ)がおられて若子に、「私は昔、アマテルカミからの賜わり物を精奇城宇治(さごくしろうぢ)の宮居(みやい;現在の三重県伊勢市宇治館町の伊勢神宮内宮)に納め奉(たてまつ)り、アマテルカミの荒御魂(あらみたま)を奉斎して8万年間も神宝(かんだから)を授ける者を待った。皇位継承の逆矛木(さかほこぎ)、美しき鈴、時を待ってそれを授け、神の道を現せよと思っていたが、なかなかそれにふさわしい者が現れなかった」と言って若子に神宝を授けられた。


『倭姫命世紀』によると、元伊勢の飯野の高宮から磯部(伊雑宮)に遷宮する時期が『ホツマツタエ』と異なり、その間に他の元伊勢が入ってきて伝承に食い違いが見られて、僕は『ホツマツタエ』の方を最優先させてもらう。
つまり『倭姫命世記』に記される元伊勢の20ヶ所余りというのが間違いで、『ホツマツタエ』の記述にある元伊勢の数が正しいと考えられる。
若子を派遣して五十鈴川に至ったのは現在の伊勢神宮内宮の地であって、伊勢神宮内宮の横に流れるのが五十鈴川である。
精奇城宇治の「宇治」が現在の伊勢神宮内宮の地名の三重県伊勢市宇治館町を差すと考えられる。
208万歳の猿田彦は天孫降臨神話で天鈿女命(あめのうずめのみこと)と出会って結婚した道案内の神様で、天孫降臨神話が西暦261年頃のことだから西暦176年との年代差から2人の人物を神格化していると考えられて、天孫降臨神話の猿田彦が九州の地形に詳しい古代大和朝廷の人間を神格化していると考えられる。
古代の男性の太陽神アマテルカミを祭った現在の伊勢神宮内宮は、時代が変わって「記紀」成立頃に女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)に変化しても、三種の神器の一つの八咫鏡を納める場所として変わらなかった。
猿田彦の持つ神宝の逆矛木とは、三種の神器の一つである逆矛(さかほこ)こと八重垣剣(やえがきのつるぎ)を模した木と考えられて、伊勢神宮正殿の下に立てられる心(しん)の御柱(みはしら)と考えられる。

長田(ながた)生まれの猿田彦は「我が元宮に帰られよ。この神宝を持ち帰り、そのむね倭姫命に告げよ」と言って去って行かれて、若子が倭姫命にことの始終を報告すると、倭姫命が宇治に至って辺りをご覧になり、「この神風の伊勢の宮居こそ、三種の神宝を祭る源である」と敬意を新たにされた。
猿田彦は若子に倭姫命の所に戻って、神宝を届けて新しい伊勢神宮の地に来ることを告げたのである。
大幡主(おおはたぬし;若子)と八十伴男(やそとものお)をして、五十鈴川原の茅草(かやくさ)を刈らせ、遠近(おちこち)の山々の木を切らせて、上下を逆さにして、真ん中の良い所を使って大宮柱(おおみやばしら)を敷き建て、千木(ちぎ)を空高く据え付けて宮を建てた。
そのむねを垂仁天皇に申し上げると詔があり、大鹿島をもって斎主(いわいぬし)として、度会臣(わたらいとみ)を神主、武渟川別を垂仁天皇の代理、彦国葺を皇后の代理、物部十市根を皇太后の代理、大伴武日を足彦(たるひこ;後の景行(けいこう)天皇)の代理として詣(もう)で、垂仁天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)にアマテルカミの御霊を五十鈴川辺の精奇城宇治の宮居に遷宮した。


これが現在の伊勢皇大神宮内宮への最終遷宮で、『ホツマツタエ』なら不明で『倭姫命世記』なら20ヶ所以上の伊勢神宮の遷宮が記されて、『ホツマツタエ』より『倭姫命世記』が後世の書物で誤伝承が含まれて、『ホツマツタエ』が間違いなく正しいと僕は信じる。
武渟川別と彦国葺と大伴武日の3名は、垂仁天皇時代の人物でない可能性が高く、大鹿島と物部十市根と度会臣が正しいと考えられる。

9月17日(10月中旬頃)の夜、御丈柱(みたけばしら;心の御柱か?)を納めて、垂仁天皇は御親(みおや)ら伊勢にて、五穀豊穣をお祈りになると、雨風も順調となり、垂仁天皇が国民も豊かになれと政治を休み、伏して願い敬い申し上げられた。
この垂仁天皇のあつい恵みにアマテルカミも喜び神託を下されて、「昔に私が住んだ精奇城(さごくしろ)の重浪(しきなみ)寄せる伊勢の宮居を長く鎮め守れよ。我もトヨケともろ共に守護するだろう」と。
垂仁天皇はおそれ多きお言葉に心より喜び、和幣(にぎて)を献じトホカミエヒタメ8神を大御気持(おおみけもち;野見宿禰(のみのすくね)の息子か?)としてトヨケの御霊を遷宮して、また祝人を丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)とした。


アマテルカミの神託がトヨケを近くで祭れというもので、男性の神様で5代目タカミムスビでもあるトヨケは、現在の伊勢神宮外宮に祭られる女神の豊受大神(とようけおおかみ)に変化しているが、5代目タカミムスビが彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化しているはずだから、トヨケが古代太陽神でないかとも考えられる。
『日本書紀』で伊勢神宮外宮に豊受大神が祭られたのは雄略(ゆうりゃく)天皇時代とするが間違いで、年代が記されていないが垂仁天皇時代で、1800年以上前の邪馬台国時代の遷宮に当たる。
祝人を丹波道主王としたとあるが、西暦93年から94年に丹波平定をした人物とされるから、この年代まで生きていた人物かあやしい。

倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の神託の教えが、「アマテルカミは子孫繁栄を願い、伊勢国で伊勢の道(結婚の心得)を説きて、諸民を活かし恵む。ゆえに八民(やたみ)の八をもって鰹木(かつおぎ)を八本とし、千木の内を削(そ)ぎ内宮とする。内を削ぐは軽く優しい神恵みにより、八民を豊かにするためである。またトヨケの社(やしろ)は、逆矛の法をもって天の九星(こほし)、すなわち天御祖(あめみおや)とトホカミエヒタメ8神の計九柱を表わす鰹木九本とし、千木の外を削ぐ。ゆえに外宮(とみや)と讃(たた)え、内にあつい恵みを、外に尊厳なる神威をもって治める。民の父として恐れかしこみ、神の道を得よ。内宮は、天皇や人の母が、民や子を慈しみ育てる神徳をいただく」と。

男性の古代太陽神の倭大国魂神の教えは、伊勢神宮内宮が子孫繁栄を願って国民を守り、伊勢神宮外宮が内宮を支え守っていると考えられる。
伊勢神宮内宮の鰹木八本と伊勢神宮外宮の鰹木九本が、現在だと伊勢神宮内宮の鰹木十本と伊勢神宮外宮の鰹木九本で、内宮だけ伝えていたのが変化したと見られる。
天御祖が天空にいる天皇家の祖先神のことで、トホカミエヒタメ8神が地球八方の8つの国を治める8人の神様のことであるが、誰を神格化しているか分からない。
伊勢神宮の最終遷宮は僕らが知るよりはるかに古い時代の出来事で、多くの人間が関係した一大行事で、今からだと予想できないほど大変なことだったと考えられる。

『ホツマツタエ』にこれ以降で滝原宮と伊勢市の磯神社が記されているが、これを元伊勢とすべきなのか分からない。
伊勢神宮の最終遷宮は垂仁天皇26年(西暦177年)で、6年後の2027年に伊勢神宮の最終遷宮から1850年を迎えることになって、伊勢神宮に1900年以上の歴史があることを『ホツマツタエ』が証明している。
6年後に伊勢神宮の最終遷宮から1850年を迎えるに当たって、伊勢神宮最終遷宮年代特定記念大祭を皇室の名の下に行なって、国際的に大々的に宣伝して行うのは間違っているだろうか?
伊勢神宮や元伊勢の歴史を正式に求める学問を作って、「伊勢神宮学」と名付けて略称「伊勢学」をシロウトから専門家まで参加する国際的な組織が出来上がれば素晴らしいと思う。
アインシュタイン博士以上の天才の僕は1300年に一度の天才で、この僕にかかれば古代天皇家の歴史をひもとくなど簡単で、現在の伊勢神宮の内宮と外宮の史実を求めてしまった。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
インターネット

戻る