伊勢神宮

伊勢神宮内宮(ないぐう)は、女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭って、外宮が天照大神(あまてらすおおみかみ)の食事を受け持つ女神の豊受姫神(とようけひめのかみ)を祭って、それが正しい認識と思う人が多い。
伊勢神宮内宮(ないぐう)は、現在の場所に遷宮される前に幾つか場所を転々として、元々の伊勢神宮を意味して元伊勢と読んで、古代から連綿と祭り続けて、伊勢神宮の歴史をたどろうと思う。

元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら)
元伊勢は、内宮(ないぐう)と直訳しないが、伊勢神宮内宮を意味すると考えられる。
崇神(すじん)天皇4年後半(西暦87年7月以降)から何らかの疫病が流行(はや)って、古代太陽神3神(天照神(あまてるかみ)と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)と初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の3神)を祭って神頼(かみだの)みした。

崇神(すじん)天皇4年10月23日(西暦87年11月下旬頃)に詔(みことのり;天皇の述べた言葉)があった。
「御祖(みおや;先祖)より伝え授(さず)かった三種の神器は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)を神璽(かんをして)に付けて、天照神(あまてるかみ)を八咫鏡(やたのかがみ)に付けて、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を八重垣剣(やえがきのつるぎ)に付けて、常に祭って宮中に安置して、我が身と神々との境(さかい)もないほど身近にあった。
三種の神器と共に暮らしたが、この頃はその神々の神威が偉大なのを畏(おそ)れ多く思って、心が休まらなくなった。
天照神(あまてるかみ)は、笠縫邑(かさぬいのむら)で豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祭らせて、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を山辺里(やまのべのさと)で渟名城姫命(ぬなきひめのみこと)に祭らせることにする。
石凝姥命(いしこりどめのみこと)の孫は神鏡で、天目一箇神(あまめひとつのかみ)の孫が神剣を新しく造って、天照神(あまてるかみ)が著(あら)わした神璽(かんをして)の文(ふみ)と共にこの三種を皇位継承の神宝にしようと思う」と。

国常立尊(くにのとこたちのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)は、神璽(かんをして)の八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)で、天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を八咫鏡(やたのかがみ)で、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を八重垣剣(やえがきのつるぎ)で、それぞれを司(つかさど)ると考えられる。
三種の神器は、その神威が強大すぎて、それぞれバラバラの宮中に安置することにして、これが政教(政治と神道)分離の考え方の始まりで、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)をまだ神器に加えず、出雲王家(物部(もののべ)氏)の宮殿で保管して、八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)の二種の神器と考えられる。
神様の石凝姥命(いしこりどめのみこと)と天目一箇神(あまめひとつのかみ)は、八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)を作る一族の祖先神だが、名前が登場しただけで、誰を神格化したか不明である。

崇神(すじん)天皇5年(西暦88年)は、疫病(えやみ)が流行して、民の半分が死んで、古代太陽神3神(天照神(あまてるかみ)と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)と初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の3神)を祭って、神頼(かみだの)みすることにいた。
崇神天皇6年(西暦89年)は、民が離散して、村を離れ出てしまって、崇神(すじん)天皇が収集しがたい疫病(えやみ)が起こった罪の許しを神様に乞(こ)い願って、2つの神社を新しく造った。
崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)の夜に倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を山辺里(やまのべのさと)の大和(おおやまと)神社に遷宮して、八重垣剣(やえがきのつるぎ)を奉納して、翌日17日の夜に天照神(あまてるかみ)を元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら;所在地不明)に遷宮して、八咫鏡(やたのかがみ)を奉納した。

崇神(すじん)天皇5年(西暦88年)は、疫病が流行して、国民の半分が病死して、奈良県と大阪府ぐらいの領土で、それ以上の領土の記述がなくて分からない。
二種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)は、新しくレプリカ(複製品)を作って、二種の神器を皇位継承の神宝にして、八重垣剣(やえがきのつるぎ)が草薙剣(くさなぎのつるぎ)と別の神剣である。
奈良県天理市の大和(おおやまと)神社は、日本最古の神社で、その翌日に最古の元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら)を祭って、笠縫邑(かさぬいのむら)が奈良県桜井市の付近に候補地が複数あって、所在地不明である。
倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)は、河内(かわち;大阪府東部)と大和と丹波(たには;古代の京都府北中部)と出雲を平定した彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化して、大国主神(おおくにぬしのかみ)や大物主神(おおものぬしのかみ)も同様の神名と考えられる。
奈良県の弥生時代後期初頭(西暦100年頃)は、伊勢神宮正殿の神明造(しんめいづくり)の建物跡を発見したら、最古の元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら)の可能性が高いが、見つかる可能性が限りなく低くて、弥生時代中期に出雲大社正殿の大社造(たいしゃづくり)を確認して、弥生時代後期初頭より後に神明造(しんめいづくり)ができたと考えられる。

天照神(あまてるかみ)は、『ホツマツタエ』の男性の古代太陽神で、女性の太陽神である天照大神(あまてらすおおみかみ)の母体で、天照大神(あまてらすおおみかみ)が古代に男性とする説が根強く、僕も大きく支持して、天照神(あまてるかみ)が古代天皇家の太陽神と考えられる。
『ホツマツタエ』成立の6世紀以降は、古代天皇家の実在した人物を神格化したのか、それとも崇神天皇時代から少しずつ神格化したのか、全く何の証拠もなく分からないが、天照神(あまてるかみ)が別格で、崇神(すじん)天皇時代からの太陽神と考えられる。
天照神(あまてるかみ)は世界中の太陽神や光の神様と同じ男性で、古代天皇家が皇族を神格化しなくても、元から崇(あが)めた太陽神と考えられる。

初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、崇神(すじん)天皇7年メ月1日(西暦90年11月上旬頃)に御神体山の三輪山(みわやま)の山頂に磐座(いわくら;石の祭壇)を祭ったと考えられる。
崇神(すじん)天皇9年3月15日(西暦92年4月中旬頃)の夜は、崇神(すじん)天皇の夢枕に神様が立たれて言って、赤と白と黄の矛を立てて、宇陀(うだ)や墨坂(すみさか)や大阪などの神々を残りなく祭って、死んだ罪人の霊が地上に留(とど)まるから祟(たた)ると言う。
崇神(すじん)天皇9年4月22日(西暦92年5月下旬頃)は、大鹿島(おおかしま;誰か不明)と初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)が魂返(たまがえ)しの秘法で、迷う罪人の霊魂を祭り上げて、これでますます世が明るさを取り戻した。

崇神(すじん)天皇9年3月15日(西暦92年4月中旬頃)の夜に崇神(すじん)天皇は、疫病の死者の霊魂を祭り上げる夢を見て、4月22日(5月下旬頃)に初代・大鹿島と初代・大田田根子の彦坐王(ひこいますのみこ)が魂返しの秘法で、何らかの疫病による死者の霊魂を祭り上げたと考えられる。
これで何らかの疫病は、流行を終わって、古代太陽神3神(天照神(あまてるかみ)と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)と初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の3神)を祭る神事が終わった。

京都府北部の元伊勢
崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に丹波(たには;古代の京都府北中部)王国は滅亡して、京都府と兵庫県の北部が統治下に入って、京都府北部から兵庫県北部が弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年頃)に小規模集落遺跡が急増して、京都府が弥生時代後期に鉄製品が急増して、淡路島に弥生時代後期の鉄製品の集落遺跡が2つあって、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が合致した。
崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)に男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)と男神(おがみ)の豊受大神(とようけおおかみ)は、京都府宮津市の元伊勢に共に祭って、詳細を「京都府北部の元伊勢」の章に任(まか)せる。
京都府福知山市大江町の元伊勢の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家である海部(あまべ)氏の先祖の大倉岐命(おおくらきのみこと)が西暦260年代から280年代頃に祭ったのが最も古い可能性で、それ以降に海部(あまべ)氏が祭ったかもしれないが、詳細を「京都府北部の元伊勢」の章に任(まか)せる。

伊勢神宮の最終遷宮
垂仁(すいにん)天皇25年2月8日(西暦176年3月上旬頃)は、武渟川別(たけぬなかわわけ)と彦国葺(ひこくにふく)と三笠臣(みかさとみ)大鹿島(おおかしま)と十市根(といちね)および武日(たけひ)に詔(みことのり;天皇の述べた言葉)した。
「我が父親の崇神(すじん)天皇は聡明(そうめい)で、天皇家の道理をよくご存じだった。政治のあやまりを正して、神の前に謙遜(けんそん)してあがめ献身された。ゆえに穀物も豊穣となり、国民も豊かににぎわった。今我が世にもこれをおこたらず、父親のように神を祭ろうと思う」と。

武渟川別(たけぬなかわわけ)は、この時代に生まれて無くて、祖母の高田媛(たかだひめ)の父である曾祖父の狭穂彦王(さほひこ)が亡くなって、その息子の野見宿禰(のみのすくね;高田媛(たかだひめ)の兄)に当たると考えられる。
彦国葺(ひこくにふく)は、彦坐王(ひこいますのみこ)の直系子孫で、物部(もののべ)氏と海部(あまべ)氏などに当たって、誰か断定できない。
三笠臣(みかさとみ)大鹿島(おおかしま)は、稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)の祖父の祖別命(みおやわけのみこと)に当たる。
十市根(といちね)は、物部十市根(もののべのといちね)で、この時代の人物だから間違いない。
武日(たけひ)は、大伴武日命(おおとものたけひのみこと)で、景行天皇60年(西暦250年)に東海平定の武将で登場して、武日(たけひ)の先祖の誰かと考えられる。

垂仁(すいにん)天皇は、父親の崇神(すじん)天皇を見習って、伊勢神宮内宮(ないぐう)を遷宮して、外宮(げぐう)も共に祭って、太陽神を安定して祭ろうと考えたのだろう。

垂仁天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に天照神(あまてるかみ)の御霊(みたま)は、102才の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)から離して、幼少の倭姫命(やまとひめのみこと)に付けて、倭姫命(やまとひめのみこと)が念願だった大内(おうち)の大巫女(おみこ;正式な斎王)となった。
倭姫命(やまとひめのみこと)は、八咫鏡(やたのかがみ)の入った御霊笥(みたまげ)をかついで高宮(たかみや)を出て、飯野(いいの)から磯部(いそべ;三重県志摩市磯部町)の伊雑宮(いざわのみや)に遷宮して御霊(みたま)を鎮めた。
するともっと良い宮所は、あると神託を得たため、若子(わかご)を派遣して、五十鈴川(いすずがわ)に至って、208万才(数え年)の猿田彦神(さるたひこのかみ)がいて、若子(わかご)に言った。
「私は昔、天照神(あまてるかみ)からの賜(たまわ)り物を精奇城宇治(さごくしろうぢ)の宮居(みやい;三重県伊勢市宇治館町の伊勢神宮内宮)に納(おさ)め奉(たてまつ)って、天照神(あまてるかみ)の荒御魂(あらみたま)を奉斎して、8万年間も神宝(かんだから)を授ける者を待った。
皇位継承の逆矛木(さかほこぎ)、美しき鈴、時を待ってそれを授けて、神の道を現せよと思っていたが、なかなかそれに相応(ふさわ)しい者が現れなかった」と言って、若子(わかご)に神宝を授けられた。

三重県志摩市磯部町の伊雑宮(いざわのみや)に遷宮時期は、『ホツマツタエ』にちゃんと記して、僕の自論の元伊勢が正しいと考えられて、若子(わかご)を派遣した伊勢神宮内宮(ないぐう)が現在の伊勢神宮内宮(ないぐう)で、横を流れるのが五十鈴川(いすずがわ)で、京都府福知山市大江町の元伊勢内宮にも五十鈴川(いすずがわ)がある。
精奇城宇治(さごくしろうぢ)の「宇治(うじ)」は、伊勢神宮内宮(ないぐう)の地名の三重県伊勢市宇治館町(うじやかたちょう)1番地を差す。
猿田彦神(さるたひこのかみ)と妻の天鈿女命(あめのうずめのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇時代の西暦170年代と天孫降臨神話の西暦263年頃に登場して、年代差から2組の夫婦を神格化したと考えられる。
伊勢神宮内宮(ないぐう)は、時代が変わっても三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)を納(おさ)めて、猿田彦の持つ神宝の逆矛木(さかほこぎ)が三種の神器の逆矛(さかほこ)を模(も)した木で、伊勢神宮正殿の下に立つ心(しん)の御柱(みはしら)と考えられる。

長田(ながた)生まれの猿田彦神(さるたひこのかみ)は、「我が元宮に帰られよ。この神宝を持ち帰って、その旨(むね)を倭姫命(やまとひめのみこと)に告げよ」と言って去って行かれた。
若子(わかご)は、倭姫命(やまとひめのみこと)にことの始終を報告すると、倭姫命(やまとひめのみこと)が宇治(うじ)に至って、辺りをご覧になって、「この神風の伊勢の宮居こそ、三種の神宝を祭る源である」と敬意を新たにされた。

猿田彦神(さるたひこのかみ)は、長田(ながた;滋賀県高島市の長田(ながた)神社か?)生まれで、若子命(わかごのみこと)が度会(わたらい)氏の大若子命(おおわかごのみこと)か乙若子命(おとわかごのみこと)の兄弟のどちらかで、倭姫命(やまとひめのみこと)に神宝を届けて、現在の伊勢神宮に遷宮することを告げた。

大幡主(おおはたぬし;若子:わかご)と八十伴男(やそとものお)は、五十鈴川原の茅草(かやくさ)を刈らせて、遠近(おちこち)の山々の木を切らせて上下を逆さにして、真ん中の良い所を使って大宮柱(おおみやばしら)を敷き建て、千木(ちぎ)を空高く据え付けて宮を建てた。
その旨(むね)は、垂仁(すいにん)天皇に申し上げると詔(みことのり)して、大鹿島(おおかしま)を斎主(いわいぬし)として、度会臣(わたらいとみ)を神主、武渟川別(たけぬなかわわけ)を垂仁(すいにん)天皇の代理、彦国葺(ひこくにふく)を皇后の代理、物部十市根(もののべのといちね)を皇太后の代理、大伴武日(おおとものたけひ)を足彦(たりひこ;後の景行(けいこう)天皇)の代理として詣(もう)でた。
垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)は、倭姫命(やまとひめのみこと)の14才の誕生日で、天照神(あまてるかみ)の御霊(みたま)を五十鈴川辺の精奇城宇治(さごくしろうぢ)の宮居に遷宮した。

垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の生誕日で、垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)の14才の誕生日が伊勢神宮の内宮(ないぐう)の最終遷宮日と合致して、誕生日と遷宮日が同日と2023年1月3日の午後2時40分頃に気付いた。
『日本書紀』の「一説に…垂仁(すいにん)天皇26年10月甲子(きのえね)の日」を伊勢神宮内宮(ないぐう)の最終遷宮日と記して、甲子(きのえね)が新しいことを始める縁起の良い干支(えと)で、『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(旧暦)が10月甲子(きのえね)の日(西暦)と合致して、西暦年月日を正しく求めるヒントの可能性があって、2024年元旦も甲子(きのえね)の日である。
旧暦の西暦177年10月甲子(きのえね)の日は、ネット検索が177年11月19日で、西暦177年8月甲子(きのえね)の日が177年9月20日で、ネット検索か『日本書紀』の日付が当てにならない可能性を指摘する。
2027年10月頃は、おそらく僕の歴史研究が認められて、コロナも収束して、伊勢神宮内宮(ないぐう)の最終遷宮日も内宮(ないぐう)判明して、皇族や各国の首脳や国民を集めて、祭りを行なうことを夢見て、僕はつづる。

垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)の夜、御丈柱(みたけばしら;心(しん)の御柱(みはしら)か?)を納(おさ)めて、垂仁(すいにん)天皇は御親(みおや)ら伊勢にて、五穀豊穣をお祈りになると、雨風も順調となって、垂仁(すいにん)天皇が国民も豊かになれと政治を休み、伏(ふ)して願い敬(うやま)い申し上げられた。
この垂仁(すいにん)天皇の篤(あつ)い恵みに天照神(あまてるかみ)も喜び神託を下されて、「昔に私が住んだ精奇城(さごくしろ)の重浪(しきなみ)寄せる伊勢の宮居を長く鎮め守れよ。我も豊受(とよけ)と諸共(もろとも)に守護するだろう」と。
垂仁(すいにん)天皇は、恐れ多いお言葉に心より喜んで、和幣(にぎて)を献じて、トホカミエヒタメ8神(誰を神格化したか不明)が大御気持(おおみけもち)をして、豊受(とよけ)の御霊を遷宮して、また祝人(はふりと;神社に奉仕する人)を丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)とした。

垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)は、伊勢神宮の内宮(ないぐう)の遷宮日で、翌日17日が伊勢神宮の外宮(げぐう)の遷宮日で、伊勢神宮の内宮の(ないぐう)と外宮(げぐう)の遷宮日が一緒でなく、違うと『ホツマツタエ』がしっかりと記す。
垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)の天照神(あまてるかみ)の神託は、豊受大神(とよけ;とようけおおかみ)を近くで祭ることで、天照神(あまてるかみ)と豊受大神(とようけおおかみ)が男神(おがみ)で、後世に女神に性別変更して、神格化した人物の特定を混乱させた。
伊勢神宮の内宮と外宮は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の遺産で、西暦177年に初めて伊勢神宮の内宮と外宮が登場して、内宮と外宮が分かれたことを意味する。
伊勢神宮外宮(げぐう)に豊受(とよけ)を祭る理由は、『ホツマツタエ』が大量に記して、「記紀」がほとんど記さず、『ホツマツタエ』の豊受大神(とよけ;とようけおおかみ)を研究する必要がある。
伊勢神宮外宮(げぐう)の遷宮は、『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』で雄略(ゆうりゃく)天皇22年7月だが、『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)が正しい。
大御気持(おおみけもち)は、大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)と美気姫(みけひめ;誰か不明)の息子で、三輪(みわ)氏の先祖で、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の誰かである。
西暦177年に丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、100才以上の年齢で、実妹の御井津比売(みいつひめ)が崇神(すじん)天皇元年2月16日(西暦84年3月中旬頃)に10才で皇后になって、そこから年齢を計算できる。

倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の神託の教えは、「天照神(あまてるかみ)が子孫繁栄(はんえい)を願って、伊勢国で伊勢の道(結婚の心得)を説(と)いて、諸民を活(い)かし恵む。
ゆえに八民(やたみ)の八をもって、鰹木(かつおぎ)を八本として、千木(ちぎ)の内を削(そ)ぎ内宮(うちみや)とする。内を削ぐは軽く優しい神恵みによって、八民を豊かにするためである。
またトヨケの社(やしろ)は、逆矛(さかほこ)の法をもって天の九星(こほし)、すなわち天御祖(あめみおや)とトホカミエヒタメ8神の計九柱を表わす鰹木(かつおぎ)九本とし、千木(ちぎ)の外を削(そ)ぐ。
ゆえに外宮(とみや)と讃(たた)えて、内にあつい恵みを、外に尊厳なる神威をもって治める。民の父として恐れかしこみ、神の道を得よ。内宮は天皇や人の母が民や子を慈しみ育てる神徳をいただく」と。

『ホツマツタエ』で伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)は、内宮(うちみや)と外宮(とみや)と呼んで、内側と外側の区別と考えられる。
古代太陽神の倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の教えは、伊勢神宮内宮(ないぐう)が子孫繁栄(はんえい)を願って、結婚の心得を説(と)いて、国民を守って、伊勢神宮外宮(げぐう)が内宮(ないぐう)を支え守ると考えられる。
伊勢神宮内宮(ないぐう)の鰹木(かつおぎ)八本と伊勢神宮外宮(げぐう)の鰹木(かつおぎ)九本は、現在の伊勢神宮内宮(ないぐう)が鰹木(かつおぎ)十本で、伊勢神宮外宮(げぐう)が鰹木(かつおぎ)九本で、内宮が変化したと考えられる。
天御祖(あめみおや)は、天空にいる天皇家の祖先神のことで、トホカミエヒタメ8神が地球八方の8つの国を治める8人の神様だが、誰を神格化したか分からない。

伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)は、同時に成立してなくて、『ホツマツタエ』の京都府宮津市の元伊勢に外宮(げぐう)がなくて、初めての外宮の登場が垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)で、京都府福知山市大江町の元伊勢外宮(げぐう)の登場が3世紀後半以降である。
京都府宮津市の元伊勢は、天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と豊受大神(とようけおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を共に祭って、伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)で、初めて天照神(あまてるかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と豊受大神(とようけおおかみ;山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)を神格化)が別々に祭られた。

伊勢神宮の最終遷宮は、僕らが知るより古代の出来事で、多くの人間が関係した一大行事で、今からだと予想できないほど大変と考えられる。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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