伊勢神宮

普通の文字は黒字で、日本神話の神々と特徴などが赤字で、歴代天皇時代の全て対比した旧暦年と太陽暦の年代を緑字で記した。

伊勢神宮内宮(ないぐう)は、女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭って、外宮が天照大神(あまてらすおおみかみ)の食事を受け持つ女神の豊受姫神(とようけひめのかみ)を祭って、それが正しい認識と思う人が多い。
伊勢神宮内宮(ないぐう)は、現在の場所に遷宮される前に幾つか場所を転々として、元々の伊勢神宮を意味して元伊勢と読んで、古代から連綿と祭り続けて、伊勢神宮の歴史をたどろうと思う。

元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら)
元伊勢は、元々の伊勢神宮を意味して、伊勢神宮よりも古い元々の神社と証明するのが大切で、最初の元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら)が証明しにくい。
古代太陽神3神の祭祀(さいし)は、初代・大物主神(おおものぬしのかみ)を2代目・大物主神(おおものぬしのかみ)と合体して、僕の最初の著書で、垂仁(すいにん)天皇時代と勘違いしたが、その後に気付いて修正した。

『ホツマツタエ』の正しい分析・研究は、崇神(すじん)天皇4年後半(西暦87年7月以降)から何らかの疫病が流行(はや)って、皇居に祭る古代太陽神3神の天照神(あまてるかみ)と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)と初代・大物主神(おおものぬしのかみ)を分祀(ぶんし)して、日本最古の神社の大和(おおやまと)神社と日本最古の元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら;所在地不明)と三輪山を創建した理由である。
日本最古の神社の大和(おおやまと)神社は、『ホツマツタエ』から間違いなく正しくて、実在した初代天皇の崇神天皇(すじん)時代で、最初の神社なのを正しく解釈する必要がある。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇4年後半(紀元前94年7月以降)は、完全な間違いで、僕の自論の崇神(すじん)天皇4年後半(西暦87年7月以降)が正しい。)

『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇4年10月23日(西暦87年11月下旬頃)に詔(みことのり;天皇の述べた言葉)があった。
「御祖(みおや;先祖)より伝え授(さず)かった三種の神器は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)を神璽(かんをして)に付けて、天照神(あまてるかみ)を八咫鏡(やたのかがみ)に付けて、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を八重垣剣(やえがきのつるぎ)に付けて、常に祭って宮中に安置して、我が身と神々との境(さかい)もないほど身近にあった。三種の神器と共に暮らしたが、この頃はその神々の神威が偉大なのを畏(おそ)れ多く思って、心が休まらなくなった。天照神(あまてるかみ)は、笠縫邑(かさぬいのむら)で豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祭らせて、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を山辺里(やまのべのさと)で渟名城姫命(ぬなきひめのみこと)に祭らせることにする。石凝姥命(いしこりどめのみこと)の孫は神鏡で、天目一箇神(あまめひとつのかみ)の孫が神剣を新しく造って、天照神(あまてるかみ)が著(あら)わした神璽(かんをして)の文(ふみ)と共にこの三種を皇位継承の神宝にしようと思う」と。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇4年10月23日(紀元前94年11月下旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇4年10月23日(西暦87年11月下旬頃)が正しい。)

天照神(あまてるかみ)は、元々独立した日本神話の神様で、初めて祭った時に実在の人物を神格化せず、後世に太陽神の宮司の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化したと考えられる。
国常立尊(くにのとこたちのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)は、神璽(かんをして)の八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)で、天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を八咫鏡(やたのかがみ)で、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を八重垣剣(やえがきのつるぎ)で、それぞれを司(つかさど)ると考えられる。
三種の神器は、その神威が強大すぎて、それぞれバラバラの宮中に安置することにして、これが政教(政治と神道)分離の考え方の始まりで、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)をまだ神器に加えず、出雲王家(物部(もののべ)氏)の宮殿で保管して、八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)の二種の神器と考えられる。
神様の石凝姥命(いしこりどめのみこと)と天目一箇神(あまめひとつのかみ)は、八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)を作る一族の祖先神だが、名前が登場しただけで、誰を神格化したか不明である。

『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇5年(西暦88年)は、疫病(えやみ)が流行して、民の半分が死んで、古代太陽神3神(天照神(あまてるかみ)と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)と初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の3神)を祭って、神頼(かみだの)みすることにいた。
崇神天皇5年(西暦88年)は、民が離散して、村を離れ出てしまって、崇神(すじん)天皇が収集しがたい疫病(えやみ)が起こった罪の許しを神様に乞(こ)い願って、崇神天皇6年(西暦89年)2つの神社を創建した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇5年(紀元前93年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇5年(西暦88年)が正しい。)

『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)の夜に倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を山辺里(やまのべのさと)の大和(おおやまと)神社に遷宮して、八重垣剣(やえがきのつるぎ)を奉納して、翌日17日の夜に天照神(あまてるかみ)を元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら;所在地不明)に遷宮して、八咫鏡(やたのかがみ)を奉納した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇6年(紀元前92年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇6年(西暦89年)が正しい。)

二種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)は、新しくレプリカ(複製品)を作って、二種の神器を皇位継承の神宝にした。
奈良県天理市の大和(おおやまと)神社は、日本最古の神社で、その翌日に最古の元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら)を祭って、笠縫邑(かさぬいのむら)が奈良県桜井市の付近に候補地が複数あって、所在地不明である。
倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)と天照神(あまてるかみ)は、元々独立した日本神話の神様で、初めて祭った時に実在の人物を神格化せず、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)が後世に太陽神の宮司の彦坐王(ひこいますのみこ)と狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化して、天照神(あまてるかみ)が彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化したと考えられる。
倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)は、河内(かわち;大阪府東部)と大和と丹波(たには;古代の京都府北中部)と出雲を平定した彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化して、大国主神(おおくにぬしのかみ)や大物主神(おおものぬしのかみ)も同様の神名と考えられる。
奈良県の弥生時代後期初頭(西暦100年頃)は、伊勢神宮正殿の神明造(しんめいづくり)の建物跡を発見したら、最古の元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら)の可能性が高いが、見つかる可能性が限りなく低くて、弥生時代中期に出雲大社正殿の大社造(たいしゃづくり)を確認して、弥生時代後期初頭より後に神明造(しんめいづくり)ができたと考えられる。

天照神(あまてるかみ)は、『ホツマツタエ』の男性の古代太陽神で、女性の太陽神である天照大神(あまてらすおおみかみ)の母体で、天照大神(あまてらすおおみかみ)が古代に男性とする説が根強く、僕も大きく支持して、天照神(あまてるかみ)が古代天皇家の太陽神と考えられる。
『ホツマツタエ』成立の6世紀以降は、古代天皇家の実在した人物を神格化したのか、それとも崇神天皇時代から少しずつ神格化したのか、全く何の証拠もなく分からないが、天照神(あまてるかみ)が別格で、崇神(すじん)天皇時代からの太陽神と考えられる。
天照神(あまてるかみ)は、世界中の太陽神や光の神様と同じ男性で、古代天皇家が皇族を神格化しなくても、元から崇(あが)めた太陽神と考えられる。

(ちょっと省略)『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇7年メ月1日(西暦90年11月上旬頃)に初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)は、初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の正式な斎主(さいしゅ;神事をする人)になって、磯長尾市(しながおいち)が倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の斎主(さいしゅ)となって、御神体山の三輪山(みわやま)の山頂に磐座(いわくら;石の祭壇)を祭ったと考えられる。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇7年10月1日(紀元前91年11月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇7年10月1日(西暦90年11月上旬頃)が正しい。)

大物主神(おおものぬしのかみ)は、元々独立した日本神話の神様で、後世に太陽神の宮司で、初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)から7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)までを神格化したと考えられる。
御神体山の三輪山(みわやま)と大神(おおみわ)神社は、2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)を鎮魂して、出雲王家(物部(もののべ)氏)を祭る神社でもある。
磯長尾市(しながおいち)は、倭国造(やまとくにみやつこ)と倭直(やまとのあたい)の先祖で、倭国造(やまとくにみやつこ)で海部(あまべ)氏の倭宿禰命(やまとすくねのみこと)と同族で、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の誰かと考えられるが、特定できるほど情報がない。
崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)に渟名城姫命(ぬなきひめのみこと)は、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を祭ったが、崇神(すじん)天皇7年メ月1日(西暦90年11月上旬頃)に磯長尾市(しながおいち)と交代したと考えられる。

(ちょっと省略)『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇9年3月15日(西暦92年4月中旬頃)の夜は、崇神(すじん)天皇の夢枕に神様が立たれて言って、赤と白と黄の矛を立てて、宇陀(うだ)や墨坂(すみさか)や大阪などの神々を残りなく祭って、死んだ罪人の霊が地上に留(とど)まるから祟(たた)ると言う。
崇神(すじん)天皇9年4月22日(西暦92年5月下旬頃)は、大鹿島(おおかしま;誰か不明)と初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)が魂返(たまがえ)しの秘法で、迷う罪人の霊魂を祭り上げて、これでますます世が明るさを取り戻した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇9年(紀元前89年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇9年(西暦92年)が正しい。)

崇神(すじん)天皇9年3月15日(西暦92年4月中旬頃)の夜に崇神(すじん)天皇は、疫病の死者の霊魂を祭り上げる夢を見て、4月22日(5月下旬頃)に初代・大鹿島(おおかしま;誰か不明)と初代・大田田根子(おおたたねこ)の彦坐王(ひこいますのみこ)が魂返(たまがえ)しの秘法で、何らかの疫病による死者の霊魂を祭り上げたと考えられる。
大鹿島(おおかしま;誰か不明)と初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)は、2人で登場して別人だが、大鹿島(おおかしま;誰か不明)の先祖の天種子(あめたねこ)が種子(たねこ)と記して、大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を連想して、同一人物か疑問で、大鹿島(おおかしま)が祖父の祖別命(みおやわけのみこと)と娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)と孫の稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)の先祖で、藤原氏の先祖に当たる。
藤原氏の先祖の天種子(あめたねこ)は、神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)に登場して、神武(じんむ)天皇が初代の崇神(すじん)天皇と5代目の仁徳(にんとく)天皇を祖先化して、子孫の大鹿島(おおかしま)が色々な時代に登場して、天種子(あめたねこ)が彦坐王(ひこいますのみこ)でもおかしくないが、研究・分析が必要である。

日本最古の神社と疫病は、古代天皇家の神道の母胎と政教(政治と宗教)の分離で、疫病の鎮魂が目的だった。

京都府北部の元伊勢
崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)は、巫女(みこ)の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が京都府宮津市の元伊勢真名井(まない)神社の土地を定めて、8月18日(9月中旬頃)に瑞籬(みずがき;石の祭壇)を作って、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)と男神(おがみ)の豊受大神(とようけおおかみ)を祭って、場所が判明した最古の元伊勢で、伊勢神宮内宮の最終遷宮よりも古くて、元伊勢(元々の伊勢神宮の意味)に間違いない。
京都府福知山市大江町の元伊勢の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家である海部(あまべ)氏の先祖の大倉岐命(おおくらきのみこと)が西暦260年代から280年代頃に祭ったのが最古の可能性で、それ以降に海部(あまべ)氏が祭った可能性もあって、古代太陽神氏族の海部(あまべ)氏が祭ったのが確実である。
崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)は、丹波(たには;古代の京都府北中部)平定を報告して、京都府北部から兵庫県北部が弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年頃)に小規模集落遺跡が急増して、京都府が弥生時代後期に鉄製品が急増して、淡路島に弥生時代後期の鉄製品の集落遺跡が2つあって、古代天皇家が米と鉄を権力の象徴にしたと考古学(遺跡・遺物)で証明して、説明を『京都府北部の元伊勢』の章に任(まか)せる。

その後の元伊勢
元伊勢は、元々の伊勢神宮を意味して、岡山県と広島県の元伊勢が年代的な論理矛盾から否定して、愛知県の元伊勢が創建した倭姫命(やまとひめのみこと)の年齢矛盾で否定して、参考文献の正しい解釈が大切で、否定理由を下記する。
2番目の元伊勢は、京都府宮津市で、京都府福知山市大江町の元伊勢の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)もあって、これらを省(はぶ)いて、所在地不明な元伊勢が複数の候補地があって、候補地を断定できなくて、複数の参考文献が存在して、元伊勢の遷宮年が複数あって、対比していない場合もある。

『ホツマツタエ』で初代の斎王(さいおう;太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)のトヨスキイリヒメは、元伊勢を与謝(よさ;京都府与謝(よさ)郡)から篠畑宮(ささはたのみや)に帰って、そこでまた神託を受けて、天照神(あまてるかみ)の形見(八咫鏡;やたのかがみ)を持って、近江(おうみ;滋賀県)から美濃国(みののくに;岐阜県南部)を巡って、伊勢国(三重県中部)の飯野(いいの)に至って、高日小川(たかひおがわ)に鈴をとどめた。
2代目の斎王(さいおう)のヤマトヒメは、元伊勢を飯野(いいの)の高宮(たかみや)から出て、飯野(いいの)から磯部(いそべ;三重県志摩市磯部町)に遷宮した。
『ホツマツタエ』で他の元伊勢は、景行(けいこう)天皇20年2月4日(西暦210年3月上旬頃)に多気(たけ;三重県度会郡大紀町)の滝原宮(たきはらのみや)の宮居が登場するが、明確に元伊勢と記されなくて、後世に元伊勢とした可能性もある。
『ホツマツタエ』の元伊勢は、2番目の京都府宮津市から奈良県宇陀(うだ)市の篠畑宮(ささはたのみや)が複数の候補地、滋賀県の甲賀(こうが)市か湖南(こなん)市の甲賀日雲宮(こうがひぐものみや;所在地不明)と滋賀県米原(よねはら)市の坂田宮(さかたのみや)の坂田神明宮(さかたしんめいぐう)、岐阜県瑞穂市の伊久良河宮(いくらがわのみや)天神(てんじん)神社、三重県松阪市の飯野高宮(いいのたかみや)が複数の候補地と考えられる。

崇神(すじん)天皇43年(西暦126年)は、奈良県宇陀(うだ)市の篠畑宮(ささはたのみや)が先で、後の同年に奈良県桜井市の伊豆加志本宮(いつかしもとのみや)を遷宮したが、崇神(すじん)天皇64年(西暦147年)の佐々波多宮(ささはたのみや)の記録もあって、対比の検討が必要と考えられる。
『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』は、崇神(すじん)天皇43年(西暦126年)の奈良県桜井市の伊豆加志本宮(いつかしもとのみや)が複数の候補地だが、最古の元伊勢の笠縫邑(かさぬいむら;所在地不明)と同じ神社とする説もあって、どれが正しい情報か分からない。
『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』の元伊勢は、崇神(すじん)天皇54年(西暦137年)創建の吉備(きび;岡山県と広島県東部)の名方浜宮(なかたはまのみや;所在地不明)だが、吉備(きび)平定が垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)で、紀伊(きい)の名方浜宮(なかたはまのみや)の書き間違いで、正式な元伊勢が和歌山県の候補地2神社で、垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)に伊勢神宮内宮(ないぐう)を最終遷宮して、歴史学(歴史書解釈)で、岡山県と広島県の元伊勢を否定した。
崇神(すじん)天皇58年(西暦141年)の奈良県桜井市の弥和乃御室嶺上宮(みわのみむろみねうえのみや)は、三輪山(みわやま)の山頂だが、『ホツマツタエ』で崇神(すじん)天皇7年メ月1日(西暦90年11月上旬頃)に三輪山(みわやま)を祭って、『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』が間違いと考えられる。
3つの伊賀(いが;三重県北西部)の元伊勢は、崇神(すじん)天皇64年(西暦147年)の伊賀(いが)の隠市守宮(なばりいちもりのみや)が三重県名張(なばり)市に候補地が複数あって、崇神(すじん)天皇66年(西暦149年)の伊賀(いが)の穴穂宮(あなほのみや)は、三重県伊賀(いが)市に候補地が複数あって、垂仁(すいにん)天皇2年(西暦153年)の伊賀(いが)の敢都美恵宮(あえとみえのみや)が三重県伊賀(いが)市に候補地が2つあって、伊賀(いが;三重県北西部)の平定年代を証明した。

垂仁(すいにん)天皇10年(西暦161年)に創建した美濃(みの;岐阜県南部)の伊久良河宮(いくらがわのみや)天神(てんじん)神社は、岐阜県瑞穂市の元伊勢で、『ホツマツタエ』の元伊勢が…近江(おうみ;滋賀県)から美濃国(みののくに;岐阜県南部)を巡って、伊勢国(三重県中部)の飯野(いいの)に至ると記す。
『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』の元伊勢は、垂仁(すいにん)天皇10年(西暦161年)が美濃(みの)の伊久良河宮(いくらがわのみや)で、次の垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)が尾張(おわり;愛知県西部)の中嶋宮(なかじまのみや;所在地不明)で、垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)の伊勢(三重県中部)の桑名野代宮(くわなのしろのみや)で、岐阜県と愛知県と三重県の平定が西暦160年頃と考えられる。
垂仁(すいにん)天皇10年(西暦161年から165年)の美濃(みの;岐阜県南部)の統治者は、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の神大根王(かみおおねのみこ)と崇神(すじん)天皇の息子の八坂入彦命(ややさいりひこのみこと)を任命して、『ホツマツタエ』の日本神話で、沫蕩尊(あわなぎのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)が根(ね)の国(岐阜県)を統治して、平定年代が合致した。
美濃(みの;岐阜県南部)の太陽信仰は、2世紀中頃(西暦140年から160年頃)に岐阜県南部の考古学(遺跡・遺物)的に統一して、古代太陽神氏族の和珥(わに)氏の神大根王(かみおおねのみこ)が古代太陽神を祭ったと考えられて、2025年9月2日に記した。

垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)の尾張(おわり;愛知県西部)の中嶋宮(なかじまのみや;所在地不明)は、『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』で、倭姫命(やまとひめのみこと)が創建したが、『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)生まれのヤマトヒメが祭れず、西暦165年に尾張(おわり)氏が男性の古代太陽神を祭って、後世に元伊勢を語(かた)って、これ以前に尾張(おわり)平定が証明できないと考えられる。
垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)の尾張国(おわりのくに;愛知県西部)は、太陽神を祭る京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏から、分家した尾張(おわり)氏が統治して、西暦165年に尾張(おわり)氏の誰が統治したか不明で、尾張(おわり)氏が2世紀中頃に愛知県西部で、古代太陽神を祭ったと考えられて、2025年9月2日に記した。

垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)の伊勢(三重県中部)の桑名野代宮(くわなのしろのみや)は、三重県桑名(くわな)市に候補地が3つある元伊勢で、この年代に初めて伊勢を平定して、以降に元伊勢を多く伊勢に創建して、垂仁(すいにん)天皇26年9月16日と9月17日(西暦177年10月中旬頃)に伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)を最終遷宮する「きっかけ」ができたと考えられる。
垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)の鈴鹿(すずか;三重県中北部)の奈具波志忍山宮(なぐわしおしやまのみや)は、三重県亀山市に候補地が2つある。
垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)の阿野国(あのくに)は、『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』が記す元伊勢だが、どこにあったのか全く分からない謎(なぞ)である。
垂仁(すいにん)天皇14年(西暦165年)の伊勢(いせ;三重県中部)の阿佐加藤方片樋宮(あさかのふじかたかたひのみや;所在地不明)は、三重県の津市と松坂市に候補地が4つある。
垂仁(すいにん)天皇25年(西暦176年)の伊勢(いせ)の飯野高宮(いいのたかみや)は、三重県松坂市の元伊勢で、6つの候補地の神社があって、場所を断定できない。
『ホツマツタエ』の垂仁天皇25年(西暦176年)は、高宮(たかみや)から磯部(いそべ)…五十鈴川(いすずがわ)に至って、倭姫命(やまとひめのみこと)が元伊勢を飯野高宮(いいのたかみや)から、磯部(いそべ;三重県志摩市磯部町)の伊雑宮(いざわのみや)で、五十鈴宮(いすずのみや;伊勢神宮内宮)に遷宮したと解釈して、伊雑宮(いざわのみや)が伊勢神宮の別宮(べつぐう)と遙宮(とおのみや)で、非常に大切である。
垂仁(すいにん)天皇25年(西暦176年)の伊勢(いせ)の佐々牟江宮(ささむえのみや)は、三重県多気(たき)郡明和町(めいわちょう)の竹佐々夫江(たけささふえ)神社に当たる。
垂仁(すいにん)天皇25年(西暦176年)の伊勢(いせ)の伊蘇宮(いそのみや)は、僕が三重県伊勢市の磯(いそ)神社と考えて、三重県多気郡(たきぐん)多気町(たきちょう)の相鹿上(おおかがみ)神社も候補地だが、私見で省(はぶ)いた。
垂仁(すいにん)天皇25年(西暦176年)の大河之滝原之国(おおかわのたきはらのくに)は、三重県多気郡(たきぐん)大紀町(たいきちょう)の瀧原宮(たきはらのみや)で、伊勢神宮の別宮(べつぐう)で遙宮(とおのみや)でもあって、内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)に次(つ)ぐ3番目の社格だが、『ホツマツタエ』で景行(けいこう)天皇20年2月4日(西暦210年3月上旬頃)に初見して、伊勢神宮内宮以前の元伊勢(元々の伊勢神宮の意味)と100%証明できない。
垂仁(すいにん)天皇25年(西暦176年)の伊勢(いせ)の矢田宮(やだのみや)は、三重県伊勢市の口矢田ノ森(くちやだのもり)で、社(やしろ)がなくて、神宮神田(じんぐうかんだ)として、伊勢神宮に米を奉納する。
垂仁(すいにん)天皇25年(西暦176年)の伊勢(いせ)の家田々上宮(やだのたうえのみや)は、三重県伊勢市の大土御祖(おおつちみおや)神社か神宮神田(じんぐうかんだ)南の忌鍬山(ゆくわやま)山頂と考えられる。
垂仁(すいにん)天皇25年(西暦176年)の伊勢(いせ)の奈尾之根宮(なおのねのみや)は、三重県伊勢市の那自賣(なじめ)神社と考えられて、最後の元伊勢である。

その後の元伊勢は、ネット検索を中心に自分なりに解釈して、色々と考えを巡らせて、納得できる結論を作り上げた。

伊勢神宮の最終遷宮
『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇25年2月8日(西暦176年3月上旬頃)は、武渟川別(たけぬなかわわけ)と彦国葺(ひこくにふく)と三笠臣(みかさとみ)大鹿島(おおかしま)と十市根(といちね)および武日(たけひ)に詔(みことのり;天皇の述べた言葉)した。
「我が父親の崇神(すじん)天皇は聡明(そうめい)で、天皇家の道理をよくご存じだった。政治のあやまりを正して、神の前に謙遜(けんそん)して、あがめ献身された。ゆえに穀物も豊穣となり、国民も豊かににぎわった。今我が世にもこれをおこたらず、父親のように神を祭ろうと思う」と。

(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇25年2月8日(紀元前5年3月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇25年2月8日(西暦176年3月上旬頃)が正しい。)

武渟川別(たけぬなかわわけ)は、この時代に生まれて無くて、祖母の高田媛(たかだひめ)の父である曾祖父の狭穂彦王(さほひこ)が亡くなって、その息子の野見宿禰(のみのすくね;高田媛(たかだひめ)の兄)に当たると考えられる。
彦国葺(ひこくにふく)は、彦坐王(ひこいますのみこ)の直系子孫で、物部(もののべ)氏と海部(あまべ)氏などに当たって、誰か断定できなくて、三笠臣(みかさとみ)大鹿島(おおかしま)が稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)の祖父の祖別命(みおやわけのみこと)に当たる。
十市根(といちね)は、物部十市根(もののべのといちね)で、この時代の人物だから間違いなくて、武日(たけひ)が大伴武日命(おおとものたけひのみこと)で、景行天皇60年(西暦250年)に東海平定の武将で登場して、武日(たけひ)の先祖の誰かと考えられる。

垂仁(すいにん)天皇は、父親の崇神(すじん)天皇を見習って、伊勢神宮内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)を遷宮して、太陽神を安定して祭ろうと考えたのだろう。

『ホツマツタエ』垂仁天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に天照神(あまてるかみ)の御霊(みたま)は、数え年103才で、実年齢102才の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)から離して、幼少の倭姫命(やまとひめのみこと)に付けて、倭姫命(やまとひめのみこと)が念願だった大内(おうち)の大巫女(おみこ;正式な斎王(さいおう;太陽神に奉仕する未婚の皇女)となった。
倭姫命(やまとひめのみこと)は、八咫鏡(やたのかがみ)の入った御霊笥(みたまげ)をかついで、高宮(たかみや)を出て、飯野(いいの)から磯部(いそべ;三重県志摩市磯部町)の伊雑宮(いざわのみや)に遷宮して、御霊(みたま)を鎮めた。
するともっと良い宮所は、あると神託を得たため、若子(わかご)を派遣して、五十鈴川(いすずがわ)に至って、208万才(数え年)の猿田彦神(さるたひこのかみ)がいて、若子(わかご)に言った。
「私は昔、天照神(あまてるかみ)からの賜(たまわ)り物を賢釧宇治(さごくしろうぢ)の宮居(みやい;三重県伊勢市宇治館町の伊勢神宮内宮)に納(おさ)め奉(たてまつ)って、天照神(あまてるかみ)の荒御魂(あらみたま)を奉斎して、8万年間も神宝(かんだから)を授ける者を待った。皇位継承の逆矛木(さかほこぎ)、美しき鈴、時を待ってそれを授けて、神の道を現せよと思っていたが、なかなかそれに相応(ふさわ)しい者が現れなかった」と言って、若子(わかご)に神宝を授けられた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇25年3月8日(紀元前5年4月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)が正しい。)

三重県志摩市磯部町の伊雑宮(いざわのみや)の遷宮時期は、『ホツマツタエ』にちゃんと記して、僕の自論の元伊勢が正しいと考えられて、若子(わかご)を派遣した伊勢神宮内宮(ないぐう)が現在の伊勢神宮内宮(ないぐう)で、横を流れるのが五十鈴川(いすずがわ)で、京都府福知山市大江町の元伊勢内宮(ないぐう)にも五十鈴川(いすずがわ)がある。
賢釧宇治(さごくしろうぢ)の「宇治(うじ)」は、伊勢神宮内宮(ないぐう)の地名の三重県伊勢市宇治館町(うじやかたちょう)1番地を差して、天上界の高天原(たかまがはら;天津神(あまつがみ)の世界)を地上に移(うつ)した場所を「賢釧(さこくしろ)」で、その中心地を「賢釧宇治(さごくしろうぢ)」と言う。
猿田彦神(さるたひこのかみ)と妻の天鈿女命(あめのうずめのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇時代の西暦170年代と天孫降臨神話の西暦263年頃に登場して、年代差から2組の夫婦を神格化したと考えられる。
伊勢神宮内宮(ないぐう)は、時代が変わっても三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)を納(おさ)めて、猿田彦の持つ神宝の逆矛木(さかほこぎ)が三種の神器の逆矛(さかほこ)を模(も)した木で、伊勢神宮正殿の下に立つ心(しん)の御柱(みはしら)と考えられる。

『ホツマツタエ』長田(ながた)生まれの猿田彦神(さるたひこのかみ)は、「我が元宮に帰られよ。この神宝を持ち帰って、その旨(むね)を倭姫命(やまとひめのみこと)に告げよ」と言って去って行かれた。
若子(わかご)は、倭姫命(やまとひめのみこと)にことの始終を報告すると、倭姫命(やまとひめのみこと)が宇治(うじ)に至って、辺りをご覧になって、「この神風の伊勢の宮居こそ、三種の神宝を祭る源である」と敬意を新たにされた。

猿田彦神(さるたひこのかみ)は、長田(ながた;滋賀県高島市の長田(ながた)神社か?)生まれで、若子(わかご)が度会(わたらい)氏の大若子命(おおわかごのみこと)か乙若子命(おとわかごのみこと)の兄弟のどちらかで、倭姫命(やまとひめのみこと)に神宝を届けて、現在の伊勢神宮に遷宮することを告げた。

『ホツマツタエ』大幡主(おおはたぬし;若子:わかご)と八十伴男(やそとものお)は、五十鈴川原の茅草(かやくさ)を刈らせて、遠近(おちこち)の山々の木を切らせて上下を逆さにして、真ん中の良い所を使って大宮柱(おおみやばしら)を敷き建て、千木(ちぎ)を空高く据え付けて宮を建てた。
その旨(むね)は、垂仁(すいにん)天皇に申し上げると詔(みことのり)して、大鹿島(おおかしま)を斎主(いわいぬし)として、度会臣(わたらいとみ)を神主、武渟川別(たけぬなかわわけ)を垂仁(すいにん)天皇の代理、彦国葺(ひこくにふく)を皇后の代理、物部十市根(もののべのといちね)を皇太后の代理、大伴武日(おおとものたけひ)を足彦(たりひこ;後の景行(けいこう)天皇)の代理として詣(もう)でた。
垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)は、倭姫命(やまとひめのみこと)の14才の誕生日で、天照神(あまてるかみ)の御霊(みたま)を五十鈴川辺の賢釧宇治(さごくしろうぢ)の宮居に遷宮した。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(紀元前4年10月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)が正しくて、遷宮年を紀元前の創建2千年以上にしたのがヨーロッパの太陽暦を使用したからで、2年後の2027年10月頃に遷宮1850年目で、皇族を招(まね)く祭りをするため、西暦年月日の特定が急務である。
『日本書紀』の伊勢神宮内宮の遷宮日は、垂仁(すいにん)天皇26年10月甲子(きのえね)の日と記して、ネット検索で西暦177年11月19日になって、間違いの可能性が高いと考えられる。)


垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の生誕日で、垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)の14才の誕生日が伊勢神宮の内宮の最終遷宮日と合致して、誕生日と遷宮日が同日と2023年1月3日の午後2時40分頃に気付いた。
『日本書紀』の「一説に…垂仁(すいにん)天皇26年10月甲子(きのえね)の日」を伊勢神宮内宮(ないぐう)の最終遷宮日と記して、甲子(きのえね)が新しいことを始める縁起の良い干支(えと)で、『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(旧暦)が10月甲子(きのえね)の日(西暦)と合致して、西暦年月日を正しく求めるヒントの可能性があって、2024年元旦も甲子(きのえね)の日である。
旧暦の西暦177年10月甲子(きのえね)の日は、ネット検索が177年11月19日で、西暦177年8月甲子(きのえね)の日が177年9月20日で、ネット検索か『日本書紀』の日付が当てにならない可能性を指摘する。
2027年10月頃は、おそらく僕の歴史研究が認められて、コロナも収束して、伊勢神宮内宮(ないぐう)の最終遷宮日も西暦年月日が判明して、皇族や各国の首脳や国民を集めて、祭りを行なうことを夢見て、僕が生きていたら、出席したいと思う。

『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)の夜、御丈柱(みたけばしら;心(しん)の御柱(みはしら)か?)を納(おさ)めて、垂仁(すいにん)天皇は御親(みおや)ら伊勢にて、五穀豊穣をお祈りになると、雨風も順調となって、垂仁(すいにん)天皇が国民も豊かになれと政治を休み、伏(ふ)して願い敬(うやま)い申し上げられた。
この垂仁(すいにん)天皇の篤(あつ)い恵みに天照神(あまてるかみ)も喜び神託を下されて、「昔に私が住んだ賢釧(さごくしろ)の重浪(しきなみ)寄せる伊勢の宮居を長く鎮め守れよ。我も豊受(とよけ)と諸共(もろとも)に守護するだろう」と。
垂仁(すいにん)天皇は、恐れ多いお言葉に心より喜んで、和幣(にぎて)を献じて、トホカミエヒタメ8神(誰を神格化したか不明)が大御気持(おおみけもち)をして、豊受(とよけ)の御霊を遷宮して、また祝人(はふりと;神社に奉仕する人)を丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)とした。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(紀元前4年10月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)が正しい。)

『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)は、伊勢神宮の内宮の(ないぐう)の遷宮日で、翌日17日が伊勢神宮の外宮(げぐう)の遷宮日で、伊勢神宮の内宮の(ないぐう)と外宮(げぐう)の遷宮日が一緒でなく、違うと『ホツマツタエ』がしっかりと記す。
垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)の天照神(あまてるかみ)の神託は、豊受大神(とよけ;とようけおおかみ)を近くで祭ることで、天照神(あまてるかみ)と豊受大神(とようけおおかみ)が男神(おがみ)で、後世に女神に性別変更して、神格化した人物の特定を混乱させた。
伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)は、西暦177年に初めて登場して、内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)に分かれたことを意味して、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の遺産である。
伊勢神宮外宮(げぐう)に豊受大神(とようけおおかみ)を祭る理由は、『ホツマツタエ』が大量に記して、「記紀」がほとんど記さず、『ホツマツタエ』の豊受大神(とようけおおかみ)を研究する必要がある。
伊勢神宮外宮(げぐう)の遷宮は、『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』で雄略(ゆうりゃく)天皇22年7月だが、『ホツマツタエ』の垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)が正しい。
大御気持(おおみけもち)は、大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)と美気姫(みけひめ;誰か不明)の息子で、三輪(みわ)氏の先祖で、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の誰かである。
西暦177年に丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、100才以上の年齢で、実妹の御井津比売(みいつひめ)が崇神(すじん)天皇元年2月16日(西暦84年3月中旬頃)に10才で皇后になって、そこから年齢を計算できる。

倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の神託の教えは、「天照神(あまてるかみ)が子孫繁栄(はんえい)を願って、伊勢国で伊勢の道(結婚の心得)を説(と)いて、諸民を活(い)かし恵む。ゆえに八民(やたみ)の八をもって、鰹木(かつおぎ)を八本として、千木(ちぎ)の内を削(そ)ぎ内宮(うちみや)とする。内を削ぐは軽く優しい神恵みによって、八民を豊かにするためである。 またトヨケの社(やしろ)は、逆矛(さかほこ)の法をもって天の九星(こほし)、すなわち天御祖(あめみおや)とトホカミエヒタメ8神の計九柱を表わす鰹木(かつおぎ)九本とし、千木(ちぎ)の外を削(そ)ぐ。 ゆえに外宮(とみや)と讃(たた)えて、内にあつい恵みを、外に尊厳なる神威をもって治める。民の父として恐れかしこみ、神の道を得よ。内宮は天皇や人の母が民や子を慈しみ育てる神徳をいただく」と。

『ホツマツタエ』で伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)は、内宮(うちみや)と外宮(とみや)と呼んで、内側と外側の区別と考えられる。
古代太陽神の倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の教えは、伊勢神宮内宮(ないぐう)が子孫繁栄(はんえい)を願って、結婚の心得を説(と)いて、国民を守って、伊勢神宮外宮(げぐう)が内宮(ないぐう)を支え守ると考えられる。
伊勢神宮内宮(ないぐう)の鰹木(かつおぎ)八本と伊勢神宮外宮(げぐう)の鰹木(かつおぎ)九本は、現在の伊勢神宮内宮(ないぐう)が鰹木(かつおぎ)十本で、伊勢神宮外宮(げぐう)が鰹木(かつおぎ)九本で、内宮が変化したと考えられる。
天御祖(あめみおや)は、天空にいる天皇家の祖先神のことで、トホカミエヒタメ8神が地球八方の8つの国を治める8人の神様だが、誰を神格化したか分からない。

伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)は、同時に成立してなくて、『ホツマツタエ』の京都府宮津市の元伊勢に外宮(げぐう)がなくて、初めての外宮の登場が垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)で、京都府福知山市大江町の元伊勢外宮(げぐう)の登場が3世紀後半以降である。
京都府宮津市の元伊勢は、天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と豊受大神(とようけおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を共に祭って、伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)で、初めて天照神(あまてるかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と豊受大神(とようけおおかみ;山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)を神格化)が別々に祭られた。

伊勢神宮内宮(ないぐう)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;甥(おい)の日本武(やまとたけ)天皇を神格化)に殺された父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;伯母(おば)の倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)を怨霊(おんりょう;祟(たた)り怨(うら)む霊魂)として鎮魂して、皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)で、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の2神を崇拝(すうはい)する神社である。
伊勢神宮外宮(げぐう)の祭神の豊受大神(とようけおおかみ;実兄で初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと;実弟の崇神(すじん)天皇を神格化)と同一神だが、実兄と実弟を同一神に神格化して、僕以外に誰も特定できなかった。

太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)は、父方の卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化して、皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)の天照大神(あまてらすおおみかみ)が母方の台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后を神格化して、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)を神格化したのが100%間違いない。
古代太陽神の天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、子孫が父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)で、先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫の倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后の3人だけが天照(あまてる;あまてらす)の神名の太陽神に神格化された。
男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化)は、『ホツマツタエ』と「記紀」を完全解釈した超天才の僕が証明して、世界中の国々や人々の太陽(希望の光)にした。
皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)で母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、女系天皇と女性天皇と女性宮家の根拠で、今までの女系男子天皇を認める理由でもあって、初代天皇の崇神(すじん)天皇の男系男子天皇より古い神様の系譜の女系男子天皇を認めて、日本国政府も日本国民も世界中の人々も認めさせられるだろう。

古代太陽神の天照神(あまてるかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、子孫の父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)が彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖(しそ;始まりの先祖)とする古代太陽神氏族の和珥(わに)氏(物部(もののべ)氏を含む)の出身で、同じく子孫の母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が物部(もののべ)氏の出身である。
彦坐王(ひこいますのみこ)と袁祁都比売命(おけつひめのみこと)は、長男の山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)を生んで、その子孫を省略して、山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)と大筒木垂根王(おおつつきたるねのみこ)が同一人物で、超天才の僕を騙(だま)せない。
比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)と名前不明の妻は、大筒木垂根王(おおつつきたるねのみこ)を生んで、名前不明の妻との間に樺井月姫(かばいつきひめ)を生んで、垂仁(すいにん)天皇と結婚して、一人娘の倭姫命(やまとひめのみこと)を生んで、3つ子の長子と考えられて、和珥(わに)氏の出身である。
孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)と倭国香姫(やまとくにかひめ;樺井月姫(かばいつきひめ)を祖先化)は、3つ子の長子の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)を生んで、蛇神で古代太陽神の大物主神(おおものぬしのかみ)と結婚して、倭姫命(やまとひめのみこと)が太陽神に仕(つか)える巫女(みこ)である。

彦坐王(ひこいますのみこ)と沙本之大闇見戸女(さほのおおくらみとめ)は、長男の狭穂彦王(さほひこのみこ)を生んで、名前不明の妻との間に高田媛(たかだひめ)を生んで、景行(けいこう)天皇と結婚して、長男の武虎別皇子(たけこわけのみこ)を生んで、葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)との間に娘の神功(じんぐう)皇后を生んで、物部(もののべ)氏の出身で、系図を理論的に繋(つな)いで、詳細な説明を省略する。
彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)は、その息子が加邇米雷王(かにめいかずちのみこ)で、その息子が息長宿禰王(いきながすくねのみこ)で、その娘が神功(じんぐう)皇后で、山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)と狭穂彦王(さほひこのみこ)を入れ替えて、血筋を求められないように偽装工作したが、逆に僕が不信感を抱(いだ)いて特定した。
彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、垂仁(すいにん)天皇に反乱(皇位継承権争い)して、物部(もののべ)氏の安倍氏木事(あべうじのこごと)の娘である高田媛(たかだひめ)が景行(けいこう)天皇と結婚して、息子の武虎別皇子(たけこわけのみこ)を生んで、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の息長宿禰王(いきながすくねのみこ)が天日槍(あめのひぼこ)の子孫の葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)と結婚して、娘の神功(じんぐう)皇后を生むなど、系図を繋(つな)ぐ理由を省略する。
先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)は、複数の蛇体や男性の古代太陽神に神格化して、子孫の倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后が現在の女性の太陽神1神に神格化して、正史(正しい歴史)だから先祖と子孫の血筋が合致して、全てを特定した超天才の僕の神技(かみわざ)が凄(すご)すぎて、2025年6月18日の午前6時20分頃に修正した。

トヨウケ(豊受)は、彦坐王(ひこいますのみこ)だけでなく、その息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)と山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)と狭穂彦王(さほひこのみこ)、その孫の垂仁(すいにん)天皇なども神格化して、トヨウケの娘のイサナミ(伊弉冉;いざなみ)がイサナキ(伊弉諾;いざなぎ)と結婚して、ヒヨルコ(火夜子)とアマテルカミ(天照神)とツキヨミ(月読)とワカヒメ(和歌姫)を生んだ。
トヨウケ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)とトヨウケ(丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)とトヨウケ(山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)を神格化)は、親子関係で、トヨウケ(豊受;とようけ)が5代目タカミムスビ(高皇産霊尊;たかみむすびのみこと)で、高位の皇族を神格化した神様を生み出す意味で、天照大神(あまてらすおおみかみ)や月読尊(つくよみのみこと)などの高貴な神様を生み出した。
トヨウケ(豊受)は、彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)や山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)や垂仁(すいにん)天皇や物部十市根(もののべのといちね)などを神格化して、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫である古代太陽神氏族の和珥(わに)氏を神格化して、伊勢神宮外宮の主祭神が古代太陽神氏族と深く関係した。

トヨウケ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、最初にヒタカミノクニ(日高見国;ひだかみのくに:東北地方南部のどこか)を統治して、晩年(ばんねん)に山陰道(島根県を含む)からミヤヅ(京都府宮津市)に移(うつ)り住んだが、東北地方南部が子孫の武虎別皇子(たけこわけのみこ)が平定して、京都府宮津市が息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が統治して、出雲王国(物部(もののべ)氏)がもう一人の息子(異母弟)の狭穂彦王(さほひこのみこ)が統治した。
5代目タカミムスビ(高皇産霊)のトヨウケ(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子孫である7代目タカミムスビ(武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)は、西暦252年にヒタカミノクニ(日高見国;ひだかみのくに:東北地方南部のどこか)を平定して、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が合致した。
豊受大神(とようけおおかみ)は、東北地方南部と島根県東部(出雲)と京都府宮津市に深く関係して、『ホツマツタエ』が証明した物部(もののべ)氏と海部(あまべ)氏なども関連性を証明して、超天才の僕が簡単に求めた。


伊勢神宮の最終遷宮は、僕ら現代人が知るより遥(はる)かに古い時代の出来事で、多くの人間が関係した国家事業で、超天才の僕が証明した。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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