石上(いそのかみ)神宮


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

石上神宮は『日本書紀』に伊勢神宮以外で神宮と書かれた唯一の古社で、古代豪族の武家の物部(もののべ)氏が古代大和政権の武器庫としたと考えられる。

『ホツマツタエ』の石上神宮の記述を記す。

垂仁(すいにん)天皇87年が正しくは垂仁天皇27年2月5日(西暦178年3月上旬頃)で、瓊敷入彦(にしきいりひこ)が実妹の大中姫(おおなかひめ)に石上神宮の神宝を守ってほしいと言うが、大中姫がそれをこばみ、「頼りない女の身に神宝の守りなど祠(ほこら)が高く恐れ多いことです」と言って、瓊敷入彦が大中姫を物部十市根(もののべのといちね)と結婚させて、物部氏に石上神宮の神宝を守らせた。

垂仁天皇61年以降の年代が干支(えと)の年一周分60年を引き算すれば正しい年数を求められて、神武(じんむ)天皇から欠史(けっし)八代の天皇も同様である。
物部十市根は4代目出雲国王と考えられて、物部氏が石上神宮を管理した一族で皇族との血縁関係を持つことによってなおさら権力を強めたと考えられる。
『ホツマツタエ』にこれ以前の石上神宮の記述が出てこないと考えられて、石上神宮の創建時期が分からないと考えられるが、下記に僕なりの創建時期を求めてみる。

ある時に丹波国(たにはのくに;古代の京都府北中部)に甕襲(みかそ)という人物の家があり、飼い犬の足往(あしゆき)が狢(むじな)を食い殺して、その腹の中から八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)が出てきて、甕襲は八坂瓊曲玉を石上神宮に納めた。

皇位継承物の三種の神器である八坂瓊曲玉は、その出所が京都府である伝承があり、他の2つと違って天皇家と深い関係のない神宝なのかもしれない。
八坂瓊曲玉の由来について最も可能性のある解釈ができる。
垂仁天皇時代に記述があるのは八坂瓊曲玉の事件がその時代にあったからで、垂仁天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に狭穂彦王(さほひこのみこ)が反乱を起こしたことに由来するのでないだろうか?
狭穂彦王の異母兄弟で丹波の統治者の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の家臣に八綱田(やつなだ)がいて、狭穂彦王の統治する出雲王国の近くの県(あがた)にいる八綱田が狭穂彦王を殺して、古代太陽神として神格化された2代目オオモノヌシ(狭穂彦王を神格化)の神宝が八坂瓊曲玉で、その反乱の代償として狭穂彦王の息子ら物部氏が天皇家に献上して、八坂瓊曲玉が奉納される石上神宮を狭穂彦王の子孫の物部氏が代々管理したと考えられる。

垂仁天皇39年メ月(西暦190年の何月か不明)に瓊敷入彦は、皇居で千本の剣を作り、その剣を赤裸伴(あかはだとも)と名付けて、忍坂(おしさか;奈良県桜井市忍坂か?)に安置した時、倭文部(しとりべ)、楯(たて)部、大穴磯(おおあなし)部、弓矢部、泊橿(はつかし)部、玉部神(たまべかみ)、天(あま)の刑部(おさかべ)、道(ち)の部、木部(きべ)、太刀佩(たちはかせ)部の十種の部を合わせ授けられた。
瓊敷入彦は千本の剣を石上神宮に遷(うつ)されて、すると神が春日臣(かすがおみ)の市河(いちかわ)にお告げになり、石上神宮を治めるように命じられ、瓊敷入彦がそれを許されて市河を石上の司(つかさ)とされた。


西暦190年に瓊敷入彦が千本の剣を作って石上神宮に奉納されて、春日臣の市河という人物を石上神宮の役人にしたのはおそらく事実だろう。
春日(かすが)氏が天足彦国押人命(あまたりひこくにおしひとのみこと)から出た和珥(わに)氏に当たるとあり、天足彦国押人命は彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化した人物なのが明白で、彦坐王の息子の狭穂彦王の子孫が物部氏と考えられて、春日臣の市河が物部氏の出身になるだろう。
和珥氏と物部氏が同一氏族とされることがあり、春日臣の市河が物部氏の出身でもおかしくない。
瓊敷入彦と石上神宮は物部氏が管理する一族になった時代のことを示すと考えられて、石上神宮と物部氏の深いつながりが垂仁天皇時代に始まったと考えられる。

石上神宮の社伝では崇神(すじん)天皇7年に崇神天皇の勅命で、物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を石上神宮の地に納(おさ)めて祭ったのが創建の伝承である。
しかし伊香色雄命は3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)を祖先化した人物と考えられて、崇神天皇7年でなく垂仁天皇7年(西暦158年)に石上神宮が創建されたと考えられる。
石上神宮の創建は三輪山(みわやま)の祭祀が行われた垂仁天皇7年(西暦158年)と同じ年と考えられて、2代目出雲国王の狭穂彦王の反乱が終わったのをきっかけとしていると考えられる。
布都御魂剣は石上神宮の禁足地(足を踏み入れてはならない場所)から発掘された神刀とされて、布都御魂剣が埋葬されたのが垂仁天皇7年よりもっと後世と考えられる。
布都御魂剣は経津主神(ふつぬしのかみ;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の帯剣と考えられて、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)に届けた物語を神話化した話もあって、西暦330年以降に石上神宮の禁足地に埋葬されたと考えられる。
古代天皇家の歴史を完全解釈できる僕なら石上神宮の情報も簡単に求められて、アインシュタイン博士以上の天才の僕を甘く見ないことである。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
インターネット

戻る