出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊
日本武尊(やまとたけのみこと)と出雲の関係は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)と天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)と建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)と出雲振根(いずもふるね;日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)など、幾らでも証拠があって、100%否定できない。
崇神(すじん)天皇60年の出雲の平定は、崇神(すじん)天皇12年の出雲王国(物部(もののべ)氏)の建国と仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)の出雲王国の崩壊を隠して、崇神(すじん)天皇の息子の垂仁(すいにん)天皇時代に出雲大社が創建された嘘(うそ)を作った。
崇神(すじん)天皇60年の出雲の平定と垂仁(すいにん)天皇時代に出雲大社を創建した嘘(うそ)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の血筋や歴史を徹底的に隠したが、人類史上最高の天才の僕を騙(だま)せなくて、完全な出雲の歴史を再現する奇跡を起こした。
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇60年7月14日は、崇神(すじん)天皇が勅(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「武日照命(たけひてるのみこと)の宮が昔に孝霊(こうれい)天皇が献上した出雲にある『神宝文(かんだからふみ)』を見たいと思う」と。
崇神(すじん)天皇60年は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年7月14日(西暦260年8月中旬頃)で、神功(じんぐう)皇后が出雲大社に天穂日命(あめのほひのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)の息子(婿(むこ)養子)の武日照命(たけひてるのみこと;飯入根(いいいりね)を神格化)の神宝があるのを確認したい意味に受け取れる。
崇神(すじん)天皇60年と西暦260年の合致は、『ホツマツタエ』が西暦年を把握して、6世紀から7世紀のヨーロッパの情勢を把握して、古代天皇家の外交関係を舐(な)めてはならない。
これは神功(じんぐう)皇后が出雲王国の攻撃を重臣たちに命令して、作戦会議を準備し始めた招集と考えられる。
日本武(やまとたけ)天皇は、息子の仲哀(ちゅうあい)天皇を戦死させて、夫を殺された神功(じんぐう)皇后が義父の日本武(やまとたけ)天皇を殺すための仇討(あだう)ちが出雲王国の攻撃だった。
『ホツマツタエ』の出雲の国譲(くにゆず)り神話は、天照神(あまてるかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が京都府宮津市に都(みやこ)を作って、出雲に攻めたとして、京都府宮津市に国都(大和国の代わり)を置いたと可能性があるが、あくまで可能性にすぎなくて、むしろ考えすぎや邪推(じゃすい)にすぎない。
『日本書紀』神功(じんぐう)皇后時代の仲哀(ちゅうあい)天皇9年9月10日(西暦260年10月上旬頃)は、神功(じんぐう)皇后が諸国に命令して、船舶(せんぱく;大きい船)を集めて、兵士を訓練したが、時に兵士が集まりにくくて、神功(じんぐう)皇后が「これは神のお心なのだろう」と言われて、大三輪(おおみわ)の神社を建てて、刀と矛を奉納して、すると兵士が自然と集まった。
吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)は、西の海に出て、国があるかを調べて、帰って「国が見えません」と言い、また磯鹿(しか)の海人(あま)の草を派遣して見させて、何日か経過して帰って、「西北方に山があって、雲が横たわっています。きっと国があるでしょう」と言った。
そこでは吉日を占(うらな)って、出発するまで時間があって、神功(じんぐう)皇后が自(みずか)ら斧鉞(おのまさかり;刑罰の道具)を取って、三軍に命令して言われた。
「指揮をはげます鉦鼓(しょうこ)の音が乱れて、軍の旗が乱れる時には、軍卒が整わなくて、財を貪(むさぼ)って物を欲しいと思ったり、私事に未練があると、きっと敵に捕らえられるだろう。敵は少なくとも侮(あなど)ってはならず、敵が多くても挫(くじ)けてはならない。暴力で婦女を暴行するのを許さなくて、自(みずか)ら降参する者を殺してはならず、戦いに勝てば必ず賞与があって、逃げ走る者を処罰する」と言われた。
神様の教えは言われて、「和魂(にぎみたま;やさしくて平和的な魂)は、王の身を守って、荒魂(あらみたま;荒々(あらあら)しい魂)が先鋒として軍船を導くだろう」と言われて、神功(じんぐう)皇后が拝礼して、依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)を祭りの神主とした。
時はたまたま神功(じんぐう)皇后の臨月で、神功(じんぐう)皇后が石を取って腰に挟(はさ)んで、お祈りして言って、「事が終わって帰還する日にここで生まれて欲しい」と、その石が今は筑前(ちくぜん)怡土(いと)郡(福岡県糸島郡)でなく、京都府北部の伊根(いね)町の地名が正しいと考えられて、その石が伊根(いね)町の道の辺(ほとり)にある。
こうして荒魂(あらみたま)は、招(まね)き寄せて先鋒として、和魂(にぎみたま)を請(う)けて船の守りとした。
『日本書紀』神功(じんぐう)皇后時代の仲哀(ちゅうあい)天皇9年9月10日(西暦320年10月上旬頃)は、神功(じんぐう)皇后の三韓征伐(新羅(しらぎ)と高句麗(こうくり)と百済(くだら)の討伐)が嘘(うそ)で、出雲王国の崩壊の史実(歴史上の事実)と書き換えた。
刀と矛を奉納した大三輪(おおみわ)の神社は、京都府北部の大物主神(おおものぬしのかみ)を祭った神社と考えられるが、候補が多すぎて分からない。
吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)は、西暦260年頃の実在の人物で、磯鹿(しか)の海人(あま)の草が福岡市の志賀島(しかのしま)の人間でなく、磯鹿(しか)が京都府北部の地名だろうが、確答する地名が分からない。
磯鹿(しか)の海人(あま)の草は、西北方に山があって、雲が横たる国があるだろうと言って、奈良県から見て西北方向の山に雲が横たわる出雲(島根県東部)を指す。
神功(じんぐう)皇后は、出雲王国の攻撃で金品の奪取や婦女暴行などをしないように厳命して、依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)が西暦260年に生きた何らかの神様の神主で、古代豪族の依網(よさみ)氏の先祖とする説があるが、明確な証拠がない。
筑前(ちくぜん)怡土(いと)郡(福岡県糸島郡)は、三韓征伐に向かう土地だが間違いで、出雲王国の攻撃に向かうため、京都府北部の伊根(いね)町が正しいと考えられる。
『日本書紀』神功(じんぐう)皇后時代の仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月3日(西暦260年11月上旬頃)は、鰐浦(わにうら;対馬の地名)でなく、京都府北部のどこかから出発して、その時に風神が風を超して、波の神が波を上げて、海中の大魚が全て浮かんで船を助けた。
風は順風(じゅんぷう;追い風が起きて、帆が一杯にふくらむこと)が吹いて、帆船が波に送られて、舵(かじ)や楫(かい)を使わないで、朝鮮半島の新羅(しらぎ)でなく、出雲王国に着いて、その時に船を乗せた波が国の中にまで及んで、天神地祇(てんじんちぎ;あらゆる神々)が助けているらしい。
神功(じんぐう)皇后は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月3日(西暦260年11月上旬頃)に京都府北部を出発して、神無月(旧暦の10月)10日(11月上旬頃)に出雲王国(物部(もののべ)氏)に到着して、出雲王国の上層部を一掃する戦争を仕掛けて、320年の新羅(しらぎ)の討伐(三韓征伐)に物語を作り直した。
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇の使者の武諸隅(たけもろずみ)は、出雲の大宮に派遣して、神主の振根(ふりね)が筑紫(つくし;九州)に出かけて不在で、弟の飯入根(いいいりね)が宮から『神宝文(かんだからふみ)』を持ち出して、弟の甘美韓日狭(うましからひさ)と息子の盧濡渟(うかずくぬ)を添(そ)えて捧(ささ)げ渡して、振根(ふりね)が帰って来て、『神宝文(かんだからふみ)』を渡したことを聞いて、弟の飯入根(いいいりね)を責めた。
盧は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
「もう少し兄の帰りを待てば良いのに崇神(すじん)天皇の使者だからと、何を恐れることがある出雲は神の道の元で、八百万(やもよろ)の文(ふみ)を隠し置いて、後に栄えることを考えないのか? たやすく渡すとは、愚か者めが」と。
神功(じんぐう)皇后の使いの武諸隅(たけもろずみ)は、物部十市根(もののべのといちね)の兄である物部大新河(もののべのおおあらかわ)の息子(甥;おい)が物部武諸隅(もののべのたけもろずみ)で、その時代の人物で間違いない。
出雲振根(いずもふりね)は、日本武(やまとたけ)天皇で、弟の飯入根(いいいりね)が婿(むこ)養子の7代目出雲国王で、その妻が日本武尊(やまとたけのみこと)の一人娘の忍布姫(ぬのおしひめ)で、夫婦の息子の盧濡渟(うかずくぬ)で、立派な大人で皇族と考えられて、出雲王家でも皇位の人物である。
7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)は、甘美韓日狭(うましからひさ)と盧濡渟(うかずくぬ)を人質(ひとじち)に差し出して、日本武(やまとたけ)天皇が義理の息子の飯入根(いいいりね)が三種の神器を始めとする宝物を神功(じんぐう)皇后に渡したことを聞いて、飯入根(いいいりね)を責めた。
『日本書紀』神功(じんぐう)皇后時代は、新羅(しらぎ)の王が戦慄(せんりつ)して、なすべきことを知らなくて、多くの人を集めて言って、「新羅(しらぎ)の建国以来、かつて海水が国の中まで上がってきたと聞かず、天命が尽(つ)きて国が海になるのかもしれない」と、その言葉も終わらない中で、軍船が海に満ちて、旗が日に輝いて、鼓笛(こてき)の音が山川に響いた。
新羅(しらぎ)の王は、はるかに眺(なが)めて、思いの外の強兵が我が国を滅ぼそうとしたと恐れ迷って、やっと気付いて言って、「東に神の国があって、日本と言って、聖王を天皇と言って、きっとその国の神兵だろう。とても兵を挙げて戦えない」と。
白旗は上げて降伏して、白い綬(くみ;組み紐(ひも)を首にかけて、自(みずか)ら捕らわれて、地図や戸籍を封印して差し出して、そして言って、「今後は末永く服従して、馬飼(うまか)いとなって、船の使者を絶やさず、春秋に馬の手入れの刷毛(はけ)とか、鞭(むち)を奉納して、また求められなくても、男女の手で作った生産物を献上します」と。
重ねて誓って言うには、「東に昇る日が西に出るのでなかったら、また阿利那礼川(ありなれかわ;斐伊川:ひいかわ)の水が逆に流れて、河の石が天に昇って、星になることがない限り、春秋の朝貢を欠(か)けたり、馬の梳(くし)や鞭(むち)の献上をおこたると、天地の神の罰(ばつ)を受けても良い」と。
出雲王国の建国以降は、海水が国の中まで上がったと聞かなくて、領土に軍隊が押し寄せたことがないならば、倭国大乱(わこくたいらん)の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱が物部(もののべ)氏の奈良県攻めで、出雲(島根県東部)まで攻めずに軍隊が抑(おさ)えたと考えられるが、記述が正しいか分からない。
出雲国王の飯入根(いいりね)は、邪馬台国(大和国;やまとこく)の強兵が出雲王国を滅亡させようとして、地図や戸籍を差し出して、島根県の斐伊川(ひいかわ)の逆流が古代天皇家の軍隊が押し寄せたことを意味する。
『ホツマツタエ』で振根(ふりね)は、弟の飯入根(いいいりね)を逆恨(さかうら)みして、暗殺しようと心に決めて、謀略を練(ね)って、「止屋(やみや;島根県出雲市の今市町と大津町と塩谷町の付近)の玉藻(たまも)が美しいので見に行こう」と弟を誘(さそ)い出して、弟がそれに頷(うなず)いて、共に止屋(やみや)に行った。
兄は腰に差した木刀を抜き置いて水浴びをして、弟を呼んでそれに従って、腰の太刀を抜き置いて、水浴びを始めて、兄が先に上がって、弟の太刀を身に付けたので、弟がそれを見て、様子がおかしいと驚いて、上がって兄の木刀を身に付けた。
すると兄は、太刀を抜いて斬りかかって、弟の飯入根(いいいりね)が抜けない木刀を持ったまま兄に斬られて、闇の渕(ふち)に葬られてしまって、世間にこんな歌が流行した。
八雲(やくも)立つ 出雲梟帥(いずもたける)が 佩(は)ける太刀(たち) 葛沢巻(つづらさわま)き あわれ錆(さ)びなし
(八雲(やくも)立つ、出雲梟帥(いずもたける;飯入根(いいいりね)のこと)が佩(は)いている太刀は、葛(つづら)がたくさん巻きついて、哀(あわ)れにも錆(さ)びてしまったようで、抜くことができない。)
甘美韓日狭(うましからひさ)は、甥(おい)の盧濡渟(うかずくぬ)を連れ帰って、崇神(すじん)天皇に暗殺の一件を報告して、吉備彦(きびひこ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)に振根(ふりね)を討伐する命令が出されて、振根(ふりね)を討伐すると出雲の臣(おみ)が恐れて、神の祭りをしなかった。
日本武(やまとたけ)天皇は、飯入根(いいいりね)を逆恨(さかうら)みして、止屋(やみや;島根県出雲市の今市町と大津町と塩谷町の付近)に誘(さそ)い出して暗殺して、『古事記』で倭建命(やまとたけのみこと)が出雲建(いずもたける)を殺して、出雲建(いずもたける)と出雲梟帥(いずもたける)と合致して、飯入根(いいいりね)を指すのが間違いない。
日本武(やまとたけ)天皇は、飯入根(いいいりね)を暗殺した様子のたとえ話で、倭建命(やまとたけのみこと)が出雲建(いずもたける)を殺した様子とそっくりで、出雲梟帥(いずもたける;出雲の統治者)の飯入根(いいいりね)を殺して、日本武(やまとたけ)天皇が義理の娘の神功(じんぐう)皇后と完全に対立した。
人質(ひとじち)の甘美韓日狭(うましからひさ)と(おい)の盧濡渟(うかずくぬ)は、日本武(やまとたけ)天皇による飯入根(いいいりね)の暗殺の一報を受けて、神功(じんぐう)皇后に報告して、神功(じんぐう)皇后が吉備武彦(きびたけひこ)の息子か孫と武渟川別(たけぬなかわわけ)に討伐を命じて、日本武(やまとたけ)天皇が討伐されると、出雲王国の家臣たちが恐れて、神様を祭らなかった。
垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)生まれの祖別命(みおやわけのみこと)は、息子の吉備武彦(きびたけひこ)を180年代くらいにもうけて、260年に70才すぎで、息子か孫が日本武(やまとたけ)天皇の討伐を命じられたと考えられる。
景行(けいこう)天皇2年12月15日(西暦193年1月中旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)は生まれて、仲哀天皇9年10月17日(西暦260年11月中旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇が戦死して、66才だった。
垂仁(すいにん)天皇23年10月8日(11月上旬頃)に誉津別命(ほむつわけのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を祖先化)は、湯河板挙(ゆかわたな)が宇屋江(うやえ;島根県出雲市簸川(ひかわ)町神庭(かんば)宇屋谷(うやだに)の地で、鵠(くぐい;蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)を祖先化)をついに捕らえて、島根県出雲市簸川(ひかわ)町神庭(かんば)宇屋谷(うやだに)が日本武(やまとたけ)天皇の戦死した場所と考えられる。
蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)は、山城(京都府南部)で戦死して、島根県出雲市で、父の日本武尊(やまとたけのみこと)が戦死したと考えられる。
成務(せいむ)天皇60年6月11日は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月11日(西暦260年11月中旬頃)が正しくて、成務(せいむ)天皇が亡くなった日付が出雲大社の神在祭(かみありさい)の仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日に合致して、日本武(やまとたけ)天皇が仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月17日(西暦260年11月中旬頃)に戦死して、『日本書紀』が西暦年を使った根拠で、2024年6月7日の夜に日付を特定した。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、滋賀県の伊吹山(いぶきやま)で、毒蛇の息吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)に咬(か)まれて、三重県の能褒野(のぼの)で死んで、能褒野(のぼの)の古墳に葬礼して、死後に白鳥になって、2つの白鳥陵(しらとりのみささぎ)の古墳を比定して、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月4日に白鳥が黒鳥になって、白鳥陵(しらとりのみささぎ)を否定した。
日本武尊(やまとたけのみこと)陵は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月17日(西暦260年11月中旬頃)に出雲で戦死して、成務(せいむ)天皇を仲哀(ちゅうあい)天皇元年9月6日に倭(大和;やまと)の狭城盾列陵(さきたたなみのみささぎ)に葬礼したが、摂政(せっしょう)元年9月6日(西暦261年10月上旬頃)に大和(おおやまと)古墳の前方後円墳に葬礼したのが正しくて、特定が不可能と考えられる。
日本武尊(やまとたけのみこと)陵は、白鳥陵(しらとりのみささぎ)の記述から、大和と出雲に分骨した可能性があって、有史(文字の記録による歴史)で日本初の分骨と考えられる。
日本武尊(やまとたけのみこと)陵は、陵墓名が佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群の狭城盾列陵(さきたたなみのみささぎ)も能褒野(のぼの)の古墳も2つの白鳥陵(しらとりのみささぎ)の古墳も否定して、正しい陵墓名が分からないと考えられる。
『日本書紀』ある人は、新羅(しらぎ)の王を殺そうと言う者もいたが、神功(じんぐう)皇后が言われて、「神の教えによって金銀の国を授(さず)かろうとしている。降伏を申し出ている者を殺してはならない」と、その縛(なわ)を解(と)いて馬飼(うまか)いとされて、その国の中に入って、重宝の倉を封じて、地図や戸籍を没収した。
神功(じんぐう)皇后が持っておられた矛は、新羅(しらぎ)王の門に立て、後世への印とされて、その矛は今も新羅(しらぎ)王の門に立っている。
新羅(しらぎ)の王の波沙寝錦(はさむきん)は、微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質として、金・銀・彩色・綾(あや)・羅(うすはた)・兼絹(かとりきぬ)を沢山の船に乗せて軍船に従わせて、それゆえに新羅(しらぎ)王が常に沢山の船で、貢(みつぎ)を日本に送っている。
兼は「糸へん」に兼の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
高麗(こうらい;高句麗:こうくり)と百済(くだら)の2国の王は、新羅(しらぎ)が地図や戸籍も差し出して、日本に降(くだ)ったと聞いて、その勢力をうかがってとても勝つことができないと知って、陣の外に出て頭を下げて、「今後は永(なが)く西潘(せいはん;西の未開の国)と称して、朝貢を絶(た)やさない」と言って、それで内官家屯倉(うちつみやけ;古代天皇家が朝鮮半島南部に置いた官府)を定めて、これがいわゆる三韓である。
ある人は、出雲国王を殺そうと言う者もいたが、神功(じんぐう)皇后が「降伏を申し出ている者を殺してはならない」と言われて、その縄をといて馬飼(うまか)いなどとされて、出雲王国の中に入って、重宝の倉を開けて地図や戸籍を没収した。
神功(じんぐう)皇后が持つ矛は、出雲国王の門に立て、後世への印とされて、その矛は今も出雲国王の門に立っている。
出雲国王の飯入根(いいいりね)は、弟の甘美韓日狭(うましからひさ)と息子の盧濡渟(うかずくぬ)を人質として差し出して、金・銀・彩色・綾・羅・兼絹を沢山の船に乗せて神功(じんぐう)皇后の軍船に従わせて、それ以降に出雲国造(いずもくにみやつこ;出雲の統治者)が常に沢山の船で、貢(みつぎ)を古代大和朝廷に送っている。
出雲国造(いずもくにみやつこ)に任命された盧濡渟(うかずくぬ)は、出雲王国が地図や戸籍も差し出して古代大和朝廷に投降した顛末(てんまつ)を知り、その勢力をうかがっても勝つことができないと知っていて、「今後は永く西の未開の国として、朝貢を絶やさない」と言って、それで内官家屯倉(うちつみやけ;出雲に置いた官庁)を定められた。
西暦260年の出雲王国の崩壊は、西暦320年の三韓征伐に偽装工作して、干支(えと)の60年周期を利用した年代変更と証明して、高句麗(こうくり)と百済(くだら)と新羅(しらぎ)が摂政(せっしょう)60年(西暦320年)に実在したと考えられて、超天才の僕をごまかせない。
神功(じんぐう)皇后が持つ矛は、出雲国王の門に立てたのを求めると、矛が逆矛(さかほこ)の八重垣剣(やえがきのつるぎ)の可能性も考えられるが、よく分からなくて考えるだけ無駄である。
この矛はもしかすると、宮崎県と鹿児島県の県境である霧島高千穂峰(たかちほみね)の山頂に刺さった天(あま)の逆鉾(さかほこ)なら、『日本書紀』が成立した西暦720年まで刺さっていて、現在の天(あま)の逆鉾(さかほこ)が火山の噴火で折れて、レプリカと伝えることを意味するかもしれない。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月18日から12月5日頃(西暦260年11月中旬頃から西暦261年1月上旬頃)まで台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、身重(みおも)の体で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊の後処理をして、出雲王国が統治した中国地方の各地に使者を飛ばして、対応に追われて1ヶ月以上も出雲に滞在した。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年11月頃(西暦260年12月頃)に盧濡渟(うかずくぬ)は、最後の出雲国王で、父の飯入根(いいいりね)が戦死して、後継者の出雲国造(くにみやつこ;島根県の国主)に任命されて、後で神功(じんぐう)皇后が船で、京都府宮津市に帰還した。
ある日に丹波(たには;古代の京都府北中部)の氷上(ひかみ)の人である氷香戸辺(ひかとべ)は、皇太子の五十狭茅(いそさち;後の垂仁(すいにん)天皇)に我が子が近頃に歌う歌を告げた。
玉操沈(たまもし)つ 出雲祭(いずもまつ)らば まぐさまじ 香良実押(かよみお)し振(ふ)り ねみ鏡(かがみ) 御底宝(みそこたから)の みからぬし たにみくくりみ 玉静(たましず)か 甘美御神(うましみかみ)は みからぬしやも
水の中に沈んでいる玉のような石。出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神(みかみ)の鏡。水底の宝。宝の主。山河の水を洗う御魂(みたま)。沈んで掛かる立派な御神(みかみ)の鏡。水底の宝。宝の主。)
歌の内容は、神のお告げかもしれないと若君(皇太子)が父(崇神(すじん)天皇)に告げて、出雲の神を祭れと勅(みことのり;天皇の述べた言葉)した。
丹波(たんば;古代の京都府北中部)の国主は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏で、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫で、同じく出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏も彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫である出雲王国(物部(もののべ)氏)の直系子孫で、京都府が記される。
氷香戸辺(ひかとべ)の子が歌う歌は、甘美御神(うましみかみ)が物部(もののべ)氏を意味して、物部(もののべ)氏に関係する単語が甘美(うまし;可美)で、大物主神(おおものぬしのかみ)や大国主神(おおくにぬしのかみ)を指す。
出雲振根(いずもふりね;日本武(やまとたけ)天皇を祖先化)と弟の飯入根(いいいりね)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)に祭り上げても、どのくらいか間を置いて祭って、西暦270年代から5世紀ほどまで幅(はば)があって、出雲大社の創建年代が分からない。
『ホツマツタエ』の出雲大社の記述は、崇神(すじん)天皇60年に記すため、『ホツマツタエ』が成立した6世紀から7世紀以前から出雲大社が存在した証明になる。
出雲大社は、3世紀中頃の仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に出雲王国(物部(もののべ)氏)が崩壊して、270年から290年頃(3世紀後半)に盧濡渟(うかずくぬ)が創建した可能性があるが、4世紀から5世紀の可能性もあって、出雲大社本殿の宇豆柱(うずばしら)が出土して、何世紀の物か分からない限り創建時期を証明できないと考えられる。
盧濡渟(うかずくぬ)は、出雲国造(いずもくにみやつこ;島根県東部の統治者)に任命した最初の人物で、西暦260年頃の大人で、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の直系先祖である。
宇豆柱(うずばしら)は、出雲大社の境内(けいだい)から2000年と翌年の調査で出土して、科学的な証拠と歴史書解釈などで、鎌倉時代前半の1248年に造営した出雲大社本殿の支柱の可能性が非常に高くて、宇豆柱(うずばしら)以外に出雲大社の創建時期を証明できなくて、歴史学(歴史書解釈)が難しいと考えられる。
出雲大社本殿は、神代(かみよ)に32丈(96メートル)で、平安時代に16丈(48メートル)で、現在が8丈(24メートル)で、平安時代中期に書いた子供用の教科書の『口遊(くちずさみ)』に「雲太(うんた)・和二(わに)・京三(きょうさん)」と記して、出雲大社本殿の次に東大寺大仏殿で、次に平安京大極殿に低くて、当時の高さが不明だが、木造の高層建築で一番に高かったと分かる。
考古学的証拠の宇豆柱(うずばしら)は、出雲大社宮司家に伝わる出雲大社本殿の図面の『金輪御造営差図』(かなわのごぞうえいさしず)を建築会社の大林組が調査して、48メートルの本殿が建築できたと証明した。
出雲大社と富士山の山頂を結ぶレイライン(太陽の道)は、富士山を測量して西暦255年頃以降に作られたと考えられて、盧濡渟(うかずくぬ)の生存中に出雲大社を創建した可能性が高くて、3世紀後半から4世紀初め頃と考えられるが、4世紀から5世紀中の可能性も十分にある。
島根県松江市大庭町の神魂(かもす)神社は、出雲大社と富士山の山頂を結ぶレイライン(太陽の道)上にあって、計算して作った神社で、盧濡渟(うかずくぬ)が最初の出雲大社を創建した土地かもしれないが、あくまで歴史学(歴史書解釈)の伝承である。
同じレイライン(太陽の道)は、線上の滋賀県の伊吹山(いぶきやま)で日本武尊(やまとたけのみこと)が毒蛇に噛(か)まれて、日本武尊(やまとたけのみこと)が伊吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の息子である武渟川別(たけぬなかわわけ)の軍勢に殺されて、伊吹(いぶき)の神名と山の名前が西暦260年頃にできた証拠である。
出雲広嶋(いずものひろしま)は、『出雲国風土記(いずものくにふどき)』を編纂(へんさん)した人物で出雲国造(いずもくにみやつこ)が昔に神魂(かもす)神社に奉仕したが、それ以降の出雲国造(いずもくにみやつこ)が現在の出雲大社で奉仕したと伝えられて、後の出雲国造(いずもくにみやつこ)が後に千家(せんげ)氏を名乗るようになった。
島根県松江市大庭町の出雲大社の元宮(もとみや)と考えられる神魂(かもす)神社は、西暦708年から716年までに島根県出雲市大社町杵築の出雲大社に遷宮して、藤原氏が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏を弱体化するためと考えられる。
『出雲国造世系譜』の霊亀2年(西暦716年)は、島根県松江市大庭町から島根県出雲市大社町杵築の地に出雲大社が遷宮したと記して、出雲果安(いずものはたやす)の時代の和銅(わどう)元年(708年)から716年までに遷宮したと考えられる。
藤原不比等(ふじわらのふひと)は、「記紀」の総合監督で、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の海部(あまべ)氏と物部(もののべ)氏を隠して、物部(もののべ)氏の子孫の千家(せんげ)氏と竹内(たけうち)氏も隠して、藤原氏が物部(もののべ)氏と同族も隠して、徹底的な偽装工作をほどこしたが、僕を騙(だま)せなくて、史実・真実・事実を求めた。
出雲の国譲り神話に登場する神様は、高天原(たかまがはら;天津神:あまつがみ)系の古代天皇家の人物と出雲系(国津神;くにつがみ)の物部(もののべ)氏の人物を神格化して、以下の神様が主に出てくる。
古代天皇家の人物は、7代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)と天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)のお腹(なか)にいた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)と経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)などである。
物部(もののべ)氏側の人物は、大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と須勢理比売(すせりひめ;忍布姫(ぬのおしひめ)を神格化)と事代主神(ことしろぬしのかみ;盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)と建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)などである。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)の息子か6世孫の大国主神(おおくにぬしのかみ)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の婿(むこ)養子が大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)で、初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)から数えて7代目(6世孫)が2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)である。
つまり初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、6世孫の2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)が初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)から数えて、6世孫の7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)に当たる意味である。
同じく素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の一人娘の須勢理毘売(すせりひめ;布忍姫(ぬのおしひめ)を神格化)は、2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と結婚して、息子の事代主神(盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)を生んだ。
出雲大社の神在祭(かみありさい)は、旧暦の10月11日から17日の7日間、全国の神々が出雲大社に集まって、出雲大社の境内の19社に宿泊して、出雲大社と稲佐(いなさ)の浜に近い上宮(うえのみや)で、神議(かみはか)りと言う首脳会議をして、他にも人々を幸福にする龍蛇神(りゅうじゃしん)を祭る龍蛇神講大祭(りゅうじゃしんこうたいさい)や縁結(えんむす)び大祭などをする。
出雲大社の海蛇の龍蛇神(りゅうじゃしん)は、蛇体の古代太陽神の大物主神(おおものぬしのかみ;歴代の出雲国王を神格化)に当たって、7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)も神格化して、蛇体の天照大神(あまてらすおおみかみ)とも解釈できて、古代天皇家と出雲王国(物部(もののべ)氏)の両方の蛇神を指すと考えられる。
伊勢神宮や出雲大社などのネット情報は、詳細に知るのが難しくて、実際に神事などを見たり聞いたりして、僕自身が肌で感じて求めるしかないと実感した。
神功(じんぐう)皇后は、稲佐(いなさ)の浜に上陸して、そこが出雲国王の居城に近くて、神議(かみはか)り(首脳会議)が出雲王国の首脳陣(日本武尊(やまとたけのみこと)と飯入根(いいいりね)たち)との戦争と出雲王国の崩壊後の事後処理をしたと考えられる。
出雲大社は、神在祭(かみありさい)が10月(神無月)11日から17日で、仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)に出雲王国が崩壊して、その後に神功皇后たち邪馬台国(大和国;やまとこく)側が事後処理をして、出雲王国が滅亡(物部(もののべ)氏の全滅)でなく、物部(もののべ)氏の一部が戦死して、出雲王国の崩壊とした。
物部守屋(もののべのもりや)は、用明(ようめい)天皇2年7月(西暦587年8月頃)の神仏戦争(丁未(ていび)の乱)で亡くなって、物部(もののべ)氏の宗家が滅亡して、物部(もののべ)氏の全てが途絶えたわけでなく、後世まで子孫が続いた。
景行(けいこう)天皇は、80人以上の子供がいて、息子の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の一人娘が義理の息子の大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と結婚して、大国主神(おおくにぬしのかみ)の異母兄弟の八十神(やそがみ)が飯入根(いいいりね)の義理の伯父伯母(おじおば)80人に当たって、簡単に求められた。
初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)は、初代の太陽神の宮司で、その直系子孫の出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏が物部(もののべ)氏の祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)や歴代の大物主神(おおものぬしのかみ;歴代の出雲国王を神格化)を祭って、千家(せんげ)氏が祭るのが古代太陽神で、他の出雲国王も古代太陽神の宮司と考えられる。
纏向(まきむく)遺跡は、鳥取県と島根県と山口県の土器が出土して、神功(じんぐう)皇后が出雲王国を討伐した後か日本武尊(やまとたけのみこと)が亡命する前のものと考えられる。
弥生時代後期は、全国的に高地性集落遺跡が作られて、出雲で3世紀中頃に多くの高地性集落遺跡が作られて、出雲王国の崩壊と時期が重なるのが偶然と考えられない。弥生時代後期に発展した出雲は、3世紀中頃に衰退して、これも出雲王国の崩壊と時期が重なって、偶然と考えられない。
出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊は、『ホツマツタエ』と『日本書紀』の記述に頼る歴史学(歴史書解釈)と考古学(遺跡・遺物)が合致した史実(歴史上の事実)である。
<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
インターネットの不明サイトから少々拝借
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