出雲王国の建国と初代天皇の称号


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出雲王国の建国は、以前から疑ったが、間違いなく正しいと確信したのが2022年9月20日で、出雲王国の建国が丹波(たんば;古代の京都府北中部)の平定報告の翌年と求めて、長い謎がようやく解けた。

それ以前に出雲王国(物部(もののべ)氏)は、初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)が建国した。
『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)に崇神(すじん)天皇へ出雲王国の建国報告して、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)した。
「天皇になってから天神地祇(てんじんちぎ)を祭った。ようやく荒々しい出雲の者たちも統治して、国民は今その暮らしを楽しんでいる。成人と未成年の法的区別を明らかにして、国民を公用に使うこともやめて、宮中への貢物(みつぎもの)も差し止めて、国民を益々にぎわせようと思う。穀物の病(やまい)もない泰平な世を讃(たた)えて、世の混乱が治まり初めて国を泰平に治めた意味で、初国治(はつくにし)らす御間城(みまき)の世と呼ぶ」と。

崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)以前に出雲王国は、彦坐王(ひこいますのみこ)が建国して、崇神(すじん)天皇が自分の時代を「初国知(はつくにし)らす御間城(みまき)の世」と呼んで、後に初代天皇の称号になった。
『日本書紀』は、崇神(すじん)天皇を「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と記して、『古事記』で「所知初国之御真木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)」と記して、崇神(すじん)天皇を祖先化した神武(じんむ)天皇が『日本書紀』に「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と記して、初代天皇の称号である。

『ホツマツタエ』大己貴大神(おおなむちおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、出雲を名付けて、『玉牆(たまかき)の内(うち)つ国(くに)(美しい垣(かき)のような山に囲(かこ)まれた国)』と言われて、垣(かき)が出雲八重垣(いずもやえがき)につながると考えられて、玉牆(たまかき)の内(うち)つ国(くに)が日本国の呼び名と勘違いする。

『日本書紀』崇神(すじん)天皇12年9月16日(西暦95年10月中旬頃)は、初めて人民の戸口を調べて、課役を仰(おお)せ付けて、これが男の弓弭調(やはずのみつぎ)と女の手末調(たなすえのみつぎ)で、これで天神地祇(てんじんちぎ)が共になごやかで、風雨も時を得て、百殻も良く実って、家々に人や物が充足して、天下が平穏になった。

崇神(すじん)天皇の統治下は、奈良県周辺の近畿地方から出雲王国まで及んで、初めて戸籍調査して、男性に狩猟の貢物(みつぎもの)をさせて、女性に手作業の貢物(みつぎもの)をさせて、これを課役して、初代天皇の称号の「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と讃(たた)えたが嘘(うそ)で、『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇12年3月11日が正しい。

『日本書紀』の崇神(すじん)天皇17年7月1日(西暦100年8月上旬頃)に詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「船が天下の大切なもので、今の海辺の民に船がないため献上品を運ぶのに苦しんで、そこで諸国に命じて船を造らせよ」と言って、10月(11月頃)に初めて船舶(せんぱく)を作って、船舶(せんぱく)が大型の船を差して、出雲に向かう船と解釈すべきである。

彦坐王(ひこいますのみこ)は、春日建国勝戸女(かすがのたけくにかつとめ)と結婚して、娘の沙本之大闇見戸女(さほのおおくらみとめ)が生まれて、娘とも結婚して、沙本毘古王(さほひこのみこ)と袁邪本王(おざほのみこ)と沙本毘売命(さほひめのみこと)と室毘古王(むろひこのみこ)が生まれて、彦坐王(ひこいますのみこ)が遅くに生んだ子供と考えられる。
饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と妻の御炊屋姫(みかしやひめ;沙本之大闇見戸女(さほのおおくらみとめ)を神格化)は、息子の宇摩志麻治命(うましまじのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)を生んで、出雲王家の血筋で、河内(かわち)か出雲を平定した時の敵将の姉妹を御炊屋姫(みかしやひめ)に神格化した可能性がある。
また饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は死んで、息子の宇摩志麻治命(うましまじのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)が成人せず、彦坐王(ひこいますのみこ)が亡くなってから、出雲王家(物部(もののべ)氏)の在位期間に空白ができて、摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)を置いて、その後に息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)が成人して、2代目出雲国王になった可能性がある。

『ホツマツタエ』の初代から7代目までの大物主神(おおものぬしのかみ)は、警察機構を持つ物部(ものべ;もののべ)と言う役職をまとめ上げて、代々右大臣(右の臣;つるぎとみ)の家柄で、歴代の出雲国王を神格化して、左大臣(左の臣;かがみとみ)の次に重役で、平安時代に左大臣の次が右大臣だった。
このことから歴代の出雲国王は、天皇家(邪馬台国;大和国)の右大臣を務(つと)めて、統治国家群の警察機構の物部(もののべ)をまとめ上げて、物部(もののべ)をまとめる物部(もののべ)氏の名字(みょうじ)を名乗って、罪(つみ)をおかした者を裁(さば)く権利を持っていたと考えられる。

初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)は、太陽神の宮司で、その直系子孫の出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏が物部(もののべ)氏の祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)や歴代の大物主神(おおものぬしのかみ;歴代の出雲国王を神格化)を祭って、千家(せんげ)氏が祭るのが古代太陽神で、中間の歴代の出雲国王も太陽神の宮司と考えられる。

出雲の隆盛は、弥生時代後期初頭(西暦100年頃)からで、荒神谷(こうじんだに)遺跡で出土した銅剣が弥生時代中期後半製造でないかとされて、加茂岩倉(かもいわくら)遺跡で出土した銅鐸(どうたく)が弥生時代中期から後期の製造とされて、銅剣と銅鐸が弥生時代後期初頭(西暦100年前後)の物なのが間違いなくて、出雲の青銅器文化の終わりが弥生時代後期初頭である。
荒神谷(こうじんだに)遺跡と加茂岩倉(かもいわくら)遺跡の銅鐸と同じ型の分布地域は、全国の古代天皇家の勢力地と合致するのが間違いなくて、彦坐王(ひこいますのみこ)が埋葬したと考えられる。
弥生時代中期の出雲では、四隅突出型墳丘墓が作られて、弥生時代後期に最大級の中谷(なかだに)3号墳が作られて、物部(もののべ)氏を葬礼したと考えられる。
鳥取県鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡と米子(よなご)市と西伯(さいはく)郡大山町にまたがると妻木晩田(むきばんだ)遺跡などは、弥生時代後期の鉄器が大量に出土して、鳥取県が鉄器生産の産地で、出雲王国の建国を証明する。
出雲で青銅器は、弥生時代後期初頭に作られなくなって、島根県の鉄器が弥生時代後期から古墳時代前期に大量出土して、古代天皇家が鉄器生産をした。
弥生時代後期から山陰地方は、独自の土器のスタイルが作られて、以後に変化しながらも古墳時代前期まで、同じ流れを組む土器が作られた。
弥生時代後期から島根県出土の朝鮮半島の土器は、朝鮮半島に最も近い九州北部を除いて、日本中に例がないほど集中して出土する。
出雲王国は、弥生時代後期初頭から始まって、鳥取県と島根県で鉄器が大量出土して、弥生時代が稲作で隆盛して、鉄と米が権力の象徴と考えられる。

出雲王国の建国と初代天皇の称号は、超天才の僕以外に求められる者が存在しなくて、彦坐王(ひこいますのみこ)の直系子孫の物部(もののべ)王国と求めた。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『出雲大社の暗号』
関裕二・著者 株式会社講談社・発行
『出雲国風土記と古代遺跡』
勝部昭・著者 株式会社山川出版社・発行
『CGでよみがえる出雲王国』
株式会社宝島社・発行
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