出雲王国


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

「記紀」の研究をする時、古代天皇家(邪馬台国)と敵対した国として出雲王国が挙げられる。
日本国内にある三大神社を大きさで言うなら伊勢皇大神宮内宮と出雲大社はまず外せないだろう。
何十年も前なら出雲王国など存在していないと考える人が多かったが、現在は存在したのでないかとする人たちが多いと思う。
『ホツマツタエ』の日本神話の歴代オオモノヌシとして神格化された人物が歴代出雲国王と考えられて、2012年1月に僕が出雲王国の系譜を求めることができた。

崇神(すじん)天皇60年の出雲王国崩壊の物語を記す。

崇神天皇60年7月14日が正しくは仲哀天皇9年7月14日(西暦260年8月中旬頃)で、崇神天皇の命令で2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の息子・武日照命(たけひてるのみこと;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)の神宝が出雲にあるのを見たいと言われて、正しく求めると神功(じんぐう)皇后の命令で出雲王国に渡った三種の神器などの神宝を取り戻す必要があった。
『日本書紀』神功皇后時代の仲哀天皇9年9月10日(西暦260年10月上旬頃)に諸国に命じて船舶を集めて兵士を訓練させたが、兵士が集まりにくかったと記されるが、兵士を集めて出雲王国の攻撃に集中しようとしたと考えられる。
仲哀天皇9年10月3日(西暦260年11月上旬頃)に出発したと記されて、出雲王国に対しての全面攻撃である。
『日本書紀』神功皇后時代の仲哀天皇9年10月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)が何も記されておらず、この空白期間に出雲王国の討伐があって、ずいぶん円滑にことが運んだのだと考えられて、その空白期間の出来事を『ホツマツタエ』を参考に再現する。
崇神天皇60年と西暦260年が合致するのは、『ホツマツタエ』が西洋の西暦年を知っていたからだと考えられる。


11月を日本全国で神無月(かんなづき)、出雲で神有月(かみありづき)と呼ぶ理由は、八百万(やおよろず)の神々に神格化されている人物の多くが出雲に集中したためにそう呼ぶのである。
天照大神(あまてらすおおみかみ;神功皇后を神格化)のお腹(なか)にいた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)と経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)と大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と須勢理比売(すせりひめ;忍布姫(ぬのおしひめ)を神格化)と事代主神(ことしろぬしのかみ;濡渟(うかずくぬ)を神格化)と建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊を神格化)などが出雲にいたのである。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
神在祭(かみありさい)とは旧暦の10月11日から17日の7日間、全国の神々が出雲大社に集まって、19社に宿泊して出雲大社そして上宮において神事に関わる話し合いをする儀式のことだという。
西暦260年の神在祭の時期に出雲の国譲り神話として神話化された出雲王国崩壊の物語があって、出雲王国(物部(もののべ)氏の築いた王国)が滅亡(物部氏の全滅)でなく崩壊(物部氏の一部が戦死)したのだと考えられる。

神功皇后の使いとして武諸隅(たけもろずみ)を出雲国王の宮殿に派遣して日本武(やまとたけ)天皇が不在で、出雲国王の飯入根が宮殿から三種の神器をはじめとする宝物を出してきて、弟の甘美韓日狭(うましからひさ)と息子の濡渟を添えて人質として差し出してきた。
日本武天皇は飯入根が三種の神器をはじめとする宝物を渡したことを聞いて飯入根を責めて、日本武天皇が飯入根を逆恨みして暗殺しようと心に決め、策謀を巡らせて止屋(やみや;島根県出雲市今市町・大津町・塩谷町付近)に行こうと飯入根を誘い出し、飯入根がそれにうなずいて共に止屋に行った。
日本武天皇は飯入根を水浴びに誘って、日本武天皇が飯入根の真剣を気付かれないように木刀に差し替え、日本武天皇が真剣で斬りかかって来たので、飯入根が木刀を持ったまま日本武天皇に斬り殺されて闇の渕(ふち)に葬られ、世間で次のような歌が流行した。
八雲(やくも)立つ、出雲梟帥(いずもたける)が佩(は)いている太刀は、葛(つづら)がたくさん巻きついて、哀(あわ)れにも錆(さ)びてしまっているようで、抜くことができない。
甘美韓日狭は甥の濡渟を連れて神功皇后のもとを訪れて暗殺の一件を報告すると、神功皇后が吉備武彦(きびたけひこ)と武渟川別に日本武天皇を討伐する命令を出して、日本武天皇が討伐されると出雲王国の家臣たちが、恐れて神様の祭りをしなかった。


物部十市根(もののべのといちね)の甥に武諸隅がいて、おそらく神功皇后の使者の武諸隅と同一人物と考えて良いだろう。
現在の出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の祖先神が日本武天皇を神格化した天穂日命(あめのほひのみこと)で、その子孫とする兄の出雲振根(いずもふりね)が日本武天皇本人で、弟の飯入根が出雲国王であり、その妻が日本武天皇の一人娘の忍布姫で、その間に生まれたのが息子の濡渟で立派な大人で飯入根の息子の中で最も高位にあったと考えられて、出雲振根を日本武天皇として記述している。
出雲梟帥は飯入根を指しており、『古事記』で出雲建(いずもたける)を日本武天皇が殺した話があって全く同じ物語であり、日本武天皇が逆恨みして飯入根をだまし討ちしたのを水浴びの物語にたとえたと考えられる。
崇神天皇が出雲振根の討伐を命じたのは吉備彦(きびひこ)とされて、吉備津彦(きびつひこ)の祖別命(みおやわけのみこと)の息子の吉備武彦に討伐命令を出したと考えるべきである。
日本武天皇が討伐されると出雲王国の家臣たちが、恐れて神様の祭りをしなかったというのは、無念の死をとげた飯入根を神格化した大国主神を祟(たた)りをもたらす神様として祭らなかったという意味に受け取れる。
これが出雲王国崩壊の物語の大筋である。

彦坐王(ひこいますのみこ)は丹波(たには;古代の京都府北中部)を平定した西暦94年以降で、1世紀末から2世紀前半(弥生時代後期初頭;西暦100年頃)のうちに出雲王国を建国したと考えられる。
彦坐王は初代の出雲国王で沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)と結婚して、息子で2代目の出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)をもうけて、狭穂彦王の息子で3代目の出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)が初代オオタタネコとして三輪山(みわやま)に2代目オオモノヌシ(狭穂彦王を神格化)を祭った。
野見宿禰の息子で4代目の出雲国王が物部十市根で垂仁(すいにん)天皇の皇女の大中姫(おおなかひめ)と結婚して、息子で5代目の出雲国王の物部夏花(もののべのなつはな)が生まれた。
物部夏花の従兄弟で6代目の出雲国王の太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)が後を継いで、その息子で最後の出雲国王が飯入根(いいいりね)で、彦太忍信命の息子の屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)が飯入根に当たる可能性があるが分からない。
物部十市根の直系子孫が物部氏の宗家の物部守屋(もののべのもりや)につながって、飯入根の息子の濡渟の直系子孫が現在の出雲大社宮司家の千家氏につながり、千家氏は物部氏の傍系氏族で出雲王家の直系子孫に当たる。

『ホツマツタエ』でスサノヲ(日本武天皇を神格化)とクシイナダヒメ(物部氏の女性を神格化)の息子が初代オオモノヌシ(飯入根を神格化)で、『ホツマツタエ』に記される妻が2代目オオモノヌシの母なのが間違いで、『古事記』の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武天皇を神格化)の娘の須勢理比売(すせりひめ;布忍姫(ぬのおしひめ)を神格化)と結婚して、息子の2代目オオモノヌシ(濡渟を神格化)をもうけた。
『ホツマツタエ』で2代目オオモノヌシ(濡渟を神格化)の妻は、7代目タカミムスビ(武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の娘タクハタチチヒメ(神功(じんぐう)皇后を神格化)の妹ミホツヒメ(虚空津比売命(そらつひめのみこと)を神格化)である。
出雲王国の系譜は巧妙な偽装工作で隠したのかもしれないが、わずかな情報があればアインシュタイン博士以上の天才の僕なら簡単に求められる。

『ホツマツタエ』の初代オオモノヌシは別名をオオナムチとも呼ばれて、2代目オオモノヌシが別名をオオクニヌシやコトシロヌシやオオクニタマと呼ばれていて、その子孫が7代目オオモノヌシまで世襲された。
出雲大社の祭神である大国主神は、『日本書紀』に大己貴神(おおなむちのかみ)や大国玉神(おおくにたまのかみ)や大物主神(おおものぬしのかみ)などの別名が記されて、事代主神(ことしろぬしのかみ)が息子に当たり、『ホツマツタエ』の記述とかなり違っていると考えられる。
しかし大切なことを述べると、大物主神が三輪山の祭神で古代太陽神に当たるが、大国主神が全く太陽神の性質を見せない点が違って、大物主神と大国主神を別神とすべきだが、別の考え方で大国主神が太陽神の性格を隠し持つとも考えられる。
大国主神は多くの女神と結婚して、子孫がたくさんいたと記されているが、大国主神が歴代オオモノヌシと混同されて、子孫が多かったとされるのかもしれない。

弥生時代後期から出雲が隆盛して、3世紀中頃に出雲が衰退していて、3世紀中頃が出雲王国崩壊の西暦260年に合致するのは必然である。
弥生時代後期から鳥取県で鉄器が大量出土していて、彦坐王の指導で鉄器増産をしたと考えられて、鳥取県が出雲王国の勢力下にあるとすれば大きな考古学的証拠になる。
弥生時代後期に全国的に高地性集落遺跡が作られるが、出雲では3世紀中頃に多くの高地性集落遺跡が作られていて、出雲王国崩壊の時期と重なるのが偶然と考えられない。
西暦2000年に出雲大社境内から直径1メートル30センチ余りの三本の柱根が出土して、『金輪造営図』に見られる宇豆柱であると考えられて、屋根までの高さが48メートルあったというのが現実味を帯びたのである。
西暦1984年に荒神谷遺跡が発掘されて、西暦1996年に加茂岩倉遺跡が発掘されて、圧倒的な数の銅剣と銅鐸(どうたく)が出土したことから、出雲王国が存在した可能性が一気に高まった。
荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の銅鐸は、同じ型の分布地域が歴史書解釈から古代天皇家の勢力地と合致して、両遺跡の年代が弥生時代後期初頭と考えられる。

太陽神の子孫の古代天皇家(邪馬台国)と太陽神の司祭を務(つと)める出雲国王が治める出雲王国の2度の戦争は、狭穂彦王の反乱(倭国大乱)と日本武尊の反乱(男王の反乱)で、太陽神の存在をかけた戦いだった。
出雲王国は最古の皇族の彦坐王の子孫である物部氏の王国で、出雲神話や人代の記述で存在をほのめかして伝説上の存在を思わせるが、明確に存在したと考えられる考古学的証拠があって、正しく把握しなければならない。
出雲王国は決して伝説上の存在でなく、考古学と歴史学から史実だと認めさせる必要があって、それができるのがアインシュタイン博士以上の天才の僕である。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
インターネット

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