出雲王国


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古代日本史研究をする時、古代天皇家の大和国(やまとこく;邪馬台国)と敵対した国は、古代天皇家の親戚の出雲王国(物部(もののべ)氏)があって、古代天皇家の敵対国に丹波(たには;京都府北中部)王国や吉備(きび;岡山県と広島県東部)王国や熊襲(くまそ;南九州)王国などが挙げられる。
古代日本史研究は、それぞれ日本各地で古代の国名に王国を付けることが多いが、大和国(邪馬台国)に天皇が存在するとき、ほとんどが王国を名乗るのが間違いでないかと考えられる。
出雲王国は年代不明と考えられるが、邪馬台国論争の陰に隠れて暗躍して滅んだ国で、僕以外に求められる人間がいなくて、考古学が遺跡・遺物を求められるだけである。
何十年も前なら出雲王国など存在しないと考える人は多かったが、現在が出雲の多くの考古学的証拠から、存在したのでないかと考える人たちが多いと思う。
『ホツマツタエ』の歴代オオモノヌシに神格化された人物は、歴代の出雲国王と考えられて、2012年1月に僕が出雲王国の系譜を求めて、出雲王国を細かく見ていこうと思う。

崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に初代の崇神天皇が即位で、日本の建国で天皇家誕生である。
崇神天皇4年10月23日(西暦87年11月下旬頃)にアマテルカミ(天照神)を笠縫邑(かさぬいのむら)に祭らせて、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を山辺里(やまのべのさと;大和(おおやまと)神社)に祭らせて、三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)を新しく作って、三種の神器を皇位継承の神宝(かんだから)にしようと考えた。
崇神天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)の夜に倭大国魂神を山辺里に遷宮して、八重垣剣を奉納して、翌日の夜にアマテルカミを笠縫邑に遷宮して、八咫鏡を奉納して、新しい三種の神器がレプリカ(複製品)だった。
最古の元伊勢の笠縫邑は所在地不明で、奈良県天理市の大和神社が国内最古の神社で、三種の神器が2種類あって、これが出雲王国の運命を変えた。
二種の神器の由来は、出雲王国(物部氏)の狭穂彦(さほひこ)天皇と日本武(やまとたけ)天皇が三種の神器の八重垣剣と八咫鏡の2種類だけで強行即位して、八坂瓊曲玉をはぶいたことが原因で生まれた可能性がある。
崇神天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)は、丹波王国の平定を実弟の崇神天皇に報告した。
1世紀末〜2世紀前半(弥生時代後期初頭)に彦坐王が出雲を平定して、出雲王国を建国して、彦坐王が初代の出雲国王と考えられる。

ここに挙げる出雲の考古学的証拠は、僕の知ったごく一部のもので、僕の知識を知った考古学者が多くの例を挙げて、多くの考古学的証拠が判明すると考えられる。
出雲の隆盛は弥生時代後期初頭からで、荒神谷(こうじんだに)遺跡で出土した銅剣が弥生時代中期後半製造でないかとされて、加茂岩倉(かもいわくら)遺跡で出土した銅鐸(どうたく)が弥生時代中期から後期の製造とされて、銅剣と銅鐸が弥生時代後期初頭(西暦100年前後)のものなのが間違いない。
荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の銅鐸と同じ型の分布地域は、参考文献『出雲国風土記と古代遺跡』から古代天皇家の勢力地と合致するのが間違いない。
弥生時代中期に出雲で四隅突出型墳丘墓が作られて、弥生時代後期に最大級の中谷(なかだに)3号墳が作られて、出雲王家の物部氏が葬礼されたと考えられる。
鳥取県で弥生時代後期の鉄器が大量出土して、鳥取県が出雲王国の勢力下と考えられて、彦坐王が鉄器生産をした可能性が高い。

出雲王国は、大和国(古代天皇家)の親戚として従属する属国で、歴代の出雲国王が古代の男性の太陽神である天照神(あまてるかみ)を祭る宮司を務(つと)めて、その名残(なご)りが古代太陽神の7代目・大物主神(飯入根(いいいりね)を神格化)と同一神で、太陽神の要素が消えた出雲大社の祭神の大国主神(飯入根を神格化)で、それを祭る出雲王国の末裔(まつえい)で、現在の出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏と考えられる。
彦坐王は初代の出雲国王で、春日建国勝戸女(かすがのたけくにかつとめ)と結婚して、娘の沙本之大闇見戸女(さほのおおくらみとめ)が生まれて、娘の沙本之大闇見戸女とも結婚して、息子で2代目の出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)が生まれて、従兄弟の垂仁(すいにん)天皇に皇位継承権争いを起こして敗れた。
狭穂彦王の息子で、3代目の出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)は、初代・大田田根子(おおたたねこ;野見宿禰を祖先化)として三輪山(みわやま)に2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦王を神格化)を祭った。
野見宿禰の息子で、4代目の出雲国王が物部十市根(もののべのといちね)は、垂仁(すいにん)天皇の皇女の大中姫(おおなかひめ)と結婚して、息子で5代目の出雲国王の物部夏花(もののべのなつはな)が生まれたと考えられる。
物部夏花の従兄弟で、6代目の出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)は後を継いで、その息子で最後の出雲国王が飯入根(いいいりね)で、飯入根が義父の日本武尊(やまとたけのみこと)に殺されて、彦太忍信命の息子の屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)が飯入根に当たる可能性があるが分からない。
物部十市根の直系子孫は、物部氏の宗家の物部守屋(もののべのもりや)につながって、飯入根の息子の濡渟(うかずくぬ)が初代の出雲国造(いずもくにみやつこ;統治者)で、その直系子孫が現在の出雲大社宮司家の千家氏(出雲国造)で、千家氏が物部氏(出雲王家)の傍系氏族で、直系子孫に当たると考えられる。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
彦坐王は初代出雲国王で、初代・大物主神に神格化して、息子で2代目出雲国王の狭穂彦王が2代目・大物主神に神格化して、その直系子孫の歴代の出雲国王が歴代の大物主神に神格化して、僕のホームページの多くが証明してくれる。
彦坐王は、元々が古代太陽神を祭る宮司と考えられて、その直系子孫が現在も太陽神を祭る千家氏と京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の宮司家である海部(あまべ)氏などで、彦坐王を古代太陽神に神格化した古代太陽神氏族と考えられる。

垂仁(すいにん)天皇4年9月1日(西暦155年10月上旬頃)に狭穂彦王は、実妹で皇后の狭穂姫に垂仁天皇を殺すことを頼(たの)み込んだ。
垂仁天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に狭穂彦王の反乱の計画を狭穂姫が告白して、狭穂彦王の従兄弟の垂仁天皇が討伐命令を出した。
2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)が天皇になろうと謀反(むほん)して、狭穂彦王が二種の神器で強行即位して、狭穂彦(さほひこ)天皇になって、大和国(邪馬台国)の即位の法律に介入したと考えられる。
狭穂彦王は、直接に天皇家の即位の法律に介入できたか、大和まで侵攻して法律を変えさせたか分からないが、出雲から大和まで攻めたのが確かで、三重県熊野市で戦死した理由が分かった。
三重県熊野市で狭穂彦天皇は、稲を積(つ)んで稲城(いなき)として、城に立てこもって防御態勢をととのえて、狭穂姫が息子の誉津別命(ほむつわけのみこと)を連れて稲城に入った。
結果として最後は、誉津別命を狭穂姫が垂仁天皇に渡して託(たく)して、狭穂彦王と狭穂姫の兄妹が炎上する稲城の中で亡くなった。
兄妹の遺体は、燃えて残らなかったから、三重県熊野市有馬の石を祭る古代信仰の花の窟(いわや)神社に祭って、伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫を神格化)と息子の軻遇突智(狭穂彦王を神格化)として祭ったと考えられる。
狭穂姫は、炎上する稲城で亡くなって、伊弉冉尊が息子の軻遇突智を生んで火傷(やけど)を負(お)って、互いに火にまつわる死去で、軻遇突智が火の神様で、伊弉冉尊も火に関わる神様で、物部氏の直系を神格化したのが火の神様で、狭穂彦王と狭穂姫が物部氏の先祖である。
崇神天皇7年2月3日が正しく求めると、垂仁天皇7年2月3日(西暦158年3月上旬頃)に垂仁天皇は、自分の治世(ちせい)の汚(けが)れをなくすための夢を見て、この夢が2代目・大物主神(狭穂彦王を神格化)の見せたもので、その息子の大田田根子(野見宿禰を祖先化)が三輪山(みわやま)を祭れば、汚れが消えると言われて、この日までに狭穂彦王の反乱が終わったと考えられる。

崇神天皇7年メ月1日が正しくは垂仁天皇7年10月1日(西暦158年11月上旬頃)で、大田田根子(野見宿禰を祖先化)が正式に斎主になって三輪山の祭祀をして、三輪山がこの時に初めて祭られて、この時に野見宿禰が3代目出雲国王になっていたか不明である。
崇神天皇8年が正しくは垂仁天皇8年(西暦159年)で、高橋邑(たかはしむら;奈良市杏町高橋か天理市櫟本町(いちのもとちょう)付近)の活日(いくひ)という人物が2代目・大物主神(狭穂彦王を神格化)に酒を作って奉納して、12月8日(西暦160年1月上旬頃)に大田田根子(野見宿禰を祖先化)を斎主として、2代目・大物主神の祭礼をした時に垂仁天皇が来られて、活日の献上した神酒(みき)を飲む宴(うたげ)がされて、その宴で垂仁天皇が歌を詠まれて、歌い終わって殿戸を押し開いて、天皇ご一行は皇居に帰って行かれた。
崇神天皇9年3月15日が正しくは垂仁天皇9年3月15日(西暦160年4月中旬頃)の夜で、垂仁天皇の夢枕に神様が立たれて言うには、赤と白と黄の矛を立てて、宇陀(うだ)や墨坂(すみさか)や大阪などの神々を残りなく祭れとのことで、死んだ罪人の霊が地上にとどまるから祟ると言う。
崇神天皇9年4月22日が正しくは垂仁天皇9年4月22日(西暦160年5月下旬頃)で、大鹿島(おおかしま)と大田田根子(野見宿禰を祖先化)が魂返(たまがえ)しの秘法(鎮魂;ちんこん)で、迷っている罪人の霊魂を祭り上げて、これでますます世が明るさを取り戻した。

2代目出雲国王の狭穂彦王は、2代目・大物主神に神格化して、垂仁天皇7年10月1日(西暦158年11月上旬頃)に三輪山に祭って、狭穂彦王の息子で3代目出雲国王の野見宿禰が大田田根子に祖先化して祭った。
狭穂彦王の反乱の死者は、垂仁天皇9年4月22日(西暦160年5月下旬頃)に大田田根子(野見宿禰を祖先化)が鎮魂の祭りをして、さまよえる魂を成仏(じょうぶつ)させた。
垂仁天皇7年10月1日から垂仁天皇9年4月22日まで3代目出雲国王の野見宿禰は、大和に駐留(ちゅうりゅう)したのか出雲から通(かよ)ってきたのか分からないが、大和で国家規模の行事として祭ったと考えられる。
狭穂彦王の反乱は、『後漢書』と『三国志・魏志倭人伝』の倭国大乱で、「倭の邪馬台国の大乱」と書き直して、決して日本全土の戦争などと解釈できず、邪馬台国連合国家群の内乱で、一年以上の戦争だったと読み取れる。
三輪山の祭祀は2世紀中頃で、その近辺からそれ以前の考古学的証拠が発見されないと考えられる。
狭穂彦王の反乱(倭国大乱)の後で出雲王国(物部氏)は、2度目の皇位継承権争い(男王の反乱)を起こして、次にそれを詳しく記す。

景行(けいこう)天皇60年10月2日(西暦250年11月上旬頃)に皇太子の日本武尊は、皇居を出て東海平定に出陣(しゅつじん)して、異母兄弟の武虎別皇子(たけこわけのみこ)が北陸平定に出陣した。
『日本書紀』で景行天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に景行天皇は崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、皇太子の日本武尊が東海平定に出陣したため、大和に天皇となれる人物が不在の状態となった。
西暦251年(天皇不在の年)に東海平定から戻った日本武尊と仲哀(ちゅうあい)天皇と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)の親子3人は皇位継承権争いをして、いつか不明で蘆髪蒲見王が討伐された。
景行天皇46年8月4日(西暦251年9月上旬頃)に日本武尊を皇太子でなく、皇族の誰にも認められず、二種の神器か三種の神器を強奪して、強行即位して日本武天皇になったと考えられる。
崇神(すじん)天皇10年9月15日(西暦251年10月中旬頃)に大彦命(おおびこのみこと;武虎別皇子を祖先化)一行は那羅坂(ならさか;奈良市近郊の奈良坂)に至って、そこで少女が歌を歌って誰かが崇神天皇の皇位を狙っていると言うので、大彦命が引き返して崇神天皇の元に戻った。
9月17日(西暦251年10月中旬頃)に大彦命(武虎別皇子を祖先化)は皇居に引き返して、那羅坂で少女が歌っていたのを話して諸臣で会議をして、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)が賢くて歌の意味を理解して、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと;日本武天皇を祖先化)が謀反(むほん)を起こそうとして、妻の吾田媛(あたひめ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)と共謀して、国を奪おうとしていると告げた。
9月17日(西暦251年10月中旬頃)から末日(10月下旬頃)に倭迹迹日百襲姫命(倭姫命を祖先化)は、武埴安彦命(日本武天皇を祖先化)に殺されて、吾田媛(弟橘姫を祖先化)が大坂(奈良県香芝市逢坂付近)で戦死して、メ月初日(11月上旬頃)に武埴安彦命の反乱が終わった。
10月2日(西暦251年11月上旬頃)に大和を脱出した日本武天皇は、7日後の10月9日(11月上旬頃)に出雲王国(物部氏)へ亡命するためどこかの道を進んで、出雲の古代太陽神の7代目・大物主神(飯入根(いいいりね)を神格化)に助けを求めて、7代目出雲国王で日本武天皇の婿(むこ)養子の飯入根が草薙剣(くさなぎのつるぎ)を保管したと考えられる。

西暦251年の皇位継承権争いは、『三国志・魏志倭人伝』の男王(日本武天皇)の反乱に当たって、卑弥呼(倭姫命)が亡くなった。
卑弥呼(倭姫命)は、男王(日本武天皇)に殺されたと考えられる。
日本武天皇の妻の弟橘姫は、出雲王国(物部氏)の養子になって、景行天皇との間に息子で6代目の出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生んで、日本武天皇と弟橘姫の夫婦が出雲王国の傾国(けいこく;国が傾(かたむ)く)のきっかけだった。
仲哀天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)に4代目の仲哀天皇が三種の神器の片方で即位して、邪馬台国(大和国)の仲哀天皇と出雲王国(物部氏)の日本武天皇の2朝廷並列時代に突入した。

仲哀天皇9年2月6日(西暦260年3月上旬頃)に出雲王国の攻撃中に仲哀天皇が崩御して、おそらく日本武天皇の軍勢が仲哀天皇を戦死させて、仲哀天皇の正妻の神功(じんぐう)皇后(台与;とよ)が義父の日本武天皇を恨(うら)んだと考えられる。
仲哀天皇9年神無月(西暦260年11月頃)に神功皇后は、出雲王国に攻撃を再開して、これを神話化したのが出雲の国譲り神話である。
この時に出雲に邪馬台国(大和国)と出雲王国の主要人物がそろって神格化して、日本神話の神々が出雲に集中して、それが全国で神無月と呼んで、出雲が神有月(かみありづき)と呼ばれる理由である。
日本武天皇は、婿(むこ)養子で最後の出雲国王の飯入根(いいいりね)が三種の神器を始めとする神宝を神功皇后に返して、それに怒って飯入根を殺した。
神功皇后は、それを知って吉備武彦と武渟川別に命じて、日本武天皇を殺したことで戦争が終結して、日本武天皇が享年(きょうねん)64才で、出雲王国が崩壊した。

出雲王国(物部氏)は崩壊で、物部氏が滅亡せずに存続しているから、出雲王国の滅亡でなく崩壊という言葉を使っている。
日本武尊は出雲と深い関係にあって、出雲の八岐大蛇(やまたのおろち)退治の素戔嗚尊、出雲大社宮司家の千家氏の直系祖先神である天穂日命、出雲大社の祭神である大国主神の息子の建御名方神などに神格化した。
最後の出雲国王の飯入根は、7代目・大物主神と出雲大社の祭神の大国主神に神格化された。
出雲王国の崩壊は、仲哀天皇9年神無月(西暦260年11月頃)の出雲の国譲り神話に神話化されて、出雲の国譲り神話を始めとする出雲神話が史実である。

出雲王国の崩壊と同時期の考古学的証拠は、これからどんどん考古学者が明らかにして、確実に考古学的証拠が増えると考えられる。
参考文献『三輪山の考古学』で、纏向(まきむく)遺跡から鳥取県と島根県と山口県の土器が出土すると記されて、神功皇后が出雲王国を討伐した後か日本武尊が亡命する前のものと考えられる。
参考文献『出雲国風土記と古代遺跡』で、弥生時代後期に全国的に高地性集落遺跡が作られるが、出雲では3世紀中頃に多くの高地性集落遺跡が作られて、出雲王国崩壊の時期と重なるのが偶然と考えられない。
参考文献『出雲大社の暗号』で、弥生時代後期に発展した出雲が3世紀中頃に衰退したと記されて、これも出雲王国崩壊の時期と重なるのが偶然と考えられない。

出雲王国の建国(西暦100年前後)と崩壊(西暦260年神無月)は、考古学的証拠と歴史書解釈が見事に合致して、僕にしか説明できない奇跡の領域である。
太陽神の子孫の古代天皇家(邪馬台国)と太陽神の司祭を務める出雲国王が治める出雲王国の2度の戦争は、狭穂彦天皇の反乱(倭国大乱)と日本武天皇の反乱(男王の反乱)で、2種類の三種の神器が生み出した皇位継承権争いで、太陽神の存在をかけた戦いだった。
出雲王国は、最古の皇族である彦坐王の直系子孫の物部王国で、出雲神話や人代の記述で存在をほのめかして、伝説上の存在を思わせるが、明確に存在した考古学的証拠があって、正しく把握しなければならない。
出雲王国は、決して伝説上の存在でなく、考古学と歴史学から史実と認めさせる必要があって、それができるのがアインシュタイン博士以上の超天才の僕である。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『出雲大社の暗号』
関裕二・著者 株式会社講談社・発行
『出雲国風土記と古代遺跡』
勝部昭・著者 株式会社山川出版社・発行
『CGでよみがえる出雲王国』
株式会社宝島社・発行
『三輪山の考古学』
株式会社学生社・発行
インターネット

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