出雲大社

僕は2002年10月頃に歴史研究を始めて、最初に黄泉国下(よみのくにくだ)り神話が2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(『三国志・魏志倭人伝』の倭国大乱(わこくたいらん)と特定して、2012年1月に出雲王国(物部(もののべ)氏)を特定して、2024年4月4日に出雲の建国神話(出雲の国引き神話)を特定して、2025年6月10日頃から出雲大社の記述を大幅に修正して、20年以上も出雲に縁(えん)がある。

出雲大社(いずもたいしゃ)は、一般的に「いづもたいしゃ」と呼ぶが、正式な呼び名が「いづもおおやしろ」で、古代から「杵築大社(きづきたいしゃ)」と呼んで、出雲の呼び違いが「いずも」と「いづも」で、「いづも」の方が古いと考えられて、祭神の大国主神(おおくにぬしのかみ)が縁結(えんむす)びや福の神で、七福神の大黒様(だいこくさま)と同一神とされる。
『ホツマツタエ』10章のキツキノミヤ(杵築宮)は、『延喜式神名帳』の出雲国出雲郡の杵築(きづき)大社(出雲大社)で、住所が島根県出雲市大社町(たいしゃちょう)杵築東(きづきひがし)195番地で、「築(きず)き」が杵築(きづき)大社の語源で、神代(かみよ;神様の時代)からの古い地名である。

参考文献『出雲大社と千家氏の秘密』(著者・中見利夫 発行・株式会社宝島社)は、参考にして僕の自論を分析・研究して、島根県出雲市の出雲大社と出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の歴史を考える上で、非常に重要な後世の教本になる。
2014年5月27日は、皇族の高円宮典子(たかまどのみやのりこ)様と出雲大社の禰宜(ねぎ)の千家国麿(せんげくにまろ)氏が婚約内定したニュースが世間を騒がせて、10月5日に出雲大社で、高円宮典子(たかまどのみやのりこ)様と千家国麿(せんげくにまろ)氏の結婚式をして、僕が古代天皇家や出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋と現在の皇室の血筋が混ざる歴史的な出来事と理解した。
皇族の高円宮典子(たかまどのみやのりこ)様は、一般人の千家典子(せんげのりこ)様になられて、古代天皇家や出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋を受け継ぐお子様が生まれたら吉兆(きっちょう)で、超天才の僕が神道界や歴史研究などに大きな影響を与えて、地動説と進化論と相対性理論の3つ以上の社会にまで及(およ)ぶコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)の大革命を起こした。
古代天皇家と出雲王家(物部(もののべ)氏)の歴史は、崇神(すじん)天皇12年から仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦95年から260年)までの出雲王国(物部(もののべ)氏)の建国と崩壊、その後に続く物部(もののべ)氏の直系子孫の千家(せんげ)氏や竹内(たけうち)氏など、多くの内容を詳細に求める。

島根県出雲市の出雲大社は、国津神(くにつがみ)の出雲系統(古代太陽神氏族の和珥(わに)氏)に属する神社で、和珥(わに)氏が物部(もののべ)氏の先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖(始まりの先祖)として、古代天皇家と物部(もののべ)氏が深く関係した歴史を持つ古社で、超天才の僕にしか求められない。
出雲大社は、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏だけが祭ることを許可されて、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と婿(むこ)養子の2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)の2神が戦死して、怨霊(おんりょう;怨(うら)み祟(たた)る霊)として祭って、現在も皇族が出雲大社の本殿に昇殿できなくて、天皇家(皇室)が呪(のろ)われると考える。
出雲大社は、先祖の初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と子孫の2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)を祭って、大国主神(おおくにぬしのかみ)の神名が大きな国の主(あるじ;君主)の神様を意味する。
初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した初代・大国主神(おおくにぬしのかみ)は、大きな国(大阪府と奈良県と京都府と兵庫県と鳥取県と島根県)を平定して、7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化した2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ)が大きな国(中国地方)の統治者を意味して、2人の先祖と子孫を神格化したのが間違いない。
7人の出雲国王は、7人の大物主神(おおものぬしのかみ)に神格化して、初代・大国主神(おおくにぬしのかみ)と子孫の2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ)が初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と子孫の7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)に当たって、出雲王家(物部(もののべ)氏)の祖先神が饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)である。
出雲王家(物部(もののべ)氏)と出雲大社は、彦坐王(ひこいますのみこ)を先祖とする出雲系統(古代太陽神氏族の和珥(わに)氏)の国津神(くにつがみ)で、天界の高天原(たかまがはら)系統(古代天皇家)の天津神(あまつがみ)と深い婚姻(こんいん)関係で、超天才の僕が詳細に系図を示すと、混乱するために説明をここまでにする。

出雲大社の祭神は、初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)でなく、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)でもあって、素戔嗚尊(すさのおのかみ)の娘の須勢理毘売(すせりひめ;布忍姫(ぬのおしひめ)を神格化)が2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ)と結婚して、事代主神(ことしろぬしのかみ;宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)を生んだためである。
出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏自身は、出雲大社の祭神が須佐之男神(すさのおのかみ;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)とする資料があって、千家(せんげ)氏の直系先祖で、出雲に縁(ゆかり)の須佐之男神(すさのおのかみ)を祭るのが自然で、昔に須佐之男神(すさのおのかみ;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)を祭って、今が2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)を祭る。
出雲の神様の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、妻の椋子姫(くらこひめ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)が出雲王国(物部(もののべ)氏)を故郷にして、出雲の八岐大蛇(やまたのおろち;滝祭神(たきまつりのかみ)を怪物視)退治神話などと深く関係して、出雲と無関係でない。
悪神の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、椋子姫(くらこひめ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)と不倫して、太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)を殺して、古代太陽神の八岐大蛇(やまたのおろち;滝祭神(たきまつりのかみ)を怪物視)も殺して、太陽神殺しの大罪を犯(おか)した。

出雲大社本殿の大国主神(おおくにぬしのかみ)の神座(かみざ;神様の座(すわ)る場所)は、太陽の沈む西の方向で、太陽神の要素がなくても、大国主神(おおくにぬしのかみ)が古代太陽神の初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)の名残(なご)りを残すためと考えられる。
出雲大社本殿が太陽の沈む西の神座(かみざ;神様の座(すわ)る場所)なのは、日本の建国(天皇家誕生)から11年後に出雲王国(物部(もののべ)氏)が建国して、太陽神の初代宮司の彦坐王(ひこいますのみこ)を古代太陽神の初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)に神格化して、古代天皇家の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)を陰ながら、見守る意味などを込めたと考えられる。

出雲大社本殿の客座五神は、別天神(ことあまつがみ)5神の天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)と高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と神皇産霊尊(かむみむすびのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)と天常立尊(あめのとこたちのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)で、客座が来客のための座席で、出雲大社を創建した3世紀末から4世紀初頭以降に祭られたと考えられる。
出雲大社本殿は、初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)以外に、客座五神の別天神(ことあまつがみ)5神(崇神(すじん)天皇から仲哀(ちゅうあい)天皇の5世代を神格化)を祭って、客座五神と巨大な注連縄(しめなわ)が大国主神(おおくにぬしのかみ)の霊魂を二重に封印する。
大国主神(おおくにぬしのかみ)の霊魂を二重に封印するのは、怨霊(おんりょう;恨(うら)み祟(たた)る霊魂)で、義父の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)を監視して、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏(物部(もののべ)氏と同族)を二度と反逆させないためである。
出雲王国(物部(もののべ)氏)の祟(たた)りの内乱(皇位継承権争い)は、倭国大乱(わこくたいらん)の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱と男王(だんおう;日本武(やまとたけ)天皇)の反乱の2つで、2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)の祟(たた)りで、反乱(皇位継承権争い)を封印する意味である。
出雲大社本殿の本当の祭神は、怨霊(おんりょう;恨(うら)み祟(たた)る霊魂)の2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)の4神である。

造化(ぞうか)三神の神皇産霊尊(かむみむすびのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)は、妻のいない独(ひと)り神で、『ホツマツタエ』で、6代目タカミムスビ(高皇産霊)のカンミムスビ(神皇産霊)の妻がシラヤマヒメ(白山姫;キクキリヒメ:菊桐姫)で、息子が7代目タカミムスビ(高皇産霊)とスクナヒコナ(少彦名)などと記す。
6代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の神魂命(かむみむすびのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)は、妻が白山姫(しらやまひめ;別名が菊桐姫:きくきりひめ;高田媛(たかだひめ)を神格化)で、息子が7代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)と少彦名命(すくなひこなのみこと;少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)を神格化)などである。

出雲大社本殿の日本一巨大な注連縄(しめなわ)は、本殿内の客座五神の位置などの理由で、人から見て左側を上で、右側を下と考えて、左側の縄の太い部分から張って、右側の縄が細くなって、全国の神社の注連縄(しめなわ)が逆で、右側の縄の太い部分から張って、左側の縄が細くなって、出雲系の神社の注連縄(しめなわ)を太陽が沈む西向きに飾る。
出雲大社本殿の注連縄(しめなわ)が逆の張り方をする理由は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)を封印して、出雲王家の物部(もののべ)氏(千家(せんげ)氏と同族)を二度と反逆させず、二度と復権させない意味を込めたと考えられる。
死の象徴と考える出雲の雲(くも)は、太陽光を遮(さえぎ)る影(かげ)を生む意味で、出雲(いずも;島根県東部)の国名が出(い)ずる雲と重なって、出雲の国名の意味を千家尊統(せんげたかとみ)氏が「稜威(いつ;神聖な物)」と「も(物)」と考えて、僕が「稜威(いつ)も(物)」を出雲王家の神聖な物部(もののべ)氏に当てはめる。
死の象徴と考える出雲の雲(くも)は、出雲大社本殿が怨霊(おんりょう;恨(うら)み祟(たた)る霊魂)の2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)の4神を祭るなどの理由がある。
全国の神社は、一般的に二礼二拍手一礼だが、出雲大社が二礼四拍手一礼で、四が死で言霊(ことだま;言葉の霊魂)が繋(つな)がって、不吉なことの共通性が幾つかあって、出雲大社本殿が怨霊(おんりょう;恨(うら)み祟(たた)る霊魂)4神を祭ること、死が出雲王家(物部(もののべ)氏)の2度の反乱(皇位継承権争い)で出た死者を意味するなど、簡単に理由を考えられる。

『出雲国造神賀詞(いずもくにみやつこかんよごと)』は、出雲の国譲(くにゆず)り神話で、天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の貢献ぶり、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の天皇家への忠誠心と貢献(こうけん)ぶりを述べて、一時期に天皇家と千家(せんげ)氏(物部(もののべ)氏と同族)の間で緊張状態があったのかと記して、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱と出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊を差すと考えられる。
『出雲国造神賀詞(いずもくにみやつこかんよごと)』で玉は、霊魂の依代(よりしろ)として重要な意味で、2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)後に、出雲王国の神宝の八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)が垂仁(すいにん)天皇時代に三種の神器として、石上(いそのかみ)神宮に奉納されたと考えられる。
『出雲国造神賀詞(いずもくにみやつこかんよごと)』の『賀詞(よごと)』は、『寿詞;吉事:吉詞(よごと)』とも書いて、千家(せんげ)氏が皇室の繁栄(はんえい)や長寿を祝(いわ)う宮廷儀式で、反乱(皇位継承権争い)した2代目と7代目の大物主神(おおものぬしのかみ)が大国主神(おおくにぬしのかみ)と同一神で、2度の天皇家の転覆(てんぷく)で、祟(たた)りを生んだから、叛(そむ)かないように願掛けしたのかもしれない。

『出雲国造伝統略』の記述は、「須佐之男大神(すさのおおおかみ;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と天穂日命(あめのほひのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)の皇祖天神(こうそてんじん;天皇家の祖先神の天神)の勅(みことのり)により、天日隈宮(あめのひすみのみや;出雲大社)の祭主となりしより、自後世々神火(かみひ;火の神様(物部(もののべ)氏を神格化)の血筋)を継承し、畢生潔敬(ひっせいけっけい;一生を終えるまでの期間が汚(けが)れなく美しいこと)を異にする」と訳す。
『出雲国造伝統略』の解釈は、須佐之男大神(すさのおおおかみ)と天穂日命(あめのほひのみこと)に神格化した日本武(やまとたけ)天皇の言葉で、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏が出雲大社の祭主になって、千家(せんげ)氏が先祖の物部(もののべ)氏を神格化した火の神様の血筋を継承して、日本神話の完全解釈が正しい。
武神の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、皇太子でありながら優秀な武将で、婿(むこ)養子の2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)も武神で、武士の先祖と言われるほどの武家の出雲王家(物部(もののべ)氏)出身で、古代に強大な武力を持った大豪族だった。
素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、男性の太陽神とする説があるが、2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)に太陽神の要素がなくて、7代目・大物主神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)が古代太陽神で、勘違いしないことが大切である。
義父の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)は、内乱(皇位継承権争い)で、三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)を出雲(島根県東部)に持ち去って、2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)が管理のために預(あず)かったと考えられる。
『十種宝高野山本』は、「天照大神(あまてらすおおみかみ)の十種神寶(とくさのかんだから)、奉於伊勢寶寫殿之耳」と記して、天照大神(あまてらすおおみかみ)の神宝の十種神宝(とくさのかんだから)が伊勢(三重県中部)から、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)が内乱(皇位継承権争い)で、出雲(島根県東部)に持ち去ったと解釈できる。
『古事記』で素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)が強奪した十種神宝(とくさのかんだから)は、「蛇の比礼(ひれ)と蜂の比礼(ひれ)」が根(ね)の国下(くにくだ)り神話に登場して、内乱(皇位継承権争い)で、伊勢(三重県中部)から出雲(島根県東部)に持ち去った神宝である。
同じく『古事記』で義父の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)の神宝は、生太刀(いくたち;草薙剣(くさなぎのつるぎ)か?)と生弓矢(いくゆみや;天鹿児弓(あめのかぐゆみ)と天羽羽矢(あめのははや)と天詔琴(あめののりごと;天逆矛(あめのさかほこ)に当たって、2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)が預(あず)かったと考えられる。

『日本書紀』で7代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)は、大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)に天日隅宮(あめのひすみのみや;出雲大社)を造(つく)って、天穂日命(あめのほひのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)の子孫の千家(せんげ)氏が祭れと命じて、3世紀末から4世紀前半の創建年代になる。
『出雲国風土記(いずものくにふどき)』で神魂命(かみむすびのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)は、天日栖宮(あめのひすみのみや;出雲大社)を所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ;大国主神:おおくにぬしのかみ)の宮として造(つく)れと述べて、3世紀末から4世紀前半の創建年代になって、島根県松江市大庭町の神魂(かもす)神社が最初の出雲大社と考えられる。
母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が死去した摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)までには、巨大な出雲大社の神殿を築(きず)かせて、初代と2代目の大国主神(おおくにぬしのかみ;初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)と7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)を祭って、日本神話と神様が実話と合致して、出雲大社の創建時期を証明する可能性がある。

『日本書紀』崇神(すじん)天皇60年の記述は、ある日に氷香戸辺(ひかとべ)が我が子の歌った歌を告げて、歌の内容が神のお告げかもしれないと、天皇に告げて出雲の神を祭れと命令したと記して、これが例(たと)え話だろうが、期間を置いて、宇迦都久怒(うかずくぬ)が父親の2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と祖父の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)を出雲大社に祭って、創建したと考えられる。
出雲大社の社伝は、『日本書紀』崇神(すじん)天皇60年に出雲王国が滅亡して、垂仁(すいにん)天皇時代に宇迦都久怒(うかずくぬ)が出雲大社を造営したと伝えるが、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に出雲王国(物部(もののべ)氏)が崩壊して、宇迦都久怒(うかずくぬ)が3世紀末から4世紀初頭頃に出雲大社を創建したと考えられる。
出雲大社の社伝は、垂仁(すいにん)天皇時代に2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)を祭って、神功(じぐう)皇后の時代の3世紀末から4世紀前半に出雲大社創建したと考えられて、出雲大社の元宮から、出雲大社に遷宮した伝承があって、研究・分析が大切である。

出雲大社は、3世紀末から4世紀初頭に出雲大社の初代宮司の宇迦都久怒(うかずくぬ)が創建したと考えられるが、4世紀から5世紀の可能性もあって、出雲大社本殿の宇豆柱(うずばしら)が出土して、何世紀の物か分からない限り、創建時期を証明できなくて、歴史学(歴史書解釈)の限界である。
出雲大社の境内(けいだい)は、2000年と翌年の調査で出土して、直径1メートル30センチ余りの3つの柱根が出土して、『金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)』の宇豆柱(うづばしら)だと考えられて、科学的な証拠と歴史書解釈などで、鎌倉時代前半の1248年に造営した出雲大社本殿の支柱の可能性が非常に高くて、出雲大社本殿の支柱の宇豆柱(うずばしら)と考えられる。
出雲大社本殿は、神代(かみよ;神様の時代)に32丈(96メートル)で、平安時代に16丈(48メートル)で、現在が8丈(24メートル)で、平安時代中期に書いた子供用の教科書の『口遊(くちずさみ)』に「雲太(うんた)・和二(わに)・京三(きょうさん)」と記して、出雲大社本殿の次に東大寺大仏殿で、次に平安京大極殿が低くて、当時の高さが不明だが、木造の高層建築で、出雲大社本殿が一番高いと証明した。
出雲大社本殿は、神代(かみよ;神様の時代)の32丈(96メートル)が現実的に不可能だが、平安時代中期の『口遊(くちずさみ)』の記録と2000年に出土した宇豆柱(うずばしら)から、平安時代に16丈(48メートル)の高さが証明されて、出雲王国(物部(もののべ)氏)の存在を重視する必要がある。
古学的証拠の宇豆柱(うずばしら)は、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏に伝わる出雲大社本殿の図面の『金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)』を建築会社の大林組が調査して、48メートルの本殿が建築できると証明して、高さ48メートルの神殿が事実の可能性を証明して、出雲大社が注目され始めた。
出雲大社が日本一高い木造建築だったのは、出雲王国(物部(もののべ)氏)が古代天皇家(邪馬台国;大和国:やまとこく)の属国で、古代天皇家に反逆(皇位継承権争い)しないで、呪(のろ)いも大きいと考えて、丁寧に慎重(しんちょう)に気を使って祭ったと考えられる。

旧暦10月(実際の11月)は、出雲の国譲(くにゆず)り神話の神無月(出雲では神在月(神有月;かみありづき)と言う)で、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊と合致して、出雲に神様(実在した人物を神格化)が集中したから、神無月と神在月(神有月;かみありづき)が生まれた。
参考文献『新・古代出雲史−『出雲国風土記』再考』で神在祭(神有祭;かみありさい)は、旧暦10月11日から17日の7日間に全国の神々が出雲大社に集まって、19社に宿泊して、出雲大社と上宮で、神事に関わる話し合いをする儀式と言う。
旧暦10月11日から17日は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)が正しくて、『ホツマツタエ』崇神(すじん)天皇60年と合致して、『日本書紀』成務(せいむ)天皇(日本武(やまとたけ)天皇と同一人物)60年6月11日とも合致して、『日本書紀』が西暦年を使用した証拠で、実話を神話化した。
出雲の国譲(くにゆず)り神話は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)が戦死して、日本武(やまとたけ)天皇の孫の宇迦都久怒(うかずくぬ)を出雲国造(いずもくにみやつこ;出雲の国主)に任命して、中国地方の全体の領土(出雲王国の連合国)を古代天皇家が取り上げたと考えられる。

『古事記』で垂仁(すいにん)天皇と皇后の沙本毘売(さほひめ)の息子の本牟智和気命(ほむつわけのみこと)は、出雲の大神の祟(たた)りで、口を聞けないと記すが、伯父(おじ)の2代目・大物主神(おおものぬしのかみ;2代目出雲国王の沙本毘古王(さほひこのみこ)を神格化)が反乱(皇位継承権争い)して、出雲王家(物部(もののべ)氏)で共通する。
『日本書紀』垂仁(すいにん)天皇23年9月(紀元前7年10月頃)の誉津別命(ほむつわけのみこと)は、天皇不在の年9月(西暦251年10月頃)の日本武(やまとたけ)天皇に置き変わって、誉津別命(ほむつわけのみこと)と素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)に髭(ひげ)が生(は)えて、大人になるまで泣きわめいた所がそっくりで、神格化や祖先化などの共通性が明白である。

『日本書紀』崇神(すじん)天皇60年に兄の出雲振根(いずもふりね)が弟の出雲梟帥(いずもたける)の飯入根(いいいりね)を殺して、『古事記』景行(けいこう)天皇時代に倭建命(やまとたけのみこと)が出雲建(いずもたける)を殺して、2つの同じ出来事が完全に重なって、飯入根(いいいりね)が出雲の統治者の出雲梟帥(出雲建;いずもたける)で共通して、7代目出雲国王と考えて間違いない。
凡人(僕以外の人間)は、年代も人物も別だから、合致しないと思い込むが、「記紀」の編者の思う壺(つぼ)で、僕が系図の祖先化を特定して、7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を殺して、出雲王国(物部(もののべ)氏)が崩壊した西暦年月なども特定して、超天才の僕の才能が凄(すさ)まじい。
出雲王国(物部(もののべ)氏)の特定は、『ホツマツタエ』や「記紀」の何気(なにげ)ない記述を見逃さず、神話化・神格化・祖先化・子孫化などの偽装工作を特定して、出雲の共通性を一つ一つ見つけて、正しい西暦年月や実在した人物を求める作業を繰り返して、これらが具体的な一例で、僕が22年半以上も求め続けて、全てを特定したと信じる。

出雲の国譲(くにゆず)り神話は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)の実話(現実に起きた出来事)を神話化して、後世の大化(たいか)の改新(かいしん)を神話化して、当てはめたとする学説も間違いでないが、理論的な根拠を根本的に塗(ぬ)り替(か)えようとする意識が働いて、思い込みの上書きが起こる。
出雲の国譲(くにゆず)り神話は、歴史上の出来事でなく、単なる神話の物語と言う解釈も成立するが、藤原不比等(ふじわらのふひと)が神話世界に実話(大化(たいか)の改新(かいしん)など)を持ち込んで、実話(現実に起きた出来事)の神話化がよく似た出来事が重複して、日本神話が単なる思い込みの想像で、成立しないと完全に証明して、よく似た出来事の神話化の重複を証明して、気付けない者がしゃしゃり出るものでない。
出雲大社の創建は、『ホツマツタエ』や「記紀」に出雲の国譲(くにゆず)り神話(出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊)の後と記して、日本神話の前後関係を100%特定した超天才の僕の自論が正しいと証明して、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)の出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊が実話(現実に起きた出来事)と証明された。

出雲大社本殿を後方から見守る素鵞社(そがのやしろ)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)を祭って、素鵞社(そがのやしろ)の後ろに出雲大社の御神体山で、禁足地(きんそくち;絶対に入れない聖域)の八雲山(やくもやま)があって、古代信仰の磐座(いわくら;神様が宿(やど)る石)が多くあるが、8世紀前半に出雲大社が今の場所にできて、それ以降の考古学的証拠かもしれない。
出雲大社本殿の後ろにある御神体山の八雲山(やくもやま)は、出雲大社の北にある禁足地(きんそくち;絶対に入れない聖域)で、東西に鶴山と亀山があって、その麓(ふもと)に出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏と分家の北島氏が居住して、鶴と亀が『かごめ歌』の鶴と亀を思わせる。
出雲大社の北側の大きな山脈は、東に旅伏山(たぶせやま)、西に鼻高山(はなたかやま)、弥山(みせん)、八雲山(やくもやま)と霊山(れいざん)が続いて、多くの霊山(れいざん)を祭って、磐座(いわくら;神様が宿(やど)る石)を祭るのが多くて、古代の神事が海で禊(みそぎ)をして、山を礼拝したと考えられる。
八雲山(やくもやま)は、山そのものが神様の御神体と考えられて、神奈備(かんなび)が「神様が隠(かく)れ籠(こ)もる」と言う意味で、信仰の対象とする古代人が祭った山を指して、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと;初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)が「八雲立(やくもた)つ」と和歌を詠(よ)んで、出雲国(いずものくに)の国名を名付けて、非常に重要な意味・価値を持つ。
素鵞社(そがのやしろ)は、3代目・景行(けいこう)天皇と出雲王国(物部(もののべ)氏)の養子である弟橘姫(おとたちばなひめ)の長男が神櫛皇子(かんぐしのみこ)で、6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と同一人物で、その孫である初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫が蘇我(そが)氏で、蘇我(そが)氏と物部(もののべ)氏が同族で、神社名と氏族名が同じと考えられる。
『日本書紀』で蘇我入鹿(そがのいるか)の弟は、物部大臣(もののべのおおおみ)と呼ばれたと記して、蘇我(そが)氏と物部(もののべ)氏が同族で、古代天皇家と出雲王国(物部(もののべ)氏)の血筋の蘇我(そが)氏が強大な権力を持てた理由で、物部守屋(もののべのもりや)と蘇我馬子(そがのうまこ)の神仏戦争が親戚同士の血縁を潰(つぶ)す戦争だった。

『古事記』の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)の子孫は、建甕槌命(たけみかづちのみこと)の息子が2代目・意富多多泥古命(おおたたねこのみこと)で、日本武尊(やまとたけのみこと)の一人娘の布忍姫(ぬのおしひめ)と結婚した7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)の息子が宇迦都久怒(うかずくぬ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)と証明される。
6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)は、神櫛皇子(かんぐしのみこ)と同一人物で、息子の7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)が屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)と同一人物で、妻を布忍姫(ぬのおしひめ)で、宇迦都久怒(うかずくぬ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の同母兄弟を生んだ。
素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)と7代目・大物大神(おおものぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)の血を引く建甕槌命(たけみかづちのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の息子が2代目・意富多多泥古命(おおたたねこのみこと;2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖先化)で、『ホツマツタエ』の原本の『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の文(ふみ)』を献上したと考えられる。
日本武尊(やまとたけのみこと)と飯入根(いいいりね)の子孫の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、出雲王家(物部(もののべ)氏)の子孫で、その直系子孫の竹内(たけうち)氏が日本有数の古代豪族の子孫で、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏と同族で、物部(もののべ)氏の宗家よりも千家(せんげ)氏に血筋が近いと証明した。
2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と須勢理比売(すせりひめ;忍布姫(ぬのおしひめ)を神格化)の息子は、事代主神(ことしろぬしのかみ;宇迦都久怒(うかずくぬ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)で、この系図を2025年7月18日の午前中に求めた。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、ずっと7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)の息子か、忍布姫(ぬのおしひめ)の血を引くのかも疑問で、完全に出雲王家(物部(もののべ)氏)の子孫と求めたが、ようやく正しい血筋が判明した。

歴代の武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫は、葛城(かつらぎ)氏や蘇我(そが)氏などを輩出して、正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』が歴代の武内宿禰(たけのうちのすくね)から蘇我(そが)氏が出たと記して、武内宿禰(たけのうちのすくね)があり得ない3百才近い年齢も、干支(えと)の年を利用して、60年間を足し算や引き算して説明できて、100才以上の歴代天皇がいたのも説明できる。
98才以上まで生きた初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、直系子孫の竹内(たけうち)氏に多くの伝承を伝えて、73代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏まで、武内宿禰(たけのうちのすくね)の人名を先祖代々の襲名をしたのかなど、多くの謎(なぞ)が解明されずに残る。
「記紀」を編纂(へんさん)した総合監督の藤原不比等(ふじわらのふひと)は、藤原氏の政敵の物部(もののべ)氏や海部(あまべ)氏や千家(せんげ)氏や竹内(たけうち)氏などの歴史を消したり改竄(かいざん)して、「記紀」に大きなヒントを多く残して、後世に超天才の僕が正しい歴史を再現すると希望を託(たく)したのだろう。
『日本書紀』は、江戸時代の本居宣長(もとおりのりなが)が指摘したように大和朝廷の正当性を強化しようと作為的な記述が見られて、「記紀」に明らかな編者の偽装工作があると気付いて、これが現在の常識となりつつあって、超天才の僕が藤原不比等(ふじわらのふひと)たち藤原氏の権力強化のためと証明した。

『新撰姓氏録』の神魂命(かむみむすびのみこと)の孫の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、子孫が天津神(あまつがみ)の山城(やましろ;京都府南部)系の賀茂(かも)氏で、大物主神(おおものぬしのかみ)と子孫の大田田根子(おおたたねこ)または素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子孫が国津神(くにつがみ)の奈良県葛城(かつらぎ)系の賀茂朝臣(かもあそん)氏族である。
神魂命(かむみむすびのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の息子が賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)で、その孫が賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ;誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を神格化)で、武虎別皇子(たけこわけのみこ)の子孫が賀茂県主(かもあがたぬし)氏族と神魂命(かむみむすびのみこと)系の賀茂(かも)氏が同族で、賀茂朝臣(かもあそん)氏族と別の系譜である。
神魂命(かむみむすびのみこと)系の賀茂(かも)氏は、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)を祖先神で、孫の賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ;誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を神格化)を祖先神と伝えず、景行(けいこう)天皇と物部(もののべ)氏の高田媛(たかだひめ)の長男である武虎別皇子(たけこわけのみこ)の子孫が賀茂県主(かもあがたぬし)氏族との山城(やましろ;京都府南部)系の賀茂(かも)氏である。
『ホツマツタエ』のニニキネ(瓊瓊杵;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)は、カモノカミ(賀茂神)やワケイカツチノカミ(別雷神)の神名(賀茂別雷神;かもわけいかずちのかみ)が与(あた)えられて、母が物部(もののべ)氏の神功(じんぐう)皇后で、物部(もののべ)氏の血筋だから、雷神に神格化されたが、雷神の武勇があるか証明されてない。
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の妻で、丹波(たには;古代の京都府北中部)の神である伊可古夜日売(いかこやひめ;誰を神格化したか不明)の娘の玉依日売(たまよりひめ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、火雷神(ほのいかずちのかみ;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)と結ばれて、賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)を生んで、神魂命(かむみむすびのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の子孫を証明した。

奈良県葛城(かつらぎ)系の賀茂朝臣(かもあそん)氏族は、大物主神(おおものぬしのかみ)の子孫である大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)の孫の大賀茂津美命(おおかもつみのみこと;誰を祖先化したか不明)を先祖で、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の息子である初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)の子孫が後世の誤伝承である。
物部(もののべ)氏の先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)は、子孫の日本武尊(やまとたけのみこと)との神格化で、先祖と子孫の神格化が入れ替わって、奈良県葛城(かつらぎ)系の賀茂朝臣(かもあそん)氏族の祖先神が混乱したと証明して、物部(もののべ)氏の2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の息子である葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の子孫が葛城(かつらぎ)氏で、葛城(かつらぎ)系の賀茂朝臣(かもあそん)氏族と同族である。
葛城(かつらぎ)氏は、物部(もののべ)氏の神功(じんぐう)皇后の母である葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)、物部(もののべ)氏の2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の息子である葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の子孫が葛城(かつらぎ)氏、『ホツマツタエ』のスサノヲ(素戔嗚;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)とクシイナダヒメ(奇稲田姫;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)の7男カツラギヒトコトヌシ(葛城一言主;伊賀彦王(いがひこのみこ)を神格化)など、葛城(かつらぎ)の言葉が共通する。
葛城一言主神(かつらぎのひとことぬしのかみ;伊賀彦王(いがひこのみこ)を神格化)は、奈良県中部の奈良県御所(ごせ)市の葛城山(かつらぎやま)に出現して、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の子孫の葛城(かつらぎ)氏が葛城(かつらぎ)地方(奈良県の御所(ごせ)市と葛城(かつらぎ)市)を本拠地として、伊賀彦王(いがひこのみこ)と葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)に血縁関係があると考えられる。
葛城(かつらぎ)系の賀茂朝臣(かもあそん)氏族は、出雲王国(物部(もののべ)氏)系の賀茂(かも)氏と同族で、物部(もののべ)氏の葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の子孫である葛城(かつらぎ)氏とも同族で、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の子孫の賀茂(かも)氏と別の系譜だが、同じ物部(もののべ)氏で、共通性が多いと証明した。

地政学(地理的条件を重視する学問)的に見た吉備(きび;岡山県と広島県東部)は、これまで何度も古代出雲と衝突と和議を繰り返して、吉備(きび)氏の始祖(しそ;最初の先祖)を垂仁(すいにん)天皇の息子の祖別命(みおやわけのみこと)で、出雲王家(物部(もののべ)氏)の始祖(しそ;最初の先祖)の彦坐王(ひこいますのみこ)と血筋的にかなり近い。
彦坐王(ひこいますのみこ)の孫の垂仁(すいにん)天皇は、息子を祖別命(みおやわけのみこと)で、その娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)が3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)の養女で、6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生んで、吉備(きび)と出雲王国(物部(もののべ)氏)に地理的だけでなく、古代天皇家の血縁的な関係もあると証明した。
吉備(きび)王国の工人が作った特殊器台土器は、弥生時代後期後半(2世紀後半)の陵墓の楯築(たてつき)墳丘墓(ふんきゅうぼ)などに立てて、垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)に吉備(きび)国王の温羅(うら)を殺して、吉備(きび)を古代天皇家の領土として、垂仁(すいにん)天皇32年(西暦183年)に日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵に最古の埴輪(はにわ)を立てた。
垂仁(すいにん)天皇28年11月2日(西暦179年12月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇の異母兄の倭彦命(やまとひこのみこと)陵は、殉死(じゅんし;主人の後を追って、従者を生(い)き埋(う)めすること)を禁止して、垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)以降に日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵に殉死者(じゅんししゃ)の代わりに墓(はか)に立てる埴輪(はにわ)を採用した。
垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)に吉備(きび)地方で採用した特殊器台土器は、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)か仲哀(ちゅうあい)天皇2年11月10日(西暦253年12月上旬頃)に葬礼した景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳で、最古の特殊器台埴輪(はにわ)を立てて、考古学(遺跡・遺物)で、最古の埴輪(はにわ)でもある。
埴輪(はにわ)を作った野見宿禰(のみのすくね)は、垂仁(すいにん)天皇7年7月6日(西暦158年)と垂仁(すいにん)天皇32年(西暦183年)に登場して、岡山県の特殊器台土器が2世紀後半で、景行(けいこう)天皇陵と最古の特殊器台埴輪(はにわ)が3世紀中頃で、歴史上の時期を完全に合致して、100%否定できない。
岡山県赤磐市の石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社は、奈良県の石上(いそのかみ)神宮の物部(もののべ)氏と深い関係と考えられて、石上(いそのかみ)神宮や布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)なども、出雲王国(物部(もののべ)氏)と深く関係する。
吉備(きび)氏は、相当な権力者を輩出して、出雲王家(物部(もののべ)氏)と共同歩調を取るかのように「記紀」などの正史(正しい歴史)から消されて、吉備(きび)氏と物部(もののべ)氏が「記紀」を編纂(へんさん)した総合監督の藤原不比等(ふじわらのふひと)にとって、都合の悪い存在…政敵だったと考えられる。

『ホツマツタエ』9章のサタノミヤ(佐太(さだ)神社)は、神魂命(かみむすびのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の息子である支佐加比売(きさかひめ;神櫛皇子(かんぐしのみこ)を神格化)の息子の佐太大神(さだのおおかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)を祭って、オオナムチ(大己貴)の大国主神(おおくにぬしのかみ)と同一神である。
佐太大神(さだのおおかみ)は、日向(ひうが;宮崎県)の天孫降臨神話の猿田彦神(さるたひこのかみ;誰を神格化したか不明)と同一神とするが、神格化した人物が別人と証明して、よく似た神名で同一神と決めつけた勘違いで、超天才の僕が完全な答えを示した。

双璧(そうへき)の軍神(いくさがみ)の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の氏神で、藤原氏(中臣(なかとみ)氏)が物部(もののべ)氏と同族で、藤原氏の氏神と言っても間違いでない。
天津彦根命(あまつひこねのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)は、『出雲国風土記』で天津子命(あまつこのみこと)の神名で登場して、武虎別皇子(たけこわけのみこ)が両親を景行(けいこう)天皇と出雲王国(物部(もののべ)氏)の高田媛(たけだひめ)で、『出雲国風土記』に登場する理由が当然である。
天津彦根命(あまつひこねのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の兄弟の活津彦根命(いくつひこねのみこと;誰を神格化したか不明)は、出雲に縁(ゆかり)の神様と考えられるが、史料が少なすぎて、僕でも誰か求められず、他人(僕以外の人間)も論理的に説明してほしい。
天津彦根命(あまつひこねのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の息子の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)は、物部(もののべ)氏の神刀である布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)の化身(けしん)で、他にも物部(もののべ)氏と深く関係する。

忌部(いんべ)氏の祖先神の太玉命(布刀玉命;ふとだまのみこと:武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)は、神事をする古代の祭祀(さいし;先祖や祖先を祭ること)氏族で、布刀玉(ふとだま)が物部(もののべ)氏の神刀の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を連想させて、経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と同一神で、武渟川別(たけぬなかわわけ)の子孫で、武家の物部(もののべ)氏や阿倍(あべ)氏と同族である。
武渟川別(たけぬなかわわけ)の子孫の阿倍(あべ)氏は、古代に武家で、後世に陰陽師(おんみょうじ)の阿倍清明(あべのせいめい)などを輩出して、陰陽師(おんみょうじ)の阿倍(あべ)氏が衰退したとされて、藤原氏の勢力拡大なども、影響したと考えられる。
平安時代の摂関(せっかん)藤原氏の政敵は、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の物部(もののべ)氏や海部(あまべ)氏や千家(せんげ)氏や竹内(たけうち)氏や阿倍(あべ)氏や忌部(いんべ)氏など、古代太陽神氏族があまりにも広く日本全国に分家して、勢力の強い古代豪族が多くて、藤原氏の威光のために潰(つぶ)そうと画策(かくさく)したようである。

島根県意宇(おう)郡(松江市と安来(やすぎ)市の一部)は、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏(物部(もののべ)氏と同族)が元々の本拠地とした土地で、千家(せんげ)氏の先祖の意宇足奴(おうのすくね;淤宇宿禰)が応神天皇(おうじん)41年(西暦370年)に登場して、履中(りちゅう)天皇4年(西暦370年)が正しくて、地名の由来と年代が正しいと考えられる。
島根県意宇(おう)郡は、熊野大社や神魂(かもす)神社や荒神谷(こうじんだに)遺跡を中心として、弥生時代後期から古墳時代に出雲王国(物部(もののべ)氏)が実在した歴史を証明して、超天才の僕が2神社の歴史を証明した可能性が高くて、物部(もののべ)氏と千家(せんげ)氏の故郷(ふるさと)を求めて、今後の研究・分析に期待したい。

島根県出雲市斐川町(ひかわちょう)神庭(かんば)の荒神谷(こうじんだに)遺跡は、銅剣358本と銅矛16本と銅鐸(どうたく)6個が出土して、島根県雲南市(うんなんし)加茂町(かもちょう)岩倉(いわくら)の加茂岩倉(かもいわくら)遺跡で、銅鐸(どうたく)39個が出土して、出雲で弥生時代後期に青銅器の祭祀(さいし)が衰退して、近畿地方や東海地方や九州北部などと異なる。
2遺跡の銅鐸(どうたく)は、弥生時代後期に同型の銅鐸(どうたく)が近畿地方を中心に古代天皇家の勢力地から出土して、初代出雲国王で、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏(物部(もののべ)氏と同族)の始祖(しそ;始まりの先祖)である彦坐王(ひこいますのみこ)が弥生時代後期初頭に埋蔵したと考えられて、出雲で弥生時代後期に青銅器の祭祀(さいし)が衰退した時期と合致した。
出雲(島根県東部)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)が建国した弥生時代後期初頭に青銅器の祭祀(さいし)が衰退して、鉄器が急激に増えて、四隅突出型墳丘墓が増えて、弥生時代後期から独自の土器のスタイルが作られて、以後に変化しながらも、古墳時代前期まで、同じ流れを組む土器が作られて、弥生時代後期から朝鮮半島の土器が集中して出土して、朝鮮半島に最も近い九州北部を除いて、日本中に例がないとも証明された。
考古学的に見て3世紀中頃は、出雲が衰退した時期で、弥生時代後期に全国的な高地性集落遺跡が作られて、3世紀中頃の島根県で、多くの高地性集落遺跡が作られて、纏向(まきむく)遺跡から鳥取県と島根県と山口県の土器が出土して、出雲王国の建国(崇神(すじん)天皇12年;西暦95年)以降の考古学的証拠で、正しい歴史を完全に証明したと考えられる。

参考文献『出雲大社と千家氏の秘密』の著者の中見利夫氏は、日本神話を完全解釈できる考え方を持たなくて、コペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)を考えられず、現代日本人レベルの専門家(考古学会と歴史学会)と同じ考え方など、しょせん超天才の僕を超越できる人間が地球上に一人も存在しなくて、史実・真実・事実を求められない馬鹿共の足掻(あが)きが正史(正しい歴史)を特定できない悲劇を生み出した。
出雲王国の建国の西暦95年から崩壊の西暦260年までは、超天才の僕が西暦年月の詳細な出来事を特定して、西暦156年から266年までの計111年間の邪馬台国(大和国;やまとこく)時代も特定して、『後漢書』と『三国志・魏志倭人伝』と『ホツマツタエ』と「記紀」などの日中の歴史書も正しく完全解釈して、神レベルの認識力や判断力を持つ超天才の僕の神技(かみわざ)が凄(すさ)まじすぎた。
僕は2025年6月10日頃から出雲大社の歴史を大幅に修正して、この題名を『出雲大社と千家(せんげ)氏の歴史』から変更して、根本的に何度も分析・研究し直して、8月8日の午前5時半頃に修正し終えた。

<参考文献>
『出雲大社と千家氏の秘密』
著者・中見利夫 発行・株式会社宝島社
『新・古代出雲史−『出雲国風土記』再考』
著者・関和彦 発行・株式会社藤原書店
『出雲大社の暗号』
著者・関裕二 発行・株式会社講談社
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』
編著者・海部光彦 発行・元伊勢籠神社社務所
『新修 日本の神話を考える』
著者・上田正昭 発行・株式会社小学館
『正統『竹内文書』の謎』
著者・竹内睦泰 発行・株式会社学研パブリッシング
インターネットの不明サイトから少々拝借

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