甲斐古蹟考(かいこせきこう)

『甲斐古蹟考』は、甲斐国(かいのくに)…現在の山梨県の文化を切り開いた人物の土本毘古王(とほひこのみこ)を祖とする甲斐国造(かいのくにみやつこ)や甲斐国衙(かいのこくが)の歴史、神社・仏閣の由緒などが記された歴史書で、書かれたことが嘘で「記紀」に反するが、僕の分析結果が間違いで一部で、正しい部分も含む第一級史料と考えられる。

山梨県を切り開いた人物は、火火出見尊(ほほでみのみこと)の子孫とするが、正しく求めると火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の息子・火雷(ほのいかずち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の子孫に当たる向山土本毘古王(さきやまとほひこのみこ;またの名を日向土本毘古王(ひゅうがとほひこのみこ)とも井上土本毘古王(いのうえとほひこのみこ)とも言う)である。
土本毘古王は、欠史(けっし)八代の綏靖(すいぜい)天皇の大臣で、綏靖天皇の勅命(ちょくめい)で甲斐国に赴任(ふにん)して、仲哀(ちゅうあい)天皇の国造(くにみやつこ)任命(西暦255年)に甲斐国造に任命された人物だと考えられる。
『国造本紀』に「甲斐国造を景行(けいこう)天皇時代に狭穂彦王の三世孫である臣知津彦(おみしりつひこ)の子の塩海足尼(しおみのすくね)を国造とした」と記す。
しかし彦坐王の息子の狭穂彦王は、2代目出雲国王で、土本毘古王が綏靖天皇の大臣なのも案外間違いでないが、狭穂彦王の子孫の塩海足尼が大臣というのが考えにくい。

土本毘古王は、後世に手力雄神(たぢからおのかみ)に神格化されて、狭穂彦王の3世孫の臣知津彦が5代目出雲国王の物部夏花(もののべのなつはな)に当たると考えられて、物部夏花を神格化したのが手力雄神で、5代目出雲国王が継子に恵まれなかったとするが、武勇に秀でた継子がなくて出雲国王を従兄弟に譲ったと考えられて、決して子供に恵まれなかったわけでないと考えられる。
土本毘古王は、塩海足尼と同一人物で、父の物部夏花(臣知津彦)を手力雄神に神格化したと考えられる。臣知津彦(物部夏花)の子の塩海足尼は、狭穂彦王の子孫だから物部(もののべ)氏の出身である。

当時の甲府盆地が広大な湖水で人々がかろうじて山地で生活して、土本毘古王はその湖水を切り開くことを思い立ち、千人の人足を指揮して工事を進めて、土本毘古王が工事の邪魔になる大岩を自ら弓矢を持って打ち砕き、ついにその大業を成し遂げて、この岩を打ち砕いた所を禹(う)ガ瀬とか弓ガ瀬と言う。
この工事の結果、甲斐国は広大な平野が広がり、田畑を作ることで民の生活もうるおった。
(現在の山梨県南巨摩郡鰍沢町方面で、「禹」は黄河の治水に成功して、夏(か)王朝を開いたと言う古代中国の聖王のこと)

土本毘古王の妻の藤巻姫(ふじまきひめ)は、甲斐国に養蚕と織物を伝えて、土本毘古王に従う工人たちが人々に製鉄・鍛冶や玉の磨き方(山梨県は今も水晶の名産地)などを教えたため、その文化と産業も大いに向上して、土本毘古王がこれらの功績から、後世に手力雄神や向山(さきやま)大神や大宮大神や蹴裂(けさく)明神や佐久(さく)大明神などの神名で祭られた。

土本毘古王は、生前に国衙(こくが)で政治を行なったが、その一方で御室山(みむろやま;山梨山)に宮を建て、天照大神(あまてらすおおみかみ)と神武(じんむ)天皇と綏靖天皇を祭り、重要な判断に迫られると御室山の宮にこもって、神意をうかがったと言い、その御室山の宮こそ現在の山梨岡神社(現在の山梨県笛吹市春日居町鎮目)らしく、『延喜式』にも記す古社(式内社)で、その名前が山梨県の県名の由来である。
山梨岡神社の祭神は、天照大神たちと言うが、現在祭る神様が大山祗神(おおやまつみのかみ)と別雷神(わけいかずちのかみ)などである。

初代の甲斐国造である塩海足尼は、『甲斐古蹟考』で治水と製塩に功績のあった人物で、塩海足尼がその名前になる前、甲斐国で塩分を含んだ泉を探し当てて「塩海」の名前を得て、統治する国を「海国(かいのくに)」と名付けて、これが転じて甲斐国(かいのくに)になったと言う。

『甲斐古蹟考』は、古史古伝(「記紀」に反する書物)でなく第一級の歴史書に評価されて、見直されて世の中に認知させたいと思う。

<参考文献>
『『古史古伝』異端の神々 太古日本の封印された神々』
原田実・著者 株式会社ビイング・ネット・プレス:発行
『先代旧事本紀 訓註』
大野七三・校訂編者 批評社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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