客観も真理も「確信」にすぎない
「純粋意識」による認識は「思い込み」を含むが、色々な前提に包まれた意識の「思い込み」でない。
と言うのは、自分の「純粋意識」が認識するものは、他人もまた同じように認識するからである。
もはやここには、主観(物事を感じたり見たり聞いたり行なったりする心の働きを持つ主体)と客観(人間の精神的作用とは独立に存在するもの)と言う従来の図式が成立しない。
意識は物事そのものを捕らえず、意識の中で構築された「物事」を見ているだけで、純粋な客観が存在しなくて、あるのが「純粋意識」が捕らえた像だけである。
ではどのようにして、これがこれだと言えるのか、どのようにして他人と意見の一致ができるのか?
それは他人の認識と自分の認識が共通することだけで、我々が自分の認識を適切だと「確信」する。
物事が実際にそこにあるのか、それは幻でなく事実なのか、この言葉の意味が本当にこういう意味なのかなど、あらゆるものが自分と他人の2人以上の認識を突き合わせて初めて「確信」する。
つまり我々が客観や客観的(頭で考えただけの物事や気持ちによるのでなく、事実に基づいて判断を下す様子)と呼ぶ物は、物事そのものを冷静に見ることでなく、他人との間に共通する認識と言う「確信」の構造から生まれる客観である。
客観だけでなく、真理(いつどんな時にも変わることのない物事の筋道)さえ、このように我々の「確信」に定められる。
つまり客観も真理も「確信(固く信じて疑わないこと)」にすぎなくて、前に説明した意味でのレプリカ(複製品)である。
人間は世界と直(じか)に接した場所で生きていなくて、世界を複製した場所で生きていて、僕ら人間が意識と言うものを使って認識するからに他ならないとフッサールが言う。
人間の認識は、全てが嘘も真(まこと)も「確信」で、信じて疑わないことで成立するから、逆を言えば全て疑ってかかるしかなくて、それが真実と事実だと考えることになる。
人間の考え方の全ては、本人と他人が全て一致するのもしないのも、本当か嘘か疑ってかかって、それが事実で真実となって矛盾する。
僕の歴史研究は、凡人や専門家たちの現代日本人の歴史研究と全く違って、根本から納得できない論理飛躍だが、根本的に理解できるもので、僕本人と他人の意見が一致するかしないのが真実・事実である。
<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『この一冊で「哲学」がわかる!』
著者・白取春彦 発行・株式会社三笠書房
インターネットの不明サイトから少々拝借
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