歴代天皇の漢風諡号(しごう)

歴代天皇の漢風諡号(しごう)は、天皇の名前の漢字読みで、いつ頃から古代天皇家で、使われたか証明できないが、3世紀中頃の仲哀(ちゅうあい)天皇時代に漢風諡号(しごう)が存在して、2世紀後半の垂仁(すいにん)天皇時代に天皇家が漢字などの文化を学んだ可能性に2024年5月22日の午後10時半頃に気付いて、僕の偉大すぎる超知識を誰も予想できない。

垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)に田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)は、初めて古代中国の後漢(ごかん)王朝に派遣(遣漢使(けんかんし;遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)して、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に帰国して、11年間が謎(なぞ)の期間だった。
遣漢使(けんかんし)の使者の祖別命(みおやわけのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇の息子で、古代中国の後漢(ごかん)王朝に謁見(えっけん)して、10年ほど漢字などの古代中国の文化を学んで、10年ほど何をしたか疑問だったが、これが10年近く帰国しなかった理由と考えられる。
景行(けいこう)天皇元年(西暦191年)は、天皇家が初めて漢字を使って、日本国内の漢字の使用を西暦年で特定して、音読みが中国語発音で、訓読みが日本語発音で、何年間か分からないが、漢字の訓読みを当てはめて、漢字の音読みと訓読みを作ったと考えられる。
景行(けいこう)天皇元年(西暦191年)は、近畿地方を統一して、出雲王国(物部(もののべ)氏)があって、吉備(きび;岡山県と広島県東部)を平定して、福井県と岐阜県と愛知県が統治下にあって、山口県と静岡県と四国の全体が統治下にあるか証明できず、九州の全土を景行(けいこう)天皇12年から19年(202年から209年)に平定して、そんな中で漢字の音読みと訓読みを対比したと考えられる。
遣漢使(けんかんし)の帰国は、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)で、崇神(すじん)天皇と垂仁(すいにん)天皇が亡くなって、天皇の名前の漢字読みである漢風諡号(しごう)を死後に当てはめて、3代目の景行(けいこう)天皇よりも後世の5世紀の歴代天皇が生前に漢風諡号(しごう)を採用したと証明できる。

実在の初代の崇神(すじん)天皇は、漢風諡号(しごう)の「崇神(すじん)」を『ホツマツタエ』と『日本書紀』に記さないが、現在の「崇(すう)」の音読みでなく、古代の音読みが「崇(す)」の可能性があって、『ホツマツタエ(秀真伝)』や「記紀(『古事記』と『日本書紀』)」の言語学的な研究も重視される。
『ホツマツタエ』は、漢字以前の時代の古代文字である神代(しんだい)文字のホツマ文字で記して、古代文字のホツマ文字の書物が他に『ミカサフミ(三笠文)』と『フトマニ(太占)』があって、古代日本語の研究がこれから活発化するだろう。

奈良県天理市で出土した東大寺山(古墳出土)鉄刀は、国宝で「中平?年五月丙午(ひのえうま)・・・」の文字が刻まれて、霊帝の中平年間が中平元年(西暦184年)から中平6年(189年)で、丙午(ひのえうま)の日が干支(えと)の60日間で、2ヶ月だから特定できなくて、中平年間(184年から189年)が垂仁(すいにん)天皇30年(西暦181年)から景行(けいこう)天皇元年(西暦191年)の時期に合致した。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の神宝は、邊津鏡(へつかがみ)が前漢王朝時代(約2050年前)で、息津鏡(おきつかがみ)が後漢王朝時代(約1950年前)の銅鏡で、遣漢使(けんかんし)の使者に後漢(ごかん)王朝が下賜した宝物で間違いない。
東大寺山(古墳出土)鉄刀と神宝の邊津鏡(へつかがみ)と息津鏡(おきつかがみ)は、所持者が和珥(わに)氏と海部(あまべ)氏と出雲王国(物部(もののべ)氏)と天日槍(あめのひぼこ)の子孫が崇神(すじん)天皇の実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖とする古代太陽神氏族で、超天才の僕の実力を舐(な)めない方が良い。

ヨーロッパの太陽暦は、紀元前45年に導入したユリウス暦を1582年10月15日(金)にグレゴリオ暦へ変更して、日本がグレゴリオ暦と西暦年を導入したのが1873年(明治6年)1月1日(水)で、グレゴリオ暦と西暦年が別の暦法で、『ホツマツタエ』が西暦年とユリウス暦を使用したと考えられて、凡人(僕以外の人間)が「記紀」の西暦年の使用を証明してない。
『古事記』は、8世紀の西暦712年に献上して、『日本書紀』が720年に献上したが、両方を同時の720年に献上した可能性が高くて、『古事記』が記述の2人でなく、3人以上の複数人で記して、『古事記』を日本最古の書物と偽装工作して、「記紀」の編纂(へんさん)に『ホツマツタエ』の内容を使ったのが明白である。
『ホツマツタエ』は、天日槍(あめのひぼこ)の子孫の年代を記して、垂仁(すいにん)天皇3年が垂仁(すいにん)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)年の西暦190年から逆算しての188年、垂仁(すいにん)天皇88年が垂仁天皇37年(188年)で、全て188年で共通して、西暦年の使用を証明して、他にも西暦年の使用が認められる。
後漢(ごかん)王朝の霊帝の中平5年(西暦188年)は、垂仁(すいにん)天皇37年(西暦188年)で、古代中国で文化などを勉強する使者の年号を記して、年数から考えて、古代中国からの帰国が190年のはずで、なぜ年号を記したか『ホツマツタエ』の研究が必要である。
2003年11月頃に僕は、東大寺山(古墳出土)鉄刀と神宝の邊津鏡(へつかがみ)と息津鏡(おきつかがみ)や天日槍(あめのひぼこ)の子孫を合致して、天日槍(あめのひぼこ)の子孫の田道間守(たじまもり)を垂仁(すいにん)天皇の息子の祖別命(みおやわけのみこと)と2007年9月に出版した最初の著書に記さず、以降に正体を特定した。
僕は2002年10月頃に歴史研究を始めて、2003年7月頃に『日本書紀』の干支(えと)の即位年干支法(そくいねんかんしほう)に気付いて、西暦年と合致して、2003年11月頃に『日本書紀』が西暦年を使うと気付いて、2004年2月上旬か中旬に『ホツマツタエ』を初めて知って、2年に満たない僕の超成長が凄(すさ)まじすぎて、誰にも想像できない神技(かみわざ)である。

仲哀(ちゅうあい)元年(西暦252年)から仲哀(ちゅうあい)9年(西暦260年)に在位した4代目の仲哀(ちゅうあい)天皇は、仲哀(ちゅうあい)が仲(なか)の哀(かな)しいを当てはめて、出雲王国(物部(もののべ)氏)にいる父親の日本武(やまとたけ)天皇と対立して、2朝廷並列時代を漢字の意味と合致して、漢風諡号(しごう)を名付けたと考えられる。
つまり景行(けいこう)天皇の孫の仲哀(ちゅうあい)天皇は、天皇の名前の漢字読みである漢風諡号(しごう)を使ったと証明されて、先代の崇神(すじん)天皇を崇(あが)める神(かみ)の字を当てはめて、仲哀(ちゅうあい)天皇の正妻の神功(じんぐう)皇后を神(かみ)の功(いさお)の字を当てはめて、実在しない神武(じんむ)天皇も漢字の意味を理解して、当てはめたと考えられる。

倭(わ)の五王の人名は、安康(あんこう)天皇から武烈(ぶれつ)天皇が漢風諡号(しごう)を使って、5世紀の倭王(わおう;古代日本王)の漢風諡号(しごう)を僕が証明して、専門家(考古学会と歴史学会)の否定する定説が単なる思い込みで、思い込みが嘘(うそ)の歴代天皇の在位期間などを信じて、現在の古代天皇家の歴史を混乱させた。
思い込みは、拡大解釈や勘違いや常識などを含んで、人間の認識力の根本的な問題点で、人知を超えた超天才の僕が思い込みを排除して、その神技(かみわざ)が歴代天皇の在位期間や漢風諡号(しごう)などの嘘(うそ)を見破って、これがどれほどに困難な大偉業か、言葉に表せないほどの長時間の研究結果である。
僕は2003年6月頃に倭(わ)の五王の定説を否定して、何となく倭(わ)の五王の人名を安康(あんこう)天皇から武烈(ぶれつ)天皇の漢風諡号(しごう)に当てはめて、後に生前から漢風諡号(しごう)を使ったと100%証明して、当時の僕が無意識に史実・真実・事実を特定して、すでに圧倒的な神技(かみわざ)が目覚め始めていた。
僕の超感覚(超知識)は、思い込みが常識・固定観念・先入観・理屈・伝統・拡大解釈などに含まれて、意識して排除できる僕の神技(かみわざ)を公表して、コペルニクス的展開「自己認識の再構築」や考え方の哲学の現代哲学理論「現象学」などを論理的にひもといて、数ヶ月から数年以上で、凡人(僕以外の人間)が意識して、体得できる可能性を示して、人類史上最高最大最強の超天才と呼べるだろう。
正しいか間違いかの思い込みは、僕が意識してか無意識か分からないが、論理的に排除した神レベルの超人で、他人に教える教本を作って、僕の多芸の才能が異常すぎて、誰にも僕の超頭脳や超知識をまねできなくて、僕の情報の権利・・・著作権を馬鹿にできない。
今後の凡人(僕以外の人間)や専門家(考古学会と歴史学会)は、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)を再調査して、3世紀中頃から7世紀中までの考古学的証拠と歴史書を研究し直して、漢風諡号(しごう)を使った再発見をできると考えられる。

倭(わ)の五王の人名は、倭王(わおう;古代日本王)の讃(さん)が安康(あんこう)天皇で、倭王(わおう)の珍(ちん)が雄略(ゆうりゃく)天皇で、倭王(わおう)の済(せい)が清寧(せいねい)天皇で、倭王(わおう)の興(こう)が顕宗(けんそう)天皇で、倭王(わおう)の武(ぶ)が武烈(ぶれつ)天皇までの頭文字(かしらもじ)で、漢風諡号(しごう)の使用を証明した。
倭王(わおう)の賛(さん)は、東晋(とうしん)王朝の義煕(ぎき)9年(西暦413年;安康(あんこう)天皇19年)に遣使して、南朝宋(そう)王朝の永初2年(421年;安康(あんこう)天皇26年)と元嘉2年(425年;安康(あんこう)天皇26年)に倭王(わおう)の讃(さん)が遣使して、同一人物の安康(あんこう)天皇である。
倭王(わおう)の讃(さん)の弟である珍(ちん)は、南朝宋(そう)王朝に年代不明で2回遣使して、兄弟関係が安康(あんこう)天皇と雄略(ゆうりゃく)天皇が正しい。倭王(わおう)の済(せい)は、南朝宋(そう)王朝の元嘉20年(西暦443年;清寧(せいねい)天皇14年)と元嘉28年(西暦451年;清寧(せいねい)天皇22年)に遣使して、清寧(せいねい)天皇である。
済(せい)の世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)は、南朝宋(そう)王朝の年代不明に遣使して、清寧(せいねい)天皇の世継ぎの顕宗(けんそう)天皇が正しい。
倭王(わおう)の興(こう)は、南朝宋(そう)王朝の大明6年(西暦462年)に遣使した。倭王(わおう)の興(こう)は死んで、弟の武(ぶ)が即位したが、叔父(おじ)の顕宗(けんそう)天皇と甥(おい)の武烈(ぶれつ)天皇が正しい。
倭王(わおう)の武(ぶ)は、南朝宋(そう)王朝の昇明2年(西暦478年;武烈(ぶれつ)天皇4年)と南朝斉(せい)王朝の建元元年(西暦479年;武烈(ぶれつ)天皇5年)と南朝梁(りょう)王朝の天監元年(西暦502年;武烈(ぶれつ)天皇28年)に遣使して、倭王(わおう)の武(ぶ)と武烈(ぶれつ)天皇の名前が合致する。

『日本書紀』は、倭(わ)の五王を誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)から雄略(ゆうりゃく)天皇の7人に当てはめて、勘違いする混乱を生み出して、「記紀」が40年間も研究して、嘘(うそ)の年代を生み出して、思い込みを排除できない凡人(僕以外の人間)が騙(だま)されて、超天才の僕に一任するしかなかった。
倭王(わおう)の讃(さん)は、応神(おうじん)天皇から履中(りちゅう)天皇で、讃(さん)の弟の珍(ちん)を反正(はんぜい)天皇で、倭王(わおう)の済(せい)を允恭(いんぎょう)天皇で、済(せい)の世子(せいし)の興(こう)が安康(あんこう)天皇、倭王(わおう)の武(ぶ)が雄略(ゆうりゃく)天皇で、雄略(ゆうりゃく)天皇の名前の日本語読み「武(たける)」を中国語読みの武(ぶ)に当てはめて、完全な間違いである。
倭王(わおう)の讃(さん)は、允恭(いんぎょう)天皇2年が西暦413年で、允恭(いんぎょう)天皇10年が421年で、允恭(いんぎょう)天皇14年が425年で、応神(おうじん)天皇から履中(りちゅう)天皇の3人に当てはめて、讃(さん)の弟の珍(ちん)が年代不明で2回遣使して、履中(りちゅう)天皇の実弟の允恭(いんぎょう)天皇に当てはめる。
倭王(わおう)の済(せい)は、允恭(いんぎょう)天皇32年が西暦443年で、允恭(いんぎょう)天皇40年が451年で、済(せい)の世子(せいし)の興(こう)を允恭(いんぎょう)天皇の実子の安康(あんこう)天皇に当てはめて、雄略(ゆうりゃく)天皇6年が462年で、年代不明で興(こう)の弟の武(ぶ)が即位して、安康(あんこう)天皇の実弟の雄略(ゆうりゃく)天皇に当てはめる。
倭王(わおう)の武(ぶ)は、雄略(ゆうりゃく)天皇22年が西暦478年で、雄略(ゆうりゃく)天皇23年が479年で、南朝斉(せい)王朝に遣使してない480年が清寧(せいねい)天皇元年で、武烈(ぶれつ)天皇4年が502年で、完全に誤解させたが、超天才の僕を騙(だま)せなかった。

天皇の名前の漢字読みである漢風諡号(しごう)は、天皇の名前の日本語読みが倭風諡号(わふうしごう)で、別名を国風諡号(しごう)で、国風諡号(しごう)よりも後世に漢風諡号(しごう)ができたのが専門家(歴史学者)の定説で、根本的に勘違いした最大の理由である。
国風諡号(しごう)は、専門家(歴史学者)が初めて使ったのが持統(じとう)天皇で、僕が『ホツマツタエ』を正しい歴史書と証明して、実在の初代の崇神(すじん)天皇から使って、『ホツマツタエ』が諱(いみな;死後にその人を尊称する人名)と普通の人名が使われたと証明した。
3世紀中頃の4代目の仲哀(ちゅうあい)天皇は、生前か死後か分からないが、漢風諡号(しごう)を使ったと僕が証明して、5世紀の倭(わ)の五王も安康(あんこう)天皇から武烈(ぶれつ)天皇まで当てはめて、生前に漢風諡号(しごう)を使ったと証明して、僕の研究結果を100%否定できない。
歴代天皇の漢風諡号(しごう)は、死後に使うと凡人(僕以外の人間)が勘違いして、5世紀の倭(わ)の五王が生前に使ったと証明して、上皇様を平成上皇で、天皇陛下を令和天皇と呼ぶのが失礼でなく、これからの常識となるはずで、5月22日の午後6時半頃に修正した。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
インターネットの不明サイトから少々拝借

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