歴史書の関連性


「記紀」を始めとする歴史書の関連性は、何も見ない考えない人間にとって捕らえられるものでなく、大きく全体的に捕らえる圧倒的な視野があるかどうかである。
世界中でたった一人の全てを見渡す捕らえ方ができる僕は、歴史書の関連性をひもとくのが朝飯前でも、専門家を含めた凡人にとってあまりにも困難な考え方で、これがアインシュタイン博士以上の天才の僕が持つ実力である。

邪馬台国論争には倭国大乱と卑弥呼共立と卑弥呼の墓と男王の反乱と台与(とよ)の共立など様々な出来事があって、卑弥呼と台与という女王がいたなどと思い込むが、それが根本的な誤解を生み出す元である。
卑弥呼と台与は女王だと「思い込み」にすぎなくて、現代哲学理論「現象学」で全てを疑うことを当然として、全ての人間が歴史書の解釈を巡って、都合の良いように考え方を教えようとする。
僕も当然自分の解釈が正しいと教えるが、段落ごとに区切って断片的に教えるために全体が捕らえられず、多くの人を納得させるのに長時間かかった。
僕が2002年10月頃に古代日本史研究を始めて、2007年9月に最初の著書を出版して、2014年8月にホームページを開設して、今年に今の状態にホームページを修正して長い道のりだった。
人間は都合の良いことしか見ようとせず、意識しないと忘れたり常識に捕らわれて分からなかったり、色々と考えてしまって大切なことが見えないなど様々な状況が起こる。
僕の人生も思うようにいかなくて、その時正しいと思ってもうまく行かなかったり、逆にダメ元でやってみるとうまく行ったり、色々なことが起こってどうなるか未来が分からない。
「思い込み」にすぎないどんな考え方も事実と真実が含まれて、それをどう考えて結び付けていくかで全てが決まる。
大切なのは人間の考え方の根源を追求することで、事実も真実も全てを疑ってかかって、そこから正しい可能性を探っていくことである。

多くの人は邪馬台国論争と聞いて大まかな想像しかせず、『魏志倭人伝』などの歴史書を根本的に読まないから専門家に頼るが、考古学会と歴史学会の専門家自体が当てにならないと考えもしない。
邪馬台国論争で北九州の属国(北九州4ヶ国)の定説は間違いで、古代地名の古代中国語読みを当然とする所を日本語読みで当てはめて、方角が間違っているのに考古学的証拠でねじふせて、考古学会と歴史学会が信用できなくて当たり前である。
それなのに現代人は邪馬台国論争の定説を受け入れて、専門家が100%正しいと信じて疑わなかったのが古代日本史の実情だった。
戦後すぐに発見された岩宿遺跡は、赤土(関東ローム層)から旧石器が出土しない常識に捕らわれた考古学会を排除して、旧石器時代を証明した相沢忠洋氏のコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)である。
考古学者の藤村新一氏が自作自演した旧石器ねつ造事件は、日本の考古学会で最大の凶悪事件で、考古学会の原人や旧人のブームを全てぶち壊したものだった。
しかし考古学会と歴史学会が共同で古代日本史を否定した事実は、僕がたった一人で求めた史実・事実・真実で、旧石器時代の証明や旧石器ねつ造事件などのスキャンダルよりはるかに大きい最悪の大罪となった。
考古学会と歴史学会がおかした大罪とは、一体どのようなものか細かく僕が証明していく。

歴史を欠(か)いた8人の天皇を欠史(けっし)八代と呼んで、後半の孝安(こうあん)天皇から開化(かいか)天皇は、実在の崇神天皇から皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと;成務(せいむ)天皇)を祖先化している。
孝安天皇から開化天皇までの系譜の皇子皇女などは、特徴をつかめば祖先化したのが明白で、実在系譜の祖先化に気付いたのが僕だけである。

実在の初代・崇神(すじん)天皇の即位から10年後、丹波(古代の京都府北中部)の平定が崇神天皇の兄弟の彦坐王(ひこいますのみこ)から報告された。
僕は崇神天皇の即位年の干支(えと)が甲申(きのえさる)で西暦84年、丹波の平定が西暦94年と当てはめて、それが正しいと信じて疑わない。
弥生時代後期初頭(西暦100年頃)の考古学的証拠として、大阪府と京都府北部から兵庫県北部で共通した出来事があって、弥生時代中期末の大規模集落遺跡の多くが突然に断絶か消滅して、弥生時代後期初頭の小規模集落遺跡が急増して、他にも周辺地域で考古学的証拠がある。
崇神天皇の即位年と丹波の平定は、弥生時代後期初頭の考古学的証拠の合致が偶然で片付けられない。

倭国大乱は日本全土の大戦争と誤解されて、正しくは倭の(邪馬台)国の大乱で、実在の2代目・垂仁(すいにん)天皇5年(西暦156年)の皇位継承権争いである。
垂仁天皇の従兄弟で2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、実妹で皇后の狭穂姫(さほひめ)をたぶらかして戦争を起こして、最初の邪馬台国(大和;古代天皇家)と出雲王国(物部(もののべ)氏)による内乱である。
倭国大乱の邪馬台国と出雲王国の皇位継承権争いに考古学的証拠はないが、僕が証明する歴史書の論理的根拠がある。
卑弥呼共立は男弟の補佐が無視されがちで、伊勢神宮の斎王の倭姫命(やまとひめのみこと;卑弥呼)が異母弟の景行(けいこう)天皇(男弟)を補佐して、実質的に邪馬台国を統治するのが天皇で女王でない。
卑弥呼を根本的に女王と勘違いする現代人は、絶対的条件として受け止めて常識と勘違いしてただの皇女と疑わず、卑弥呼に男弟という血縁がいることを見逃してしまう。
「記紀」や古史古伝『ホツマツタエ』を完全解釈できる僕は、「記紀」で景行天皇の実妹の倭姫命にだまされず、『ホツマツタエ』の景行天皇の異母姉の倭姫命を信じて、正当な歴史書の「記紀」が偽装工作したと信じて疑わない。

卑弥呼の墓と男王の反乱が個別に捕らえてはならず、景行天皇(男弟)陵の箸墓(はしはか)古墳と皇太子の日本武尊の皇族に認められない天皇の即位(日本武(やまとたけ)天皇)の反乱が、2度目の邪馬台国と出雲王国による内乱である。
卑弥呼を絶対的条件で女王と勘違いする現代人は、景行天皇陵の箸墓古墳を卑弥呼の墓と勘違いして邪馬台国論争に持ち出すが、全て僕の『魏志倭人伝』の完全解釈で解決できる。
日本武尊は景行天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)の先月に東海平定に旅立って、大和に天皇も皇太子も不在になって皇位継承権争いが起こって、翌年の西暦251年に日本武尊が戻って来て、皇位継承権争いを治めようと画策した。
日本武尊は伯母(おば)で皇族の説得に大権を持つ倭姫命(卑弥呼)を殺して、太陽神の巫女を殺した太陽神殺しの大罪をおかした日本武尊が追われる立場になって、三種の神器を強奪して日本武天皇に強行即位するが状況悪く、出雲王国に亡命した。
日本武尊が特別扱いされる皇子や天皇の記述は、天皇や皇太子だったなら当然の記述で、「記紀」だけが正当な歴史書でないことを信じる必要がある。
東海平定の考古学的証拠は、東日本最古の3世紀後半の前方後円墳で、福島県河沼郡会津坂下町の杵ヶ森古墳と千葉県市原市の神門3号墳と4号墳と5号墳と長野県中野市の高遠山古墳である。
日本武尊の東海平定した場所は中部地方から東北地方南部で、東日本最古の3世紀後半の前方後円墳が確認された場所と合致する。

西暦260年神無月に神功(じんぐう)皇后(台与)は、皇太子を身ごもって臨月が近い状態でありながら、三種の神器の奪還のために出雲王国に宣戦布告して、偽りの日本武天皇を戦死させて、出雲王国を崩壊させた。
翌年の西暦261年に神功皇后は、夫の仲哀(ちゅうあい)天皇が崩御して、天皇候補がいなくて摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)になって、これが卑弥呼の一族(皇族)である台与の共立で、台与が13才とされるが神功皇后の33才の間違いである。

崇神天皇から日本武尊までの時代の史実は、日本神話の物語と見事に合致して、史実を神話化したと考えない限り合致させられるはずなどない。
「記紀」を始めとする歴史書は、あまりに関連性があるのに現代人が全て見逃して、それを指摘できる僕があまりに別格の超天才である。
また世界中の神話や文明と合致する天皇家は、先祖が世界中を巡った神や王家の血脈としか考えられず、僕がその可能性を指摘してしまった今、言い逃れできるものでもない。
天皇家は世界中の神話や文明だけでなく、超古代文明をもたらした奇跡の血脈かもしれず、もはや僕の手に負える次元でなく、誰かがいつかひもとく日が来るかもしれない。

<参考文献>
インターネット

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