即位年干支法(そくいねんかんしほう)と崩年干支(ほうねんかんし)

『古事記』の崩年干支(ほうねんかんし)は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)年の干支(えと)で、歴代天皇の西暦年の特定方法で、何十年か前の考古学会でも利用したが、歴代天皇の崩年干支(ほうねんかんし)を飛び飛びで記して、当てにならなくて忘れ去られた。
2003年7月頃に僕は、『日本書紀』の即位年干支法(そくいねんかんしほう)を名付けて、西暦84年から329年までの西暦年を特定して、2023年5月20日頃に『ホツマツタエ』のアスス歴を調べて、5月25日の午後5時頃に『古事記』の崩年干支(ほうねんかんし)で、334年から507年までの西暦年を特定して、歴代天皇の西暦年月が完全に判明した。
2003年7月頃に僕は、崩年干支(ほうねんかんし)に習(なら)って、即位年干支(そくいねんかんし)と呼んだが、2010年代に法(ほう)を付けて、即位年干支法(そくいねんかんしほう)と改めて呼んで、2024年10月2日に修正した。

仁徳(にんとく)天皇から雄略(ゆうりゃく)天皇までの(ほうねんかんし)は、間違いなく崩御(ほうぎょ)年が正しくて、他の干支(えと)も旧暦年と西暦年の修正で、年数がずれるのも計算して、『古事記』の干支(えと)が正しくて、「記紀」が40年間研究した理由で、僕の20年半の研究成果である。
西暦84年から329年までの干支(えと)は、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が合致して、絶対に不動の事実で、334年から507年1月上旬頃までの干支(えと)も不動で、5世紀の倭(わ)の五王が遣使した年などと合致して、何十回も何百回も幾ら検証しても、僕が特定した年数を崩せず、これが「記紀」の40年間の研究結果である。
『古事記』は、稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗唱(あんしょう;頭の中の記憶を口で伝えること)して、太安万侶(おおのやすまろ)が編集して、2人だけで作ったのが嘘(うそ)で、『日本書紀』と共に国家規模でまとめて、『古事記』が『日本書紀』より後世にできた偽書説(ぎしょせつ)も完全に否定して、僕の研究成果である。

僕は『日本書紀』の崇神(すじん)天皇元年から神功(じんぐう)皇后の死去年を特定して、『古事記』の崇神(すじん)天皇から仲哀(ちゅうあい)天皇の崩年干支(ほうねんかんし)が間違いで、以降の天皇時代の崩年干支(ほうねんかんし)も間違いと誤解して、『古事記』の仁徳(にんとく)天皇から雄略(ゆうりゃく)天皇までの崩年干支(ほうねんかんし)が正しいと気付かなかった。
この教訓で僕は、崇神(すじん)天皇元年から武烈(ぶれつ)天皇の崩御(ほうぎょ)年までを統合して、即位年干支法(そくいねんかんしほう)と崩年干支(ほうねんかんし)が同時期の暦法で、『古事記』が『日本書紀』より後世にできた偽書説を否定して、僕の自論をさらに補強した。

応神(おうじん)天皇から武烈(ぶれつ)天皇までの即位年干支法(そくいねんかんしほう)と崩年干支(ほうねんかんし)は、干支(えと)の年と西暦年が合致しないように徹底的に研究して、『日本書紀』と『古事記』を関連付けて、完全な干支年(かんしねん)の特定方法を僕が編み出した。
2023年5月25日の午後5時頃に僕は、崩年干支(ほうねんかんし)の真意を特定して、即位年干支法(そくいねんかんしほう)と合致した結果、応神(おうじん)天皇から武烈(ぶれつ)天皇までの即位年干支法(そくいねんかんしほう)が無関係な西暦年を含ませて、『宋書』の遣使した西暦年と合致しないようにして、十分な研究・分析がされたと判明した。

皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)の初代である神武(じんむ)天皇の即位年干支法(そくいねんかんしほう)は、辛酉(かのととり)の紀元前660年だが、実在しない作られた人物で、求める必要がない。
崇神(すじん)天皇の即位年干支法(そくいねんかんしほう)は、甲申(きのえさる)の西暦84年で、崇神(すじん)天皇の崩年干支(ほうねんかんし)が戊寅(つちのえとら)年(西暦78年)12月で、78年と84年が当てはまらなくて、間違って計算しないためである。
2代目の垂仁(すいにん)天皇の即位年干支法(そくいねんかんしほう)は、壬辰(みずのえたつ)の西暦152年で、3代目の景行(けいこう)天皇の即位年干支法(そくいねんかんしほう)が辛未(かのとひつじ)の西暦191年である。
皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと;成務(せいむ)天皇)の即位年干支法(そくいねんかんしほう)は、辛未(かのとひつじ)の西暦251年だけで、この年が天皇不在の一年間で、日本武(やまとたけ)天皇を僕が歴代天皇から外(はず)した。
4代目の仲哀(ちゅうあい)天皇の即位年干支法(そくいねんかんしほう)は、壬申(みずのえさる)の西暦252年で、神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)元年が辛巳(かのとみ)の西暦261年で、摂政(せっしょう)69年が己丑(つちのとうし)の西暦329年である。
安康(あんこう)天皇の即位年干支法(そくいねんかんしほう)は、甲午(きのえうま)年(西暦394年)12月14日(西暦395年1月中旬頃)に即位して、旧暦年と西暦年を直すと繰り上がって、安康(あんこう)天皇33年8月9日(427年9月上旬頃)に亡くなったと考えられる。
雄略(ゆうりゃく)天皇の即位年干支法(そくいねんかんしほう)は、丁酉(ひのととり)の西暦457年で、清寧(せいねい)天皇が亡くなった年と考えられる。

成務(せいむ)天皇の崩年干支(ほうねんかんし)は、乙卯(きのとう)年3月15日だが、武烈天皇(ぶれつ)元年(乙卯;きのとう)3月2日(西暦475年4月上旬頃)に即位して、武烈(ぶれつ)天皇32年12月8日(西暦507年1月上旬頃)に亡くなったと考えられる。
仲哀(ちゅうあい)天皇の崩年干支(ほうねんかんし)は、壬戌(みずのえいぬ)年6月1日だが、仁賢(にんけん)天皇元年(壬戌;みずのえいぬ)1月15日(西暦472年2月中旬頃)に即位して、仁賢(にんけん)天皇3年8月8日(西暦474年9月上旬頃)に亡くなったと考えられる。
誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)の崩年干支(ほうねんかんし)は、甲午(きのえうま)年9月9日(西暦334年10月上旬頃)だが、祖母の神功(じんぐう)皇后が西暦329年に亡くなって、皇位の3年間が空白で、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に即位して、計算が正しいと考えられる。
仁徳(にんとく)天皇の崩年干支(ほうねんかんし)は、丁卯(ひのとう)年(西暦367年)8月15日だが、『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇67年10月5日に天皇陵を定めて、10月18日に天皇陵を築造して、仁徳(にんとく)天皇87年1月16日に亡くなって、仁徳(にんとく)天皇34年1月16日(西暦367年2月上旬頃)に亡くなったと考えられる。
仁徳(にんとく)天皇の崩年干支(ほうねんかんし)は、丁卯(ひのとう)年(西暦367年)8月15日だが、安康(あんこう)天皇33年(丁卯(ひのとう)8月9日(427年9月上旬頃)に安康(あんこう)天皇が亡くなったと考えられて、干支(えと)の年が60年ずれる。
履中(りちゅう)天皇元年2月1日(西暦367年3月上旬頃)に履中(りちゅう)天皇は即位して、履中(りちゅう)天皇の崩年干支(ほうねんかんし)が壬申(みずのえさる)年で、『日本書紀』履中(りちゅう)天皇6年3月16日(西暦405年4月中旬頃)に亡くなって、修正して履中(りちゅう)天皇6年3月16日(372年4月中旬頃)で合致した。
反正(はんぜい)天皇元年1月2日(西暦373年2月上旬頃)に即位して、反正(はんぜい)天皇の崩年干支(ほうねんかんし)が丁丑(ひのとうし)年(反正(はんぜい)天皇5年)7月(377年8月頃)に亡くなったと考えられる。
允恭(いんぎょう)天皇元年12月(西暦378年1月頃)に即位して、允恭(いんぎょう)の崩年干支(ほうねんかんし)が甲午(きのえうま)年(允恭(いんぎょう)天皇17年)1月15日(394年2月頃)に亡くなったと考えられる。
雄略(ゆうりゃく)天皇元年11月13日(427年12月中旬頃)に即位して、雄略(ゆうりゃく)天皇の崩年干支(ほうねんかんし)が己巳(つちのとみ)年(雄略(ゆうりゃく)天皇3年)8月7日(西暦429年9月上旬頃)に亡くなって、息子の清寧(せいねい)天皇が430年に即位したと考えられる。

『古事記』の崩年干支(ほうねんかんし)は、『ホツマツタエ』のアスス歴と『日本書紀』の即位年干支法(そくいねんかんしほう)と見事に合致して、これからの歴史研究に必要不可欠で、重要な参考史料である。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古事記(中)(下)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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