作られた系図


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

「記紀」に記される歴代天皇の中で初代の神武(じんむ)天皇と10代の崇神(すじん)天皇の間にはさまれた8代の天皇のことを欠史(けっし)八代と呼び、その8代の天皇は歴史が欠けていることからそう呼ばれる。
僕の歴史研究から10代の崇神天皇が西暦84年から実在で、それ以前の9人の天皇が架空の人物だと考えられる。
欠史八代が架空の存在だとすると系図が全く何の意味のなく作成されたかというと、そうでなく後半の4代の天皇の系図に関しては違う。
欠史八代後半の4代の天皇…孝安(こうあん)天皇から開化(かいか)天皇までと崇神天皇を含めて、崇神天皇から成務(せいむ)天皇までの系譜を祖先化している可能性は、決して否定できない事実である。
両方の系図を見比べると単なる偶然でなく、あまりに似ているから間違いなく祖先化していると見て良いだろう。
1300年近く古代日本史研究がされているのに作られた系図に気付いたのが僕だけらしく、コペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)を使わなくても気付ける単純な考え方だが、『日本書紀』の邪馬台国時代の歴史に気付けない者たちにとって仕方のないことかもしれない。
歴史学者なら気付きそうなものだが、現代日本人レベルの頭脳は柔軟性に欠けてるからだとすると、僕のコペルニクス的転回のように新しいイメージをずっと作り上げられる方が適しているのかもしれない。
『日本書紀』に基づいた対比系図を下に示す。

孝安(こうあん)天皇の実兄・天足彦国押人命(あまたりひこくにおしひとのみこと)は和珥(わに)氏の始祖で、崇神(すじん)天皇の異母兄弟・彦坐王(ひこいますのみこ)が和珥氏の出身なのが偶然でなく、崇神天皇と彦坐王を祖先化しているから重なるのである。
孝霊(こうれい)天皇は垂仁(すいにん)天皇を祖先化していて、孝元(こうげん)天皇が景行(けいこう)天皇を祖先化している。
『ホツマツタエ』によると兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと)の子孫が吉備津彦(きびつひこ)で吉備(きび)氏の始祖とされるが、吉備(岡山県と広島県東部)を平定したのが兄稚武彦命だから吉備津彦と同一人物と考えられて、兄稚武彦命が男の三人兄弟の長男である。
祖別命(みおやわけのみこと)は男の三人兄弟の長男で、吉備津彦に祖先化されていると考えて間違いなく、母が結婚した年代だけが記されて、この皇子の事績がないから母が結婚した年代が当てにならない。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は古代太陽神の大物主神(おおものぬしのかみ)の妻で、倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕える未婚の皇女)であるから、倭迹迹日百襲姫命として祖先化されているのが間違いない。
開化(かいか)天皇と逆賊の武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)は同一人物で、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)と成務(せいむ)天皇も同一人物で、日本武尊が悲劇的英雄として死んだのでなく逆賊として死んだため、開化天皇と武埴安彦命に祖先化されている。
大彦命(おおびこのみこと)は阿倍(あべ)氏の始祖で、武虎別皇子(たけこわけのみこ)が阿倍氏の出身なのが大彦命に祖先化されているためである。
崇神天皇の皇后・御間城姫(みまきひめ)は仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后・神功(じんぐう)皇后を祖先化していて、御間城姫の父・大彦命が実在しないから、神功皇后の父・武虎別皇子を祖先化していると考えて間違いない。

この祖先化した系図は『日本書紀』の系図を忠実に記した正確なもので、僕の解釈を加えたものがまず間違いなく、論理的根拠が正しくて正確に求めてあると考えられる。
皇統譜(皇室の戸籍簿)によると6代目の孝安天皇から10代目の崇神天皇までの系図は『日本書紀』の系図の正確なもので、10代目の崇神天皇から14代目の仲哀天皇までも『日本書紀』の系図で正確なもので多少僕の私見も入るが、系図が祖先化されていて実在しただろう系譜が作為的に祖先の人物と同一人物なのが間違いない。
系図の祖先化は僕の最初の著書『古代日本史への挑戦』で求めた答えだが、現在の考古学者も歴史学者も歴史家も見逃していて、しょせん参考文献として何も見ていなかった証拠である。
何が正しいか間違いか分からない人間が幾ら古代日本史研究をしても無意味で、それが分かっている僕だけが真実にたどり着いたのである。
系図の祖先化は『日本書紀』を正しく解釈していれば気付けるもので、コペルニクス的転回でなくても十分に気付けるものである。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『ホツマ辞典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行

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