遣魏使


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

魏王朝遣使(遣魏使)は古代天皇家が古代中国の魏王朝と外交したもので、『魏志倭人伝』と『日本書紀』から西暦239年から247年までが年代把握できて、遣魏使が遣隋使や遣唐使に習(なら)って僕が作った造語で、現代人に遣魏使を理解できない。
『日本書紀』は神功(じんぐう)皇后時代に『魏志倭人伝』の記述を記して、古代天皇家が邪馬台国と関係すると思わせたり、神功皇后が卑弥呼だと疑わせたり、色々な解釈ができるが誰にもひもとけないと思えるかもしれない。
しかし『日本書紀』や『魏志倭人伝』などの日中の歴史書は、正しい現代語訳や解釈が全くできていないだけで、それができるアインシュタイン博士以上の天才の僕からすれば、専門家の行為が子供のお遊びにすぎない。

『魏志倭人伝』に出てくる人物で、女王の卑弥呼と実質的に国政執行する卑弥呼の男弟と卑弥呼の死後に立った男王とまた卑弥呼の一族から女王となった台与(とよ)は、この4人が誰か分からない上に色々勘違いされて、邪馬台国論争の大きな謎とされる。
天照大神(あまてらすおおみかみ)と月読尊(つくよみのみこと)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の3姉弟は、国生みの夫婦神が生んだ三貴子(みはしらのうずのみこ)と呼ばれる三人の高貴な子で、『魏志倭人伝』の卑弥呼と台与と男弟と男王を神格化している。
古代の男性の太陽神アマテルカミ(天照神)と現在の女性の太陽神・天照大神は、共に倭姫命(やまとひめのみこと;卑弥呼)と神功(じんぐう)皇后(台与)を神格化して、月読尊が景行(けいこう)天皇(男弟)を神格化して、素戔嗚尊が日本武尊(やまとたけのみこと;男王)を神格化したのが間違いない。
アインシュタイン博士以上の天才の僕からすればこの程度の知識は、求めるのが簡単すぎるが『ホツマツタエ』に『魏志倭人伝』が利用されたのが間違いない。
『魏志倭人伝』を利用した『ホツマツタエ』は、古代天皇家が邪馬台国を歴史の闇に隠すために利用して、邪馬台国が天皇家と関係ない別の王朝か天皇家の先祖か天皇家そのものかなど疑問を持たせるために編纂(へんさん)された。
しかしどんなに偽装工作しても、アインシュタイン博士以上の天才の僕はだませなくて、あっさりと正解を導き出してしまった。

『魏志倭人伝』は「景初二年六月」に貢(みつぎ)を献上したと記されて、『日本書紀』神功皇后の摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)39年に「明帝の景初三年六月(西暦239年7月頃)」と記して、『魏志倭人伝』の「景初二年」が間違いで、『日本書紀』の「景初三年」が正しくて、景行天皇49年(西暦239年)に当たる。
神功皇后の摂政39年と西暦239年は合致して、『ホツマツタエ』も『日本書紀』も西暦年を把握して、天皇家が西洋の歴史に精通していた証拠である。
『日本書紀』神功皇后の摂政40年に「正始元年(西暦240年)…詔書や印綬を持たせ」と記して、印綬が「親魏倭王」の金印を下賜したことを意味して、金印を受け取ったのが邪馬台国(大和国)王の景行天皇である。
女王国(伊勢国)の倭姫命(卑弥呼)は、すでに2代目の伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕える未婚の皇女)を引退して、3代目の斎王の五百野皇女(いものひめみこ)が任命されて、伊勢市の磯(いそ)神社で古代太陽神の天照神(あまてるかみ)を祭る巫女だった。
『日本書紀』神功皇后の摂政43年に「正始四年(西暦243年)」にも遣使して献上品を届けたと記されて、これ以降は『日本書紀』に『魏志倭人伝』の記述が全くない。

『魏志倭人伝』の卑弥呼と男弟と男王と台与は、倭姫命と景行天皇と日本武尊と神功皇后に間違いなくて、遣漢使と遣魏使と遣晋使を邪馬台国(古代天皇家)が行なったと求められなくして、邪馬台国論争を混乱させようとした。
しかし古代天皇家の正史を求めた超天才の僕は、該当する人物の年代操作や偽装工作を排除して、正しい歴史を再現してみせた。
『魏志倭人伝』の狗奴国(くぬこく)攻撃(西暦247年)や卑弥呼の死と男王の反乱(西暦251年)や男弟の墓(西暦252年)や台与の任命(即位と勘違い;西暦261年)などの記述を隠した。
『日本書紀』景行天皇27年の熊襲(くまそ)王国攻撃は、景行天皇57年(西暦247年)の熊襲王国攻撃を年代変更して、狗奴国攻撃(西暦247年)を故意に隠したものである。
『日本書紀』崇神(すじん)天皇10年の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の死と武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の反乱は、西暦251年(天皇の年号はない)の倭姫命(卑弥呼)の死と日本武尊(男王)の皇位継承権争いの反乱を変えた物語である。
『日本書紀』成務(せいむ)天皇2年の景行天皇の葬礼は、仲哀(ちゅうあい)天皇元年(西暦252年)の景行天皇陵の箸墓(はしはか)古墳葬礼に当たる。
『日本書紀』神功皇后の摂政元年(西暦261年)の摂政任命は、神功皇后(記紀から抹消された名前が豊姫命(とよひめのみこと)に当たる)が夫の仲哀天皇に代わっての政治代行だから即位でなく、よく台与の即位と勘違いされる。
この程度も求められないくせに邪馬台国論争とは、専門家の頭脳レベルが現代人並みだと知れて、アインシュタイン博士以上の天才の僕と勝負にもならない。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行

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