魏王朝遣使(遣魏使)

景行(けいこう)天皇49年(西暦239年)に邪馬台国(大和国;やまとこく)は、古代中国の魏王朝への使者(遣隋使や遣唐使の言葉に習(なら)って、遣魏使(けんぎし)と表現する)を派遣して、外交したことを『三国志・魏志倭人伝』に記した。

『三国志・魏志倭人伝』に「景初二年六月、倭女王、遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献。太守劉夏、遣吏、将送詣京都」と記して、景初三年六月(西暦239年7月頃)に大和国の景行天皇が大夫の難升米(なんしゅうまい)らを派遣して、天子(魏王朝の皇帝)を来朝して貢献を求めて、帯方郡の太守の劉夏(りゅうか)が役人を派遣して、魏王朝の国都(洛陽)まで送らせたと解釈できる。
『日本書紀』神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)39年は、「この年は太歳(たいさい)己未(つちのとひつじ)で、明帝の景初3年6月(西暦239年7月頃)に倭の女王が大夫の難升米(なんしゅうまい)らを遣わして帯方郡(たいほうぐん)に至って、洛陽の天子にお目にかかりたいと言って、貢(みつぎ)を持って来た。太守の劉夏(りゅうか)は、役人を付き添わせて、洛陽に行かせた」と記す。

太歳(たいさい)の己未(つちのとひつじ)は、古代中国で作られた干支(えと)の年で、同じ干支(えと)の年が60年周期で一度だけで、己未(つちのとひつじ)が西暦239年で、『日本書紀』が景初三年で、『三国志・魏志倭人伝』が景初二年と記して、正しいのが景初三年である。
摂政(せっしょう)39年と西暦239年は、偶然に一致するのでなく、『日本書紀』成立の西暦720年に天皇家が西暦年を間違いなく把握したためで、他に幾らでも証拠がある。
『三国志・魏志倭人伝』に記す人名は、古代中国語読みでいくら日本語読みを当てはめても求められず、古代中国語のできる有力氏族出身者と考えられて、人名を適当に発音しないで、正しく日本語発音するべきである。

『三国志・魏志倭人伝』に「正始元年、太守弓遵、遣建忠校尉梯儁等、奉詔書印綬、詣倭国、拝仮倭王、并斎詔、金帛錦刀鏡采物。倭王因使上表文謝詔恩」と記す。
は難しい漢字で判別しにくくて、他のでホームページを検索するか、『三国志・魏志倭人伝』の原文を検索するなどして解決してほしくて、ホームページで表示できるが注意書きにする。
正始元年(西暦240年)に帯方郡(たいほうぐん)の太守の弓遵(きゅうじゅん)は、建忠校尉・梯儁(ていしゅん)らを派遣して、詔書(しょうしょ)と印綬(いんじゅ)を奉じて日本国に行き、景行(けいこう)天皇に仮に拝謁して、詔書(しょうしょ)をもたらして、金・絹・錦・毛織物・刀・鏡・采物を下賜した。
景行(けいこう)天皇は、使者によって上表文を受けて、天子の恩典を答えて謝礼したと解釈できる。 『日本書紀』神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)40年は、「正始元年(西暦240年)に遣建忠校尉・梯儁(ていしゅん)らを遣わして、詔書(しょうしょ)や印綬を持たせて、倭国(古代日本)に行かせた」と記して、最初の遣魏使(けんぎし)が帰国した。

詔書(しょうしょ)は、天子の言葉を記した文書で、印綬(いんじゅ)が卑弥呼(ひみこ)の受け取った金印と勘違いした「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印で、本当に受け取ったのが景行(けいこう)天皇で、銅鏡が三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)に関係なく、僕が邪馬台国(大和国;やまとこく)論争を決着した。
「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印は、西暦265年に滅亡した魏王朝との友好関係を示す物で、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)葬礼の景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳に納(おさ)めて、それ以降の陵墓の副葬品と考えられる。
400面以上出土した三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は、「青龍三年」と「景初三年」と「正始元年」の魏王朝の年号を刻む7面の銅鏡が出土して、『三国志・魏志倭人伝』の銅鏡の証拠とするが、日本各地の古墳の一部しか発掘調査せず、その何十倍以上の量が見つかると考えられて、本当か嘘(うそ)か関係ない。
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争は、僕が古代天皇家の実在で決着して、皇居や天皇陵などの考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が合致して、誰も僕の自論を100%覆(くつがえ)せなくて、史実・真実・事実が証明された。

『三国志・魏志倭人伝』に「其四年、倭王、復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人…掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬」と記して、正始四年(西暦243年)に景行(けいこう)天皇がまた使者の大夫の伊聲耆(いせいき)や掖邪狗(えきやく)ら八人を派遣して、…掖邪狗(えきやく)たちが率善中郎将の印綬(いんじゅ)を拝礼したと解釈できる。
『日本書紀』神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)43年に「正始4年(西暦243年)に倭王は、また使者の太夫の伊声者邪狗ら8人を遣わして、献上品を届けた」と記す。

『三国志・魏志倭人伝』に「卑弥呼以死。大作冢、径百余歩、徇葬者奴婢百余人。更立男王、国中不服、更相誅殺、當時殺千余人。」と記して、前後関係の解釈を滅茶苦茶にして、邪馬台国(大和国;やまとこく)が古代天皇家の歴史か分からなくさせた。
西暦251年(天皇不在の年)に日本武尊(やまとたけのみこと)は、強行即位して日本武尊(やまとたけ)天皇になって、卑弥呼(ひみこ)で伯母(おば)の倭姫命(やまとひめのみこと)を殺して、太陽神殺しから皇族や豪族に認められず、さらに互いに誅殺して、当時千人余りが殺された。
景行(けいこう)天皇は、箸墓(はしはか)古墳に葬礼されて、直径百歩余り(約144メートル以上)の前方部を作って、殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)者百人余りの代わりに埴輪(はにわ)を立てた。
かなり簡単にまとめた古代天皇家の歴史は、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争が僕の自論を100%否定できなくて、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)を覆(くつがえ)せる物ならしてみせれば良い。

魏王朝遣使(遣魏使;けんぎし)は、景行(けいこう)天皇時代から神功(じんぐう)皇后時代で、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争を徹底的に隠しても、超天才の僕を騙(だま)せなかった。

<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
『三角縁神獣鏡の死角』
著者・武光誠 発行・株式会社新講社
インターネットの不明サイトから少々拝借

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