遣漢使(けんかんし)
垂仁(すいにん)天皇90年は、垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)で、垂仁(すいにん)天皇が詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「田道間守(たじまもり)よ、香久橘(かぐたちばな)を求めに日高見(ひたかみ;東北地方南部のどこか)の常世(とこよ)の国に行け。我は国常立尊(くにとこたちのみこと)が治められた春のようにうららかな常世の国の政治を思うばかりである」と。
天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)と神格化)の曾曾孫の田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)は、古代中国の後漢(ごかん)王朝への使者(けんかんし;遣隋使や遣唐使に習(なら)って遣漢使と表現する)に任命して出発した。
垂仁(すいにん)天皇と苅幡戸辺(かりはたとべ;迦具夜姫(かぐやひめ)に祖先化)の息子の祖別命(みおやわけのみこと)は、彦坐王(ひこいますのみこ)の曾曾孫で、母の迦具夜姫(かぐやひめ)が本名(ほんみょう)と考えられる。
垂仁(すいにん)天皇3年が正しくは、垂仁(すいにん)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)年から逆算しての3年…垂仁(すいにん)天皇37年1月(西暦188年2月頃)に天日槍(ひこいますのみこ)の子の諸助(もろすけ)を家臣にしたが、そうでなく西暦188年に田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)が皇帝から宝物を下賜されたと考えられる。
天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、出島(いずしま;兵庫県豊岡市出石町(いずしちょう)か出雲(いずも)か)の太耳(ふとみみ)の娘である麻多烏(またお)と結婚して諸助(もろすけ)を生んで、諸助の子供が日楢杵(ひならぎ)で、日楢杵の子供が清彦(きよひこ)で、清彦の子供が田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)で、天日槍(あめのひぼこ)の4世孫である。
宮城県牡鹿(おじか)諸島の出島(いずしま)は、人の住む島だが、出島(いずしま)の太耳(ふとみみ)と無関係と考えられる。
田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)は、清彦(きよひこ)が父の垂仁(すいにん)天皇で、日楢杵(ひならぎ)が祖母の御井津比売(みいつひめ)で、諸助(もろすけ)が曾祖父の彦坐王(ひこいますのみこ)なら、天日槍(あめのひぼこ)の3世孫が田道間守(たじまもり)でなく、系図が間違いと証明できた。
田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)は、清彦(きよひこ)が母の迦具夜姫(かぐやひめ)で、日楢杵(ひならぎ)が祖父の山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)で、諸助(もろすけ)が曾祖父の彦坐王(ひこいますのみこ)なら、天日槍(あめのひぼこ)の3世孫が田道間守(たじまもり)でなく、系図が間違いと証明できた。
彦坐王(ひこいますのみこ)の4世孫の祖別命(みおやわけのみこと)は、知られてない第3の血筋で、天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の3世孫の父方と母方の血筋が田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)と証明できなくて、3世孫と4世孫が『ホツマツタエ』と『古事記』の血筋で、正確な情報と考えられる。
兵庫県豊岡市日高町竹貫の鷹貫(たかぬき)神社は、主祭神が高野姫命(たかのひめのみこと)で、創建時期が不明だが、神功(じんぐう)皇后の生母で、神功(じんぐう)皇后の生母の葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)と同一人物で、葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)が天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子孫で、彦坐王(ひこいますのみこ)と当芸利彦命(たぎりひこのみこと)の関係が分からない。
葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ;高野姫命(たかのひめのみこと)は、天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子孫の田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)の親戚関係で、吉備津彦(きびつひこ;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)と結婚したが、田道間守(たじまもり)と祖別命(みおやわけのみこと)が同一人物と証明する証拠になった。
天日槍(あめのひぼこ)の子孫の祖別命(みおやわけのみこと)は、神功(じんぐう)皇后の生母である葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)の父方の先祖で、葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)と直接に血筋がつながらないが、非常に重要な手がかりで、2024年9月21日の午前6時頃に特定した。
垂仁(すいにん)天皇88年は、垂仁天皇37年7月10日(西暦188年8月上旬頃)で、垂仁(すいにん)天皇が詔(みことのり)して、「聞く所によると、昔に天日槍(あめのひぼこ)が土産(みやげ)物として八種(やくさ)の神宝(かんだから)を献上して、それを但馬国(たじまのくに;兵庫県北部)に納(おさ)め置いたと言う。今それを見たいと思う」と。
垂仁(すいにん)天皇の勅命(ちょくめい)は、天日槍(あめのひぼこ)の曾孫の清彦(きよひこ;迦具夜姫(かぐやひめ)にを祖先化)をトホカミエヒタメ8神(誰を神格化したか不明)として派遣した。
清彦(きよひこ)は、葉細玉(はぼそたま)、足高玉(あしたかたま)、鵜鹿鹿玉(うかがたま)、出石小刀(いづしこがたな)、出石鉾(いづしほこ)、日鏡(ひかがみ)、熊の神籬簀(ひもろす)、胆狭浅太刀(いであさのたち)の八種の宝物である出石小刀(いづしこがたな)を残し置いて、袖(そで)に隠し身に付けて、垂仁(すいにん)天皇の御前に進んだ。
垂仁(すいにん)天皇は、これを知らないまま清彦(きよひこ)に神酒(みき)を賜うと、清彦(きよひこ)がそれを受けて飲もうとする時、身に付けていた小刀がはずみで下に落ちて、隠し持っていたことが露見して、垂仁(きよひこ)天皇がそれを見て、「これ清彦(きよひこ)、隠すことはできないぞ。下に落ちた小刀は天日槍(あめのひぼこ)がささげた宝の一つでないか」と。
これに清彦(きよひこ)は言葉もなく、垂仁(すいにん)天皇がまた言われて、「この小刀は決してそなたの元を離れないようなものか」と。
清彦(きよひこ)は、仕方なく小刀をささげて、祠(ほこら)に納(おさ)め置いて、後に祠の扉を開くと例の小刀が無くなって、垂仁(すいにん)天皇がこれを恐れかしこみ、再び清彦(きよひこ)に質問されず、不思議なことに小刀が自ら淡路島に至って、淡路島の人々がこれを神と崇(あが)めて、社(やしろ)を建てて祭り置いた。
トホカミエヒタメ8神(クニトコタチ(崇神(すじん)天皇を神格化)の子供8神)は、地球八方の8つの国を治める8人の神様で、清彦をその勅使(ちょくし;天皇の命令を伝える使者)とした。
垂仁天皇37年7月10日(西暦188年8月上旬頃)は、垂仁(すいにん)天皇の詔(みことのり)でなく、後漢(ごかん)王朝の皇帝が祖別命(みおやわけのみこと)に宝物を下賜して、西暦191年以降に八種(やくさ)の神宝(かんだから)を兵庫県の出石(いずし)神社に納(おさ)めて、そのうち出石小刀(いづしこがたな)だけが淡路島の神様として、神社の御神体にしたが、その後で分からなくなったと考えられる。
淡路島のどこかの神社は、神社の御神体が出石小刀(いづしこがたな)で、神社の古伝承がないか調べるしかないが、期待しても無駄だろう。
後漢(ごかん)王朝が下賜した宝物は、邊津鏡(へつかがみ)と息津鏡(おきつかがみ)と胆狭浅太刀(いであさのたち)の東大寺山(古墳出土)鉄刀の3つで、他に古墳などから出土する画文帯環状乳神獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう)と考えられて、画文帯環状乳神獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう)が後漢(ごかん)王朝で西暦160年頃に作られたと考えられる。
『日本書紀』の八種(やくさ)の神宝(かんだから)は、日鏡(ひかがみ)が一枚だが、実在する古代中国製の銅鏡2枚があって、物部(もののべ)氏の神宝である十種(とくさ)の神宝(かんだから)の辺津鏡(へつかがみ)と沖津鏡(おきつかがみ)と合致する。
『古事記』で八種(やくさ)の神宝(かんだから)は、辺津鏡(へつかがみ)と奥津鏡(おきつかがみ)を記して、物部(もののべ)氏の神宝の鏡2枚と合致して、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の神宝である邊津鏡(へつかがみ)が前漢(ぜんかん)王朝時代(約2050年前)で、息津鏡(おきつかがみ)が後漢(ごかん)王朝時代(約1950年前)の銅鏡で合致する。
物部(もののべ)氏の十種(とくさ)の神宝(かんだから)は、死者をよみがえらすと伝えるが、単なる言い伝えで、元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏が十種(とくさ)の神宝(かんだから)の鏡2枚が実在して管理して、天日槍(あめのひぼこ)の子孫が八種(やくさ)の神宝(かんだから)の鏡2枚を伝えて、3氏族の鏡2枚が完全に合致した。
物部(もののべ)氏の祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と海部(あまべ)氏祖先神の2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、3氏族とも彦坐王(ひこいますのみこ)を先祖とするため、神宝の鏡2枚が合致する理由である。
八種(やくさ)の神宝(かんだから)の胆狭浅太刀(いであさのたち)は、十種(とくさ)の神宝(かんだから)の八握剣(やつかのつるぎ)と合致して、邪馬台国(やまとこく;大和国)論争の国宝の東大寺山(古墳出土)鉄刀と考えられて、東大寺山鉄刀が「中平?年五月丙午(ひのえうま)、造作支刀、百練清剛、上応星宿、下辟不詳」の文字が刻まれる。
霊帝の中平年間(西暦184年から189年)は、中平五年(西暦188年)で、『ホツマツタエ』の天日槍の年代が西暦188年と合致して、五月丙午(ひのえうま)の日が干支(えと)で、60日に一日しか合致しないため、中平五年(西暦188年)五月丙午(ひのえうま)が合致するか調べる必要がある。
考古学(遺跡・遺物)で日本最古の年号は、後漢(ごかん)王朝の中平年間(西暦184年から189年)の中平?年で、歴史学(歴史書解釈)で日本最古の年号が後漢(ごかん)王朝の建武中元2年(西暦57年)で、福岡市志賀島(しかのしま)から出土した「漢委奴國王(かんいぬこくおう)」の金印が奴国(ぬこく)に送られて、2番目に古いのが日本の建国(天皇家誕生)の崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)である。
垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)から景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)の後漢(ごかん)王朝遣使(遣漢使)は、10年ほど何をしたか謎(なぞ)だったが、使者たちが古代中国の文化(漢字や製紙業など)を学んで、古代天皇家に古代中国の文化を取り入れる学習期間だったと考えられる。
景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に常世(とこよ)の国から帰った田道間守(たじまもり)は、香久橘(かぐたちばな)の実を24籠(かご)、橘(たちばな)の木を4竿(さお)、株4竿をやっとの思いで皇居の纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)に持ち帰ったが、すでに垂仁(すいにん)天皇が亡くなって、田道間守(たじまもり)がどうしようもなく、土産の橘(たちばな)の実の半分を皇居に置いて、半分を垂仁(すいにん)天皇陵にお供(そな)えした。
「この香久橘(かぐたちばな)を得ようと、はるか遠い常世(とこよ)の国に行きました。常世(とこよ)の国は、神が隠れているかと思うようなすばらしい所でしたが、その風習になじむのに十年ほどかかりました。慣れない土地で辛抱して、十年ぶりに再び垂仁(すいにん)天皇のもとに帰って参りましたのに、我が君がすでに亡くなっていると、何で想像すらできましょうか。垂仁(すいにん)天皇の奇(く)しき御稜威(みいつ)の守護によって無事に帰って参りましたのに、私はこのまま生きていて何をしたら良いのでしょう」と言って、垂仁(すいにん)天皇を追って、田道間守(たじまもり)が死んでしまった。
諸臣は、哀(あわ)れな田道間守(たじまもり)を思って、涙にぬれながら橘(たちばな)を4本、皇居の宮中である御殿の前に植えて、後の4本を垂仁(すいにん)天皇陵に植えた。
景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に遣漢使(けんかんし)の祖別命(みおやわけのみこと)は、無事に帰国したが、父の垂仁(すいにん)天皇の死を知って、禁止した殉死(じゅんし;主人を追って従者が自殺すること)をしたが、祖別命(みおやわけのみこと)が病(やまい)で、帰国して亡くなった可能性もあって、諸臣が哀(あわ)れに思って、垂仁(すいにん)天皇陵に遣漢使(けんかんし)の下賜品を祭ったと考えられる。
後に垂仁(すいにん)天皇の遺(のこ)し文を皇太子の倭忍代別(やまとおしろわけ;後の景行(けいこう)天皇)は、ご覧になって、「香久君(かぐきみ)の元彦(もとひこ)の娘である花橘(はなたちばな)を田道間守(たじまもり)の妻となせ」と書かれて、景行(けいこう)天皇が押山(おしやま)を派遣して、元彦(もとひこ)と娘の花橘(はなたちばな)を呼び寄せた。
二名は都へ来ると、景行(けいこう)天皇がとても喜ばれて、元彦(もとひこ)に御衣(みは)を与えて、喪(も)を努(つと)めることを許されて、花橘(はなたちばな)がすでに田道間守(たじまもり)の子供を身ごもっていた。
景行(けいこう)天皇元年4月末日(西暦191年5月下旬頃)の夜半に花橘(はなたちばな)が生んだ子は、景行(けいこう)天皇の詔(みことのり)で、「田道間守(たじまもり)の魂(たま)の緒(お)をとどめる子であることによって、弟橘(おとたちばな)の名を与える」と名前を授けた。
後に花橘(はなたちばな)と娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)に祖先化)は、田道間守(たじまもり)によく似た押山(おしやま)の妻子にして、景行(けいこう)天皇が深い恵みを示されて後の例とした。
垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)に田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)は、妻の花橘(はなたちばな)を同伴して遣漢使(けんかんし)として出発して、景行天皇元年3月(西暦191年4月頃)に帰国して、殉死(じゅんし)したと考えられる。
祖別命(みおやわけのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)生まれで、妻の花橘(はなたちばな)を航海に同伴して、時期的に弟橘姫(おとたちばなひめ)を身籠(みご)もったのが間違いなくて、吉備武彦(きびたけひこ)が弟橘姫(おとたちばなひめ)の同母兄か異母兄か分からなくて、花橘(はなたちばな)が航海中か古代中国で、生んだ同母兄かもしれない。
祖別命(みおやわけのみこと)の息子の吉備武彦(きびたけひこ)は、西暦210年ぐらいに成人年齢で、吉備(きび;岡山県と広島県東部)の統治者になって、父の祖別命(みおやわけのみこと)が吉備(きび)を平定したから統治者に任命したと考えられる。
花橘(はなたちばな)と娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、押山(おしやま)の妻子にして、『日本書紀』から押山(おしやま)が穂積(ほづみ)氏の忍山宿禰(おしやまのすくね)だと分かって、押山(おしやま)が物部(もののべ)氏で、3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)で間違いなくて、弟橘姫(おとたちばなひめ)の義父である。
景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に帰国した遣漢使(けんかんし)の使者たちは、古代中国の文化を古代天皇家に取り込んで、漢字の音読みと訓読みを作って、音読みが古代中国語発音で、訓読みが日本語発音で、天皇家が漢字を初めて使った。
天皇の名前の漢字読みは、「漢風諡号(しごう)」と呼んで、3世紀中頃の仲哀(ちゅうあい)天皇が仲(なか)の哀(かな)しい漢字の意味を理解して名付けて、5世紀の倭(わ)の五王である安康(あんこう)天皇から武烈(ぶれつ)天皇が生前に「漢風諡号(しごう)」を使って、「漢風諡号(しごう)」の頭文字(かしらもじ)が倭王(わおう)の名前に当たって、2024年5月22日の午後10時半頃に特定した。
古代の紙(かみ)は、紀元前2世紀頃に古代中国で作成して、2世紀初めの西暦105年頃に後漢(ごかん)王朝の役人の蔡倫(さいりん)が製紙法を改良して、使いやすい実用的な紙(かみ)を大量生産して、遣漢使(けんかんし)が製紙法を勉強して、漢字の音読みと訓読みの開発・研究に紙(かみ)を使った可能性を考えられて、2024年6月10日の午前9時半頃に求めた。
山口県下関市彦島(ひこしま)の杉田(すぎた)丘陵は、世界中の古代文字が集まったペトログリフ(岩刻文字)が岩に刻まれて、それを僕が解読して、田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)が刻んだと考えたが、おそらく考えすぎで、全く謎(なぞ)の大いなる遺産である。
後漢(ごかん)王朝遣使(遣漢使)は、古代天皇家が初めて古代中国の王朝への使者で、僕の実力を持ってすれば簡単に求められる。
<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
インターネットの不明サイトから少々拝借
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