後漢(ごかん)王朝遣使(遣漢使;けんかんし)
黒字は、僕の自論や完全解釈などで、赤字が日本神話の神々と特徴などで、緑字が僕の修正した神武(じんむ)天皇から仁徳(にんとく)天皇の時代までの()内の年代で、青字が邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の一般的な専門家(歴史書解釈)と僕の考え方である。
古代中国に学習するために行った邪馬台国(やまたいこく)は、初めて後漢王朝に遣使して、遣漢使(けんかんし:遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)で、超天才の僕なら簡単に詳細を特定できるが、現代人(僕以外の人間)が絶対に不可能である。
『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇90年2月は、垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)で、垂仁(すいにん)天皇が詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「田道間守(たじまもり)よ、香久橘(かぐたちばな)を求めに日高見(ひたかみ;東北地方南部のどこか)の常世(とこよ)の国に行け。我は国常立尊(くにとこたちのみこと)が治められた春のように麗(うら)らかな常世の国の政治を思うばかりである」と。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇90年2月(西暦61年3月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)が正しくて、歴代天皇時代を西暦1年で、計算した節目である。)
天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)と神格化)の曾曾孫の田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)は、垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)に古代中国の後漢(ごかん)王朝の遣使(遣漢使;けんかんし:遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)に出発して、使者の代表に任命した。
垂仁(すいにん)天皇は、息子の祖別命(みおやわけのみこと;田道間守(たじまもり)と同一人物)に古代中国(常世(とこよ)の国)に行くように命じて、古代中国(常世(とこよ)の国)の政治(製紙業や漢字や太陰太陽暦など)を学ぶように命じた。
後漢(ごかん)王朝への遣使は、遣隋使や遣唐使に基づいて、遣後漢使(けんごかんし)でなく、遣漢使(けんかんし)と呼んで、古代中国の前漢王朝と後漢王朝を含めて、古代天皇家が遣使したのが後漢王朝だけで、学校教育で覚えやすい呼び名にしたり、僕がずっと遣漢使(けんかんし)と呼んだなどの理由がある。
崇神(すじん)天皇39年(西暦122年)は、垂仁(すいにん)天皇39年(西暦190年)に訂正して、天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の曾曾孫の田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)が遣漢使(けんかんし;遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)した年代を指す。
『後漢書』は、「桓霊間、倭国大乱、更相攻伐、歴年無主。」と記して、「11代目・桓帝(かんてい)と12代目・霊帝(れいてい)の在位期間(西暦146年8月1日から189年5月13日)に2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)が起きて、さらに互いに攻撃して討伐し合って、何年間も垂仁(すいにん)天皇が統治できなかった。」と訳す。
桓帝(かんてい)の在位期間(西暦146年8月1日から168年1月25日)は、垂仁(すいにん)天皇5年から7年(西暦156年から158年)の倭国大乱(わこくたいらん)を含んで、霊帝(れいてい)の在位期間(西暦168年2月17日から189年5月13日)が垂仁(すいにん)天皇25年(西暦176年)に正式な卑弥呼(ひみこ)共立、垂仁(すいにん)天皇30年から39年(西暦181年から190年)の遣漢使(けんかんし;遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)までを指す。
女王の卑弥呼(ひみこ)共立は、垂仁(すいにん)天皇25年3月10日(西暦176年4月上旬頃)に皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)を正式な伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)に任命して、女王国(伊勢国;三重県中部)の王女の卑弥呼(ひみこ)が正しくて、邪馬台国(大和国;やまとこく)の女王が勘違いである。
後漢王朝の霊帝(れいてい)の次代は、少帝弁(しょうていべん)の在位期間(西暦189年5月15日から9月28日)で、垂仁(すいにん)天皇30年から39年(西暦181年から190年)の古代中国の後漢(ごかん)王朝の遣使(遣漢使;けんかんし)が霊帝の在位期間の189年と重なる。
遣漢使(けんかんし)は、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に帰国して、垂仁(すいにん)天皇39年(西暦190年)まで古代中国に滞在したが、献帝(西暦189年9月27日から220年11月25日)の時代まで記さず、『後漢書』の記述が正しいと考えられる。
『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇3年は、垂仁(すいにん)天皇37年(西暦188年)が正しくて、古代朝鮮国家の新羅国(しらぎのくに)の王子である天日槍(あめのひぼこ)の子供の諸助(もろすけ)を家臣に召(め)し上げた。
昔に天日槍(あめのひぼこ)は、土産(みやげ)の数々を持って来朝して、その物品が葉細玉(はぼそたま)、足高玉(あしたかたま)、鵜鹿鹿玉(うかがたま)、出石小刀(いづしこがたな)、出石鉾(いづしほこ)、日鏡(ひかがみ)、熊の神籬簀(ひもろげず)、胆狭浅太刀(いであさのたち)の八種(やくさ)の神宝(かんだから)で、これを但馬国(たじまのくに;兵庫県北部)に納めた。
崇神(すじん)天皇39年(西暦122年)は、垂仁(すいにん)天皇39年(西暦190年)が正しくて、初めて来朝した天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が播磨(はりま;兵庫県西南部)から、(淡路島の)宍粟邑(ししあわむら)に向かった。
その時に大友主(おおともぬし)と長尾市(ながおいち)は、兵庫県西南部の播磨(はりま)に派遣して、天日槍(あめのひぼこ)が何者か問(と)うと、「新羅(しらぎ;古代朝鮮国家)の王子で名前を天日槍(あめのひぼこ)と言って、弟の知古(ちこ)に国を譲って、私が東国仙境の聖(ひじり)の君に服従しようと参りました」と。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の崇神(すじん)天皇39年(紀元前59年)と垂仁(すいにん)天皇3年(紀元前27年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の崇神(すじん)天皇39年(西暦112年)でなく、垂仁(すいにん)天皇39年(西暦190年)が正しくて、垂仁(すいにん)天皇3年が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)年(西暦190年)年から逆算しての3年(西暦188年)が正しい。)
垂仁(すいにん)天皇39年(西暦190年)は、天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の曾曾孫の田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)が古代中国の後漢(ごかん)王朝に遣使(けんかんし;遣隋使や遣唐使に基づいて僕が名付けた造語)した年代を指す。
兵庫県北部の天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、東国仙境(奈良県)の弟の知古(ちこ;崇神(すじん)天皇)に国を譲って、古代朝鮮国家の新羅(しらぎ)の王子である天日槍(あめのひぼこ)が兵庫県北部の天日槍(あめのひぼこ)と入れ替わって、東の奈良県を崇神(すじん)天皇が統治して、西の出雲王国(物部(もののべ)氏)を彦坐王(ひこいますのみこ)が統治したと解釈する。
大友主(おおともぬし)は、大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)の息子の大御気持命(おおみけもちのみこと;誰か不明)と出雲鞍山祗姫(いずもくらやまつみひめ;誰か不明)の息子で、三輪(みわ)氏の血筋である。
長尾市(ながおいち)は、別名を市磯長尾市(いちしのながおいち)で、大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)と共に記して、出自が分からない人物である。
『ホツマツタエ』は、アメヒボコやヒボコとも記して、『日本書紀』で垂仁(すいにん)天皇時代に天日槍(あめのひぼこ)で、『古事記』で応神(おうじん)天皇時代に天之日矛(あめのひぼこ)と記して、天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が男性の古代太陽神で、兵庫県北部の古代太陽神氏族の祖先神である。
天日槍(あめのひぼこ)は、明らかに古代日本人の呼び名で、古代朝鮮人の名前でなく、日(ひ)が太陽神を連想させて、彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した古代太陽神が正しい。
『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』の天日槍(あめのひぼこ)は、葦原志挙乎(あしはらしこお;大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名)や伊和大神(いわおおかみ;これも大国主神(おおくにぬしのかみ)らしい)と戦ったと記して、『筑前国風土記(はりまのくにふどき)』が「高麗(こうらい)の国の意呂山(おろやま)より降り来し日鉾(ひぼこ)」と記して、どちらも新羅(しらぎ)の王子でなく、神様を意識させて、古代太陽神に繋(つな)がる。
『ホツマツタエ』使者2人(大友主(おおともぬし)と長尾市(ながおいち)は、天日槍(あめのひぼこ)の返事を崇神(すじん)天皇に伝えると、「播磨(はりま;兵庫県西南部)のイテサ邑(むら)でも、淡路島の宍粟邑(ししあわむら)でも好きな所に居よ」とのお言葉があった。
すると天日槍(あめのひぼこ)は、「もし許されるなら、住む所を求めて、各地を巡り見たいと存じます」と請(こ)い願って、崇神(すじん)天皇がそれを許した。
天日槍(あめのひぼこ)は、まず宇治川(うじがわ;京都市伏見区南部)に至って、ついで近江(おうみ;滋賀県)の吾名邑(あなむら;滋賀県米原市箕浦付近)に行って、その地に住んで、またさらに若狭(わかさ;福井県南部)を巡って、但馬(たじま;兵庫県北部)に至って、その地に住んだ。
天日槍(あめのひぼこ)は、新羅(しらぎ)から連れて来たお伴(とも)の陶彦(すえひこ)を狭間谷(はざまたに;滋賀県蒲生郡にある鏡山の麓(ふもと)の鏡谷か?)に残した。
天日槍(あめのひぼこ)が巡った兵庫県の南部と北部の播磨(はりま)と但馬(たじま)と京都府南部の山城(やましろ)と滋賀県の近江(おうみ)と福井県南部の若狭(わかさ)と淡路島は、崇神(すじん)天皇39年(西暦122年)の古代天皇家の勢力地を示すと考えられる。
淡路島の宍粟邑(ししあわむら)は、出石小刀(いずしこがたな)を御神体として奉納した神社があった可能性があって、西暦188年の遣漢使(けんかんし)と合致するかもしれないが、淡路島の神社が特定できるか分からない。
『ホツマツタエ』天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、出島(いづしま;兵庫県豊岡市出石町(いずしちょう)か出雲(いずも)か)の太耳(ふとみみ)の娘である麻多烏(またお)と結婚して、諸助(もろすけ)を生んで、諸助(もろすけ)の子供が日楢杵(ひならぎ)で、日楢杵の子供が清彦(きよひこ)で、清彦の子供が田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)で、天日槍(あめのひぼこ)の4世孫(曾曾孫)である。
宮城県牡鹿(おじか)諸島の出島(いずしま)は、人の住む島だが、出島(いずしま)の太耳(ふとみみ)と無関係と考えられる。
田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)は、清彦(きよひこ)が垂仁(すいにん)天皇で、日楢杵(ひならぎ)が御井津比売(みいつひめ)で、諸助(もろすけ)が彦坐王(ひこいますのみこ)なら、天日槍(あめのひぼこ)が彦坐王(ひこいますのみこ)でなく、系図が混乱して、祖別命(みおやわけのみこと)の母方の系譜が正しいと考えられる。
田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)は、清彦(きよひこ)が父の垂仁(すいにん)天皇で、日楢杵(ひならぎ)が祖母の御井津比売(みいつひめ)で、諸助(もろすけ)が曾祖父の彦坐王(ひこいますのみこ)なら、天日槍(あめのひぼこ)の3世孫が田道間守(たじまもり)でなく、系図が間違いと証明できた。
田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)は、清彦(きよひこ)が母の迦具夜姫(かぐやひめ)で、日楢杵(ひならぎ)が祖父の山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)で、諸助(もろすけ)が曾祖父の彦坐王(ひこいますのみこ)なら、天日槍(あめのひぼこ)の3世孫が田道間守(たじまもり)でなく、系図が間違いと証明できた。
彦坐王(ひこいますのみこ)の4世孫の祖別命(みおやわけのみこと)は、知られてない第3の血筋で、天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の3世孫の父方と母方の血筋が田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)と証明できなくて、3世孫と4世孫が『ホツマツタエ』と『古事記』の血筋で、正確な情報と考えられる。
彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)は、娘が迦具夜比売(かぐやひめ)で、垂仁(すいにん)天皇と結婚して、垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)に3つ子の男ばかりの長男である祖別命(みおやわけのみこと)を生んで、吉備(きび;岡山県と広島県東部)の平定将軍で、吉備(きび)氏の先祖でもある。
垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)に3つ子で長男の祖別命(みおやわけのみこと)と三男の胆武別命(いたけわけのみこと)は、吉備(きび)国王の温羅(うら)を殺して、祖別命(みおやわけのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)の子孫が2世代から3世代ほど後に混血して、武家の吉備(きび)氏の血筋を強化して、祖別命(みおやわけのみこと)が物部(もののべ)氏の先祖である彦坐王(ひこいますのみこ)の曾曾孫で、吉備(きび)氏が武家の理由と考えられる。
田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)の娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、物部(もののべ)氏の押山(おしやま;3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)の養女になって、景行(けいこう)天皇の妃2姉妹や弟橘姫(おとたちばなひめ)の不倫の祖先化や神格化などして、その共通性を超天才の僕が証明した。
吉備津彦(きびつひこ)の娘2姉妹の播磨稲日大郎姫(はりまのいなひおいらつめ)と稲日稚郎姫(いなひのわかいらつめ)は、景行(けいこう)天皇の妃で、景行(けいこう)天皇の妃2姉妹や弟橘姫(おとたちばなひめ)の不倫の神格化などの基本に使う系図である。
景行(けいこう)天皇と五十河媛(弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)は、神櫛皇子(かんぐしのみこ)と稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)を生んで、日本武尊(やまとたけのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)が不倫した。
孝元(こうげん)天皇(景行(けいこう)天皇を祖先化)と開花(かいか)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)の親子は、2人の妃が伊香色謎命(いかがしこめのみこと;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)で、不倫の関係などを証明した。
大碓命(おおうすのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)は、兄遠子(えとおこ;播磨稲日大郎姫(はりまのいなひおいらつめ)を祖先化)や弟遠子(おととおこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)の2姉妹との不倫などを求めて、弟橘姫(おとたちばなひめ)の偽装工作を特定した。
益姫持子(ますひめもちこ;播磨稲日大郎姫(はりまのいなひおいらつめ)を神格化)と小益姫早子(こますひめはやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)の2姉妹は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)との不倫などを神話化・神格化した。
白人(しらひと;景行(けいこう)天皇を神格化)と胡久美(こくみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の親子は、椋子姫(くらこひめ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)との不倫などが出雲神話に関係して、僕の超感性が凄(すさ)まじすぎる証明である。
兵庫県豊岡市日高町竹貫の鷹貫(たかぬき)神社は、主祭神が高野姫命(たかのひめのみこと)で、創建時期が不明だが、神功(じんぐう)皇后の生母で、神功(じんぐう)皇后の生母の葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)と同一人物で、葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)が天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子孫で、彦坐王(ひこいますのみこ)と当芸利彦命(たぎりひこのみこと)の関係が分からない。
葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ;高野姫命(たかのひめのみこと)は、天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子孫の田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)の親戚関係で、吉備津彦(きびつひこ;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)と結婚したが、田道間守(たじまもり)と祖別命(みおやわけのみこと)が同一人物と証明する証拠になった。
天日槍(あめのひぼこ)の子孫の祖別命(みおやわけのみこと)は、神功(じんぐう)皇后の生母である葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)の父方の先祖で、葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)と直接に血筋がつながらないが、非常に重要な手がかりで、2024年9月21日の午前6時頃に特定した。
『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇88年7月10日は、垂仁天皇37年7月10日(西暦188年8月上旬頃)で、垂仁(すいにん)天皇が詔(みことのり)して、「聞く所によると、昔に天日槍(あめのひぼこ)が土産(みやげ)物として八種(やくさ)の神宝(かんだから)を献上して、それを但馬国(たじまのくに;兵庫県北部)に納(おさ)め置いたと言う。今それを見たいと思う」と。
垂仁(すいにん)天皇の勅命(ちょくめい)は、天日槍(あめのひぼこ)の曾孫の清彦(きよひこ;迦具夜姫(かぐやひめ)にを祖先化)をトホカミエヒタメ8神(誰を神格化したか不明)として派遣した。清彦(きよひこ)は、葉細玉(はぼそたま)、足高玉(あしたかたま)、鵜鹿鹿玉(うかがたま)、出石小刀(いづしこがたな)、出石鉾(いづしほこ)、日鏡(ひかがみ)、熊の神籬簀(ひもろげず)、胆狭浅太刀(いであさのたち)の八種(やくさ)の神宝(かんだから)である出石小刀(いづしこがたな)を残し置いて、袖(そで)に隠し身に付けて、垂仁(すいにん)天皇の御前に進んだ。
垂仁(すいにん)天皇は、これを知らないまま清彦(きよひこ)に神酒(みき)を賜うと、清彦(きよひこ)がそれを受けて飲もうとする時、身に付けた小刀がはずみで下に落ちて、隠し持ったことが露見して、垂仁(すいにん)天皇がそれを見て、「これ清彦(きよひこ)、隠すことはできないぞ。下に落ちた小刀は天日槍(あめのひぼこ)がささげた宝の一つでないか」と。
これに清彦(きよひこ)は、言葉もなくて、垂仁(すいにん)天皇がまた言われて、「この小刀が決して、そなたの元を離れないような物か」と。
清彦(きよひこ)は、仕方なく小刀をささげて、祠(ほこら)に納(おさ)め置いて、後に祠(ほこら)の扉を開くと、例の小刀が無くなって、垂仁(すいにん)天皇がこれを恐れかしこみ、再び清彦(きよひこ)に質問されず、不思議なことに小刀が自(みずか)ら淡路島に至って、淡路島の人々がこれを神と崇(あが)めて、社(やしろ)を建てて祭り置いた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の垂仁(すいにん)天皇88年(西暦59年)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の垂仁(すいにん)天皇37年(西暦188年)が正しい。)
トホカミエヒタメ8神(クニトコタチ(国常立;崇神(すじん)天皇を神格化)の子供8神(誰を神格化したか不明)は、地球八方の8つの国を治める8人の神様で、清彦(きよひこ)をその勅使(ちょくし;天皇の命令を伝える使者)とした。
垂仁(すいにん)天皇37年7月10日(西暦188年8月上旬頃)は、垂仁(すいにん)天皇の詔(みことのり)でなく、後漢(ごかん)王朝の皇帝が祖別命(みおやわけのみこと)に宝物を下賜して、西暦191年以降に八種(やくさ)の神宝(かんだから)を兵庫県の出石(いずし)神社に納(おさ)めて、そのうち出石小刀(いづしこがたな)だけが淡路島の神様として、神社の御神体にしたが、その後に分からなくなったと考えられる。
淡路島のどこかの神社は、神社の御神体が出石小刀(いづしこがたな)だが、神社の古伝承がないと考えられて、期待しても無駄だろう。
『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に常世(とこよ)の国から帰った田道間守(たじまもり)は、香久橘(かぐたちばな)の実を24籠(かご)、橘(たちばな)の木を4竿(さお)、株4竿(さお)をやっとの思いで皇居の纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)に持ち帰ったが、すでに垂仁(すいにん)天皇が亡くなって、田道間守(たじまもり)がどうしようもなく、土産(みやげ)の橘(たちばな)の実の半分を皇居に置いて、半分を垂仁(すいにん)天皇陵にお供(そな)えした。
「この香久橘(かぐたちばな)を得ようと、はるか遠い常世(とこよ)の国に行きました。常世(とこよ)の国は、神が隠れているかと思うようなすばらしい所でしたが、その風習になじむのに十年ほどかかりました。慣れない土地で辛抱して、十年ぶりに再び垂仁(すいにん)天皇のもとに帰って参りましたのに、我が君がすでに亡くなっていると、何で想像すらできましょうか。垂仁(すいにん)天皇の奇(く)しき御稜威(みいつ)の守護によって無事に帰って参りましたのに、私はこのまま生きていて何をしたら良いのでしょう」と言って、垂仁(すいにん)天皇の後を追って、田道間守(たじまもり)が死んでしまった。
諸臣は、哀(あわ)れな田道間守(たじまもり)を思って、涙にぬれながら橘(たちばな)を4本、皇居の宮中である御殿の前に植えて、後の4本を垂仁(すいにん)天皇陵に植えた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇元年3月(西暦71年4月頃)は、完全な間違いで、僕の自論の景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)が正しい。)
景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に古代中国(常世(とこよ)の国)の遣漢使(けんかんし)から無事に帰国した祖別命(みおやわけのみこと)は、父親の垂仁(すいにん)天皇の死去を知って、禁止した殉死(じゅんし;主人を追って、従者が自殺すること)をしたが、祖別命(みおやわけのみこと)が病(やまい)で、帰国して亡くなった可能性もある。
祖別命(みおやわけのみこと)の死去は、諸臣が哀(あわ)れに思って、垂仁(すいにん)天皇陵に遣漢使(けんかんし)の下賜品を祭ったと考えられて、遺品のうちの4つ(例(たと)えの橘(たちばな)4本)が証明できるかもしれない。
『ホツマツタエ』後に垂仁(すいにん)天皇の遺(のこ)し文は、皇太子の倭忍代別(やまとおしろわけ;後の景行(けいこう)天皇)がご覧になって、「香久君(かぐきみ)の元彦(もとひこ)の娘である花橘(はなたちばな)を田道間守(たじまもり)の妻となせ」と書かれて、景行(けいこう)天皇が押山(おしやま)を派遣して、元彦(もとひこ)と娘の花橘(はなたちばな)を呼び寄せた。
二名(元彦(もとひこ)と花橘(はなたちばな)は、都へ来ると、景行(けいこう)天皇がとても喜ばれて、元彦(もとひこ)に御衣(みは)を与えて、喪(も)を努(つと)めることを許されて、花橘(はなたちばな)がすでに田道間守(たじまもり)の子供を身ごもっていた。
『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇元年4月末日(西暦191年5月下旬頃)の夜半に花橘(はなたちばな)が生んだ子は、倭忍代別(やまとおしろわけ;後の景行(けいこう)天皇)の詔(みことのり)で、「田道間守(たじまもり)の魂(たま)の緒(お)をとどめる子であることによって、弟橘(おとたちばな)の名を与える」と名前を授けた。
後に花橘(はなたちばな)と娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)に祖先化)は、田道間守(たじまもり)によく似た押山(おしやま)の妻子にして、景行(けいこう)天皇が深い恵みを示されて後の例とした。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇元年4月末日(西暦71年5月下旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇元年4月末日(西暦191年5月下旬頃)が正しい。)
垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)に田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)は、妻の花橘(はなたちばな)を同伴して、遣漢使(けんかんし)が出発して、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に帰国して、殉死(じゅんし)したが、祖別命(みおやわけのみこと)が病(やまい)で、帰国して亡くなった可能性もある。
祖別命(みおやわけのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)生まれで、妻の花橘(はなたちばな)を航海に同伴して、時期的に弟橘姫(おとたちばなひめ)を身籠(みご)もったのが間違いなくて、吉備武彦(きびたけひこ)が弟橘姫(おとたちばなひめ)の同母兄か異母兄か分からなくて、花橘(はなたちばな)が航海中か古代中国で、生んだ同母兄かもしれない。
祖別命(みおやわけのみこと)の息子の吉備武彦(きびたけひこ)は、西暦210年ぐらいに成人年齢で、吉備(きび;岡山県と広島県東部)の統治者になって、父の祖別命(みおやわけのみこと)が吉備(きび)を平定したから、統治者に任命したと考えられる。
花橘(はなたちばな)と娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、穂積(ほづみ)氏(物部(もののべ)氏と同族)の忍山宿禰(おしやまのすくね;3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)の妻子にして、弟橘姫(おとたちばなひめ)が物部(もののべ)氏の養女である。
後漢(ごかん)王朝が下賜した宝物は、前漢鏡の邊津鏡(へつかがみ)と後漢鏡の息津鏡(おきつかがみ)と胆狭浅太刀(いであさのたち)の東大寺山(古墳出土)鉄刀の3つで、他に古墳などから出土する少数の画文帯環状乳神獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう)が後漢(ごかん)王朝で西暦160年頃に作られたと考えられる。
『日本書紀』の八種(やくさ)の神宝(かんだから)は、日鏡(ひかがみ)が一枚だが、実在する古代中国製の銅鏡2枚があって、物部(もののべ)氏の神宝である十種(とくさ)の神宝(かんだから)の辺津鏡(へつかがみ)と沖津鏡(おきつかがみ)と合致する。
『古事記』で八種(やくさ)の神宝(かんだから)は、辺津鏡(へつかがみ)と奥津鏡(おきつかがみ)を記して、物部(もののべ)氏の神宝の神鏡2枚と合致して、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の神宝である邊津鏡(へつかがみ)が前漢(ぜんかん)王朝時代(約2050年前)で、息津鏡(おきつかがみ)が後漢(ごかん)王朝時代(約1950年前)の銅鏡で合致する。
物部(もののべ)氏の十種(とくさ)の神宝(かんだから)は、死者をよみがえらすと伝えるが、単なる言い伝えで、元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏が十種(とくさ)の神宝(かんだから)の神鏡2枚が実在して管理して、天日槍(あめのひぼこ)の子孫が八種(やくさ)の神宝(かんだから)の神鏡2枚を伝えて、3氏族の神鏡2枚が完全に合致した。
物部(もののべ)氏の祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と海部(あまべ)氏の祖先神の2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、3氏族とも彦坐王(ひこいますのみこ)を先祖とするため、神鏡2枚が合致する理由である。
八種(やくさ)の神宝(かんだから)の胆狭浅太刀(いであさのたち)は、十種(とくさ)の神宝(かんだから)の八握剣(やつかのつるぎ)と合致して、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の国宝の東大寺山(古墳出土)鉄刀と考えられて、東大寺山鉄刀が「中平(ちゅうへい)?年五月丙午(ひのえうま)、造作支刀、百練清剛、上応星宿、下辟不詳」の文字が刻まれる。
霊帝の中平(ちゅうへい)年間(西暦184年から189年)は、中平(ちゅうへい)五年(西暦188年)で、『ホツマツタエ』の天日槍の年代が西暦188年と合致して、五月(ちゅうへい)丙午(ひのえうま)の日が干支(えと)で、60日に一日しか合致しないため、中平(ちゅうへい)五年(西暦188年)五月丙午(ひのえうま)が合致するか調べる必要がある。
考古学(遺跡・遺物)で日本最古の年号は、後漢(ごかん)王朝の中平(ちゅうへい)年間(西暦184年から189年)の中平(ちゅうへい)?年で、歴史学(歴史書解釈)で日本最古の年号が後漢(ごかん)王朝の建武中元(けんむちゅうげん)2年(西暦57年)で、福岡市志賀島(しかのしま)から出土した「漢委奴國王(かんいぬこくおう)」の金印が奴国(ぬこく)に送られたが、「漢委奴國王(かんいぬこくおう)」の金印が偽物の説があって、2番目に古いのが日本の建国(天皇家誕生)の崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)である。
垂仁(すいにん)天皇27年2月5日(西暦178年3月上旬頃)に4代目出雲国王に即位する前の物部十市根(もののべのといちね)は、皇女の大中姫(おおなかひめ)と結婚して、息子が5代目出雲国王の物部夏花(もののべのなつはな)である。
物部十市根(もののべのといちね)の父である3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)は、垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)と垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に登場して、出雲に関係して、明らかに共通する。
物部十市根(もののべのといちね)の息子である5代目出雲国王の物部夏花(もののべのなつはな)は、景行(けいこう)天皇12年9月5日(西暦202年10月上旬頃)に登場して、この時に5代目出雲国王に即位しているか分からず、物部(もののべ)氏の親子の実在年代が間違いなく正しい。
『ホツマツタエ』の武神の5代目オオモノヌシ(大物主;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)は、息子のオモイカネ(思兼;物部十市根(もののべのといちね)を神格化)が頭の良い神様だが、武神でなく、その息子のタヂカラヲ(手力雄;物部夏花(もののべのなつはな)を神格化)が武神で、祖父と孫を武神に神格化して、明らかに共通すると証明した。
オモイカネ(物部十市根(もののべのといちね)を神格化)は、妻のワカヒメ(和歌姫;大中姫(おおなかひめ)を神格化)と祖別命(みおやわけのみこと)と共に古代中国に行って、太陰太陽暦を学んで、西暦180年から190年まで研修したと考えられて、アマテルカミ(天照神;景行(けいこう)天皇を神格化)と共にオモイカネが暦法を改新した。
オモイカネ(物部十市根(もののべのといちね)を神格化)は、弥生時代後期に本格的な稲作が普及して、それ以前よりも豊かな社会になって、時代の流れで全員が使いやすい暦法が必要で、海運にも発展が見られて、古代中国まで渡航して、後漢(ごかん)王朝からウリフツキ(閏月;うるうづき)を取り入れて、太陰太陽暦を学習したと考えられる。
『ホツマツタエ』のアマテルカミ(景行(けいこう)天皇を神格化)とオモイカネ(物部十市根(もののべのといちね)を神格化)の改暦は、古代中国の後漢(ごかん)王朝で、太陰太陽暦を学んだ事実と合致して、絶対に反論できないと考えられる。
使者の祖別命(みおやわけのみこと)は、西暦180年から190年に後漢(ごかん)王朝に遣使して、その付き添(そ)いで、物部十市根(もののべのといちね)と妻の大中姫(おおなかひめ)も古代中国に渡って、物部十市根(もののべのといちね)が太陰太陽暦を体得したと考えられる。
オモイカネ(物部十市根(もののべのといちね)を神格化)とワカヒメ(大中姫(おおなかひめ)を神格化)は、垂仁(すいにん)天皇27年2月5日(西暦178年3月上旬頃)に結婚して、息子のタヂカラヲ(物部夏花(もののべのなつはな)を神格化)を3年間(36ヶ月)身ごもって、垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)に古代中国の後漢(ごかん)王朝に向けて出発して、物部夏花(もののべのなつはな)が古代中国で生まれた可能性がある。
5代目出雲国王の物部夏花(もののべのなつはな)は、『ホツマツタエ』のタヂカラヲ(物部夏花(もののべのなつはな)を神格化)の出生から、垂仁(すいにん)天皇30年以降(西暦181年以降)に古代中国で生まれた可能性があって、祖別命(みおやわけのみこと)の息子の吉備武彦(きびたけひこ)も古代中国で生まれた可能性があって、これを2025年6月15日の午前9時50頃に記した。
垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)から垂仁(すいにん)天皇39年(西暦190年)までの後漢(ごかん)王朝の遣使(遣漢使;けんかんし)は、10年ほど何をしたか謎(なぞ)だったが、使者たちが古代中国の文化(太陰太陽暦や漢字や製紙業など)を学んで、古代天皇家に古代中国の文化を取り入れる学習期間だったと考えられる。
景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に帰国した遣漢使(けんかんし)の使者たちは、古代中国の文化を古代天皇家に取り込んで、漢字の音読みと訓読みを作って、音読みが古代中国語発音で、訓読みが日本語発音で、天皇家が漢字を初めて使った。
天皇の名前の漢字読みは、「漢風諡号(しごう)」と呼んで、3世紀中頃の仲哀(ちゅうあい)天皇が仲(なか)の哀(かな)しい漢字の意味を理解して名付けて、5世紀の倭(わ)の五王である安康(あんこう)天皇から武烈(ぶれつ)天皇が生前に「漢風諡号(しごう)」を使って、「漢風諡号(しごう)」の頭文字(かしらもじ)が倭王(わおう)の名前に当たって、2024年5月22日の午後10時半頃に特定した。
高知県南国(なんこく)市の若宮ノ東(わかみやのひがし)遺跡で出土した刻書(こくしょ;表面に文字を記す)土器は、「何不」の文字が刻まれて、「何(なに)も知(し)ら不(ず)」などの文章を想像できて、2世紀後半から3世紀中頃とするが、古代天皇家が漢字を受け入れて、漢字を使った時期から3世紀前半頃と考えられて、2025年1月23日に刻書(こくしょ)土器を公表して記した。
古代の紙(かみ)は、紀元前2世紀頃に古代中国で作成して、2世紀初めの西暦105年頃に後漢(ごかん)王朝の役人の蔡倫(さいりん)が製紙法を改良して、使いやすい実用的な紙(かみ)を大量生産して、遣漢使(けんかんし)が製紙法を勉強して、漢字の音読みと訓読みの開発・研究に紙(かみ)を使った可能性を考えられて、2024年6月10日の午前9時半頃に求めた。
『ホツマツタエ』の原本の『ミソギノフミ(禊(みそぎ)の文(ふみ)』は、4世紀初頭の摂政(せっしょう)46年(西暦306年)に神功(じんぐう)皇后に献上して、2025年1月23日に公表した刻書(こくしょ)土器を3世紀前半頃の訓読みと結論付けて、製紙業と漢字を証明すると考えられる。
『ホツマツタエ』のオモイカネ(思兼;物部十市根(もののべのといちね)を神格化)の改暦は、古代中国の後漢(ごかん)王朝遣使(遣漢使;けんかんし:遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)と太陰太陽暦の導入の神話化を証明して、古代中国の使者を実話(現実に起きた出来事)と日本神話で伝承して、実話を神話化した確実な証拠でもある。
山口県下関市彦島(ひこしま)の杉田(すぎた)丘陵は、世界中の古代文字が集まったペトログリフ(岩刻文字)が岩に刻まれて、それを僕が解読して、田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)が刻んだと考えたが、おそらく考えすぎで、全く謎(なぞ)の大いなる遺産である。
後漢(ごかん)王朝遣使(遣漢使)は、古代中国の王朝に初めて行った使者で、超天才の僕が実話(現実に起きた出来事)と日本神話で証明した。
<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
インターネットの不明サイトから少々拝借
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