西暦188年の後漢王朝遣使(遣漢使)


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垂仁(すいにん)天皇90年が正しくは垂仁天皇30年2月(西暦181年3月頃)で、垂仁天皇が詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「田道間守(たじまもり)よ、香久橘(かぐたちばな)を求めに日高見(ひたかみ;東北地方南部のどこか)の常世(とこよ)の国に行け。我は国常立尊(くにとこたちのみこと)が治められた春のようにうららかな常世の国の政治を思うばかりである」と。

垂仁天皇30年2月に天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)と同一人物)の曾曾孫の田道間守(祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)に古代中国の後漢王朝への使者(遣隋使や遣唐使に習(なら)って遣漢使と表現する)に任命して出発したと考えられる。
祖別命は彦坐王の曾曾孫で、母の苅幡戸辺(かりはたとべ)が彦坐王の曾孫と考えられて、祖別命が垂仁天皇の息子である。
垂仁天皇3年が正しくは垂仁天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)年から逆算しての3年…垂仁天皇37年1月(西暦188年2月頃)に天日槍の子の諸助(もろすけ)を家臣にしたと記すが、そうでなく田道間守(祖別命を祖先化)が後漢王朝へ到着して、皇帝に謁見(えっけん)したと考えられる。

垂仁天皇88年が正しくは西暦188年で、垂仁天皇37年7月10日(西暦188年8月上旬頃)に垂仁天皇が詔して、「聞く所によると、昔に天日槍が土産(みやげ)物として八種(やくさ)の神宝(かんだから)を献上して、それを但馬国(たじまのくに;兵庫県北部)に納め置いたと言う。今それを見たいと思う」との勅命(ちょくめい)で、天日槍の曾孫の清彦(きよひこ;苅幡戸辺を祖先化)をトホカミエヒタメ8神(誰を神格化したか不明)として派遣した。
清彦は八種の宝物の出石小刀(いずしこがたな)を残し置いて、袖(そで)に隠し身に付けて、垂仁天皇の御前に進んだ。
垂仁天皇はこれを知らないまま清彦に神酒(みき)を賜うと、清彦がそれを受けて飲もうとする時、身に付けていた小刀がはずみで下に落ちて、隠し持っていたことが露見して、垂仁天皇がそれを見て、「これ清彦、隠すことはできないぞ。下に落ちた小刀は天日槍がささげた宝の一つでないか」と。
これに清彦が言葉もなく、垂仁天皇がまた言われて、「この小刀は決してそなたの元を離れないようなものか」と。
清彦は仕方なく小刀をささげて祠(ほこら)に納め置いて、後に祠の扉を開くと例の小刀が無くなって、垂仁天皇がこれを恐れかしこみ、再び清彦に質問されず、不思議なことに小刀が自ら淡路島に至って、淡路島の人々が出石小刀を神と崇(あが)めて社(やしろ)を建てて祭り置いた。

トホカミエヒタメ8神は地球八方の8つの国を治める8人の神様のことで、清彦をその役目とした意味が分からない。
西暦188年8月上旬頃は垂仁天皇の詔でなく、後漢王朝の皇帝が田道間守に宝物を下賜したと考えられて、西暦191年以降に八種の神宝を兵庫県の出石(いずし)神社に納めたが、そのうち出石小刀だけが淡路島の神様として神社の御神体にしたと考えられる。
淡路島のどこかの神社の御神体が出石小刀なのは、淡路島のどこかの神社の古伝承がないか調べるしかない。
『日本書紀』の八種の神宝で日鏡は一枚だが、正しく求めると中国製の銅鏡2枚と考えられて、参考文献『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』(著者・海部光彦 発行・元伊勢籠神社社務所)に記す京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の神宝に当たって、邊津鏡(へつかがみ)が前漢王朝時代(約2050年前)で、息津鏡(おきつかがみ)が後漢王朝時代(約1950年前)の銅鏡で、日鏡がどちらかの銅鏡と考えられる。
『古事記』で天日槍の宝物に辺津鏡(へつかがみ)と奥津鏡(おきつかがみ)を記して、元伊勢籠神社の邊津鏡と息津鏡と同じ名前で、全く同じ宝物と考えられる。
天日槍の正体が彦坐王で、元伊勢籠神社の祭神の火明命(ほあかりのみこと)も彦坐王を神格化して、明らかに共通氏族だから宝物も一致すると考えられる。
『日本書紀』の八種の神宝である胆狭浅太刀(いであさのたち)は、饒速日命(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の十種(とくさ)の神宝(かんだから)だと八握剣(やつかのつるぎ)に当たって、邪馬台国(やまとこく;大和国)唯一の国宝の東大寺山(古墳出土)鉄刀と考えられる。
東大寺山鉄刀は「中平?年五月丙午(ひのえうま)」の年月日が刻まれて、霊帝の中平年間(西暦184年から189年)が「中平五年(西暦188年)」で、『ホツマツタエ』の天日槍に関わる年代の西暦188年と合致すると考えられる。

景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に常世の国から田道間守(祖別命を祖先化)が帰って、田道間守が香久橘(かぐたちばな)の実を24籠(かご)、橘(たちばな)の木を4竿(さお)、株4竿をやっとの思いで垂仁天皇の皇居だった纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)に持ち帰ったが、すでに垂仁天皇が亡くなって、田道間守はどうしようもなく土産の橘の実の半分を皇居に置いて、半分を垂仁天皇陵にお供(そな)えした。
「この香久橘を得ようと、はるか遠い常世の国に行きました。常世の国とは神が隠れているかと思うようなすばらしい所でしたが、その風習になじむのに十年ほどかかりました。慣れない土地で辛抱して、十年ぶりに再び垂仁天皇のもとに帰って参りましたのに、我が君がすでに亡くなっていると、何で想像すらできましょうか。垂仁天皇の奇(く)しき御稜威(みいつ)の守護によって無事に帰って参りましたのに、私はこのまま生きていて何をしたら良いのでしょう」と言って垂仁天皇を追って、田道間守が死んでしまった。
諸臣が哀(あわ)れな田道間守を思って、涙にぬれながら橘を4本、皇居の宮中である御殿の前に植えて、後の4本を垂仁天皇陵に植えた。

祖別命は父の垂仁天皇の後を追って亡くなって、諸臣も宝物の半分を垂仁天皇陵にお供えして、垂仁天皇の遺文から花橘を田道間守の妻として、祖別命の子が弟橘姫と記すが、少しおかしいと考えられる。
田道間守(祖別命を祖先化)の死は、殉死(主人の後を追って従者が死ぬこと)でない可能性がある。
西暦191年4月頃に中国から田道間守(祖別命を祖先化)が帰って、纏向珠城宮に後漢王朝からの宝物を持ち帰って、垂仁天皇が崩御されたことを知って、宝物の半分を垂仁天皇陵にお供えしたと考えられる。
垂仁天皇陵である最古の前方後円墳の纏向石塚(まきむくいしづか)古墳から中国製の銅鏡などが出土する可能性があって、祖別命の持ち帰った宝物が垂仁天皇陵に今もあるかと考えられる。
田道間守は、祖別命の実弟の胆武別命(いたけわけのみこと)かもしれないが、僕が祖別命で押し通す。

後に垂仁天皇の遺(のこ)し文を皇太子の倭忍代別(やまとおしろわけ;後の景行(けいこう)天皇)がご覧になって、「香久君(かぐきみ)の元彦(もとひこ)の娘である花橘を田道間守の妻となせ」と書かれて、倭忍代別は押山(おしやま)を派遣して、元彦と娘の花橘を呼び寄せた。
二名が都へ来ると、倭忍代別はとても喜ばれて、元彦に御衣(みは)を与えて、喪(も)を努(つと)めることを許されて、花橘がすでに田道間守の子供を身ごもって、4月末日(西暦191年5月下旬頃)の夜半に生んだ子に倭忍代別の詔で、「田道間守の魂(たま)の緒(お)をとどめる子であることによって、弟橘(おとたちばな)の名を与える」と名前を授けた。
後に花橘と娘の弟橘姫(おとたちばなひめ;伊香色謎命(いかがしこめのみこと)に祖先化)を田道間守によく似た押山の妻子にして、倭忍代別が深い恵みを示されて後の例とした。

垂仁天皇30年2月(西暦181年3月頃)に田道間守(祖別命を祖先化)は、妻の花橘を同伴で、後漢王朝への使者(遣漢使)として出発して、景行天皇元年3月(西暦191年4月頃)に帰国して、3月から4月(4月から5月頃)に祖別命が亡くなったと考えられる。
垂仁天皇30年2月(西暦181年3月頃)から景行天皇元年3月(西暦191年4月頃)の遣漢使の時期、祖別命が妻を何人も連れて行かなくて、祖別命と妻の花橘が航海中に息子の吉備武彦(きびたけひこ)をもうけて、景行天皇60年(西暦250年)に吉備武彦が60才代と考えられるための逆算で、吉備武彦の妹が景行天皇元4月末日(西暦191年5月下旬頃)の夜半に生まれた弟橘姫と考えられる。
祖別命は帰還してから死ぬまでの間に妻の花橘が弟橘姫を身ごもったなら分かるが、あまりに期間が短すぎておかしく、祖別命の十年ほどの船旅に妻の花橘が付き添って、身ごもったならつじつまが合う。
伊香色謎命と弟橘姫は同一人物で、弟橘姫が本名(ほんみょう)の可能性が高い。
花橘と娘の弟橘姫を押山の妻子にして、『日本書紀』から押山が穂積(ほづみ)氏の忍山宿禰(おしやまのすくね)だと分かって、忍山宿禰が物部(もののべ)氏の野見宿禰(のみのすくね)と同一人物と考えられる。

田道間守(祖別命を祖先化)が後漢王朝から下賜された宝物は、息津鏡と邊津鏡と東大寺山(古墳出土)鉄刀と画文帯環状乳神獣鏡と考えられる。
僕の得られる知識を集結しても、後漢王朝から古代天皇家に下賜された宝物はこの3例しか挙げられない。
『後漢書』の西暦107年の倭国王の帥升等は崇神(すじん)天皇でないかと考えられるが、同じなら邪馬台国と記すと考えられて、倭の面土国などと記さないだろうが、あくまで僕の私見である。
山口県下関市彦島に杉田丘陵という謎の遺跡があって、世界中の古代文字が集まったペトログリフ(岩刻文字)が岩に刻まれて、それを僕が解読すると古代天皇家に関係すると考えられて、僕の最初の著書で田道間守が刻んだのかと記すが、全く謎の大いなる遺産である。
後漢王朝遣使(遣漢使)は、古代天皇家が初めて古代中国の王朝に派遣した使者で、記録の改変から求めにくいが、僕の実力を持ってすれば求められる。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
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