欠史(けっし)八代の疑問点
欠史(けっし)八代は、皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で、2代目から9代目までの8世代の天皇で、「記紀」で歴史が欠(か)けて架空の天皇でないかと考えられて、歴史の欠けた8世代で欠史(けっし)八代と呼ばれる。
しかし欠史(けっし)八代の天皇の皇子皇女や子孫などは、実在性が高くて、欠史(けっし)八代の天皇が架空の作り物でない可能性をよく指摘される。
これは巧妙に作られた歴史の謎(なぞ)で、専門家(考古学会と歴史学会)が幾ら頑張っても求められないが、超天才の僕からすれば、あまりにも簡単である。
皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で初代の神武(じんむ)天皇は、事代主神(ことしろぬしのかみ)の娘で、皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)が神八井耳命(かみやいみみのみこと)と綏靖(すいぜい)天皇をもうけた。
神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)は、事代主神(ことしろぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の娘で、皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと;皇后の御井津比売(みいつひめ)を祖先化)が神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)と綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)をもうけた。
彦坐王(ひこいますのみこ)は、大国主神(おおくにぬしのかみ)に神格化されて、その息子の事代主神(ことしろぬしのかみ)にも神格化されて、大国主神(おおくにぬしのかみ)でなく、事代主神(ことしろぬしのかみ)とすることで、彦坐王(ひこいますのみこ)を隠したと考えられる。
神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇でなく、彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)は、阿比良比売命(あひらひめのみこと;沙本之大闇見戸女(さほのおおくらみとめ)を祖先化)との間に手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)をもうけた。
手研耳命(たぎしみみのみこと;狭穂彦王(さほひこのみこ)を祖先化)は、従兄弟の神八井耳命(かみやいみみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)と綏靖(すいぜい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)の兄弟に討伐された。
綏靖(すいぜい)天皇は、事代主神(ことしろぬしのかみ)の娘で、皇后の五十鈴依姫命(いすずよりひめのみこと)が綏靖(すいぜい)天皇の母の姨(みおば;母の姉妹)とするが間違いで、2人の間に安寧(あんねい)天皇をもうけた。
綏靖(すいぜい;垂仁(すいにん)天皇を祖先化)天皇は、事代主神(ことしろぬしのかみ;丹波道主王(たにはにちぬしのみこ)を神格化)の娘で、皇后の五十鈴依姫命(いすずよりひめのみこと;皇后の日葉酢媛(ひばすひめ)を祖先化)との間に安寧(あんねい)天皇(景行(けいこう)天皇を祖先化)をもうけた。
安寧(あんねい)天皇は、皇后の渟名底仲姫命(ぬなそこなかひめのみこと)との間に息石耳命(おきそみみのみこと)と懿徳(いとく)天皇をもうけた。
安寧(あんねい)天皇(景行(けいこう)天皇を祖先化)は、皇后の渟名底仲姫命(ぬなそこなかひめのみこと;皇后の八坂高依姫(やさかたかよりひめ)を祖先化)との間に息石耳命(おきそみみのみこと;誰を祖先化したか不明)と懿徳(いとく)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)をもうけた。
懿徳(いとく)天皇は、息石耳命(おきそみみのみこと)の娘が間違いで、皇后の天豊津姫命(あまとよつひめのみこと)との間に孝昭(こうしょう)天皇をもうけた。
懿徳(いとく)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)は、天豊津姫命(あまとよつひめのみこと;両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)を祖先化)との間に孝昭(こうしょう)天皇(仲哀(ちゅうあい)天皇を祖先化)をもうけて、その皇后が世襲足媛(よそたりひめ;皇太子妃の仲姫命(なかひめのみこと)を祖先化)で、仲哀(ちゅうあい)天皇と仲姫命(なかひめのみこと)を仮(かり)に当てはめた。
5代目の孝昭(こうしょう)天皇は、皇后が世襲足媛(よそたりひめ)で、二人の子が長男を和珥(わに)氏の始祖の天足彦国押人命(あまたりひこくにおしひとのみこと)で、次男が孝安(こうあん)天皇である。
実在の初代の崇神(すじん)天皇は、異母兄弟に和珥(わに)氏出身の彦坐王(ひこいますのみこ)がいるが、崇神(すじん)天皇と彦坐王(ひこいますのみこ)の実父が系図の祖先化から孝昭(こうしょう)天皇と考えられて、実母が世襲足媛(よそたりひめ)で、実兄が彦坐王(ひこいますのみこ)で、実弟が崇神(すじん)天皇と考えられる。
系図の祖先化から考えられるのは、天足彦国押人命(あまたりひこくにおしひとのみこと)が彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化して、孝安天皇が崇神(すじん)天皇を祖先化した事実である。
孝昭(こうしょう)天皇の国風諡号(しごう)の観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)は、崇神(すじん)天皇の国風諡号の御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいそにえのみこと)と合致して、読み方の「みま」と漢字の「殖」が共通することも実の親子と考えられる。
世襲足媛(よそたりひめ)の名前は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏に伝わる日本最古の系図の『海部(あまべ)氏系図』に記されて、由緒正しい家柄の女性である。
6代目の孝安(こうあん)天皇は、皇后が天足彦国押人命(あまたりひこくにおしひとのみこと)の娘の押媛(おしひめ)で、二人の一人息子を孝霊(こうれい)天皇として、実在の2代目の垂仁(すいにん)天皇が孝霊(こうれい)天皇に祖先化された。
崇神(すじん)天皇は、皇后が御間城姫(みまきひめ)で、実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)の娘である御井津比売(みいつひめ)が御間城姫(みまきひめ)に当たると考えられる。
7代目の孝霊(こうれい)天皇は、それぞれ妃が違うが子供がいて、息子の孝元(こうげん)天皇と兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと)と娘の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)がいる。
垂仁(すいにん)天皇は、それぞれ妃が違うが子供がいて、3人目の皇后との間に生まれた景行(けいこう)天皇、妃の一人との間に生まれた祖別命(みおやわけのみこと)、2人目の皇后との間に生まれた倭姫命(やまとひめのみこと)がいて、それぞれを祖先化した。
古史古伝『ホツマツタエ』で、兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと)の子孫が吉備津彦(きびつひこ)で、吉備(きび)氏の始祖とするが、吉備(岡山県と広島県東部)を平定したのが兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと)だから、吉備津彦と同一人物と考えられて、兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと)が男の三つ子の長男である。
祖別命(みおやわけのみこと)は男の三人兄弟の長男で、吉備津彦(きびつひこ)に祖先化されたと考えて間違いなく、母が結婚した年代だけが記されて、この皇子の事績がないから母が結婚した年代が当てにならない。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は、古代太陽神の大物主神(おおものぬしのかみ)の妻で、倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕える未婚の皇女)であるから、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)に祖先化したのが間違いない。
8代目の孝元(こうげん)天皇は、それぞれ妃が違うが子供がいて、開化(かいか)天皇と武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)と阿倍(あべ)氏の始祖の大彦命(おおびこのみこと)である。
開化(かいか)天皇と武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)は、同一人物で実在の3代目の景行(けいこう)天皇を父として、特別扱いの皇子と記す皇太子を日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化して、開化(かいか)天皇が成務(せいむ)天皇を祖先化して、異母兄弟の日本武尊(やまとたけのみこと)と成務(せいむ)天皇も同一人物である。
大彦命(おおびこのみこと)は、阿倍(あべ)氏の始祖で、武虎別皇子(たけこわけのみこ)が阿倍(あべ)氏の出身なのが大彦命(おおびこのみこと)に祖先化したためである。
9代目の開化天皇は、息子を実在の初代の崇神天皇として、系図の祖先化がここで終わる。
崇神(すじん)天皇の皇后の御間城姫(みまきひめ)は、大彦命(おおびこのみこと)の娘で、大彦命(おおびこのみこと)が実在した皇子の武虎別皇子(たけこわけのみこ)を祖先化したから実在せず、実在した4代目の仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后である神功(じんぐう)皇后を祖先化して、神功(じんぐう)皇后の父の武虎別皇子(たけこわけのみこ)が大彦命(おおびこのみこと)と物部(もののべ)氏の血筋でつながる。
欠史(けっし)八代の天皇は、「作られた系図」の章でも説明して、系図の祖先化が実在系譜を祖先としただけでなく、皇族の子孫が有力豪族でとも説明できて、ずいぶん簡単な偽装工作だが、専門家(考古学会と歴史学会)が全く気付けなくて、僕におんぶにだっこされて、初めて正しく認識できて、2024年10月2日に修正した。
<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古代日本史への挑戦』
僕・著者 株式会社オカムラ・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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