吉備(きび)氏の系図


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参考文献『ホツマ辞典』の『ホツマツタエ』の系図は、孝霊(こうれい)天皇3年に孝霊天皇と倭国香媛(やまとくにかひめ)が倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)を生んで、孝霊天皇11年に孝霊天皇と蠅姫(はえひめ)が兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと)と彦狭島命(ひこさしまのみこと)と弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)の男の三つ子を生んで、兄稚武彦命の子孫が吉備津彦(きびつひこ)で、吉備氏の先祖である。
吉備津彦の子は吉備武彦(きびたけひこ)と景行(けいこう)天皇の皇后の播磨稲日大郎姫(はりまのいなひおいらつめ)で、吉備武彦の娘が穴戸武媛(あなとたけひめ)で、日本武尊(やまとたけのみこと)との間に武実子王(たけみこのみこ)と十城別王(ときわけのみこ)の二人息子をもうけた。
倭五狭芹彦命は、『日本書紀』で彦五十狭芹彦命(ひこいそさせりひこのみこと)と呼んで、後世の誤伝承による漢字の書き間違いと考えられる。

孝霊天皇53年に西の国々が争いを始めて、沈(ち)の口(くち;山陰道の入り口)と播磨(はりま;兵庫県西南部)と斐伊川(ひいかわ;島根県の川)に忌部主(いんべぬし)を総大将で、倭五狭芹彦命を副将に派遣して、また兄稚武彦命を吉備上路(きびかんぢ;岡山県東部)に、弟稚武彦命を吉備下路(きびしもぢ;岡山県西部)に派遣して、争いのわけを聞いて天皇の教えを説(と)いた。
これこそが吉備の平定の記述で、この地域に派遣された人物が誰を祖先化したか求めれば解決である。

孝霊天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)は、倭国香媛(誰か不明)と結婚して、倭五狭芹彦命(誰か不明)を生んで、『日本書紀』で彦五狭芹彦命が吉備津彦と同一人物とするが、後世の誤伝承である。
沈の口(山陰道の入り口)と播磨(兵庫県西南部)と斐伊川(島根県の川)の平定の副将が倭五狭芹彦命で、吉備上路(岡山県東部)の兄稚武彦命(祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)で、吉備下路(岡山県西部)の弟稚武彦命(胆武別命(いたけわけのみこと)を祖先化)の武将で、これが入り混じった誤伝承と考えられる。
孝霊天皇(垂仁天皇を祖先化)は、蠅姫(苅幡戸辺(かりはたとべ)を祖先化)と結婚して、兄稚武彦命(祖別命を祖先化)と彦狭島命(五十足彦命(いしたりひこのみこと)を祖先化)と弟稚武彦命(胆武別命を祖先化)の男の三人兄弟を生んで、兄稚武彦命が吉備津彦と同一人物で、吉備上路(岡山県東部)を祖別命で、吉備下路(岡山県西部)を弟稚武彦命の胆武別命が平定して、吉備氏の先祖が祖別命(吉備津彦)である。
垂仁天皇33年に垂仁天皇が山城不遅(やましろふち)の娘の苅幡戸辺と結婚して、祖別命と五十足彦命と胆武別命の3人兄弟を生んだと記して、苅幡戸辺と3人の皇子の記述が他に見当たらず、この年代に結婚したかも生まれたかもあやしい。

『日本書紀』は、彦五狭芹彦命が吉備を平定した吉備津彦で子供がいなくて、異母兄弟の稚武彦命(わかたけひこのみこと)が吉備氏の先祖で、『古事記』が彦五狭芹彦命の子孫が上道(かみつみち)氏で、稚武彦命が下道(しもつみち)氏の先祖である。
吉備氏の分家は、上道氏と下道氏などで、彦五狭芹彦命が上道氏の先祖で、稚武彦命が下道氏の先祖を意味する。
「記紀」は稚武彦命が一人で、『ホツマツタエ』が同母兄弟の兄稚武彦命と弟稚武彦命と記して、彦五狭芹彦命が吉備津彦でなく、吉備氏の先祖が兄稚武彦命と弟稚武彦命のどちらか混乱するが、おそらく兄稚武彦命が登場する書物が『ホツマツタエ』だけである。
『国造本紀』は、吉備氏の先祖である吉備津彦の子孫を国造(くにみやつこ;統治者)に任命したと記して、兄稚武彦命が吉備氏の先祖の根拠である。
総合して考えると、兄稚武彦命の祖別命と弟稚武彦命の胆武別命は、どちらも吉備氏の先祖と考えられて、『ホツマツタエ』孝霊天皇時代の吉備の平定を祖別命と胆武別命がして、褒美(ほうび)に2人が吉備を領土に与えられて、娘か孫娘の世代辺りで2人の子孫が結婚して、系図の混乱が生まれたと考えられる。
僕の求めた系図は、間違いの可能性もあるが、祖別命と胆武別命の2人が吉備氏の先祖と考えるのが正しいだろう。

崇神天皇29年1月1日(西暦112年2月上旬頃)に垂仁天皇は生まれて、祖別命がいつ頃生まれたか不明だが、西暦150年代から垂仁天皇29年(西暦180年)までに吉備を平定したと考えられる。
垂仁天皇30年2月(西暦181年3月頃)に田道間守(たじまもり;祖別命を祖先化)は、妻の花橘(はなたちばな)を同伴で、後漢王朝への使者(遣漢使)として出発して、景行天皇元年3月(西暦191年4月頃)に帰国して、3月から4月(4月から5月頃)に祖別命が亡くなったと考えられる。
垂仁天皇30年2月(西暦181年3月頃)から景行天皇元年3月(西暦191年4月頃)の遣漢使の時期、祖別命が妻を何人も連れて行かなくて、祖別命と妻の花橘が航海中に息子の吉備武彦をもうけて、景行天皇60年(西暦250年)に吉備武彦が60才代と考えられるための逆算で、吉備武彦の妹が景行天皇元4月末日(西暦191年5月下旬頃)の夜半に生まれた弟橘姫(おとたちばなひめ)と考えられる。
祖別命はおとぎ話の桃太郎のモデルで、「桃太郎の正体」の章も見てほしい。

田道間守は祖別命を祖先化したと記して、そのことを詳細に述べる。
『ホツマツタエ』でアマテルカミは、マスヒメモチコとコマスヒメハヤコの姉妹と結婚して、マスヒメモチコがホヒを生んで、コマスヒメハヤコが宗像(むなかた)三神の3姉妹を生んで、コマスヒメハヤコがスサノヲをたぶらかして動乱が起きた。
アマテルカミ(天照神;ツキヨミ(景行天皇を神格化)と入れ替わる)は、マスヒメモチコ(播磨稲日大郎姫を神格化)とコマスヒメハヤコ(弟橘姫を神格化)の姉妹と結婚して、マスヒメモチコがホヒ(日本武尊を神格化)を生んで、コマスヒメハヤコが宗像三神(誰を神格化したか不明)の3姉妹を生んで、スサノヲ(日本武尊を神格化)とコマスヒメハヤコの夫婦が皇位継承権争い(日本武尊の反乱)を起こした。
景行天皇は、異母兄弟の吉備津彦(祖別命)の娘である播磨稲日大郎姫と稲日稚郎姫(いなひのわかいらつめ)の姉妹と結婚して、播磨稲日大郎姫が日本武尊を生んだが架空の作られた系図で、稲日稚郎姫(弟橘姫と同一人物)との間に子供がいるが記さず、弟橘姫が景行天皇の息子の日本武尊とも結婚して、日本武尊と弟橘姫の夫婦が動乱を起こした。
アマテルカミの妻の姉妹は、景行天皇が吉備津彦の娘の姉妹を妻で重なって、日本神話の神様と実在系譜が重なり合う。
天日槍(あめのひぼこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の曾孫が清彦(きよひこ;苅幡戸辺を祖先化)で、その子が田道間守(祖別命)で、彦坐王の子孫である垂仁天皇の息子の祖別命で系図をたどると、天日槍(彦坐王)の孫が垂仁天皇で、曾孫が祖別命で計算が合わない。
田道間守の娘は弟橘姫で、弟橘姫が物部(もののべ)氏の養子になって、田道間守が祖別命を祖先化したとしか考えられず、現代人(僕以外の人間)だと理解しにくいだろう。

景行天皇元年3月から4月(西暦191年4月から5月頃)に父の祖別命が亡くなって、景行天皇40年が正しくは景行天皇60年10月2日(西暦250年11月上旬頃)で、皇太子の日本武尊が護衛の武将たちの吉備武彦を連れて東海平定に旅立って、息子の吉備武彦が60才代と考えられる。
吉備武彦の息子の浦凝別(うらこりわけ)は苑(その)氏の先祖で、弟の御友別(みともわけ)が3人の息子がいて、その弟の鴨別(かもわけ)が笠(かさ)氏の先祖で、御友別の息子の稲速別(いなはやわけ)が下道氏の先祖で、弟の仲彦(なかひこ)が上道氏と香屋(かや)氏の先祖で、その弟の弟彦(おとひこ)が三野(みの)氏の先祖である。
『日本書紀』応神(おうじん)天皇22年3月5日に応神天皇は、難波(なにわ;大阪府北中部と兵庫県南東部の辺り)に行かれて、3月14日に御友別の妹で妃の兄媛(えひめ)が高台から西方を見て、両親に何年も会えずに嘆(なげ)いた時、夫の応神天皇が帰郷を許して、4月に兄媛が難波の大津(大きな船着き場)から船出した。
9月10日に吉備に来た応神天皇は、御友別が来て兄弟と子供に料理番として奉仕して、応神天皇が御友別の仕える様子を喜んで、吉備国を割(さ)いて、その兄弟と子供に統治させた。
御友別の兄の浦凝別は苑県(そののあがた;岡山県下道郡曾能郷)で、弟の鴨別は波区芸県(なみくぎのあがた;所在地不明)で、妹の兄媛が織部(おりべ;織物(おりもの)や染(そ)め物)で、長男の稲速別は川島県(かわしまのあがた;岡山県浅口郡)で、次男の仲彦が上道県(かみつみちのあがた;岡山県上道郡)で、三男の弟彦が三野県(みののあがた;岡山県御野郡)を与えられた。
おそらく景行天皇時代(西暦年不明)に日本武尊が妻の穴戸武媛に暇乞(いとまご)いして、日本武尊が9月10日(10月上旬頃)に岡山県を訪れて、穴戸武媛の兄の御友別が兄弟と子供たちが料理で奉仕して、褒美(ほうび)に日本武尊が皇太子として吉備国を分割して、御友別の兄弟と子供を統治者にして、応神天皇の妻の兄媛が日本武尊の妻の穴戸武媛に入れ替わったと考えられる。
崇神天皇60年が正しくは仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)神無月で、出雲振根(いずもふりね;日本武尊を祖先化)の討伐を命じたのは吉備彦(きびひこ)で、吉備津彦でも吉備武彦でもなく、この頃に吉備武彦が70才代と考えられて、吉備武彦の息子か孫を吉備彦に祖先化したと考えられる。

西暦425年に倭王「讃」は南朝宋王朝に朝貢して、倭王「讃」が安康(あんこう)天皇と考えられて、年代不明で倭王「讃」が死去して弟「珍」が即位して、倭王「珍」が安康天皇の実弟の雄略(ゆうりゃく)天皇と考えられて、年代不明で倭王「珍」が二度に渡って朝貢して、西暦443年に倭王「済」が朝貢して、倭王「珍」と倭王「済」の血縁関係を記さないが、雄略天皇の息子の清寧(せいねい)天皇と考えられて、西暦451年に倭王「済」が朝貢した。
年代不明で倭王「済」は死去して、世子「興」が即位して朝貢して、清寧天皇が亡くなって、世子(血縁断絶で世継ぎか皇太子の意味)「興」が顕宗(けんそう)天皇と考えられて、西暦462年に倭王「興」が朝貢して、年代不明で倭王「興」が死去して、弟の倭王「武」が即位して朝貢して、顕宗天皇が亡くなって、異母兄の仁賢(にんけん)天皇もまもなく亡くなって、その子の武烈(ぶれつ)天皇が倭王「武」と考えられて、血縁関係を間違って「興」の甥「武」と考えられる。
西暦478年に倭王「武」は南朝宋王朝に最後の朝貢をして、西暦479年に倭王「武」が南朝斉王朝に朝貢して、西暦502年に倭王「武」が南朝梁王朝に朝貢して、3王朝に朝貢した倭王「武」が同一人物と考えられる。
『日本書紀』で雄略天皇の在位期間は、安康天皇3年11月13日から雄略天皇23年8月7日(西暦456年12月上旬頃から479年9月上旬頃)で、西暦478年に倭王「武」が南朝宋王朝に最後の朝貢をしたのを意識して、倭王「武」が雄略天皇と思い込ませる偽装工作で、本当の倭王「武」が武烈天皇と考えられる。

『日本書紀』雄略天皇7年8月(西暦年不明;西暦430年代の9月頃)に舎人(とねり;皇族や身分の高い人に仕える者)の吉備弓削部虚空(きびのゆげべのおおぞら)は、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)が吉備弓削部虚空を自分の所でとどめて使って、何ヶ月たっても京(みやこ)へ上(のぼ)らせず、雄略天皇が身毛君大夫(むげのきみますらお)を派遣して、吉備弓削部虚空を呼ばれた。
吉備弓削部虚空は呼ばれてやって来て、雄略天皇がその言葉を聞いて、物部の兵士(物部氏の兵士か軍事組織(物部)の兵士か不明)30人を派遣して、吉備下道臣前津屋と同族の70人を殺した。
『日本書紀』雄略天皇7年と同年(西暦年不明;西暦430年代月頃)に吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)は、御殿の近くで妻の稚媛(わかひめ)が美人と友人に語るのを雄略天皇が聞いて、雄略天皇が稚媛を女御(にょご)に迎えるため、吉備上道臣田狭を任那(みまな;韓国中南部の古代国家)の国司(こくし)に任じて、それからしばらくして稚媛を召(め)し入れた。
吉備上道臣田狭と稚媛の夫婦は、2人の息子の兄君(えきみ)と弟君(おときみ)がいて、後に雄略天皇と稚媛が2人の息子の磐城皇子(いわきのみこ)と星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)をもうけた。
吉備上道臣田狭は任地の任那で、雄略天皇が妻の稚媛を寝取ったと知って、日本と不破の新羅(しらぎ;朝鮮半島南東部の古代国家)に助力を求めた。
雄略天皇は、吉備上道臣田狭の息子の弟君(元服(げんぷく)した大人)たちを任那に派遣して、弟君が父の吉備上道臣田狭の味方で謀反(むほん)して、弟君の妻の樟媛(くすひめ)が夫を殺して、吉備上道臣田狭が反乱を失敗して、行方(ゆくえ)をくらました。

吉備下道臣前津屋と同族(吉備氏)70人の殺害は、吉備上道臣田狭の反乱と同年だが、関係あるか分からない。
任那の国司の吉備上道臣田狭は、任那の日本府を意味して、その存在自体が認められず、任那に日本の将軍たちが常駐しただけでないか?
稚媛は参考文献『歴代皇后人物系譜総覧』で、吉備稚媛(きびのわかひめ)とも記して、『日本書紀』に吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)の娘と記して、異伝で吉備窪屋臣(きびのくぼやのおみ)の娘と記して、吉備窪屋臣が上道氏か下道氏の出身と考えられる。
また違う異伝に稚媛は、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の孫である玉田宿禰(たまだのすくね)の娘の毛媛(けひめ)と記して、葛城襲津彦が西暦330年代に40歳頃とすると、その曾孫の稚媛が西暦430年頃に雄略天皇の妃となるか分からず、また信頼性のない記述で信頼できない。
稚媛は西暦430年頃の雄略天皇の妃と考えられて、『日本書紀』の記述を信頼するか研究が必要と考えられる。

雄略天皇23年8月7日(西暦年不明)に雄略天皇は亡くなって、雄略天皇の息子の清寧天皇が即位する前、雄略天皇の妻の吉備稚媛が幼い息子の星川稚宮皇子を天皇にしたいと謀反して、大伴室屋大連(おおとものむろやのおむらじ)が兵士を出動させて、吉備稚媛と星川稚宮皇子と異父兄の兄君たちを焼き殺して、反乱が失敗して吉備氏が衰退した。
吉備下道臣前津屋と同族(吉備氏)70人の殺害は、吉備上道臣田狭の反乱と吉備稚媛の息子の星川稚宮皇子たちの謀反の3つの反乱が5世紀前半の出来事で、5世紀後半の吉備氏の衰退の考古学的証拠と重なると考えられる。

弥生時代中期の1世紀に吉備で統治者が出現して、おそらく吉備王国の誕生で、その子孫が最後の吉備国王の温羅(うら)で、吉備王国の一族(温羅たち)の墓が2世紀中頃の楯築(たてつき)遺跡群で、祖別命と胆武別命の兄弟が吉備を平定して、西暦150年代から垂仁天皇29年(西暦180年)までに吉備王国が滅亡したと考えられる。
楯築遺跡(双方中円墳)は、前方後円墳の原形の説があって、出雲王国(物部氏)の子孫で故人の73代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏が正統『竹内文書』で、前方後円墳の形が作られた理由が公表せず、その古伝承が最も信頼できる説で、早く公表してほしいと思う。
楯築遺跡群の特殊器台土器は、垂仁天皇28年11月2日(西暦179年12月上旬頃)に殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)を禁止して、垂仁天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなって、その陵墓で殉死者の代替物の埴輪(はにわ)を採用して、この特殊器台土器が埴輪の原形である。
垂仁天皇39年8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜に垂仁天皇陵(最古の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳)へ埴輪を立てて、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に垂仁天皇の亡骸(なきがら)を葬礼して、纏向石塚古墳で出土した最古の土師器(はじき)が最古の埴輪と考えられる。
仲哀天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)葬礼の景行天皇陵は、全長280メートルの前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳で、最古の埴輪の特殊器台埴輪が出土した。
特殊器台土器と特殊器台埴輪は、形などの特徴が合致するため関連性を指摘して、最古の土師器が特徴などを合致できないために関連性を指摘されず、見逃されるのだろうが僕がそれを否定した。
特殊器台土器と最古の土師器と最古の特殊器台埴輪は、吉備と出雲と大和の関連性などの考古学的証拠から証明される。
楯築遺跡群の特殊器台土器は、殉死者の禁止の時期、纏向石塚古墳で出土した最古の土師器(弥生土器の後継)、箸墓古墳で出土した最古の特殊器台埴輪(埴輪は土師器の一種)、全て時期が重なって、特殊器台土器と土師器と埴輪が土器つながりで説明できて、この考古学的証拠が吉備氏と埴輪の誕生と関わる。
吉備氏は考古学的に見て、5世紀前半に最盛期を迎えて、全国で4位の巨大古墳で5世紀前半頃築造の岡山市の造山(つくりやま)古墳、全国で10位の巨大古墳で5世紀中頃築造の岡山県総社市の作山(つくりやま)古墳などを作って、吉備氏の有力者の古墳と考えられて、5世紀後半に吉備の3つの地域で中小規模の古墳築造が主流になって、吉備氏の衰退と考えられる考古学的証拠である。

吉備氏は祖別命を始祖で、実弟の胆武別命も先祖に含めるか不明で、雄略天皇と息子の清寧天皇の時代(5世紀前半)に衰退して、その後に少ないながらも子孫が続いて、系図が受け継がれたと考えられる。
吉備氏の系図の改ざんは、複数あってどれが正しいか分からず、分析した僕にも分からないが、有力豪族なのが確かだった。

<参考文献>
『ホツマ辞典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『歴代皇后人物系譜総覧』
株式会社新人物往来社・発行
ホームページの吉備氏考
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