吉備(きび)氏の系図


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)と倭国香姫(やまとくにかひめ;樺井月姫(かばいつきひめ)を祖先化)は、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひもももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)と倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)と倭稚屋姫命(やまとわかやひめのみこと)の3つ子を生んだ。

孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)13年は、垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)で、姫(はえはめ;迦具夜姫(かぐやひめ)を祖先化)が兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)と彦狭島命(ひこさしまのみこと;五十足彦命(いしたりひこのみこと)を祖先化)と弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと;胆武別命(いたけわけのみこと)を祖先化)の3つ子を生んだ。
は「糸」へんに互で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
垂仁(すいにん)天皇33年に垂仁(すいにん)天皇と山城不遅(やましろふち)の娘の苅幡戸辺(かりはたとべ)は、祖別命(みおやわけのみこと)と五十足彦命(いしたりひこのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)の3人兄弟を生んだ。
垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)に迦具夜姫(かぐやひめ)は、祖別命(みおやわけのみこと)と五十足彦命(いしたりひこのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)の3つ子を生んで、これが本当の系図である。

孝霊(こうれい)天皇53年(アスス暦480年)は、垂仁(すいにん)29年(西暦180年)で、西の国々が争いを始めて、兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと)を吉備上路(きびかんぢ;岡山県東部)に、弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)を吉備下路(きびしもぢ;岡山県西部)に派遣して、争いのわけを聞いて天皇の教えを説(と)いて、これが吉備(きび;岡山県と広島県東部)の平定で、吉備下路(きびしもぢ)が広島県東部かもしれない。
岡山県東部は、長男の祖別命(みおやわけのみこと)で、岡山県西部が三男の胆武別命(いたけわけのみこと)が平定して、岡山県西部でなく、広島県東部かもしれなくて、祖別命(みおやわけのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)の兄弟が平定時に15才である。

『古事記』の大吉備諸進命(おおきぼもろすすみのみこと)は、孝霊(こうれい)天皇の実兄で、誰を祖先化したか不明で、なぜ吉備(きび)の名前を含むのかも分からない。
祖別命(みおやわけのみこと)の従兄の倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)は、『日本書紀』で吉備津彦(きびつひこ)と同一人物で、吉備(きび)氏の先祖だが、別人の祖別命(みおやわけのみこと)と倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)が同一人物と勘違いした後世の誤伝承である。
『ホツマツタエ』で兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと)の子孫は、吉備津彦(きびつひこ)で、吉備(きび)氏の先祖とするが、兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと)と吉備津彦(きびつひこ)が同一人物で、祖別命(みおやわけのみこと)こそが吉備(きび)氏の氏祖で間違いない。
兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと)は、吉備津彦(きびつひこ)と大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)などと同一人物で、弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)が稚武彦命(わかたけひこのみこと)と若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)と若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)などと同一人物である。
長男の兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと)と三男の弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)は、実在の祖別命(みおやわけのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)の同母兄弟を祖先化して、「記紀」は稚武彦命(わかたけひこのみこと)が一人で、吉備(きび)氏の系図を余計に混乱させた。
祖別命(みおやわけのみこと)は、吉備(きび)氏の分家である上道(かみつみち)氏の先祖で、胆武別命(いたけわけのみこと)が吉備(きび)氏の分家である下道(しもつみち)氏の先祖と解釈できる系図が存在する。
総合した考え方は、兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと)の祖別命(みおやわけのみこと)と弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)の胆武別命(いたけわけのみこと)の2人が共に吉備(きび)氏の先祖で、2人が吉備(きび)の平定将軍として、吉備(きび)を領土に与えられて、娘か孫娘の世代辺りで2人の子孫が結婚して、系図の混乱が生まれたと考えられて、僕の求めた系図が間違いの可能性もある。

『ホツマツタエ』の系図は、祖別命(みおやわけのみこと)の子が吉備武彦(きびたけひこ)で、妹の播磨稲日大郎姫(はりまのいなひおいらつめ)が作られた架空の人物で、吉備武彦(きびたけひこ)の娘が穴戸武媛(あなとたけひめ)が日本武尊(やまとたけのみこと)との間に武実子王(たけみこのみこ)と十城別王(ときわけのみこ)の2人息子をもうけた。
垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)に田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)は、妻の花橘(はなたちばな)を同伴で、後漢王朝への使者(遣漢使;けんかんし)として出発して、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に帰国して、3月から4月(4月から5月頃)に祖別命(みおやわけのみこと)が殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)で、亡くなったと考えられる。
祖別命(みおやわけのみこと)は、妻の誰かと息子で兄の吉備武彦(きびたけひこ)を生んで、妻の花橘(はなたちばな)と航海中に妹の弟橘姫(おとたちばなひめ)を授かって、景行(けいこう)天皇元4月末日(西暦191年5月下旬頃)の夜半に弟橘姫(おとたちばなひめ)が生まれた。
弟橘姫(おとたちばなひめ)が生まれた時は、実父(じっぷ)の祖別命(みおやわけのみこと)が死んで、景行(けいこう)天皇が妻の花橘(はなたちばな)を3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)と再婚させて、弟橘姫(おとたちばなひめ)の義父で、景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)になって、弟橘姫(おとたちばなひめ)が2人の息子を生んで、どちらかが6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)である。

景行(けいこう)天皇60年10月2日(西暦250年11月上旬頃)は、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が護衛の武将の吉備武彦(きびたけひこ)を連れて東海平定に旅立って、祖別命(みおやわけのみこと)の息子の吉備武彦(きびたけひこ)が60才代ぐらいと考えられる。
吉備武彦(きびたけひこ)の息子の浦凝別(うらこりわけ)は、苑(その)氏の先祖で、弟の御友別(みともわけ)が3人の息子がいて、その弟の鴨別(かもわけ)が笠(かさ)氏の先祖で、御友別(みともわけ)の息子の稲速別(いなはやわけ)が下道(しもつみち)氏の先祖で、弟の仲彦(なかひこ)が上道(かみつみち)氏と香屋(かや)氏の先祖で、その弟の弟彦(おとひこ)が三野(みの)氏の先祖である。
上道(かみつみち)氏の先祖の仲彦(なかひこ)は、祖別命(みおやわけのみこと)の子孫で、兄の稲速別(いなはやわけ)が下道(しもつみち)氏の先祖で、祖別命(みおやわけのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)の子孫と考えられて、血筋を考えるヒントである。

『日本書紀』応神(おうじん)天皇22年3月5日に応神(おうじん)天皇は、難波(なにわ;大阪府北中部と兵庫県南東部の辺り)に行かれて、3月14日に御友別(みともわけ)の妹で、妃の兄媛(えひめ)が高台から西方を見て、両親に何年も会えずに嘆(なげ)いた時、夫の応神(おうじん)天皇が帰郷を許して、4月に兄媛(えひめ)が難波の大津(大きな船着き場)から船出した。
9月10日に吉備(きび)に来た応神(おうじん)天皇は、御友別(みともわけ)が来て兄弟と子供に料理番として奉仕して、応神(おうじん)天皇が御友別(みともわけ)の仕える様子を喜んで、吉備国を割(さ)いて、その兄弟と子供に統治させた。
御友別(みともわけ)の兄の浦凝別(うらこりわけ)は、苑県(そののあがた;岡山県下道郡曾能郷)で、弟の鴨別(かもわけ)が波区芸県(なみくぎのあがた;所在地不明)で、妹の兄媛(えひめ)が織部(おりべ;織物(おりもの)や染(そ)め物)で、長男の稲速別(いなはやわけ)が川島県(かわしまのあがた;岡山県浅口郡)で、次男の仲彦(なかひこ)が上道県(かみつみちのあがた;岡山県上道郡)で、三男の弟彦(おとひこ)が三野県(みののあがた;岡山県御野郡)を与えられた。
おそらく景行天皇(けいこう)時代(西暦年不明)に日本武尊(やまとたけのみこと)は、4月に妻の穴戸武媛(あなとたけひめ)に暇乞(いとまご)いして、日本武尊(やまとたけのみこと)が9月10日(10月上旬頃)に岡山県を訪れて、穴戸武媛(あなとたけひめ)の兄の御友別(みともわけ)が兄弟と子供たちが料理で奉仕した。
褒美(ほうび)に日本武尊(やまとたけのみこと)は、皇太子として吉備国を分割して、御友別(みともわけ)の兄弟と子供を統治者にして、応神(おうじん)天皇の妻の兄媛(えひめ)が日本武尊(やまとたけのみこと)の妻の穴戸武媛(あなとたけひめ)に入れ替わったと考えられる。
垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)に祖別命(みおやわけのみこと)は生まれて、息子の吉備武彦(きびたけひこ)が景行(けいこう)天皇60年(西暦250年)に60代ぐらいで、吉備武彦(きびたけひこ)の息子と孫に土地を与えて、応神(おうじん)天皇が3才弱で日向(ひうが;宮崎県)に行って、ずっとそこで暮らしたて、兄媛(えひめ)と穴戸武媛(あなとたけひめ)が入れ替わったと考えられる。

『日本書紀』雄略(ゆうりゃく)天皇7年8月(西暦年不明;西暦430年代の9月頃)に舎人(とねり;皇族や身分の高い人に仕える者)の吉備弓削部虚空(きびのゆげべのおおぞら)は、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)が吉備弓削部虚空(きびのゆげべのおおぞら)を自分の所でとどめて使って、何ヶ月たっても京(みやこ)へ上(のぼ)らせず、雄略(ゆうりゃく)天皇が身毛君大夫(むげのきみますらお)を派遣して、吉備弓削部虚空(きびのゆげべのおおぞら)を呼ばれた。
吉備弓削部虚空(きびのゆげべのおおぞら)は、呼ばれてやって来て、雄略(ゆうりゃく)天皇がその言葉を聞いて、物部(もののべ)の兵士(物部(もののべ)氏の兵士か軍事組織(物部)の兵士か不明)30人を派遣して、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)と同族の70人を殺した。

『日本書紀』雄略(ゆうりゃく)天皇7年(西暦年不明;西暦430年代月頃)に吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)は、御殿の近くで妻の稚媛(わかひめ)が美人と友人に語るのを雄略(ゆうりゃく)天皇が聞いて、雄略(ゆうりゃく)天皇が稚媛を女御(にょご)に迎えるため、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)を任那(みまな;韓国中南部の古代国家)の国司(こくし)に任じて、それからしばらくして稚媛(わかひめ)を召(め)し入れた。
吉備上道臣田狭(わかひめ)と稚媛(わかひめ)の夫婦は、2人の息子の兄君(えきみ)と弟君(おときみ)がいて、後に雄略(ゆうりゃく)天皇と稚媛(わかひめ)が2人の息子の磐城皇子(いわきのみこ)と星川稚宮皇子(ほしかわわかみやのみこ)をもうけた。
吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)は、任地の任那(みまな)で、雄略(ゆうりゃく)天皇が妻の稚媛(わかひめ)を寝取ったと知って、日本と不破の新羅(しらぎ;朝鮮半島南東部の古代国家)に助力を求めた。
雄略(ゆうりゃく)天皇は、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)の息子の弟君(元服(げんぷく)した大人)たちを任那(みまな)に派遣して、弟君(おときみ)が父の吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)の味方で謀反(むほん)して、弟君(おときみ)の妻の樟媛(くすひめ)が夫を殺して、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)が反乱を失敗して、行方(ゆくえ)をくらました。

吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)と同族(吉備(きび)氏)70人の殺害は、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)の反乱と同年だが、関係あるか分からない。
任那(みまな)の国司の吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)は、任那(みまな)の日本府を意味して、その存在自体が認められず、任那(みまな)に日本の将軍たちが常駐しただけでないのか?
稚媛(わかひめ)は、参考文献『歴代皇后人物系譜総覧』で、吉備稚媛(きびのわかひめ)とも記して、『日本書紀』に吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)の娘と記して、異伝で吉備窪屋臣(きびのくぼやのおみ)の娘と記して、また違う異伝で、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の孫である玉田宿禰(たまだのすくね)の娘の毛媛(けひめ)と記す。
葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)は、西暦330年代に40歳頃とすると、その曾孫の稚媛(わかひめ)が西暦430年頃に雄略天皇の妃となるか分からず、また信頼性のない記述で信頼できない。
雄略(ゆうりゃく)天皇の妃の稚媛(わかひめ)は、西暦430年頃に実在した人物で、雄略(ゆうりゃく)天皇との息子の磐城皇子(いわきのみこ)と星川稚宮皇子(ほしかわわかみやのみこ)を生んで、雄略(ゆうりゃく)天皇が倭(わ)の五王の倭王「珍(ちん)」で、間違いなく西暦430年代の天皇で、『日本書紀』の吉備稚媛(きびのわかひめ)の記述を信頼するか研究が必要である。

雄略(ゆうりゃく)天皇23年8月7日(西暦年不明)に雄略(ゆうりゃく)天皇は亡くなって、雄略(ゆうりゃく)天皇の息子の清寧(せいねい)天皇が即位する前、雄略(ゆうりゃく)天皇の妻の吉備稚媛(きびのわかひめ)が幼い息子の星川稚宮皇子(ほしかわわかみやのみこ)を天皇にしたいと謀反(むほん)して、大伴室屋大連(おおとものむろやのおむらじ)が兵士を出動させて、吉備稚媛(きびのわかひめ)と星川稚宮皇子(ほしかわわかみやのみこ)と異父兄の兄君たちを焼き殺して、反乱が失敗して吉備(きび)氏が衰退した。

吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)と同族(吉備(きび)氏)70人の殺害は、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)の反乱と吉備稚媛(きびのわかひめ)の息子の星川稚宮皇子(ほしかわわかみやのみこ)たちの謀反の3つの反乱が5世紀前半の出来事で、5世紀後半の吉備(きび)氏の衰退の考古学的証拠と重なると考えられる。

弥生時代中期の1世紀に吉備(きび)で統治者が出現して、おそらく吉備(きび)王国の誕生で、その子孫が最後の吉備国王の温羅(うら)で、吉備王国の一族(温羅たち)の墓が2世紀中頃の楯築(たてつき)遺跡群で、垂仁天皇29年(西暦180年)に祖別命(みおやわけのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)の同母兄弟が吉備(きび)を平定したと考えられる。
楯築(たてつき)遺跡群の特殊器台土器は、垂仁天皇28年11月2日(西暦179年12月上旬頃)に殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)を禁止して、垂仁天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなって、その陵墓で殉死者の代替物の埴輪(はにわ)を採用して、この特殊器台土器が埴輪(はにわ)の原形である。
垂仁天皇39年8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜に垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳に埴輪(はにわ)を立てて、纏向(まきむく)石塚古墳で出土した最古の土師器(はじき)が最古の埴輪(はにわ)と考えられる。
仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)葬礼の景行(けいこう)天皇陵は、全長280メートルの前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳で、最古の埴輪の特殊器台埴輪(はにわ)が出土した。
特殊器台土器と特殊器台埴輪(はにわ)は、形などの特徴が合致するため関連性を指摘して、最古の土師器(はじき)が特徴などを合致できないために関連性を指摘されず、見逃されるのだろうが僕がそれを否定した。特殊器台土器と最古の土師器(はじき)と最古の特殊器台埴輪(はにわ)は、吉備と出雲と大和の関連性などの考古学的証拠から証明される。
楯築(たてつき)遺跡群の特殊器台土器は、殉死者の禁止の時期、纏向(まきむく)石塚古墳で出土した最古の土師器(弥生土器の後継)、箸墓(はしはか)古墳で出土した最古の特殊器台埴輪(埴輪(はにわ)は土師器(はじき)の一種)、全て時期が重なって、特殊器台土器と土師器(はじき)と埴輪(はにわ)が土器つながりで説明できて、この考古学的証拠が吉備(きび)氏と埴輪(はにわ)の誕生と関わる。
吉備(きび)氏は、考古学的に見て、5世紀前半に最盛期を迎えて、全国で4位の巨大古墳で5世紀前半頃築造の岡山市の造山(つくりやま)古墳、全国で10位の巨大古墳で5世紀中頃築造の岡山県総社市の作山(つくりやま)古墳などを作って、吉備(きび)氏の有力者の古墳と考えられて、5世紀後半に吉備の3つの地域で中小規模の古墳築造が主流になって、吉備(きび)氏の衰退と考えられる考古学的証拠である。

吉備(きび)氏は、祖別命(みおやわけのみこと)を氏祖で、実弟の胆武別命(いたけわけのみこと)も先祖に含めるか不明で、あくまで僕の私見で、雄略(ゆうりゃく)天皇と息子の清寧(せいねい)天皇の時代(5世紀前半)に衰退して、その後に少ないながらも子孫が続いて、系図が受け継がれたと考えられる。
吉備(きび)氏の系図の改竄(かいざん)は、複数あってどれが正しいか分からず、分析した僕にも分からないが有力豪族なのが確かで、2020年5月にこの系図を作成して、2023年1月17日に修正した。

<参考文献>
『ホツマ辞典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『歴代皇后人物系譜総覧』
株式会社新人物往来社・発行
ホームページの吉備氏考
インターネット
戻る