古代日本史の未来


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

僕の求める古代日本史は、日本神話と邪馬台国論争と倭の五王の時代…崇神(すじん)天皇から武烈(ぶれつ)天皇までに限られて、弥生時代後期初頭から古墳時代中期くらいまでに当たる。

僕は崇神天皇即位の西暦84年から神功(じんぐう)皇后死去の西暦329年までの時代を大和(やまと)時代と名付けて、西暦330年から武烈天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)の武烈天皇8年12月8日(西暦507年1月上旬頃)までの時代を倭王(わおう)時代と呼んで、継体(けいたい)天皇即位の継体天皇元年2月4日(西暦507年3月5日;西暦年月日に直すとこの日らしいが正しいか不明)から敏達(びだつ)天皇崩御の西暦585年までの時代を新朝(しんちょう)時代と呼びたいと考えている。
古代天皇家の歴史が明らかになって、考古学の遺跡・遺物と歴史学の歴史書解釈が見事なまでに一致して、もはやその歴史が不動なのでないのかとさえ思えてくる。
ただ崇神天皇から武烈天皇まで確実に実在したことを示す考古学的証拠がなく、その歴史を完全に証明するまでには至らない。
だが古代天皇家の歴史を事実として受け止めるならば、縄文時代から弥生時代そして弥生時代後期初頭の西暦84年からを区別して、あいまいな古墳時代を再定義して、新しい何時代と定義付けて世の中に公表するべきでないかと考えている。
弥生時代前期から中期を弥生時代と訂正して、弥生時代後期の西暦84年からと古墳時代を古代天皇家の歴史と認めるべきだと思う。

西暦84年から329年までを僕が大和時代と名付ける理由は、邪馬台国時代だと古代中国王朝と外交した2世紀中頃から3世紀中頃までしか定義付けられず、1世紀後半から4世紀前半まで定義付けられないためである。
また崇神天皇から仲哀(ちゅうあい)天皇までの皇居が奈良県に存在した可能性が高く、神功皇后の都(天皇でないので皇居という言葉を使わない)も奈良県にあった可能性が高くて、実質的に大和(奈良県)の時代だったと考えられるからである。
インターネット検索すると大和時代は、古墳時代という言葉に取って代わられたもので、もはやほとんど使われない言葉だから死語と言って良く、だったら新たな概念化をしても問題ないだろうという判断である。

崇神天皇の皇居・磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)は、磯城郡(しきぐん;奈良県磯城郡と桜井市の大半)のどこかにあるはずで、まだ該当する考古学的証拠の遺跡が発見されていない。
垂仁(すいにん)天皇の皇居・纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)は、奈良県桜井市の旧纏向(まきむく)村の村名に由来する地域の近くにあって、大規模な都市遺跡の纏向遺跡の近くに存在するのが間違いない。
景行(けいこう)天皇の皇居・纏向日代宮(まきむくひしろのみや)は、奈良県桜井市の纏向遺跡に間違いなく、『日本書紀』の記述と考古学的証拠の数々が合致していることが何よりの証拠である。
『日本書紀』の記述から景行天皇58年2月11日(西暦248年3月中旬頃)に滋賀県の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)に遷都したとあって、大和時代の概念から離れるがたったの3年間だけである。
仲哀天皇の皇居は多くあり過ぎて、そもそも統治下にない山口県の穴門豊浦宮(あなととようらのみや)が記されていたりしてはっきりせず、そもそもこの時代に出雲王家を崩壊させようとしていて、全くどこに皇居があったのか分からなくて大和時代の概念から離れる。
神功皇后の遷都した都は磐余若桜宮(いわれわかざくらのみや)で、磐余が奈良県桜井市谷を中心とする地域とされて、該当する考古学的証拠の遺跡がないけれど、奈良県で政治をしていると考えられて大和時代と呼べる。

西暦330年から武烈天皇崩御の武烈天皇8年12月8日(西暦507年1月上旬頃)までの時代を倭王時代と定義付けるのは、西暦366年4月上旬頃から百済(くだら)との外交関係が始まって、この時から邪馬台国時代に国交断絶して以来の外交が開始されたのであり、邪馬台国時代と倭の五王時代を明確に区別したいことから、倭王時代を定義付けたいのである。
邪馬台国時代に景行天皇が「親魏倭王」の金印を受け取って倭王と呼ばれるのがささいな問題で、西暦372年10月上旬頃に百済から七枝刀(ななつさやのたち)が下賜されて、七枝刀が石上(いそのかみ)神宮の七支刀(しちしとう)で、泰和四年(西暦369年)に百済王が倭王のために作らせたという文字が読み取れて、倭の五王も含めて天皇が倭王と呼ばれたと考えられて倭王時代と定義付けられないか?

継体天皇即位の継体天皇元年2月4日(西暦507年3月上旬頃)から敏達天皇崩御の西暦585年までの時代を新朝時代と定義付けるのは、継体天皇から今の皇室まで新しい血筋の天皇が百一代ずっと続いたとされて、新しい大和朝廷の時代で略して新朝時代と定義付けるのである。
最古の前方後円墳の纏向石塚古墳(西暦190年か西暦191年に葬礼の垂仁天皇陵)から8世紀初頭までを古墳時代と呼んで、古墳時代が飛鳥(あすか)時代と奈良時代と重なり合った不鮮明な定義付けの時代区分を改めさせるべきだと考えられる。
天皇家の名の下に西暦84年から585年までを何時代と呼ぶか定義付けて、それを国民に強く協調すべきでないかと考えており、古代天皇家の歴史が現在の皇室と無関係でない故にこのような提案をするのである。

纏向石塚古墳は垂仁天皇陵で、箸墓(はしはか)古墳が景行天皇陵で、景行天皇の皇居の纏向日代宮が纏向遺跡なのが100%間違いないはずで、邪馬台国が古代天皇家の史実なのも間違いないと考えられる。
福島県河沼郡会津坂下町の杵ヶ森(きねがもり)古墳と千葉県市原市の神門(ごうど)3号墳と4号墳と5号墳と長野県中野市の高遠山(たかとおやま)古墳は、全て3世紀後半が築造年代と考えられる前方後円墳で、東日本最古の前方後円墳に当たって、高遠山古墳が埋葬者を求められないが、他が僕の求めた埋葬者が間違いなく正しいはずである。
4世紀前半までの築造と考えられる古墳は山形県と宮城県にあって、古代天皇家が景行天皇60年(西暦250年)から仲哀天皇3年(西暦254年)までに東北地方南部までを勢力下において、古墳の存在をくつがえすことなど不可能である。
僕の求めた考古学的証拠と歴史書解釈は簡単にくつがえせず、アインシュタイン博士以上の天才の僕を超える証拠を列挙できるものならしてみて、考古学会も歴史学会も革命が起きる所まで来ている。
考古学会も歴史学会も僕に負けを認めて、20世紀最高の天才アインシュタイン博士さえ超える直感の持ち主の僕を納得させるなど不可能のはずで、古代日本史の新たな終わりと始まりである。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『日本古代地名事典』
吉田茂樹・著者 新人物往来社・発行
『邪馬台国の考古学』
石野博信・著者 株式会社吉川弘文館・発行
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