古代信仰


古代信仰とは神奈備(かんなび)や古神道などの考え方も含めるのだろうが、僕が取り上げるのが神道を基本に置いたものである。
古代信仰は神道の万物に霊魂が宿るという考え方に基づいて、御神体山の三輪山(みわやま)や日室岳(ひむろだけ)、岩石を祭った花の窟(いわや)神社、五十鈴川(いすずがわ)の流れを神格化した滝祭神(たきまつりのかみ)、「海の正倉院」の異名を持つ沖ノ島(おきのしま)などを挙げる。
神道は天皇家の宗教でかつて国教となったもので、西暦84年に建国した古代天皇家が僕の求めたもので、現代人が僕の考え方を理解できない限り正史(正確に正しい歴史)より前の西暦506年以前を把握できず、古代天皇家の歴史の可能性など理解できるはずもない。
西暦84年に即位した初代の崇神(すじん)天皇の時代からが神道の始まりで、現代人の理解する正史は継体(けいたい)天皇の即位した西暦507年3月から現在の今上(きんじょう)天皇(現在の天皇陛下)の時代までで、現代人に邪馬台国時代や倭の五王時代が求められない。
アインシュタイン博士以上の天才の僕が古代信仰で分かる限り求めてみる。

奈良県桜井市の三輪山は環太平洋ピラミッドと呼ばれるタイプのピラミッドの可能性が指摘されて、大和三山もピラミッドでないかと考えられて、三輪山自体が縄文時代以前から祭祀されてきた可能性もある。
三輪山は初代から7代目までの大物主神(おおものぬしのかみ)を祭って、山頂に2代目・大物主神(狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の神霊を鎮めているが、全て古史古伝『ホツマツタエ』に記された記述で、現代人の知らない知識である。
『ホツマツタエ』の三輪山の記述は、神代から日本神話の神々との関わりが記されて、人代だと崇神天皇48年1月10日(西暦131年2月上旬頃)の皇太子選びで初めて出てくると思われて、垂仁(すいにん)天皇7年8月7日(西暦158年9月上旬頃)に三輪山が祭祀されたと記されている。
三輪山は2代目・大物主神(狭穂彦王を神格化)を祭ったのが最初で、2代目出雲国王の狭穂彦王が皇位継承権争いの反乱で戦死して、祟(たた)りをもたらさないように怨霊(おんりょう)として祭ったものである。
崇神天皇時代に怨霊として記される大物主神は、垂仁天皇時代の狭穂彦王の反乱をごまかして、垂仁天皇の父親の崇神天皇時代に記すことで偽装工作したものだった。
7代目・大物主神(飯入根(いいいりね)を神格化)も怨霊で、崇神天皇60年の出雲平定で飯入根が戦死した記述も偽装工作で、仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦260年)神無月が出雲平定の正しい年代である。
三輪山は怨霊の2代目・大物主神と7代目・大物主神を鎮魂する御神体の山で、古代信仰として山全体を禁足地(足を踏み入れてはならない土地)の聖域とした。
歴代の大物主神は歴代の出雲国王を神格化して、出雲王国が物部(もののべ)氏の国で物部氏の子孫が三輪山と石上(いそのかみ)神宮などを祭祀したが、歴史書で出雲王国と物部氏の関係を隠した。
しかしアインシュタイン博士以上の天才の僕をだませるわけもなく、見事に古代日本史の謎を全てひもといてしまった。

京都府福知山大江町の元伊勢内宮の日室岳は、御神体山の三輪山と同じ古代信仰で禁足地とされて、綺麗なピラミッド型の山として知られて、いつ頃からか祭られてきたが天皇家の正史の継体天皇時代以前だろう。
『ホツマツタエ』6章の日本神話に元伊勢外宮の記述があるのでないかと考えられて、『ホツマツタエ』編纂(へんさん)の西暦330年代以前から日室岳が存在した可能性がある。
日室岳は夏至の日に礼拝所(元伊勢内宮)から見て山頂から太陽が沈んでいって、そう見えるように計算して元伊勢の内宮と外宮が創建されたと考えられる。

三重県熊野市有馬の花の窟神社は、国生みの女神の伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)とその息子の軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王を神格化)の墓とされて、自然の岩石を祭った古代信仰の古社である。
狭穂彦王と狭穂姫は実の兄妹で、最古の皇族の彦坐王(ひこいますのみこ)が実父として、三輪山と同じく狭穂彦王が皇位継承権争いの反乱で敗れた結果として祭られた。
2代目出雲国王の狭穂彦王は出雲王国で反乱を起こしたが、なぜか最終決戦の地が三重県熊野市になって、稲城を積み上げて籠城(ろうじょう)して炎上する中で亡くなった狭穂彦王と狭穂姫の遺体が残らず、弥生時代後期の大型陵墓でなく岩石を祭祀した花の窟神社が創建されたと考えられる。
垂仁天皇7年(西暦158年)頃が花の窟神社の創建で、『ホツマツタエ』でイサナミとカグツチに血縁関係がなくて、カグツチが自然神として黄泉国(よみのくに)下り神話以降も生きていたとされるが、「記紀」がカグツチ(狭穂彦王を神格化)を処罰させないと気が済まなかったのだろう。
花の窟神社は日本神話時代の神社とされるが、日本神話が全て史実を神話化していると考えられる以上、日本神話に基づく神社全てが西暦84年以降の神道の神社だと考えられる。

伊勢神宮内宮で五十鈴川(いすずがわ)横の岩に祭られた滝祭神は、古代に五十鈴川の流れを神格化した蛇神(竜神)で、滝祭神が明確な社殿を持たない古代信仰の神様だが天照大神(あまてらすおおみかみ)の前身と考えられていたらしい。
天照大神は元々が蛇の姿をした男性とされて、蛇神の大物主神と滝祭神と八岐大蛇(やまたのおろち;滝祭神を怪物視した姿)と同一神とすべきで、蛇神が天照大神の前身の古代太陽神だと考えられる。
『ホツマツタエ』にヤマタノオロチが記されていることから滝祭神は、『ホツマツタエ』編纂以前から伊勢神宮内宮に祭られていて、現在の伊勢神宮内宮が創建されたのが垂仁天皇26年(西暦177年)で、この程度も求められない者が古代日本史研究など笑わせる。

宗像(むなかた)大社の沖津宮がある沖ノ島は、「神宿(やど)る島」として宝物を祭って航海の安全を祈願した古代信仰の島で、世界遺産に登録されてどうなるか分からない。
島全体を古代遺跡とする沖ノ島を守るのに僕は賛成で、古代から連綿(れんめん)と受け継がれてきた伝統を汚(けが)すのが良くないと考えている。
『ホツマツタエ』に景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦202年から209年)に景行天皇自らが総大将として九州全土を平定したと記されていて、西暦210年以降に弥生時代後期後半から古墳時代までずっと沖ノ島は祭祀され続けてきた。
古代天皇家の歴史の生ける証人である沖ノ島の伝統は、世界遺産に登録された今本当に守ることができるのか大いに疑問で、古代天皇家の歴史を知らない現代人より僕の方がよっぽど分かっている。
僕が求めた神道の古代信仰は世界中に知らしめるべきものかもしれないが、伝統を汚す結果をもたらす可能性から守るものでないかと思う。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
インターネット

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