『古事記』


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

『ホツマツタエ』は、6世紀から7世紀中に成立した日本最古の書物で、『古事記』が西暦712年に献上した2番目に古い書物で、『日本書紀』が西暦720年に献上した3番目に古い書物で、この事実が僕の特定した功績で、誰も否定できない真実で、2023年6月6日に修正した。
『古事記』は、天武(てんむ)天皇が西暦781年に編集を命じて、稗田阿礼(ひえだのあれい)が暗唱(あんしょう;頭の中の記憶を口で伝えること)して、太安万侶(おおのやすまろ)が記録して、2人だけで作成したのが嘘(うそ)で、「記紀」の干支(えと)が互いに関係して、国家規模の編集をごまかしたと考えられる。
『古事記』は、『日本書紀』より後世にできた偽書説があるが、建御雷神(たけみかづちのかみ)や大国主神(おおくにぬしのかみ)や建御名方神(たけみなかたのかみ)や天之日矛(あめのひぼこ)や品夜和気命(ほむやわけのみこと)などが否定材料で、『古事記』の干支(えと)の崩年干支(ほうねんかんし)で、『日本書紀』と同時期の作成と証明できる。

『日本書紀』と『古事記』の神名と人名の書き方の違いは、両方の書かれた時代や特徴などを疑わせて、つまり『古事記』偽書説を提唱させることも目的で、同年代の書物か自体を疑わせて、誰も求められないようにしたが、逆にもっと僕に興味を持たせて、それらを特定する大ヒントになった。
僕の挙げた否定材料は、凡人(僕以外の人間)でも違和感を覚えるが、それ以上の考え方ができなくて、僕なら理由を一つ一つ丁寧に説明して、なぜ偽書説につながったか特定できて、超天才の僕との決定的な差である。

『古事記』の建御雷神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、『日本書紀』の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と同一神をほのめかせて、『古事記』で経津主神(ふつぬしのかみ)の神名を消して、混乱させて疑わせるためにワザと偽装工作した。
『古事記』の2代目・意富多多泥古命(おおたたねこのみこと;2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖先化)は、大物主大神(おおものぬしのおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子孫である建甕槌命(たけみかづちのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の子で、僕が物部(もののべ)氏の血筋と特定して、2代目・大田田根子(おおたたねこ)が『ホツマツタエ』の編者で、『古事記』がその血筋をワザと記した。
『古事記』の大国主神(おおくにぬしのかみ)は、根(ね)の国下り神話や因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)神話を記して、『ホツマツタエ』と『日本書紀』に記さず、『古事記』が独自に生み出した神話で、編者が日本神話の内容を理解したが、後世の学者たちが理解できなくて、滅茶苦茶な解釈をして、迷宮入りにして僕がひもといた。
『古事記』の建御名方神(たけみなかたのかみ)は、『日本書紀』で神名を消して、出雲の国譲(くにゆず)り神話を混乱させた。

『古事記』の天之日矛(あめのひぼこ)は、系図が滅茶苦茶で、『ホツマツタエ』と『日本書紀』が確実に合致して、偽書説を疑わせる偽装工作で、『古事記』で景行(けいこう)天皇が曾曾曾曾孫と結婚する系図などと同じく、混乱させて滅茶苦茶にする目的で、ワザと編集した。

『古事記』の品夜和気命(ほむやわけのみこと)は、神功(じんぐう)皇后の長男で、実弟が品陀和気命(ほむだわけのみこと)だが、『日本書紀』で神功(じんぐう)皇后の息子が誉田別尊(ほむだわけのみこと)だけで、異母兄弟が誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)で、同母か異母のどちらの兄弟が正しいか不明で、僕が見事にひもといた。
『ホツマツタエ』は、忍穂耳尊(おしほみみのみこと)と栲幡千千姫(たくはたちちひめ)の息子が初代・火明命(ほあかりのみこと)と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)で、『日本書紀』に火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと)の神名を記すことがきっかけで特定した。
火の神様は、物部(もののべ)氏の直系子孫だけを神格化して、僕の自論の鉄則で間違いなくて、神功(じんぐう)皇后が物部(もののべ)氏の直系子孫で、『日本書紀』の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)の母が物部(もののべ)氏か分からなくて、『古事記』の同母兄弟が確実に正しい。
忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)と栲幡千千姫(たくはたちちひめ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、息子の初代・火明命(ほあかりのみこと;誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を神格化)と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)を生んで、神功(じんぐう)皇后の父が武虎別皇子(たけこわけのみこ)で、その母が物部(もののべ)氏の高田媛(たかだひめ)である。
火の神様は、物部(もののべ)氏の直系子孫を証明して、他の血筋が絶対にあり得なくて、「記紀」で血筋の混乱をワザと作って、『日本書紀』と『古事記』が同時期の書物としか考えられない。

2023年1月24日は、蘇我(そが)氏と藤原氏が物部(もののべ)氏と同族と確信して、「記紀」を編集した総合監督の藤原不比等(ふじわらのふひと)が徹底的に事実を隠したが、『ホツマツタエ』の藤原氏の系図と『古事記』の武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫の蘇我(そが)氏を僕が求めて、蘇我(そが)氏と藤原氏の血筋を偽装工作したと考えられる。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫の蘇我(そが)氏は、物部(もののべ)氏の子孫を「記紀」であいまいにして、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の直系子孫の竹内(たけうち)氏が正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』で詳細に蘇我(そが)氏の系図などを伝承するが、公表してなくて真偽不明と考えられる。天児屋命(あまのこやねのみこと;誰を神格化したか不明)は、藤原氏の祖先神で、他の藤原氏の祖先神に物部(もののべ)氏の出身が多くて、藤原氏と物部(もののべ)氏を同族視しても間違いないと考えられる。
蘇我(そが)氏と藤原氏は、皇室と深い姻戚(いんせき)関係で、物部(もののべ)氏の子孫や同族で、「記紀」にその形跡を消したりほのめかせたりして、藤原不比等(ふじわらのふひと)の策略と考えられて、重要な秘密の特定ができた。

『古事記』の崩年干支(ほうねんかんし)は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)年に使われた干支(えと)で、何十年か前の考古学会でも利用して、歴代天皇の崩年干支(ほうねんかんし)を飛び飛びで記して、当てにならなくて忘れ去られたが、2023年5月25日午後5時頃に仁徳(にんとく)天皇から武烈(ぶれつ)天皇の西暦年を特定した。
『古事記』の崩年干支(ほうねんかんし)は、『日本書紀』の即位年干支法(そくいねんかんしほう)と見事に合致して、僕が誤解したと認めて、即位年干支法(そくいねんかんしほう)と崩年干支(ほうねんかんし)の完璧な西暦年を特定して、これからの歴史研究に必要不可欠で、大きな参考史料である。

『古事記』は、国内で2番目に古い書物で、『日本書紀』をサポートする同時代の歴史書で、僕が多くの疑問を解決できる可能性があるけれど、ここまでで終了としておく。

<参考文献>
『古事記(上)(中)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
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