九鬼文書(くかみもんじょ)


『九鬼文書』は太古の神々の系譜や業績を細かく記している。

最初に生じたのは気と現れて、力と在るただ一つのもので、その神名を母止津和太良世大神(もとつわたれせのおおかみ)で、別名を「太元輝道神祖(たいげんきどうしんそ)」と言う。
この神様の活動で天津身光大神(あまつみひかりおおかみ)が生まれて、さらにその神様の光と熱が固まって、天照日大神(天津日身光大神;あまつひみひかりおおかみ)と天津月身光大神(あまつつきみひかりおおかみ)と天津日月豊宇気生大神(あまつひつきとようけのおおかみ)が生まれた。
この3神はそれぞれ太陽と月と星の光をつかさどって、ようやく地上に万物が生じる準備が整ったのである。
さらに数世代を経て、天御中主(あめのみなかぬし)天皇が現れて、神々の世界に皇位という概念が定まって、12代の後にアマテラス(天照座天皇)とツクヨミ(月夜見天皇)とスサノオ(素盞嗚天皇)の三人が立って、その中の素盞嗚天皇の皇女の天照大日靈(あまてらすおおひるめ)天皇が後の天皇家の先祖になった。
『九鬼文書』は太陽神・自然神としての「天照日大神」、素盞嗚天皇と並ぶ大女王としての「天照座天皇」、皇祖神としての「天照大日靈天皇」という三人のアマテラスが登場しており、「記紀」の天照大神(あまてらすおおみかみ)と別の伝承から作られている。
「天照座天皇」の誕生に関して次のような記録が伝わって、12代目の伊奘諾(イザナギ)天皇の時代に人類の文明が栄えるにつれて、世界に新しい問題が生じてきた。
「鬼人の増殖ようやく繁(しげ)く、生存の競争また劇(はげ)しくために全世界の食物ことごとく暗黒化せり」
この「鬼人」について、これを競争意識の高いミュータントとする説もあるが、鬼人も人も増殖して、単なる人口爆発とも考えられる。
どうであるにしてもイザナギは、この困難を乗り切るために皇后のイザナミ(伊奘冊尊)と共に、暗黒の世界を治めるべき神様が生まれるように「天照日大神」に祈り、皇后が天岩戸(あまのいわと)にこもって産んだのが「天照座天皇」とツクヨミとスサノオだという。
この天岩戸の祭りは、スサノオの皇后が「天照大日靈天皇」を産み落としたときにも行なわれた。
ツクヨミの子孫は黒人根国で栄えて、その家系が「迦毘羅飯命(かびらいのみこと)」そして「悉達留多(しっだるた)」で、別名を「釈迦(しゃか)」だという。
ちなみに仏伝によると、仏教の開祖・釈尊が幼名シッタルダで、シャカ族の王子としてカピラ城に生まれたと記す。
スサノオは檀君(だんくん)と称して朝鮮に国を建てて、その子孫が白人根国で栄えて、野安押別命(のあおしわけのみこと)と母宇世(もうせ)と伊恵斯(いえす)が出たという。
それぞれ聖書のノアとモーゼとイエス・キリストのことか?
ユダヤ人は白人なのが固定観念・先入観で、その常識に基づいて『九鬼文書』が作成されて、偽書としての根拠になると考えられる。
イザナギが白人根国のエジプトに天降り、さらに伊駄国(イタリアか?)を造営したと言う。
以上のことから黒人根国が仏教発祥国のインド方面、白人根国が聖書の舞台のエジプト・パレスチナを含む中東方面で、仏教・キリスト教の開祖が共に日本の神様の末裔だという。
この情報は間違いと考えるべきで、世界情勢を知った時代の人間が『九鬼文書』を作成したした可能性が高いと考えられる。
なお「天照座天皇」とツクヨミとスサノオは、いずれも出雲の日御碕(ひのみさき;島根県出雲市大社町)に高天原として都を置き、出雲三代天皇と称されたという。
出雲大社の祭神のオオクニヌシは「大国主天皇」や「出雲天皇」として神代の皇統に数えられて、オオクニヌシがスサノオの子孫として白人根国で生まれて、黒人根国を経て日本に帰ったという。
イザナギ(垂仁(すいにん)天皇を神格化)以降の神様は、黒人や白人の先祖や出身となっているが、間違った情報なので『九鬼文書』が偽書とせざるを得ない。
『九鬼文書』の神代系譜によると、母止津和太良世大神による天地の始まりから明治天皇の即位までの年月が十万五千年とされて、天文学や地質学や歴史学の年代観から見てもあまりに短かすぎるが、『九鬼文書』成立の頃に合理的な年代観だったのだろう。

戦後に九鬼家に『九鬼文書』と別に、『天津蹈鞴秘文遍(あまつたたらひぶんへん)』という書物があって、主に神道と熊野修験道の秘伝を中心として、古代のインドや中東と日本を物語るような記述がある。
紀元前1370年から1270年頃のメソポタミア方面の預言者・天文学者で、古代インド哲学をも収めた賢人のミマ王が日本列島に渡来して、大和の三輪山に住んで日本の神々と協力して天津蹈鞴の秘文を作って、それをアマテラスに伝授したという。
紀元前1210年にヴェーダンタ(吠檀達)という麻礼(マレー)民族にして仏教徒の被差別民が日本列島に押し寄せて、国を占拠しようとしたため皇軍は三輪山を要害として戦って、ヴェーダンタの数百の兵を打ち破った。
降伏したヴェーダンタが大和の一角に住むことを許されたが、これ以降に天皇家は武器をそろえ戦に備えるようになった。
サンスクリット語でヴェーダンタは本来『ウパニシャッド』という哲学書を意味する。
それから約400年後、九州や大和の土豪たちが国を乱して、民を苦しめることが頻発して、紀元前670年に皇軍は伊勢と鳥羽から兵を起こして、賊軍と10年間戦ってようやく天下統一した。
神々はこの経験を生かして、ミマ王が残した天津蹈鞴秘文に武力に関する記述を加味して、後世に伝えることにした。
神武天皇が天下統一の軍を起こした時、実際に天津蹈鞴秘文の神法を用いたのは、中臣氏の祖である天之種子命で以来、この秘文が代々の中臣氏当主によって受け継がれるようになったと言う。
ただし、『天津蹈鞴秘文遍』の由来について『熊野修験道の道しるべ』によると、スサノオを祖とする出雲朝廷とアマテラスを祖とする倭朝廷は、交互に太子を皇位につけると誓約を行なっていた。
出雲朝廷のオオモノヌシ(大物主大神)が倭守護のための将兵を大和各地に駐屯させていたが、後の神武天皇がこの状況を快く思わなくて、伊勢・鳥羽から兵を起こした。
オオモノヌシの娘のヒメタタライスズヒメが三輪山で包囲されるに及び、出雲朝廷が降伏してヒメタタライスズヒメが神武天皇の皇后となり、2つの朝廷が一元化されたのだという。

『九鬼文書』は近代の知識を得た者が編纂(へんさん)した偽書と考えられて、古史古伝が見直される現在においても偽書と考えられる。
『天津蹈鞴秘文遍』と『熊野修験道の道しるべ』は何を底本にしていたとしても、間違った知識なのかどうかわからない。
『九鬼文書』と『天津蹈鞴秘文遍』と『熊野修験道の道しるべ』は全て偽書で、登場人物が「記紀」に近いけれども、明らかに間違っているとしか結論付けられない。

<参考文献>
『『古史古伝』異端の神々』
僕・原田実 株式会社ビイング・ネット・プレス:発行
インターネット

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