熊野大社と熊野三山

『ホツマツタエ』の熊野は、別の漢字で、隈野(くまの)や曲野(くまの)と書いて、「汚穢(おえ)・隈(くま)の所」の意味で、汚穢(おえ)が体の汚(けが)れで、隈(くま)が心の汚(けが)れで、クマノが一般名詞や固有名詞で、固有地名のクマノが神倉山 (かみくらやま;和歌山県新宮(しんぐう)市磐盾(いわたて) にある山)の麓(ふもと)の土地と考えられて、近くに熊野速玉(はやたま)大社があって、ここを特にミクマノ(御隈野)と呼んで、熊野の名前が出雲王家(物部(もののべ)氏)に関係する。
スサノヲ(日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、母(祖母)のイサナミが生理中の交(まじ)わりで孕(はら)んで、その汚穢隈(おえくま;体と心の汚(けが)れ)がスサノヲに宿(やど)って、世の中の隈(くま;心の汚(けが)れ)となって、イサナミが自分の汚穢(おえ;体の汚(けが)れ)が原因と責任を感じて、「隈(くま)の宮」の熊野三山を創建して、その隈(くま;心の汚(けが)れ)を身に受けようとした。
そのイサナミ(狭穂姫(さほひめ)を神格化)は、最期の場所がクマノ(隈野;熊野)で、イサナミが「隈(くま)の神」の贈(おく)り名をもらって、三重県熊野市有馬町(ありまちょう)の花の窟(いわや)神社がイサナミと息子のカグツチ(誉津別命(ほむつわけのみこと)を神格化)の墓(はか)で、2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)における最終決戦地の可能性がある。
熊野三山に祭る熊野神(くまののかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、別名が熊野大神(くまののおおかみ)と熊野権現(くまのごんげん)で、熊野三山の色々な祭神を統一して熊野神(くまののかみ)と呼ぶが、島根県松江市の熊野大社の熊野大神(くまののおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が同一神と僕が証明して、解釈が重なったために混乱して、同一神と別神が正しい。

島根県松江市八雲町(やくもちょう)熊野の熊野大社は、火の始まりの神社で、「日本火出初之社(ひのもとひでぞめのやしろ)」とも呼ばれて、火の神様(物部(もののべ)氏を神格化)を祭るためで、千家(せんげ)氏の本来の奉斎社(ほうさいしゃ;神様を慎(つつし)んで祭る神社)で、意宇(おう)六社の一つに数えて、出雲大社と共に出雲国(いずもこく;島根県東部)一宮(いちのみや)である。
熊野大社の祭神の神祖熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけののみこと)は、火の属性(物部(もののべ)氏を神格化)で、神祖(かぶろぎ)が神聖な先祖の意味で、海部(あまべ)氏の祖先神の2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と結びついて、出雲王家(物部(もののべ)氏)と京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏が同族と証明した。
神祖熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけののみこと)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と同一神で、熊野大社の社伝や神名などで判断して、彦坐王(ひこいますのみこ)と誉津別命(ほむつわけのみこと)と日本武(やまとたけ)天皇などを神格化して僕が統合して、古代天皇家と出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋と証明して、物部(もののべ)氏の直系子孫が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏だが、後世の偽装工作で隠された。
神祖熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけののみこと)は、火の属性(物部(もののべ)氏を神格化)で、神祖(かぶろぎ)が神聖な先祖の意味で、海部(あまべ)氏の始祖(始まりの先祖)の2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と同一神で、まず覆(くつがえ)らない。
また伊邪那伎日真名子(いざなぎひまなこ;イザナギが可愛(かわい)がる御子)加夫呂伎熊野大神(かぶろぎくまののおおかみ)櫛御気野命(くしみけののみこと)の神名の意味は、火の属性(物部(もののべ)氏を神格化)がイザナギ(垂仁(すいにん)天皇を神格化)の息子で、火の神様のヒヨルコ(火夜子;誉津別命(ほむつわけのみこと)を神格化)を指す。
イザナギ(垂仁(すいにん)天皇を神格化)の息子のヒヨルコ(火夜子;誉津別命(ほむつわけのみこと)を神格化)は、伯父(おじ)のカグツチ(狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と入れ替わって、イザナギの息子のカグツチになって、伯父(おじ)と甥(おい)が物部(もののべ)氏で、火の神様に神格化された。

出雲王家(物部(もののべ)氏)の祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、火の神様(物部(もののべ)氏を神格化)の先祖で、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家である海部(あまべ)氏の祖先神の2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と同一神で、統一した天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)の神名を持つ。
初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)は、2代目出雲国王の息子が火の神様の軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)で、別の神名が火を生み出す意味の火産霊(ほむすび)で、彦坐王(ひこいますのみこ)と狭穂彦王(さほひこのみこ)の直系子孫の出雲王家(物部(もののべ)氏)を火の神様に神格化して、物部(もののべ)氏と海部(あまべ)氏が同族で、僕が彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫である古代太陽神氏族の和珥(わに)氏にまとめた。
古代太陽神氏族の和珥(わに)氏は、彦坐王(ひこいますのみこ)が始祖(しそ;始まりの先祖)で、物部(もののべ)氏と海部(あまべ)氏など彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の全部を統合して、僕が再定義した氏族名である。

島根県松江市八雲町(やくもちょう)熊野の熊野大社は、島根県出雲市の出雲大社と共に出雲国(いずもこく;島根県東部)一宮(いちのみや)だが、出雲大社よりも格上の社格で、昔に出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏が島根県松江市を本拠地として、同じく昔に島根県松江市大庭町(おおばちょう)の神魂(かもす)神社に千家(せんげ)氏が奉仕したと記して、熊野大社が島根県出雲市の出雲大社と共に出雲国(いずもこく;島根県東部)一宮(いちのみや)で、熊野大社と神魂(かもす)神社が非常に大切と考えられる。
熊野大社は、出雲大社と別の系統(火の属性)の神社で、千家(せんげ)氏の先祖の出雲王家(物部(もののべ)氏)を火の神様に神格化して、火の神様(物部(もののべ)氏を神格化)を祭って、物部(もののべ)氏の始祖(しそ;始まりの先祖)の彦坐王(ひこいますのみこ)が氏神(うじがみ;一族の祖先神)の総本社と考えられて、出雲大社よりも格上の社格が説明できる。

熊野大社の火継式(ひつぎしき)は、出雲王家(物部(もののべ)氏)の人物を火の神様に神格化するために古代天皇家(皇室)の火継(ひつ)ぎの儀式をして、出雲の物部(もののべ)氏の日継(ひつ)ぎが今の天皇家(皇室)の日継(ひつ)ぎでもあって、火の神様と太陽神に神格化して、古代天皇家(皇室)と出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋を受け継ぐ意味になる。
島根県松江市の熊野大社は、火の始まりの神社で、「日本火出初之社(ひのもとひでぞめのやしろ)」とも呼ばれて、「日本日出初之社(ひのもとひでぞめのやしろ)」と書き換えて、日(太陽)の始まりの神社とも考えられて、太陽神の子孫の天皇家(皇室)と古代太陽神の子孫の出雲王家(物部(もののべ)氏)を意味して、日(ひ)の神様(太陽神)と火(ひ)の神様が言霊(ことだま;言葉の霊魂)で共通した。
出雲大社宮司が代替わりする時に行なう火継式(ひつぎしき)は、神火相続式(おひつぎしき)とも呼ばれて、『出雲国造伝統略』に「自後世々神火(かみひ;火の神様の血筋である物部(もののべ)氏)を継承し」と記して、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏が代々に渡って、千家(せんげ)氏の先祖である火の神様(物部(もののべ)氏)の血筋を受け継いで、間違いなく正しい研究成果である。
出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏は、熊野大社の火継式(ひつぎしき)と鑽火祭(さんかさい)以外に直接参らず、熊野大社の祭神の神祖熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけののみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)に何らかの理由があると考えられる。
火継式(ひつぎしき)は、神魂(かもす)神社と熊野大社と出雲大社が深く関係して、神魂命(かみむすびのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と神祖熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけののみこと;初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と初代と2代目の大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)と7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化)の3神が深く関係する神事である。
火継式(ひつぎしき)は、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の宮司が神様の霊魂を内包する「生き神様」になって、天穂日命(あめのほひのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)と初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)と2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)の霊魂を取り込んで、3神とも千家(せんげ)氏の先祖だから間違ってない。

山形県南陽(なんよう)市の熊野大社は、大同(だいどう)元年(西暦806年)に平城(へいぜい)天皇の勅命(ちょくめい)で、再建したと伝える神社で、全国でただ一社の伊勢神宮から直伝を受けた「太々神楽(だいだいかぐら)」を伝えて、例年元旦から3月にかけての参宮期間に奉納して、そのような理由で東北の伊勢と言われる。
山形県の熊野大社は、北条郷(ほうじょうごう)総鎮守(そうちんじゅ)の神様として、「おくまんさま」と呼ばれて、人々から親(した)しまれて、また和歌山県の熊野三山と長野県の熊野皇大神社(くまのこうたいじんじゃ)と共に日本三熊野(さんくまの)の一つに数(かぞ)えて、東北の熊野信仰を今に伝える霊場で知られる。
山形県の熊野大社は、イザナギ(垂仁(すいにん)天皇を神格化)とイザナミ(皇后3人を神格化)と熊野三山の祭神などを中心に30神を祭って、イザナギが産霊(むすび;生み出すこと)のプロポーズ(求婚)をして、『ホツマツタエ』の5代目・タカミムスビ(高皇産霊;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と同一神で、産霊(むすび)が結(むす)びと言葉が共通して、産霊(むすび)の力で、人間や動物や植物などが生まれた。

熊野三山は、熊野本宮(ほんぐう)大社と熊野速玉(はやたま)大社と熊野那智(なち)大社の3社で、崇神(すじん)天皇65年(西暦148年)から仁徳(にんとく)天皇34年(西暦367年)までに3社が創建したと僕が考えるが、創建年代や祭神などの分析・研究が重要である。
熊野本宮(ほんぐう)大社の主祭神は、家都御子神(けつみこのかみ)で、熊野速玉(はやたま)大社の主祭神が速玉神(はやたまのかみ)で、熊野那智(なち)大社の主祭神が夫須美神(ふすみのかみ)で、それぞれの特徴や血筋などを超天才の僕が特定した。熊野三山の熊野の名前は、崇神(すじん)天皇65年(西暦148年)創建の熊野本宮(ほんぐう)大社と熊野本宮(ほんぐう)大社宮司家の熊野国造(くまのくにみやつこ)を仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)に任命して、熊野の名前が古代から使われたと証明した。
和歌山県田辺市本宮町(ほんぐうちょう)本宮(ほんぐう)の熊野本宮(ほんぐう)大社は、社伝で崇神(すじん)天皇65年(西暦148年)に創建して、島根県松江市八雲町(やくもちょう)熊野の熊野大社も西暦148年頃に創建して、彦坐王(ひこいますのみこ)が100才頃まで生きたと考えられて、娘の沙本毘売命(さほひめのみこと)の年齢から、彦坐王(ひこいますのみこ)が80才から90才頃まで生きたのを訂正して、2025年8月9日以降に年齢を修正した。
熊野大社の祭神が神祖熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけののみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、神祖(かぶろぎ)の神名が神聖な先祖の意味で、物部(もののべ)氏の始祖(しそ;始まりの先祖)の彦坐王(ひこいますのみこ)を指して、島根県松江市の熊野大社の創建時期を隠(かく)したと考えられる。
彦坐王(ひこいますのみこ)は、春日建国勝戸女(かすがのたけくにかつとめ)と結婚して、娘の沙本之大闇見戸女(さほのおおくらみとめ)が生まれて、娘とも結婚して、沙本毘古王(さほひこのみこ)と袁邪本王(おざほのみこ)と沙本毘売命(さほひめのみこと)と室毘古王(むろひこのみこ)が生まれて、沙本毘売命(さほひめのみこと)が西暦125年から135年頃の生まれと考えられる。
彦坐王(ひこいますのみこ)の娘の沙本毘売命(さほひめのみこと)は、15才から25才ほどで皇后になって、彦坐王(ひこいますのみこ)が孝昭(こうしょう)天皇45年5月15日(西暦45年6月中旬頃)生まれで、熊野本宮(ほんぐう)大社の創建年の崇神(すじん)天皇65年(西暦148年)から計算して、100才頃まで生きたと考えられる。
島根県松江市の熊野大社の熊野大神(くまののおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)は、熊野本宮(ほんぐう)大社の熊野大神(くまののおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が同一神で、熊野三山で熊野本宮(ほんぐう)大社が一番重要な神社で、祭神が物部(もののべ)氏の始祖(しそ;始まりの先祖)の彦坐王(ひこいますのみこ)だからである。

熊野本宮(ほんぐう)大社の家都御子神(けつみこのかみ)は、樹木をつかさどって、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別名で、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)本人で、伯母(おば)の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)の太陽神殺しをして、汚(けが)れを直接に祓(はら)う意味の神様である。
熊野本宮(ほんぐう)大社の神職(宮司家)の熊野国造(くまのくにみやつこ)は、仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)に饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の5世孫の大阿刀足尼(おおあとうのすくね)を統治者の国造(くにみやつこ)に任命して、間違いなく出雲王家(物部(もののべ)氏)と同族である。

熊野速玉(はやたま)大社は、社伝で景行(けいこう)天皇58年(西暦248年)に創建して、速玉神(はやたまのかみ;誉津別命(ほむつわけのみこと)を神格化)を祭るから、創建の時期が正しくて、速玉神(はやたまのかみ)の神名を神社名にした。
熊野速玉(はやたま)大社の速玉神(はやたまのかみ;誉津別命(ほむつわけのみこと)を神格化)は、『ホツマツタエ』で伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の仲人(なこうど)を務(つと)めた神様で、万人結婚の汚(けが)れを祓(はら)って、伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)の息子だから、神格化した人物を特定できた。

熊野速玉(はやたま)大社の神職(宮司家)の穂積(ほずみ)氏は、物部(もののべ)氏に属する穂積(ほずみ)氏で、海部(あまべ)氏の高倉下(たかくらした;誰を祖先化したか不明)の子孫である宇井(うい)氏と鈴木(すずき)氏と榎本(えもと)氏の3氏のうちの鈴木(すずき)氏だが、物部(もののべ)氏と海部(あまべ)氏が遠縁の同族で、穂積(ほずみ)氏が物部(もののべ)氏と海部(あまべ)氏のどちらの子孫か、判断が分かれる。
しかし神職の穂積(ほずみ)氏は、熊野本宮(ほんぐう)大社宮司家が物部(もののべ)氏の熊野国造(くまのくにみやつこ)と同族で、熊野一帯で穂積(ほずみ)氏の先祖が政治と祭事の両方をして、仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)に熊野国造(くまのくにみやつこ)が任命されて、穂積(ほずみ)氏の子孫が熊野速玉(はやたま)大社の祭事だけを務(つと)めるようになって、海部(あまべ)氏でなく、物部(もののべ)氏の子孫と考えられる。

熊野那智(なち)大社の創建は、孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)の実父(じっぷ)の孝昭(こうしょう)天皇時代とするが、実在した初代天皇の崇神(すじん)天皇時代より以前であり得ず、仁徳(にんとく)天皇時代頃の創建が正しくて、那智(なち)の滝(たき)を神聖視した古代信仰で、仁徳(にんとく)天皇34年(西暦367年)の仁徳(にんとく)天皇の死去年までに創建したと考えられる。
熊野那智(なち)大社の夫須美神(ふすみのかみ)は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)と同一神の火の神様で、伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)本人で、夫須美(ふすみ)が産霊(むすび;生み出すこと)の意味で、『ホツマツタエ』の5代目・タカミムスビ(高皇産霊;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と共通して、実兄の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)の汚(けが)れを祓(はら)う意味の神様で、火の神様(物部(もののべ)氏を神格化)の血筋が合致した。
熊野那智(なち)大社の別宮(べつみや)の飛瀧(ひろう)神社は、祭神が大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)と飯入根(いいいりね)を神格化)で、出雲王家(物部(もののべ)氏)とつながる。

熊野那智(なち)大社を祭った最古の家柄の潮崎(しおざき)家は、神職でなく、僧侶だったと伝えて、那智山(なちさん)の開山が熊野本宮(ほんぐう)大社と熊野速玉(はやたま)大社より後世と言う信憑性(しんぴょうせい)を高めて、神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)で、活躍した高倉下(たかくらした)の子孫と伝える。
『ホツマツタエ』のタカクラシタ(高倉下;誰を祖先化したか不明)は、海部(あまべ)氏の祖先神であるカゴヤマ(天香語山命;あめのかぐやまのみこと:誰を神格化したか不明)の子供で、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏が出雲王家(物部(もののべ)氏)と同族で、仁徳(にんとく)天皇34年(西暦367年)の仁徳(にんとく)天皇の死去年までに祭ったと証明できない。

熊野古道(こどう)は、熊野三山(熊野本宮(ほんぐう)大社と熊野速玉(はやたま)大社と熊野那智(なち)大社の3社)につながる参詣道(さんもうどう;神社や寺院に巡礼するための道)の総称で、熊野参詣道(さんもうどう)とも呼んで、紀伊(きい)半島に位置して、道が和歌山県と三重県と奈良県と大阪府にまたがって、2004年に「紀伊(きい)山地の霊場と参詣道(さんもうどう)」の一部として、ユネスコの世界文化遺産に登録したが、登録対象に紀伊路(きいじ)を含(ふく)まない。
熊野古道(こどう)の遺構の特徴は、那智山(なちさん)の大門坂(だいもんざか;熊野那智(なち)大社の参道)など舗装(ほそう)に使用した石畳(いしだたみ)が残されて、石畳(いしだたみ)を使用した理由が日本でも、紀伊(きい)半島が降雨量の多い有数の地域だからで、また江戸時代に紀州藩(きしゅうはん)が整備した一里塚(いちりづか)が残る場所もあって、那智山(なちさん)の開山が熊野本宮(ほんぐう)大社と熊野速玉(はやたま)大社より後世と言うが、考古学(遺跡・遺物)で証明してない。
熊野古道(こどう)の中には、国道や市街地のルートと重複して、吸収された物もあって、これに紀伊(きい)半島の地理が関係して、紀伊(きい)半島の中央部で、際立(きわだ)つ高山こそないが、どこまでも続く山々と谷が覆(おお)うため、古来より交通開発が困難で、往来に適した場所が限(かぎ)られて、現在もこの事情が同様で、結果的に現代の主要な交通路が古人の開拓した道に平行や重複して、世界遺産に登録した物が熊野古道の全部でない。
熊野古道(こどう)の特色は、中世に日本最大の霊場として、隆盛した熊野信仰の一貫した目的のため、千年以上も道を使い続けたことで、近世に日本最大の霊場の地位を伊勢神宮に取って代わられてから、西国三十三所観音巡礼の一つに姿を変えたが、純粋な徒歩の参詣道(さんもうどう;神社や寺院に巡礼するための道)として、熊野古道(こどう)が残ったため、現在でも独自の形で賑(にぎ)わう。
熊野周辺は、『日本書紀』にも登場する自然崇拝(すうはい)の土地で、熊野三山が天皇から貴族や庶民に至(いた)るまで、あらゆる階層の人々が信仰して、皇室で参拝したのが平安時代中期の延喜(えんぎ)7年(西暦908年)の宇多(うだ)法皇の熊野御幸(ごこう)が最初と言われて、熊野御幸(ごこう)が上皇の熊野詣(くまのもうで)を指して、11世紀から12世紀の院政期の上皇たちが熊野詣(くまのもうで)を繰り返した。
平安時代後期から鎌倉時代は、源氏や平氏も信仰して、平安・鎌倉時代の僧侶も参詣(さんもう;神社や寺院に巡礼すること)して、源頼朝(みなもとのよりとも)の妻の北条政子(ほうじょうまさこ)も、鎌倉から上洛(じょうらく)する機会を利用して、熊野参詣(さんもう;神社や寺院に巡礼すること)を2回して、西暦1221年の承久(じょうきゅう)の乱(らん)以後に地方武士の参詣者(さんもうしゃ;神社や寺院に巡礼する者)も出現した。
九十九王子(くじゅうくおうじ)は、熊野古道沿(こどうぞ)いにある神社の中で、主に12世紀から13世紀にかけて、皇族や貴人の熊野詣(くまのもうで)の先達(せんだつ)である熊野修験者(しゅげんしゃ)の手で、急速に組織した一群の神社で、参詣者(さんもうしゃ;神社や寺院に巡礼する者)が九十九王子(くじゅうくおうじ)で休憩しながら、熊野三山まで歩いて、現存する物が少ない。
室町時代は、貴族の他に武士や庶民の間でも、熊野詣(くまのもうで)が盛(さか)んになって、「蟻(あり)の熊野詣(くまのもうで)」とまで言うほど、凄(すさ)まじいほどの参拝者の大群だったと言って、熊野三山の繁栄(はんえい)も頂点で、熊野参詣道(さんもうどう;神社や寺院に巡礼するための道)も広域道路として整備した。
江戸時代は、伊勢詣(いせもうで)と熊野詣(くまのもうで)が並(なら)んで、広く庶民が参拝したと言われて、一時が熊野付近の旅籠(たびかご)に1日で、800人の宿泊を記録したこともあるらしく、1906年(明治39年)末に布告(ふこく)した神社合祀令(じんじゃごうしれい)で、熊野古道(こどう)周辺の神社の数が激減して、熊野詣(くまのもうで)の風習も、ほとんどなくなった。
熊野古道(こどう)自体は、大正から昭和にかけて、国道が整備されるまで、周囲の生活道路として、使用され続けて、現在が和歌山県観光振興課を中心にルートを整備して、スタンプラリーなどの観光化が進む。

『ホツマツタエ』の解釈は、ツキヨミ(月読;景行(けいこう)天皇を神格化)とトヨヒメアヤコ(豊姫紋子;高田媛(たかだひめ)を神格化)が息子のクマノクスビ(熊野久須毘;少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)を神格化)を生んで、「記紀」で天照大神(あまてらすおおみかみ;景行(けいこう)天皇を神格化)の息子の熊野久須毘命(くまのくすびのみこと;少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)を神格化)になった。
熊野久須毘命(くまのくすびのみこと;少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)を神格化)は、母親の高田媛(たかだひめ)が物部(もののべ)氏だから、熊野の神名を冠して、出雲神話の少彦名命(すくなひこなのみこと)と天稚彦(あめわかひこ)とも同一神で、出雲王国(物部(もののべ)氏)との関係を証明した。

僕は2025年6月10日頃から出雲大社の歴史を大きく修正して、途中で出雲大社と内容を分割して、一緒に題名も『熊野大社と熊野三山』に変更して、8月26日の午前11時半頃に記し終えた。

<参考文献>
『出雲大社と千家氏の秘密』
著者・中見利夫 発行・株式会社宝島社
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
インターネットの不明サイトから少々拝借

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