熊野を冠する神社

熊野という漢字は、熊野大社や熊野三山や三重県熊野市や日本神話の神様の大背飯三熊野(おおせいいみくまの)や熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)などが挙げられて、出雲王家(物部(もののべ)氏)につながる名前である。
熊野は『ホツマツタエ』の汚穢隈(おえくま;汚(けが)れ)に由来して、熊野が「隈(くま)の」の汚(けが)れを祓(はら)う意味と考えられて、2024年3月29日に修正した。

『ホツマツタエ』4章は、ツキヨミの次に、素戔(そさ)の国(三重県熊野)にてお生みになったソサノヲをイサナミが月の汚血(おけ)のときに孕(はら)まれた御子であったため、常に荒々しい叫び声をあげ、泣きわめいて人々を困らせていた。
イサナミは、ソサノヲが世の隈(くま)となっているのも、もとはといえば、月汚血(つきおけ)に孕(はら)んだわが身の過(あやま)ちであると思召(おぼしめ)しになり、民の汚穢隅(おえくま)を御親(おんみずか)らの身に受け、民を守ろうと熊野宮(隈(くま)の宮)をお建てになったと記す。

月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の子で素戔(そさ)の国で生まれた素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、母の向津姫(むかつひめ;八坂高依姫(やさかたかよりひめ)を神格化)が月の汚血(おけ;月経)の時に孕(はら)んだ子で、時に荒々(あらあら)しく暴(あば)れて人々を困らせた。
祖母の伊弉冉尊(いざなみのみこと;日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)を神格化)は、孫の素戔嗚尊(すさのおのみこと)が世の汚(けが)れとなるのも、元をたどれば月汚血(つきおけ)に孕(はら)んだ嫁の向津姫(むかつひめ)のあやまちだと考えて、民の汚穢(おわい)を祖母の身に受けて、民を守ろうと熊野宮(熊野三山の3つの神社のどれか)を建てた。

景行(けいこう)天皇と八坂高依姫(やさかたかよりひめ)の息子の日本武尊(やまとたけのみこと)は、景行天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)である纏向(まきむく)遺跡で生まれたと考えられて、逆賊の素戔嗚尊(すさのおのみこと)に神格化した。
月汚血(つきおけ)は、一月に一度の月経のことで、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)が伯母(おば)の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)を殺した太陽神殺し、皇位継承権争いの反乱、同母兄の大碓命(おおうすのみこと)を殺したなどが汚(けが)れと考えられる。
熊野三山の神社は、どれが熊野宮(隈(くま)の宮)か分からないが、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の汚(けが)れを祓(はら)う目的で神社を創建して、熊野が汚(けが)れを祓(はら)う意味と考えられる。

『ホツマツタエ』5章は、二神がそののち素戔(そさ;熊野)に行幸して、お宮を造営されて、そこで静かにお過ごしになった。
紀志伊(きしい;和歌山県と三重県南部)の国にも常世(とこよ)の国の橘(たちばな)を植えて、そこを常世(とこよ)の里と讃(たた)えた。
先に天(あめ)の節(ふし;厄年)の汚穢隈(おえくま)をさけるために捨て放ったヒルコヒメ(ワカヒメ)も再び召(め)された。
イサナミは、花のもとでヒルコヒメに和歌の道を教えている時、御子をお生みになったので、名もハナキネ(ソサノヲ)と名付けたが、その御子のご性格が真(まこと)に荒々(あらあら)しく、常に泣き哭(いざ)ち、雄叫(おたけ)びの声を上げて、一度播(ま)いた稲種を再び播(ま)いたりして、民を困らせた。
母の身には、捨てることのできない隈(くま)を民に播(ま)き散らす我が子を見たイサナミがそれを御親(おんみずか)らお受けになろうと、わが子の血脈(しむ)の欠点を償(つぐな)うために、熊野宮(隈(くま)の宮)を建てたと記す。

伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と伊弉冉尊(いざなみのみこと;日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)を神格化)の夫婦神は、九州に行って、三重県熊野地方にも行かれて、そこで宮殿を建てて、静かに暮らして、紀志伊(和歌山県と三重県南部)にも常世(とこよ)の橘(たちばな)を植えて、そこを常世(とこよ)の里とたたえた。
先に厄年で汚穢(おわい;汚(けが)れ)を避けるために捨て放った昼子姫(ひるこひめ;大中姫(おおなかひめ)を神格化)は、再び娘として(いざなみのみこと;日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)を神格化)が花の元で昼子姫(ひるこひめ)に和歌の道を教えて、別名を和歌姫(わかひめ)と言う。
その時に向津姫(むかつひめ;八坂高依姫(やさかたかよりひめ)を神格化)は、子の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)を生み名付けて、その子の性格が真(まこと)に荒々しく、常に雄叫(おたけ)びを上げて、色々と国民を困らせた。
祖母の伊弉冉尊(いざなみのみこと;日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)を神格化)は、捨てられない汚(けが)れを国民に播(ま)き散らす孫の素戔嗚尊(すさのおのみことを神格化)を見て、それを伊弉冉尊(いざなみのみこと)自(みずか)らがその汚(けが)れを受けようと、孫の血筋の欠点を償うために熊野宮(熊野三山の神社のどれか)を建てた。

三重県熊野市有馬(ありま)の花の窟(いわや)神社は、伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)と軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の親子の墓(はか)で、岩を御神体とする古代信仰の神社で、三重県南部の熊野市が伊弉冉尊(いざなみのみこと)と関係する。
伊弉冉尊(いざなみのみこと;日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)を神格化)の娘の昼子姫(ひるこひめ;大中姫(おおなかひめ)を神格化)は、4代目出雲国王の物部十市根(もののべのといちね)の正妻で、昼子姫(ひるこひめ)の別名の和歌姫(わかひめ)が和歌山県の国名になった。
素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の汚(けが)れは、西暦251年の皇位継承権争いから出雲王国の崩壊で日本武尊(やまとたけのみこと)の戦死までで、天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話から出雲の国譲(くにゆず)り神話まで神話化した流血を意味する。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、皇太子で優秀な武将だが、素戔嗚尊(すさのおのみこと)に神格化した荒々(あらあら)しい性格と考えられて、父の景行天皇の妾(めかけ)である弟橘姫(おとたちばなひめ)と不倫して、正妻にしたり皇位継承権争いを起こすなどの非道の理由と考えられる。
素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の諱(いみな)の花杵(はなきね)は、母の向津姫(むかつひめ;八坂高依姫(やさかたかよりひめ)を神格化)が橘(たちばな)から命名して、不倫して正妻にした弟橘姫(おとたちばなひめ)と共通して、日本神話と史実(歴史上の事実)が合致した。

熊野三山は、「隈(くま)の宮」と書いて、汚(けが)れ祓(はら)い清めるために建立されて、主祭神が誰で、どのように汚(けが)れ祓(はら)う目的なのかを考えてみる。
熊野三山の熊野本宮(ほんぐう)大社の主祭神は、家都御子神(けつみこのかみ)で、熊野速玉(はやたま)大社の主祭神が速玉神(はやたまのかみ)で、熊野那智(なち)大社の主祭神が夫須美神(ふすみのかみ)である。家都御子神(けつみこのかみ)は、樹木をつかさどって素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別名で、速玉神(はやたまのかみ;誰を神格化したか不明)が『ホツマツタエ』でイサナキとイサナミの仲人(なこうど)を務(つと)めた神で、夫須美神(ふすみのかみ)が伊弉冉尊(いざなみのみこと)と同一神の火の神様とされる。
熊野本宮(ほんぐう)大社の家都御子神(けつみこのかみ)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)本人で、伯母(おば)の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)の太陽神殺しで、汚(けが)れを直接に祓(はら)う。
熊野速玉(はやたま)大社の速玉神(はやたまのかみ)は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の仲人(なこうど)として、万人結婚の汚(けが)れを祓(はら)うと考えられる。
熊野那智(なち)大社の夫須美神(ふすみのかみ)は、伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)本人で、実兄の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)の汚(けが)れを直接に祓(はら)う意味である。

熊野を冠する神社は、他に熊野大社があって、熊野大社の主祭神が素戔嗚尊(すさのおのみこと)だが、火の神様(物部(もののべ)氏)とされて、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の異母兄弟の熊野久須毘命(くまのくすびのみこと;少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)を神格化)に当たって、少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)が物部(もののべ)氏の出身である。
物部(もののべ)氏の出身は、火の神様や雷神や土の神様や水神(海神)に神格化して、超天才の僕が20年以上の歴史研究で求めた成果である。
狭穂姫(さほひめ)と日本武尊(やまとたけのみこと)と少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)は、汚れや出雲王国と深く関係して、皇族で戦死して怨霊(おんりょう;怨(うら)み祟(たた)る霊)になったからである。
『ホツマツタエ』は、天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の息子が大背飯三熊野(おおせいいみこまの;誰を神格化したか不明)で、日本武尊(やまとたけのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)の7人の男兄弟である誰かを神格化して出雲王国の武将と考えられる。

熊野の共通性は、出雲王家(物部(もののべ)氏)と深く関係して、古代日本史を正しく完全解釈できる僕以外に誰も求められなくて、21年以上の歴史研究の偉大な成果である。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
インターネットの不明サイトから少々拝借

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