熊襲(くまそ)王国の滅亡


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

熊襲はいつ頃存在したか分からないが南九州にあって、古代天皇家の敵対国として歴史に出てくる。
『日本書紀』で熊襲王国は、景行(けいこう)天皇12年から19年の間と景行天皇27年に反乱して滅亡したか、仲哀(ちゅうあい)天皇時代に反乱して戦争して、仲哀天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)後に神功(じんぐう)皇后が熊襲王国を滅亡させたと記される。
熊襲王国は古代天皇家に対して2度の反乱を起こして滅亡した敵対国で、『日本書紀』の記述をちゃんと読めば分かるが、現代日本人レベルの頭脳でひもとけるはずもなく、アインシュタイン博士以上の天才の僕以外にひもとけない。

熊襲王国は邪馬台国(古代天皇家)の敵対国で、『ホツマツタエ』景行天皇12年12月5日(西暦203年1月上旬頃)に初見して、景行天皇27年10月13日に再び討伐の詔(みことのり;天皇の述べた言葉)があって、この後で熊襲王国が滅亡したとされるが、景行天皇27年の記述を信頼できない。
景行天皇12年から19年(西暦202年から209年)は九州全土の平定で、おそらくこの平定の後から後漢王朝滅亡の西暦220年までに遣漢使して、『後漢書』に拘奴国(くぬこく)が初見して、『魏志倭人伝』の狗奴国(くぬこく)と漢字が違うが同一国と考えられる。
『後漢書』の拘奴国は、女王国(伊勢国)から渡海して千里余りで拘奴国(熊襲王国)に至って、邪馬台国(大和国)や女王国と陸続きでない別の土地に存在することを見逃すべきでない。
熊襲王国は宮崎県にあったと予測されるが厳密に根拠など皆無で、『ホツマツタエ』の九州平定が鹿児島県や対馬の地名が一切出てこなくて、熊襲王国が南九州に存在したのが確かで、所在地を巡っての論争が後を絶たないが、熊襲王国が鹿児島を支配下に置いたのが確かだと考えられる。
熊襲王国は謎の多い敵対国で、邪馬台国の敵対国の拘奴国と狗奴国として認識されて、『ホツマツタエ』や『日本書紀』に記される南九州の王国として君臨している。
『魏志倭人伝』の狗奴国攻撃(西暦247年)は故意に隠されて、『ホツマツタエ』景行天皇27年の熊襲王国攻撃が景行天皇57年(西暦247年)の熊襲王国攻撃を年代変更したものである。

南九州の熊襲王国が再び天皇家にそむいて国々を侵略し始めて、景行天皇27年でなく、正しくは景行天皇57年10月13日(西暦247年11月中旬頃)で、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)で皇太子の稚足彦尊に熊襲王国の討伐を命じた。
稚足彦尊が、「良き弓の名手がいれば伴(とも)として連れて行きたい」と言われて、一同が口をそろえて、「美濃国(みののくに;岐阜県南部)の弟彦(おとひこ)が弓に秀でています」と申して、そこで景行天皇は葛城宮人(かつらぎみやど)を派遣して弟彦を呼ぶと、石占(いしうら;三重県桑名市付近)の横立(よこたて)、田子稲置(たごのいなき)、乳近稲置(ちちかいなき)なる者を率(ひき)いて連れて来た。
稚足彦尊はそれらの者を皆従えて、12月(248年1月頃)に南九州に到着されて、稚足彦尊たちが熊襲らの様子をうかがっているうちに、以前に景行天皇が辺鹿文(へかや)と結婚させた取石鹿文(とりいしかや)が川上で、猛々(たけだけ)しい族を集め梟帥(たける)と名乗り、円座をなして宴をもよおしていた。

稚足彦尊はまだ10代で少女の格好をして取石鹿文に近づき、隠し持っていた剣で取石鹿文の胸を刺して殺したと記すが、根本的に間違っていてあり得ない。
稚足彦尊は40歳を越えて、女装をしてもばれる年齢で、少女の格好をして取石鹿文に近づき殺したのが創作で、稚足彦尊が少女に女装しても大丈夫な年齢の記述に合わせてあり、稚足彦尊が日本武尊(やまとたけのみこと)と同一人物でないと思い込ませる必要があって、年代の変更がされて分からない人間からしたら当然である。
おそらく皇太子の稚足彦尊の全軍と取石鹿文の全軍で交戦したと考えられる。

一体どういう状況か分からないが、稚足彦尊が取石鹿文の胸を剣で刺したのは確かだと考えられて、その時の状況を私見で再現する。
稚足彦尊は今とばかりに剣を抜き取り、取石鹿文の胸を一気に刺し通して、すると胸を刺された取石鹿文が、「今しばらく剣を止めよ。言うことがある」と言うので、稚足彦尊がその言葉に従った。
「お前は誰だ」「景行天皇の子供で、世継ぎの稚足彦尊である」「今まで国の兵も諸人も我に及ぶ者がなく、皆が我に従っていた。君のように勇敢な者はいなかった。身分の低い私が捧(ささ)げる名前を名乗っていただけましょうか」
稚足彦尊はそれを承知されると、「今からは日本武尊(やまとたけのみこと)と名乗りたまえ」と言いながら梟帥(たける)の取石鹿文が死んで、日本武尊が弟彦を派遣して仲間の熊襲たちをみな討ち滅ぼさせた。
どういう状況か分からないが、稚足彦尊が取石鹿文から日本武尊の名称をもらったのは事実で、これ以降を日本武尊と名乗って英雄としての活躍をすると多くの人が勘違いする。

また大和へ帰る途中、吉備穴門(きびあなと;広島県深安郡)と波速(なみは・難波;現在の大阪市)の柏済(かしわのわたり;淀川河口付近の船着場)にいた賊を皆殺しにした。
大和への帰還の航路は瀬戸内海で、広島県深安郡の賊が邪馬台国(やまとこく;大和国)の属国である出雲王国の支配下にある敵で、大阪市の淀川河口付近の船着場の賊が古代天皇家に反乱した何らかの氏族だと考えられるが、明確に討伐したのか不明である。

日本武尊を神格化した因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)神話の関係性から、西暦251年に日本武尊の反乱で出雲王国に亡命したルートの可能性が考えられて、波速の柏済(淀川河口付近の船着場)から吉備穴門(広島県深安郡)に入って、出雲王国に亡命した可能性が考えらえる。

景行天皇58年2月1日(西暦248年3月上旬頃)に日本武尊一行は、皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)に帰り、日本武尊が景行天皇に報告された。
「天皇の恩頼(みたまふゆ;神や天皇から受ける恩徳)によって、熊襲らをひたすら殺して、ことごとく平定したゆえ、西方は無事に治まっています。ただ吉備の穴門と波速の柏済に悪気を放ち、道行く人々に災いをなそうとする荒ぶれ者どもがいましたが、これも斬り殺して海と陸の道を開きました」と言われた。
景行天皇は西国平定の功績を深くほめられて、日本武尊に褒美(ほうび)を与えた。

日本武尊の熊襲平定はそれほど長い時間をかけず、一気に決着を付けて武将としての優秀さがうかがい知れる。
『三国志・魏志倭人伝』に「其八年、太守王到官。倭女王卑弥呼與、狗奴国男王卑弥弓呼素不和。遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等、因斎詔書黄幢、拝仮難升米、為檄告喩之」と記す。
は「斤へん」に頁の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
正始八年(西暦247年)に帯方郡の太守として王(おうき)が任官して、日本の王である景行天皇は、熊襲国の男性王の取石鹿文と元々不和で、使者の載斯烏越(さいしうえつ)たちを帯方郡に派遣して、お互いに攻撃する状況を伝えて、塞曹掾史(さいそうえんし)・張政(ちょうせい)たちを派遣して、詔書と黄色の旗をもたらして、太夫の難升米(なんしゅうまい)に仮に授けて、檄文を作ってこれを告諭させたと解釈する。
『三国志・魏志倭人伝』から解釈して、西暦247年に熊襲王国と古代天皇家が内戦に突入して、帯方郡に使者を派遣したのが九州の統治者の判断で、その理由は熊襲王国が反乱してから帯方郡に使者を派遣するまでに時間がないからである。
帯方郡の使者の塞曹掾史・張政らから景行天皇に詔書と黄色の旗を受け取り、景行天皇でなく皇太子の日本武尊が受け取ったと考えられる。
狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみきゅうこ)は、熊襲国王の熊襲梟帥(くまそたける)を古代中国語読みしたと考えられる。
『ホツマツタエ』の編者は『三国志・魏志倭人伝』を読んだことから、景行天皇57年10月13日を景行天皇27年10月13日にして、それで熊襲王国を狗奴国と求められないように偽装工作したと考えられる。

参考文献『三輪山の考古学』で纏向(まきむく)遺跡から鹿児島県の土器が出土したと記して、インターネット検索で鹿児島県の土器が一つだけ出土したのが分かり、西暦248年以降に服従した熊襲王国から土器が送られてきたか、鹿児島県から土器を作れる人物をまねいたと考えられる。
稚足彦尊の熊襲平定は、『三国志・魏志倭人伝』に記す戦争で、日本武尊の呼び名が生まれた理由がはっきりする記述である。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『三輪山の考古学』
株式会社学生社・発行
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