熊襲(くまそ)王国(狗奴国;くぬこく)の滅亡と日本武尊(やまとたけのみこと)の武名
黒字は、僕の自論や完全解釈などで、赤字が日本神話の神々と特徴などで、緑字が僕の修正した神武(じんむ)天皇から仁徳(にんとく)天皇の時代までの()内の年代で、青字が邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の一般的な専門家(歴史書解釈)と僕の考え方である。
古代中国の魏(ぎ)王朝の正始(せいし)8年(西暦247年)に邪馬台国(やまとこく)は、狗奴国(くぬこく)と戦争して、『後漢書』の拘奴国(くぬこく)と同一国で、南九州の熊襲(くまそ)王国で間違いなくて、魏(ぎ)王朝の最後の年号である。
『ホツマツタエ』の熊襲(くまそ)王国(宮崎県と熊本県と鹿児島県の統一王国)は、再び天皇家に背(そむ)いて、国々を侵略し始めて、景行(けいこう)天皇27年が景行天皇57年10月13日(西暦247年11月中旬頃)で、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、皇太子の稚足彦尊(わかたりひこのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)と同一人物)に熊襲(くまそ)王国の討伐を命じた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇27年10月13日(西暦97年11月中旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇57年10月13日(西暦247年11月中旬頃)が正しくて、旧暦年と西暦年が合致した。)
『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇18年(西暦208年)に平定した熊襲(くまそ)王国(宮崎県と熊本県と鹿児島県の連合王国)は、兄弟が分かれて統治する連合王国だが、景行天皇57年12月(248年1月頃)に滅亡させた熊襲(くまそ)王国(宮崎県と熊本県と鹿児島県の統一王国)が熊襲国王の取石鹿文(とりいしかや)と熊襲国造(くまそくにみやつこ;国主)の辺鹿文(へかや)の夫婦が統治した統一王国だった。
皇太子の稚足彦尊(わかたりひこのみこと;後の成務(せいむ)天皇は、日本武尊(やまとたけのみこと)と同一人物で、これを100%否定する方がおかしい。
『三国志・魏志倭人伝』は、「其南有狗奴国(くぬこく)、男子為王、其官有狗古智卑狗(くこちひく)、不属女王」と記して、その南にある狗奴国(くぬこく;熊襲(くまそ)王国)が男性を国王で、官人の狗古智卑狗(くこちひく)が古代天皇家の任命した県首(あがたひとご)か県主(あがたぬし)と言う役職で、役職名が『日本書紀』の現代語訳本から考えた役職で、熊襲(くまそ)王国が古代天皇家に服従した証拠と考えられる。
『三国志・魏志倭人伝』は、「倭女王卑弥呼(ひみこ)与、狗奴国(くぬこく)男王卑弥弓呼(ひみきゅうこ)素不和。」と記して、「日本王の景行(けいこう)天皇は、熊襲(くまそ;南九州)王国の男性王の取石鹿文(とりいしかや)またの名を熊襲梟師(くまそたける)と元々不和である。」と訳して、卑弥弓呼(ひみきゅうこ)が熊襲梟師(くまそたける)と考えられる。
邪馬台卑弥呼(やまとひみこ)は、倭姫命(やまとひめのみこと)で、卑弥弓呼(ひみきゅうこ)を凡人(僕以外の人間)が卑弥弓呼(ひみくこ)と発音するが、正しく発音すべきで、南九州の熊襲(くまそ)王国が本名(ほんみょう)を取石鹿文(とりいしかや)で、通称が熊襲梟師(くまそたける)で、通称を『三国志・魏志倭人伝』の狗奴国(くぬこく)男王の名前にしたと考えられる。
邪馬台国(大和国;やまとこく)の属国の北九州4ヶ国は、福岡県を横断して、他に九州の国々を『三国志・魏志倭人伝』に記さず、女王国(伊勢国)と狗奴国(くぬこく)の熊襲(くまそ)王国との国境が海を渡って南にあって、『後漢書』の女王国(伊勢国)から海を渡った九州に拘奴国(くぬこく)の熊襲(くまそ)王国があって正しい。
『ホツマツタエ』稚足彦尊(わかたりひこのみこと)は、「良き弓の名手がいれば伴(とも)として連れて行きたい」と言われて、一同が口をそろえて、「美濃国(みののくに;岐阜県南部)の弟彦(おとひこ)が弓に秀でています」と申して、そこで景行(けいこう)天皇が葛城宮人(かつらぎみやど)を派遣して弟彦を呼ぶと、石占(いしうら;三重県桑名市付近)の横立(よこたて)、田子稲置(たごのいなき)、乳近稲置(ちちかいなき)なる者を率(ひき)いて連れて来た。
稚足彦尊(わかたりひこのみこと)は、それらの者を皆従えて、景行(けいこう)天皇57年12月(248年1月頃)に南九州に到着されて、稚足彦尊(わかたりひこのみこと)たちが熊襲(くまそ)らの様子をうかがった。
以前に景行(けいこう)天皇が辺鹿文(へかや)と結婚させた取石鹿文(とりいしかや)は、川上で猛々(たけだけ)しい族を集め梟帥(たける)と名乗って、円座をなして宴(うたげ)を催(もよお)していた。
そこで稚足彦尊(わかたりひこのみこと)は、乙女(おとめ)姿に変身して、御衣の内側に剣を隠して休むふりをして、取石鹿文(とりいしかや)がその美しい乙女(おとめ)を見つけて手を引いて、自分の花筵(はなむしろ)に同席させた。
取石鹿文(とりいしかや)は、酒を飲んで宴(うたげ)に興(きょう)じて、夜も更(ふ)けて皆が酔いしれて、稚足彦尊(わかたりひこのみこと)が今とばかりに肌身に付けた剣を抜き持って、取石鹿文(とりいしかや)の胸を刺し通した。
すると胸を刺された取石鹿文(とりいしかや)は、「今しばらく剣を止めよ。言うことがある」と言うので、稚足彦尊(わかたりひこのみこと)がその言葉に従って、「お前は誰だ」「景行(けいこう)天皇の子供で、世継ぎの稚足彦尊(わかたりひこのみこと)である」「今まで国の兵も諸人も我に及ぶ者がなく、皆が我に従っていた。君のように勇敢な者はいなかった。身分の低い私が捧(ささ)げる名前を名乗っていただけましょうか」と。
稚足彦尊(わかたりひこのみこと)は、それを承知すると、「今から日本武尊(やまとたけのみこと)と名乗りたまえ」と言いながら、梟帥(たける)の取石鹿文(とりいしかや)が死んで、日本武尊(やまとたけのみこと)が弟彦を派遣して、仲間の熊襲(くまそ)たち皆を討ち滅ぼさせた。
また大和へ帰る途中は、吉備穴門(きびあなと;広島県深安郡)と波速(なみは・難波;現在の大阪市)の柏済(かしわのわたり;淀川河口付近の船着場)にいた賊を皆殺しにした。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇27年12月頃(西暦98年1月頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇57年12月頃(248年1月頃)が正しい。)
稚足彦尊(わかたりひこのみこと)は、54才で女装が不可能で、父の景行(けいこう)天皇が熊襲(くまそ)王国を平定した時に王女たちを丸め込んだ先例をまねて、女装して熊襲(くまそ)国王の取石鹿文(とりいしかや)を刺したと記すが、稚足彦尊(わかたりひこのみこと)が取石鹿文(とりいしかや)を刺したのが事実で、それまでに皇軍と熊襲(くまそ)王国の全軍が交戦したと考えられる。
日本武尊(やまとたけのみこと)の人名は、『ホツマツタエ』でヤマトタケと記して、明治時代に『校訂古事記』がなぜか「やまとたけるのみこと」と書いて、それを『日本古典文学大系』(発行・岩波書店)が採用して、間違いを広めた。
日本武尊(やまとたけのみこと)の名前は、熊襲梟帥(くまそたける)の取石鹿文(とりいしかや)から名付けられた作り話で、かっこ良く思わせる偽装工作と考えられる。
吉備穴門(きびあなと;広島県深安郡)と波速(なみは・難波;現在の大阪市)の柏済(かしわのわたり;淀川河口付近の船着場)にいた賊は、元々いた賊か反乱した豪族か分からないが、出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命した因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)神話で、白兎(しろうさぎ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)が鮫(さめ;皇族や古代豪族を神格化)から逃げたのを連想させる。
『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇28年は、景行(けいこう)天皇58年2月1日(西暦248年3月上旬頃)が正しくて、日本武尊(やまとたけのみこと)一行は、皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の纏向(まきむく)遺跡に帰って、日本武尊(やまとたけのみこと)が景行(けいこう)天皇に報告された。
「天皇の恩頼(みたまふゆ;神や天皇から受ける恩徳)によって、熊襲(くまそ)らをひたすら殺して、ことごとく平定したゆえ、西方は無事に治まっています。ただ吉備(きび)の穴門(あなと)と(なみは)の柏済(かしわのわたり)に悪気を放ち、道行く人々に災いをなそうとする荒ぶれ者どもがいましたが、これも斬り殺して海と陸の道を開きました」と言われた。
景行(けいこう)天皇は、西国の平定の功績を深く誉(ほ)められて、日本武尊(やまとたけのみこと)に褒美(ほうび)を与えた。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇28年2月1日(西暦98年3月上旬頃)は、完全な間違いで、『ホツマツタエ』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇58年2月1日(西暦248年3月上旬頃)が正しい。)
景行(けいこう)天皇は、褒美(ほうび)に皇太子の稚足彦尊(わかたりひこのみこと;成務(せいむ)天皇)に日本武尊(やまとたけのみこと)の武名を与えて、熊襲(くまそ)国王の取石鹿文(とりいしかや)から武名をもらったと偽装工作して、悲劇的英雄に箔(はく)を付けたと考えられて、皇太子の不倫の汚名返上もして、2024年6月7日に特定した。
日本武尊(やまとたけのみこと)の褒美(ほうび)は、不倫した弟橘姫(おとたちばなひめ)を皇太子妃(正妻)と認めて、孝元(こうげん)天皇(景行(けいこう)天皇を祖先化)と開化(かいか)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)の妻が伊香色謎命(いかがしこめのみこと;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)で、開化(かいか)天皇の皇后(正妻)になった証拠と考えられて、同日に特定した。
弟橘姫(おとたちばなひめ)は、皇太子妃(正妻)になって、父の妾(めかけ)が開化(かいか)天皇の皇后(正妻)が伊香色謎命(いかがしこめのみこと;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)だから、不倫と正妻が間違いないと考えられる。
父の景行(けいこう)天皇は、息子の日本武尊(やまとたけのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)の不倫を水に流して、日本武尊(やまとたけのみこと)の一度目の罪(つみ)を許したが、後に2度目の罪(つみ)をおかして、これを2025年3月22日の午後6時頃に求めた。
『三国志・魏志倭人伝』に「其八年、太守王斤(おうき)到官。倭女王卑弥呼(ひみこ)與、狗奴国(くぬこく)男王卑弥弓呼(ひみきゅうこ)素不和。遣倭載斯烏越(さいしうえつ)等詣郡、説相攻撃状。遣塞曹掾史(さいそうえんし)張政(ちょうせい)等、因斎詔書黄幢、拝仮難升米、為檄告喩之」と記す。
斤は「斤へん」に頁の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
「正始八年(西暦247年)に帯方郡(たいほうぐん)の太守として王斤(おうき)は任官して、倭王(わおう;日本王)の景行(けいこう)天皇が熊襲(くまそ)国の男性王と元々不和で、使者の載斯烏越(さいしうえつ;誰か不明)たちを帯方郡に派遣して、お互いに攻撃する状況を伝えて、塞曹掾史(さいそうえんし)・張政(ちょうせい)たちを派遣して、詔書(しょうしょ)と黄色の旗をもたらして、太夫の難升米(なんしゅうまい)に仮に授けて、檄文(げきぶん)を作って、これを告諭させた」と解釈する。
景行天皇57年10月13日(西暦247年11月中旬頃)は、奈良県桜井市の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや;纏向(まきむく)遺跡)に熊襲(くまそ)王国の反乱を報告して、朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)に使者が到着したのが248年で、景行(けいこう)天皇58年2月1日(西暦248年3月上旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)が皇居に帰還して、檄文(げきぶん)の到着が終戦後と考えられる。
帯方郡(たいほうぐん)の使者は、九州全土を監視する統治者が派遣して、皇居で狗奴国(くぬこく;熊襲(くまそ)王国)の反乱を報告されて、その後で景行(けいこう)天皇が使者を派遣した可能性もある。
狗奴国(くぬこく)の男王の卑弥弓呼(ひみきゅうこ)は、熊襲(くまそ)国王の熊襲梟帥(くまそたける)の古代中国語読みと考えられて、『ホツマツタエ』の編者が『三国志・魏志倭人伝』を読んで、狗奴国(くぬこく)を熊襲(くまそ)王国と合致しないように偽装工作したと考えられる。
参考文献『三輪山の考古学』(発行・株式会社学生社)は、纏向(まきむく)遺跡から鹿児島県の土器が出土したと記して、ネット検索で鹿児島県の土器が一つだけ出土したのが分かって、西暦248年以降に鹿児島県から土器が送られて来たか、鹿児島県から土器を作れる人物を招(まね)いたと考えられる。
『日本書紀』景行(けいこう)天皇58年2月11日(西暦248年3月中旬頃)に景行(けいこう)天皇は、近江国(おうみのくに;滋賀県)に行って、皇居の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)を建てて、合致する考古学的証拠が見つからず、『ホツマツタエ』に天照神(あまてるかみ;弟の月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と同一神)の皇居が2つある理由と考えられる。
この日に皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の纏向(まきむく)遺跡は、皇居で亡くなって、景行(けいこう)天皇の皇居が2つで、『ホツマツタエ』に天照神(あまてるかみ;景行(けいこう)天皇を神格化)の皇居が2つある理由で、史実(歴史上の事実)を神話化した証拠である。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の景行(けいこう)天皇28年2月11日(西暦128年3月中旬頃)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇58年2月11日(西暦248年3月中旬頃)が正しい。)
『日本書紀』成務(せいむ)天皇48年3月1日は、景行(けいこう)天皇58年3月1日(西暦248年4月上旬頃)で、旧暦と西暦年が合致して、成務(せいむ)天皇(皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が甥(おい;息子)の足仲彦尊(たりなかひこのみこと;後の仲哀(ちゅうあい)天皇)を皇太子に任命して、これも2024年6月15日の午後4時頃に特定した。
つまり景行(けいこう)天皇は、熊襲(くまそ)王国の平定の功績で、皇太子に返り咲いた日本武尊(やまとたけのみこと)の息子の足仲彦尊(たりなかひこのみこと)と異母弟の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)も皇位継承者にして、これが天皇不在の年(西暦251年)の内乱(皇位継承権争い)が起きた原因の一つである。
(歴史学会(歴史書解釈)の定説の成務(せいむ)天皇48年(西暦178年)は、完全な間違いで、『日本書紀』から求めた僕の自論の景行(けいこう)天皇58年(西暦248年)か景行(けいこう)天皇59年(西暦249年)が正しい。)
日本武尊(やまとたけのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)の息子の葦髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)は、天皇不在の年11月4日(西暦251年12月上旬頃)に山城(京都府南部)で戦死して、戦況が悪くなって、仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月8日(西暦252年3月上旬頃)に父の日本武(やまとたけ)天皇が出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命した。
『日本書紀』の旧暦の成務(せいむ)天皇48年は、西暦年の景行(けいこう)天皇58年(西暦248年)と合致して、『ホツマツタエ』と『日本書紀』が西暦年を使った証拠で、専門家(考古学会と歴史学会)を含めた凡人(僕以外の人間)全員が「記紀」の西暦年の使用を証明できなかった。
熊襲(くまそ)王国の滅亡と日本武尊(やまとたけのみこと)の武名は、日中の歴史書が記した戦争で、2007年9月に出版した僕の最初の著書で、すでに特定した僕の大偉業だった。
<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
『三輪山の考古学』
発行・株式会社学生社
インターネットの不明サイトから少々拝借
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