出雲の国譲(くにゆず)り神話
『記紀』の原文を青字、僕の解釈を赤字、僕の説明文を黒字で記す。
出雲の国譲(くにゆず)りの前に経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、邪神や草木や石に至るまで皆を倒して、従わないのが悪神(あくしん)で、星神(ほしがみ)の天津甕星(あまつみかほし)で、別名を天香香背男(あめのかかせお)だけとなって、天津甕星(あまつみかほし)を征する斎主(いわい)をする主を斎大人(いわいのうし)と言う。
2軍神は、倭文神(しどりのかみ)建葉槌命(たけはづちのみこと)を派遣して、星神の天津甕星(あまつみかほし)を倒して、東北地方南部を塩土老翁(しおつちのおじ)が2軍神を道案内して、その後に2軍神が天に上がられた。
出雲王国の攻撃の前に経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、関東地方の邪悪な者を倒して回って、天津甕星(あまつみかほし;誰を神格化したか不明)だけが残って、天津甕星(あまつみかほし)を征する神を斎主神(いわいぬしのかみ;経津主神(ふつぬしのかみ)と同一神)と言う。
経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、随伴した倭文神(しどりのかみ)建葉槌命(たけはづちのみこと;誰を神格化したか不明)を派遣して、天津甕星(あまつみかほし)を殺して、東北地方南部を塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰を神格化)が2軍神を道案内して、その後に2軍神が奈良県に帰還した。
この神話は、天皇不在の年(西暦251年)から仲哀(ちゅうあい)天皇3年(西暦254年)前半までの中部地方から東北地方南部までの平定の一部を神話化して、仲哀(ちゅうあい)天皇元年頃(西暦252年頃)の茨城県の平定神話で、『日本書紀』の出雲の国譲(くにゆず)り神話に記す。
茨城県日立市の大甕(おおがめ)神社は、天津甕星(あまつみかほし)の荒魂(あらみたま;荒ぶる魂)が宿(やど)る宿魂石(しゅくこんせき)と言う岩があって、天津甕星(あまつみかほし)が日本神話で唯一の星の神様である。
経津主神(ふつぬしのかみ)の別名の斎主神(いわいぬしのかみ)は、祭事をする神様と考えられて、祭祀氏族の忌部(いんべ)氏の祖先神である太玉命(ふとだまのみこと)と同一神で、物部(もののべ)氏と忌部(いんべ)氏が同族である。
倭文神(しどりのかみ)建葉槌命(たけはづちのみこと;織物の神で武神)は、2神でなく一神で、別名を天羽雷命(あめのはいかずちのみこと)だから雷神で、物部(もののべ)氏の出身である。
海神の塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰を神格化)は、宮城県塩竈(しおがま)市の塩竈(しおがま)神社に祭られて、海神だから物部(もののべ)氏の出身と考えられる。
高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は、諸神を集めて、葦原中国(あしはらなかつくに)に派遣する神を選んで、皆が「磐裂神(ねさくかみ)と根裂神(いわさくのかみ)の子で、磐筒男神(いわつつのおのかみ)と磐筒女神(いわつつのめのかみ)の生んだ経津主神(ふつぬしのかみ)が良いでしょう」と言った。
その時に天岩屋(あめのいわや)に住む稜威雄走神(いつのおばしりのかみ)の子の武甕槌神(たけみかづちのかみ)は進んで言って、「どうして経津主神(ふつぬしのかみ)だけが丈夫(じょうぶ)で、私が丈夫(じょうぶ)でないのか」とその語気が激しく、経津主神(ふつぬしのかみ)が総大将で、武甕槌神(たけみかづちのかみ)が副官で、共に葦原中国(あしはらなかつくに)に向かった。
2軍神は、出雲国の五十田狭(いたさ)の小汀(おばま;稲佐(いなさ)の浜)に降りられて、十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて、逆さまに大地に突き立て、その先に膝(ひざ)を立てて座って、大国主神(おおくにぬしのかみ)に尋ねて言って、「高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)が皇孫を降りさせて、この地に君臨しようと思っておられて、そこで我ら二人を平定に派遣されて、お前の心はこの地を譲るか譲らないか」と。
その時に大国主神(おおくにぬしのかみ)は答えて、「私の子供に相談して、返事いたしましょう」と言って、大国主神(おおくにぬしのかみ)の子の事代主神(ことしろぬしのかみ)が出雲の美保(みほ;島根県松江市三保関町)の崎に行って釣りをしていて、そこで諸手船(もろてふね)に使者の稲背脛(いなせはぎ)を乗せて遣(つか)わした。
そして高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の言葉を事代主神に伝えて返事を尋ねて、この時に事代主神(ことしろぬしのかみ)が使者に語って、「今回の天神(あまつかみ)の言葉に父上は抵抗されないのが良いでしょう。私も言葉に逆らうことをしません」と言われて、波の上に幾重もの青柴垣(あおふしがき)を作って、船の側板を踏んで海中に退去して、使者が急ぎ帰って報告した。
2軍神は大国主神(おおくにぬしのかみ)に、「今お前の子供の事代主神(ことしろぬしのかみ)がこのように言った。他に意見を言うような子供がいるか」と尋ねると大国主神(おおくにぬしのかみ)が、「もう一人の我が子の建御名方神(たけみなかたのかみ)がいて、これ以外にいません」と言った。
その時に建御名方神(たけみなかたのかみ)は、千人引きの大岩を手の先に差し上げてやって来て、「誰だ、私の国に来てそのようなひそひそ話をして、それでは力比べをしてみよう。私がまずお前の手をつかんでみよう」と言って、それで武甕槌神(たけみかづちのかみ)がその手をつかませると、たちどころに氷柱(つらら)に変化させ、また剣の刃に変化させて、それで建御名方神(たけみなかたのかみ)が恐れをなして引き下がった。
今度は武甕槌神(たけみかづちのかみ)が建御名方神(たけみなかたのかみ)の手をつかもうとして、葦の若葉をつかむように握りつぶして放り投げて、建御名方神(たけみなかたのかみ)が逃げ出して追いかけて行って、信濃国(しなののくに;長野県)の諏訪湖(すわこ)まで追いつめて殺そうとした。
建御名方神(たけみなかたのかみ)は言って、「恐れ入った。私を殺さないで下さい。私はこの諏訪湖(すわこ)を離れず、どこにも行きません。また父の大国主神(おおくにぬしのかみ)の命令に背(そむ)かず、兄の事代主神(ことしろぬしのかみ)の言葉にも背きません。この葦原中国(あしはらなかつくに)は天神(あまつがみ)の言葉に従って献上しましょう」と。
そこで大国主神(おおくにぬしのかみ)は、子供の言葉を2軍神に告げて、「我が頼みとした子がもういなくて、だから私も身を引きましょう。もし私が抵抗したら、国内の諸神もきっと同じように戦うでしょう。今私が身を引けば、誰もあえて戦わないでしょう」と言われた。
大国主神(おおくにぬしのかみ)は、国を平らげた時に用いた広矛を2軍神に渡して、「私はこの矛を持ってことを成し遂げた。天孫がもしこの矛を用いて、国に望まれたらきっと平安になるでしょう。今から私はかの幽界(ゆうかい)に参りましょう」と言い終えると共に隠れられた。
7代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)は、葦原中国(あしはらなかつくに;出雲王国)平定に磐裂神(いわさくのかみ;景行(けいこう)天皇を神格化)と根裂神(ねさくかみ;高田媛(たかだひめ)を神格化)の子で、磐筒男神(いわつつのおのかみ;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)と磐筒女神(いわつつのめのかみ;誰を神格化したか不明)の生んだ経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の派遣を決めた。
その時に稜威雄走神(いつのおばしりのかみ;屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)を神格化)の子の武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は口をはさんで、結果として経津主神(ふつぬしのかみ)が総大将で、武甕槌神(たけみかづちのかみ)が副官となって、共に葦原中国(あしはらなかつくに;出雲王国)の攻撃に向かった。
2軍神は、出雲大社近くの稲佐の浜に上陸して、剣を抜かずに大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と話し合いをして、宣戦布告か降伏かを迫(せま)られた。
その時に大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)は、子供に相談して決めると言って、子供の事代主神(ことしろぬしのかみ;盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)が島根県松江市三保関町の崎にいて、そこで船に使者の稲背脛(いなせはぎ;誰を神格化したか不明)を乗せて行かせて、事代主神(ことしろぬしのかみ)が父親も自分も抵抗しないと言って、無条件降伏したことを2軍神に報告した。
盧は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
2軍神は、大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)に息子の事代主神(ことしろぬしのかみ;盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)が降伏したことを伝えて、他に意見のある者がないか聞くと、出雲王国に亡命した舅(しゅうと)の建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)がいると答えた。
建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、婿(むこ)養子の大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)を殺して、武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)に戦争を仕掛けて、武甕槌神(たけみかづちのかみ)がたくみな戦術で(たけみなかたのかみ)を翻弄(ほんろう)した。
今度は武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)が建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)に仕掛けて、建御名方神(たけみなかたのかみ)が大敗して、殺されると思って逃げ出して、追いつめられた建御名方神(たけみなかたのかみ)が命ごいしたが、逆賊の皇太子(天皇)の責任から殺された。
事代主神(ことしろぬしのかみ;盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)は、2軍神に逆矛(さかほこ;三種の神器の一つ)を渡して、逆矛を返して古代天皇家に皇位継承権も返して、おそらく事代主神(ことしろぬしのかみ)が父親の大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)のために出雲大社を創建した。
出雲の国譲(くにゆず)り神話は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)の短時間で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の上層部を一掃して、出雲大社の神有祭(かみありさい)の時期に当たって、戦争の詳しい状況がよく分かる。
出雲の国譲り神話に登場する神様は、高天原(たかまがはら;天津神:あまつがみ)系の古代天皇家の人物と出雲系(国津神;くにつがみ)の物部(もののべ)氏の人物を神格化して、以下の神様が主に出てくる。
古代天皇家の人物は、7代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)と天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)のお腹(なか)にいた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)と経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)などである。
物部(もののべ)氏側の人物は、大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と須勢理比売(すせりひめ;忍布姫(ぬのおしひめ)を神格化)と事代主神(ことしろぬしのかみ;盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)と建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)などである。
出雲の国譲(くにゆず)り神話は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月(西暦260年11月頃)に島根県に大和(古代天皇家)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の神様(実在の人物を神格化)が集中して、故(ゆえ)に神無月と神有月(かみありづき)が生まれて、史実・真実・事実が神話化された。
出雲王国(物部(もののべ)氏)の血筋は、火の神様と雷神が共通して、醜(色;しこ)と可美(甘美;うまし)と熊野の名前の共通性など多くの特徴があって、決して隠し通せない物が僕だけに求められて、現代人(僕以外の人間)に一生到達できない神域である。
大国主神(おおくにぬしのかみ)の名前の意味は、大きい国の主(あるじ)の神で、初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化したのが大きな国(奈良県と大阪府と京都府と兵庫県と鳥取県と島根県)を平定して、7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化したのが大きな国(中国地方)の統治者を意味して、2人の先祖と子孫を神格化したのが間違いない。
初代・大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、葦原中国(あしはらなかつくに;日本全土や中国地方を指す)を平定して、大きな国(奈良県と大阪府と京都府と兵庫県と鳥取県と島根県)を平定した功績を拡大解釈して、もっと多くの土地を平定した神話が生まれたと考えられる。
2代目・大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)は、根(ね)の国下(くにくだ)り神話から出雲の国譲(くにゆず)り神話まで飯入根(いいいりね)の活躍で、先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫の飯入根(いいいりね)の事績が合体して、大国主神(おおくにぬしのかみ)の活躍が拡大解釈された。
経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、出雲の国譲(くにゆず)り神話で、「記紀」や『ホツマツタエ』などで総大将や副官が入れ替わって合致せず、故郷の出雲王国(物部(もののべ)氏)を崩壊させた。
武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、景行(けいこう)天皇の孫と曾孫で、母方が物部(もののべ)氏で、西暦250年以降に武将として頭角を現して、仲哀(ちゅうあい)天皇の左大臣と右大臣として、政治を担(にな)ったと考えられる。
『古事記』は、武甕槌神(たけみかづちのかみ)だけが登場して、経津主神(ふつぬしのかみ)が登場せず、『古事記』の偽書説の理由と考えられて、『出雲国風土記(いずものくにふどき)』で逆に経津主神(ふつぬしのかみ)が登場して、武甕槌神(たけみかづちのかみ)が登場せず、この矛盾の解明が難しい。
崇神(すじん)天皇60年に天皇の命令で、武渟川別(たけぬなかわわけ)と吉備彦(きびひこ)が出雲振根(いずもふりね)を殺して、吉備津彦(きびつひこ)が年配で、息子の吉備武彦(きびたけひこ)の息子か孫が吉備彦(きびひこ)で、出雲振根(いずもふりね)が日本武尊(やまとたけのみこと)である。
つまり武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の命令で、経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と吉備武彦(きびたけひこ)の息子か孫が仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)を殺した結論になる。
素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の娘の須勢理毘売(すせりひめ;布忍媛(ぬのおしひめ)を神格化)は、大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と結婚して、息子の事代主神(ことしろぬしのかみ;盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)をもうけて、盧濡渟(うかずくぬ)の直系子孫が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏である。
天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の祖先神で、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)が出雲王朝の祖先神でもあって、出雲王国(物部(もののべ)氏)に古代天皇家の血筋が混ざる。
事代主神(ことしろぬしのかみ;盧濡渟(うかずくぬ)を神格化)は、出雲王国の崩壊の時、最後の出雲国王である大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)の息子で、最も高位の皇族で戦争反対だから、配下の者(諸神)が従って、「記紀」の偽装工作で出雲王国(物部(もののべ)氏)を隠したが、僕が全て求めた。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、三種の神器を強奪して、出雲王国に亡命して、出雲王国(物部(もののべ)氏)の日本武(やまとたけ)天皇と邪馬台国(やまとこく;大和国)の仲哀(ちゅうあい)天皇の親子に別れて、2種類の三種の神器を巡る2朝廷並列時代を決着した。
日本神話時代の戦争は、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱や日本武尊(やまとたけのみこと)の反乱や鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟の反乱や大山守皇子(おおやまもりのみこ)の反乱の4つで、鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の反乱が全く神話化しないで、どんなに研究しても塵(ちり)一つ出ない。
鹿は「鹿」の漢字の下に弭で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱は、黄泉国下(よみのくにくだ)り神話で、日本武尊(やまとたけのみこと)の反乱が天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話から出雲の国譲(くにゆず)り神話までで、大山守皇子(おおやまもりのみこ)の反乱が海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の神話と神武(じんむ)東征神話の2つに神話化した。
日本神話の戦争は、僕が西暦年月や神様の系図など詳細を特定して、誰にもできない神技(かみわざ)の中の神技(かみわざ)を起こして、神に最も近い人間の本気である。
出雲の国譲(くにゆず)り神話は、「記紀」を基(もと)にして、邪馬台国(やまとこく;大和国)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の最終戦争である。
<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
インターネットの不明サイトから少々拝借
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