出雲の国譲(くにゆず)り神話


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。
『記紀』の原文を青字、僕の解釈を赤字、僕の説明文を黒字で記す。

出雲の国譲(くにゆず)りの前、経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、邪神や草木や石に至るまで皆を倒して、従わないのが星の神の天津甕星(あまつみかほし)またの名を天香香背男(あめのかかせお)だけとなって、経津主神(ふつぬしのかみ)が天津甕星(あまつみかほし)を征する斎主(いわい)をする主を斎大人(いわいのうし)と言って、2軍神が倭文神・建葉槌命(しどりのかみ・たけはづちのみこと)を派遣して倒して、その後で2軍神が天に上がられた。
経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、東北地方南部を塩土老翁(しおつちのおじ)が道案内した。


出雲王国攻撃の前、経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、関東地方の邪悪な者を倒して回って、天津甕星(あまつみかほし;誰を神格化したか不明)だけが残って、随伴した倭文神・建葉槌命(しどりのかみ・たけはづちのみこと;誰を神格化したか不明)に命じて殺させた。
経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、東北地方南部を塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰を神格化)が道案内して、その後で2軍神が古代大和朝廷に帰還された。


茨城県日立市の大甕(おおがめ)神社は、天津甕星(あまつみかほし)の荒魂(あらみたま;荒ぶる魂)が宿(やど)る宿魂石(しゅくこんせき)と言う岩があって、天津甕星(あまつみかほし)が日本神話で唯一の星の神様である。
経津主神(ふつぬしのかみ)の別名の斎主神(いわいぬしのかみ)は、祭り事をする神様と考えられて、祭祀氏族の忌部(いんべ)氏の祖先神である太玉命(ふとだまのみこと)と同一神と考えられる。
倭文神・建葉槌命(しどりのかみ・たけはづちのみこと;織物の神で武神)は、2神でなく、一人の神様と考えられて、建葉槌命(たけはづちのみこと)の別名が天羽雷命(あめのはいかずちのみこと)で雷神だから、物部(もののべ)氏の出身と考えられる。

高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は、諸神を集めて、葦原中国(あしはらなかつくに)に派遣する神を選んで、皆が「磐裂神(ねさくかみ)と根裂神(いわさくのかみ)の子で、磐筒男神(いわつつのおのかみ)と磐筒女神(いわつつのめのかみ)の生んだ経津主神(ふつぬしのかみ)が良いでしょう」と言った。
その時に天岩屋(あめのいわや)に住む稜威雄走神(いつのおばしりのかみ)の子の武甕槌神(たけみかづちのかみ)は進んで言って、「どうして経津主神(ふつぬしのかみ)だけが丈夫(じょうぶ)で、私が丈夫(じょうぶ)でないのか」とその語気が激しく、経津主神(ふつぬしのかみ)が総大将で、武甕槌神(たけみかづちのかみ)が副官で、共に葦原中国(あしはらなかつくに)に向かった。
2軍神は、出雲国の五十田狭(いたさ)の小汀(おばま;稲佐(いなさ)の浜)に降りられて、十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて、逆さまに大地に突き立て、その先に膝(ひざ)を立てて座って、大国主神(おおくにぬしのかみ)に尋ねて言って、「高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)が皇孫を降りさせて、この地に君臨しようと思っておられて、そこで我ら二人を平定に派遣されて、お前の心はこの地を譲るか譲らないか」と。

その時に大国主神(おおくにぬしのかみ)は答えて、「私の子供に相談して、返事いたしましょう」と言って、大国主神(おおくにぬしのかみ)の子の事代主神(ことしろぬしのかみ)が出雲の美保(みほ;島根県松江市三保関町)の崎に行って釣りをしていて、そこで諸手船(もろてふね)に使者の稲背脛(いなせはぎ)を乗せて遣(つか)わした。
そして高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の言葉を事代主神に伝えて返事を尋ねて、この時に事代主神(ことしろぬしのかみ)が使者に語って、「今回の天神(あまつかみ)の言葉に父上は抵抗されないのが良いでしょう。私も言葉に逆らうことをしません」と言われて、波の上に幾重もの青柴垣(あおふしがき)を作って、船の側板を踏んで海中に退去して、使者が急ぎ帰って報告した。

2軍神は大国主神(おおくにぬしのかみ)に、「今お前の子供の事代主神(ことしろぬしのかみ)がこのように言った。他に意見を言うような子供がいるか」と尋ねると大国主神(おおくにぬしのかみ)が、「もう一人の我が子の建御名方神(たけみなかたのかみ)がいて、これ以外にいません」と言った。
その時に建御名方神(たけみなかたのかみ)は、千人引きの大岩を手の先に差し上げてやって来て、「誰だ、私の国に来てそのようなひそひそ話をして、それでは力比べをしてみよう。私がまずお前の手をつかんでみよう」と言って、それで武甕槌神(たけみかづちのかみ)がその手をつかませると、たちどころに氷柱(つらら)に変化させ、また剣の刃に変化させて、それで建御名方神(たけみなかたのかみ)が恐れをなして引き下がった。
今度は武甕槌神(たけみかづちのかみ)が建御名方神(たけみなかたのかみ)の手をつかもうとして、葦の若葉をつかむように握りつぶして放り投げて、建御名方神(たけみなかたのかみ)が逃げ出して追いかけて行って、信濃国(しなののくに;長野県)の諏訪湖(すわこ)まで追いつめて殺そうとした。
建御名方神(たけみなかたのかみ)は言って、「恐れ入った。私を殺さないで下さい。私はこの諏訪湖(すわこ)を離れず、どこにも行きません。また父の大国主神(おおくにぬしのかみ)の命令に背(そむ)かず、兄の事代主神(ことしろぬしのかみ)の言葉にも背きません。この葦原中国(あしはらなかつくに)は天神(あまつがみ)の言葉に従って献上しましょう」と。

そこで大国主神(おおくにぬしのかみ)は、子供の言葉を2軍神に告げて、「我が頼みとした子がもういなくて、だから私も身を引きましょう。もし私が抵抗したら、国内の諸神もきっと同じように戦うでしょう。今私が身を引けば、誰もあえて戦わないでしょう」と言われた。
大国主神(おおくにぬしのかみ)は、国を平らげた時に用いた広矛を2軍神に渡して、「私はこの矛を持ってことを成し遂げた。天孫がもしこの矛を用いて、国に望まれたらきっと平安になるでしょう。今から私はかの幽界(ゆうかい)に参りましょう」と言い終えると共に隠れられた。


7代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)は、葦原中国(あしはらなかつくに;出雲王国)平定に磐裂神(いわさくのかみ;景行(けいこう)天皇を神格化)と根裂神(ねさくかみ;高田媛(たかだひめ)を神格化)の子で、磐筒男神(いわつつのおのかみ;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)と磐筒女神(いわつつのめのかみ;誰を神格化したか不明)の生んだ経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の派遣を決めた。
その時に稜威雄走神(いつのおばしりのかみ;屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)を神格化)の子の武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は口をはさんで、結果として経津主神(ふつぬしのかみ)が総大将で、武甕槌神(たけみかづちのかみ)が副官となって、共に葦原中国(あしはらなかつくに;出雲王国)の攻撃に向かった。

2軍神は、出雲大社近くの稲佐の浜に上陸して、剣を抜かずに大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と話し合いをして、宣戦布告か降伏かを迫(せま)られた。
その時に大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)は、子供に相談して決めると言って、子供の事代主神(ことしろぬしのかみ;濡渟(うかずくぬ)を神格化)が島根県松江市三保関町の崎にいて、そこで船に使者の稲背脛(いなせはぎ;誰を神格化したか不明)を乗せて行かせて、事代主神(ことしろぬしのかみ)が父親も自分も抵抗しないと言って、無条件降伏したことを2軍神に報告した。

2軍神は、大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)に息子の事代主神(ことしろぬしのかみ;濡渟(うかずくぬ)を神格化)が降伏したことを伝えて、他に意見のある者がないか聞くと、出雲王国に亡命した舅(しゅうと)の建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)がいると答えた。
建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、婿(むこ)養子の大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)を殺して、武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)に戦争を仕掛けて、武甕槌神(たけみかづちのかみ)がたくみな戦術で(たけみなかたのかみ)を翻弄(ほんろう)した。
今度は武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)が建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)に仕掛けて、建御名方神(たけみなかたのかみ)が大敗して、殺されると思って逃げ出して、追いつめられた建御名方神(たけみなかたのかみ)が命ごいしたが、逆賊の皇太子(天皇)の責任から殺された。
事代主神(ことしろぬしのかみ;濡渟(うかずくぬ)を神格化)は、2軍神に逆矛(さかほこ;三種の神器の一つ)を渡して、逆矛を返して古代天皇家に皇位継承権も返して、おそらく事代主神(ことしろぬしのかみ)が父親の大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)のために出雲大社を創建した。


は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。

出雲の国譲(くにゆず)り神話は、仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月(西暦260年11月頃)に島根県に大和(古代天皇家)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の神様(実在の人物を神格化)が集中して、故(ゆえ)に神無月と神有月(かみありづき)が生まれて、史実・真実・事実が神話化された。
出雲王国(物部(もののべ)氏)の血筋は、火の神様と雷神が共通して、醜(色;しこ)と可美(甘美;うまし)と熊野の名前の共通性など多くの特徴があって、決して隠し通せない物が僕だけに求められて、現代人(僕以外の人間)に一生到達できない神域である。

経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、出雲の国譲(くにゆず)り神話で、「記紀」や『ホツマツタエ』などで総大将や副官が入れ替わって合致せず、故郷の出雲王国(物部(もののべ)氏)を崩壊させた。
武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、景行(けいこう)天皇の孫と曾孫で、母方が物部(もののべ)氏で、西暦250年以降に武将として頭角を現して、仲哀(ちゅうあい)天皇の左大臣と右大臣として、政治を担(にな)ったと考えられる。
『古事記』は、武甕槌神(たけみかづちのかみ)だけが登場して、経津主神(ふつぬしのかみ)が登場せず、『古事記』の偽書説の理由と考えられて、『出雲国風土記(いずものくにふどき)』で逆に経津主神(ふつぬしのかみ)が登場して、武甕槌神(たけみかづちのかみ)が登場せず、この矛盾の解明が難しい。

崇神(すじん)天皇60年に天皇の命令で、武渟川別(たけぬなかわわけ)と吉備彦(きびひこ)が出雲振根(いずもふりね)を殺して、吉備津彦(きびつひこ)が年配で、息子の吉備武彦(きびたけひこ)が吉備彦(きびひこ)で、出雲振根(いずもふりね)が日本武尊(やまとたけのみこと)である。
つまり武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の命令で、建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)を経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と吉備武彦(きびたけひこ;どの神様に神格化したか不明)が殺した結論になる。

素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の娘の須勢理毘売(すせりひめ;布忍媛(ぬのおしひめ)を神格化)は、大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と結婚して、息子の事代主神(ことしろぬしのかみ;濡渟(うかずくぬ)を神格化)をもうけて、濡渟(うかずくぬ)の直系子孫が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏である。
天穂日命(あめのほひのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の祖先神で、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)が出雲王朝の祖先神でもあって、出雲王国(物部(もののべ)氏)に古代天皇家の血筋が混ざる。
事代主神(ことしろぬしのかみ;濡渟(うかずくぬ)を神格化)は、出雲王国の崩壊の時、最後の出雲国王である大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)の息子で、最も高位の皇族で戦争反対だから、配下の者(諸神)が従って、「記紀」の偽装工作で出雲王国(物部(もののべ)氏)を隠したが、僕が全て求めた。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、三種の神器を強奪して、出雲王国に亡命して、出雲王国(物部(もののべ)氏)の日本武(やまとたけ)天皇と邪馬台国(やまとこく;大和国)の仲哀(ちゅうあい)天皇の親子に別れて、2種類の三種の神器を巡る2朝廷並列時代を決着した。
出雲の国譲(くにゆず)り神話は、求め出すと切りがないので、ここで終了する。

出雲の国譲(くにゆず)り神話は、「記紀」を基(もと)にして、邪馬台国(やまとこく;大和国)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の最終戦争である。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古事記(上)(中)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼編・著者 八幡書店・発行
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