卑弥呼共立


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

卑弥呼共立は『後漢書』の11代目・桓帝と12代目・霊帝の在位期間(西暦147年から189年)の間で、専門家がどんなに年代を特定しようとしても不可能である。
卑弥呼共立はよく西暦180年代と想定されるようだが、全く何の根拠もない架空の推論で、日中の歴史書を全く参考にしていない。
倭国大乱は垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)以降の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱で、そうすると必然的に卑弥呼共立が垂仁天皇時代になる。
歴史研究を正当に完全解釈できる僕は、世界最高の天才として古代天皇家の正史を完全に把握できて、僕の敵になる人間などこの世に存在しない。

倭姫命(やまとひめのみこと)は古代中国語表記で「邪馬台卑弥呼(やまとひみこ)」で、『ホツマツタエ』のヤマトヒメなら「邪馬台卑弥」としか書けず、『日本書紀』の倭姫命の呼び名が卑弥呼に当たると考えられる。
垂仁天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)に皇后の樺井月姫(かばいつきひめ)は倭姫命を生んだが、産後の病状が悪く翌月10月2日(11月上旬頃)に亡くなり、死後に筒木樺井月神(つつきかばいのつきのかみ)という神名で祭り上げた。
皇后の樺井月姫が死後に筒木樺井月神の名前で祭られたのは、日本神話の神々…八百万(やおよろず)の神々が実在した人物を神格化した根拠だと考えられて、筒木樺井月神が月の神様として祭られたのが京都府城陽市の樺井月神社で、後世に月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と入れ替わったと考えられる。

垂仁天皇22年12月28日(西暦174年1月下旬頃)に皇女の倭姫命(卑弥呼)を2代目の伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に奉仕する未婚の皇女)とするため、若子(わかご)親子が共に伊勢国(三重県中部)に向かった。
鈿女命(うずめのみこと)が倭姫命の髪を大垂髪(おおすべらかし)にゆい上げるために、髪をほどいて落としている間に年が明けて、初日が明けると共に小原を立ち、伊勢の高宮(たかみや)に入って豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に仕えて、9月(西暦174年10月頃)に倭姫命が粥占(かゆうら)を持って、異母兄の誉津別命(ほむつわけのみこと)のことをお祈りした。

若子親子とは、伊勢神宮宮司家の度会(わたらい)氏の人物と考えられて、参考文献『新編 姓氏家系辞書』(著者・太田亮 発行・株式会社秋田書店)に大若子命(おおわかごのみこと)と弟の乙若子命(おとわかごのみこと)が記されて、この人物の関係が兄弟でなく親子の間違いの可能性が高い。
度会氏の祖先神は天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)で、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏が祖先神に天村雲命(あめのむらくものみこと)がいて、海部氏の派生氏族が度会氏に当たる可能性が高い。
大垂髪は「おすべらかし」とも言って、平安時代の貴族女性の髪形で、特別に何もせず長髪を垂(た)らした状態を差すこともあって、現在の皇室の宮中祭祀で皇族女性がする髪形でもあって、ツタンカーメンの黄金のマスクが表裏で大垂髪の髪型とそっくりである。
倭姫命の髪の毛をゆい上げる鈿女命は、日本神話で天岩戸(あまのいわと)隠れ神話の天鈿女命(あめのうずめのみこと)という女神と同じ名前だが、単に同名異人である。
伊勢の高宮は元伊勢の飯野高宮(いいのたかみや)で、候補地が幾つもあってどこが正しいか分からない。

垂仁天皇23年9月2日(西暦174年10月上旬頃)に詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、「先に生まれた誉津別命は髭(ひげ)が生(は)える年頃になっても泣き泣いて言葉をしゃべらない。これはどうしたわけだろう」と、そして諸臣が集まって審議して倭姫命に祈らせることになった。
10月8日(11月上旬頃)に垂仁天皇が高殿(たかとの)に立った時、そばにいた誉津別命が空を飛ぶ鵠(くくい)を見て、「この鳥は何と言う鳥だ」と急にしゃべられた。
垂仁天皇は大いに喜び、「誰かこの鳥を捕らえられる者はいないか」とおっしゃり、湯河板挙(ゆかわたな)が、「手前がこの鳥を捕らん」と進み出て、「もし捕らえれば誉めてつかわす」と言われた。
湯河板挙は鵠の飛んで行く方向を追い求めて、但馬(たじま;兵庫県北部)路を出雲に向かって、宇夜江(うやえ;島根県簸川郡簸川町神庭宇屋谷の地)の地でついに捕らえた。
11月2日(12月上旬頃)に鵠を誉津別命に奉(たてまつ)ると、誉津別命は喜んで鳥と遊びたわむれて言葉を話して、垂仁天皇がいたく湯河板挙をほめて、鳥取部(とりとりべ)の姓(かばね;豪族が授かった呼び名)を与えた。

倭姫命が異母兄の誉津別命のことを祈ったのは、おそらく架空…作り話でないかと考えられる。
誉津別命の伯父(おじ)の狭穂彦王(さほひこのみこ)が反乱(倭国大乱)を起こしたことで誉津別命は皇族としての発言権を失ったが、異母妹の倭姫命(卑弥呼)と湯河板挙の尽力でこの年齢になってようやく発言を許されて、それをこの物語にたとえたと考えられないか?
伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁天皇を神格化)と伊弉冉尊(いざなぎのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)の息子の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、父の伊弉諾尊に命じられた海原を統治せず、母の伊弉冉尊がいる黄泉国(よみのくに)に行きたくて、髭が生える大人になるまで泣きわめて、垂仁天皇と皇后の狭穂姫(さほひめ)の息子である誉津別命が髭(ひげ)が生(は)える年頃になっても泣き泣いて言葉をしゃべらないことと重なる。

垂仁天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に豊鍬入姫命が103才(数え年)で斎王を続けられないとして、倭姫命に見習わせて2代目の斎王として、倭姫命も念願だった大内(おうち)の大巫女(おみこ;正式な斎王)になった。

垂仁天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に豊鍬入姫命は103才(数え年)で、父親の崇神(すじん)天皇(西暦84年)元年に11才頃で、西暦73年頃の生まれと考えられる。
倭姫命の伊勢神宮斎王任命が卑弥呼共立で、幼少の倭姫命を伊勢神宮斎王として古代天皇家の官人たちが満場一致して選び出したと考えられて、女王は古代中国人の勘違いを現代人が受け継いだ。
王女の卑弥呼共立は、『後漢書』と『三国志・魏志倭人伝』の勘違いで、古代日本史の正当性を評価できれば答えを導き出せる。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
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