究極の超天才の僕と現代人(僕以外の人間)


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

究極の超天才の僕と現代人は、人類史上で最高最大最強の究極の考え方を持つ僕が現代人に理解できなくて、考え方と神様が人類の究極のテーマと言って良い考えだろう。
考え方と神様は、自分自身で常に自問自答して、自分の考え方を何度でも疑って、世界中のネット情報や参考本なども疑って、一生懸命にどんなことも疑い続けた。
他人を寄せ付けず孤独に生きてきた僕は、孤独に考えること…独創性を豊かにして、恵まれた環境の中で必然の考え方を体得して、自然に答えを導き出した。
人間誰しもが考え方は、孤独でも一緒でも色々な考え方を生み出すが、独創性の発達が孤独な考え方で伸びて、歴史上の天才の多くが孤独に考えて、たどり着いた結果だった。

僕は考え方の哲学の現代哲学理論「現象学」を証明して、正しいか間違いかの考え方そのものを完全に証明して、これが人類史上最高の超天才の理由である。
僕は神様が人間で人間が神様で、生きていても死んでいても人を神様に神格化して、神様が理性や感情や心や無意識や深層心理が関係するが、日本神話の神々がおそらく実在した人物を神格化したと証明して、世界中の神話や神様を関連付けた。
この他にも僕は、歴史上の超天才をはるかに超えた人類史上最高の超天才と言える偉業を成(な)し遂(と)げた。

僕は日本神話が『三国志・魏志倭人伝』を読んで、三貴子(みはしらのうずのみこ)が卑弥呼と台与(とよ)と男弟と男王を神格化して、日本神話の神々の大半が古代天皇家や古代豪族などを神格化したと証明した。
例外として伊勢神宮内宮の横を流れる五十鈴川(いすずがわ)そのものを神格化した蛇神の滝祭神(たきまつりのかみ)は、怪物視された邪神の八岐大蛇(やまたのおろち)に当たるが、滝祭神も八岐大蛇も古代の蛇体の太陽神と証明した。
このように僕の求めた日本神話は、世界中の誰も否定できない史実・真実・事実で、究極の超天才の由縁(ゆえん)である。

誰に理解されなくても自分は正しいと信じることは、僕にとって最も大切な信念で、それが僕を人類史上最高の超天才にさせた。
人類史上で最高最大最強の超天才は僕で、本能的に人間が忌(い)み嫌うものを受け入れて、それを克服することで超越した可能性がある。
本能的に人間が忌み嫌うものは、神様やUFOや未確認生物や幽霊や超能力や超古代文明などの禁忌とする領域(非日常)で、人間が本能的に恐れて踏み込まないものでも、僕が超越して踏み込んだと考えられる。
2002年10月頃に僕が歴史研究を開始した時、日本神話の神々の領域…神域に踏み込んでひもといて、後に古代文字の神代(しんだい)文字や古史古伝(「記紀」に反する書物)などの非日常を当然(常識)として、研究拡大した結果が今の一大理論を作り上げた。
僕は人生経験で何度も非日常(本能的に人間が忌み嫌うもの)を受け入れて、それが歴史研究に大きな影響を与えた可能性を示し続けて来た。
僕は自殺願望と殺人願望があることを公言して、自分のプライベートも含めて多く公表して、公表に対して賛否両論だが、自分を理解してもらうことを最優先にする。
だからこそ僕は、誰に理解されなくても多くを公表して、少しでもマイノリティ(少数派)でもマジョリティ(多数派)でも賛同者を集めて、協力者を求めてあがく。
どんなに小さな「きっかけ」でもいつかは、大きなうねりを生み出して、革命や革新につながっていく。

哲学者エドムント・フッサールの現代哲学理論「現象学」は、僕の再定義したコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)という考え方を説明する最高の理論で、僕が証明した現代哲学理論「現象学」が究極の考え方の正体である。
現代哲学理論「現象学」は、「当たり前(常識)だと思うことを疑う」と教えて、人間の持つ常識そのものを疑って考えることが大切で、常に僕が自分自身で考えることである。
僕が求めた古代天皇家の歴史は、それそのものが常に正しいか何度も自問自答して、自分の考え方や記したものなども常に自問自答して、そのたびに本当に正しい結論に至った。
僕は歴史研究などの考え方を何度も修正して、僕のコペルニクス的転回で「自己認識の再構築」と名付けた考え方で、自分の考え方を常に修正し続けられるかが大切である。
自分の間違いを認められない人間は、人間として非常に小さい器(うつわ)で、常に自分を切磋琢磨できる方が尊敬できる。
僕が証明した現代哲学理論「現象学」は、いつの日か人類全体に認められて、常識そのものを常に疑って考える究極の考え方にたどり着く。
コペルニクス的転回の根底が中国の故事の「矛盾(パラドックス)」で、いつの日か世界中の学校教育で矛盾とコペルニクス的転回を始めとして、僕の考え方を教えるかもしれない。

人間の考え方の究極は、全ての考え方の答えそのもので、理論的に求めると完全な答えがないのが正しい。
僕は常識・固定観念・先入観・理屈・伝統を排除して、現代哲学理論「現象学」を完全に理解して、コペルニクス的転回を再定義して、全て自分の考え方の究極に至るためである。
数学に明確な答えがなくて、インドでゼロの概念が発見されるまで世界中になく、小数点が割り切れないなど、数学も完全な答えがなくて不明瞭である。
どんな学問も完全な答えがなくて、その学問を考える人の思考パターンで変化していって、明確な答えが変化し続ける。
考え方の哲学の現代哲学理論「現象学」は、最終的に人間の考え方が全て正しいか間違いかの二択も思い込みで、人間の考え方全てが思い込みで成立する理論になる。
つまり人間の思考パターンは、全て正しいか間違いかの二択が思い込みで、どんな考え方も思い込みでしかない結論で、究極的にそう定義付けられる。
人間の考え方の究極を知る僕は、だから僕が人類史上最高の超天才を自称する。

僕の孤独に考えること…独創性は、本能的に人間が忌み嫌う領域(非日常)を受け入れて、現代哲学理論「現象学」を証明して、常識そのものを疑うなど他にも多くの考え方を分析して、僕が世界中の人間で最もすぐれた考え方を生み出した可能性がある。
究極の考え方は、当たり前(常識)そのものを疑うことで、常にどんなことも自問自答する中で、僕が体得した本能的な考え方だった。

<参考文献>
『この一冊で「哲学」がわかる!』
白取春彦・著者 株式会社三笠書房・発行
インターネット

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