九州の考古学的証拠


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦202年から209年)は、景(けいこう)行天皇自(みずか)らが総大将となって九州全土を平定して、熊襲(くまそ)王国(宮崎県と鹿児島県が領土と考えられる)を統治下に置いて、西暦248年1月頃に熊襲(くまそ)王国を滅亡させた。
纏向(まきむく)石塚古墳(垂仁(すいにん)天皇陵)と纏向(まきむく)遺跡(皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)と箸墓(はしはか)古墳(景行(けいこう)天皇陵)は、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の確実な考古学的証拠で、九州全土の平定を証明する理由である。

『魏志倭人伝』は、対馬国(対海国;対馬)と一大国(一支国;壱岐島(いきしま)を記して、対馬と壱岐島(いきしま)まで平定して、九州の考古学的証拠が対馬まで及ぶと考えられる。
僕の北九州4ヶ国の自論は、4ヶ国が全て福岡県内に収まって横断するのが正しくて、福岡県福津市西部から福岡県築上郡築上町北部までが間違いなくて、中国地方(出雲王国)を避けて、魏王朝の宝物を奪われないように敵対したのが間違いない。
纏向(まきむく)遺跡は、西暦330年代に放棄して、福岡県と鹿児島県の土器が出土して、平定の時期が当てはまる。
九州の平定は、3世紀初頭の西暦202年から209年で、九州の最古の前方後円墳が福岡市の那珂八幡(なかはちまん)古墳で、3世紀中頃の築造で、間違いなく正しい証拠である。
その他の九州の考古学的証拠は、僕がほとんど知らなくて、考古学者の手にゆだねて、今後の課題としておく。

九州全土の平定は、邪馬台国論争(大和国;やまとこく)が完全に証明されて、史実(歴史上の事実)と考古学が完全に合致して、今後の発掘調査が期待される。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
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