九州全土の平定
九州平定の前半
九州平定の年代は、僕がもみじヶ丘病院に医療保護入院した2023年7月15日の午後4時頃に特定して、熊襲(くまそ)王国(宮崎県と熊本県と鹿児島県の連合王国)の討伐を景行(けいこう)天皇18年(西暦208年)と求めた。
景行(けいこう)天皇12年7月(西暦202年8月頃)に熊襲(くまそ)王国は、宮中に貢物(みつぎもの)を送って来なくて、県主(あがたぬし)らが文に認(したた)めて、皇居に知らせて景行(けいこう)天皇の来訪を請願してきたので、景行(けいこう)天皇が8月15日(9月中旬頃)に山口県へ向かった。
吉備(きび;岡山県と広島県東部)王国の平定は、垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)で、広島県西部と山口県の平定が181年から202年までの間で、202年までに中国地方と四国が完全に古代天皇家の統治下に入って、九州の平定を計画したと考えられる。
県主(あがたぬし:統治者)は、九州が平定されない段階で任命されず、熊襲(くまそ)王国と外交した四国か中国地方の県主(あがたぬし:統治者)で、他の九州各地の王家からも貢物(みつぎもの)を受け取ったと考えられる。
景行(けいこう)天皇12年9月5日(西暦202年10月上旬頃)に周防(すおう;山口県東部)の婆麼(さば;防府市佐波か?)に至って、景行(けいこう)天皇が南の方角を見て、「南の方が何か騒がしく活気付いているが、つつがなく治まっているのだろうか」と言われて、多臣(おおのおみ)の武諸(たけもろ)と紀伊国の菟名手(うなで)と物部(もののべ)氏の夏花(なつはな)の三人を派遣されて、様子をうかがわせた。
景行(けいこう)天皇12年(西暦202年)に出雲王国(物部(もののべ)氏)は、中国地方全土を統治して、九州全土も平定するために景行(けいこう)天皇自(みずか)らが出陣して、山口県から北九州の様子をうかがった。
5代目出雲国王の物部夏花(もののべのなつはな)は、この時まだ出雲王国が父で、4代目出雲国王の物部十市根(もののべのといちね)の時代で、物部夏花(もののべのなつはな)の母が正妻で、垂仁(すいにん)天皇の娘の大中姫(おおなかひめ)と考えられる。
思兼神(おもいかねのかみ;物部十市根(もののべのといちね)を神格化)と和歌姫(わかひめ;大中姫(おおなかひめ)を神格化)の息子は、武神の天手力男神(あめのたぢからおのかみ;物部夏花(もののべのなつはな)を神格化)で、天孫系(天津神;あまつがみ)と出雲系(国津神;くにつがみ)の両方に当たると考えられる。
4代目オオモノヌシのカンタチ(物部十市根(もののべのといちね)を神格化)は、景行(けいこう)天皇12年(西暦202年)からツクシ(筑紫;九州)へのヲシカ(勅使;ちょくし:主君の命令を伝えるために天皇が派遣する使者)に任命されて、息子の物部夏花(もののべのなつはな)と共に九州平定の武将と考えられる。
すると主犯格の神夏磯媛(かんがしひめ)と言う者は、景行(けいこう)天皇の使いが来ると聞いて、磯津山(しずやま;北九州市の芝津山か?)の榊(さかき)を抜いて、上の枝に八握剣(やつかのつるぎ)で、中の枝に八咫鏡(やたのかがみ)で、下の枝に曲玉(まがたま)をつけて、白幡(しらはた)を艫舳(とも)に掛けて、なびかせながら言った。
「我が一族は、誰一人違(たが)わず天皇に従って、お恵みを受けようと思っています。
ただ鼻垂(はなだれ)と言う者が私の名を語って、宇佐(うさ;大分県宇佐市か?)にたむろして、世を騒がせています。
また耳垂(みみだれ)と言う者も邪欲に富んで、御木川(みけがわ;大分県中津市を流れる山国川か?)の上流に出没して、民の糧(かて)をかすめ取っています。
また麻剥(あさはぎ)なる者も仲間を集めて、高羽川(たかはがわ;英彦(ひこ)山から発して北流する英彦川か?)の辺に出没して、土折(つちおり)と居折(いおり)も緑野の川(北九州市を流れる紫川か?)がけわしい場所なのを利用して、隠れ潜んで盗みを働いています。
要路に集まる長と名乗る盗賊や逆族どもをことごとく討ち取ってください」と請(こ)い願った。
時に武諸(たけもろ)は計画をねって、赤衣袴(あかぎぬはかま)の引き出物によって、麻剥(あさはぎ)を誘(さそ)い出して、その誘いにのって他の盗賊たちも皆が姿を現すと、景行(けいこう)天皇の軍がことごとく討ち殺した。
神夏磯媛(かんがしひめ)が持つ八咫鏡(やたのかがみ)は、三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)と別物で、北九州に入って最初に服従した神夏磯媛(かんがしひめ)が言う敵が多臣(おおのおみ)の武諸(たけもろ)が作戦立案をして、全ての敵を誘い出して、一斉に撃滅して、福岡県北九州市から大分県宇佐市付近までの広大な地域の敵を一掃したと考えられる。
この期間に要した時間は、『ホツマツタエ』と『日本書紀』が合致して、それほど短期間で平定できなくて、翌年203年を跨(また)いだのが当然である。
九州の平定は、3世紀初頭の西暦202年から209年で、九州最古の前方後円墳が3世紀中頃築造の福岡市の那珂八幡(なかはちまん)古墳で、間違いなく正しい科学的な証拠で、歴史学(歴史書解釈)と合致した。
景行(けいこう)天皇は、さらに進軍されて、豊国(とよのくに;福岡県東部と大分県)の長狭(ながお;福岡県行橋市長尾か?)に仮都(かりみやこ;天皇の住む仮(かり)の皇居)を造営して、景行(けいこう)天皇12年メ月(西暦202年11月頃)に速見村(はやみむら;大分県速見郡)に至った。
景行(けいこう)天皇12年メ月(西暦202年11月頃)に大分県速見(はやみ)郡に至ったのは、間違いなく嘘(うそ)で、福岡県北九州市から大分県宇佐市付近までの敵をそんな短期間で一掃できるわけない。
景行(けいこう)天皇が仮宮(皇居)を建てた京(みやこ)は、福岡県京都(みやこ)郡で、福岡県行橋市付近も含んで、邪馬台国(大和国;やまとこく)の属国である北九州4ヶ国の奴国(ぬこく)が福岡県京都(みやこ)郡みやこ町中央に当たる。
速見村(はやみむら)の長の速見津媛(はやみつひめ)は、景行(けいこう)天皇が来られたことを知って、自(みずか)ら一行を迎えて天皇に、「鼠ヶ岩屋(ねづがいわや)という所に二人の土蜘蛛(つちぐも;天皇に抵抗する一族の蔑称)が潜(ひそ)んで、名を青蜘蛛(あおぐも)と白蜘蛛(しろぐも)と言います。
また直入(なおり;大分県直入(なおいり)郡)禰疑野(ねぎの;竹田市菅生付近)に三人の土蜘蛛がいて、名を打猿(うちさる)と八田(やた)と国摩侶(くにまろ)と言います。
この五人の土蜘蛛(つちぐも)は、強い者どもを配下にして、強引にお召しになろうとするなら戦いになるでしょう」と言った。
ここで景行(けいこう)天皇の軍は、進むことができず、来田見邑(くたみむら;大分県竹田市久住町の一帯か?)に仮宮を造営されて会議を開き、「全軍を上げて総攻撃をかければ、土蜘蛛(つちぐも)らも恐れて逃げ出すであろう」と景行(けいこう)天皇が言われた。
椿(つばき)の木は、切り槌(つち)を作って、荒武者を選んでそれを持たせて、山を崩(くず)し草の根を分けて、岩谷の(あおぐも)と白蜘蛛(しろぐも)を討ち殺して、それで稲葉川(いなばがわ;久住山より発し東南に流れる飛田川)の辺りが血の海と化した。
また打猿(うちさる)は討とうと、海石榴市(つばきいち;場所不明)より禰疑山(ねぎやま;竹田市菅生付近の山か?)を越そうとした時、敵が軍の横を突き雨よりも多くの矢を降らせて、景行(けいこう)天皇が前進できなかった。
一度ひいて城原(きはら;竹田市木原生付近)に帰って、太占(ふとまに)によって占(うらな)って、太占(ふとまに)の相に従って、八田(やた)を禰疑野(ねぎの;竹田市菅生付近)にて討ち破ると、打猿(うちさる)が降伏を願い出たが、景行(けいこう)天皇がこれを許さず討ち殺すと、国摩侶(くにまろ)も滝へ身を投げて、ことごとく滅び去った。
これというのは、城原(竹田市木原生付近)を退去した時、柏狭(かしわお;大分県直入(なおいり)郡萩町柏原付近か?)の石で長さ六咫(むた)幅三咫(みた)、厚さ一咫五枳(ひとたいき)ある物に景行(けいこう)天皇が祈られると、不思議なことにその大石が空中に飛び上がって、ゆえにその大石の両翼に住吉神(すみよしのかみ)と直(なお)り中臣神(なかとみのかみ)を祭る社(やしろ)を建てた。
大石と神は、斎(いつ)き祭って、景行(けいこう)天皇が見事に八田(やた)や打猿(うちさる)などの土蜘蛛(つちぐも)を討ち破られた後、この大石にお礼参りをされた。
大分県竹田市は、大分県の南西部で、ここの辺りの敵を討伐してから、熊襲(くまそ)王国に向かって、宮崎県の敵を討伐したのが『ホツマツタエ』に記されなくて、宮崎県をかなり支配したが、景行(けいこう)天皇18年(正歴208年)の熊襲(くまそ)王国の討伐後、宮崎県が古代天皇家の統治下に入って、熊襲(くまそ)王国の土地が取り上げられたと考えられる。
景行(けいこう)天皇16年1月3日(西暦206年2月上旬頃)で、弟橘姫(おとたちばなひめ)は、長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)を生んで、次の次男の稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が生まれて、大分県直入(なおいり)郡で生まれて、大分県の平定にかなり手間取ったと考えられる。
孝元(こうげん)天皇(景行(けいこう)天皇を祖先化)11年(アスス歴514年)3月15日に欝色謎命(うつしこめのみこと;高田媛(たかだひめ)を祖先化)は、娘の迹迹姫命(ととひめのみこと)を生んで、父の孝元(こうげん)天皇と共に行って、綜麻杵(へそきね;野見宿禰(のみのすくね)を祖先化)が大和の生簀(いけす)で、御饗(みあえ)を供進した。
綜麻杵(へそきね)の娘(養女)の伊香謎命(いかがしこめのみこと;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)は、膳(かしわで)の御食(みけ)を進めて、孝元(こうげん)天皇が伊香謎命(いかがしこめのみこと)を気に入って、妾(めかけ)の内侍后(うちめきさき)にして、弟橘姫(おとたちばなひめ)が数え年14才で、実年齢が13才である。
高田媛(たかだひめ)の娘の迹迹姫命(ととひめのみこと)は、本名(ほんみょう)が倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)と考えられて、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)と別人で、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)がワザと作られた人名と考えられる。
孝元(こうげん)天皇13年(アスス歴516年)1月3日は、伊香謎命(いかがしこめのみこと;弟橘姫(おとたちばなひめ)を祖先化)が生んだ息子の名前が忍信(おしまこと)で、諱(いみな;本名)が彦太(ひこふと)で、僕がクセで彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と呼ぶ。
孝元(こうげん)天皇11年(アスス歴514年)3月15日は、景行(けいこう)天皇14年3月15日(西暦204年4月中旬頃)で、景行(けいこう)天皇が妾(めかけ)の高田媛(たかだひめ)と娘の迹迹姫命(ととひめのみこと)と一緒にいて、弟橘姫(おとたちばなひめ)を妾(めかけ)に迎えた。
孝元(こうげん)天皇13年(アスス歴516年)1月3日は、景行(けいこう)天皇16年1月3日(西暦206年2月上旬頃)で、弟橘姫(おとたちばなひめ)が長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)を生んで、後に次男の稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が生まれて、稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が大分県直入(なおいり)郡で生まれと考えられる。
弟橘姫(おとたちばなひめ)の長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)は、6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)で、名前や諱(いみな;本名)が皇子名と区別されたが、僕が真実を特定した。
住吉神(すみよしのかみ)は、金析(かなさき;3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)を神格化)のことで、その義理の孫が藤原氏の祖先神の直(なお)り中臣神(なかとみのかみ;稲背彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)で、野見宿禰(のみのすくね)の養子である弟橘姫(おとたちばなひめ)の息子が稲背彦皇子(いなせひこのみこ)で、野見宿禰(のみのすくね)と稲背彦皇子(いなせひこのみこ)の社(やしろ)を建てたと記す。
これは物部(もののべ)氏の野見宿禰(のみのすくね)と孫の物部夏花(もののべのなつはな)など、有力な武将が景行(けいこう)天皇を補佐(ほさ)した史実(歴史上の事実)で、金析(かなさき;3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)を神格化)と直(なお)り中臣神(なかとみのかみ;稲背彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)が共に祭られて、稲背彦皇子(いなせひこのみこ)の出生地と考えるのが自然である。
景行(けいこう)天皇17年5月12日(西暦207年6月中旬頃)に景行(けいこう)天皇とその兵は、子湯県(こゆがた;宮崎県児湯(こゆ)郡)の西都原(さいとばる)市の丹裳野(にもの)に行って、景行(けいこう)天皇が東方を望(のぞ)んで、古(いにしえ)を偲(しの)んだ。
「天孫(あめみまご)の瓊瓊杵尊(ににきねのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)は、高千穂(たかちほ)の峰(みね)に登って、原見山(はらみやま;富士山)より出(い)づる朝日にこの世の別れを告げて、神上がって高千穂峰神(たかちほのみねのかみ)になった。
妃の木花咲耶姫(このはなのさくやひめ;仲姫(なかひめ)を神格化)は、原見山(はらみやま)にて高千穂(たかちほ)の峰(みね)に向かって、月にこの世の別れを告げて、神上がって浅朝間峰神(あさまのみねのかみ;富士山の神様)になった。
夫婦の2神は、世の上から下までを恵む神となって、朝日に向かったことで、国の名も日向(ひうが)と称(たた)えた。
『カモ』の『カ』は、上の意義で、天上よりあまねく照らすことを意味して、また『カモ』の『モ』が下の意義で、民を恵まんと雷を別(わ)けて、軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と罔象女神(みずはめのかみ;高田媛(たかだひめ)を神格化)を生んで、ほどよく雨を降らせて、穀物を潤(うるお)わせて、民を豊(ゆた)かに賑(にぎ)わせたことを意味する。
この功績は、上下別土(かもわけづち)の神(加茂別雷神;かもわけいかずちのかみ)と称(たた)えて、なんと尊(とうと)い神心だろう」と感慨もひとしおに高千穂峰神(たかちほのみねのかみ;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)を祭って、遥(はる)かな都(みやこ;奈良県の皇居)の空を眺(なが)めて、歌を詠(よ)んだ。
愛(は)しきよし わきべの方(かた)ゆ 雲居立(くもいた)ち 雲(くも)は大和(やまと)の 国(くに)の真秀(まほ) また棚引(たなび)くは 青垣(あおがき)の 山(やま)も籠(こも)れる 山背(やましろ)は 今(いのち)の真麻(まそ)よ けむひせば ただ御子思(みこおも)え くの山(やま)の 白橿(しらかし)が枝(え)を 髻華(うず)に挿(さ)せこの子(こ)
(麗(うるわ)しくも山脇(やまわき)より雲が立ち上(のぼ)っている。その雲は、大和国から立ち上(のぼ)る雲か? 大和国は、真(まこと)の秀(ひい)でた国である。また雲は、棚引(たなび)いて三輪山(みわやま)まで覆(おお)い隠すようだ。また山城(やましろ;京都府南部)にかかる雲は、命の真麻木綿(まそもめん)のようである。雲か煙(けむり)のように立ち上(のぼ)れば、ただ我が子のことを思えよ。くの山の白橿(しらかし)が枝を髻華(うず;神や冠に挿(さ)した飾(かざ)り)として挿(さ)せよ、我が子よ)
『日本書紀』は、丹裳小野(にもおの)と記すが、『ホツマツタエ』の丹裳野(にもの)が正しくて、景行(けいこう)天皇が曾孫の誉田別尊(ほむだわけのみこと)に関係なく、和歌を詠(よ)んだのを瓊瓊杵尊(ににきねのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)と結び付けたと考えられる。
上下別土(かもわけづち)の神(加茂別雷神;かもわけいかずちのかみ:誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)と高千穂峰神(たかちほのみねのかみ;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)は同一神で、加茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)が上下別土(かもわけづち)の神の意味で、『ホツマツタエ』の神名の由来が正しい。
『ホツマツタエ』の軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)と罔象女神(みずはめのかみ;高田媛(たかだひめ)を神格化)は、神功(じんぐう)皇后の先祖で、その息子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)に血筋がつながる。
景行(けいこう)天皇が詠(よ)んだ和歌は、大和国と三輪山(みわやま)と山城(やましろ;京都府南部)が登場して、生まれてない瓊瓊杵尊(ににきねのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)と関係なくて、正しい解釈ができる。
景行(けいこう)天皇18年3月(西暦208年4月頃)に景行(けいこう)天皇一行は、奈良県の皇居へ帰る途中に九州を巡って、夷守(ひなもり;宮崎県小林市付近か?)の岩瀬川(いわせかわ;小林市を流れる岩瀬川か?)に至って、景行(けいこう)天皇がはるか向こうを見て、群衆がいるのを弟夷守(おとひなもり)に偵察させた。
弟夷守(おとひなもり)が帰って言うには、「諸々の県主(あがたぬし)が大御食(おおみけ)を天皇にささげようと、泉媛(いずみひめ)の館に集まっています」と言った。
宮崎県の県主(あがたぬし)は、古代天皇家の任命した統治者でなく、地元の国主の集まりと考えられて、泉媛(いずみひめ)の館に景行(けいこう)天皇への食事をささげて集まった。
纏向(まきむく)遺跡は、福岡県の土器が出土して、景行(けいこう)天皇19年(西暦209年)以降の土器と考えられる。
九州の平定は、3世紀初頭の西暦202年から209年で、九州の最古の前方後円墳が福岡市の那珂八幡(なかはちまん)古墳で、3世紀中頃の築造で、間違いなく正しい証拠である。
九州平定の前半は、考古学的証拠のほとんどを知らないが、歴史書解釈と合致して、証明するのが非常に簡単である。
熊襲(くまそ)王国の平定
景行(けいこう)天皇一行は、日向(ひうが;宮崎県)の高屋(たかや;所在地不明)に仮宮(かりみや;仮(かり)の皇居)に滞在すること六年間、そこで襲国(そのくに;鹿児島曽於(そお)郡)の御刀媛(みはかせひめ)と結婚して、豊国皇子(とよくにのみこ)が生まれて、その母子がこの地にとどまって、豊国皇子(とよくにのみこ)を日向国造(ひうがくにみやつこ;宮崎県の統治者)とした。
宮崎県の皇居の高屋(たかや)は、御刀媛(みはかせひめ)を高屋(たかや)に召(め)して、景行(けいこう)天皇18年(西暦208年)の熊襲(くまそ)王国の平定までに豊国皇子(とよくにのみこ)が生まれたと考えられる。
仮宮(かりみや;仮(かり)の皇居)の高屋(たかや)は、宮崎県の所在地不明で、熊襲王国の討伐の最前線基地と考えられて、候補地が宮崎市の高屋神社と宮崎県西都市の高屋神社と鹿児島県肝属郡肝付町の高屋神社などで、熊襲(くまそ)王国の比定地として、正しい分析をしないといけない。
景行(けいこう)天皇12年11月(西暦202年12月頃)に日向(ひうが;宮崎県)の高屋(たかや)に仮宮(かりみや;仮(かり)の皇居)を造営されて、景行(けいこう)天皇12年12月5日(西暦203年1月上旬頃)に熊襲(くまそ)王国の討伐の会議を開き、その席上で景行(けいこう)天皇の詔(みことのり;天皇の述べた言葉)があったと記す。
修正して、景行(けいこう)天皇17年12月5日(西暦207年1月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、仮宮(かりみや;仮(かり)の皇居)の高屋(たかや)で詔(みことのり)して、熊襲(くまそ)王国の討伐の会議を開いて、高屋(たかや)を築造した年代が分からない。
『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇18年4月3日(西暦208年5月上旬頃)に熊県(くまのあがた;熊本県球磨(くま)郡)の長である熊津彦(くまつひこ)の兄弟を呼び出して、ところが兄が来たけれど弟が来なくて、景行(けいこう)天皇が家臣と兄を派遣して諭(さと)させたが、まだ拒(こば)むため弟を殺した。
『日本書紀』景行(けいこう)天皇13年5月は、景行(けいこう)天皇18年5月(西暦208年6月頃)で、ことごとく襲(そ)の国(鹿児島県曽於(そお)郡)を平定した。
熊襲(くまそ)王国(宮崎県と熊本県と鹿児島県の連合王国)は、熊県(くまのあがた;熊本県球磨(くま)郡)を攻めて、熊津彦(くまつひこ)の兄が来て、弟が来なくて拒否したから殺して、襲(そ)の国(鹿児島県曽於(そお)郡)を弟が統治したと考えられる。
『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇は、「私が耳にする所によると、兄の厚鹿文(あつかや)と弟の乍鹿文(せかや)なる者が人の上に立ち、多くの者を集め宮中に背(そむ)いて、暴挙を働いているらしい。その者は腕が立ち、矛先が当たる者がいないと言う。戦うことが度重(たびかさ)なれば民の苦しみも増すばかりである。矛に頼らず敵を討とうと思うのであるが」と言われた。
乍は「しんにょう」に乍の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
一人の家臣が進み出て、「熊襲(くまそ)王国には乾鹿文(ふかや)と辺鹿文(へかや)という二人の娘がいます。まばゆいばかりに美しく、また勇ましい二人ではございますが、丁重なる引き出物によって召し入れて、熊襲(くまそ)の隙(すき)をうかがって、捕らえてはいかがでしょう」と進言した。
時に景行(けいこう)天皇は、「良かろう」と言われて、絹の引き出物によって二人の娘をあざむいて誘(さそ)い出した。
景行(けいこう)天皇のおそばに置いてもてなすと、姉の乾鹿文(ふかや)が、「君よ、うれいたまいますな。私が謀計を巡らせましょう」と言って、景行(けいこう)天皇の兵を引き連れて、家に帰り熊襲(くまそ)王国の主領である父の厚鹿文(あつかや)に酒をたらふく飲ませ、厚鹿文(あつかや)が酒に酔って横になると、乾鹿文(ふかや)が父の弓弦(ゆんづる)を切っておき、隙をうかがって殺した。
乾鹿文(ふかや)は、景行(けいこう)天皇の所に帰って、このことを告げると、景行(けいこう)天皇が血筋の者を殺したことをひどく憎まれて、乾鹿文(ふかや)を殺してしまわれた。
景行(けいこう)天皇は、妹の辺鹿文(へかや)をその国の国造(くにみやつこ;統治者)として、伯父(おじ)か叔父(おじ)の子供の取石鹿文(とりいしかや)と結婚させて、「筑紫(つくし)を平定せよ」と言われた。
景行(けいこう)天皇18年4月3日(西暦208年5月上旬頃)に熊本県球磨(くま)郡の厚鹿文(あつかや)は、娘の乾鹿文(ふかや)に殺されて、景行(けいこう)天皇が血筋の者を殺したことで、乾鹿文(ふかや)を殺して、景行(けいこう)天皇18年5月(西暦208年6月頃)に別働隊で、鹿児島県曽於(そお)郡の乍鹿文(せかや)を殺して、熊襲(くまそ)王国が平定された。
景行(けいこう)天皇は、妹の辺鹿文(へかや)を熊襲(くまそ)王国の国造(くにみやつこ;統治者)として、伯父(おじ)か叔父(おじ)の子供の取石鹿文(とりいしかや)と結婚させた。
景行(けいこう)天皇は、妹の辺鹿文(へかや)を襲(そ)の国(鹿児島県曽於(そお)郡)の国造(くにみやつこ)かその国の国造(くにみやつこ)にしたと解釈できるが、熊襲(くまそ)の国の国造(くにみやつこ)が正しいと考えられる。
辺鹿文(へかや)は、叔父(おじ)である乍鹿文(せかや)の子供の取石鹿文(とりいしかや)か、他の伯父(おじ)や叔父(おじ)の子供が取石鹿文(とりいしかや)かもしれなくて、固定観念や先入観で考えてはならない。
熊襲(くまそ)王国(宮崎県と熊本県と鹿児島県の連合王国)は、熊本県球磨(くま)郡と鹿児島曽於(そお)郡が別国と考えられたが、僕が球磨(くま)郡と曽於(そお)郡と宮崎県の連合国と考えられて、『筑前国風土記(ちくぜんのくにふどき)』が球磨囎唹(くまそお)と記すことや『ホツマツタエ』の解釈などが理由である。
熊襲(くまそ)王国が球磨囎唹(くまそお)と気付いたのは、2023年5月30日の午前8時頃で、熊襲(くまそ)王国の平定年代を求めたのがもみじヶ丘病院に医療保護入院した2023年7月15日の午後4時頃で、球磨囎唹(くまそお)と気付くのと九州平定の年代特定が別々だった。
景行天皇18年(西暦208年)に景行(けいこう)天皇は、熊襲(くまそ)王国を服従させて、後漢王朝が滅亡する220年までに遣使して、拘奴国(くぬこく)の熊襲(くまそ)王国が初めて歴史に登場した。
『後漢書』に「自女王国東度海、千余里至拘奴国雖、皆倭種而不属女王」と記され、多少修正して東にある女王国(伊勢国)から海を渡って、数千里余り行くと拘奴国(くぬこく;熊襲(くまそ)王国)に至って、皆が日本人だが景行天皇に従属しないと解釈できて、熊襲(くまそ)王国が海を渡った九州にある根拠である。
参考文献『ホツマ辞典』(著者・池田満 発行・ホツマ刊行会)は、熊襲(くまそ)王国の位置が宮崎県西都市付近と記して、参考文献『日本古代史辞典』(発行・大和書房)が『筑前国風土記(ちくぜんのくにふどき)』に「球磨曽於(くまそお)」と記して、宮崎県と熊本県球磨(くま)郡と鹿児島県曽於(そお)郡の連合国と考えられる。
『三国志・魏志倭人伝』に「其南有狗奴国、男子為王、其官有狗古智卑狗、不属女王」と記して、その南にある狗奴国(くぬこく;熊襲(くまそ)王国)が男性を国王で、官人の狗古智卑狗(くこちひく)が古代天皇家の任命した県首(あがたひとご)と言う役職で、熊襲(くまそ)王国が古代天皇家に服従した証拠と考えられる。
『ホツマツタエ』と「記紀」は、景行(けいこう)天皇の九州平定に鹿児島県が登場せず、熊襲(くまそ)王国が鹿児島県を含む大きな国家だから滅亡させないで、服従させたと考えられる。
隼人(はやと)は、古代の鹿児島県に住んだ人々で、熊襲(くまそ)王国の襲(そ;鹿児島県曽於(そお)郡)と合致して、日本神話の火酢芹命(ほすせりのみこと;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を神格化)の子孫とするが、隼人(はやと)の民族に古代天皇家の大山守皇子(おおやまもりのみこ)の血筋が混血したことを意味する。
隼人(はやと)は、熊襲(くまそ)王国と同一で、景行(けいこう)天皇12年7月(西暦202年8月頃)に初めて登場して、西暦190年年末から190年年始頃の古墳時代初頭から9世紀初頭まで登場して、以降に南九州の人々を隼人(はやと)と呼んだ事例がない。
南九州の考古学的証拠は、4世紀から5世紀の九州南部の板石積石棺墓(いたいしづみせっかんぼ)と5世紀から6世紀の宮崎県南部から鹿児島県東部の地下式横穴墓(ちかしきよこあなぼ)などが隼人(はやと)と関係すると考えられて、僕以外に隼人(はやと)を分析できなくて、それが超天才の僕と凡人(僕以外の人間)の差である。
参考文献『三輪山の考古学』(発行・株式会社学生社)は、纏向(まきむく)遺跡から鹿児島県の土器が出土したと記して、ネット検索で鹿児島県の土器が一つだけ出土したのが分かって、早ければ西暦208年に服従した熊襲王国から土器が送られたか、鹿児島県から土器を作れる人間を纏向(まきむく)遺跡にまねいたと考えられる。
熊襲(くまそ)王国の平定は、具体的な行動が細かくて、史実(歴史上の事実)と考えられる。
九州平定の後半
景行(けいこう)天皇18年4月20日(西暦208年5月中旬頃)に葦北(あしきた;熊本県葦北(あしきた)郡)の小島に至る時、日照りが続いて暑いので景行(けいこう)天皇が水を所望して、山辺(やまべ)の小左(こひだり)という者が水のないのを天に祈ると、岩の角より清水がわき出て、小左がこの清水を景行(けいこう)天皇にささげると、景行(けいこう)天皇がこれにちなんで、島の名を水島(熊本県八代(やつしろ)市球磨川(くまがわ)河口の水島か?)と名付けた。
熊本県葦北(あしきた)郡に進軍したのは、年代や前後関係から間違いなくて、景行(けいこう)天皇が飲み水を求めた事実である。
景行(けいこう)天皇18年5月1日(西暦208年6月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、船に乗られて八代(やつしろ;熊本県八代(やつしろ)郡)へ行って日暮れに岸に着いて、そこに不思議な光があって景行(けいこう)天皇が「見知らぬ火の光っている所を目指せ」と言われて、一行が岸に上がり火の光る村に着いた。
村人に何村かと問うと八代(やつしろ)の豊村(とよむら;熊本県宇城(うき)市松橋町(まつばせまち)豊福(とよふく)か熊本県八代(やつしろ)郡氷川町(ひかわちょう)付近か)と答え、ところが例の火を誰が焚(た)いたのかを聞くと、その主が分からず、それが人の焚いた火でなく、これによって景行天皇がこの国を知らぬ火(ひ)の国と名付けた。
景行(けいこう)天皇が名付けた火の国は、誰が点(つ)けた火か分からず、肥国(ひのくに;熊本県と長崎県と佐賀県)と名付けて、史実(歴史上の事実)である。
景行(けいこう)天皇18年6月3日(西暦208年7月上旬頃)に高来県(たかくのあがた;長崎県北高来(きたたかき)郡と南高来(みなみたかき)郡)の船渡しの玉杵名邑(たまきなむら;熊本県玉名郡内か?)の土蜘蛛(つちぐも;天皇に抵抗する一族の蔑称)の津頬(つづら)と言う賊を殺した。
16日(7月中旬頃)に阿蘇国(あそのくに;熊本県阿蘇郡)に至って、土地が四方に広がって、家が一つも見えないので景行(けいこう)天皇が「この辺りに人はいるのか」と家臣に聞かれた。
するとたちまち阿蘇津彦(あそつひこ)と阿蘇津媛(あそつひめ)と言う2神は現れて、「景行(けいこう)天皇よ、人がいないとは何ということだろうか」と言って、「お前たちは誰だ」と景行(けいこう)天皇が言って、「国神(くにつがみ)でございます。社(やしろ)が壊れてしまいました」と答えた。
時に景行(けいこう)天皇は、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)をして、社(やしろ)を再建して、2神が大いに喜んで、その国を守ったので、家数も増えて豊かになった。
長崎県の高来(たかき)郡から熊本県に入ったのは、時期的に考えて難しくて、阿蘇津彦(あそつひこ)と阿蘇津媛(あそつひめ)を祭る神社は阿蘇(あそ)山の阿蘇(あそ)神社で、阿蘇大神(あそのおおかみ;神武(じんむ)天皇の孫の健磐龍命(たけいわたつのみこと)とその妃の阿蘇津媛(あそつひめ)で、正しく求めると国津神(くにつがみ)でなく、天津神(あまつがみ)と考えられる。
阿蘇大神(あそのおおかみ)は、阿蘇津彦(あそつひこ;別名を健磐龍命(たけいわたつのみこと)と阿蘇津媛(あそつひめ)の夫婦を指して、熊本県阿蘇(あそ)郡の神様で、統治者とも考えられる。
神武(じんむ)天皇に祖先化したのは、崇神(すじん)天皇で、健磐龍命(たけいわたつのみこと)に神格化したのが崇神(すじん)天皇の孫の景行(けいこう)天皇と同世代で、健磐龍命(たけいわたつのみこと)に神格化した人物が阿蘇郡の統治者で、天津神(あまつがみ)と国津神(くにつがみ)の区分に疑問が生じる。
景行(けいこう)天皇18年7月4日(西暦208年8月上旬頃)に筑紫路(つくしじ;福岡県)を行って、高田の仮宮(福岡県みやま市高田町)に滞在して、時に大木が倒れてその木の大きさが970丈(たけ)もあって、村人がその大木の上を幾度も踏み渡った。
景行(けいこう)天皇は、村人にその大木のことを聞くと翁(おきな)が答え、「これは橡(くぬぎ)です。倒れている先の方はもと朝日を隠して、その影は杵島(きしま;佐賀県杵島(きしま)郡)に至って、夕陽の影は阿蘇山をも覆(おお)うほどでした。これはご神木でございます」と、これによってこの国の名を御木(みけ;福岡県三池(みいけ)郡)と名付けられた。
970丈(たけ)の橡(くぬぎ)はたとえ話で、確かに大木があって御木(みけ;福岡県三池(みいけ)郡)の地名が名付けられて、佐賀県杵島(きしま)郡が確かにそこまで平定した証拠と考えられる。
その後、八女県(やつめあがた;福岡県八女(やめ)郡)を越えて、前山の粟岬(あわみさき)を見て、景行(けいこう)天皇が言われて、「向こうの山は重なり合ってうるわしい。まるで神が御座(おわ)すようだ」と。
すると水沼(みぬ;福岡県三潴(みずま)郡)の猿大海(さるおうみ)が、「八女媛神(やつめひめのかみ)が峰(みね)に坐(ざ)す」と言われて、後に穂積(ほづみ)の的邑(いくはむら;福岡県浮羽(うきは)郡東部)に至って、村長が景行(けいこう)天皇に食事を進めた。
福岡県南西部に景行(けいこう)天皇が滞在した記録は、その辺りの地名に間違いがなく、『ホツマツタエ』の記述が正しいと考えられる。
『三国志・魏志倭人伝』の記述は、対馬国(対海国)と一支国(一大国)で、長崎県の対馬と壱岐島(いきしま)で間違いなくて、『ホツマツタエ』に対馬や壱岐島(いきしま)や佐賀県や長崎県の平定が記されず、景行(けいこう)天皇の軍勢の別働隊が平定したと考えられる。
『先代旧事本紀』の津嶋国造(つしまくにみやつこ;対馬国造:対馬の統治者)は、神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)時代に任命して、伊吉嶋造(いきしまみやつこ;壱岐島造:壱岐島の統治者)が応神(おうじん)天皇に任命して、景行(けいこう)天皇時代に任命してなくて、歴史学(歴史書解釈)から証明できず、考古学(遺跡・遺物)から対馬と壱岐島(いきしま)の統治下が証明できる。
『三国志・魏志倭人伝』が記す邪馬台国(大和国;やまとこく)の属国の北九州4ヶ国は、福岡県を横断して、景行(けいこう)天皇の九州平定で統治下に入って、考古学会と歴史学界の北九州4ヶ国の定説が頭の良い小学生でも間違いと気付いて、学界の低脳さが露呈した。
景行(けいこう)天皇19年9月8日(西暦209年10月上旬頃)に景行(けいこう)天皇一行は、皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の纏向(まきむく)遺跡に帰還した。
九州平定の考古学的証拠は、僕が詳細を知らなくて、ほとんど分からないが、圧倒的な数があると考えられる。
九州平定の後半は、景行(けいこう)天皇の移動先が具体的で、記述の信頼性が高くて、史実・真実・事実と考えられる。
<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
インターネットの不明サイトから少々拝借
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