東日本の古墳埋葬者

3世紀中頃から4世紀前半の東北地方南部から中部地方の古墳埋葬者は、『国造本紀(くにみやつこほんき)』からある程度求められると考えられる。
『日本書紀』で成務(せいむ)天皇5年9月に国や県(あがた)の統治者を任命して、国造(くにみやつこ;国主)の名前が分かっても、県(あがた)の統治者の名前が分からず、『国造本紀(くにみやつこほんき)』にある程度の混乱が見られる。
幾つかの古墳埋葬者を比定できないのは、『国造本紀(くにみやつこほんき)』の国造(くにみやつこ;国主)任命の時期が間違いだからで、「物部(もののべ)氏の系図」を求めて、間違いがはっきり分かって、全てを比定するのが困難である。
国造(くにみやつこ;国主)の任命は、成務(せいむ)天皇5年9月でなく、仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)で、3世紀中頃以降の古墳が日本全国に点在して、古墳埋葬者が特定できると考えられる。

景行(けいこう)天皇60年(西暦250年)から仲哀(ちゅうあい)天皇3年(西暦254年)までは、神奈川県と長野県と福井県東部より以東の中部地方から東北地方南部までを平定して、古代天皇家の統治下に置いた戦争の時期だった。
越(こし;越前(えちぜん)から出羽(でわ)まで)の国は、父の武虎別皇子(たけこわけのみこ)が平定して、東海地方から東北地方南部までの太平洋側を武虎別皇子(たけこわけのみこ)の息子の武渟川別(たけぬなかわわけ)と親戚の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)と藤原氏の先祖の稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)と大伴武日(おおとものたけひ)などが平定した。
北陸組と東海組は、若狭(わかさ;福井県東部)と飛騨(ひだ;岐阜県北部)と信濃(しなの;長野県)と駿河(するが;静岡県中部)より以東から東北地方南部の宮城県と山形県まで平定して、3世紀後半以降の古墳が確認できて、国造(くにみやつこ;国主)を比定して、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で証明した。
仲哀(ちゅうあい)天皇4年2月1日(西暦255年3月上旬頃)は、国造(くにみやつこ;国主)を決める詔(みことのり;天皇の述べた言葉)で、仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)に国造(くにみやつこ)を任命して、東日本の古墳の築造時期が仲哀(ちゅうあい)天皇5年(西暦256年)以前を遡(さかのぼ)らなくて、平定地域の特定が重要である。

参考文献『邪馬台国の考古学』は、著者の石野博信(いしのひろのぶ)氏の分析を記して、参考文献『先代旧事本紀 訓註』と比較して調べて、ネット検索で宮城県と山形県より南の古墳の築造年代などを調べて、それがほぼ間違いないと考えられて、僕の研究・分析の結果と共に記す。

宮城県名取市の飯野坂(いいのざか)古墳群は、3世紀末から4世紀末にかけての5基の前方後方墳で、同族の5世代に渡る古墳と考えられる。
『国造本紀(くにみやつこほんき)』は、「伊久国造(いくくにみやつこ)、志賀高穴穂朝(しがたかあなほちょう;成務(せいむ)天皇)の御世(みよ)、阿岐国造(あきくにみやつこ)と同祖の十世孫の豊嶋命(とよしまのみこと)、定め賜う国造(くにみやつこ)」と記して、伊久(いく)が宮城県角田市や伊具郡(いぐぐん)辺りを指す。
『国造本紀(くにみやつこほんき)』は、「思国造(しだくにみやつこ)、志賀高穴穂朝(しがたかあなほちょう)の御世(みよ)、阿岐閇国造(あきへくにみやつこ)と同祖の十世孫の志久麻彦(しくまひこ)、定め賜う国造(くにみやつこ)」と記して、思(しだ)が宮城県志田郡(しだぐん)を指して、どちらかが古墳埋葬者と考えられる。
阿岐国造(あきくにみやつこ)と阿岐閇国造(あきへくにみやつこ)は、神様の天湯津彦命(あめのゆづひこのみこと)の子孫で、安芸国造(あきくにみやつこ;広島県西部)の統治者が正しくて、この国造(くにみやつこ;国主)が安芸国造(あきくにみやつこ)の親戚で、阿岐閇国造(あきへくにみやつこ)が書き間違いである。

山形県南陽市の蒲生田山(かもうだやま)3号墳と4号墳は、3世紀後半から4世紀初頭にかけての前方後方墳で、当てはまる国造(くにみやつこ)が『国造本紀(くにみやつこほんき)』に無くて、求めるのが無理と考えられる。

福島県南相馬市の桜井(さくらい)古墳と福島県双葉郡浪江町の本屋敷(もとやしき)1号墳は、4世紀の前方後方墳である。
『国造本紀(くにみやつこほんき)』は、「染羽国造(しめはくにみやつこ)、志賀高穴穂朝(しがたかあなほちょう)の御世(みよ)、阿岐国造(あきくにみやつこ)の祖である十世孫の足彦命(たりひこのみこと)、定め賜う国造(くにみやつこ)」と記して、染羽(しめは)が福島県双葉郡辺りを指して、この一族が古墳埋葬者だと考えられる。
阿岐国造(あきくにみやつこ)は、神様の天湯津彦命(あめのゆづひこのみこと)の子孫で、安芸国造(あきくにみやつこ;広島県西部)の統治者が正しくて、この国造(くにみやつこ;国主)が安芸国造(あきくにみやつこ)の親戚である。

東北地方の最古の前方後円墳は、福島県河沼(かわぬま)郡会津坂下町の杵ヶ森(きねがもり)古墳で、3世紀末から4世紀初頭の築造と考えられる。
『国造本紀(くにみやつこほんき)』は、「石背国造(いわせくにみやつこ)、志賀高穴穂朝(しがたかあなほちょう)の御世(みよ)、故(ゆえ)に連許侶命(たけころのみこと)の功(子)の建彌依米命(たけみよりまいのみこと)、定め賜う国造(くにみやつこ)」と記されて、石背(いわせ)が福島県岩瀬郡(いわせぐん)辺りを指す。
天津彦根(あまつひこねのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の子の連許呂命(たけころのみこと)は、3世紀中頃の人物で、その息子が建彌依米命(たけみよりまいのみこと)で、仲哀(ちゅうあい)天皇4年9月(西暦255年10月頃)に国造(くにみやつこ;国主)を任命した。
『国造本紀(くにみやつこほんき)』は、「阿尺国造(あさかくにみやつこ)、志賀高穴穂朝(しがたかあなほちょう)の御世(みよ)、阿岐閇国造(あきへくにみやつこ)と同祖の天湯津彦命(あめのゆづひこのみこと)の十世孫の比止彌命(ひとねのみこと)、定め賜う国造(くにみやつこ)」と記されて、阿尺(あさか)が福島県郡山市一帯を指して、どちらかが古墳埋葬者と考えられる。
阿岐国造(あきくにみやつこ)と阿岐閇国造(あきへくにみやつこ)は、神様の天湯津彦命(あめのゆづひこのみこと)の子孫で、安芸国造(あきくにみやつこ;広島県西部)の統治者が正しくて、この国造(くにみやつこ;国主)が安芸国造(あきくにみやつこ)の親戚で、阿岐閇国造(あきへくにみやつこ)が書き間違いである。

『国造本紀(くにみやつこほんき)』は、「信夫国造(しのぶくにみやつこ)、志賀高穴穂朝(しがたかあなほちょう)の御世(みよ)、阿岐国造(あきくにみやつこ)の同祖である久志意麻命(くしいまのみこと)の孫の久麻直(くまのあたい)、定め賜う国造(くにみやつこ)」と記して、信夫(しのぶ)が福島県信夫(しのぶ)郡を指す。
阿岐国造(あきくにみやつこ)は、神様の天湯津彦命(あめのゆづひこのみこと)の子孫で、安芸国造(あきくにみやつこ;広島県西部)の統治者が正しくて、この国造(くにみやつこ;国主)が安芸国造(あきくにみやつこ)の親戚である。
『国造本紀(くにみやつこほんき)』は、「白河国造(しらかわくにみやつこ)、志賀高穴穂朝(しがたかあなほちょう)の御世(みよ)、天降天由津彦命(あまくだるあめのゆづひこのみこと)の十一世孫である孫の鹽伊乃己自直(しおいのこじのあたい)、定め賜う国造(くにみやつこ)」と記して、白河(しらかわ)が福島県白河(しらかわ)郡を指す。
この2つの国造(くにみやつこ;国主)は、当てはまる古墳の場所を地図と古代地名を比定する必要がある。

千葉県木更津市の高部(たかべ)30号墳と32号墳は、3世紀中頃の前方後方墳である。
『国造本紀(くにみやつこほんき)』は、「馬来田国造(まくたくにみやつこ)、志賀高穴穂朝(しがたかあなほちょう)の御世(みよ)、茨城国造(いばらぎくにみやつこ)の祖である遣許呂命(たけころのみこと)の兒(子)の深河意彌命(ふかかわいみのみこと)、定め賜う国造(くにみやつこ)」と記して、馬来田(まくた)が千葉県木更津市の馬来田(まくた)駅辺りを指して、この一族が古墳埋葬者と考えられる。
天津彦根(あまつひこねのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の子の遣許呂命(たけころのみこと)は、3世紀中頃の人物で、その息子が深河意彌命(ふかかわいみのみこと)で、仲哀(ちゅうあい)天皇4年9月(西暦255年10月頃)に国造(くにみやつこ;国主)を任命した。

関東地方の最古の前方後円墳は、千葉県市原市の神門(ごうど)3号墳と4号墳と5号墳で、3世紀後半の築造である。
『国造本紀(くにみやつこほんき)』は、「菊麻国造(きくまくにみやつこ)、志賀高穴穂朝(しがたかあなほちょう)の御世(みよ)、无耶志国造(むさしくにみやつこ)の祖である兄多比命(あにたひのみこと)の兒(子)の大鹿国直(おおかくにのあたい)、定め賜う国造(くにみやつこ)」と記して、菊麻(きくま)が千葉県市原市菊麻(きくま)の地を指す。
『国造本紀(くにみやつこほんき)』は、「上海上国造(かみうなかみくにみやつこ)、志賀高穴穂朝(しがたかあなほちょう)の御世(みよ)、天穂日命(あめのほひのみこと)の八世孫の忍立化多比命(おしたちかたひのみこと)、定め賜う国造(くにみやつこ)」と記して、上海上(かみうなかみ)が千葉県市原市の南部辺りを指して、どちらかが古墳埋葬者と考えられる。
『古事記』で菊麻国造(きくまくにみやつこ)と上海上国造(かみうなかみくにみやつこ)は、天菩比命(あめのほひのみこと)の子である建比良鳥命(たけひらとりのみこと)の子孫とされて、出雲王家(物部(もののべ)氏)の直系系譜で、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の親戚関係に当たって、神門(ごうど)の3古墳が物部(もののべ)氏の埋葬者と考えられる。

『国造本紀(くにみやつこほんき)』は、「道口岐閇国造(みちのくちのきへくにみやつこ)、軽嶋豊明朝(かるしまとよあきちょう;応神(おうじん)天皇)の御代(みよ)、建許呂命(たけころのみこと)の兒(子)の宇佐比刀禰(うさひとね)、定め賜う国造(くにみやつこ)」と記して、道口岐閇(みちのくちのきへ)が茨城県北部で、西暦270年から290年頃に国造(くにみやつこ;国主)に任命したと考えられる。
成務(せいむ)天皇時代は、西暦251年だけで、仲哀(ちゅうあい)天皇時代が252年から260年までで、神功(じんぐう)皇后時代が261年から329年までだが、干支(えと)の60年を引き算して269年で、応神(おうじん)天皇時代が270年からの計算になる。
天津彦根(あまつひこねのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の子の建許呂命(たけころのみこと)は、3世紀中頃の人物で、その息子が宇佐比刀禰(うさひとね)で、270年から290年頃に国造(くにみやつこ;国主)に任命したと考えられて、他の建許呂命(たけころのみこと)の子供も国造(くにみやつこ;国主)で、正しく計算すれば求められる。

『国造本紀(くにみやつこほんき)』は、「甲斐国造(かいくにみやつこ)、纏向日代朝(まくむくひしろちょう;景行(けいこう)天皇)の御世(みよ)、狭穂彦王(さほひこのみこ)の三世孫である臣知津彦公(おみしりつひこのきみ)の此宇(この子)の鹽海足尼(しおみのすくね)を以(もっ)て、定め賜う国造(くにみやつこ)」と記して、甲斐(かい)が山梨県に当たる。
甲斐国造(かいくにみやつこ;山梨県の国主)は、長野県と神奈川県より東で、東海の平定より後の仲哀(ちゅうあい)天皇4年9月(西暦255年10月頃)に任命したため、景行(けいこう)天皇時代が間違いである。

長野県中野市の高遠山(たかとおやま)古墳は、4世紀前半の前方後円墳である。
三野後国造(みののみちのしりくにみやつこ)、志賀高穴穂朝(しがたかあなほちょう)の御世(みよ)、物部連(もののべむらじ)の祖である出雲大臣命(いずもおおおみのみこと)の孫の臣賀夫良命(おみかぶらのみこと)、定め賜う国造(くにみやつこ)」と記して、三野後(みののみちのしり)が長野県東部に当たって、長野県中野市も長野県東部で、古墳埋葬者の可能性が高いと考えられて、2023年12月20日に求めた。

神門(ごうど)3号墳と4号墳と5号墳は、3世紀後半の築造で、次に杵ヶ森(きねがもり)古墳が3世紀末から4世紀初頭の築造で、長野県中野市の高遠山(たかとおやま)古墳が4世紀前半の築造で、東日本で特に古い時代の前方後円墳で、求めた国造(くにみやつこ;国主)が間違いなく正しいと考えられる。
考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が合致した古墳埋葬者は、誰にも覆(くつがえ)せない証拠で、僕の超頭脳・超知識を軽んじれば、あまりにも馬鹿なことと知る必要があって、2024年6月20日の午前9時頃に修正した。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全三巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『邪馬台国の考古学』
石野博信 株式会社吉川弘文館・発行
『先代旧事本紀 訓註』
大野七三・校訂編者 批評社・発行
『日本古代地名事典』
吉田茂樹・著者 新人物往来社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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