纏向(まきむく)遺跡

景行(けいこう)天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、新しい皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の纏向(まきむく)遺跡に入って、景行(けいこう)天皇58年(西暦248年)まで皇居として使われて、仁徳天皇元年(西暦334年)まで都(みやこ)として、その後に放棄されて、考古学的に合致した。
景行(けいこう)天皇2年12月15日(西暦195年1月中旬頃)か、景行(けいこう)天皇4年12月15日(西暦195年1月中旬頃)か、景行(けいこう)天皇5年11月15日(西暦195年12月中旬頃)に景行(けいこう)天皇の皇后の八坂高依媛(やさかたかよりひめ)は、息子の日本武尊(やまとたけのみこと)を生んで、皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の纏向(まきむく)遺跡で生まれた可能性がある。

ユーチューブの読売テレビニュースの「【若一調査隊】邪馬台国の有力候補地 奈良・桜井市「纒向遺跡」衝撃的な大型建物群は卑弥呼の宮殿だったのか?古代史最大の謎に迫る」を2024年11月21日の午後3時50分頃から記し始めて、7時頃に記し終えて、纏向(まきむく)遺跡の記述に追加した。
纏向(まきむく)遺跡の4つの特徴は、規則性のある大型建物跡と祭祀(さいし)の跡と前方後円墳と出土品から見える都市性で、都市遺跡として最古の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)に当たって、後世の皇居の藤原京や平城京と同レベルの規模で、祭祀(さいし)や前方後円墳が古代天皇家の共通性を見せる。
今の纏向(まきむく)遺跡は、住宅地などが立ち並んで、JR巻向駅(まきむくえき)が纏向(まきむく)遺跡のど真ん中にあって、東西が約2キロメートルで、南北が約1.5キロメートルで、その都市遺跡の規模が圧倒的で驚かされる。

古代から存在した巻向山(まきむくやま)は、以降に纏向村(まきむくむら)の地名が1889年(明治22年)に初めて名付けられて、1972年(昭和47年)頃に考古学者の石野博信氏が太田(おおた)遺跡を纏向(まきむく)遺跡と改名して、続いて垂仁(すいにん)天皇陵の纏向石塚(まきむくいしづか)古墳なども名付けられて、纏向(まきむく)の名前が偶然から必然になった。
巻向山(まきむくやま)と纏向(まきむく)の名前は、切っても切れない絆(きずな)で、古代天皇家の邪馬台国(大和国;やまとこく)の歴史そのもので、今の皇室まで直接につながる奇跡だった。
奈良県桜井市の三輪山(みわやま)は、祭神の大物主神(おおものぬしのかみ)が大きな物部(もののべ)氏の主(あるじ)・・・7人の出雲国王を神格化して、初代・崇神(すじん)天皇の実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)が物部(もののべ)氏の始祖で、三輪山(みわやま)と大物主神(おおものぬしのかみ)の深い関係を隠したが、超天才の僕が再現した。

現在の最古の皇居は、奈良県桜井市の脇本(わきもと)遺跡の大型建物跡が6世紀後半から7世紀の物で、欽明(きんめい)天皇の皇居である磯城島金刺宮(しきしまかなさしのみや)の可能性を認識して、欽明(きんめい)天皇元年7月14日(西暦540年8月中旬頃)に皇居を築造して、現代人(僕以外の人間)の認識力の限界で、誰も僕に勝てる人間など存在しない。
景行(けいこう)天皇の父親である垂仁(すいにん)天皇の皇居の纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)は、2年でできたのに対して、景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)が4年間で完成して、纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)よりも規模が大きいと考えられる。
纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇の出生地と考えられて、該当(がいとう)する時期の考古学的証拠の都市遺跡が見つかってない。

奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡は、後世の皇居の藤原京や平城京にも勝(まさ)るとも劣(おとら)らない都市遺跡で、2世紀末の景行(けいこう)天皇4年(西暦194年)に出現して、4世紀前半の仁徳(にんとく)天皇元年(西暦334年)以降に突然に消滅した都市遺跡で、2世紀末から4世紀前半に消滅した考古学の時期と合致する。
纏向(まきむく)遺跡は、かつて1990年代に邪馬台国(大和国;やまとこく)の王都と騒がれた集落遺跡の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡より7から8倍近い規模の大きな遺跡で、卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい;異母弟)の王都で、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の重要な考古学的証拠である。
纏向(まきむく)遺跡を都市遺跡と表現する理由は、吉野ヶ里(よしのがり)遺跡のように大勢の人間が暮らす村落のようなものでなく、政治的や宗教的などの目的のために人間が暮らさず、国政執行の都市の役割を重視するためで、防御する張り巡らせた堀(ほり)の環濠(かんごう)がなく、集落遺跡と表現できないためである。

奈良県桜井市辻で発掘した纏向(まきむく)遺跡の3世紀前半の大型建物跡1棟は、同時代の建物で国内最大の面積で、周辺で以前に発見した3棟と共に、中心軸が東西の同一線上に並ぶなど例のない計画的な配置がされた。
大型建物跡は、南北19・2メートルの東西12・4メートルで、床面積が238平方メートルと推定して、柱穴13個(直径23から38センチメートル)がその間に一回り小さい柱穴9個(直径23から25センチメートル)があって、南北の柱間(約4・8メートル)を支える束柱と考えられて、東西の柱間(約3・1メートル)になかった。
3世紀前半の大型建物跡1棟が出土して、出土した柱穴群の西側は、後世の6世紀に作られた溝で削られたが、見つかった穴の形や並び方から見て、削られた部分にも同様の柱があったと判断して、以前の出土した大型建物跡がつながっていたと考えられる。
大型建物跡は、方角や中心線が狂(くる)いなく揃(そろ)えて、周りを柵(さく)で囲(かこ)んで、一番大きな建物の床面積が238平方メートルで、高さ3階のビルに匹敵すると考えられて、景行(けいこう)天皇の暮らす神殿の可能性があって、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢(三重県中部)にいて、現代人(僕以外の人間)の論点がズレる。
1978年と2008年の調査は、3世紀前の小中規模の建物跡3棟が出土して、大型建物跡と同じ方向を向いて、中軸線も東西の同一直線上に並んで、周囲から総延長40メートル以上の柵列も出土して、大型建物跡など東側の3棟が柵内に区画したと考えられて、計画的に配置した建物群が飛鳥時代の宮殿や寺で一般化するが、今回が最古の例と言う。
纏向(まきむく)遺跡の大型建物跡は、規則性を持って、方角を奇麗に揃(そろ)えて建てて、全国的な同時代の建物跡が規則性を持たず、複数の建物跡をバラバラに建てて、纏向(まきむく)遺跡が何らかの規則性を基本として、都市遺跡を設計した可能性が高い。

3世紀後半までの大型建物跡は、吉野ヶ里(よしのがり)遺跡の高床式の大型建物跡で2世紀の約156平方メートル、愛媛県松山市にある樽味四反地(たるみしたんじ)遺跡の掘立(ほったて)柱の大型建物跡で3世紀の約162平方メートルなどがあるが、纏向(まきむく)遺跡の大型建物跡の約238平方メートルに及ばない。
纏向(まきむく)遺跡の大型建物跡は、同時代の建物で国内最大の面積で、弥生時代後期から古墳時代初頭の頃と考えられて、纏向(まきむく)遺跡も大きい面積の遺跡がそう簡単に見つからなくて、纏向(まきむく)遺跡が皇居だから当然である。

『三国志・魏志倭人伝』の卑弥呼(ひみこ)の宮殿と物見櫓(ものみやぐら)と城柵などの記述は、女王国(伊勢国;三重県中部)の元伊勢の磯(いそ)神社に当たって、奈良県の邪馬台国(大和国;やまとこく)の皇居である纏向日代宮(まきむくひしろのみや)が纏向(まきむく)遺跡で、三重県中部の女王国(伊勢国)と奈良県の邪馬台国(大和国;やまとこく)が合致するはずがない。
『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇20年(西暦210年)に斎王(さいおう;太陽神に仕える未婚の皇女)の交代は、八十物部(やそもののべ)が伊勢神宮内宮を守る兵士と考えられて、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)を守る物見櫓(ものみやぐら)と城柵が歴史学(歴史書解釈)の伊勢神宮内宮の武装を証明した。

この大型建物跡の近くで出土した祭祀土坑(さいしどこう)は、祭るために大きく掘(ほ)った穴で、有名なのが桃の種(たね)が約2769個見つかって、西暦156年からの狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)を神話化した黄泉国下(よみのくにくだ)り神話で、桃が『古事記』の意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)の神名で登場して、時期が合致する。
この桃の種(たね)は、名古屋大学などの2018年の調査結果で、西暦135年から230年頃の物と判明して、崇神(すじん)天皇時代から景行(けいこう)天皇時代に当たって、祭りに使ったと考えて間違いないだろう。
当時の古代中国は、桃が特別で霊的な力を持つと考えたが、伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神話化)の黄泉国下(よみのくにくだ)り神話で、桃の実を投げて、鬼女の黄泉醜女(よもつしこめ;伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)を追う兵士を神格化)を退(しりぞ)けて、神話の構図が滅茶苦茶になった。
しかし桃は、古代中国の認識でなく、古代日本(古代天皇家)の独自の考え方が影響して、2世紀中頃の垂仁(すいにん)天皇時代から特別な考え方があって、神道に関係したと考える方が自然である。
纏向(まきむく)遺跡は、大量の祭祀土坑群(さいしどこうぐん)や国内最古の紅花(べにばな)の花粉や日本最古の木製仮面などが出土して、皇居の祭りが盛大に行われた痕跡(こんせき)と考えられる。

纏向(まきむく)遺跡の周辺の前方後円墳は、大和(おおやまと)古墳群に属して、その中で特に古い前方後円墳が大和(おおやまと)古墳群の中の纒向(まきむく)古墳群で、纒向(まきむく)古墳群に纏向(まきむく)石塚古墳や箸墓(はしはか)古墳が属して、古代天皇家の天皇陵や皇族陵と考えて間違いない。
前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、築造年代が紀元前3世紀頃(約2200年前)の香川県高松市の高松空港跡地(あとち)遺跡が最古で、前方後円墳の形が天皇家誕生より前の時代で、天皇家と無関係で、高松空港跡地(あとち)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)が瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)につながったと考えられる。
崇神(すじん)天皇陵の最有力候補は、奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に葬礼して、全長が約26メートルで、2016年に発掘結果を発表して、天皇陵だから前方後円墳の形と考えられて、埋葬者が見つからず、2世紀中頃から後半頃の築造年代である。
崇神(すじん)天皇の息子の垂仁(すいにん)天皇陵は、最古の古墳で前方後円墳でもある纏向(まきむく)石塚古墳で、垂仁(すいにん)天皇39年12月10日(西暦191年1月上旬頃)に葬礼して、全長96メートルで、100%完全に正しくて、古墳時代の始まりが旧暦で確定して、僕が大方の西暦何月を特定して、歴史学者に西暦年月日を特定してもらう必要がある。
垂仁(すいにん)天皇の息子の景行(けいこう)天皇陵は、仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)か仲哀(ちゅうあい)天皇2年11月10日(西暦253年12月上旬頃)に葬礼した全長280メートルの箸墓(はしはか)古墳で、100%完全に正しくて、卑弥呼(ひみこ)の墓(はか)の説があるが、卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい;異母弟)の墓(はか)である。
箸墓(はしはか)古墳の埋葬者は、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)だが、倭姫命(やまとひめのみこと)が天皇不在の年10月22日(西暦251年11月下旬頃)に三重県伊勢市の磯(いそ)神社で殺害されて、倭姫命(やまとひめのみこと)の墓(はか)が宇治山田陵墓(うじやまだりょうぼ)と呼んで、宇治が三重県伊勢市宇治館町の伊勢神宮内宮を指して、三重県伊勢市の形が分からない古墳に葬礼した可能性が高い。
初代の崇神(すじん)天皇陵と息子の垂仁(すいにん)天皇陵と孫の倭姫命(やまとひめのみこと)の墓(はか)と景行(けいこう)天皇陵は、完全に正しい可能性を特定して、誰の反論も受け付けない考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)の史実・真実・事実で、超天才の僕の大偉業がどれほど凄(すさ)まじいか簡単に認識できない。

纏向(まきむく)遺跡は、全体の5%程度しか発掘されず、少なくとも普通の集落遺跡と一線を画(かく)して、民の暮らす竪穴住居がほとんど見つからず、高床式建物が立ち並んで、自然発生の集落でなく、人工的に作られた都市で、政治・宗教的な意味が強くて、水路を利用した計画的な都市遺跡である。
纏向大溝(まきむくおおみぞ)は、桜井市東田(ひがしだ)にある纏向(まきむく)遺跡の北構と南溝で、溝(みぞ)の長さが北構で約60メートル、南溝で約140メートル、灌漑(かんがい;外部から農地へ水を流すこと)や物資を運ぶ水路と考えられる。

纏向(まきむく)遺跡は、特殊器台埴輪(はにわ)が出土して、垂仁(すいにん)天皇陵に埴輪(はにわ)を使用して、纏向(まきむく)石塚古墳出土の最古の土師器(はじき)が歴史学(歴史書解釈)で最古の埴輪(はにわ)で、埴輪(はにわ)が岡山県の楯築(たてつき)遺跡群の特殊器台土器が起源だが、土師器(はじき)と埴輪(はにわ)を直接つなげてはならない。
参考文献『邪馬台国の考古学』は、纏向(まきむく)遺跡から3世紀中頃から後半の建物跡が出土して、伊勢神宮正殿の「神明造り」と出雲大社正殿の「大社造り」の中間形式で、建物の柱の間隔が魏王朝の尺寸と一致して、古代中国の魏王朝と外交して、邪馬台国(大和国;やまとこく)と出雲王国(物部(もののべ)氏)が外交した証拠である。

纏向(まきむく)遺跡の韓式系土器は、朝鮮半島の系統の土器で、2種類あって、片方が楽浪(らくろう)郡の系統で、楽浪(らくろう)郡が北朝鮮のピョンヤン付近と考えられて、古代中国の王朝と外交するから出土して当然である。
纏向(まきむく)遺跡から出土する遠くの外来系土器は、15から16%ほどだが、最大30%程度になる可能性もあって、福岡県と鹿児島県と静岡県と神奈川県と石川県と富山県などの土器が出土して、東北地方の宮城県と福島県と山形県まで統治下に置いて、東北地方の土器が出土しても不思議でない。
九州全土から東北地方南部の平定は、天皇家誕生(日本の建国)から出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊まで西暦年月を特定できて、纏向(まきむく)遺跡以前から日本各地で、交流があったのを考古学的証拠で証明して、纏向(まきむく)遺跡の時代も含めて、完全に僕が証明してしまった。
唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡の土器は、纏向(まきむく)1式が突然激減して、纏向(まきむく)遺跡で纏向(まきむく)1式が突然に始まって、纏向(まきむく)編年の土器区分が纏向(まきむく)遺跡の出現時期と重なると考えられる。

纏向(まきむく)遺跡は、1800年前の犬の骨が出土して、背中までの体高が48cmの中型犬で、骨が解体されず、儀式で供(そな)えられた可能性が高く、縄文時代が番犬や狩猟犬で、弥生時代に犬が食用の習慣が伝わって、中国か朝鮮半島から送られた犬種と考えられるが、遺伝子鑑定すると国産か外国産の犬種か分かるだろう。
纏向(まきむく)遺跡のチャバネゴキブリは、3世紀後半の土壌から背中の破片が見つかって、世界最古のチャバネゴキブリと見られて、アフリカ北東部が原産地でなく、アジア起源説を有利にする発見である。

纏向(まきむく)遺跡は、3世紀末から4世紀前半の鍛冶(かじ)遺跡が5ヶ所で見つかって、鍛冶(かじ)炉が見つかってないが、鉄器が出土して、弥生時代後期から近畿地方で鉄器が見つかって、2世紀末から3世紀前半に三輪山(みわやま)周辺で、銅鐸(どうたく)が大量に破壊されて、古代天皇家が何らかの儀式を行なった証拠である。
纏向(まきむく)遺跡は、ほとんど農具が見つからず、祭りや政治を中心とした景行(けいこう)天皇の皇居と考えられて、邪馬台国(大和国;やまとこく)の王都でもあって、誰も否定できない考古学的証拠である。

<参考文献>
『完訳秀真伝(下巻)』 編著者・鳥居礼 発行・八幡書店 『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『三輪山の考古学』
株式会社学生社・発行
『邪馬台国の候補地・纏向遺跡』
石野博信・著者 株式会社新泉社・発行
『邪馬台国の考古学』
石野博信・著者 株式会社吉川弘文館・発行
『別冊太陽 出雲 神々のふるさと』
湯原公浩・編集人 株式会社平凡社・発行
2009年11月11日の朝日新聞記事
2010年3月25日の朝日新聞記事
インターネットの不明サイトから少々拝借
https://www.youtube.com/watch?v=ikRZdpChMnU

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