纏向(まきむく)遺跡
現在の最古の皇居は、奈良県桜井市の脇本(わきもと)遺跡の大型建物跡が6世紀後半から7世紀の物で、欽明(きんめい)天皇の皇居である磯城島金刺宮(しきしまかなさしのみや)の可能性を認識して、欽明(きんめい)天皇元年7月14日(西暦540年8月中旬頃)に皇居を築造して、現代人(僕以外の人間)の認識力の限界で、誰も僕に勝てる人間など存在しない。
景行(けいこう)天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、新しい皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の纏向(まきむく)遺跡に入って、景行(けいこう)天皇58年(西暦248年)まで皇居として使われて、仁徳天皇元年(西暦334年)まで都(みやこ)として、その後に放棄されて、考古学的に合致した。
父親の垂仁(すいにん)天皇の皇居の纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)は、2年でできたのに対して、景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)が4年間で完成して、纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)よりも規模が大きいと考えられる。
奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡は、後世の皇居の藤原京や平城京にも勝(まさ)るとも劣(おとら)らない都市遺跡で、2世紀末の景行天皇4年(西暦194年)に出現して、4世紀前半頃の仁徳(にんとく)天皇元年(西暦334年)以降に突然に消滅した都市遺跡で、2世紀末から4世紀前半頃に消滅した考古学の時期と合致する。
纏向(まきむく)遺跡は、かつて1990年代に邪馬台国(大和国;やまとこく)の王都と騒がれた集落遺跡の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡より7から8倍近い規模の大きな遺跡で、卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい;異母弟)の王都で、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の重要な考古学的証拠である。
纏向(まきむく)遺跡を都市遺跡と表現する理由は、吉野ヶ里遺跡のように大勢の人間が暮らす村落のようなものでなく、政治的や宗教的などの目的のために人間が暮らさず、国政執行の都市の役割を重視するためで、防御する張り巡らせた堀(ほり)の環濠(かんごう)がなく、集落遺跡と表現できないためである。
纏向(まきむく)遺跡は、全体の5%程度しか発掘されず、少なくとも普通の集落遺跡と一線を画(かく)して、民の暮らす竪穴住居がほとんど見つからず、高床式建物が立ち並んで、自然発生の集落でなく、人工的に作られた都市で、政治・宗教的な意味が強い。
纏向大溝(まきむくおおみぞ)は、桜井市東田(ひがしだ)にある纏向(まきむく)遺跡の北構と南溝で、溝(みぞ)の長さが北構で約60メートル、南溝で約140メートル、灌漑(かんがい;外部から農地へ水を流すこと)や物資を運ぶ水路と考えられる。
纏向(まきむく)遺跡は、特殊器台埴輪(はにわ)が出土して、垂仁天皇陵に埴輪(はにわ)を使用して、埴輪(はにわ)が出土して当然で、岡山県の楯築(たてつき)遺跡群の特殊器台土器が起源である。
参考文献『邪馬台国の考古学』(著者・石野博信 発行・株式会社吉川弘文館)で、纏向(まきむく)遺跡から3世紀中頃から後半の建物跡が出土して、伊勢神宮正殿の「神明造り」と出雲大社正殿の「大社造り」の中間形式で、建物の柱の間隔が魏王朝の尺寸と一致して、古代中国の魏王朝と外交して、邪馬台国(大和国;やまとこく)と出雲王国(物部(もののべ)氏)が外交した証拠である。
纏向(まきむく)遺跡の韓式系土器は、朝鮮半島の系統の土器で、2種類あって、片方が楽浪(らくろう)郡の系統で、楽浪(らくろう)郡が北朝鮮のピョンヤン付近と考えられて、古代中国の王朝と外交するから出土して当然である。
纏向(まきむく)遺跡から出土する遠くの外来系土器は、福岡県と鹿児島県と静岡県と神奈川県と石川県と富山県などで、東北地方の宮城県と福島県と山形県まで統治下に置いて、東北地方の土器が出土しても不思議でない。
唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡の土器は、纏向(まきむく)1式が突然激減して、纏向(まきむく)遺跡で纏向(まきむく)1式が突然に始まって、纏向(まきむく)編年の土器区分が纏向(まきむく)遺跡の出現時期と重なると考えられる。
2010年9月17日に纏向(まきむく)遺跡は、桃の種(たね)が約2千個見つかって、祭られた物と考えられて、西暦156年の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)を神話化した黄泉国下(よみのくにくだ)り神話で、桃が『古事記』の意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)の神名で登場して、時期が合致する。
纏向(まきむく)遺跡は、大量の祭祀土坑群や国内最古の紅花(べにばな)の花粉などが出土して、皇居の祭りが盛大に行われた痕跡(こんせき)と考えられる。
纏向(まきむく)遺跡は、1800年前の犬の骨が出土して、背中までの体高が48cmの中型犬で、骨が解体されず、儀式で供(そな)えられた可能性が高く、縄文時代が番犬や狩猟犬で、弥生時代に犬が食用の習慣が伝わって、中国か朝鮮半島から送られた犬種と考えられるが、遺伝子鑑定すると国産か外国産の犬種か分かるだろう。
纏向(まきむく)遺跡のチャバネゴキブリは、3世紀後半の土壌から背中の破片が見つかって、世界最古のチャバネゴキブリと見られて、アフリカ北東部が原産地でなく、アジア起源説を有利にする発見である。
纏向(まきむく)遺跡は、3世紀末から4世紀前半の鍛冶(かじ)遺跡が5ヶ所で見つかって、鍛冶(かじ)炉が見つかってないが、鉄器が出土して、弥生時代後期から近畿地方で鉄器が見つかって、2世紀末から3世紀前半に三輪山(みわやま)周辺で、銅鐸(どうたく)が大量に破壊されて、古代天皇家が何らかの儀式を行なった証拠である。
纏向(まきむく)遺跡は、邪馬台国(大和国;やまとこく)の王都で、景行(けいこう)天皇の皇居でもあって、誰も否定できない考古学的証拠である。
<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『三輪山の考古学』
株式会社学生社・発行
『邪馬台国の候補地・纏向遺跡』
石野博信・著者 株式会社新泉社・発行
『邪馬台国の考古学』
石野博信・著者 株式会社吉川弘文館・発行
『別冊太陽 出雲 神々のふるさと』
湯原公浩・編集人 株式会社平凡社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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