纏向(まきむく)遺跡


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

纏向遺跡は2世紀末から4世紀前半にかけての都市遺跡で、奈良県桜井市の御神体山・三輪山(みわやま)のすぐ近くにある。
纏向遺跡を都市遺跡と表現したのは、弥生時代の農耕集落という感じでなく、政治的・宗教的な中枢(ちゅうすう)施設と言った方が良さそうな遺跡である。
『日本書紀』から景行天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に築造した景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)に当たり、神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)69年(西暦329年)まで都として機能したのでないかと考えられて、邪馬台国の王都の可能性が高い。
纏向遺跡はまだ全体の5パーセント程度しか発掘調査されておらず、天皇の住居なら政治中枢として有力豪族の住居もあると考えられるが、発掘調査の頻度から言って都市と表現しても納得のいく所である。

纏向遺跡は後世の皇居の藤原京や平城京にも勝(まさ)るとも劣(おとら)らない都市遺跡で、最古の皇居の纏向日代宮と考えられるから当然である。
纏向遺跡から愛媛県と香川県と徳島県と福岡県の土器が見つかり、これは魏王朝の下賜品を邪馬台国まで運ぶ運搬ルートに当たり、北九州と四国が天皇家の勢力下にあると考えられる。
纏向遺跡から鹿児島県の土器が見つかり、これは邪馬台国の敵対国の狗奴国(くぬこく)が統治下に入ったことを意味して、熊襲(くまそ)平定が景行天皇12年から19年(西暦202年から209年)か景行天皇57年12月(西暦248年1月頃)である。
纏向遺跡から静岡県と神奈川県と石川県と富山県の土器が見つかり、これは古代天皇家が東海・北陸地域を平定したためで、景行天皇60年(西暦250年)から仲哀天皇3年(西暦254年)までに統治下に入った。
纏向遺跡から鳥取県と島根県と山口県の土器が見つかり、これは古代天皇家が出雲王国を崩壊させて統治下に置いたためで、1世紀末から2世紀前半の出雲王国建国時か『日本書紀』から仲哀天皇9年神無月(西暦260年11月頃)以降のものと考えられる。
纏向遺跡から出土する日本各地の土器は、僕の著書『古代日本史への挑戦』に記載している年代で全て説明できて、古代天皇家が存在した有力な証拠だと考えられる。

纏向遺跡で3世紀中頃から後半の建物跡が見つかり、建築形式が伊勢神宮正殿の「神明造り」と出雲大社正殿の「大社造り」の中間形式で、柱の間の寸法が魏王朝の尺寸と一致するという。
魏王朝の尺寸と一致するのは邪馬台国が魏王朝から尺を与えられたからで、「大社造り」が共通するのが出雲と交流しているためで西暦260年代より後に建てられたと考えられる。
「神明造り」の祖形は滋賀県守山市の伊勢遺跡で確認されて、伊勢神宮の最終遷宮の西暦177年(垂仁(すいにん)天皇26年)に「神明造り」が存在したと証明した。
「大社造り」の祖形は田和山遺跡と妻木晩田遺跡で確認されて、出雲大社の創建時期の西暦270年頃と考えられる時期より古く、出雲との交流なしに成立すると考えにくい。
纏向遺跡が皇居の纏向日代宮に当たる可能性は今後の発掘調査でさらに高まって、邪馬台国の王都で中枢施設なのも間違いなく証明されるだろう。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『三輪山の考古学』
株式会社学生社・発行
『邪馬台国の候補地・纏向遺跡』
石野博信・著者 株式会社新泉社・発行
『邪馬台国の考古学』
石野博信・著者 株式会社吉川弘文館・発行
『別冊太陽 出雲 神々のふるさと』
湯原公浩・編集人 株式会社平凡社・発行
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