纏向石塚(まきむくいしづか)古墳


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

宮内庁指定の垂仁天皇陵は、奈良市の4世紀中頃の築造と考えられる227メートルの前方後円墳の宝来山(ほうらいやま)古墳で、正しい根拠など一切存在しない。
これは宮内庁指定陵に共通して言えるが、古墳時代以前の宮内庁指定陵が全て憶測や推測や予測にすぎなくて、僕のように論理的根拠を求められる専門家が存在しなくて、専門家をはるかに超えた超天才の僕を認めることで全てが始まる。
古代天皇家の歴史は、まだ始まりにも達していなくて、僕の歴史研究を認めることが本当の始まりとなる。

纏向石塚古墳は間違いなく最古の前方後円墳で、最も古く築造年代を考えると2世紀末になるが、現在の考古学会だと3世紀前半と考えているけれど間違いである。
纏向石塚古墳で纏向1から2式で、箸墓(はしはか)古墳が纏向3から4式の土器が出土して、後にいくほど新しくなって前方後円墳の大まかな築造時期を特定できる。
考古学で木材から年代を求める年輪年代法があり、纏向石塚古墳の周濠出土のヒノキの最外年輪が西暦177年で、それ以降が木材を伐採された年代でないかと考えられる。
木材が出土したのは周濠で、古墳の上でなく周りに掘られた堀からで、古墳の築造年代が木材より古い可能性がある。
『日本書紀』から垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月中旬頃)に垂仁天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)されて、48日間の喪祭りをした8月16日(西暦190年9月下旬頃)の夜にお墓へ埴輪(はにわ)を立てて、12月10日(西暦191年1月下旬頃)に葬礼されて、纏向石塚古墳が垂仁天皇陵に当たる可能性が高いと考えられる。
『ホツマツタエ』に垂仁天皇陵へ埴輪を立てた記述がある時、「埴輪」の章の記述からも分かる通り、纏向石塚古墳の最古の土師器(はじき)が最古の埴輪と考えられる。
纏向石塚古墳は纏向1から2式の古い土器と西暦177年以降に伐採のヒノキが出土して、垂仁天皇の葬礼が西暦190年末か191年正月頃でヒノキが西暦191年より古く、遺体が安置されてから古墳時代が始まったと考えられて、古墳時代の始まりが西暦190年か191年になる。
楯築遺跡の神石(亀石)の孤帯紋様と纏向石塚古墳から出土した孤文円板の孤帯紋様は時期的な問題から直接続くのが間違いなく正しい。

2020年12月12日午後1時頃にYahooで『笹山(ささやま)古墳、濃尾(のうび)平野で最古級か 西暦200年ごろ築造』の記事を見て、岐阜県揖斐郡(いびぐん)大野町の前方後円墳の笹山古墳が西暦200年頃の築造と証明して、それに先立って奈良県桜井市で垂仁天皇陵(纏向石塚古墳)を築造した可能性を強化する。
彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の神大根王(かみおおねのみこ)は、『日本書紀』景行(けいこう)天皇4年(西暦194年)の美濃国造(みのくにみやつこ;岐阜県南部の統治者)の神骨(かむほね)と同一人物で、西暦200年頃以前に岐阜県が大和の統治下にあった考古学的証拠があるはずで、笹山古墳の埋葬者が神大根王の可能性も十分に考えられる。
『古事記』で神大根王は、彦坐王の息子と景行天皇の皇子の大碓命(おおうすのみこと)が結婚した2人の娘の父親として2回登場して、美濃国造の神大根王と神骨の話がそっくりでなく、同一人物だからだが、大碓命が実在しないと考えられて、神大根王と神骨の実在を否定するものでなく、神大根王が西暦140年から190年代ほどまで実在したと考えられる。
岐阜県から近畿地方北中部や出雲まで全て天皇家の統治下にあって、西暦200年頃の築造の前方後円墳が出雲から出土しても何の不思議もなく、考古学会の重要な課題である。

滋賀県東近江市にある最古級の前方後方墳の神郷亀塚(じんごうかめづか)古墳は、弥生時代後期の土器が出土して、西暦220年頃に築造した古墳と考えられるが、垂仁天皇陵の纏向石塚古墳が西暦191年頃の築造とすると、2世紀末から3世紀初頭に築造された可能性も出てくる。
神郷亀塚古墳の埋葬者は、皇族か有力豪族か『ホツマツタエ』と『日本書紀』の記述に頼っても分からず、纏向石塚古墳に次ぐほど古い古墳だと考えられる。

愛知県一宮市にある最古級の前方後方墳の西上免(にしじょうめん)古墳は、神郷亀塚古墳と同時期の前方後方墳で、今でこそ墳丘が破壊されているが、弥生時代後期のパレススタイル土器やS字型口縁台付甕などが出土して、2世紀末から3世紀初頭に築造された可能性も出てくる。
神郷亀塚古墳と西上免古墳などの最古級の前方後方墳は、最古の前方後円墳の纏向石塚古墳(垂仁天皇陵)以降に前方後方墳の形状が考えられて、築造した可能性が高いと考えられる。

出雲で3世紀前半頃に築造した古墳前方後円墳は発見されても不思議でなく、出雲王家(物部(もののべ)氏)が統治した時代だからである。
垂仁天皇陵が纏向石塚古墳…最古の前方後円墳だとしたら、天皇陵にふさわしい特殊形状の墓(はか)の登場で、考古学的証拠が年代を有力なものとして示唆するが、考古学者たちは賛同しない可能性が高いと考えられる。
垂仁天皇陵(纏向石塚古墳)は、西暦190年末か191年正月頃に築造されて、前方後円墳の誕生が古墳時代の始まりと考えられる。

<参考文献>
『大和・飛鳥考古学散歩<第2版>』
伊達宗泰・著者 株式会社学生社・発行
『邪馬台国の考古学』
石野博信・著者 株式会社吉川弘文館・発行
『ホツマ辞典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行
『三輪山の考古学』
株式会社学生社・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
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