纏向石塚(まきむくいしづか)古墳

宮内庁指定の垂仁(すいにん)天皇陵は、奈良市の4世紀中頃の築造と考えられる227メートルの前方後円墳の宝来山(ほうらいやま)古墳だが、正しい根拠など一切ない。

垂仁(すいにん)天皇39年7月1日に垂仁(すいにん)天皇は、78才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、皇太子の景行(けいこう)天皇が喪(も)に服した。
48日間の喪(も)祭り後の8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜は、墓(はか)に埴輪(はにわ)を立てて、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に亡骸(なきがら)を菅原伏見(すがわらふしみ)に葬礼して、夜半に松明(たいまつ)で照らされて、厳(おごそ)かに神霊が成仏(じょうぶつ)した。

孝霊(こうれい)天皇76年2月8日に孝霊(こうれい)天皇(垂仁(すいにん)天皇を祖先化)は、崩御(ほうぎょ)して、孝元(こうげん)天皇(景行(けいこう)天皇を祖先化)が喪(も)に服して、48日間の喪(も)祭りをして、終わって喪(も)を脱(ぬ)がれた。
後に臣(おみ)は、ご霊前にとどめ置いて、6年間を生前のように御饗(みあえ)を供じて、敬意を表して、孝元(こうげん)天皇も臣(おみ)も父の孝霊(こうれい)天皇にきわめて誠実に尽くして仕(つか)えた。

垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇は、崩御(ほうぎょ)して、皇太子の景行(けいこう)天皇が喪(も)に服して、48日間の喪(も)祭り後の8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜に喪(も)を脱(ぬ)いで、墓(はか)に埴輪(はにわ)を立てた。
12月10日(西暦191年1月上旬頃)に亡骸(なきがら)は、纏向(まきむく)石塚古墳に葬礼して、夜半に松明(たいまつ)で照らされて、厳(おごそ)かに神霊が成仏(じょうぶつ)して、後に家臣が垂仁(すいにん)天皇のご霊前にとどめ置いて、6年間を生前のように御饗(みあえ)を供じて敬意を表して、景行(けいこう)天皇も家臣も父の垂仁(すいにん)天皇にきわめて誠実に尽くして仕(つか)えた。

『ホツマツタエ』と『日本書紀』の合致した垂仁(すいにん)天皇陵の名称は、菅原伏見陵(すがわらふしみのみささぎ)で、考古学の陵墓名が纏向(まきむく)石塚古墳で、後世に呼ぶと考えられる。

垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳は、埋葬者が見つからず、最古の埴輪(はにわ)である最古の土師器(はじき)が出土して、埴輪(はにわ)が土師器(はじき)の一種で、特殊器台埴輪(はにわ)が出土しないと考えられる。
崇神(すじん)天皇29年1月1日(西暦112年2月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇は生まれて、78才で亡くなって、『ホツマツタエ』の48日間の喪(も)祭りが四十八日(しじゅうはちにち)と考えられて、今の四十九日(しじゅうくにち)になった理由が不昧で、数え年ならぬ数え日の加算などが考えられる。
纏向(まきむく)石塚古墳は、垂仁(すいにん)天皇陵で、垂仁(すいにん)天皇の葬礼日を西暦年月に正しく直すと、西暦190年年末か191年年始頃で、大晦日(おおみそか)か元旦(がんたん)の可能性もあって、古墳時代の始まりを歴史学者が正しく西暦年月日を求める必要がある。
垂仁(すいにん)天皇陵の遣漢使(けんかんし)の記述は、中国製の銅鏡などが出土する可能性もあって、宮内庁指定陵の指定を進言する。
出雲の古墳は、3世紀前半に前方後円墳が発見されても不思議でなく、崇神天皇陵も前方後円墳の形と考えられるためである。
しかし垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)は亡くなって、西暦183年後半から184年前半に陵墓に葬礼して、垂仁(すいにん)天皇39年8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜に垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳に埴輪(はにわ)を立てて、6年ほどの違いを考古学的に証明できないだろう。

纏向(まきむく)石塚古墳の周濠(しゅうごう)から出土したヒノキ材は、年輪年代法で最外年輪が西暦177年と求められて、2世紀末の築造年代の予測も可能で、天皇陵だから前方後円墳の特殊形状にも説明が付く。
ネット検索で岡山県倉敷市の楯築(たてつき)墳丘墓は、大正初期まであった楯築(たてつき)神社に御神体として神石(亀石)が安置されて、現在その神石が楯築(たてつき)遺跡近くの収蔵庫に祭られて、その神石全体に孤帯紋様が刻まれると言う。
纏向(まきむく)石塚古墳から出土した孤文円板に刻まれる孤帯紋様は、楯築(たてつき)墳丘墓の神石の孤帯紋様から直接続いて、吉備(きび)を平定した楯築(たてつき)遺跡から纏向(まきむく)石塚古墳に直接続くのが正しい。
2022年11月18日に知った徳島県阿南(あなん)市の国史跡の若杉山辰砂(わかすぎやましんしゃ)採掘遺跡は、弥生時代後期から古墳時代前期の遺跡で、古墳の埋葬施設に使う塗料の水銀朱を作って、吉備(きび;岡山県と広島県東部)王国の楯築(たてつき)墳丘墓の埋葬施設に使って、纏向(まきむく)石塚古墳にも使って、ホケノ山古墳にも使ったと考えられる。

垂仁天皇陵は、纏向(まきむく)石塚古墳で、考古学的価値があまりに測(はか)り知れず、非常に重要である。

<参考文献>
『大和・飛鳥考古学散歩<第2版>』
伊達宗泰・著者 株式会社学生社・発行
『邪馬台国の考古学』
石野博信・著者 株式会社吉川弘文館・発行
『ホツマ辞典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行
『三輪山の考古学』
株式会社学生社・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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