桃太郎の正体


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

吉備津彦(きびつひこ)に殺された古代天皇家に抵抗した吉備(古代の岡山県と広島県東部)の人物の温羅(うら;「おんら」とも言う)は、日本各地におとぎ話の桃太郎の伝承がある中で、吉備津彦が最も桃太郎のモデルとして正確な伝承と考えられて、吉備津彦が桃太郎で温羅が鬼とされて、吉備平定の伝承に正しいことと間違いがあって、それを証明できるのが僕だけである。
温羅は古代天皇家の敵対国の吉備国王と考えるべきで、実在年代が西暦150年頃から181年までだと考えられて、古代天皇家の史実を証明できるアインシュタイン博士以上の天才の僕がはじき出したものでおそらく正しい。

吉備平定の正確な歴史は『ホツマツタエ』に記されていて、垂仁(すいにん)天皇を祖先化した孝霊(こうれい)天皇時代の出来事とされる。
孝霊天皇3年に倭国香媛(やまとくにかひめ)が倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)を生んで、孝霊天皇11年に蠅姫(はえひめ)が兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと)と彦狭島命(ひこさしまのみこと)と弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)の男ばかりの三つ子を生んで、兄稚武彦の子孫が吉備津彦とするが、正しく求めると兄稚武彦命に祖先化した人物こそ吉備津彦だと考えられる。
『日本書紀』で吉備津彦とする彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)は、倭五狭芹彦命と同一人物で吉備津彦とするのが後世の誤伝承である。
孝霊天皇53年に西の国々が争いを始めて、沈(ち)の口(くち;山陰道の入り口)と播磨(はりま;兵庫県西南部)と斐伊川(ひいかわ;島根県を流れる川)に忌部主(いんべぬし)を総大将で、倭五狭芹彦命を副将に派遣して、また兄稚武彦命を吉備上路(きびかんぢ;岡山県東部)に、弟稚武彦命を吉備下路(きびしもぢ;岡山県西部)に派遣して、争いのわけを聞いて天皇の教えを説(と)いた。
これこそが吉備平定の史実と考えられて、この地域に派遣した人物が誰を祖先化したのか求められると解決である。
垂仁天皇33年に垂仁天皇が山城不遅(やましろふち)の娘の苅幡戸辺(かりはたとべ)と結婚して、祖別命(みおやわけのみこと)と五十足彦命(いしたりひこのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)の男ばかりの兄弟を生んだと記されて、この妃と3人の皇子の記述が他に見当たらないようで、この年代に結婚したかも生まれたかもあやしい。
つまり岡山県東部を平定した兄稚武彦命として祖先化したのが祖別命で、広島県東部を平定した弟稚武彦命として祖先化したのが胆武別命で、祖別命こそ吉備津彦で古代豪族の吉備氏の始祖だと考えられる。
祖別命は垂仁天皇30年(西暦181年)に後漢王朝へ派遣された使者の田道間守(たじまもり)と同一人物と考えられて、西暦181年以前に吉備が平定されたはずで、祖別命が垂仁天皇の皇子として生まれた時期や年齢が分からず、吉備の平定が西暦170年頃よりさかのぼる可能性もあって、僕個人が西暦170年頃から西暦181年までとしている。

温羅は鬼神や吉備冠者(きびのかんじゃ)の異称で記されて、渡来人だとするが正しい確証などなく、先祖代々の吉備国王の家系で最後の吉備国王だと考えられて、岡山県の統治者で広島県東部まで統治したか分からず、祖別命の討伐した岡山県東部と胆武別命の討伐した広島県東部が一致しないと考えられる。
温羅は渡来人で空を飛んで大男で怪力無双の大酒飲みなどの伝承があって、妻の阿曽姫(あそひめ)が阿曽郷(総社市奥坂)の祝(はふり)の娘とされて、弟に王丹(おに)という人物がいたと言う。
温羅は伝承によると吉備の外から飛来して吉備に至って、製鉄技術を吉備にもたらして岡山県総社市の古代の山城の鬼ノ城(きのじょう)を拠点にしたとするが、鬼ノ城が築城年代不明だが考古学的に見て7世紀後半に築かれたと考えられて、温羅の実在年代が2世紀後半で後世に遺跡として知られた鬼ノ城を本拠地とした伝承が生まれたと考えられて、温羅の拠点とした場所が不明となる。
温羅の討伐の時に祖別命は岡山市の吉備津神社を本陣として、温羅に一本ずつ矢を射て矢が岩に飲み込まれて、そこで祖別命が2本同時に射て温羅の左眼を射抜き、すると温羅は雉(きじ)に化けて逃げて、祖別命が鷹(たか)に化けて追って、さらに温羅が鯉(こい)に変身して逃げて、祖別命が鵜(う)に変化してついに温羅を捕らえて討ったと言う。
討たれた温羅の首はさらし首にされて、討たれても首に生気があって、時折目を見開いてはうなり声を上げて、気味悪く思った人々が祖別命に相談して、祖別命は犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)に命じて犬に首を食べさせて骨としたが鎮(しず)まらなかった。
次に祖別命は吉備津神社の御釜殿(おかまでん)の竈(かまど)の地中深くに骨を埋めたが、13年間うなり声は止まらずに周辺に鳴り響いて、ある日に祖別命の夢の中に温羅が現れて、温羅の妻の阿曽媛に御釜殿の神饌(しんせん;神社や神棚の供(そな)え物)を炊(た)くように告げて、このことを人々に伝えて神事を執り行なってうなり声が鎮まって、その後で温羅が吉凶を占う存在となった。

温羅討伐に出てくる祖別命の家臣は犬飼武命と楽々森彦命(ささもりひこのみこと)と留玉彦命(とめたまのみこと)で、それぞれ桃太郎の犬と猿と雉のモデルとされる。
犬飼武命は祖別命の忠実な家臣で、後世の政治家の犬養毅(いぬかいつよし)がその子孫とされる。
楽々森彦命は当地出身の智将でその出自が県主(あがたぬし)として、娘の高田姫命(たかだひめのみこと)が吉備津彦に嫁(とつ)いだとされて、祖別命の妻と考えるべきだろう。
留玉彦命は別の漢字で遣霊彦命とも書いて、鳥飼(とりかい)にすぐれた家臣だったと言う。
犬飼武命は犬を飼いならして、留玉彦命が鳥を飼いならしていたと伝えられて、桃太郎の犬と雉のモデルがしっかりして史実の可能性が高くて、桃太郎伝説が岡山県で間違いない。

岡山県で楯築墳丘墓群(2世紀後半から3世紀前半と推定する)の特殊器台土器が出土して、吉備王国の王墓など王族の墓に立てられたと考えられて、それが大和に伝わって最古の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳(垂仁天皇陵)で最古の土師器(はじき)を最古の埴輪(はにわ)として殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)者の代替物として立てて、箸墓(はしはか)古墳(景行天皇陵)で最古の特殊器台埴輪が出土した。
楯築墳丘墓群は2世紀後半から3世紀前半と推定するが、これが一部の考古学者の見解でその時期があいまいになって、吉備が平定された2世紀中頃が楯築墳丘墓群の築造年代に十分収まって問題ない。
岡山県で王墓らに殉死者の代替物に特殊器台土器を採用して、西暦179年に垂仁天皇の異母兄の倭彦命(やまとひこのみこと)陵で殉死者を禁止して、西暦182年に日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵で殉死者の代替物の埴輪が採用されて、歴史的背景は吉備平定と埴輪の登場が年代的に間違いなく合致する。
吉備と大和の年代的に合致する考古学的証拠は僕の知識不足であまりにとぼしいが、考古学者の協力が得られるなら幾らでも求めることができる。

桃太郎の伝承は日本各地にあるが、邪馬台国時代の吉備王国平定が最古の桃太郎伝説なのが間違いなく、桃太郎のモデルが岡山県だけに断定できるものでもないが、吉備国王の温羅討伐が垂仁天皇の皇子の祖別命に討伐された実在の人物だと考えられる。

<参考文献>
参考文献『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』
株式会社洋泉社・発行
インターネット

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