桃太郎の正体

吉備津彦(きびつひこ)に殺された吉備(きび;岡山県と広島県東部)国王の温羅(うら;おんら)は、日本各地におとぎ話の桃太郎伝説がある中で、吉備津(きびつ)神社の天正11年(1583年)成立の『備中吉備津宮勧進帳』が最古の記録で、それ以前の吉備(きび)の平定が『ホツマツタエ』に記して、「記紀」に記さず、祖先化などの偽装工作をひもとく僕だけが史実(歴史上の事実)と解明した。
鬼の温羅(うら)の名前は、『備中吉備津宮勧進帳』が初見で、『ホツマツタエ』が敵の名前を記さず、温羅(うら)の実在年代の西暦180年が死去年で、岡山県倉敷市の楯築(たてつき)墳丘墓(ふんきゅうぼ)に葬礼したと考えられる。

垂仁(すいにん)天皇7年7月1日(西暦158年8月上旬頃)に彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)は、諱(いみな)が菰積(こもつみ)で、その子供が筒木垂根王(つつきたるねのみこ)で、その娘の樺井月姫(かばいつきひめ)を皇后で、妹の迦具夜姫(かぐやひめ)を妾(めかけ)にして、皇后が決まって5日(8月上旬頃)にそのお祝いをして、7日(8月上旬頃)の皇后選定後に初めての棚機(たなばた)の祭礼をした。

彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)は、彦坐王(ひこいますのみこ)と同一人物で、大筒木垂根王(おおつつきたるねのみこ)が山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)で、娘が樺井月姫(かばいつきひめ)と迦具夜姫(かぐやひめ)で、樺井月姫(かばいつきひめ)と迦具夜姫(かぐやひめ)が同母姉妹か異母姉妹である。
樺井月姫(かばいつきひめ)は、『ホツマツタエ』に登場する皇后で、「記紀」で偽装工作して抹消されて、おとぎ話のかぐや姫が垂仁(すいにん)天皇と結婚した妾(めかけ)の迦具夜姫(かぐやひめ)から人名を取って、かぐや姫が結婚しなくて、迦具夜姫(かぐやひめ)と無関係である。 棚機(たなばた)の祭礼は、『ホツマツタエ』の日本古来の祭りで、蚕(かいこ)と機織(はたお)りを祭って、現在の七夕(たなばた)が中国の西王母(せいおうぼ)信仰に由来して、棚機(たなばた)から七夕(たなばた)に変化したと考えられる。

孝霊(こうれい)天皇13年12月1日は、姫(はえひめ;迦具夜姫(かぐやひめ)を祖先化)が兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)と彦狭島命(ひこさしまのみこと;五十足彦命(いしたりひこのみこと)を祖先化)と弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと;胆武別命(いたけわけのみこと)を祖先化)の3つ子を生んで、母の姫(はえはめ)を尊(とうと)んで、稚大宮女(わかおおみやめ)と讃(たた)えた。
は、「糸へん」に亙の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
垂仁(すいにん)天皇33年に垂仁(すいにん)天皇と山城不遅(やましろふち)の娘の苅幡戸辺(かりはたとべ)は、祖別命(みおやわけのみこと)と五十足彦命(いしたりひこのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)の3人兄弟を生んで、垂仁(すいにん)天皇30年(西暦181年)に祖別命(みおやわけのみこと)が後漢王朝の使者の田道間守(たじまもり)になって、年代矛盾が起こる。
祖別命(みおやわけのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)生まれで、15才で垂仁(すいにん)29年(西暦180年)に吉備(きび)を平定して、翌年の垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)に初めて古代中国の後漢王朝の使者(遣漢使;けんかんし:遣隋使や遣唐使に倣(なら)って僕が命名)になって、景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に帰国して亡くなった。

垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)に迦具夜姫(かぐやひめ)は、祖別命(みおやわけのみこと)と五十足彦命(いしたりひこのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)の3つ子を生んで、母の迦具夜姫(かぐやひめ)を尊敬して、稚大宮女(わかおおみやめ)と讃(たた)えた。
おとぎ話のかぐや姫と迦具夜姫(かぐやひめ)は別人で、長男の祖別命(みおやわけのみこと)が桃太郎のモデルで、かぐや姫と桃太郎につながりがある。
樺井月姫(かばいつきひめ)と迦具夜姫(かぐやひめ)の姉妹は、3つ子を生んだのを2022年11月25日に『ホツマツタエ』の祖先化した系図を求めて、初めて気付いた。

長男の祖別命(みおやわけのみこと)と三男の胆武別命(いたけわけのみこと)は、吉備(きび;岡山県と広島県東部)平定の武将で、この2兄弟の子孫が混血して、武家の古代豪族の吉備(きび)氏になった。
岡山県東部を平定した兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと)は、祖別命(みおやわけのみこと)で、岡山県西部を平定した弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)が胆武別命(いたけわけのみこと)を祖先化して、祖(みおや)が先祖の意味で、吉備(きび)氏の先祖である。
『ホツマツタエ』の倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)は、『日本書紀』の彦五十狭芹彦命(ひこいそさせりひこのみこと)と同一人名で、吉備津彦(きびつひこ)の祖別命(みおやわけのみこと)と共に『ホツマツタエ』に登場して、同一人物と勘違いしたと考えられる。

『ホツマツタエ』孝霊(こうれい)天皇53年(アスス暦480年)は、垂仁(すいにん)29年(西暦180年)が正しくて、西の国々が争いを始めて、沈(ち)の口(くち;山陰道の入り口)と播磨(はりま;兵庫県西南部)と斐伊川(ひいかわ;島根県を流れる川)に忌部主(いんべぬし)を総大将で、倭五狭芹彦命(やまといさせりひこのみこと)を副将に派遣した。
また兄稚武彦命(えわかたけひこのみこと)を吉備上路(きびかんぢ;岡山県東部)に、弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)を吉備下路(きびしもぢ;岡山県西部)に派遣して、争いのわけを聞いて、天皇の教えを説(と)いて従わせて、これが吉備(きび;岡山県と広島県東部)の平定で、吉備下路(きびしもぢ)が広島県東部かもしれない。
福井県敦賀(つるが)市の去来紗別宮(いささわけのみや;気比(けひ)神宮)は、彦狭島命(ひこさしまのみこと)を派遣して、越国(こしのくに;北陸)を平定して、完全な事実だが、西暦250年代の出来事である。

『ホツマツタエ』の吉備(きび)の平定は、垂仁(すいにん)天皇を祖先化した孝霊(こうれい)天皇53年(アスス暦480年)で、480年が西暦年の180年と合致して、ヨーロッパで6世紀前半の西暦525年に西暦年ができて、『ホツマツタエ』が西暦年を採用して、6世紀から7世紀に成立した日本最古の書物と僕が証明して、8世紀前半に献上した『日本書紀』と『古事記』より古い書物と証明した。

岡山県東部は、長男の祖別命(みおやわけのみこと)で、岡山県西部が三男の胆武別命(いたけわけのみこと)が平定して、岡山県西部でなく、広島県東部かもしれなくて、祖別命(みおやわけのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)の兄弟が平定時に15才で、吉備(きび)国王の温羅(うら)を殺した。
崇神(すじん)天皇の息子である豊城彦命(とよきひこのみこと)の孫の彦狭島命(ひこさしまのみこと)は、西暦250年代に北陸の平定将軍の武虎別皇子(たけこわけのみこ)に従軍した武将で、景行(けいこう)天皇55年でなく、仲哀(ちゅうあい)天皇4年(255年)に東山道十五国の都督(かみ)を命じられたが、亡くなった彦狭島王(ひこさしまのみこ)と同一人物である。

孝昭(こうしょう)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)と押媛(おしひめ;御井津比売(みいつひめ)を祖先化)は、吉備(きび)平定の総大将で、息子の大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと;豊城彦命(とよきひこのみこと)を祖先化)を崇神(すじん)天皇26年11月1日(西暦109年12月上旬頃)に生んで、180年に70才頃で、総大将として若い2皇子の武将を補佐した。
つまり吉備(きび)の平定は、初代・崇神(すじん)天皇の息子の豊城彦命(とよきひこのみこと)が総大将で、配下の3つ子の2皇子が若い武将の祖別命(みおやわけのみこと)と胆武別命(いたけわけのみこと)となる。

『備中吉備津宮勧進帳』温羅(うら)は、鬼神や吉備冠者(きびのかんじゃ)の異称があって、渡来人とするが確証がなく、先祖代々の吉備(きび)国王の家系で、最後の吉備(きび)国王だと考えられて、岡山県の統治者で、広島県東部まで統治したか分からず、祖別命(みおやわけのみこと)の討伐した岡山県東部と胆武別命(いたけわけのみこと)の討伐した広島県東部が一致しないと考えられる。
温羅(うら)は、渡来人で空を飛んだ大男で、怪力無双の大酒飲みなどの伝承があって、妻の阿曽姫(あそひめ)が阿曽郷(あそごう;総社市奥坂)の祝(はふり)の娘で、弟に王丹(おに)と言う人物がいた。
伝承の温羅(うら)は、吉備(きび)の外から飛来して、吉備(きび)に至って、製鉄技術を吉備(きび)にもたらして、岡山県総社市の古代の山城の鬼ノ城(きのじょう)を拠点にしたが、確たる証拠がない。
鬼ノ城(きのじょう)は、築城年代不明だが、考古学的に見て、7世紀後半に築かれて、温羅(うら)の実在年代が2世紀後半で、後世の遺跡で知られた鬼ノ城(きのじょう)を本拠地とした伝承が生まれて、温羅(うら)の本拠地が不明と考えられる。

温羅(うら)の討伐の時に祖別命(みおやわけのみこと)は、岡山市の吉備津(きびつ)神社を本陣で、温羅(うら)に一本ずつ矢を射て、矢が岩に飲み込まれて、そこで祖別命(みおやわけのみこと)が2本同時に射て、温羅(うら)の左眼を射抜いた。
すると温羅(うら)は、雉(きじ)に化けて逃げて、祖別命(みおやわけのみこと)が鷹(たか)に化けて追って、さらに温羅(うら)が鯉(こい)に変身して逃げて、祖別命(みおやわけのみこと)が鵜(う)に変化して、ついに温羅(うら)を捕らえて、討伐したと言う。
討たれた温羅(うら)の首は、さらし首にされて、討たれても首に生気があって、時折目を見開いてはうなり声を上げて、気味悪く思った人々が祖別命(みおやわけのみこと)に相談して、祖別命(みおやわけのみこと)が犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)に命じて、犬に首を食べさせて骨としたが、鎮(しず)まらなかった。
次に祖別命(みおやわけのみこと)は、吉備津(きびつ)神社の御釜殿(おかまでん)の竈(かまど)の地中深くに骨を埋めたが、13年間うなり声が止まらず、周辺に鳴り響いた。
ある日に祖別命(みおやわけのみこと)の夢の中に温羅(うら)が現れて、温羅(うら)の妻の阿曽媛(あそひめ)に御釜殿(おかまでん)の神饌(しんせん;神社や神棚の供(そな)え物)を炊(た)くように告(つ)げて、このことを人々に伝えて神事を執り行なって、うなり声が鎮まって、その後で温羅(うら)が吉凶を占う存在となった。

温羅(うら)討伐の祖別命(みおやわけのみこと)の家臣は、犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)と楽々森彦命(ささもりひこのみこと)と留玉彦命(とめたまのみこと)で、それぞれ桃太郎の犬と猿と雉(きじ)のモデルである。
犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)は、祖別命(みおやわけのみこと)の忠実な家臣で、後世の政治家の犬養毅(いぬかいつよし)がその子孫とされる。
楽々森彦命(ささもりひこのみこと)は、当地出身の智将で、その出自が県主(あがたぬし)として、娘の高田姫命(たかだひめのみこと)が吉備津彦(みおやわけのみこと)に嫁(とつ)いで、祖別命(みおやわけのみこと)の妻である。
祖別命(みおやわけのみこと)の妻の花橘(はなたちばな)は、妹の弟橘姫(おとたちばなひめ)を生んで、兄の吉備武彦(きびたけひこ)の母が不明で、花橘(はなたちばな)か高田姫命(たかだひめのみこと)が母か不明で、資料が少なすぎる。
留玉彦命(とめたまのみこと)は、別の漢字で遣霊彦命(とめたまのみこと)とも書いて、鳥飼(とりかい)に優(すぐ)れた家臣だったと言う。
犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)は、犬を飼いならして、楽々森彦命(ささもりひこのみこと)が猿と関係なくて、留玉彦命(とめたまのみこと)が鳥を飼いならしたと伝えられて、桃太郎の犬と雉(きじ)のモデルがしっかりした史実(歴史上の事実)で、桃太郎伝説が岡山県で間違いない。

日本最古のおとぎ話は、国内で2番目に古い鬼退治の桃太郎で、垂仁(すいにん)29年(西暦180年)の吉備(きび)国王の温羅(おんら;うら)討伐がモデルで、祖別命(みおやわけのみこと)の配下の武将がお供(とも)の犬と猿と雉(きじ)になって、最も桃太郎の原形に近い伝承で、完全な史実(歴史上の事実)である。
日本最古の鬼退治は、崇神(すじん)天皇11年(西暦94年)の丹波(たには;京都府北中部)の平定で、国内で2番目に古い鬼退治が桃太郎で、垂仁(すいにん)29年(西暦180年)の吉備(きび;岡山県と広島県東部)の平定で、それ以上に古い鬼退治を求められない。

岡山県倉敷市の楯築(たてつき)墳丘墓(ふんきゅうぼ;2世紀後半から3世紀前半と推定する)は、国王の温羅(うら)の墓(はか)と考えられて、特殊器台土器が出土して、箸墓(はしはか)古墳(景行(けいこう)天皇陵)で、考古学上で最古の埴輪(はにわ)の特殊器台埴輪(はにわ)が出土して、特殊器台土器から続いて、特殊器台埴輪(はにわ)になったと考えられる。
垂仁(すいにん)天皇28年11月2日(12月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇の異母兄の倭彦命(やまとひこのみこと)陵は、殉死者(じゅんししゃ;主人を葬った後に従者を生き埋めにすること)を禁止して、垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなって、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵で殉死者(じゅんししゃ)の代替物の埴輪(はにわ)が初めて採用された。
埴輪(はにわ)は、日本特有の古墳時代の素焼き土器で、弥生土器の流れを組(く)む古墳時代頃の素焼き土器の土師器(はじき)に分類して、従者を生き埋めにした悪習の殉死(じゅんし)を垂仁(すいにん)天皇が廃止して、殉死者(じゅんししゃ)の代わりに古墳に立てた土器である。
しかし垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)は亡くなって、西暦183年後半から184年前半頃に陵墓に葬礼して、垂仁(すいにん)天皇39年8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜に垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳に埴輪(はにわ)を立てて、6年ほどの違いを考古学的に証明できないだろう。
考古学的に見て埴輪(はにわ)の起源は、岡山県倉敷市の楯築(たてつき)墳丘墓(ふんきゅうぼ)から出土した特殊器台土器が全て破壊されて、古代大和朝廷の反感を買って、特殊器台土器が全て破壊されたと考えられる。

ネット検索で岡山県倉敷市の楯築(たてつき)墳丘墓(ふんきゅうぼ)は、大正初期まであった楯築(たてつき)神社に御神体として、神石(亀石)が安置されて、現在その神石が楯築(たてつき)墳丘墓(ふんきゅうぼ)近くの収蔵庫に祭られて、その神石全体に孤帯紋様が刻まれると言う。
纏向(まきむく)石塚古墳から出土した孤文円板に刻まれる孤帯紋様は、楯築(たてつき)墳丘墓(ふんきゅうぼ)の神石の孤帯紋様から直接続いて、吉備(きび)を平定した楯築(たてつき)墳丘墓(ふんきゅうぼ)から纏向(まきむく)石塚古墳に直接続くのが正しい。
2022年11月18日に知った徳島県阿南(あなん)市の国史跡の若杉山辰砂(わかすぎやましんしゃ)採掘遺跡は、弥生時代後期から古墳時代前期の遺跡で、古墳の埋葬施設に使う塗料の水銀朱を作って、吉備(きび;岡山県と広島県東部)王国の楯築(たてつき)墳丘墓(ふんきゅうぼ)の埋葬施設に使って、纏向(まきむく)石塚古墳にも使って、ホケノ山古墳にも使ったと考えられる。
温羅(うら)の墓(はか)は、2世紀後半の岡山県倉敷市の楯築(たてつき)墳丘墓(ふんきゅうぼ)で、徳島県阿南(あなん)市の若杉山辰砂(しんしゃ)採掘遺跡(弥生時代後期から古墳時代初頭)の水銀朱を使って、水銀朱が赤色の塗料で、赤い日の丸と太陽神を連想させる日本最古の考古学的証拠と考えられる。

桃太郎の伝承は、日本各地にあるが、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の吉備(きび)王国平定が最古の桃太郎伝説で、桃太郎が武将の祖別命(みおやわけのみこと)で、鬼が吉備(きび)国王の温羅(うら)で間違いなくて、2024年9月21日の午前9時頃に修正した。

<参考文献>
参考文献『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』
株式会社洋泉社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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