物部(もののべ)氏の系図


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

現在の物部氏系図は、出雲王国(物部氏)の系図を再現できないように滅茶苦茶に伝承して、『ホツマツタエ』の物部氏系図が正しい系図で、それらを基に僕が再元した物部氏系図を比較すれば答えが出る。
現在の物部氏系図は、物部胆咋(もののべのいくい)の直系子孫である物部氏宗家の物部守屋(もののべのもりや)までの系図が全て正しいか不明で、『ホツマツタエ』や「記紀」なども出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏と物部氏の出身の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね;「たけうちのすくね」とも言う)から先祖代々に渡って、武内宿禰を襲名する竹内(たけうち)氏がどうつながるか分からないようにした。
『ホツマツタエ』の歴代オオモノヌシ(大物主神;おおものぬしのかみ)は、歴代の出雲国王を神格化したと考えられる。
『ホツマツタエ』や「記紀」は、古代天皇家(邪馬台国;やまとこく:大和国)の歴史を隠すために徹底的に偽装工作をほどこしたが、アインシュタイン博士以上の超天才の僕をだませず、僕が完全に正しい系譜を再現して、その説明をしていこうと思う。

『ホツマツタエ』はイツモシコとイツシココロが親子で、現在の物部氏系図が出雲醜大臣命(いずもしこおおおみのみこと)と出石心大臣命(いずしこころおおおみのみこと)を兄弟に変更して、イツモシコ(出雲醜大臣命)が最後の出雲国王の飯入根(いいいりね)を祖先化した。
イツシココロ(出石心大臣命)は、飯入根の息子の濡渟(うかずくぬ)でなく、飯入根の直系先祖で物部氏の始祖の彦坐王(ひこいますのみこ)を当てはめて、彦坐王が初代出雲国王で、初代オオモノヌシに神格化した。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。

イツシココロの長男オオミナクチと次男オオヤクチは、現在の物部氏系図で大矢口宿禰(おおやぐちのすくね)が物部氏の直系子孫につながって、その子孫に大水口宿禰(おおみなくちのすくね)がいて、その息子が建忍山宿禰(たけおしやまのすくね)で穂積(ほずみ)氏の先祖である。
イツシココロ(彦坐王)の長男オオミナクチが息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)で、次男オオヤクチが娘の狭穂姫(さほひめ)に当たると考えられて、狭穂彦王が2代目出雲国王で、2代目オオモノヌシに神格化した。
狭穂彦王の反乱(倭国大乱;皇位継承権争い)で、狭穂彦王は妹で皇后の狭穂姫に垂仁(すいにん)天皇を殺すために紐刀(ひもがたな)を渡して、垂仁天皇が夢で紐刀が大蛇に変わって大物主神が蛇で、2代目オオモノヌシが三輪山(みわやま)の山頂に祭られて、狭穂彦王の反乱が垂仁天皇7年(西暦158年)までに終わって、三輪山が垂仁天皇7年(西暦158年)に祭られた。

オオミナクチの息子ウツシコヲが別名をヘソキネで、娘ウツシコメが孝元(こうげん)天皇の妃で、現在の物部氏系図で大綜杵命(おおへそきのみこと)の弟が欝色雄命(うつしこおのみこと)で、妹が欝色謎命(うつしこめのみこと)で、大綜杵命が『ホツマツタエ』から綜杵根命(へそきねのみこと)が正しい名前で、綜杵根命と欝色雄命が同一人物になる。
オオミナクチ(大水口宿禰;狭穂彦王)の息子ウツシコヲ(欝色雄命、綜杵根命)は、息子の野見宿禰(のみのすくね)で、妹の高田姫(たかだひめ)が欝色謎命に祖先化されて、姪(めい)の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)と名前の色謎命(しこめのみこと)が共通して、創作された名前と考えられて、高田姫が本名(ほんみょう)で、垂仁天皇7年(西暦158年)頃に生まれたと考えられる。
野見宿禰は3代目出雲国王で、3代目オオモノヌシに神格化して、垂仁天皇32年(西暦173年)に出雲から使者を派遣した。
高田姫は実在の景行(けいこう)天皇の妃で、景行天皇を祖先化したのが孝元天皇で、高田姫を祖先化した欝色謎命も孝元天皇の妃で、実在の人物と祖先化した人物が合致する。
孝元天皇と欝色謎命の息子は大彦命(おおびこのみこと)で、孫が武渟川別(たけぬなかわわけ)である。
景行天皇と高田姫の息子は武虎別皇子(たけこわけのみこ)で、武渟川別と「武」と「別」の漢字が合致して、間違いなく親子関係が成立する。
物部氏系図の混乱と高田姫は景行天皇より10歳以上年上で、僕自身が高田姫を兄の野見宿禰の娘と勘違いした。
『ホツマツタエ』の5章の黄泉国(よみのくに)下り神話は、軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王を神格化)の娘の菊桐姫(ここりひめ;高田姫を神格化)が登場して、親子関係が成立すると考えられる。

ウツシコヲ(ヘソキネ)の息子イキシコヲと娘イキシコメは、現在の物部氏系図で大綜杵命の息子が伊香色雄命(いかがしこおのみこと)で、娘が伊香色謎命に当たるが、伊香色謎命が兄弟の物部十市根(もののべのといちね)と系図がずれるように一世代ずらした。
『ホツマツタエ』は、田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)の妻が花橘(はなたちばな)で、娘が弟橘姫(おとたちばなひめ)で、田道間守が亡くなった後、花橘と娘の弟橘姫を押山(おしやま)の妻子にしたと記して、『日本書紀』から押山が穂積(ほづみ)氏の忍山宿禰(おしやまのすくね)と分かる。
現在の物部氏系図は、大水口宿禰(狭穂彦王)の息子の建忍山宿禰(野見宿禰)が穂積氏の先祖で、野見宿禰の養子が弟橘姫と考えられて、弟橘姫の実父の祖別命が垂仁天皇の息子である。
穂積氏は物部氏と同一氏族で、物部氏の女性の中に養子が存在して、母の花橘が姫でなく、娘の弟橘姫が皇族だから姫が付いて、花橘が身分の低い女性と考えられるが、豪族でない根拠にならないと考えられる。
弟橘姫は景行天皇元年4月末日(西暦191年5月下旬頃)の夜半に生まれて、弟橘姫の子孫が生まれた年代を求めるヒントになる。
ウツシコヲ(欝色雄命、野見宿禰)の息子イキシコヲ(伊香色雄命)は、おそらく物部十市根で、娘イキシコメ(伊香色謎命)が間違いなく弟橘姫である。
伊香色謎命は、孝元天皇(景行天皇)の妃で、その息子の開化(かいか)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)を祖先化)の妃でもあって、出雲王国(物部氏)の傾国(けいこく;国を傾(かたむ)ける)の美女である。
3代目出雲国王の野見宿禰は、垂仁天皇7年(西暦158年)に妻を迎えて、物部十市根が垂仁天皇27年2月5日(西暦178年3月上旬頃)に垂仁天皇の娘の大中姫(おおなかひめ)と結婚して、野見宿禰と物部十市根の親子関係が成立すると考えられる。
物部十市根は4代目出雲国王で、4代目オオモノヌシに神格化して、弟橘姫を神格化した女神の説明がややこしいため省(はぶ)く。

5代目出雲国王の物部夏花(もののべのなつはな)は、5代目オオモノヌシに神格化して、物部十市根と大中姫の息子と考えられて、印岐美(いきみ)と胆咋と同母か異母の兄弟で、印岐美と胆咋の兄か弟か不明で、景行天皇12年(208年)に登場する。
イサナキ(垂仁天皇を神格化)とイサナミ(日葉酢媛(ひばすひめ)を神格化)の娘ワカヒメ(大中姫を神格化)は、オモイカネ(物部十市根を神格化)と結婚して、武神のタヂカラヲ(物部夏花を神格化)を生んだ。
5代目オオモノヌシは継子に恵まれず、先祖の初代オオモノヌシの霊から指導されて、叔父(おじ)のヤエコトシロヌシの息子(従兄弟)6代目オオモノヌシに後を継がせた。
5代目オオモノヌシ(物部夏花を神格化)は、子供がいるが出雲国王にふさわしい武勇に秀(ひい)でた息子がいなくて、叔母(おば)のヤエコトシロヌシ(弟橘姫を神格化)の息子である彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を6代目オオモノヌシ(6代目出雲国王)にした。
物部夏花の子孫は、『甲斐古蹟考』の向山土本毘古王(さきやまとほひこのみこ)や雷神の倭文神(しどりのかみ)・建葉槌命(たけはづちのみこと)などがいる。
4代目出雲国王の物部十市根と5代目出雲国王の物部夏花は、物部氏の名字を冠するが、5代目オオモノヌシ(物部夏花)の血筋の断絶と合致して、6代目オオモノヌシ(彦太忍信命)が物部氏の名字がなく、偶然でなく必然である。

6代目出雲国王の彦太忍信命は、6代目オオモノヌシに神格化して、景行天皇と弟橘姫の息子で、弟橘姫が物部氏の養子で、物部氏の婿(むこ)入り国王で、物部氏の女性と結婚して、正統な物部氏の血筋の息子である飯入根を7代目出雲国王にした。
孝元天皇(景行天皇)と伊香色謎命(弟橘姫)は、息子の彦太忍信命と宗像(むなかた)三神に神格化した3姉妹をもうけて、彦太忍信命の息子(孫)の屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)と孫(曾孫)の初代・武内宿禰がいる。
『ホツマツタエ』で日本武尊と弟橘姫は、男ばかりの7人兄弟をもうけた。
孝元天皇(景行天皇)の息子の開化天皇(日本武尊を祖先化)は、伊香色謎命(弟橘姫)との間に崇神天皇をもうけたのが創作で、崇神天皇の異母兄弟が彦坐王で、実兄の彦坐王と実弟の崇神天皇の血筋を隠した。

7代目出雲国王の飯入根は、7代目オオモノヌシに神格化して、日本武尊の一人娘の布忍姫(ぬのおしひめ)を正妻で、息子の濡渟が初代の出雲大社宮司で、その直系子孫が現在の出雲大社宮司家の千家氏である。
飯入根は布忍姫を正妻で、息子の濡渟が生まれて、屋主忍男武雄心命が紀(き)氏の菟道彦(うじひこ)の娘である山下影姫(やましたかげひめ)を妻で、息子の初代・武内宿禰が生まれて、濡渟と初代・武内宿禰が異母兄弟か従兄弟と判明して、今年4月6日に分かった。
飯入根は屋主忍男武雄心命と別人か分からず、飯入根と初代・武内宿禰が親子か伯父(叔父;おじ)と甥(おい)か不明で、いつか手掛かりが見つかるかもしれない。
景行天皇の孫の屋主忍男武雄心命は、景行天皇3年(西暦193年)に登場して、曾孫の初代・武内宿禰が景行天皇20年(西暦210年)に日高見(ひだかみ;東北地方南部のどこか)に行ったと記して、偽装工作をほどこしたが、景行天皇を孝元天皇に祖先化して、年代の否定が簡単である。
物部氏の直系子孫だけが雷神と火の神様に神格化されて、屋主忍男武雄心命が火の神様の甕速日命(みかはやひのみこと)で、初代・武内宿禰が火の神様の之速日命(ひのはやひのみこと)と雷神の武甕槌神(たけみかづちのかみ)に神格化された。
は「火へん」に辞書にない不明の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。

故人の73代目・武内宿禰である竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏の存在は、歴代の武内宿禰の襲名が武内宿禰を300才以上の長寿の大臣と否定する。
初代・武内宿禰は景行天皇60年(西暦250年)に初めて登場して、仲哀(ちゅうあい)天皇3年までに東北地方南部までを統治下に置いて、忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀天皇を神格化)の右の臣(右大臣)が武甕槌神(初代・武内宿禰を神格化)として、仲哀天皇9年(西暦260年)神無月の出雲王国(物部氏)の崩壊(出雲の国譲り神話に神話化)にも武甕槌神が登場する。
最古の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳(垂仁天皇陵)は、垂仁天皇39年12月10日(西暦191年1月上旬頃)に垂仁天皇を葬礼して、福島県河沼郡会津坂下町の杵ヶ森(きねがもり)古墳が3世紀後半の前方後円墳と考えられて、東北地方南部まで邪馬台国の勢力が及んだ考古学的証拠で、出雲が3世紀中頃に衰退して、出雲王国の崩壊の考古学的証拠である。
武甕槌神(初代・武内宿禰を神格化)を東北地方南部に道案内した塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰を神格化)は、西暦330年代の神武(じんむ)東征(正しくは仁徳(にんとく)天皇の東征)で、塩土老翁と武甕雷神(たけみかづちのかみ)が登場する。
『古事記』の系図は、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)の曾孫が建甕槌命(たけみかづちのみこと)で、その子が意富多多泥古(おおたたねこ)と記す。
建甕槌命は『日本書紀』の武甕槌神(たけみかづちのかみ)と同一神と考えられて、初代・武内宿禰を神格化したのが間違いなく、初代・武内宿禰が2代目・大田田根子(おおたたねこ)の父で、2代目の大田田根子が歴代の武内宿禰の誰かに間違いない。
『ホツマツタエ』の序章で、オオナムチ(初代オオモノヌシ)とコトシロヌシ(2代目オオモノヌシ)とクシミカタマ(6代目オオモノヌシ)などの子孫のオオタタネコは、『ホツマツタエ』を234才で献上したと記す。
『ホツマツタエ』と「記紀」を解釈すると、初代・大物主神(彦坐王を神格化)と2代目・大物主神(狭穂彦王を神格化)と6代目・大物主神(彦太忍信命を神格化)の子孫である武甕槌神(初代・武内宿禰を神格化)の子孫の大田田根子(何代目かの武内宿禰を祖先化)は、『ホツマツタエ』を献上した人物と考えられる。
弟橘姫は物部氏の養子になった女性で、千家氏と竹内氏の系図を求める大切なヒントである。

2020年4月1日に僕が千家氏と竹内氏の系譜を詳しく記して、これがなかったために出雲王国(物部氏)の血筋が分かりにくかった。
しかし千家氏と竹内氏は、6代目出雲国王の彦太忍信命より後に分家したが、それ以上分からなくて僕の限界である。
そのうち僕自身がひもとくか、後世の人間がひもとくのか分からない。

物部氏の国造(くにみやつこ;国主に当たる統治者)に任命された者たちを求めるために系図を示して、インターネット検索した系図を用いて僕の見解を加える。
『国造本紀』に「小市(おち;愛知県越智郡一帯)国造、軽島豊明朝(応神(おうじん)天皇)の御世、物部連(もののべむらじ)の同祖、大新河命(おおあらかわのみこと)の孫の子致命(こちのみこと)、定賜国造」と記されて、物部大新河(もののべのおおあらかわ)の息子の大小市(おおこいち)を孫と間違えている。
大小市の生きた年代は景行天皇時代から仲哀天皇時代で、応神天皇の所が志賀高穴穂朝(成務(せいむ)天皇;正しくはこの天皇が在位せず、仲哀天皇が正解)と記すはずで、『国造本紀』の系図や時代が確実な間違いがある。
『国造本紀』に「風早(かざはや;愛知県松山市の北辺り)国造、軽島豊明朝の御世、物部連の祖、伊香色男命(いかがしこおのみこと)の四世孫の阿佐利(あさり)、定賜国造」と記す。
阿佐利の生きた年代は仲哀天皇時代から神功(じんぐう)皇后時代で、応神天皇の所が志賀高穴穂朝と記すはずで、やはり『国造本紀』に確実な間違いがある。

『国造本紀』に「久努(くど;静岡県袋井市久努)国造、筑紫香椎朝(仲哀天皇)の御世、物部連の祖、伊香色男命の孫の印播足尼(いなばのすくね)、定賜国造」と記す。
印葉の生きた年代は仲哀天皇時代から神功皇后時代で、仲哀天皇時代に国造に任命されたと記されたのが正しく、静岡県より先の中部地方から東北地方南部までが仲哀天皇3年(西暦254年)までに平定されて、そこの国造が任命されたことは年代的に考えても正しい。
『国造本紀』に「遠淡海(とおとうみ;静岡県西半分一帯)国造、志賀高穴穂朝の御世、以(もって)物部連の祖、伊香色雄命の兒(こ)の印岐美命(いきみのみこと)、定賜国造」と記す。
印岐美の生きた年代は仲哀天皇時代から神功皇后時代で、成務天皇時代に国造に任命されたと記されたのが間違いで、正しく求めると仲哀天皇時代となる。
『国造本紀』に「久自(くじ;茨城県久慈郡と日立市と常陸太田市の一帯)国造、志賀高穴穂朝の御世、以物部連の祖、伊香色雄(いかがしこお)の三世孫の船瀬足尼(ふなせのすくね)、定賜国造」と記す。
船瀬宿禰の生きた年代は仲哀天皇時代から神功皇后時代で、成務天皇時代に国造に任命されたと記されたのが間違いで、正しく求めると仲哀天皇時代となる。

『国造本紀』に「珠流河(するが;静岡県東部の大半)国造、志賀高穴穂朝の御世、以物部連の祖、大新川命(おおあらかわのみこと)の兒(こ)の片堅石命(かかしのみこと)、定賜国造」と記されて、『天孫本紀』の物部氏系図で片堅石命が物部十市根の子とされて、どちらの子供とするのが正しいか意見が分かれる。
片堅石命の生きた年代は景行天皇時代から仲哀天皇時代で、成務天皇時代に国造に任命されたと記すのが間違いで、正しく求めると仲哀天皇時代となる。
これらの国造に任命された地域から3世紀後半頃の古墳が発見された場合、彼らが古墳埋葬者に当たる可能性が高くなって、現在の考古学会に期待する。

山無媛(やまなしひめ)は『先代旧事本紀』に記す女性で、皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神天皇)の妃で、皇太子の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)の母親で、この記述が正しい可能性がある。
和珥(わに)氏出身である日触使主(ひふれのおみ)の娘の宮主宅媛(みやぬしやかひめ)が誉田別尊の妃で、菟道稚郎子皇子の実母と『日本書紀』に記して、『先代旧事本紀』の記述の方が信頼できないと普通なら考えられる。
和珥氏は、物部氏と京都府宮津市の元伊勢籠神(この)社宮司家の海部(あまべ)氏も同一氏族とする場合があって、共に彦坐王を始祖とする氏族で、『先代旧事本紀』の山無媛の記述を否定する根拠がないのも事実で、宮主宅媛と山無媛が同一人物の可能性がある。

物部氏と千家氏と竹内氏は、僕の頭の中でどのようにつながるか分かっていたが、それを細かく記してなくて、現代人(僕以外の人間)が理解できなかったけれど、ようやく第一歩を踏み出すきっかけになった。
歴史は一長一短で成立せず、知られざる歴史もあれば語られないものや忘れ去られた歴史もあって、それをひもといていくのが考古学や歴史学の研究で、非常に崇高(すうこう)な行為だと考えられる。

<参考文献>
『ホツマ辞典』
池田満・著者 ホツマ刊行会・発行
『別冊歴史読本K 新視点 古代豪族の研究』
株式会社新人物往来社・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『別冊歴史読本24 歴代皇后人物系譜総覧』
株式会社新人物往来社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『新編 姓氏家系辞書』
太田亮・著者 株式会社秋田書店・発行
『推理◎邪馬台国と日本神話の謎 古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎』
安本美典・著者 勉誠出版梶E発行
インターネット

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