京都府北部の元伊勢

伊勢神宮の内宮と外宮は、正式な発音が「ないくう」と「げくう」だが、僕が幼少からずっと「ないぐう」と「げぐう」と呼んで、地元の福知山市大江町の内宮と外宮の呼び方がずっと「ないぐう」と「げぐう」と変わらない。

全国の元伊勢は、『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』から候補地が100ヶ所くらいあるらしいが、本当の元伊勢が『ホツマツタエ』に基づくべきと僕が考える。
京都府北部の元伊勢は、複数の歴史書から第2の元伊勢で、有名な候補地が宮津市の元伊勢籠(この)神社と福知山市大江町の元伊勢内宮(ないぐう)で、別の候補地が京丹後市丹後町の竹野神社と舞鶴市の笶原(えはら)神社だが、除外して問題ない。

宮津の元伊勢
崇神(すじん)天皇時代に最初の元伊勢の笠縫邑(かさぬいむら;所在地不明)から丹波国(たにはのくに;古代の京都府北中部)の与謝(よさ)郡に男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)を遷宮した。
第2の元伊勢として豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の神託は、天照神(あまてるかみ)の御神体である八咫鏡(やたのかがみ)の入った御霊笥(みたまげ;霊魂を入れた箱)をかついで行って、天橋立(あまのはしだて)の長浜が笠縫(かさぬい)の入江より宮津に続き、そこに生(は)える浜松に雲がたなびき美しかった。
崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)に詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、ケクニ(後世の稲荷)の大臣の武御座(たけみくら)を斎主(いわいぬし)に、彦坐王(ひこいますのみこ)の子供の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を御饌(みけ;神にそなえる供物)の守(もり)に、天日置(あめのひおき)を神主に、振魂(ふりたま)を禰宜(ねぎ;宮司の下の神官)に任命して、トヨケ(豊受;とようけ)とアマテルカミ(天照神)を祭らせた。

『ホツマツタエ』の2つの記述は、第2の元伊勢が京都府宮津市の真名井(まない)神社で、場所の判明した最古の元伊勢で、崇神(すじん)天皇39年(西暦122年)の遷宮から2022年で1900年目を迎(むか)える計算になる。
第2の元伊勢は、元伊勢籠(この)神社の奥宮の真名井(まない)神社で、西暦156年の邪馬台国(大和国;やまとこく)時代以前の古い神社で、最古の呼び名が元伊勢真名井(まない)神社で、古代の呼び名が僕の予測だが、間違いないと考えられて、養老3年3月22日(西暦719年4月下旬頃)に遷宮して、元伊勢籠(この)神社に改名した。
豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)は、初代の伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)で、西暦122年で48才頃の計算で正しいはずである。
丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、御饌(みけ)をささげたことへの神の恵みから、良い子供を5人も授かって、垂仁(すいにん)天皇の妃(きさき)の5人姉妹と考えられて、武御座(たけみくら)が記録にないらしく、天日置(あめのひおき)が大阪府枚方市の日置天(ひおきてん)神社に関係する可能性があって、振魂(ふりたま)が人名だが分からず、3人とも記録らしい記録が見当たらない。

『ホツマツタエ』の天橋立(あまのはしだて)は、1900年以上前から存在したと証明して、仲哀(ちゅうあい)天皇2年に宮津と名付けた可能性を2024年6月7日の夜に特定して、『ホツマツタエ』が6世紀から7世紀にできて、宮津の地名の由来を連想させられて、『丹後国風土記逸文(たんごのくにふどきいつぶん)』も天橋立(あまのはしだて)を記して、西暦730年頃に記したと考えられる。
宮津の地名は、崇神(すじん)天皇11年(西暦94年)に京都府宮津市に都(みやこ)を置いたこと、崇神(すじん)天皇39年(西暦122年)に元伊勢真名井(まない)神社を遷宮したこと、仲哀(ちゅうあい)天皇2年9月(西暦253年10月頃)に京都府宮津市に皇居の丹波由良宮(たにはゆらのみや;別名が宮津由良宮(みやづゆらのみや)を築造して、仲哀(ちゅうあい)天皇が居住し始めて、僕が命名したため、皇居に決まった名前がなくて、3つの説が考えられる。

丹波(たんば;古代の京都府北中部)の国名は、西暦94年に丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が京都府北部を平定して、叔父(おじ;父の弟)の崇神(すじん)天皇が平定将軍の人名から名付けて、『ホツマツタエ』から丹波(たには)が正しくて、田庭(たにわ)が間違いと考えられて、僕の自論が『ホツマツタエ』を重視する。
『丹後風土記残缺(たんごふどきざんけつ)』は、田庭(たにわ)の国名が丹波(たんば)に変化したと記して、古代から京都府北中部が肥沃(ひよく)な土地で、山野(さんや)の農産物を多く出荷(しゅっか)して、特産物が多くあって、豊富な資源として重視した。
西暦720年に献上した『日本書紀』は、丹波栗(たんばぐり)を思わせる記述があって、現在でもブランド品だが、近年に生産量が少しずつ減少して、丹波黒豆もブランド品で、江戸時代に徳川将軍へ献上した話を記して、昭和に入って丹波黒大豆が正式な名前になって、他にも米など多くのブランドがある。

海部(あまべ)氏は、祖先神を2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)で、正式名称が天照御魂神(あまてるみたまのかみ)や天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)などがあって、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)が火明命(ほあかりのみこと)と合体した神名である。
古代太陽神の2代目・天火明命(あめのほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、息子を天香語山命(あめのかごやまのみこと;丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化)で、孫の天村雲命(あめのむらくものみこと;朝廷別王(みかどわけのみこ)を神格化)を先祖として、海部(あまべ)氏に系図がつながる。
丹波国造(たんばくにみやつこ;丹波(たんば)の国主)の彦坐王(ひこいますのみこ)は、息子を丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)で、孫が朝廷別王(みかどわけのみこ)で、子孫が元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏に代々続いて、系図が途切れてない。
元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏は、古代太陽神の天照神(あまてるかみ)を祭った最古の宮司の彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖として、70世代近く続く直系子孫が現在も元伊勢籠(この)神社宮司家として太陽神を祭る。

天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫は、初代・火明命(ほあかりのみこと;誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を神格化)で、曾孫が2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)で、太陽神の宮司の彦坐王(ひこいますのみこ)を先祖で、子孫が誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)で、血筋がつながって混乱を生んだ。
古代太陽神の2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、直系子孫の父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后を神格化)の祖先神である。
2代目・火明命(ほあかりのみこと)は、別名を天照国照彦火明天櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほあかりあめのくしたまにぎはやひのみこと)で、出雲王家(物部(もののべ)氏)の祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと)とも同一神で、日本神話の神々が多くの実在した人物の神格化などで混乱するのが当然だった。

宮津の元伊勢は、古代太陽神の天照神(あまてるかみ)と豊受大神(とようけおおかみ)を共に祭って、京都府北部に縁(ゆかり)の大切な神様として、ずっと元伊勢籠(この)神社で祭り続けたが、伊勢神宮の外宮に豊受大神(とようけおおかみ)を祭った時期を特定できない。
男神(おがみ)の豊受大神(とようけおおかみ)は、宮津の元伊勢で初めて登場して、後世に女神へ性別変更して、彦坐王(ひこいますのみこ)と息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)や山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)や孫の垂仁(すいにん)天皇などを神格化して、天照神(あまてるかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)の祖父の位置付けである。
彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)は、倭姫命(やまとひめのみこと)の祖父で、彦坐王(ひこいますのみこ)と山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)を豊受大神(とようけおおかみ)に神格化した。
豊受姫神(とようけひめのかみ)は、元伊勢籠(この)神社や元伊勢外宮(げぐう)などの京都府北部に祭って、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の台与(とよ)に比定するが、台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后を神格化しないで、神功(じんぐう)皇后よりも前の時代の神様である。

養老3年3月22日(西暦719年4月下旬頃)に京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社は、現在の地に移って、元伊勢籠(この)神社の本殿が伊勢神宮内宮の正殿と同じ唯一神明造(しんめいづくり)を初めて採用して、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫である海部(あまべ)氏の勢力を削(そ)いだと考えられる。
元伊勢籠(この)神社の本殿の唯一神明造(しんめいづくり)は、考古学的に確認されず、西暦122年の元伊勢真名井(まない)神社で、石の祭壇を祭ったが、藤原不比等(ふじわらのふひと)が元伊勢籠(この)神社の創建で、唯一神明造(しんめいづくり)を採用したと考えられる。
藤原不比等(ふじわらのふひと)は、「記紀」の総合監督で、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の海部(あまべ)氏と物部(もののべ)氏を隠して、物部(もののべ)氏の子孫の千家(せんげ)氏と竹内(たけうち)氏も隠して、藤原氏が物部(もののべ)氏と同族も隠して、徹底的な偽装工作をほどこしたが、僕を騙(だま)せなくて、史実・真実・事実を求めた。

宮津の元伊勢は、彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の海部(あまべ)氏が祭って、1900年以上の歴史を持つ古社である。

元伊勢内宮(ないぐう)
京都府福知山市大江町の元伊勢内宮(ないぐう)は、女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)を本殿に祭って、祠(ほこら)に蛇体の古代太陽神の八岐大蛇(やまたのおろち)も祭って、その真実に気付いたのが僕だけで、西暦261年以降に祭った可能性を2023年12月15日の午後5時頃に求めた。
元伊勢内宮(ないぐう)の創建時期は、僕が歴史研究を幾らしても、絶対に求められないと思ったが、特定して15日の夕食の席で、両親に話しても大した反応でないけれど、あまりにも凄(すご)い功績で、世界中の人々に誇る奇跡である。
福知山観光協会大江支部の元伊勢三社紹介のホームページは、創建時期が3世紀から4世紀で、学問的に3世紀末頃とされて、比較的近い年代で合致した。

本当の京都府北部の元伊勢は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社で、元伊勢内宮(ないぐう)の御神体山の日室岳(ひむろだけ;別名を一願(いちがん)さん)が奈良県桜井市の御神体山の三輪山(みわやま)と同様の古代信仰と考えられる。
日室岳(ひむろだけ)は、両丹日日新聞2003年2月7日号に禁足地(立ち入り禁止の聖域)の山頂に岩座(いわくら;神のよりしろ)と思われる巨岩があって、1500年以上前の人工的な古代信仰の証拠と考えられるが、多くの人が踏み入るらしい話を聞いた。

レイライン(LeyLine;太陽の道)は、1921年にイギリスのアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスが提唱して、古代遺跡が直線的に並(なら)ぶように建造された仮説で、その遺跡群が指す直線を言うが、「太陽の道」がレイラインを扱ううちに太陽信仰の直線が存在すると言われるようになった。
富士山の山頂と出雲大社を結ぶレイライン(太陽の道)は、線上に元伊勢内宮(ないぐう)があって、富士山の山頂を古代天皇家が測量したのが西暦255年以降で、高度な測量と天文学の知識を駆使して、西暦261年以降に創建したと考えられる。
元伊勢内宮(ないぐう)の本殿から少し離れた礼拝所は、夏至(げし)の日に日室岳(ひむろだけ)の山頂に太陽が沈むのがレイライン上のためで、京都府北部でもう一つの元伊勢として祭って、忘れ去られたと考えられる。

初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)を建国して、子孫の物部(もののべ)氏(出雲王国)が崩壊したのが仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月頃)の日本武(やまとたけ)天皇の殺害日で、すぐに戦死者を祭らなくて、出雲大社の創建時期が不明で、古ければ270年から290年頃の可能性があるが、4世紀か5世紀かもしれない。
京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏は、彦坐王(ひこいますのみこ)の息子である丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の子孫で、丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の異母弟で、物部(もののべ)氏の狭穂彦王(さほひこのみこ)の子孫が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏につながって、両方とも1900年以上続く氏族である。
富士山の山頂と出雲大社を結ぶレイライン(太陽の道)は、出雲大社の創建時期を特定できなくて、元伊勢内宮(ないぐう)の創建時期が出雲大社の創建時期より古い可能性もある。

天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の社伝は、成務(せいむ)天皇時代に天照神(あまてるかみ)を京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家である海部(あまべ)氏出身の大倉岐命(おおくらきのみこと)が福知山市今安(いまやす)に祭って、正しく求めると仲哀(ちゅうあい)天皇か神功(じんぐう)皇后の時代に祭って、西暦250年代から280年代頃と考えられる。
大倉岐命(おおくらきのみこと)は、叔母(おば)の宮簀姫(みやずひめ)が日本武尊(やまとたけのみこと)の妃で、2人の息子を生んで、弟の尾綱根命(おづなねのみこと)が尾張(おわり)氏の氏祖(しそ)で、尾張(おわり)氏の始まりが仲哀(ちゅうあい)天皇4年(西暦255年)で、天照玉命(あまてるたまのみこと)神社の社伝が正しい可能性が高い。
富士山の山頂は、中部地方から東北地方南部を平定した西暦255年以降に測量して、天照玉命(あまてるたまのみこと)神社と元伊勢内宮(ないぐう)が西暦260年代から280年代頃に大倉岐命(おおくらきのみこと)が祭ったのが最も古い可能性と考えられて、もっと後世かもしれない。
福知山市で3本指の古い神社は、元伊勢内宮(ないぐう)と天照玉命(あまてるたまのみこと)神社と福知山市大江町蓼原(たではら)の舟戸(ふなと)神社と考えられる。

『ホツマツタエ』6章の日本神話は、その洞の上に朝日の宮(元伊勢外宮(げぐう)を建立(こんりゅう)して、アマテルカミは懇(ねんご)ろに、トヨケ(豊受;とようけ)の御魂(みたま)を祭ったと記す。
その洞窟の上に朝日の宮(元伊勢外宮(げぐう)を創建して、天照神(あまてるかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が丁重(ていちょう)に豊受大神(とようけおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)と山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)を神格化)の魂を祭ったと訳す。
天照神(あまてるかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、天照神(あまてるかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)の祖父の豊受大神(とようけおおかみ;山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)を神格化)と曾祖父の豊受大神(とようけおおかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)を元伊勢外宮(げぐう)に祭ったと解釈する。
彦坐王(ひこいますのみこ)の息子の山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)は、倭姫命(やまとひめのみこと)の祖父で、伊勢神宮外宮(げぐう)の豊受大神(とようけおおかみ)が男神(おがみ)だったが、現在が女神に性別変更した。
出雲大社は、出雲王国(物部(もののべ)氏)が崩壊した西暦260年神無月以降にできて、富士山の山頂と出雲大社を結ぶレイライン(太陽の道)を測量した後で、元伊勢内宮(ないぐう)ができて、摂政(せっしょう)元年(261年)以降の3世紀後半に大倉岐命(おおくらきのみこと)が祭った可能性が高い。

伊勢神宮の内宮(ないぐう)と外宮(げぐう)は、同時に成立してなくて、『ホツマツタエ』の京都府宮津市の元伊勢に外宮(げぐう)がなくて、初めての外宮(げぐう)の登場が垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(177年10月中旬頃)の伊勢神宮外宮(げぐう)の最終遷宮で、京都府福知山市大江町の元伊勢外宮の登場が3世紀後半以降である。

元伊勢内宮(ないぐう)は、3世紀後半までさかのぼる可能性があって、福知山市の太陽信仰がかなり古いと証明した。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』
海部光彦・編著者 元伊勢籠神社社務所・発行
『古代海部氏の系図<新版>』
金久与市・著者 株式会社学生社・発行
両丹日日新聞の2003年2月7日号
インターネットの不明サイトから少々拝借

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