京都府の元伊勢


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

全国の元伊勢は『倭姫命世記』から候補地が100ヶ所くらいにもなるらしいが、本当の元伊勢が『ホツマツタエ』に基づくべきなのが間違いない。
京都府の元伊勢は複数の歴史書から第2の元伊勢とされて、京都府北部で古代から連綿と太陽神を祭り続けてきて、有名な候補地が2ヶ所で宮津市の元伊勢籠(この)神社と福知山市大江町の元伊勢皇大神社である。
他にも京都府の元伊勢の候補地として京丹後市丹後町の竹野神社と舞鶴市の笶原(えはら)神社があるが除外して良くて、本当の元伊勢は『ホツマツタエ』の記述が正しい答えを記している。

『ホツマツタエ』の京都府の元伊勢の記述を青字で記す。

崇神(すじん)天皇時代に最初の元伊勢の笠縫邑(かさぬいむら;所在地不明)から丹波国(たにはのくに;古代の京都府北中部)の与謝郡(よさぐん)に古代の男性の太陽神アマテルカミ(天照神)を遷宮して、第2の元伊勢として豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の神託によってアマテルカミのご神体の八咫鏡(やたのかがみ)の入った御霊笥(みたまげ)をかついで行かれて、天橋立(あまのはしだて)の長浜が笠縫の入江より宮津に続き、そこにはえる浜松に雲がたなびき美しかった。
崇神天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)に詔(みことのり;天皇の述べた言葉)があり、ケクニ(どこの国か不明)の大臣の武御座(たけみくら)を斎主(いわいぬし)に、彦坐王(ひこいますのみこ)の子供の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を御饌(みけ;神にそなえる供物)の守(もり)に、天日置(あめのひおき)を神主に、振魂(ふりたま)を禰宜(ねぎ;宮司の下の神官)に任命して、トヨケとアマテルカミを祭らせた。
丹波道主王は御饌をささげたことへの神の恵みから、良い子供を5人も授かったと記されている。


丹波道主王は御饌をささげたことへの神の恵みから、良い子供を5人も授かったと記して、垂仁(すいにん)天皇の妃になった5人姉妹と考えられる。
武御座は記録にないらしく、天日置が大阪府枚方市の日置天(ひおきてん)神社に関係する可能性があって、振魂が人名だが分からず、3人とも記録らしい記録が見当たらない。

第2の元伊勢は日本三景の天橋立が出てきて、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の奥宮である真名井(まない)神社に当たって、邪馬台国(やまとこく;大和国)が記される時代以前の古い神社と考えられる。
元伊勢籠神社の宮司家の海部(あまべ)氏は、古代太陽神アマテルカミ(天照神)を祭った最古の宮司と考えられる彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖として、その息子の丹波道主王に続いて、その直系子孫が現在も元伊勢籠神社の宮司家として太陽神を祭る。
参考文献『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』に現在の元伊勢籠神社に遷宮したのが西暦719年と記して、この頃に全国の有力神社の引っ越しが多く行なわれた可能性があって、藤原不比等(ふじわらのふひと)が有力氏族の弱体化をさせた可能性が高いと考えられる。
元伊勢籠神社宮司家の海部氏は、祖先神を火明命(ほあかりのみこと;彦坐王を神話化)で、その神の正式名称に天照御魂神(あまてるみたまのかみ)や天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)があって、古代の男性の太陽神アマテルカミと祖先神の火明命が合体した可能性が高い。
第2の元伊勢に祭られた神のトヨケとアマテルカミは男性で、トヨケが伊勢神宮外宮に祭る太陽神の食事を受け持つ女性である豊受大神(とようけおおかみ)の前身で、アマテルカミが伊勢神宮内宮に祭る女性の太陽神である天照大神(あまてらすおおみかみ)の前身と考えられる。
『ホツマツタエ』でトヨケが5代目タカミムスビに当たる男性で、彦坐王や丹波道主王を神格化して、アマテルカミが皇族の倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化したと考えられて、この2神を大切に元伊勢籠神社に祭る。

『ホツマツタエ』でアマテルカミの斎王(さいおう;伊勢神宮で太陽神に仕える未婚の皇女)の豊鍬入姫命は、丹波国の与謝から筱幡宮(ささはたのみや)に帰った。
そこでまた神託を受けてアマテルカミの形見を持って、近江(おうみ;滋賀県)から美濃(みの;岐阜県南部)を巡って伊勢の飯野(いいの;三重県飯南郡)に至って、高日の小川に御鈴をとどめた。


参考文献『古代海部氏の系図<新版>』から、『倭姫命世紀』で崇神天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)に但波(たには;丹波)の吉佐宮(よさのみや;与謝宮)に移(うつ)って、8月18日(9月中旬頃)に瑞籬(みずがき;神様の依代(よりしろ)を作って、4年間を奉斎した。
それから43年9月(西暦126年10月頃)に倭国(やまとのくに;奈良県)の伊豆加志本宮(いつかしもとのみや)に移って、8年間を奉斎した。

崇神天皇39年8月18日(西暦122年9月中旬頃)は、真名井神社に磐座(いわくら;瑞籬:石の祭壇)ができた日で、石を祭った古代信仰に当たる。
『ホツマツタエ』に京都府北部の元伊勢の次に筱幡宮(ささはたのみや)を記して、奈良県宇陀市の篠畑(ささはた)神社に当たって、『倭姫命世紀』が京都府北部の次が伊豆加志本宮と記して、佐佐波多宮(ささはたのみや)に遷宮した年代が不明で、『倭姫命世紀』が間違っている。

元伊勢籠神社は、古代の男性の太陽神であるアマテルカミ(天照神)と現在の女性の太陽神である天照大神を祭って、アマテルカミ(彦坐王を神格化)の直系子孫が現在も太陽神を祭って、先祖代々の何十世代にも及ぶ伝統がある。
第2の元伊勢は、『ホツマツタエ』から所在地と祭る一族を求められて、非常に由緒(ゆいしょ)ある格式の高い神社と考えられる。

もう一つの元伊勢皇大神社のことを青字で記す。

元伊勢皇大神社は内宮と外宮があって、内宮に「天龍・八岐龍神社」という祠(ほこら)に古代太陽神の八岐大蛇(やまたのおろち)を祭っていて、その真実に気付いているのが僕だけである。
『ホツマツタエ』を参考にする限り本当の元伊勢が元伊勢籠神社で揺るがないが、元伊勢皇大神社内宮には御神体山の日室岳(ひむろだけ;別名を一願(いちがん)さん)があり、奈良県桜井市の御神体山の三輪山(みわやま)と同様のもので、非常に古い古代信仰の一つと考えられる。
御神体山の日室岳には両丹日日新聞(福知山市付近で扱われる新聞)の2003年2月7日号に禁足地(足を踏み入れてはいけない聖域)の山頂に岩座(いわくら;神の依代(よりしろ)と思われる巨岩が立っていると記されており、千5百年以上前の人工的な古代信仰の証拠だと考えられる。


元伊勢皇大神社内宮の本殿から少し離れた場所にある礼拝所は、夏至(げし)の日に日室岳の山頂に太陽が沈むように計算されていて、元伊勢籠神社宮司家の海部氏の先祖がこの場所を見つけ、もう一つの元伊勢として祭り始めて忘れ去られて、現代に至って福知山市で一二を争う古い神社だと考えられる。
福知山市で一二を争う古い神社だと考えられるのがもう一つあり、福知山市今安にある天照玉命(あまてるたまのみこと)神社で、成務(せいむ)天皇時代に海部氏の先祖の大倉岐命(おおくらきのみこと)が祖先神の火明命を祭って創建したと伝えている。
成務天皇は反逆者の日本武尊(やまとたけのみこと)と同一人物で、在位しない架空の天皇…偽装工作された不在の天皇で、正しく求めると仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后に仕えたのが大倉岐命になり、西暦252年以降に天照玉命神社を創建したと考えられて、3世紀後半までに大きな石を祭ったのだろうが、仏教伝来によって社殿を建てて祭るようになったと考えられる。
福知山市最古の神社は『丹後風土記残缺』の記述から福知山市大江町蓼原(たではら)の舟戸(ふなと)神社かもしれない。
元伊勢皇大神社の地には伊勢皇大神宮内宮と同じ五十鈴川があることから、五十鈴川の流れを神格化した古代太陽神で竜神の滝祭神(たきまつりのかみ)の神霊を鎮座させても罰が当たらないのでないだろうか?
もう一つの元伊勢は元伊勢皇大神社のことで、2世紀にまでさかのぼる可能性がある御神体山の日室岳があり、福知山市も元伊勢籠神社に負けないくらい古い伝統のある神社の存在がある。

『ホツマツタエ』6章の日本神話で元伊勢皇大神社外宮を指すのでないかという記述を青字で記す。

その洞の上に朝日の宮を建立(こんりゅう)し、アマテルカミは懇(ねんご)ろに、トヨケの御魂をお祭りになられました。

その洞窟の上に朝日の宮(元伊勢皇大神社外宮か?)を建立して、月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)は丁重(ていちょう)に豊受大神の魂を祭った。
朝日の宮の記述は元伊勢皇大神社の内宮と外宮が『ホツマツタエ』編纂(へんさん)の西暦330年頃までに建立された可能性が考えられる。

来年の2022年に崇神天皇39年(西暦122年)の宮津市の遷宮から1900年を迎えるに当たって、最古の元伊勢の遷宮年代特定記念大祭を元伊勢籠神社で皇室の名の下に行なって、国際的に大々的に宣伝して行なうのは間違っているだろうか?
元伊勢籠神社と元伊勢皇大神社の内宮と外宮は、京都府の元伊勢として古くからの伝統を守り継いで、現在まで圧倒的な歴史を受け継いできた。
アインシュタイン博士以上の天才の僕は、福知山市に生を受けて真(まこと)を知らせる役割を担(にな)って、元伊勢の真実を知らせることでもあった。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』
海部光彦・編著者 元伊勢籠神社社務所・発行
『古代海部氏の系図<新版>』
金久与市・著者 株式会社学生社・発行
両丹日日新聞の2003年2月7日号
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