宗像(むなかた)大社・沖ノ島(おきのしま)

宗像(むなかた)大社と沖ノ島(おきのしま)は、景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦202年から209年)の九州平定より後に祭って、僕にしか歴史の特定ができなくて、2024年3月28日に修正した。

『ホツマツタエ』5章は、またアツ川にて、底(そこ)、中(なか)、表(うわ)のワタツミの三神を請来され、この三神はムナカタに祭らせたと記す。
上津綿津見神(うわつわたつみのかみ)と中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)と底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)の海神の3神は、上と中と底(そこ)の順番で、彦坐王(ひこいますのみこ)と狭穂彦王(さほひこのみこ)と野見宿禰(のみのすくね)の3世代を上中下と神格化した可能性があるが、明確に証明できない。
アツ川(滋賀県の安曇川(あどかわ)か?)で、底(そこ)と中と表(うわ)の綿津見神(わたつみのみこと;誰を神格化したか不明)の3神が来ることを願って、この3神を宗像(むなかた;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)に祭らせた。
彦坐王(ひこいますのみこ)の子孫の物部(もののべ)氏は、雷神と火の神様と水神と土の神様に神格化したと僕が求めて、宗像(むなかた)3神も物部(もののべ)氏である。
現在の宗像(むなかた)大社は、上津綿津見神(うわつわたつみのかみ)と中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)と底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)を祭らないようで、祠(ほこら)でも良いから合祀すべきと思う。

『ホツマツタエ』6章は、ムナカタの娘オリハタヒメオサコとトヨヒメアヤコをアマテルカミの妃とした記す。
天照神(あまてるかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)でなく、月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の妾(めかけ)に宗像(むなかた;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の娘の 豊姫紋子(とよひめあやこ;高田媛(たかだひめ)を神格化)にして、熊野久須毘命(くまのくすびのみこと;少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)を神格化)を生んだ。
景行(けいこう)天皇と高田媛(たかだひめ)は、少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)を生んで、同母兄の武虎別皇子(たけこわけのみこ)が長女の神功(じんぐう)皇后を生んで、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の台与(とよ)で、隠した本名(ほんみょう)が豊姫命(とよひめのみこと)で、古代中国語で台与卑弥呼(とよひみこ)である。
『ホツマツタエ』は、豊姫紋子(とよひめあやこ;高田媛(たかだひめ)を神格化)の孫娘で、台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后を把握して、『三国志・魏志倭人伝』を読んで知っていたためである。
宗像(むなかた;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の娘の織機姫筬子(おりはたひめおさこ;誰を神格化したか不明)は、景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)だが、記録になくて不明の人物である。

『ホツマツタエ』6章は、月隅(つきすみ;九州)は、シマツヒコより七代目のカナサキの血縁であるムナカタが補佐し治めた記す。
九州は島津彦(しまつひこ;誰を神格化したか不明)から7代目の金析(かなさき;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)の父である宗像(むなかた;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)が統治したが、九州平定より前に狭穂彦王(さほひこのみこ)が戦死した。
宗像(むなかた)大社の祭祀氏族の宗像(むなかた)氏は、大国主神(おおくにぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の子孫の物部(もののべ)氏で、狭穂彦王(さほひこのみこ)の娘である高田媛(たかだひめ)と景行(けいこう)天皇の子孫か、野見宿禰(のみのすくね)の子孫か資料が少なすぎて特定できないが、出雲王国(物部(もののべ)氏)の血筋と証明した。
沖ノ島(おきのしま)は、4世紀から9世紀に古代天皇家が献上品を祭った考古学的証拠があって、3世紀前半の物部(もののべ)氏が宗像(むなかた)氏を名乗って、宗像(むなかた)大社を創建して、今が創建年代が不明である。

『ホツマツタエ』6章は、またハヤコが真名井(まない)で生んだ三児の御子は、一番目がオキツシマヒメタケコ、二番目がエノシマヒメタキコ、三番目がイチキシマヒメタナコで、3つ子と記す。
月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と早子(はやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)は、長女の瀛津嶋姫(おきつしまひめ)竹子(たけこ;誰を神格化したか不明)と次女の江之嶋姫(えのしまひめ)湍子(たきこ;誰を神格化したか不明)と三女の市杵嶋姫(いちきしまひめ)田奈子(たなこ;誰を神格化したか不明)を生んだ。
景行(けいこう)天皇16年1月3日(西暦206年2月上旬頃)に景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)が長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)を生んで、次男の稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が双子の可能性があって、稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が大分県直入(なおいり)郡で生まれたと考えられる。
神櫛皇子(かんぐしのみこ)は、6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と同一人物で、弟の稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が平安時代の藤原氏の先祖である。
景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)は、長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)と次男の稲背彦皇子(いなせひこのみこ)を生んで、実妹の3つ子を宗像(むなかた)3神に神格化して、誕生日が不明で、3人とも結婚して子孫もいて、実在が証明された。
月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と早子(はやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)は、宗像(むなかた)3神の3つ子を景行(けいこう)天皇19年頃(西暦209年頃)生まれの忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)よりも先に生んだと『ホツマツタエ』の神話が記す。
景行(けいこう)天皇19年頃(西暦209年頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)と海部(あまべ)氏の両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)は、息子の仲哀(ちゅうあい)天皇を生んで、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)が息子の忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)を生んだのに神話化した。

『ホツマツタエ』で素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、早子(はやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)と密通して、それが原因で早子(はやこ)が八岐大蛇(やまたのおろち)になった。
景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、景行(けいこう)天皇の息子で皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)と不倫して、月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の娘が宗像(むなかた)3神とする理由である。
宗像(むなかた)大社は、沖ノ島(おきのしま)の沖津宮(おきつみや)に瀛津嶋姫(おきつしまひめ)を祭って、大島の中津宮(なかつみや)に江之嶋姫(えのしまひめ)を祭って、宗像(むなかた)市の総社・辺津宮(へつみや)に市杵嶋姫(いちきしまひめ)を祭って、総合して宗像(むなかた)大社と宗像(むなかた)三神として、2024年4月に3つ子と求めた。
宗像(むなかた;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)の息子の野見宿禰(のみのすくね)は、早子(はやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)を養子にして、その3つ子の娘が宗像(むなかた)3神と名付けて神格化して、宗像(むなかた)3神の宗像(むなかた)が名前の由来である理由が『ホツマツタエ』にあるかもしれない。
宗像(むなかた)大社と宗像(むなかた)三神は、これ以上細かく求めなくて、他人に任(まか)せる。

沖ノ島(おきのしま)は、12万点以上の考古学的証拠が出土して、その多さから「海の正倉院」と呼ばれて、2017年7月9日に世界遺産に登録されて、島を荒らされないように宮司以外立ち入り禁止とされて、僕が詳細に分析する。
沖ノ島(おきのしま)は、福岡県宗像(むなかた)市がある九州本土から約60kmで、韓国の釜山(プサン)から約145kmで、日本列島と朝鮮半島と中国を往来する航海の道しるべの役割を果たして、弥生時代中頃でなく、弥生時代後半の九州平定の景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦202年から209年)以降から航海安全の祭りをして、4世紀から9世紀まで祭祀(さいし)が盛んに行なわれた。
沖ノ島(おきのしま)は、縄文時代前期にニホンアシカ漁をして、出土した縄文土器などから、九州北部や瀬戸内海や山口県などから漁師がやって来て、細形銅矛(ほそがたどうほこ)が出土して、九州平定より後の考古学的証拠と考えられる。

沖ノ島(おきのしま)は、4世紀後半から5世紀に岩上(がんじょう)祭祀で、5世紀後半から7世紀に岩陰(いわかげ)祭祀で、7世紀後半から8世紀前半に半岩陰(いわかげ)・半露天(ろてん)祭祀で、8世紀から9世紀末頃が露天(ろてん)祭祀に変わって、奉納品の内容も変化して、朝鮮半島や古代中国の物も少なくない。
4世紀後半から5世紀の岩上(がんじょう)祭祀は、履中(りちゅう)天皇元年(西暦367年)から允恭(いんぎょう)天皇元年(西暦378年)ぐらいに始まって、5世紀後半から7世紀の岩陰(いわかげ)祭祀が顕宗(けんそう)天皇元年(西暦458年)から武烈(ぶれつ)天皇元年(西暦475年)ぐらいに始まって、7世紀が飛鳥(あすか)時代の最中で、古墳時代から倭(わ)の五王時代の年代区分が僕の自論で間違っていない。
7世紀後半から8世紀前半に半岩陰(いわかげ)・半露天(ろてん)祭祀は、奈良時代の最中から平安時代前期までで、8世紀から9世紀末頃に露天(ろてん)祭祀が終わって、平安時代前期から中期ぐらいである。

4世紀後半から5世紀に岩上(がんじょう)祭祀は、瀛津嶋姫(おきつしまひめ)を祭る沖津宮(おきつみや)の社殿の北側に集中する巨岩を信仰の対象として、最も古い形が巨岩を神様が降臨する磐座(いわくら)で、岩の上に石を敷(し)いて奉納品を配置して、17号祭祀(さいし)遺跡で三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)3面が発見された。
三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)でなく、男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇への献上品で、魏王朝以降の国産の銅鏡と考えられて、八咫鏡(やたのかがみ)の代用品として、重宝(ちょうほう)したと考えられる。
21号祭祀(さいし)遺跡は、玄界灘(げんかいなだ)を望む巨岩上に人頭大の石を並べて、一辺2mほどの方形の祭壇をもうけて、その中央に大石を置いて、神様の依代(よりしろ)として、その周囲に各種の玉や鉄製の武器・武具・農耕具や銅鏡や祭祀具などが出土して、岩上(がんじょう)祭祀の最も完成した形である。
岩上(がんじょう)祭祀は、5世紀の倭(わ)の五王時代に入って、古代中国の南朝宋王朝などと外交して、国際色豊かな奉納品に変化して、祭祀(さいし)形態も変化したと考えられる。

5世紀後半から7世紀の岩陰(いわかげ)祭祀は、巨岩の岩陰(いわかげ)の地面を区画して祭祀場を設けて、奉納品を岩のせり出しよりも、外側に出ないようにそなえて、銅鏡が少なくなって、鉄製の武器・武具・農耕具が増えて、ミニチュアの鉄器や石製模造品も多く祭祀の道具にして、国際性が豊かな奉納品が確認できた。
7号遺跡は、金銅性のきらびやかな馬具セットや金製の指輪が出土して、馬具セットが古代朝鮮南部の新羅(しらぎ)の辺りで作った可能性が高くて、金製の指輪が正面の花弁形の装飾が特徴で、このような指輪が新羅(しらぎ)の王族の古墳で副葬品となって、おそらく新羅(しらぎ)から持ち込んだとと考えられる。
8号遺跡は、ササン朝ペルシアで作ったと考えられるカットグラス鋺(わん)の破片が出土して、外側に浮き出しの円文をほどこして、このようなガラス容器が日本で、正倉院の宝物や伝・安閑(あんかん)天皇陵の出土品で、新羅(しらぎ)でも類例がある。
このような国際色の豊かな奉納品は、日本列島から朝鮮半島そして中国や西域へと続く交易・交渉のシルクロードがあって、人々が盛んに往来して、沖ノ島(おきのしま)を航海安全の祭祀場として祭って、祭祀した人物に渡来人がいたかもしれない。

7世紀後半から8世紀前半に半岩陰(いわかげ)・半露天(ろてん)祭祀は、祭祀の道具が石製模造品(形代;かたしろ)を使う一方で、土器や金属製雛形品(ひながたひん)が主流になった。
金属製雛形品(ひながたひん)は、鉄や金銅のうすい板で作った人や器物を模(も)した者で、人形(ひとがた)や楽器や武器や工具や容器などがあって、このような道具の成立が7世紀後半頃の律令(りつりょう)祭祀への意向を反映した。
この段階でも国際色の豊かな奉納品は、中国や新羅(しらぎ)からもたらされた金銅製龍頭(りゅうとう)や唐三彩(とうさんさい)などが代表的である。

8世紀から9世紀末頃に露天(ろてん)祭祀は、祭祀場が巨岩から離れて、沖津宮(おきつみや)の社殿南西に広がる緩斜面(かんしゃめん)に移動した。
1号遺跡は、その典型的な例で、南北10m×東西9mに区画した方形状の祭壇がもうけられて、祭祀の道具や奉納品が半岩陰(いわかげ)・半露天(ろてん)祭祀の段階や日本各地の祭祀場と共通して、一方で朝鮮半島や中国などの由来の奉納品が見られなくなった。
他に特徴的な物は、奈良三彩(ならさんさい)や皇朝銭(こうちょうせん)や八稜鏡(はちりょうきょう)などで、このようなあり方が律令(りつりょう)祭祀の普及で、祭祀の形が定型化したことを繁栄した。
1号遺跡は、石製模造品(形代;かたしろ)や土器の出土量が膨大なのが大きな特徴で、祭祀場を固定して、長期間を繰り返して祭ったか、祭祀場として機能して、おそらく社殿ができた後に廃棄場所になったと考えられる。

4世紀後半から9世紀まで続いた沖ノ島(おきのしま)の祭祀は、9世紀末から10世紀初頭の遣唐使に代表される国際的な外交が終わって、唐(とう)や新羅(しらぎ)や渤海(ぼっかい)などの相次ぐ滅亡などで、国際情勢が変動して、沖ノ島(おきのしま)の国家的な祭祀が終わった。
しかし以降も長い間は、島そのものを御神体として、信仰の対象であり続けて、今も宗像(むなかた)三神の瀛津嶋姫(おきつしまひめ)を祭った沖津宮(おきつみや)として祭り続ける。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『ここが変わる!日本の考古学 先史・古代史研究の最前線』
藤尾慎一郎:松木武彦・編者 株式会社吉川弘文館・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借

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