西暦251年の内乱


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

『日本書紀』で景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に景行天皇は崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が東海平定に出陣したため、大和に天皇となれる人物が不在の状態となった。

景行天皇の崩御は卑弥呼の男弟の死で、倭姫命(やまとひめのみこと;卑弥呼)の異母弟(男弟)の景行天皇が亡くなった。
ここで問題となったのが次の天皇を誰にするかで、皇太子が不在の状態で皇位継承権を持つ皇族たちが我先にと競い合って、誰が天皇になるかで皇位継承権争いが起こったと予想される。
『ホツマツタエ』は景行天皇56年に献上されて、それ以降が記されないとするが、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)が記されて、間違いなく偽装工作である。
景行天皇は垂仁天皇20年の真冬(西暦170年12月頃から171年2月頃)に生まれて、亡くなった年齢が実年齢で79才と考えられる。

景行(けいこう)天皇46年1月(西暦251年2月頃)に景行天皇は、七草の御饗(みあえ)で歌合(うたあわせ)をもよおして、この宴が日を重ねて行なわれたが、息子の稚足彦尊(わかたりひこのみこと)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が宮に参上せず、そこで二人を呼んで理由を聞くと、「御饗の日は皆が遊びに興じて、政務を忘れがちになります。邪(よこしま)な者があればこの機を狙うでしょう。ゆえに御垣(みかき)を守護しておりました」と答えた。
景行天皇は、「もっともじゃ」と言われて、その忠義を讃(たた)えて両名に褒美(ほうび)を与えられて、8月4日に稚足彦尊を皇太子に立て、初代・武内宿禰を宗(むね)の臣とされて、稚足彦尊と初代・武内宿禰が同じ年齢と記すが、同日生まれの間違いである。
景行天皇46年8月4日(西暦251年9月上旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)を皇太子でなく、皇族の誰にも認められず、二種の神器か三種の神器を強奪して、強行即位して日本武(やまとたけ)天皇になったと考えられる。

『ホツマツタエ』の景行天皇46年1月と8月4日の記述は、『日本書紀』で景行天皇51年に改められて、日本武尊の反乱が西暦251年(天皇不在の年)と示す記述で、『ホツマツタエ』も『日本書紀』も日本武尊の不在の年を把握して、西暦年を知っていたから年代変更できたと考えられる。
景行(けいこう)天皇46年1月(西暦251年2月頃)に邪な者が日本武尊の兄弟で、皇太子不在の時に邪心を持った皇位継承者が互いに争って、大和に皇太子不在での混乱を指し示す。
初代・武内宿禰を大臣にしたのは、景行天皇の曾孫が初代・武内宿禰で、『ホツマツタエ』に武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰を神格化)が忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)の右の臣と記して、仲哀天皇時代に初代・武内宿禰が右大臣になったと考えられる。
日本武尊と初代・武内宿禰が同じ年齢なのは間違いで、『日本書紀』の成務(せいむ)天皇3年の記述から同日生まれが正しいと考えられる。
日本武天皇は、二種の神器か三種の神器を持って出雲王国に亡命して、邪馬台国(やまとこく;大和国)で仲哀天皇が二種の神器か三種の神器を使って即位したと考えられる。
日本武天皇の強行即位日が謎だったが、2017年10月5日にようやく求めることができた。
日本武尊が成務(せいむ)天皇と同一人物なのは、僕の自論で多くを述べてきた。

『日本書紀』仲哀天皇元年11月1日に仲哀天皇が諸国に命令して白鳥を献上させて、閏年(うるうどし)11月4日に越(こし)の国(北陸)から白鳥4羽を献上して、蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が白鳥を焼くと黒鳥になるだろうと言って、白鳥を無理に奪(うば)って、父(日本武尊)と兄(仲哀天皇)に叛(そむ)いて、兵を派遣して殺した。

旧暦の閏年11月4日(西暦251年12月上旬頃)に越の国(北陸)に向かったのは武虎別皇子(たけこわけのみこ)で、献上された白鳥4羽が東海平定に向かった武将4人(吉備武彦(きびたけひこ)と大伴武日(おおとものたけひ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の意味)で、間違いなく日本武尊の反乱を指すと考えられる。
蘆髪蒲見王は、白鳥を焼くと黒鳥になるだろうと言ったのが父(日本武尊)と兄(仲哀天皇)への謀反(むほん)を意味して、皇位継承権争いで討伐したのが間違いない。
旧暦の11月1日から閏年11月4日に蘆髪蒲見王を討伐したか不明で、蘆髪蒲見王の戦死した月日が不明である。

2020年9月12日に僕は、西暦251年の日本武尊の反乱で、日本武尊以外の皇位継承者2人にようやく気付いて、日本武尊の息子の仲哀天皇が反乱の終了から2ヶ月弱で即位して、仲哀天皇を皇位継承者に数えていない記述をしたとようやく気付いた。
仲哀天皇の異母弟の蘆髪蒲見王が3人目の皇位継承者で、日本武尊と弟橘媛(おとたちばなひめ)の息子である。
西暦251年の皇位継承権争いの皇位継承者は、日本武尊とその息子の仲哀天皇と蘆髪蒲見王の3人が判明して、もっといたかもしれないが、これ以上を求めるのが不可能だろう。
仲哀天皇元年(西暦252年)は、成務天皇元年(西暦251年)の間違いと考えられて、西暦251年の皇位継承権争いに蘆髪蒲見王がいた確実な記述である。
仲哀天皇元年11月1日の次に閏年(うるうどし)11月4日を記すのは、年月日の特定に意味不明の記述で、全く訳(わけ)が分からなくて、明治時代の年月日の特定がこの閏年を無視したと考えられる。
以降は仲哀天皇と蘆髪蒲見王を皇位継承者から外(はず)して、皇位継承者の日本武尊の討伐だけを記述する。

崇神(すじん)天皇10年9月15日(西暦251年10月中旬頃)に大彦命(おおびこのみこと)一行は那羅坂(ならさか;奈良市近郊の奈良坂)に至って、そこで少女が歌を歌って誰かが崇神天皇の皇位を狙っていると言うので、大彦命が引き返して崇神天皇の元に戻った。
9月17日(西暦251年10月中旬頃)に大彦命は皇居に引き返して、那羅坂で少女が歌っていたのを話して諸臣で会議をして、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が賢くて歌の意味を理解して、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が謀反(むほん)を起こそうとして、妻の吾田媛(あたひめ)と共謀して、国を奪おうとしていると告げた。

西暦251年何月か日本武尊の元に父の景行天皇の死去を伝令して、日本武尊に同行した吉備武彦(きびたけひこ)を連絡役として、異母兄弟で北陸平定に向かった武虎別皇子(たけこわけのみこ)の所に行かせて、東海平定を武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰と大伴武日(おおとものたけひ)に続けさせて、日本武尊が大和に帰還した。
9月17日(西暦251年10月中旬頃)に日本武天皇(武埴安彦命に祖先化)より遅れて大和に戻った武虎別皇子(大彦命に祖先化)は、日本武天皇(武埴安彦命に祖先化)と妻の弟橘姫(吾田媛に祖先化)が反乱を起こしたと倭姫命(倭迹迹日百襲姫命に祖先化)に聞いた。

崇神天皇10年9月17日(西暦251年10月中旬頃)以降に倭迹迹日百襲姫命の死を記して、メ月1日(西暦251年11月下旬頃)に武埴安彦命の反乱が終わって、日本武天皇がこの間に倭姫命を殺して、謎の年月のメ月が10月と考えられる。

倭迹迹日百襲姫命は、大物主神(おおものぬしのかみ)の妻になって、夫の大物主神が小さな蛇の姿に驚いて、正体を見られた大物主神が三輪山(みわやま)に帰って、それを恥(は)じた倭迹迹日百襲姫命が愕然(がくぜん)と腰を下ろすと、箸で陰部を突いて亡くなって、倭迹迹日百襲姫命を箸塚(はしづか;箸墓(はしはか)古墳)に葬礼した。

倭姫命は伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕える未婚の皇女)で、古代太陽神の大物主神の妻である倭迹迹日百襲姫命と共通して、系図の祖先化で倭迹迹日百襲姫命が倭姫命を祖先化した。
日本武天皇は伯母(おば)の倭姫命を殺して、これが卑弥呼の死で、太陽神殺しと呼べる行為で、日本武天皇の抹殺命令が出された。
倭迹迹日百襲姫命の名前は、倭(やまと;大和)の迹(あと;東海平定)の迹(あと;伊勢)で日(ひ)が百人に襲(おそ)われた姫(ひめ)の命(いのち)と解釈できて、日本武尊が大和から東海平定に行って、戻って来て伊勢で倭姫命を襲撃して、亡くなったことを指し示す。
僕は長い間に渡って、日本武尊が倭姫命を事故死か自殺させたと思い込んで、天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命を神格化)の体が傷ついた神話と倭迹迹日百襲姫命(倭姫命を祖先化)が陰部を突いて死んだ話を重ね合わせて、事故死した記述の整合性を考えたからで、日本武天皇が倭姫命を殺したのが正しいと考えられる。
倭姫命(やまとひめのみこと;卑弥呼)は垂仁天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)生まれで、崇神天皇10年9月17日(西暦251年10月中旬頃)から末日(10月下旬頃)に亡くなって、享年88才(実年齢)と考えられる。
古代太陽神アマテルカミの斎王を隠居して、静かに祭る倭姫命を殺害した日本武天皇は、まさに太陽神殺しの行為をして、古代天皇家の最大の禁忌をおかした。
全長280メートルの前方後円墳の箸墓古墳は、倭姫命(卑弥呼)の異母弟(男弟)の景行天皇陵である。

諸臣が審議をしている時、すでに武埴安彦命と吾田媛が軍を起こして、武埴安彦命が山城(京都府南部)から吾田媛が大坂(奈良県香芝市逢坂付近)と別の道から、同時に襲撃を開始して、崇神天皇は詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、五狭芹彦命(いさせりひこのみこと)を大坂に向かわせて、吾田媛を討ち破ってついに殺して、武埴安彦命の討伐に大彦命と彦国葺(ひこくにふく)を向かわせた。

日本武天皇が山城(京都府南部)で、妻の弟橘姫が大坂(奈良県香芝市逢坂付近)に進軍して、抹殺指令を受けた武将たちは垂仁(すいにん)天皇の皇子の誰かがどこかで弟橘姫を殺して、日本武天皇の討伐に異母兄弟の武虎別皇子と和珥(わに)氏の誰かが選ばれた。
五狭芹彦命が垂仁天皇の皇子の誰かで、五狭芹彦命が倭迹迹日百襲姫命の実弟だから誰か分からず、彦国葺が崇神天皇10年頃の人物で西暦251年に生きたわけがなく、崇神天皇時代後半に彦国葺の孫の潮乗津彦(しおのりつひこ)が出てきて、彦国葺の代わりに当たる武将が誰か分からないが、彦国葺と同じ和珥氏の出身の人物と考えられる。
日本武尊の東海平定に妻の弟橘姫が同伴したのが嘘で、物々しい戦場に妃の同伴がおかしくて、弟橘姫が入水(じゅすい)自殺して暴風を鎮めたのが創作で、武埴安彦命の妻の吾田媛として戦死した実話を美化した。
『ホツマツタエ』7章は、スサノヲ(日本武尊を神格化)が女神コマスヒメハヤコ(弟橘姫を神格化)と密通してたぶらかされて、コマスヒメハヤコがアマテルカミ(正しくはツキヨミ;景行天皇を神格化)の妻でもあって、日本武尊と妻の弟橘姫と共謀して反乱が起こった。
弟橘姫は景行天皇と息子の6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)をもうけて、景行天皇の皇太子の日本武尊の妻でもあって、親子の妻として何らかの確執(かくしつ)を生んだと考えられて、日本武尊と妻の弟橘姫が出雲王国(物部(もののべ)氏)の傾国(けいこく;国を傾(かたむ)ける)の夫婦である。

彦国葺は山城の和珥武髞(わにたけすき;奈良県添上郡南部)に忌瓮(いんべ)を据(す)えて天神地祇に祈って、兵を率(ひき)いて戦いにのぞみ、木や萱草(かやくさ)を踏み進み分けて、那羅坂(ならさか;奈良市北郊の奈良坂)にて勝利を収めて、皆で拍手を打って喜んで、また大彦命の兵が下の道を行って、輪韓川(わからかわ;木津川か?)の岸で胡床(あぐら)を据えて武埴安彦命の軍と相対した。
武埴安彦命は川北に位置して、彦国葺を見て言って、「お前は何ゆえに我が軍を拒(こば)まんとするのか」「お前が天の道にそむくのを討とうと思うからだ」と、すると両者が先を争って矢を射たが、武埴安彦命が射た矢が当たらず、天津神(あまつかみ)の守護があってか彦国葺が射た矢が武埴安彦命の胸を打ち抜いて殺した。
武埴安彦命の兵が大将を殺されたので逃げ出そうとして、彦国葺が追い打ちをかけて、すると残兵たちが「我君我君(わきみわきみ;我が君)」と叫(さけ)びながら流れるように逃げて行って、神軍が剣を収めて皇居に帰った。

和珥氏の出身者が和珥武髞(奈良県添上郡南部)に兵を率いて戦いにのぞみ、木などを踏み進み分けて、那羅坂(奈良市北郊の奈良坂)で日本武天皇の軍に勝利を収めて、また武虎別皇子の兵が下の道を行って、輪韓川(木津川か?)の岸で日本武天皇の軍と相対した。
日本武天皇は川北に位置して、和珥氏の出身者と対峙して、両者が先を争って矢を射て、日本武天皇が射た矢が当たらず、天津神の守護があるのか和珥氏の出身者が射た矢が日本武尊を追いつめて、日本武天皇の兵たちに勝ち目がないと悟って逃げ出して、出雲王国に亡命することにした。
和珥氏の出身者が追い打ちをかけて、日本武天皇の残兵たちが流れるように逃げて行って、武虎別皇子たちが勝利して、皇居の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)に帰った。

崇神天皇10年メ月初日(西暦251年11月上旬頃)に詔して、「大和国内を平定したが、他国がまだ平定されず、四道(しどう)将軍は出発してほしい」と言って、武埴安彦命の反乱を終わらせて、22日(11月下旬頃)に四道将軍が地方の平定に再び向かった。

崇神天皇10年10月1日(西暦251年11月上旬頃)に日本武尊の反乱を終わらせて、10月22日(11月下旬頃)に武虎別皇子が北陸の平定に再出撃して、謎の年月のメ月が10月と考えられる。

景行天皇40年10月2日が正しくは10月2日(西暦251年11月上旬頃)で、日本武尊が大和から伊勢路を進んで7日、伊勢のアマテルカミ(天照神)とトヨケ(豊受)を詣(もう)で、戦いの勝利を祈った後、磯宮(いそのみや;伊勢市の磯(いそ)神社)の倭姫命に暇乞(いとまご)いして、父の景行天皇より蝦夷(えみし)討伐を命じられたと倭姫命に告げて、倭姫命から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授けられた。

この『ホツマツタエ』の記述は、東海平定から近畿地方に戻った日本武尊は、伊勢神宮内宮(アマテルカミ)を襲撃して天叢雲剣(草薙剣;くさなぎのつるぎ)を強奪して、その後に磯神社の倭姫命を殺したと示す嘘の作り話である。
『日本書紀』で天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命を神格化)は、弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武天皇を神格化)が高天原(たかまがはら;伊勢)にやって来て、天照大神が武装して対峙(たいじ)して、日本武尊の反乱を示す。
10月2日(西暦251年11月上旬頃)に大和を脱出した日本武天皇は、7日後の10月9日(11月上旬頃)に出雲王国(物部氏)へ亡命するためどこかの道を進んで、出雲の古代太陽神の7代目・大物主神(飯入根(いいいりね)を神格化)に助けを求めて、7代目出雲国王で日本武天皇の婿(むこ)養子の飯入根が草薙剣を保管したと考えられる。
日本武天皇は、大阪湾か京都府北部の海岸から出雲王国へ亡命して、それを神話化したのが因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)神話で、サメ(日本武天皇を追撃する皇族や古代豪族たち)の上を渡った白兎(日本武天皇を神格化)が陸に上がって、大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根を神格化)に助けられた。
白兎(日本武天皇を神格化)は、船で追撃するサメ(皇族や古代豪族たち)から逃れて、婿養子の大国主神(飯入根を神格化)に草薙剣を渡して、根(ね)の国下り神話の素戔嗚尊(日本武天皇を神格化)が大国主神(飯入根を神格化)に生太刀(いくたち;草薙剣か?)を受け継がせたと考えられる。

『三国志・魏志倭人伝』に「卑弥呼以死…更立男王、国中不服、更相誅殺、當時殺千余人」と記して、倭姫命(卑弥呼)が殺されて…日本武尊(男王)が天皇になったが、皇族たちが全て反対して、互いに殺し合って当時数千人余りが殺されたと解釈できる。
日本武尊は三種の神器や十種(とくさ)の神宝(かんだから)などの宝物を持って出雲王国に亡命して、後にそれらを取り戻すための外交がされる。
男弟の死と卑弥呼の死と男王の反乱は、『三国志・魏志倭人伝』に記す邪馬台国(やまとこく;大和国)の2度目の内乱で、景行天皇の死去で西暦251年の天皇不在の年に起きた動乱で、『ホツマツタエ』と「記紀」の編者が最も隠したかった古代天皇家の汚名で、僕以外に決して求められない。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
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