西暦251年の内乱


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

邪馬台国は女王の卑弥呼が狗奴国(くぬこく)の戦争で戦死したとか西暦248年9月5日の皆既日食で殺されたとか架空の推論を作って、その後に男王が立って、さらにその後に女王の台与(とよ)が即位したなど根拠のない憶測を現代日本人が信じている。
邪馬台国論争は支離滅裂な理論が乱雑して、「記紀」などの歴史書を無視したり無理矢理の根拠を引っ張り出して架空の推論で混乱させている。
現代人(日本人と世界中の人々)はどんなに頑張っても一生答えを出せなくて、古代日本史を求めるのにアインシュタイン博士以上の超頭脳が必要で、世界でただ一人の僕だけが正しい正史を知っている。
邪馬台国(古代天皇家)は卑弥呼の死と男王の反乱が同時期で、『ホツマツタエ』と『日本書紀』などを駆使すれば正しい答えが示せる。

『ホツマツタエ』景行(けいこう)天皇53年から54年にかけて日本武尊(やまとたけのみこと)の巡った国々を景行天皇が回ったのは、あり得ない話で死んでいない日本武尊(やまとたけのみこと)に哀悼(あいとう)の意味を送る記述として創作された。
景行天皇40年が正しくは景行天皇60年6月(西暦250年7月頃)で、ホツマ国(東海地方)の蝦夷(えみし)が侵略して騒がしく、景行天皇が諸臣を集めて誰を派遣して平定したら良いか相談された。
皇太子の日本武尊が双子の兄の大碓命(おおうすのみこと)を派遣したら良いと言うが、大碓命は創作…架空の人物と考えられて作り話である。
『日本書紀』で日本武尊は、別名を小碓尊(おうすのみこと)とも記されて、末名を「尊(みこと)」と記す人物が国政執行した者だけで、他書で日本武尊が天皇と記されて、成務(せいむ)天皇と同一人物と考えられて、特別扱いの皇子が皇太子の正体なら簡単に説明が付く。
成務天皇は60年間の在位期間でなく、1年未満の在位期間で、西暦251年だけに即位した皇室に認められない日本武(やまとたけ)天皇の正体で、皇室に認められなかった逆賊の天皇だった皇太子である日本武尊の成(な)れの果てである。
景行天皇40年が正しくは景行天皇60年10月2日(西暦250年11月上旬頃)で、日本武尊が皇居を出立されて東海平定に向かって、時を同じくして北陸平定に向かったのが異母兄弟の武虎別皇子(たけこわけのみこ)で、武虎別皇子を祖先化した大彦命(おおびこのみこと)が北陸の四道(しどう)将軍である。
皇太子の日本武尊を守る武将は、日本武尊の従兄弟の吉備武彦(きびたけひこ)、有力武家出身の大伴武日(おおとものたけひ)、日本武尊の甥の武渟川別(たけぬなかわわけ)、日本武尊と遠い親戚関係の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の4名で、七掬脛(なつかはぎ;武渟川別の弟の比古伊那許士別命(ひこいなこしわけのみこと)に当たると考えられる)を膳部(かしわでべ;食事係)として軍を整えた。
武渟川別は東海の四道将軍で、武虎別皇子の長男として優秀な武将と考えられて、西暦250年からの東海平定で活躍した。
日本武尊は武将でも皇太子だから、護衛する武将を多く引き連れていても不思議でない。
北陸と東海の平定将軍は、景行天皇の息子の中でも武勇に秀でた皇太子の日本武尊と異母兄弟の武虎別皇子に任されて、これが運命の分かれ目になった。

『日本書紀』で景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に景行天皇は崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)されたと記して、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が東海平定に出陣していたため、大和に天皇となれる人物が不在の状態となった。
ここで問題となったのが次の天皇を誰にするかで、皇太子が不在の状態で皇位継承権を持つ皇族たちが我先にと競い合って、誰が天皇になるかで皇位継承権争いが起こったと予想される。
景行天皇の崩御は卑弥呼の男弟の死で、倭姫命(やまとひめのみこと;卑弥呼)の異母弟(男弟)の景行天皇が亡くなった。
『ホツマツタエ』は景行天皇56年に献上されて、それ以降が記されていないとされるが、神武(じんむ)天皇(後世の仁徳(にんとく)天皇を祖先化)が記されて、間違いなく偽装工作である。
専門家は幾ら『日本書紀』を読んでも一生皇位継承権争いにたどり着けず、これがアインシュタイン博士以上の天才の僕が持つ実力である。

景行(けいこう)天皇46年1月(西暦251年2月頃)に景行天皇は七草の御饗(みあえ)で歌合(うたあわせ)をもよおして、この宴が日を重ねて行なわれたが、息子の稚足彦尊(わかたりひこのみこと)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が宮に参上せず、そこで二人を呼んで理由を聞くと、「御饗の日は皆が遊びに興じて、政務を忘れがちになります。邪(よこしま)な者があればこの機を狙うでしょう。ゆえに御垣(みかき)を守護しておりました」と答えた。
景行天皇は、「もっともじゃ」と言われて、その忠義を讃(たた)えて両名に褒美(ほうび)を与えられて、8月4日に稚足彦尊を皇太子に立て、初代・武内宿禰を宗(むね)の臣とされて、稚足彦尊と初代・武内宿禰が同い年だった。
景行天皇46年8月4日(西暦251年9月上旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)を皇太子に立てたのでなく、皇族の誰にも認められず強行即位した日本武(やまとたけ)天皇になった。

『ホツマツタエ』の景行天皇46年1月と8月4日の記述は、『日本書紀』で景行天皇51年に改められて、日本武尊の反乱が西暦251年にあったことを示す記述で、『ホツマツタエ』も『日本書紀』も日本武尊の不在の時期を把握したと考えられる。
西暦251年2月頃に邪な者が日本武尊の同母兄弟や異母兄弟のことで、皇太子不在の時に邪心を持った皇位継承者が互いに争って、稚足彦尊と初代・武内宿禰が東海平定に行って大和に不在での混乱を指し示す。
初代・武内宿禰を宗の臣という大臣にしたのが、景行天皇の曾孫が初代・武内宿禰で大臣にしたのが嘘で、『ホツマツタエ』に初代・武内宿禰を神格化した武甕槌神(たけみかづちのかみ)が仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化した忍穂耳尊(おしほみみのみこと)の右の臣と記されて、仲哀天皇時代に初代・武内宿禰が右大臣だったと考えられる。
日本武尊と初代・武内宿禰が同い年というのは間違いで、『日本書紀』の成務(せいむ)天皇3年の記述から同日生まれが正しいと考えられて、日本武天皇の強行即位日が謎だったが、2017年10月5日にようやく求めることができた。
日本武尊は伊勢神宮内宮や大和(おおやまと)神社などに向かって三種の神器をそろえて、日本武天皇として強行即位することで事態を解決しようとした。

日本武尊の反乱に関わる記述なのが崇神(すじん)天皇10年の大彦命の部分で、大彦命に祖先化された日本武尊の異母兄弟の武虎別皇子が活躍する所である。
崇神天皇10年9月15日(西暦251年10月中旬頃)に大彦命一行は那羅坂(ならさか;奈良市近郊の奈良坂)に至り、そこで少女が歌を歌って誰かが崇神天皇の皇位を狙っているというので、大彦命が引き返して崇神天皇の元に戻った。
その意味は西暦251年何月か日本武尊の元に父親の景行天皇の死去を伝える伝令があり、日本武尊に同行していた吉備武彦を連絡役として異母兄弟の武虎別皇子の所に出発させて、日本武尊が大和に帰還するために東海平定を武渟川別と初代・武内宿禰と大伴武日に続けさせ、日本武尊が大和に帰還した。
西暦251年10月中旬頃に日本武天皇より遅れて大和に戻った武虎別皇子は、日本武天皇の反乱を止めるために帰還した。

9月17日(西暦251年10月中旬頃)に大彦命は皇居に引き返して、那羅坂で少女が歌っていたのを話して諸臣で会議をして、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が賢くて歌の意味を理解して、武埴安彦(たけはにやすひこ;日本武天皇を祖先化)が謀反(むほん)を起こそうとして、妻の吾田媛(あたひめ;伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を子孫化)と共謀して国を奪おうとしていると告げた。
西暦251年10月中旬頃に武虎別皇子は日本武天皇が妻の伊香色謎命と共に反乱を起こしたことを倭姫命に聞いた。
日本武天皇は伯母(おば)の倭姫命の助言が邪魔となって倭姫命を殺して、これが卑弥呼の死の真実で、太陽神殺しと呼べる行為をして日本武天皇の抹殺命令が出された。

倭迹迹日百襲姫命の名前は倭(やまと;大和)の迹(あと;東海平定)の迹(あと;伊勢)で日(ひ)が百人に襲(おそ)われた姫(ひめ)の命(いのち)と解釈できて、日本武尊が大和から東海平定に出掛けて、戻ってきて伊勢で倭姫命を襲撃して亡くなったことを指し示して、系図の祖先化で倭迹迹日百襲姫命が倭姫命を祖先化したのが確かである。
日本武天皇は妻の弟橘媛(おとたちばなひめ;伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を子孫化)と協力して天皇にとして認めさせようとしたが、異母兄弟の武虎別皇子の活躍によって鎮圧された。
武埴安彦が日本武天皇を祖先化した人物で、妻の吾田媛が弟橘媛を祖先化した人物になって、武埴安彦と妻の吾田媛が謀反を起こしたのが、日本武天皇と妻の伊香色謎命の反逆行為を意味する。
日本武尊の東海平定に妻の弟橘媛が同伴したのが嘘で、物々しい戦場に妃の同伴がおかしくて、弟橘媛が入水(じゅすい)自殺して暴風を鎮めたのが創作で、武埴安彦の妻の吾田媛として戦死した実話を美化したのである。
『ホツマツタエ』7章はスサノヲ(日本武尊を神格化)が女神コマスヒメハヤコ(伊香色謎命を神格化)と密通してたぶらかされて、コマスヒメハヤコがアマテルカミ(正しくはツキヨミ;景行天皇を神格化)の妻で、伊香色謎命と共謀して日本武尊の反乱が起こったと解釈できる。

僕は長い間に渡って日本武尊が倭姫命を事故死か自殺させたものと思い込んでいたが、その理由が天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命を神格化)と倭迹迹日百襲姫命の陰部が傷ついた話を重ね合わせて事故死した記述の整合性を考えたからで、だが本当に日本武天皇が邪魔な倭姫命を殺したのが正しいだろう。
倭姫命は垂仁天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)生まれの旧暦9月17日(西暦251年10月中旬頃)以降に亡くなったから88歳で亡くなった。
太陽神アマテルカミに仕える巫女の倭姫命を殺害した日本武天皇は、まさに太陽神殺しの行為をして古代天皇家最大の禁忌をおかした。

諸臣が審議をしている時、すでに武埴安彦と吾田媛が軍を起こして、武埴安彦が山城(京都府南部)から吾田媛が大坂(奈良県香芝市逢坂付近)と別の道から、同時に襲撃を開始して崇神天皇は五狭芹彦(いさせりひこ)を大坂に向かわせて吾田媛を討ち破りついに殺して、武埴安彦の討伐に大彦命と彦国葺(ひこくにふく)を向かわせた。
彦国葺は山城の和珥武髞(わにたけすき;奈良県添上郡南部)に忌瓮(いんべ)を据え天神地祇に祈り、兵を率(ひき)いて戦いにのぞみ、木や萱草(かやくさ)を踏み進み分けて那羅坂(ならさか;奈良市北郊の奈良坂)にて勝利を収め、皆で拍手を打って喜んで、また大彦命の兵が下の道を行き、輪韓川(わからかわ;木津川か?)の岸にて胡床(あぐら)を据えて武埴安彦の軍と相対した。
武埴安彦は川北に位置して彦国葺を見て、両者が先を争って矢を射たが、武埴安彦が射た矢が当たらず、天津神(あまつかみ)の守護があってか彦国葺が射た矢が武埴安彦の胸を打ち抜いて殺した。
武埴安彦の兵が大将を殺されたので逃げ出そうとして、彦国葺が追い打ちをかけて、すると残兵たちが「我君我君(わきみわきみ;我が君)」と叫(さけ)びながら流れるように逃げて行き、神軍が剣を収めて皇居に帰った。

日本武天皇は山城(京都府南部)から皇軍を攻めて、伊香色謎命が大坂(奈良県香芝市逢坂付近)から攻めて、五狭芹彦が垂仁(すいにん)天皇の皇子の誰かで、五狭芹彦が伊香色謎命の討伐に向かってどこかで殺して、日本武天皇の討伐に武虎別皇子と彦国葺(ひこくにふく;和珥(わに)氏の誰か)が選ばれた。
伊香色謎命が戦死したのは吾田媛が殺されて、弟橘媛が東京湾に身投げして日本武尊の東海平定を助けた記述の真の意味で、夫の日本武天皇の反乱を助けて死んだ。
武埴安彦(日本武天皇を祖先化)は戦死したと記すが、本当に死んでいなくて追撃を逃れて出雲王国へ亡命した。

この後で日本武天皇は妻の伊香色謎命が戦死で看取(みと)ることもできず、大阪湾か京都府北部の海岸まで逃れて出雲王国へ亡命して、それを神話化したのが因幡(いなば)の白うさぎ神話である。
『魏志倭人伝』に「卑弥呼以死…更立男王、国中不服、更相誅殺、當時殺千余人」と記されて、倭姫命(卑弥呼)が死んで…日本武尊(男王)が天皇になったが皇族たちが全て反対して、互いに殺し合って当時千人余りが殺されたと解釈できて、まさしく古代天皇家での2度目の内乱である。
日本武天皇は皇位継承物の三種の神器や十種(とくさ)の神宝(かんだから)などの宝物を持って出雲王国に亡命して、それらを取り戻すための外交がされる。

景行天皇41年2月8日(西暦年不明)に日本武尊は碓井(うすい)の坂(群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町の境界の碓氷峠)で亡くなった妻の弟橘媛を想い、吾妻(あづま;我が妻の意味)の伊香色謎命がもう亡くなっている歌を三度詠んでなげいたと記されて、これが東(あずま)の国の名前の始まりだという。
日本武尊が強行即位した反乱で戦死した妻の伊香色謎命を想って吾妻と詠んだのが確かだとしても、日本武天皇の居場所が出雲王国で伊香色謎命が亡くなった土地が大和で、正しいことが理解できない人間だと何も求められない。
東国という時は関東地方を一般的に指すが、日本武尊の物語だと東(あずま)が大和を指すことをしっかり理解しないといけない。
男弟の死と卑弥呼の死と男王の反乱は、『魏志倭人伝』に記された邪馬台国の2度目の内乱で、景行天皇の崩御で西暦251年の空白期間に起きた動乱で、『ホツマツタエ』の編者が最も隠したかったと考えられる古代天皇家の汚名だが、僕以外に求められる人間などいない。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
インターネット

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