「純粋意識」とは何か?

多くの「思い込み」を含む人間の意識は、いつまでたっても個別的な物で、「思い込み」の中から「純粋意識」を取り出して、ハダカになった意識が普遍的(極(きわめ)めて多くの物に当てはまる)になるが、言葉で理解しにくいと思う。
「純粋意識」は、「指向性(志向性)」があって、「指向性」が意識や概念や目に見える像を選び取る性質を持って、僕の「思い込み」の中から取り出した「純粋意識」が常識・固定観念・先入観・理屈・伝統・拡大解釈を排除して、新しいイメージを作り出して、発展した僕の考え方が指向性を示して、極(きわめ)めて多くの可能性を示せる。
これは、僕自身の感覚だから説明しにくいが、僕が高度な考え方のコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)を発揮して、新しい考え方を生み出した時、その新しい答えが色々な考え方に結び付くことを意味して、「指向性(志向性)」が方向性と言い換えても良いだろう。

「純粋意識」の「指向性(志向性)」は、邪馬台国(やまたいこく)論争の鼠算(ねずみざん)方式の「思い込み」で説明できて、専門家の考古学会(遺跡・遺物)と歴史学会(歴史書解釈)の定説を疑(うたが)わず、正しいと信じた凡人(僕以外の人間)がそのまま定説を発展して、正しいか間違いかの根本的な問題を議論しない。
しかし超天才の僕は、専門家(考古学会と歴史学会)の「思い込み」の定説を根本的に疑(うたが)って、そこから「指向性(志向性)」が生まれて、ある方向性に集中して、僕の自論を形成して行って、「思い込み」から「純粋意識」を取り出して、史実・真実・事実に近づいた。

意識があるから物事は、そこにあると分かるのでなく、その間に「知覚」すなわち自分の「意識を向ける」ことでしか物事の存在が分からなくて、たとえば目を開けていても、何だかボーっとして、友人が近づいたことに気付かない場合、意識が別の方向にそれていたために起こる。
意識は、そのままだと何も知覚せず、「指向性」を持った時だけ、何がどこにどうあるか、意識の中に取り入れることができて、これがあまりにも当たり前のことで、現代哲学者フッサールがただ当たり前のことを言葉で表現しただけである。
僕が求めた系図の神格化・祖先化・子孫化は、意識しなければただの古代天皇家の系図だが、意識すれば神格化・祖先化・子孫化された系図と、基礎になった系図の共通性が見えて、意識を向けることで、正しいことを理解できて、当たり前に意識することで答えが分かって、僕のコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)の数々がこのように意識することで、答えが見えてくる物で、意識することが大切と教えてくれる。

友人は、こちらに向かって来るのに気付いた場合でも、意識が知覚を用いて、友人の全体像を確認するわけでなくて、知覚が連発銃のような物で、点の連射があるだけで多様な知覚で、絶え間なく変化する知覚で、まるで素早く天描画を製作するように対象をなぞるが、そうして得た情報を論理的に整理・連携させて、友人の像とするわけでなく、ただ瞬時に総合的に統一して、それが友人だと認める。
しかし意識の知覚は、網羅的(物事が広い範囲や分野に渡る様子)でなく、たとえば友人がこのような服を着てこのような姿で、このような歩き方でなどのコンピュータ的な虱潰(しらみつぶ)しの検証で、自分に分かるのでない。
ちらっと見ただけで友人を認識できるように、ある程度の知覚で我々がすでに統一されたあげくの結論を生んで、ということは人間の認識経験は(ささやかな「思い込み」を含めながら)意識を構成することに他ならない。
つまり我々がそれだと思う物は、それそのもので決してなくて、それへの知覚で得られたレプリカ(複製品)のようなもので、現代哲学者フッサールが物事の存在がこうして構成されるのをレプリカと呼んで、物事がこうして認識されるなら、これが徹底的に厳密な認識でなく、「確信(固く信じて疑(うたが)わないこと)」でしかなくて、我々の意識がこのような作用を持つ以上、我々がこのレプリカ(複製品)で世界を確信するしか手立てがない。

現代日本人は、考古学会(遺跡・遺物)がこれを正しいと言う定説を信じて、一般的な常識(当たり前)の統一見解と「確信(固く信じて疑(うたが)わないこと)」するが、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)の両面から僕が決定的に反論しても、僕の反論する論理的根拠も「確信」にすぎなくて、人間の認識力が「確信」を内在する「純粋意識」を見つけ出すことを探求するしかない。
つまり現代日本人は、専門家の考古学会(遺跡・遺物)と歴史学会(歴史書解釈)の定説を信じず、根本的に正しいか間違いか疑(うたが)って、自分で「確信(固く信じて疑(うたが)わないこと)」を決めて、答えを見つけ出すことが僕のして来た歴史研究の考え方の成長と一緒で、自分を成長させる起爆剤である。

<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『この一冊で「哲学」がわかる!』
著者・白取春彦 発行・株式会社三笠書房
インターネットの不明サイトから少々拝借

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