「純粋意識」とは何か?


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

多くの「思い込み」に包まれた人間の意識は、いつまでたっても個別的なもので、「思い込み」の中から「純粋意識」を取り出してハダカになった意識が普遍的(極めて多くのものに当てはまる)になる。
ここまで来てようやく「純粋意識」は、どのようなものか説明できる。「純粋意識」は「指向性(志向性)」があって、「指向性」は意識や概念や目に見える像を選び取る性質を持つ。
僕の「思い込み」の中から取り出した「純粋意識」は、常識・固定観念・先入観・理屈・伝統を排除して、新しいイメージを作り出して発展させた僕の考え方が指向性を示して、極めて多くの可能性を示せる。
これは自分自身の感覚だから説明しにくいが、コペルニクス的転回を発揮して新しい考え方を生み出した時、その新しい答えが色々な考え方に結びつくことを意味する。

意識があるから物事は、そこにあると分かるのでない。
その間に「知覚」すなわち自分の「意識を向ける」ことでしか物事の存在が分からない。
たとえば目を開けていても、何だかボーっとして友人が近づいたことに気付かない場合は、意識が別の方向にそれていたために起こる。
意識はそのままだと何も知覚せず、「指向性」を持った時だけ何がどこにどうあるか、意識の中に取り入れることができる。
これはあまりにも当たり前のことで、現代哲学者フッサールがただ当たり前のことを言葉で表現しただけである。
僕が求めた系図の祖先化は、意識しなければただの古代天皇家の系図だが、意識すれば祖先化された系図と基になった系図の共通性が見えて、意識を向けることで正しいことを理解できて、当たり前に意識することで答えが分かる。
僕のコペルニクス的転回の数々は、このように意識することで答えが見えてくるもので、意識することが大切と教えてくれる。

友人はこちらに向かっているのに気付いた場合でも、意識が知覚を用いて友人の全体像を確認するわけでない。
知覚は連発銃のようなもので、点の連射があるだけで多様な知覚で、絶え間なく変化する知覚で、まるで素早く天描画を製作するように対象をなぞる。
けれどそうして得た情報を論理的に整理・連携させて、友人の像とするわけでない。
ただ瞬時に総合的に統一して、それが友人だと認める。
しかし意識の知覚は網羅的(物事が広い範囲や分野に渡る様子)でなく、たとえば友人がこのような服を着てこのような姿で、このような歩き方でなどのコンピュータ的なしらみつぶしの検証で、自分に分かるのでない。

ちらっと見ただけで友人を認識できるように、ある程度の知覚で我々はすでに統一されたあげくの結論を生んでいる。
ということは人間の認識経験は、(ささやかな「思い込み」を含めながら)意識を構成することに他ならない。

つまり我々がそれだと思うものは、それそのもので決してなくて、それへの知覚で得られたレプリカ(複製品)のようなものである。
フッサールは物事の存在がこうして構成されるのをレプリカと呼ぶ。
物事はこうして認識されるなら、これが徹底的に厳密な認識でなく、「確信(固く信じて疑わないこと)」でしかない。
我々の意識はこのような作用を持つ以上、我々がこのレプリカで世界を確信するしか手立てがない。
現代日本人は考古学会がこれを正しいと言う北九州4ヶ国(北九州の属国)の定説を信じて、一般的な常識の統一見解と「確信」するが、考古学的証拠と歴史書解釈の両面から僕が決定的に反論して、僕の反論する論理的根拠も「確信」にすぎない。
人間の認識力は、「確信」を内在する「純粋意識」を見つけ出すことを探求するしかない。

<参考文献>
『この一冊で「哲学」がわかる!』
白取春彦・編者 株式会社三笠書房・発行
インターネット

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