古代天皇家の年表


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古代天皇家と邪馬台国(やまとこく;大和国)の年表は、西暦80年代から330年代まで日本神話の神々の領域…神域を完全解釈できる僕にしかひもとけず、専門家(考古学会と歴史学会)を含めた現代人(僕以外の人間)が一生をかけても絶対に求められない奇跡で、西暦年との対比が神技(かみわざ)である。
僕の求めた古代天皇家の年表は、「古代天皇家の歴史」の章と関連して年代に間違いがないはずで、僕のコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)がアインシュタイン博士以上で、これを現代人(僕以外の人間)が超えられない。

西暦80年代初めに大阪府から奈良県に古代天皇家(謎の民族)が侵攻した。
崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に初代の崇神(すじん)天皇が即位で、日本の建国で天皇家誕生である。
  崇神(すじん)天皇を始源神の天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)に神格化した。
  大阪府で弥生時代中期の大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増して、崇神(すじん)天皇の命令で支配下に置いた土地を整備したと考えられる。
  兵庫県淡路市の舟木(ふなき)遺跡と五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡は、弥生時代後期初頭から始まる遺跡で、古代天皇家が鉄器生産をした根拠と考えられる。
  他にも奈良県周辺は、天皇家誕生の頃の考古学的証拠が多くあると考えられる。
崇神(すじん)天皇4年10月23日(西暦87年11月下旬頃)に天照神(あまてるかみ)を笠縫邑(かさぬいのむら)に祭らせて、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を山辺里(やまのべのさと;大和(おおやまと)神社)に祭らせて、三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)を新しく作って、三種の神器を皇位継承の神宝(かんだから)にしようと考えた。
崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)の夜に倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を山辺里(やまのべのさと)に遷宮して、八重垣剣(やえがきのつるぎ)を奉納して、翌日の夜に天照神(あまてるかみ)を笠縫邑(かさぬいのむら)に遷宮して、八咫鏡(やたのかがみ)を奉納して、新しい三種の神器がレプリカ(複製品)だった。
  奈良県天理市の大和(おおやまと)神社は国内最古の神社で、最古の元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら)が所在地不明で、三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と草薙剣(くさなぎのつるぎ;別名を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が別の剣である。
崇神(すじん)天皇10年9月9日(西暦93年10月上旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)を総大将として丹波(たには;古代の京都府北中部)王国に派遣した。
  彦坐王(ひこいますのみこ)を幾つかの男性の古代太陽神に神格化した。
崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)が丹波(たんば)王国の平定を崇神(すじん)天皇に報告した。
  京都府北部と兵庫県北部にかけて弥生時代中期の大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増して、崇神(すじん)天皇の命令で支配下に置いた土地を整備したと考えられる。
  京都府北部で弥生時代後期の鉄器が大量出土して、古代天皇家が鉄器生産をした可能性が高い。
1世紀末〜2世紀前半(弥生時代後期初頭)に彦坐王(ひこいますのみこ)が出雲を平定して、出雲王国(物部(もののべ)氏)を建国した。
  彦坐王(ひこいますのみこ)は、初代・大物主神(おおものぬしのかみ)に神格化して、初代の出雲国王と考えられて、息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)が2代目・大物主神(おおものぬしのかみ)に神格化して、2代目の出雲国王と考えられて、その子孫の物部(もののべ)氏が後の大物主神(おおものぬしのかみ)に神格化して、後の出雲国王とも考えられる。
  出雲の隆盛は、弥生時代後期初頭からで、荒神谷(こうじんだに)遺跡で出土した銅剣が弥生時代中期後半製造でないかとされて、加茂岩倉(かもいわくら)遺跡で出土した銅鐸(どうたく)が弥生時代中期から後期の製造とされて、銅剣と銅鐸が弥生時代後期初頭(西暦100年前後)の物なのが間違いない。
  荒神谷(こうじんだに)遺跡と加茂岩倉(かもいわくら)遺跡の銅鐸と同じ型の分布地域は、参考文献『出雲国風土記と古代遺跡』から古代天皇家の勢力地と合致するのが間違いない。
  弥生時代中期に出雲で四隅突出型墳丘墓が作られて、弥生時代後期に最大級の中谷(なかだに)3号墳が作られて、出雲王家の物部(もののべ)氏が葬礼されたと考えられる。
  鳥取県で弥生時代後期の鉄器が大量出土して、鳥取県が出雲王国の勢力下と考えられて、彦坐王(ひこいますのみこ)が鉄器生産をした可能性が高い。
崇神(すじん)天皇29年1月1日(西暦112年2月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇が出生した。
  垂仁(すいにん)天皇を国生みの男性の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)に神格化した。
崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)に2番目の元伊勢を京都府宮津市の真名井(まない)神社に遷宮して、8月18日(9月中旬頃)に瑞籬(みずがき;石の祭壇)を作った。
  現在の京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社は、西暦719年に創建して、元伊勢籠(この)神社の奥宮で古代信仰の石を祭るのが真名井(まない)神社である。
崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に崇神(すじん)天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、崇神(すじん)天皇の享年(きょうねん)が最低でも93才頃である。
垂仁(すいにん)天皇元年1月1日(西暦152年2月上旬頃)に2代目の垂仁(すいにん)天皇が即位して、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に崇神(すじん)天皇を葬礼した。
  実在の初代の崇神(すじん)天皇陵は、弥生時代後期の大型陵墓で、宮内庁指定の天皇陵の中にあるか不明である。
垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱を皇后の狭穂姫(さほひめ)が告白して、皇位継承権争いが発生した。
  狭穂彦王(さほひこのみこ)を火の神様の軻遇突智(かぐつち)に神格化して、実妹で皇后の狭穂姫(さほひめ)を国生みの女神の伊弉冉尊(いざなみのみこと)に神格化して、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が息子の軻遇突智(かぐつち)を生んで、火傷(やけど)して亡くなって、伊弉冉尊(いざなみのみこと)と軻遇突智(かぐつち)が火の神様(物部(もののべ)氏)である。
  歴史上初めて邪馬台国(やまとこく;大和国)が登場して、出雲王国(物部氏)との最初の皇位継承権争い(倭国大乱;倭の邪馬台国の大乱)で、狭穂彦王(さほひこのみこ)が二種の神器を奪(うば)って強行即位して、狭穂彦(さほひこ)天皇になって、最終決戦の地が三重県熊野市で、三重県熊野市有馬の花の窟(いわや)神社に焼死した狭穂彦王(さほひこのみこ)と実妹の狭穂姫(さほひめ)を祭った。
垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)に日本最古のスポーツの相撲(すもう)が始まった。
垂仁(すいにん)天皇7年メ月1日(西暦158年11月上旬頃)に三輪山(みわやま)を祭祀(さいし)した。
  狭穂彦王(さほひこのみこ)を古代太陽神の2代目・大物主神(おおものぬしのかみ)に神格化して、御神体山の三輪山(みわやま)の山頂に磐座(いわくら;神様の依代(よりしろ)として祭った。
垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)に倭姫命(やまとひめのみこと)が出生した。
  倭姫命(やまとひめのみこと)を国生みの夫婦神の娘である天照大神(あまてらすおおみかみ)に神格化して、女王と勘違いする王女の卑弥呼の誕生である。
西暦150年代頃から180年までに垂仁(すいにん)天皇の皇子の祖別命(みおやわけのみこと)が吉備(きび;古代の岡山県と広島県東部)を平定した。
  岡山県倉敷市の楯築(たてつき)遺跡などに特殊器台土器が立てられて、この土器が後の埴輪(はにわ)になって、この土器が出雲に伝わってしばらくして、前方後円墳の出現と共に姿を消した。
垂仁(すいにん)天皇20年の真冬(西暦170年12月から171年2月頃)に景行(けいこう)天皇が出生した。
  景行(けいこう)天皇を月読尊(つくよみのみこと)に神格化して、卑弥呼(倭姫命;やまとひめのみこと)の男弟(だんてい;異母弟)が景行(けいこう)天皇である。
垂仁(すいにん)天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に倭姫命(やまとひめのみこと)を伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に奉仕する未婚の皇女)に任命した。
  いわゆる卑弥呼(倭姫命;やまとひめのみこと)共立で、女王が勘違いで王女である。
垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)に現在の伊勢神宮内宮に最終遷宮した。
  何回も遷宮した伊勢神宮の遷宮の終わりで、これ以降に元伊勢が存在しない。
垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に皇后の日葉酢媛(ひばすひめ)陵に埴輪(はにわ)を立てる詔(みことのり;天皇の述べた言葉)を出した。
  この時に初めて最古の埴輪(はにわ)である最古の土師器(はじき)が立てられたと考えられて、この時代に殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)があったと考えられるが、現在の考古学会が否定する。
垂仁(すいにん)天皇37年7月10日(西暦188年8月上旬頃)に後漢王朝に田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)と同一人物)が遣使(遣漢使;けんかんし:遣隋使と遣唐使に習(なら)った僕の造語)して、宝物を下賜された。
  邪馬台国(やまとこく;大和国)の古代中国との初外交で、元伊勢籠(この)神社の神宝の邊津鏡(へつかがみ)と息津鏡(おきつかがみ)と東大寺山(古墳出土)鉄刀と画文帯環状乳神獣鏡が後漢王朝から下賜された宝物と考えられる。
垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、垂仁(すいにん)天皇が享年(きょうねん)78才で、8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜にお墓(はか)へ埴輪(はにわ)を立てて、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に葬礼した。
  最古の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳は垂仁(すいにん)天皇陵で、纏向(まきむく)石塚古墳から最古の埴輪(はにわ)である最古の土師器(はじき)が出土して、この古墳からが古墳時代の始まりである。
  楯築(たてつき)遺跡の神石(亀石)の孤帯紋様と纏向(まきむく)石塚古墳から出土した孤文円板の孤帯紋様は、時期的な問題から直接続くのが間違いなく正しい。
景行(けいこう)天皇元年7月11日(西暦191年8月中旬頃)に3代目の景行(けいこう)天皇が即位した。
  邪馬台国(やまとこく;大和国)は、卑弥呼(倭姫命;やまとひめのみこと)の男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇が実質的に統治した。
景行(けいこう)天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)に初めて景行(けいこう)天皇が入る。
  纏向(まきむく)遺跡は、2世紀末から4世紀前半頃の遺跡で、皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)に当たって、後世の皇居の藤原京や平城京に匹敵する都市遺跡で、邪馬台国(やまとこく;大和国)の王都と考えられて、神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)69年(西暦329年)以降に放棄したと考えられる。
景行(けいこう)天皇5年11月15日(西暦195年12月中旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)が出生した。
  日本武尊(やまとたけのみこと)を素戔嗚尊(すさのおのみこと)に神格化した。
景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦202年から209年)に景行(けいこう)天皇が自(みずか)ら九州全土を平定した。
  纏向(まきむく)遺跡から福岡県の土器が出土する。
景行(けいこう)天皇17年頃(西暦207年頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇が出生した。
  仲哀(ちゅうあい)天皇を忍穂耳尊(おしほみみのみこと)に神格化した。
景行(けいこう)天皇20年2月4日(西暦210年3月上旬頃)に倭姫命(やまとひめのみこと;卑弥呼)から五百野皇女(いものひめみこ)に伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に奉仕する未婚の皇女)を交代して、隠居した倭姫命(やまとひめのみこと)は、伊勢市の磯(いそ)神社で静かに天照神(あまてるかみ)を祭祀した。
景行(けいこう)天皇38年頃(西暦228年頃)に神功(じんぐう)皇后が出生した。
  神功(じんぐう)皇后を皇祖神(こうそしん;天皇家の祖先神)の天照大神(あまてらすおおみかみ)と栲幡千千姫命(たくはたちちひめのみこと)に神格化して、神功(じんぐう)皇后は台与(とよ)に当たる。
景行(けいこう)天皇49年(西暦239年)に魏王朝へ遣使(遣魏使;けんぎし:遣隋使と遣唐使に習(なら)った僕の造語)した。
  「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印を受け取ったのは、卑弥呼(倭姫命;やまとひめのみこと)でなく男弟(だんてい;景行(けいこう)天皇)で、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が下賜された銅鏡と考えられて、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が国産もあると考えられる。
景行(けいこう)天皇57年12月(西暦248年1月頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)が熊襲(くまそ)王国(南九州)を平定した。
  纏向(まきむく)遺跡から鹿児島県の土器が出土して、狗奴国(くぬこく)攻撃に当たって、宮崎県と鹿児島県が熊襲(くまそ)王国の領土と考えられる。
景行(けいこう)天皇60年10月2日(西暦250年11月上旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)を東海平定の総大将として出陣(しゅつじん)した。
  日本武尊(やまとたけのみこと)に従う武将が西暦254年までに中部地方から東北地方南部までを平定して、纏向(まきむく)遺跡から静岡県と神奈川県と石川県と富山県(中部地方と関東地方)の土器が出土して、3世紀中頃以降の考古学的証拠と考えられる。
景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、景行(けいこう)天皇が享年(きょうねん)79才である。
  男弟(だんてい;景行(けいこう)天皇)の死に当たる。
西暦251年(天皇不在の年)に日本武尊(やまとたけのみこと)と仲哀(ちゅうあい)天皇と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)の親子3人が皇位継承権争いを起こして、いつか不明で蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が討伐された。
8月4日(9月上旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)が二種の神器か三種の神器を強奪して、日本武(やまとたけ)天皇(男王;だんおう)が強行即位した。
9月17日(10月中旬頃)から末日(10月下旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇は、伯母(おば)で88才の倭姫命(やまとひめのみこと;卑弥呼)を殺して(太陽神殺しの意味)、全ての皇族から敵視されて、日本武(やまとたけ)天皇が出雲王国に亡命した。
  卑弥呼(倭姫命;やまとひめのみこと)の死後に男王(だんおう;日本武尊:やまとたけのみこと)が立って(天皇に強行即位)、反乱して双方で千人余りが戦死した。
仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)に4代目の仲哀(ちゅうあい)天皇が即位して、邪馬台国(やまとこく;大和国)の仲哀(ちゅうあい)天皇と出雲王国(物部(もののべ)氏)の日本武(やまとたけ)天皇の2朝廷並列時代に突入した。
  大和国と出雲王国で三種の神器は、それぞれ管理したと考えられる。
仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)に景行(けいこう)天皇を葬礼した。
  箸墓(はしはか)古墳は、倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化した倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓(はか;宮内庁指定陵)だが、創作した作り物の人物で、卑弥呼(倭姫命;やまとひめのみこと)の墓(はか)でなく、男弟(だんてい)の墓(はか;景行(けいこう)天皇陵)と考えられて、最古の埴輪(はにわ)の特殊器台埴輪(はにわ)が出土した。
仲哀(ちゅうあい)天皇2年1月11日(西暦253年2月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后を皇后に迎(むか)える。
仲哀(ちゅうあい)天皇4年9月(西暦255年10月頃)に国造(くにみやつこ)を任命した。
  福島県河沼郡会津坂下町の杵ヶ森(きねがもり)古墳は、石背(いわせ)国造か阿尺(あさか)国造が古墳埋葬者と考えられて、千葉県市原市の神門(ごうど)3号墳と4号墳と5号墳が菊麻(きくま)国造か上海上(かみうなかみ)国造が古墳埋葬者と考えられる。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月6日(西暦260年3月上旬頃)に出雲王国の攻撃中に仲哀(ちゅうあい)天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること:おそらく戦死)して、仲哀(ちゅうあい)天皇が享年(きょうねん)52才である。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月(西暦260年神無月)に神功(じんぐう)皇后が出雲王国の攻撃を再開して、7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)が日本武(やまとたけ)天皇に殺されて、神功(じんぐう)皇后が命じて10月17日(11月中旬頃)までに日本武(やまとたけ)天皇を殺して出雲王国が崩壊して、日本武(やまとたけ)天皇が享年(きょうねん)64才で、2朝廷並列時代の終了である。
  弥生時代後期に発展した出雲が3世紀中頃に衰退して、出雲の国譲(くにゆず)り神話が日本武(やまとたけ)天皇(天穂日命(あめのほひのみこと)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)に神格化)と飯入根(いいいりね;大国主神(おおくにぬしのかみ)と7代目・大物主神(おおものぬしのかみ)に神格化)の戦死で、出雲王国の崩壊を意味する。
  出雲の神在月(かみありづき)と全国の神無月は、西暦260年11月頃(旧暦の10月)に出雲に神格化した人物が集中したことに由来して、出雲の国譲(くにゆず)り神話と出雲王国の崩壊が共に神無月に当たる。
  2度目の出雲王国の皇位継承権争い(日本武尊(やまとたけのみこ;男王:だんおう)の反乱)が終了して、邪馬台国(やまとこく;大和国)の属国の出雲王国(物部(もののべ)氏)が歴史上から抹消(まっしょう)された。
  神功(じんぐう)皇后は、出雲王国から三種の神器の片方を取り戻した。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后が皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を出産した。
  誉田別尊(ほむだわけのみこと)を天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に神格化した。
摂政(せっしょう)元年2月(西暦261年3月頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇の息子の鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟は、義母の神功(じんぐう)皇后から三種の神器を強奪する謀反(むほん)を起こして、鹿坂皇子(かごさかのみこ)が死んで、3月5日(西暦261年4月上旬頃)以降に忍熊皇子(おしくまのみこ)が滋賀県大津市瀬田で溺(おぼ)れて、京都府宇治市で水死体が見つかった。
鹿は「鹿」の漢字の下に弭で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
  邪馬台国(やまとこく;大和国)の最後の皇位継承権争いで、この教訓から神功(じんぐう)皇后は、三種の神器の取り扱いを変えることを思いついたと考えられる。
  『三国志・魏志倭人伝』の「国中遂定」の記述は、邪馬台国(やまとこく;大和国)の全(すべ)ての内乱(鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の反乱まで)が遂(つい)に平定して、魏王朝が滅亡する西暦265年までに遣使した。
摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に神功(じんぐう)皇后が摂政(せっしょう;天皇に代わって政治する役職)に着任した。
  13才の女王である台与(とよ)の即位と勘違いされて、神功(じんぐう)皇后が正しくは33才で、女帝に近い権限を持つ神功(じんぐう)皇后の誕生である。
摂政(せっしょう)2年11月8日(西暦262年12月上旬頃)に夫の仲哀(ちゅうあい)天皇を葬礼した。
  仲哀(ちゅうあい)天皇陵は、大和(おおやまと)古墳群の中にあると考えられる。
摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に実兄の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)でなく、弟の2歳弱の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を立太子(りったいし;皇太子になること)した。
三種の神器は、2種類の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と1種類の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を入れ替えて、2種類の八咫鏡(やたのかがみ)の片方と1種類の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)を持たせて、誉田別尊(ほむだわけのみこと)と共に日向(ひうが;宮崎県)に行かせた。
  日本神話で天皇家の故郷が宮崎県なのは、誉田別尊(ほむだわけのみこと)が暮らして、息子で5代目の仁徳(にんとく)天皇の出生地で、誉田別尊(ほむだわけのみこと)を瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に神格化して、三種の神器を持たせて日向に天孫降臨させて、仁徳(にんとく)天皇を神日本磐余彦火火出見尊(かむやまといわれびこほほでみのみこと)に神格化・祖先化した点にある。
摂政(せっしょう)6年(西暦266年)に神功(じんぐう)皇后(台与;とよ)が西晋(せいしん)王朝へ遣使(遣晋使;けんしんし:遣隋使と遣唐使に習(なら)った僕の造語)した。
  韓国の都市の金海(キメ)辺りで3世紀後半頃から日本製の遺物が出土しなくて、神功皇后(じんぐう)時代に古代朝鮮国家と外交関係を無くしたと考えられる。
3世紀後半以降に出雲大社をおそらく濡渟(うかずくぬ)が創建した。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
  古来より出雲大社は、島根県松江市大庭町にあって、『出雲国造世系譜』で716年に島根県松江市大庭町から現在の島根県出雲市大社町杵築に移(うつ)ったと記して、島根県松江市大庭町に最初の出雲大社があった可能性が考えられる。
3世紀後半から4世紀前半に誉田別尊(ほむだわけのみこと)が亡くなったと考えられる。
  宮崎市の生目(いきめ)1号墳は、箸墓(はしはか)古墳の相似形の前方後円墳で、誉田別尊(ほむだわけのみこと)が有力埋葬者である。
摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后が亡くなって、享年(きょうねん)100才で、10月15日(11月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后を葬礼した。
  台与(とよ)の死で、神功(じんぐう)皇后陵は渋谷向山(しぶたにむこうやま)古墳(伝・景行(けいこう)天皇陵)が有力と考えられるが、正しいか分からない。
西暦330年代に祖母の神功(じんぐう)皇后の死去を受けて、宮崎県から東征した仁徳(にんとく)天皇が異母兄弟の大山守皇子(おおやまもりのみこ)を殺して、5代目の仁徳(にんとく)天皇として大和で即位した。
  それまでの天皇陵や皇族の陵墓と各皇居を放棄して、新しい皇居の建造と古墳群を手配して大和朝廷を一新して、4世紀前半に纏向(まきむく)遺跡と大和(おおやまと)古墳群が放棄した可能性が高いと考えられる。
  仁徳(にんとく)天皇を祖先化した神武(じんむ)天皇は、三種の神器の片方を持って東征して、長髄彦(ながすねひこ;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を祖先化)が仁徳(にんとく)天皇の持つ1種類の草薙剣を含めた三種の神器を強奪しようとして殺して、『ホツマツタエ』が記す最後の皇位継承権争いである。
  海幸彦(うみさちひこ;火酢芹命:ほすせりのみこと)と山幸彦(やまさちひこ;火火出見尊:ほほでみのみこと)の神話は、火酢芹命(ほすせりのみこと;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を神格化)を火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)が殺して、最も古代天皇家の歴史を詳しく神話化した。
摂政(せっしょう)46年3月1日(西暦366年4月上旬頃)に百済(くだら)は、日本と外交を始めて、邪馬台国(やまとこく;大和国)時代に断絶した古代朝鮮国家群との外交の再開である。
摂政(せっしょう)52年9月10日(西暦372年10月上旬頃)に百済(くだら)王は、七枝刀(ななつさやのたち)を献上した。
  七枝刀(ななつさやのたち)は、石上(いそのかみ)神宮の国宝の七支刀(しちしとう)に当たる。
西暦421年に倭王「讃」が南朝宋王朝に朝貢(遣宋使;けんそうし:遣隋使と遣唐使に習(なら)った僕の造語)して、邪馬台国(やまとこく;大和国)時代に断絶した古代中国との外交の再開である。
  倭王「讃」が安康(あんこう)天皇と考えられる。
西暦425年に倭王「讃」が朝貢(ちょうこう)した。
  安康(あんこう)天皇が朝貢(ちょうこう)したと考えられる。
年代不明で倭王「讃」が死去して、弟「珍」が即位した。
  安康(あんこう)天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、実弟の雄略(ゆうりゃく)天皇が即位したと考えられる。
年代不明で倭王「珍」が二度に渡って朝貢(ちょうこう)した。
  倭王「珍」は雄略(ゆうりゃく)天皇と考えられて、比較的短い在位期間となる。
西暦443年に倭王「済」が朝貢(ちょうこう)した。
  倭王「珍」と「済」の血縁関係を記さないが、清寧(せいねい)天皇に間違いないだろう。
西暦451年に倭王「済」が朝貢(ちょうこう)した。
  清寧(せいねい)天皇が南朝宋王朝に朝貢(ちょうこう)したと考えられる。
年代不明で倭王「済」が死去して、世子「興」が即位して朝貢(ちょうこう)した。
  清寧(せいねい)天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、世子(世継ぎか皇太子のどちらかの意味と考えられるが、おそらく血縁断絶から皇太子の方が可能性は高い)の顕宗(けんそう)天皇が即位したと考えられる。
西暦462年に倭王「興」が朝貢(ちょうこう)した。
  顕宗(けんそう)天皇が南朝宋王朝に朝貢(ちょうこう)したと考えられる。
年代不明で倭王「興」が死去して、弟の「武」が即位して朝貢(ちょうこう)した。
  顕宗(けんそう)天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、異母兄の仁賢(にんけん)天皇が即位後まもなく崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、その息子の武烈(ぶれつ)天皇が即位して、南朝宋王朝に朝貢(ちょうこう)して、血縁関係を間違って、「興」の弟「武」にしたと考えられる。
西暦478年に倭王「武」が朝貢した。
  武烈(ぶれつ)天皇が南朝宋王朝に最後の朝貢(ちょうこう)をしたと考えられる。
西暦479年に倭王「武」が南朝斉王朝に朝貢(遣斉使;けんせいし:遣隋使と遣唐使に習(なら)った僕の造語)して、鎮東大将軍に任命した。
  武烈(ぶれつ)天皇が南朝斉王朝に朝貢(ちょうこう)して、任命されたと考えられる。
西暦502年に倭王「武」が南朝梁王朝に朝貢(遣梁使;けんりょうし:遣隋使と遣唐使に習(なら)った僕の造語)して、征東将軍に任命した。
  武烈(ぶれつ)天皇が南朝梁王朝に朝貢(ちょうこう)して、任命されたと考えられる。
武烈(ぶれつ)天皇8年12月8日(西暦507年1月上旬頃)に武烈(ぶれつ)天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、武烈(ぶれつ)天皇が享年(きょうねん)57才である。
継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月5日)に新しい血筋の継体天皇が即位した。
継体(けいたい)天皇元年3月5日(西暦507年4月上旬頃)に継体(けいたい)天皇は、武烈(ぶれつ)天皇の実姉の手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后にしたと記すが、60才以上の年齢でもっと若い頃に妻に迎(むか)えたと考えられる。
今年2021年で継体(けいたい)天皇から今上(きんじょう)天皇(今の天皇陛下)まで101代の同族が続いて、天皇家誕生(建国)の西暦84年から数えて1937(いくさ(戦)な)年目で、後63年で天皇家誕生2千年を数えることになる。
  現在の皇室は、古代天皇家から受け継がれて、2種類の三種の神器を持つと考えられる。

<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『出雲国風土記と古代遺跡』
勝部昭・著者 株式会社山川出版社・発行
『卑弥呼の居場所 狗邪韓国から大和へ』
高橋徹・著者 日本放送出版協会・発行
『出雲大社の暗号』
関裕二・著者 株式会社講談社・発行
『完全制覇 古代大和朝廷の謎』
関裕二・著者 株式会社立風書房・発行
『出雲大社と千家氏の秘密』
中見利夫・著者 株式会社宝島社・発行
『三輪山の考古学』
株式会社学生社・発行
『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』
株式会社洋泉社・発行
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