古代天皇家の年表


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

古代天皇家の年表は、邪馬台国(大和国;やまとこく)の年表を統合して、専門家(考古学会と歴史学会)を含めた現代人(僕以外の人間)が基本の基本も知らなくて、僕がおんぶにだっこの神技(かみわざ)である。
『古事記』の干支(えと)の崩年干支(ほうねんかんし)は、数十年前の考古学会で使って、当てにならず忘れられたが、2003年7月頃に僕が『日本書紀』の干支(えと)の即位年干支法(そくいねんかんしほう)を名付けて、西暦84年から329年までを年代特定して、2023年5月25日に崩年干支(ほうねんかんし)が正しいと証明して、330年から507年の不明年代の西暦年月が確定した。
日本神話は、西暦84年(日本の建国)の崇神(すじん)天皇元年から330年頃の仁徳(にんとく)天皇時代まで神話化して、それを考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で、僕の自論を完全に証明して、5世紀の倭(わ;古代日本)の五王時代も完全証明して、僕の自論が誰にも否定できない正論だった。
僕が日本神話の神様を証明したのは、実在の人物を神格化したことを証明した人類史上初の功績で、中世哲学の神様の存在証明でなく、アインシュタイン博士を超えた理由でもあって、僕の特定した日本神話の神様を100%否定できなくて、まさに神技(かみわざ)である。
邪馬台国(大和国;やまとこく)論争と倭(わ)の五王の一般的な専門家(歴史学会)の解釈は、僕の自論も付け加えて青字で、完全な僕の自論や解釈を黒字で書いて、2023年6月9日に修正した。


孝昭(こうしょう)天皇45年5月15日(西暦45年6月中旬頃)に孝昭(こうしょう)天皇(崇神(すじん)天皇の実父)と世襲足姫(よそたりひめ)は、彦坐王(ひこいますのみこ)を生んだ。
孝昭(こうしょう)天皇49年1月1日(西暦49年2月上旬頃)に孝昭(こうしょう)天皇と世襲足姫(よそたりひめ)は、崇神(すじん)天皇を生んだ。
  始源神の天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)は、一番始めの神様で、実在の初代天皇を神格化して、息子が伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)である。
孝昭(こうしょう)天皇68年1月14日(西暦68年2月中旬頃)に崇神(すじん)天皇は、皇太子になった。
  西暦83年までに奈良県は、異民族が侵攻して武力制圧して、それが歴史上初めての古代天皇家の登場で、大阪府から侵攻して、三重県が登場する時期が遅くて、三重県から侵攻した可能性が低い。
  饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;古代の大阪府東部)の天孫降臨神話は、大阪府を平定して、奈良県入りした天皇家最古の物語で、日本神話と史実(歴史上の事実)で、最古の伝承と考えられる。
孝昭(こうしょう)天皇83年8月5日(西暦83年9月上旬頃)に孝昭(こうしょう)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、西暦年の計算が正しくて、彦坐王(ひこいますのみこ)と崇神(すじん)天皇の誕生日が正しいと考えられる。
崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に初代の崇神(すじん)天皇は、奈良県磯城(しき)郡(桜井市全域と橿原市や天理市や宇陀市の一部)で即位して、日本の建国(天皇家誕生)である。
  大阪府は、弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増して、統治下の土地を整備したと考えられる。
  兵庫県淡路市の舟木(ふなき)遺跡と五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡は、弥生時代後期初頭から始まる遺跡で、鉄生産した証拠である。
  日本の建国(天皇家誕生)は、弥生時代後期初頭で、奈良県の考古学的証拠を知らなくて、淡路島や京都府や鳥取県や島根県で鉄を大量に保持して、鉄と米が権力の象徴と考えられる。
崇神(すじん)天皇3年9月(西暦86年10月頃)に皇居の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)を建てて、当てはまる考古学的証拠がない。
崇神(すじん)天皇4年10月23日(西暦87年11月下旬頃)に天照神(あまてるかみ)は、笠縫邑(かさぬいのむら)に祭らせて、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)が山辺里(やまのべのさと)に祭らせて、二種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)を新しく作って、二種の神器を皇位継承の神宝(かんだから)にしようと考えた。
  天照神(あまてるかみ)は、男性の古代太陽神で、太陽神の初代宮司の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化して、子孫の卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后の2人も神格化したが、後世に女性の天照大神(あまてらすおおみかみ)に入れ替わった。
崇神(すじん)天皇5年(西暦88年)は、疫病が流行して、国民の半分が死んで、古代太陽神3神(天照神(あまてるかみ)と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)と初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の3神)に神頼(かみだの)みで祭ろうとにした。
崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)の夜に倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)は、山辺里(やまのべのさと)の大和(おおやまと)神社に遷宮して、八重垣剣(やえがきのつるぎ)を奉納して、翌日の夜に天照神(あまてるかみ)が元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら)に遷宮して、八咫鏡(やたのかがみ)を奉納して、二種の神器がレプリカ(複製品)だった。
  奈良県天理市の大和(おおやまと)神社は、日本最古の神社で、その翌日に最古の元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら)が祭られて、笠縫邑(かさぬいのむら)の候補地が特定できない。
  三種の神器は、その神威が強大すぎて、それぞれバラバラに安置して、これが政教(政治と神道)分離の考え方の始まりで、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)を神器に加えず、出雲王家の宮殿で保管した。
  奉納した八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)は、作られたレプリカ(複製品)で、現在の三種の神器もオリジナル(原型)とレプリカ(複製品)が2種類あって、八重垣剣(やえがきのつるぎ)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)が別の神剣で、草薙剣(くさなぎのつるぎ)が昔から伊勢神宮にあった。
崇神(すじん)天皇7年10月1日(西暦90年11月上旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)は、初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の正式な斎主(さいしゅ;神事をする人)になって、御神体山の三輪山(みわやま)の山頂に磐座(いわくら;石の祭壇)を祭った。
崇神(すじん)天皇10年9月9日(西暦93年10月上旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)は総大将で、息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が従軍して、丹波(たには;古代の京都府北中部)王国に向かった。
崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、丹波(たんば)王国の平定を崇神(すじん)天皇に報告して、人名から丹波(たには)を国名にして、彦坐王(ひこいますのみこ)が続いて、出雲の平定に向かった。
  丹波(たんば)国王の玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)は、日本最古の鬼で、最古の大江山の鬼退治でもあって、人を鬼とたとえた。
  京都府と兵庫県の北部は、弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増して、統治下の土地を整備したと考えられて、歴史書が平定した場所と合致した。
  京都府北部は、弥生時代後期の鉄が大量出土して、鉄生産したと考えられる。
  2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の丹波(たんば)の天孫降臨神話は、彦坐王(ひこいますのみこ)が丹波(たんば)平定した証拠で、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏が丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の直系子孫である。
崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)を建国して、初めて国を泰平に治めた意味で、崇神(すじん)天皇時代を「初国知(はつくにし)らす御間城(みまき)の世」と呼んで、9月16日(西暦95年4月中旬頃)に初めて戸籍を作った。
  この平定の物語は、伝承が残ったか不明で、詳しい出雲の研究成果が必要である。
崇神(すじん)天皇17年7月1日(西暦100年8月上旬頃)は、海辺の民に船がなくて、献上品を運ぶのに苦労して、諸国に命じて船を作らせて、10月(11月頃)に初めて船舶(せんぱく)を作って、船舶(せんぱく)が大型の船を差して、出雲に向かう船と考えられる。
  出雲の隆盛は、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)からで、荒神谷(こうじんだに)遺跡の銅剣が弥生時代中期後半製造でないかとして、加茂岩倉(かもいわくら)遺跡の銅鐸(どうたく)が弥生時代中期から後期の製造として、銅剣と銅鐸が弥生時代後期初頭の物である。
  荒神谷(こうじんだに)遺跡と加茂岩倉(かもいわくら)遺跡の銅鐸(どうたく)と同じ型の分布地域は、古代天皇家の統治下と合致するのが間違いない。
  出雲で青銅器文化は、弥生時代後期初頭に終わって、弥生時代後期から鉄が大量出土して、鉄生産したと考えられる。
  弥生時代中期の出雲は、四隅突出型墳丘墓が作られて、弥生時代後期に最大級の中谷(なかだに)3号墳ができて、物部(もののべ)氏が埋葬者と考えられる。
  弥生時代後期の山陰地方は、独自の土器のスタイルが作られて、以後に変化しながらも古墳時代前期まで、同じ流れを組む土器が作られた。
  弥生時代後期から島根県出土の朝鮮半島の土器は、朝鮮半島に最も近い九州北部を除いて、日本中に例がないほど集中して出土する。
  鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡は、1800年前頃に傷ついた人骨が出土して、西暦95年の出雲王国の建国か156年の2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)の戦死者のはずで、260年の出雲王国の崩壊(出雲の国譲(くにゆず)り)が上層部を一掃した短時間の戦争で、鳥取県までの波及が考えられない。
  彦坐王(ひこいますのみこ)は、初代出雲国王で、初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)で、子孫の物部(もののべ)氏が歴代の出雲国王で、後の大物主神(おおものぬしのかみ;歴代の出雲国王を神格化)で、大物主神(おおものぬしのかみ)と大国主神(おおくにぬしのかみ)が同一神である。
  饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の祖先神で、武家の物部(もののべ)氏が勢力を伸ばした。
崇神(すじん)天皇29年1月1日(西暦112年2月上旬頃)に崇神(すじん)天皇と御井津比売(みいつひめ)は、垂仁(すいにん)天皇を生んだ。
  伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)は生まれて、伊弉冉尊(いざなみのみこと;垂仁(すいにん)天皇の皇后3人を神格化)と国生みをした。
崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)に2番目の元伊勢は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の奥宮(おくみや)である真名井(まない)神社に遷宮して、8月18日(9月中旬頃)に瑞籬(みずがき;石の祭壇)を作って、場所が判明した最古の元伊勢で、2022年が遷宮1900年目だった。
崇神(すじん)天皇55年8月14日(西暦138年2月上旬頃)に初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)は、亡骸(なきがら)を博多原(はかたのはら;奈良県御所(ごせ)市の辺り)に葬礼して、殉死(主人の後を追って従者が死ぬこと)者を供葬して、2023年5月30日の午前2時頃に求めた。
  彦坐王(ひこいますのみこ)は、この前に娘の狭穂姫(さほひめ)を生んで、出雲で亡くなって、大和に葬礼して、日本武尊(やまとたけのみこと)も出雲で戦死して、同様に大和で葬礼して、孝昭(こうしょう)天皇が亡くなった33年後(133年)で、孝安(こうあん)天皇元年が己丑(つちのとうし;89年)で、崇神(すじん)天皇元年が甲申(きのえさる;84年)で計算した。
  崇神(すじん)天皇陵の最有力候補は、瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、前方後円墳の形で、天皇陵だから前方後円墳の形と考えられて、彦坐王(ひこいますのみこ)陵の可能性が低い。
崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に崇神(すじん)天皇は、102才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、崇神(すじん)天皇が歴代天皇で最高齢である。
垂仁(すいにん)天皇元年1月1日(西暦152年2月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇は、2代目天皇に即位した。
垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)は、崇神(すじん)天皇の亡骸(なきがら)を山辺(やまのべ)に葬礼して、5人の従者が殉死(じゅんし)して供葬した。
  崇神(すじん)天皇陵の最有力候補は、奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、2016年に発見して、前方後円墳の形で、埋葬者が見つからず、2世紀中頃から後半頃の築造年代で、前方後円墳をネット検索して、2022年10月18日に求めた。
  竹内(たけうち)氏の口伝(くでん;言葉で伝えること)の正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』は、前方後円墳の形の不明な伝承を残して、歴代天皇陵が全て前方後円墳の形で、西暦152年葬礼の崇神(すじん)天皇陵が確定して、1900年以上の伝承が『ホツマツタエ』の完成より古くて、古墳時代の前方後円墳の呼び名を残す可能性も考えられる。
  垂仁(すいにん)天皇陵は、最古の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳で、奈良県から大阪府の前方後円墳の衰退が6世紀後半から末頃で、衰退時期が欽明(きんめい)天皇から崇峻(すしゅん)天皇の辺りで、全ての歴代天皇陵に前方後円墳の形を採用したと考えられて、蒲生君平(がもうくんぺい;1768年から1813年)が前方後円墳と名付けた。
垂仁(すいにん)天皇2年2月(西暦153年3月頃)に物部(もののべ)氏の狭穂姫(さほひめ)は皇后になって、12月(西暦154年1月頃)に誉津別命(ほむつわけのみこと)を生んだ。
垂仁(すいにん)天皇2年10月(西暦153年11月頃)に皇居の纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)を建てて、纏向(まきむく)遺跡(息子の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の近くに必ずある。
垂仁(すいにん)天皇4年9月1日(西暦155年10月上旬頃)に2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、実妹で皇后の狭穂姫(さほひめ)に兄と垂仁(すいにん)天皇のどちらを慕(した)うか聞いて、狭穂姫(さほひめ)が兄と答えた。
倭国大乱(わこくたいらん)は、2世紀中頃に起きて、日本全土が寒冷期で戦争状態に入ったとか、邪馬台国(やまとこく)で内乱が起きたなど多くの説があって、邪馬台国(やまとこく)が初めて歴史に登場した。
垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に皇后の狭穂姫(さほひめ)は、垂仁(すいにん)天皇に実兄の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反意を告白した日で、邪馬台国(大和国;やまとこく)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の最初の内乱(倭国大乱;わこくたいらん)で、結果的に狭穂彦王(さほひこのみこ)と狭穂姫(さほひめ)の兄妹が焼死して終戦して、一年以上の戦争だった。
  狭穂彦王(さほひこのみこ)は、二種の神器を強奪して、狭穂彦(さほひこ)天皇になって、味方が多くて長期戦になって、最終決戦が三重県熊野市と考えられる。
  狭穂彦王(さほひこのみこ)は、この頃に娘の高田媛(たかだひめ)を生んで、後に三種の神器の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を献上して、景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)の年上女房(にょうぼう)になる。
  三重県熊野市有馬(ありま)の花の窟(いわや)神社は、伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)と息子の軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)を祭って、黄泉国下(よみのくにくだ)り神話の舞台で、軻遇突智(かぐつち)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が火の神様で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の子孫だけを火の神様に神格化した。
  伊弉冉尊(いざなみのみこと;垂仁(すいにん)天皇の皇后3人を神格化)は、皇后の狭穂姫(さほひめ)が焼死した火の神様で、後の皇后の樺井月姫(かばいつきひめ)と日葉酢媛(ひばすひめ)が火の神様でなく、神格化した子供たちを求めるきっかけになった。
垂仁(すいにん)天皇7年7月1日(西暦158年8月上旬頃)に樺井月姫(かばいつきひめ)は皇后で、妹の迦具夜姫(かぐやひめ)を妾(めかけ)にして、この時までに狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)が終わって、おとぎ話のかぐや姫の名前をここから取った。
垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)に皇后の樺井月姫(かばいつきひめ)を祝(いわ)って、日本最古のスポーツの相撲(すもう)をして、3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)が相手を殺して勝利した。
垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)に垂仁(すいにん)天皇と樺井月姫(かばいつきひめ)は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)たち3つ子を生んで、古代中国語で邪馬台卑弥呼(やまとひみこ)である。
  伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と伊弉冉尊(いざなみのみこと;樺井月姫(かばいつきひめ)を神格化)は、娘で父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)を生んで、一生独身だから直系先祖でない。
垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇と迦具夜姫(かぐやひめ)は、長男の祖別命(みおやわけのみこと)と三男の胆武別命(いたけわけのみこと)たち3つ子を生んで、長男と三男が吉備(きび;岡山県と広島県東部)の平定将軍である。
垂仁(すいにん)天皇15年2月15日(西暦166年3月中旬頃)に日葉酢媛(ひばすひめ)は皇后になった。
垂仁(すいにん)天皇20年の真冬(西暦171年1月頃)に垂仁(すいにん)天皇と日葉酢媛(ひばすひめ)は、景行(けいこう)天皇を生んで、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の男弟(だんてい;異母弟)である。
  伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と伊弉冉尊(いざなみのみこと;日葉酢媛(ひばすひめ)を神格化)は、息子の月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)を生んだ。
『新羅本紀(しらぎほんき)』8代目・阿達羅尼師今(アダラ・イサグム)20年5月(西暦173年6月頃)に女王の卑弥乎(ひみこ)が遣使して、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)が斎王(さいおう)になる前だが、仮(かり)の卑弥呼(ひみこ)共立の前年で、倭姫命(やまとひめのみこと)が3つ子の長子で特別視して、政治に参加した可能性も考えられる。
西暦180年代頃に女王国の幼少の卑弥呼(ひみこ)は、女王に推薦(すいせん)して共立して、鬼道で民衆を惑(まど)わせたと勘違いした。
垂仁(すいにん)天皇23年1月1日(西暦174年2月上旬頃)に卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)は、2代目の伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に奉仕する未婚の皇女)となるため、初代の斎王(さいおう)の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に仕(つか)えて、斎王(さいおう)の見習い任命で、仮(かり)の卑弥呼(ひみこ)共立である。
垂仁(すいにん)天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)は、女王国(伊勢国)で正式な斎王(さいおう)に任命して、皇女を女王と勘違いして、鬼道(神道)で皆を導いて、正式な斎王(さいおう)の任命で、正式な卑弥呼(ひみこ)共立である。
垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)に卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)は、現在の伊勢神宮内宮に最終遷宮して、元伊勢の遷宮の終わりで、倭姫命(やまとひめのみこと)の14才の誕生日である。
垂仁(すいにん)天皇27年2月5日(西暦178年3月上旬頃)に皇女の大中姫(おおなかひめ)は、4代目出雲国王の物部十市根(もののべのといちね)の正妻になって、以降に出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋を皇統に加える代償として、出雲王国の宮殿で保管した神宝の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を石上(いそのかみ)神宮に奉納して、二種の神器が三種になった。
  物部(もののべ)氏の狭穂姫(さほひめ)は戦死して、以降に皇統に物部(もののべ)氏の血筋を加えることを禁止して、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を献上して、再び皇統に血筋を加える許可を出して、高田媛(たかだひめ)と弟橘姫(おとたちばなひめ)が景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)になった。
垂仁(すいにん)天皇28年10月5日(西暦179年11月上旬頃)に倭彦命(やまとひこのみこと)は亡くなって、11月2日(12月上旬頃)に桃花鳥坂(つきさか;場所不明)に葬礼して、垂仁(すいにん)天皇が殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)を禁止した。
垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)に皇子の祖別命(みおやわけのみこと)は、吉備(きび;岡山県と広島県東部)国王の温羅(うら)を殺して、桃太郎の鬼退治のモデルで、人を鬼にたとえて、吉備(きび)王家の陵墓である岡山県倉敷市の楯築(たてつき)遺跡群で、特殊器台土器を立てて、この土器が後の埴輪(はにわ)である。
垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)に田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)は、初めて古代中国の後漢(ごかん)王朝に派遣して、遣漢使(けんかんし)で、遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語である。
垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に皇后の日葉酢媛(ひばすひめ)は亡くなって、陵墓に殉死者(じゅんししゃ)の代わりに埴輪(はにわ)を立てて、最古の埴輪(はにわ)である最古の土師器(はじき)を立てた。
垂仁(すいにん)天皇37年(西暦188年)に祖別命(みおやわけのみこと)は、後漢王朝の中平5年(西暦188年)に皇帝へ謁見(えっけん)して、下賜した宝物を僕が考古学的証拠として証明した。
垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇は、78才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、48日間の喪(も)祭り後の8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜に墓(はか)に埴輪(はにわ)を立てて、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に亡骸(なきがら)を纏向(まきむく)石塚古墳に葬礼した。
  最古の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳は、最古の埴輪(はにわ)である最古の土師器(はじき)が出土して、埴輪(はにわ)が土師器(はじき)の一種で、特殊器台埴輪(はにわ)が出土しなくて、岡山県倉敷市の楯築(たてつき)遺跡の神石(亀石)に孤帯紋様が刻まれて、纏向石塚古墳の孤文円板の孤帯紋様に直接続いて、吉備(きび;岡山県と広島県東部)と考古学的証拠が合致した。
  纏向(まきむく)石塚古墳の周濠(しゅうごう)のヒノキ材は、年輪が西暦177年で、築造年代を推測できて、埋葬施設が見つからないが、埋葬施設の塗料に徳島県阿南(あなん)市の若杉山辰砂(わかすぎやましんしゃ)採掘遺跡の水銀朱が使われたと考えられて、天皇陵だから前方後円墳の特殊形状で、古墳時代の始まりである。
景行(けいこう)天皇元年4月末日(西暦191年5月下旬頃)の夜半に祖別命(みおやわけのみこと)と花橘(はなたちばな)は、娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)を生んで、後に3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)が義父になった。
卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい)は、実質的に邪馬台国(やまとこく)を統治して、女王国の卑弥呼(ひみこ)を邪馬台国(やまとこく)の女王と勘違いして、男弟(だんてい)が卑弥呼(ひみこ)を補佐したと誤訳した。
景行(けいこう)天皇元年7月11日(西暦191年8月中旬頃)に邪馬台国(大和国;やまとこく)で男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇は、3代目天皇に即位して、女王国(伊勢国)の卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)が太陽神の神託で助言した。
景行(けいこう)天皇2年2月15日(西暦192年3月中旬頃)に景行(けいこう)天皇は、美濃(みの;岐阜県南部)に行って、八坂高依媛(やさかたかよりひめ)をみそめて、5月(6月頃)に皇后にして、12月15日(西暦193年1月中旬頃)に息子の日本武尊(やまとたけのみこと)が生まれた。
  月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)は、息子の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)を生んだ。
景行(けいこう)天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の纏向(まきむく)遺跡を建てて、都(みやこ)として機能して、邪馬台国(大和国;やまとこく)の王都である。
  纏向(まきむく)遺跡は、2世紀末頃から4世紀前半頃の都市遺跡で、後世の皇居の藤原京や平城京に匹敵して、吉野ヶ里(よしのがり)遺跡より7〜8倍近く大きく、東西南北2キロメートルの範囲を持つ遺跡で、吉野ヶ里(よしのがり)遺跡のように大勢の人間が暮らす村落でなく、政治的や宗教的な役割を重視した。
  纏向(まきむく)遺跡は、特殊器台埴輪(はにわ)が出土して、3世紀中頃から後半の建物跡が出土して、伊勢神宮正殿の神明造(しんめいづく)りと出雲大社正殿の大社造(たいしゃづく)りの中間形式で、建物の柱の間隔が魏王朝の尺寸と一致して、出雲王国(物部(もののべ)氏)や古代中国の魏王朝と外交した証拠である。
  纏向(まきむく)遺跡は、関東と九州などの土器が出土して、東北地方南部の土器も出土するはずで、東北地方の宮城県と福島県と山形県まで統治して、3世紀末から4世紀前半の鍛冶(かじ)遺跡が5ヶ所で見つかって、鍛冶(かじ)炉が見つからないが、鉄器文化の普及を証明した。
  唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡の土器は、纏向(まきむく)1式が突然激減して、纏向(まきむく)遺跡の纏向(まきむく)1式が突然に始まって、纏向(まきむく)編年の土器区分が纏向(まきむく)遺跡の出現時期と重なって、纏向(まきむく)遺跡から1800年前の犬の骨が出土して、背中までの体高が48cmの中型犬で、骨が解体されず、儀式で供(そな)えられた可能性が高い。
景行(けいこう)天皇5年6月(西暦195年7月頃)に景行(けいこう)天皇と物部(もののべ)氏の高田媛(たかだひめ)は、息子の武虎別皇子(たけこわけのみこ)を生んだ。
年代不明で邪馬台国(やまとこく)は、敵対国の拘奴国(くぬこく)と初めて戦争をして、南九州の熊襲(くまそ)と考えることが多い。
景行(けいこう)天皇12年から19年(西暦202年から209年)に男弟(だんてい)の景行(けいこう)天皇は、自(みずか)ら九州を平定して、景行(けいこう)天皇12年9月5日(西暦202年10月上旬頃)に5代目出雲国王の物部夏花(もののべのなつはな)が登場した。
  敵対国の熊襲(くまそ)王国は、これまで熊本県球磨(くま)郡と鹿児島曽於(そお)郡が別国と考えられたが、僕が球磨(くま)郡と曽於(そお)郡と宮崎県の連合国と考えて、『筑前国風土記(ちくぜんのくにふどき)』に球磨囎唹(くまそお)と記して、2023年5月30日の午前8時頃に求めた。
  景行(けいこう)天皇18年(西暦208年)に熊襲(くまそ)王国は、球磨(くま)郡と曽於(そお)郡を同時に攻めて、屈服して滅亡せず、新しい熊襲(くまそ)国王の取石鹿文(とりいしかや)を代官が監視したと考えられて、西暦220年に滅亡した後漢王朝が拘奴国(くぬこく)と記した。
  邪馬台国(大和国;やまとこく)の王都と勘違いした佐賀県神埼(かんざき)郡の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は、2023年4月に出土した石棺墓(せっかんぼ)が有力者の墓(はか)で、北九州の国造(くにみやつこ;国主)の可能性があるが、吉野ヶ里(よしのがり)遺跡が邪馬台国(大和国;やまとこく)時代に少し衰退した時期で、傷ついた人骨が九州平定の戦死者の可能性が考えられる。
景行(けいこう)天皇14年3月15日(西暦204年4月中旬頃)に景行(けいこう)天皇は、物部(もののべ)氏の養子の弟橘姫(おとたちばなひめ)を妾(めかけ)にした。
景行(けいこう)天皇16年1月3日(西暦206年2月上旬頃)に景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)が長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)を生んで、次男の稲背彦皇子(いなせひこのみこ)の誕生日が不明である。
  神櫛皇子(かんぐしのみこ)は、6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と同一人物で、息子が屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)で、実弟の稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が平安時代の藤原氏の先祖で、藤原氏の祖先神が物部(もののべ)氏の人物を多く神格化した。
景行(けいこう)天皇19年頃(西暦209年頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)と海部(あまべ)氏の両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)は、息子の仲哀(ちゅうあい)天皇を生んだ。
  素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、息子の忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)を生んだ。
景行(けいこう)天皇19年9月8日(西暦209年10月上旬頃)に男弟(だんてい)の景行(けいこう)天皇は、北九州から帰還して、皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の纏向(まきむく)遺跡に戻った。
景行(けいこう)天皇20年2月4日(西暦210年3月上旬頃)に男弟(だんてい)の景行(けいこう)天皇は、娘の五百野皇女(いものひめみこ)を3代目の伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に仕える未婚の皇女)にして、天照神(あまてるかみ)に九州平定の報告と祝いをして、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)が斎王(さいおう)を辞任して、伊勢市の磯(いそ)神社に隠居した。
年代不明で日本武尊(やまとたけのみこと)は、義父の野見宿禰(のみのすくね)が亡くなって落ち込んだ弟橘姫(おとたちばなひめ)と不倫して、景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)の息子の神櫛皇子(かんぐしのみこ)が母の不倫を父の景行(けいこう)天皇に密告した。
  日本武尊(やまとたけのみこと)は、出雲王家(物部(もののべ)氏)の養子の弟橘姫(おとたちばなひめ)を正妻にして、彼女の故郷の出雲に20年から30年ほど滞在して、7人の息子をもうけて、西暦247年までに奈良県に帰還した。
景行(けいこう)天皇39年頃(西暦229年頃)に物部(もののべ)氏の武虎別皇子(たけこわけのみこ)と葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)は、娘の神功(じんぐう)皇后を生んで、卑弥呼(ひみこ)と同族(皇族)の台与(とよ)で、本名(ほんみょう)の豊姫命(とよひめのみこと)が台与卑弥呼(とよひみこ)で隠した。
  皇祖神(こうそしん;天皇家の祖先神)で母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、女系男子天皇の理由として、子孫で新しい血筋の継体(けいたい)天皇の即位を認めさせて、現在の皇室まで女系男子天皇が続いて、非常に大切な意味を持つ。
景行天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)に物部(もののべ)氏の屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)と倭影媛(やまとかげひめ)は、紀伊(きい;和歌山県)の阿備柏原(あびかしわばら;和歌山市相坂・松原の付近か?)ですごして、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を生んだ。
  『日本書紀』の武内宿禰(たけのうちのすくね)は、300年近く人名を記して、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が子孫の竹内(たけうち)氏に歴代の武内宿禰(たけのうちのすくね)の人名を襲名し続けた。
西暦239年に魏(ぎ)王朝に遣使して、西暦240年に親魏倭王(しんぎわおう)の金印を持って帰還して、卑弥呼(ひみこ)が受け取ったと誤解して、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)も卑弥呼(ひみこ)の銅鏡と勘違いした。
景行(けいこう)天皇49年(西暦239年)に男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇は、初めて魏(ぎ)王朝の景初3年6月(239年7月頃)に遣使して、12月(西暦240年1月頃)に宝物を下賜されて、遣魏使(けんぎし)で、遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語である。
景行(けいこう)天皇50年(西暦240年)に遣魏使(けんぎし)は、魏(ぎ)王朝の正始元年(240年)に帰国して、親魏倭王(しんぎわおう)の金印を景行(けいこう)天皇が受け取って、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)が受け取らず、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)を八咫鏡(やたのかがみ)の代用とした。
親魏倭王(しんぎわおう)の金印は、景行(けいこう)天皇陵(箸墓(はしはか)古墳)から出土しなくて、魏(ぎ)王朝が滅亡した西暦265年以降の古墳から出土すると考えられる。
景行(けいこう)天皇53年(西暦243年)に遣魏使(けんぎし)を派遣して、魏王朝の正始4年(243年)である。
景行(けいこう)天皇55年(西暦245年)に遣魏使(けんぎし)は、使者の難升米(なんしゅうまい;誰か不明)を派遣して、魏(ぎ)王朝の正始6年(245年)である。
西暦247年に邪馬台国(やまとこく)は、狗奴国(くぬこく)と戦争して、よく南九州の熊襲(くまそ)と考えられる。
景行(けいこう)天皇57年10月13日(西暦247年11月中旬頃)に熊襲(くまそ)王国は反逆して、男王(だんおう)の日本武尊(やまとたけのみこと)が討伐に向かって、魏(ぎ)王朝の正始8年(247年)の狗奴国(くぬこく)討伐に当たる。
景行(けいこう)天皇57年12月頃(248年1月頃)に男王(だんおう)の日本武尊(やまとたけのみこと)は、狗奴国(くぬこく)の熊襲(くまそ)王国を滅亡させて、2月1日(248年3月上旬頃)に皇居の纏向(まきむく)遺跡に帰還した。
  父の景行(けいこう)天皇は、熊襲(くまそ)国王を娘に殺させて屈服して、息子の日本武尊(やまとたけのみこと)が女装して、熊襲(くまそ)国王の取石鹿文(とりいしかや)を騙(だま)し討ちしたのを重ねて、一方的に武力で制圧したと考えられる。
景行(けいこう)天皇58年2月11日(西暦248年3月中旬頃)に景行(けいこう)天皇は、近江国(おうみのくに;滋賀県)に行って、皇居の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)を建てて、合致する考古学的証拠が見つからず、『ホツマツタエ』に天照神(あまてるかみ)の皇居が2つあって、景行(けいこう)天皇の皇居が2つでもおかしくない。
景行(けいこう)天皇60年6月2日(西暦250年7月頃)に蝦夷(えみし;古代天皇家に抵抗する者を蔑(さげす)む呼び名)は反抗して、石川県と長野県と神奈川県を含めた以東が討伐対象だった。
景行(けいこう)天皇60年月日不明(西暦250年8月から11月頃)に男王(だんおう)の日本武尊(やまとたけのみこと)は、東海平定の総大将で、武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)と大伴武日(おおとものたけひ)と吉備武彦(きびたけひこ)が従軍して、日本武尊(やまとたけのみこと)の異母兄弟の武虎別皇子(たけこわけのみこ)が北陸平定の総大将として出陣した。
景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に男弟(だんてい)の景行(けいこう)天皇は、79才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、皇太子で男王(だんおう)の日本武尊(やまとたけのみこと)が東海平定で不在だった。
  月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の神名は、景行(けいこう)天皇の在位期間60年間を干支(えと)の年月(一周60年間)で読む意味である。
年代不明で卑弥呼(ひみこ)は死んで、男王(だんおう)が即位して、国中が服従しなくて、戦争で千人余りが戦死した。
西暦251年(天皇不在の年)に日本武尊(やまとたけのみこと)と仲哀(ちゅうあい)天皇と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)の親子3人は皇位継承者で、日本武尊(やまとたけのみこと)と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が仲哀(ちゅうあい)天皇と対立した。
  8月4日(9月上旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)は、三種の神器を強奪して、日本武(やまとたけ)天皇(本当の男王(だんおう)になる)に強行即位して、9月15日(10月上旬頃)に武虎別皇子(たけこわけのみこ)が奈良坂に到着して、時期不明で日本武(やまとたけ)天皇の正妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)が大坂から出陣して、場所不明で戦死した。
  10月7日(11月上旬頃)に日本武(やまとたけ)天皇は、88才の伯母(おば)で卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)を伊勢市の磯(いそ)神社で殺して、10月22日(11月下旬頃)に倭姫命(やまとひめのみこと)を伊勢市に葬礼した。
  倭姫命(やまとひめのみこと)の墓(はか)は、宇治山田陵墓(うじやまだりょうぼ)と呼んで、宮内庁指定の古墳が間違いで、宇治が三重県伊勢市宇治館町1の伊勢神宮内宮を指して、殺害場所の伊勢市の磯(いそ)神社と陵墓名から考えて、三重県伊勢市の古墳に葬礼した可能性が高くて、古墳の形が分からなくて、古墳時代初期の築造年代が判明した。
  11月1日(12月上旬頃)に蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)は、諸国に伝令して、2日(12月上旬頃)に父の日本武(やまとたけ)天皇と合流して、11月4日(12月上旬頃)に蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が戦死して、日本武(やまとたけ)天皇が出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命して、男王(だんおう)の日本武尊(やまとたけのみこと)の反乱が終了した。
  素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、姉で太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)を殺して、同じく古代太陽神の八岐大蛇(やまたのおろち;伊勢神宮を神格化)も殺した。
仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、4代目天皇に即位して、邪馬台国(大和国;やまとこく)の仲哀(ちゅうあい)天皇と出雲王国の日本武(やまとたけ)天皇の親子が対立して、それぞれ三種の神器を所持して、2朝廷並列時代に突入した。
卑弥呼(ひみこ)の墓(はか)は、魏(ぎ)王朝の直径百歩余り(直径約144メートル前後)で、殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)者が百人余りと勘違いした。
仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)は、男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇を箸墓(はしはか)古墳に葬礼して、宮内庁指定の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)の墓(はか)でなく、卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇陵である。
  箸墓(はしはか)古墳は、埋葬者が見つからず、大坂山(二上山;にじょうさん)の石を使用したと証明されず、古墳全体を発掘調査してなくて、証明できなくて当然である。
  箸墓(はしはか)古墳は、最古の特殊器台埴輪(はにわ)が出土して、殉死(じゅんし)者の代替物の埴輪(はにわ)を証明して、魏(ぎ)王朝時代の直径百歩余り(約144メートル)が箸墓(はしはか)古墳の後円部160メートルで、全長280メートルを魏(ぎ)王朝に伝えず、魏(ぎ)王朝の薄葬思想(墓(はか)を小さく作ること)を知って、古代天皇家が伝えなかったと考えられる。
仲哀(ちゅうあい)天皇2年1月11日(西暦253年2月中旬頃)に台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、仲哀(ちゅうあい)天皇の正妻になって、出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命した仲哀(ちゅうあい)天皇の父の日本武(やまとたけ)天皇が物部(もののべ)氏から姫を選んで、和解のために時間かせぎをしたと考えられる。
  忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)は、栲幡千千姫命(たくはたちちひめのみこと;神功(じんぐう)皇后を神格化)と結婚した。
仲哀(ちゅうあい)天皇3年9月30日(西暦254年10月下旬頃)に武虎別皇子(たけこわけのみこ)と武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)たちは、皇居(どこか不明)に帰還して、東日本の平定が終了した。
  中部地方から東北地方南部の東日本は、古代天皇家が統治下して、経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)が関東平定の2軍神で、2軍神を東北地方南部に道案内したのが塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)である。
年代不明の仲哀(ちゅうあい)天皇と台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、第一子の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生んで、愛情が芽生えていって、日本武(やまとたけ)天皇に任(まか)された任務が神功(じんぐう)皇后の中で薄(うす)れていった。
仲哀(ちゅうあい)天皇4年9月(西暦255年10月頃)は、全国の国造(くにみやつこ;国主)を任命した。
  福島県河沼郡会津坂下町の杵ヶ森(きねがもり)古墳は、石背国造(いわせくにみやつこ)の建彌依米命(たけみよりまいのみこと)か阿尺国造(あさかくにみやつこ)の比止彌命(ひとみのみこと)で、千葉県市原市の神門(ごうど)3・4・5号墳が菊麻国造(きくまくにみやつこ)の大鹿国直(おおかくにのあたい)か上海上国造(かみうなかみくにみやつこ)の忍立化多比命(おしたちかたひのみこと)が古墳埋葬者と考えられて、4つとも前方後円墳である。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月6日(西暦260年3月上旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、出雲王国の攻撃中に戦場で傷ついて、51才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、戦死で間違いなくて、正妻の神功(じんぐう)皇后が舅(しゅうと)の日本武(やまとたけ)天皇を恨(うら)んで、この数日前に第二子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を身籠(みご)もったと考えられる。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)に台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、出雲王国(物部(もののべ)氏)を攻撃して、17日に67才の日本武(やまとたけ)天皇を殺して、男王(だんおう)の日本武尊(やまとたけのみこと)の反乱が完全に決着して、短時間で出雲王国の上層部を一掃(出雲王国の崩壊)して、戦死者が少なかったと考えられる。
  日本武尊(やまとたけのみこと)陵は、大和(おおやまと)古墳群の前方後円墳と考えられて、出雲王国が滅亡でなく、6世紀に本家の物部守屋(もののべのもりや)が死んで、物部(もののべ)氏の崩壊とした。
  弥生時代後期に発展した出雲は、3世紀中頃に衰退して、弥生時代後期に入って、全国的に高地性集落遺跡が作られるが、出雲で3世紀中頃に多くの高地性集落遺跡が作られて、出雲王国崩壊の時期と重なる。
  神功(じんぐう)皇后の三韓征伐(古代朝鮮国家3国の平定)は、西暦320年とするが、60年間を引き算して、260年の出雲王国の平定と入れ替わって、正しく完全解釈できる僕にしか求められなかった。
  出雲の国譲(くにゆず)り神話(出雲王国の崩壊)に登場する神様は、高天原(たかまがはら;天津神:あまつがみ)系の古代天皇家の人物と出雲系(国津神;くにつがみ)の物部(もののべ)氏の人物を神格化して、以下の神様が主に出てくる。
  古代天皇家の人物は、7代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)と天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)のお腹(なか)にいた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)と経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)などである。
  物部(もののべ)氏側の人物は、大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と須勢理比売(すせりひめ;忍布姫(ぬのおしひめ)を神格化)と事代主神(ことしろぬしのかみ;濡渟(うかずくぬ)を神格化)と建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)などである。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月18日から12月5日頃(西暦260年11月中旬頃から西暦261年1月上旬頃)まで台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、身重(みおも)の体で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊の後処理をして、出雲王国が統治した中国地方の各地に使者を飛ばして、対応に追われて1ヶ月以上も出雲に滞在した。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、仲哀(ちゅうあい)天皇の忘れ形見の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を生んで、出生地が京都市与謝(よさ)郡伊根(いね)町の宇良(うら)神社で、祭神が『日本書紀』に記す浦島太郎で、僕が浦島太郎の正体を誉田別尊(ほむだわけのみこと)と仁徳(にんとく)天皇と求めて、出版してない3冊目で公表する。
  忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)と栲幡千千姫命(たくはたちちひめのみこと;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、第一子の初代・火明命(ほあかりのみこと;誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を神格化)と第二子の火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)を生んで、2人とも物部(もののべ)氏の血筋だから、火の神様に神格化して、神功(じんぐう)皇后が物部(もののべ)氏である。
邪馬台国(やまとこく)は、遂(つい)に国中を平定した。
摂政(せっしょう)元年2月(西暦261年3月頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇の息子の鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟は、義母の神功(じんぐう)皇后から三種の神器を強奪する謀反(むほん)を起こして、鹿坂皇子(かごさかのみこ)が死んで、3月5日(西暦261年4月上旬頃)以降に忍熊皇子(おしくまのみこ)が溺死して、京都府宇治市で水死体が見つかった。
鹿は「鹿」の漢字の下に弭で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
  邪馬台国(大和国;やまとこく)の最後の内乱(皇位継承権争い)で神功(じんぐう)皇后は、教訓から三種の神器の神剣を変更しようと考えて、『三国志・魏志倭人伝』の「国中遂定」の記述が内乱を遂(つい)に平定して、魏(ぎ)王朝が滅亡した西暦265年までに遣使した。
魏(ぎ)王朝が滅亡した西暦265年までに卑弥呼(ひみこ)の宗女(一族)で、13才の台与(とよ)が選ばれて女王になったと勘違いした。
摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と同族(皇族)で台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、33才で摂政(せっしょう;天皇に代わって政治をする役職)になって、卑弥呼(ひみこ)が幼少で女王になって、台与(とよ)も13才で即位したと勘違いした。
摂政(せっしょう)2年11月8日(西暦262年12月上旬頃)に夫の仲哀(ちゅうあい)天皇は葬礼して、仲哀(ちゅうあい)天皇陵が大和(おおやまと)古墳群の前方後円墳と考えられる。
摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、実兄の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)でなく、実弟で2才弱の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を立太子(りったいし;皇太子になること)して、新しい三種の神器と共に日向(ひうが;宮崎県)に行かせた。
  三種の神器の神剣は、2種類の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と1種類の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を入れ替えて、宮崎県に誉田別尊(ほむだわけのみこと)を行かせて、八重垣剣(やえがきのつるぎ)の別名が天逆矛(あめのさかほこ)や天沼矛(あめのぬぼこ)など多くある。
  母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、息子の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)を宮崎県に天孫降臨させて、宮崎県が皇室の故郷の理由である。
  日向(ひうが;宮崎県)の天孫降臨神話で太玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)は、神功(じんぐう)皇后の弟で、甥(おい)の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を守る近衛(このえ)将軍である。
  塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)の息子の火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)を舟で送り出して、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が誉田別尊(ほむだわけのみこと)を舟で、大阪府から宮崎県に送り出した。
  おとぎ話の浦島太郎は、母と乙姫(おとひめ)に一生会えなくて、大阪府から宮崎県に旅立って、誉田別尊(ほむだわけのみこと)が母の神功(じんぐう)皇后と一生会えなくて、仲姫(なかひめ)が乙姫(おとひめ)で、夫の誉田別尊(ほむだわけのみこと)が眠る宮崎県に残って、奈良県で即位した仁徳(にんとく)天皇が母の仲姫(なかひめ)と一生会えなかったのが真実である。
西暦265年に建国した西晋(せいしん)王朝に台与(とよ)が遣使して、この後も何度か遣使して、この年号を最後に邪馬台国(大和国;やまとこく)が歴史上から消えた。
摂政(せっしょう)6年(西暦266年)に台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、西晋(せいしん)王朝の泰始2年(西暦266年)に遣使して、遣西晋使(けんせいしんし)で、遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語である。
  韓国の都市の金海(キメ)は、狗邪韓国(くやかんこく)の加羅国(からこく)で、3世紀後半頃から日本製の遺物が出土しなくて、神功(じんぐう)皇后時代に中国や朝鮮の王朝と外交しなくなって、「記紀」の記述と合致した。
応神(おうじん)天皇元年(西暦年270年)は、庚寅(かのえとら)で計算して、摂政(せっしょう)9年である。
  応神(おうじん)天皇から武烈(ぶれつ)天皇は、即位年と崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)年の干支(えと)が当てにならず、年齢も参考にならなくて、混乱させるのが目的だが、僕が西暦年月を完全特定して決着した。
西暦270年から290年頃に出雲大社は、出雲大社の初代宮司の濡渟(うかずくぬ)が創建したと考えられて、最後の出雲国王の飯入根(いいいりね)と日本武尊(やまとたけのみこと)の一人娘である布忍姫(ぬのおしひめ)の息子で、出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏の直系先祖で、出雲大社の創建年代が予測である。
  千家(せんげ)氏は、彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖とする出雲王家(物部(もののべ)氏)と古代天皇家の日本武尊(やまとたけのみこと)の直系子孫で、祖先神の大物主神(おおものぬしのかみ)と大国主神(おおくにぬしのかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)などを怨霊(おんりょう)とした。
  奈良県桜井市の大物主神(おおものぬしのかみ)は、歴代7人の出雲国王を神格化して、大国主神(おおくにぬしのかみ)が初代出雲国王の彦坐王(ひこいますのみこ)と7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)を神格化して、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化した。
6代目出雲国王の神櫛皇子(かんぐしのみこ)は、曾孫の2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)と一緒に『ホツマツタエ』の出雲の国譲(くにゆず)り(出雲王国の崩壊)まで記して、実弟の稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が『ホツマツタエ』に署名(しょめい)して、3世紀後半頃に神功(じんぐう)皇后に献上した。
応神(おうじん)天皇16年頃(西暦285年頃)に仁徳(にんとく)天皇は生まれて、摂政(せっしょう)25年頃である。
西暦297年に亡くなった古代中国の陳寿(ちんじゅ)は、『三国志・魏志倭人伝』の邪馬台国(大和国;やまとこく)論争を記した。
応神(おうじん)天皇40年1月24日(西暦309年2月下旬頃)に父の誉田別尊(ほむだわけのみこと)が皇太子の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)と仁徳(にんとく)天皇と大山守皇子(おおやまもりのみこ)の3人を皇位継承者にして、摂政(せっしょう)49年である。
応神(おうじん)天皇41年2月15日(西暦年310年3月中旬頃)に誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、49才で亡くなって、天皇でないため崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)と呼ばなくて、『日本書紀』に葬礼日も陵墓名も記さず、摂政(せっしょう)50年である。
  宮崎市の前方後円墳の生目(いきめ)1号墳は、3世紀末から4世紀前半の築造で、箸墓(はしはか)古墳(景行(けいこう)天皇陵)の相似形で、誉田別尊(ほむだわけのみこと)陵の有力候補である。
摂政(せっしょう)58年頃(西暦318年頃)に反正(はんぜい)天皇は生まれた。
女王と勘違いした台与(とよ)は死んで、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の登場人物の多くが死んだ。
摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、99才で亡くなって、10月15日(11月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后を葬礼して、大和(おおやまと)古墳群の前方後円墳が有力候補である。
西暦331年から334年は、祖母の神功(じんぐう)皇后の死去を知って、宮崎県の仁徳(にんとく)天皇が皇太子の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)と出発して、異母兄弟の大山守皇子(おおやまもりのみこ)と額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)と対立して、皇位継承権争いの内乱である。
  天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)より息子の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)は、先に死んで、孫の火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)が生まれて、その孫の神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)が長髄彦(ながすねひこ;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を祖先化)を殺した。
  神武(じんむ)天皇の実兄は、多賀宮(たかのみや;伊勢神宮外宮の別宮)を統治した五瀬命(いつせのみこと)と稲飯命(いないいのみこと)が死んで、仁徳(にんとく)天皇の異母兄弟の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)と大山守皇子(おおやまもりのみこ)が戦死して、明らかに共通する。
  火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)は、兄の火酢芹命(ほすせりのみこと;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を神格化)を殺して、祖母の神功(じんぐう)皇后が物部(もののべ)氏の血筋だから、火の神様に神格化して、大山守皇子(おおやまもりのみこ)の父方の祖父が神功(じんぐう)皇后の弟の武渟川別(たけぬなかわわけ)である。
仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、5代目天皇に即位して、天皇陵を含む大和(おおやまと)古墳群と景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)である纏向(まきむく)遺跡を放棄して、放棄した4世紀前半の年代と合致して、『日本書紀』で3年間皇位が空白で、祖母の神功(じんぐう)皇后の死去の329年から5年後に即位して合致する。
  仁徳(にんとく)天皇は、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が98才で補佐して、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を武甕雷神(たけみかづちのかみ)と饒速日命(にぎはやひのみこと)と塩土老翁(しおつちのおじ)の3神に神格化して、海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の神話と神武(じんむ)東征に登場した。
  西暦334年即位の仁徳(にんとく)天皇から西暦507年1月上旬頃に崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)の武烈(ぶれつ)天皇までは、『日本書紀』と『古事記』の干支(えと)が混乱して、混合して年代特定して、5世紀の倭(わ;古代日本)の五王の遣使した年と合致させて、歴代天皇の年齢があり得ない計算だったりして、僕の自論の年代に死角が無い。
仁徳(にんとく)天皇6年頃(西暦339年頃)に安康(あんこう)天皇は生まれた。
仁徳(にんとく)天皇33年3月1日(西暦366年4月上旬頃)に百済(くだら)は、日本と外交を始めて、邪馬台国(やまとこく;大和国)時代に断絶した古代朝鮮国家群との外交の再開で、古代中国の王朝とも外交を再開したと考えられる。
この頃に古代中国の王朝と外交を再開して、『三国志・魏志倭人伝』を読んで、卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)を女王と勘違いしたと知って、父方と母方の2人の天照大神(あまてらすおおみかみ)を作って、天照大神(あまてらすおおみかみ)を高天原(たかまがはら;天上の世界)の女王として、日本神話を作成したと考えられる。
仁徳(にんとく)天皇34年1月16日(西暦367年2月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
履中(りちゅう)天皇元年2月1日(西暦367年3月上旬頃)に履中(りちゅう)天皇は、6代目天皇に即位した。
履中(りちゅう)天皇6年1月3日(372年2月上旬頃)に履中(りちゅう)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
履中(りちゅう)天皇6年9月10日(西暦372年10月上旬頃)に朝鮮半島の百済(くだら)王は、東晋(とうしん)王朝の太和4年(369年)を泰?(和)4年と記した七枝刀(ななつさやのたち)を倭王(わおう;古代の日本王)に献上して、石上(いそのかみ)神宮の国宝の七支刀(しちしとう)に当たる。
反正(はんぜい)天皇元年1月2日(西暦373年2月上旬頃)に反正(はんぜい)天皇は、7代目天皇に即位した。
反正(はんぜい)天皇5年7月(377年8月頃)に反正(はんぜい)天皇は、59才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
允恭(いんぎょう)天皇元年12月(西暦378年1月頃)に允恭(いんぎょう)天皇は、8代目天皇に即位した。
允恭(いんぎょう)天皇17年1月15日(西暦394年2月上旬頃)に允恭(いんぎょう)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
安康(あんこう)天皇元年12月14日(西暦395年1月中旬頃)に安康(あんこう)天皇は、9代目天皇に即位した。
『日本書紀』応神(おうじん)天皇9年4月(正しくは安康(あんこう)天皇4年4月;西暦398年5月頃)に弟(同母弟か異母弟か不明)の甘美内宿禰(うましうちのすくね)は、兄の4代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)を殺すため、天皇に讒言(ざんげん;事実を曲(ま)げて、嘘(うそ)をついて人を悪く言うこと)して、結果的に4代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)が勝って、弟が火傷(やけど)した。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の父の屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)は、別名が甘美内宿禰(うましうちのすくね)だが、年代から考えて、4代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の弟が讒言(ざんげん)したと考えて間違いない。
倭(わ;古代日本)の五王は、初めて歴史に登場して、倭王(わおう;古代の日本王)の賛(さん)が讃(さん)と同一人物である。
安康(あんこう)天皇8年(西暦413年)に安康(あんこう)天皇は、東晋(とうしん)王朝の義煕(ぎき)9年(西暦413年)に倭王(わおう;古代の日本王)の賛(さん)として、初めて遣使して、遣東晋使(けんとうしんし)で、遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語である。
南朝宋(そう)王朝は、初めて倭王(わおう;古代の日本王)の讃(さん)が遣使した。
安康(あんこう)天皇26年(西暦421年)に安康(あんこう)天皇は、南朝宋(そう)王朝の永初2年(西暦421年)に倭王(わおう;古代の日本王)の讃(さん)として、初めて遣使して、遣宋使(けんそうし)で、遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語である。
  倭(わ)の五王の人名は、歴代天皇の中国語読みを対比して、歴代天皇の中国語読みが死後の名称と「記紀」で記して、上皇様を平成天皇で、今上(きんじょう)天皇(今の天皇陛下)を令和天皇と呼んで恐れ多いが、死後の名称と思い込ませて、歴代天皇の日本語読みを当てはめる常識が生まれて、定説の理由に使われた。
  上皇様の平成天皇と今上(きんじょう)天皇(今の天皇陛下)を令和天皇は、死後の名称と思い込ませて、その常識(当たり前)を変えて、これから平成天皇と令和天皇の名称を使うことを普通にして、現在の常識の変革する「きっかけ」だった。
安康(あんこう)天皇31年(西暦425年)に安康(あんこう)天皇は、南朝宋(そう)王朝の元嘉2年(西暦425年)に倭王(わおう;古代の日本王)の讃(さん)として遣使した。
安康(あんこう)天皇33年8月9日(427年9月上旬頃)に安康(あんこう)天皇は、55才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
最大の前方後円墳の大仙(だいせん)古墳は、5世紀前半から中頃の築造で、宮内庁指定の仁徳(にんとく)天皇陵だが、安康(あんこう)天皇から顕宗(けんそう)天皇ぐらいが古墳埋葬者と考えられる。
雄略(ゆうりゃく)天皇元年11月13日(427年12月中旬頃)に雄略(ゆうりゃく)天皇は、10代目天皇に即位した。
倭王(わおう;古代の日本王)の讃(さん)は死んで、弟の珍(ちん)が即位して、血縁関係が正しかった。
倭王(わおう;古代の日本王)の讃(さん)の安康(あんこう)天皇は死去して、弟で倭王(わおう;古代の日本王)の珍(ちん)の雄略(ゆうりゃく)天皇が年代不明で、2回に渡って南朝宋(そう)王朝に遣使した。
雄略(ゆうりゃく)天皇3年8月7日(西暦429年9月上旬頃)に雄略(ゆうりゃく)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
清寧(せいねい)天皇元年1月(西暦430年2月上旬頃)に清寧(せいねい)天皇は、11代目天皇に即位した。
倭王(わおう;古代の日本王)の珍(ちん)は死んで、息子の済(せい)が即位して、血縁関係が正しかった。
倭王(わおう;古代の日本王)の珍(ちん)の雄略(ゆうりゃく)天皇は死んで、息子で倭王(わおう;古代の日本王)の済(せい)の清寧(せいねい)天皇が即位して、珍(ちん)と済(せい)の血縁関係を記さない。
清寧(せいねい)天皇14年(西暦443年)に清寧(せいねい)天皇は、南朝宋(そう)王朝の元嘉20年(西暦443年)に倭王(わおう;古代の日本王)の済(せい)として遣使した。
清寧(せいねい)天皇21年頃(西暦450年頃)に武烈(ぶれつ)天皇は生まれた。
清寧(せいねい)天皇22年(西暦451年)に清寧(せいねい)天皇は、南朝宋(そう)王朝の元嘉28年(西暦451年)に倭王(わおう;古代の日本王)の済(せい)として遣使した。
清寧(せいねい)天皇28年1月16日(西暦457年2月中旬頃)に清寧(せいねい)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
清寧(せいねい)天皇28年1月17日以降の1月中(西暦457年2月頃)に顕宗(けんそう)天皇は、即位しなくて、同母姉(同母妹)の飯豊女王(いいとよのひめみこ)が政治をして、自(みずか)らを忍海飯豊青尊(おしぬみいいとよあおのみこと)と尊称(そんしょう)して、11月(12月頃)に亡くなった。
  飯豊女王(いいとよのひめみこ)は、顕宗(けんそう)天皇の同母姉(同母妹)で、女性皇族として政治して、年齢不明である。 顕宗(けんそう)天皇元年1月1日(西暦458年1月上旬頃)に顕宗(けんそう)天皇は、12代目天皇に即位した。
倭王(わおう;古代の日本王)の済(せい)は死んで、世継ぎの興(こう)が即位して、専門家(学会)が誰か特定できなかった。
倭王(わおう;古代の日本王)の済(せい)の清寧(せいねい)天皇は、血縁断絶して、世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)の顕宗(けんそう)天皇が跡継ぎで、年代不明で遣使した。
顕宗(けんそう)天皇5年(西暦462年)に顕宗(けんそう)天皇は、南朝宋(そう)王朝の大明6年(西暦462年)に倭王(わおう;古代の日本王)の興(こう)として遣使した。
顕宗(けんそう)天皇14年4月25日(西暦471年5月下旬頃)に顕宗(けんそう)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
仁賢(にんけん)天皇元年1月15日(西暦472年2月中旬頃)に仁賢(にんけん)天皇は、13代目天皇に即位した。
仁賢(にんけん)天皇3年8月8日(西暦474年9月上旬頃)に仁賢(にんけん)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
武烈(ぶれつ)天皇元年3月2日(西暦475年4月上旬頃)に武烈(ぶれつ)天皇は、14代目天皇に即位した。
倭王(わおう;古代の日本王)の興(こう)は死んで、弟の武(ぶ)が即位して、専門家(学会)が誰か特定できなかった。
倭王(わおう;古代の日本王)の興(こう)の顕宗(けんそう)天皇は死んで、甥(おい)で倭王(わおう;古代の日本王)の武(ぶ)の武烈(ぶれつ)天皇が即位した。
南朝宋(そう)王朝と南朝斉(せい)王朝と南朝梁(りょう)王朝は、倭王(わおう;古代の日本王)の武(ぶ)が共通して、在位期間32年の武烈(ぶれつ)天皇と僕が証明して、『古事記』の干支(えと)の崩年干支(ほうねんかんし)が正しくて、2023年5月25日の午後5時頃に証明した。
武烈(ぶれつ)天皇4年(西暦478年)に武烈(ぶれつ)天皇は、南朝宋(そう)王朝の昇明2年(西暦478年)に倭王(わおう;古代の日本王)の武(ぶ)として、最後に遣使した遣宋使(けんそうし)で、遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語である。
武烈(ぶれつ)天皇5年(西暦479年)に武烈(ぶれつ)天皇は、南朝斉(せい)王朝の建元元年(西暦479年)に倭王(わおう;古代の日本王)の武(ぶ)として、初めて遣使して、遣斉使(けんせいし)で、遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語である。
武烈(ぶれつ)天皇24年8月(西暦498年9月頃)に大臣で8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群鳥臣(へぐりのまとり)は、天皇になり替わろうと反乱して、息子の鮪臣(しびのおみ)が奈良山(奈良盆地の北にある丘陵)で殺されて、12月(西暦499年1月頃)に平群真鳥(へぐりのまとり)も殺された。
  平群真鳥(へぐりのまとり)は、8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の竹内真鳥(たけうちのまとり)で、その息子の鮪臣が(しびのおみ)が竹内志昆(たけうちのしび)だが、9代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)か分からなくて、平群真鳥(へぐりのまとり)の失脚で、竹内(たけうち)氏が没落した。
  竹内(たけうち)氏の復権は、竹内志昆(たけうちのしび)の曾孫で、13代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群臣神手(へぐりおみのかみて)で、またの名を竹内塩手(たけうちのしおて)が物部守屋(もののべのもりや)を討伐した時である。
  平群真鳥(へぐりのまとり)の失脚は、『日本書紀』に300年近く武内宿禰(たけのうちのすくね)の名前を竹内(たけうち)氏が襲名し続けて、以降に武内宿禰(たけのうちのすくね)を記さない証明と考えられる。
武烈(ぶれつ)天皇28年(西暦502年)に武烈(ぶれつ)天皇は、南朝梁(りょう)王朝の天監元年(西暦502年)に倭王(わおう;古代の日本王)の武(ぶ)として、初めて遣使して、遣梁使(けんりょうし)で、遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語である。
武烈(ぶれつ)天皇32年12月8日(西暦507年1月上旬頃)に武烈(ぶれつ)天皇は、56才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
専門家(学会)は、最後の倭王(わおう;古代の日本王)の武(ぶ)を雄略(ゆうりゃく)天皇で、西暦479年まで生きて、4天皇が30年ぐらいで次々に代替わりして、『日本書紀』の武烈(ぶれつ)天皇の在位期間が8年間で、叔父(おじ)の顕宗(けんそう)天皇が38才で亡くなって、実姉の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が20才代で、継体(けいたい)天皇の皇后になって、勘違いした根本理由である。
継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月上旬頃)に継体(けいたい)天皇は、新しい血筋の15代目天皇に即位して、3月5日(西暦507年4月上旬頃)に武烈(ぶれつ)天皇の実姉の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が60才以上の年齢で皇后になって、もっと若い頃に正妻になって、欽明(きんめい)天皇を生んで、欽明(きんめい)天皇の年齢が「記紀」でワザと隠して、勘違いさせるためと考えられる。
  継体(けいたい)天皇は、海部(あまべ)氏の派生氏族である尾張連草香(おわりむらじのくさか)の娘の目古媛(めこひめ)が安閑天皇(あんかん)と宣化(せんか)天皇を生んで、手白香皇女(たしらかのひめみこ)が欽明(きんめい)天皇を生んで、古代天皇家と新しい血筋の混血の天皇で、今の皇室の直系先祖と伝える。
  継体(けいたい)天皇は、皇祖神(こうそしん;天皇家の祖先神)で母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の直系子孫で、日本神話の太陽神が女系男子天皇の血筋で、先代の武烈(ぶれつ)天皇の実姉を皇后にして、この2つの理由で即位したと考えられる。
日本最古の書物『ホツマツタエ』は、6世紀前半の西暦525年にヨーロッパで西暦年ができて、7世紀までに西暦年を組み込んで完成して、8世紀初頭の712年に『古事記』を献上して、720年に『日本書紀』を献上した。
  『ホツマツタエ』は、間違いが見つからなくて、文章を本にして残して、「記紀」が口伝(くでん;言葉で伝えること)を文章にして製本したため、製作段階で決定的に違ったと考えられる。
  『ホツマツタエ』と「記紀」は、日本神話で伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)を最初の神様にして、皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で初代の神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇を祖先化)を作って、応神(おうじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇を初代天皇に見立てたりして、実在の初代天皇を混乱させて、求められないように偽装工作したが、僕を騙(だま)せなかった。
73代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏は、2020年1月13日に亡くなって、景行天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)生まれの初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が子孫の竹内(たけうち)氏に歴代の武内宿禰(たけのうちのすくね)の人名を襲名し続けたと証明できる。
2023年は、天皇家誕生(建国)1939年目で、西暦84年から507年1月上旬頃まで14人の天皇で、507年3月上旬頃に即位した継体(けいたい)天皇から今上(きんじょう)天皇(今の天皇陛下)まで101人の天皇で、合計115人の天皇で、成務(せいむ)天皇(日本武(やまとたけ)天皇)と誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)の2人を歴代天皇から外(はず)した。
僕が求めた母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、女系男子天皇の根拠で、皇位継承問題の女系天皇や女性天皇や女性宮家を解決する「きっかけ」になる。

<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『出雲国風土記と古代遺跡』
勝部昭・著者 株式会社山川出版社・発行
『卑弥呼の居場所 狗邪韓国から大和へ』
高橋徹・著者 日本放送出版協会・発行
『出雲大社の暗号』
関裕二・著者 株式会社講談社・発行
『完全制覇 古代大和朝廷の謎』
関裕二・著者 株式会社立風書房・発行
『出雲大社と千家氏の秘密』
中見利夫・著者 株式会社宝島社・発行
『三輪山の考古学』
株式会社学生社・発行
『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』
株式会社洋泉社・発行
インターネット

戻る