古代天皇家の年表

古代天皇家の年表は、邪馬台国(大和国;やまとこく)の年表を統合して、専門家(考古学会と歴史学会)を含めた現代人(僕以外の人間)が基本の基本も知らなくて、僕がおんぶにだっこして、完成した神技(かみわざ)の史料である。
日本神話は、西暦81年以降の大阪府の平定から334年代の仁徳(にんとく)天皇の即位まで神話化して、それを考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)で完全に証明して、5世紀初頭から6世紀初頭の倭(わ;古代日本)の五王時代も完全に証明して、僕の自論に誰も反論できない。
僕が日本神話の神様を証明したのは、中世哲学の神様の存在証明でなく、人類史上初めて神様の存在を証明したと言えて、歴史上の偉人たちをも超えた理由で、僕の特定した日本神話の神様の正体を100%否定できない。
2023年5月25日は、崩年干支(ほうねんかんし)が正しいと証明して、7月15日に景行(けいこう)天皇時代の九州平定の年代を特定して、7月22日に神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)の329年から333年までを年代特定して、2024年6月10日頃から26日まで景行(けいこう)天皇60年(西暦250年)の東国の平定から仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月22日(西暦260年3月下旬頃)までの年代の細かな出来事の内容を記した。
この年表は、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争と倭(わ)の五王の一般的な専門家(歴史学界;歴史書解釈)と僕の考え方を青字で、日本神話の神々と特徴などを赤字で、僕が修正した崇神(すじん)天皇から武烈(ぶれつ)天皇までの()内の年代を緑字で、完全な僕の自論や解釈を黒字で記して、2024年9月下旬頃から赤字を記し始めて、10月22日の午後1時半頃に緑字を記し終えて、11月12日の午後11時半頃にこの章を修正し終えた。


神武(じんむ)天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日)は、今から30年から40年ほど前に縄文時代で、今が弥生時代で、紀元前722年の北イスラエル王国を思わせたり、神武(じんむ)東征が宮崎県から奈良県に行って即位して、3世紀頃の邪馬台国(やまたいこく)論争を思わせたり、神武(じんむ)天皇が初代天皇を思わせたりと偽装工作に余念がない。
  孝昭(こうしょう)天皇49年1月1日(西暦49年2月上旬頃)は、孝昭(こうしょう)天皇と世襲足姫(よそたりひめ)が実在の初代天皇の崇神(すじん)天皇を生んで、神武(じんむ)天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日)と日付が合致して、実在の初代天皇の崇神(すじん)天皇を皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で初代天皇の神武(じんむ)天皇に祖先化した。
  神武(じんむ)東征は、神武(じんむ)天皇が宮崎県から奈良県に行って即位して、邪馬台国(やまたいこく)論争を想像させて、神武(じんむ)天皇か崇神(すじん)天皇が邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の天皇か、奈良県(近畿地方)か宮崎県(九州)に邪馬台国(やまたいこく)が存在したかなどを想像させて、「記紀」に混乱させる目的があった。
  つまり「記紀」を編纂(へんさん)した8世紀前半の天皇家や古代豪族は、古代天皇家の正史(正しい歴史)をちゃんと把握して、後世の人間が「記紀」を読んで、混乱するようにワザと偽装工作して、超天才の僕が正しく完全解釈して、ひもとくことを願って作って、神武(じんむ)天皇時代が縄文時代やユダヤ人や邪馬台国(大和国;やまとこく)論争などを想像させるためだった。
孝昭(こうしょう)天皇45年5月15日(西暦45年6月中旬頃)に孝昭(こうしょう)天皇(崇神(すじん)天皇の実父)と世襲足姫(よそたりひめ)は、彦坐王(ひこいますのみこ)を生んだ。
孝昭(こうしょう)天皇49年1月1日(西暦49年2月上旬頃)に孝昭(こうしょう)天皇と世襲足姫(よそたりひめ)は、崇神(すじん)天皇を生んだ。
日本神話の始源神(一番初めの神様)の国常立尊(くにのとこたちのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)と天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと;崇神(すじん)天皇を神格化)は、息子が伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)である。
孝昭(こうしょう)天皇68年1月14日(西暦68年2月中旬頃)に崇神(すじん)天皇は、皇太子になった。
西暦81年から83年までに実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)と実弟の崇神(すじん)天皇は、三重県や和歌山県や京都府から奈良県入りしないで、大阪府から奈良県入りしたと考えられる。
  考古学(遺跡・遺物)は、日本の建国が弥生時代後期初頭(西暦100年頃)で、どこから奈良県入りしたか証明できなくて、近畿地方全体と鳥取県と島根県と四国の一部と淡路島を含む土地が西暦100年までに古代天皇家の統治下に入って、文献で饒速日命(にぎはやひのみこと)の河内(かわち)の天孫降臨神話を重視する理由である。
最古の日本神話は、饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;古代の大阪府東部)の天孫降臨神話で、日本の建国(天皇家誕生)である西暦84年の前年83年までさかのぼって、僕が完全解釈して証明した。
神武(じんむ)天皇即位の2年前(紀元前662年;正しくは西暦82年)に神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)は、敵対勢力を討伐して、崇神(すじん)天皇が即位のため、大三輪(おおみわ)の神奈備山(かんなびやま;三輪山(みわやま)を望(のぞ)む奈良県の橿原宮(かしはらのみや;神武(じんむ)天皇の皇居)を崇神(すじん)天皇の皇居に定めたと考えられる。
  神武(じんむ)東征5年(紀元前663年)は、神武(じんむ)天皇の即位日(紀元前660年2月11日;建国記念の日)まで2年間の期間があって、仁徳(にんとく)東征5年(西暦333年)から仁徳(にんとく)天皇の即位日(西暦334年2月上旬頃)と合致しない。
孝昭(こうしょう)天皇83年8月5日(西暦83年9月上旬頃)に孝昭(こうしょう)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、『ホツマツタエ』の彦坐王(ひこいますのみこ)や崇神(すじん)天皇の誕生日と建国年月日(天皇家誕生)が正しくて、孝昭(こうしょう)天皇時代の年代が西暦年と合致すると考えられる。
崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に初代の崇神(すじん)天皇は、おそらく奈良県磯城(しき)郡(桜井市全域と橿原市や天理市や宇陀市の一部)で即位して、2024年が日本の建国(天皇家誕生)1940年目で、60年後が建国から2000年目である。
  崇神(すじん)天皇は、即位した場所を奈良県とだけ記して、崇神(すじん)天皇の皇居が所在地不明の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)で、崇神(すじん)天皇陵の最有力候補が奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、崇神(すじん)天皇を祖先化した神武(じんむ)天皇が奈良県橿原市で即位したため、磯城(しき)郡と考えられる。
  奈良県桜井市は、御神体山の三輪山(みわやま)と景行(けいこう)天皇の皇居の纒向日代宮(まきむくひしろのみや)である纒向(まきむく)遺跡と100%間違いない垂仁(すいにん)天皇陵と景行(けいこう)天皇陵を含む大和(おおやまと)古墳群があって、磯城(しき)郡(桜井市全域と橿原市や天理市や宇陀市の一部)で即位したと考えられる。
  天皇家最古の血筋は、遺伝的にも文献的にも実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)と初代の崇神(すじん)天皇で、それ以上をさかのぼれなくて、その直系子孫が天皇家の血筋だが、現代日本人の遺伝子に2人の遺伝子が含まれるか永久に証明できないだろう。
  歴史学(歴史書解釈)で日本最古の年号は、後漢(ごかん)王朝の建武中元2年(西暦57年)で、福岡市志賀島(しかのしま)から出土した「漢委奴國王(かんいぬこくおう)」の金印が奴国(ぬこく)に送られて、2番目に古いのが日本の建国(天皇家誕生)の崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)である。
  大阪府は、弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増して、古代天皇家が土地を整備したと考えられる。兵庫県淡路市の舟木(ふなき)遺跡と五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡は、弥生時代後期初頭から始まる遺跡で、鉄生産した証拠である。
  日本の建国(天皇家誕生)は、弥生時代後期初頭から始まって、奈良県の考古学的証拠を知らなくて、兵庫県や京都府や鳥取県や島根県で鉄を大量に保持して、奈良県や大阪府の鉄が少ないが、弥生時代後期に鉄が増えて、鉄を溶(と)かして作り直したか、鉄鉱石から鉄を取り出す・・・製鉄したか不明で、弥生時代が稲作で栄えて、鉄と米が古代天皇家の権力の象徴と考えられる。
(『日本書紀』の崇神(すじん)天皇の即位年は、干支(えと)の甲申(きのえさる)の年で、西暦84年で間違いない。)
崇神(すじん)天皇は、皇室の先祖である太陽神の子孫だが、実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した古代太陽神の子孫でなく、崇神(すじん)天皇の息子で、彦坐王(ひこいますのみこ)の孫の垂仁(すいにん)天皇の子孫なら、全ての子孫が彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した古代太陽神の子孫と定義付けて、この事実にもっと前に気付いたが、2024年9月29日の午前11時半頃に記した。
崇神(すじん)天皇3年9月(西暦86年10月頃)に皇居の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)を建てて、新しい都市遺跡を一から建造して、当てはまる考古学的証拠がない。
崇神(すじん)天皇4年後半(西暦87年7月以降)から何らかの疫病が流行(はや)って、皇居に祭る古代太陽神3神の天照神(あまてるかみ)と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)と初代・大物主神(おおものぬしのかみ)を分祀(ぶんし)して、日本最古の神社の大和(おおやまと)神社と日本最古の元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら;所在地不明)と三輪山を創建した理由である。
崇神(すじん)天皇4年10月23日(西暦87年11月下旬頃)に天照神(あまてるかみ)は、笠縫邑(かさぬいのむら)に祭らせて、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)が山辺里(やまのべのさと)に祭らせて、二種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)を新しく作って、二種の神器を皇位継承の神宝(かんだから)にしようと考えた。
  天照神(あまてるかみ)は、男性の古代太陽神で、太陽神の初代宮司の彦坐王(ひこいますのみこ)と卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后の2人も神格化して、後世に女性の太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)と神功(じんぐう)皇后を神格化)と入れ替わった。
崇神(すじん)天皇5年(西暦88年)は、何らかの疫病が流行して、国民の半分が死んで、奈良県から大阪府の辺りの出来事だった。
崇神(すじん)天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)の夜に倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)は、山辺里(やまのべのさと)の大和(おおやまと)神社に遷宮して、八重垣剣(やえがきのつるぎ)を奉納して、翌日17日の夜に天照神(あまてるかみ)を元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら;所在地不明)に遷宮して、八咫鏡(やたのかがみ)を奉納して、二種の神器がレプリカ(複製品)である。
  奈良県天理市の大和(おおやまと)神社は、日本最古の神社で、その翌日に最古の元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら;所在地不明)が奈良県に祭られて、二種の神器の神威が強大すぎて、それぞれバラバラに安置して、これが政教(政治と神道)分離の考え方の始まりである。
  崇神(すじん)天皇6年9月17日(西暦89年10月中旬頃)の夜に最古の元伊勢の笠縫邑(かさぬいのむら)は遷宮して、崇神(すじん)天皇7年10月1日(西暦90年11月上旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)が御神体山の三輪山(みわやま)を祭って、三輪山(みわやま)の周辺に笠縫邑(かさぬいのむら)がある根拠にならなくて、周辺にない可能性の方が高い。
  奉納した八重垣剣(やえがきのつるぎ)と八咫鏡(やたのかがみ)は、作られたレプリカ(複製品)で、現在の三種の神器もオリジナル(原型)とレプリカ(複製品)が2種類で、八重垣剣(やえがきのつるぎ)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)が別の神剣で、昔の草薙剣(くさなぎのつるぎ)が伊勢神宮にあって、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)を神器に加えず、出雲王家の宮殿で保管した。
崇神(すじん)天皇7年10月1日(西暦90年11月上旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)は、初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の正式な斎主(さいしゅ;神事をする人)になって、御神体山の三輪山(みわやま)の山頂に磐座(いわくら;石の祭壇)を祭ったと考えられる。
崇神(すじん)天皇9年4月22日(西暦92年5月下旬頃)は、大鹿島(おおかしま;誰か不明)と初代・大田田根子(おおたたねこ;彦坐王(ひこいますのみこ)を祖先化)が魂返(たまがえ)しの秘法で、何らかの疫病による死者の霊魂を祭り上げて、これでますます世が明るさを取り戻して、崇神(すじん)天皇4年後半(西暦87年7月以降)からの疫病の流行が治(おさ)まった。
崇神(すじん)天皇10年9月9日(西暦93年10月上旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)は総大将で、息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が従軍して、丹波(たには;古代の京都府北中部)王国に向かった。
丹波(たんば)王国は、総大将の彦坐王(ひこいますのみこ)が滅亡させて、崇神(すじん)天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に息子の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)が叔父(おじ)の崇神(すじん)天皇に報告して、人名から国名の丹波(たには;京都府北中部)を名付けて、丹波(たんば)平定から2024年で1930年目に当たる。
  丹波(たんば)国王の玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)と女武将の匹女(ひきめ)は、日本最古の鬼の伝承で、最古の大江山の鬼退治でもあって、人を鬼と例(たと)えた。
  京都府から兵庫県の北部は、弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増して、古代天皇家が土地を整備したと考えられて、京都府で弥生時代後期の鉄が大量出土して、古代天皇家が鉄生産したと考えられる。
2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の丹波(たんば)の天孫降臨神話は、彦坐王(ひこいますのみこ)が丹波(たんば)平定した証拠で、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏が丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)の直系子孫である。
崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)を建国して、実弟の崇神(すじん)天皇が初めて国を泰平に治めた意味で、崇神(すじん)天皇時代を「初国知(はつくにし)らす御間城(みまき)の世」と呼んだ。
  日本一古い家系は、西暦84年に始まる皇室、西暦94年に始まる元伊勢籠神社宮司家の海部(あまべ)氏、西暦95年に始まる出雲王家(物部(もののべ)氏)と直系子孫の出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏と竹内(たけうち)氏の4つで、1900年以上の家系図を特定した僕の大偉業で、その意味や価値が計(はか)り知れない。
  彦坐王(ひこいますのみこ)は、初代出雲国王で、初代・大物主神(おおものぬしのかみ;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)で、子孫の物部(もののべ)氏が歴代の出雲国王で、後の大物主神(おおものぬしのかみ;歴代の出雲国王を神格化)で、大物主神(おおものぬしのかみ)と大国主神(おおくにぬしのかみ)が同一神である。
  饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の祖先神で、武家の物部(もののべ)氏が勢力を伸ばした。
  物部(もののべ)氏の直系子孫は、日本神話の火の神様と雷神と土の神様と水神(海神)に神格化して、熊野の名前の神様や神社などに関係して、物部(もののべ)氏の人物や関係者が色(醜;しこ)や可美(甘美;うまし)の名前に関係して、古代日本史に出雲王国(物部(もののべ)氏)の痕跡(こんせき)が多くある。
  出雲の隆盛は、弥生時代後期初頭からで、荒神谷(こうじんだに)遺跡の銅剣が弥生時代中期後半製造でないかとして、加茂岩倉(かもいわくら)遺跡の銅鐸(どうたく)が弥生時代中期から後期の製造として、銅剣と銅鐸が弥生時代後期初頭の物で、荒神谷(こうじんだに)遺跡と加茂岩倉(かもいわくら)遺跡の銅鐸(どうたく)と同じ型の分布地域が古代天皇家の統治下と合致するのが間違いない。
  出雲で青銅器文化は、弥生時代後期初頭に終わって、弥生時代後期から鉄が大量出土して、鉄生産したと考えられる。弥生時代中期の出雲は、四隅突出型墳丘墓が作られて、弥生時代後期に最大級の中谷(なかだに)3号墳ができて、物部(もののべ)氏が埋葬者と考えられる。
  弥生時代後期の山陰地方は、独自の土器のスタイルが作られて、以後に変化しながらも古墳時代前期まで、同じ流れを組む土器が作られて、弥生時代後期から島根県出土の朝鮮半島の土器が朝鮮半島に最も近い九州北部を除いて、日本中に例がないほど集中して出土する。
  鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡は、1800年前頃に傷ついた人骨が出土して、西暦95年の出雲王国の建国頃か、156年の2代目出雲国王である狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)か、250年代の奈良県と島根県の抗争かの戦死者のはずで、260年の出雲王国の崩壊(出雲の国譲(くにゆず)り神話)が上層部を一掃した短時間の戦争で、鳥取県までの波及が考えられない。
出雲の建国神話は、『出雲国風土記』の国引き神話(出雲の建国神話)で、創造神の八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が出雲の国作りをして、「記紀」に出雲の建国神話がなくて、2024年4月4日にネット検索して求めた。
崇神(すじん)天皇12年9月16日(西暦95年10月中旬頃)に崇神(すじん)天皇は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の建国を報告されて、初めて統治国の戸籍調査と課税を納(おさ)めることを命令した。
崇神(すじん)天皇17年7月1日(西暦100年8月上旬頃)に詔(みことのり;天皇の述べた言葉)は、海辺の民に船がなくて、献上品を運ぶのに苦労して、諸国に命じて船を作らせて、10月(11月頃)に初めて船舶(せんぱく;大型の船)を作って、四国(香川県と徳島県)に向かう船と考えられて、出雲までの伝令がたどり着く月日でなく、2023年12月15日の午前1時頃に求めた。
  前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、築造年代が紀元前3世紀頃(約2200年前)の香川県高松市の高松空港跡地(あとち)遺跡が最古で、垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)の崇神(すじん)天皇陵の最有力候補が奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、前方後円墳の形を古代天皇家が採用したと考えられる。
  徳島県阿南(あなん)市の若杉山辰砂(しんしゃ)採掘遺跡は、弥生時代後期から古墳時代初頭で、西暦180年以前に水銀朱が見つかって、垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)に吉備(きび)国王の温羅(うら)を殺して、その墓(はか)である岡山県倉敷市の楯築(たてつき)遺跡(2世紀後半)の埋葬施設で、水銀朱の塗料を使って、ホケノ山古墳の埋葬施設でも水銀朱の塗料を使ったと考えられる。
崇神(すじん)天皇29年1月1日(西暦112年2月上旬頃)に崇神(すじん)天皇と御井津比売(みいつひめ)は、垂仁(すいにん)天皇を生んだ。
  伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)は生まれて、伊弉冉尊(いざなみのみこと;垂仁(すいにん)天皇の皇后3人を神格化)と国生みと神生みをした。
崇神(すじん)天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)に2番目の元伊勢は、京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の奥宮(おくみや)である真名井(まない)神社に遷宮して、8月18日(9月中旬頃)に瑞籬(みずがき;石の祭壇)を作って、場所が判明した最古の元伊勢で、2022年が遷宮1900年目だった。
  元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏は、2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の直系子孫である。
  宮津の元伊勢は、元伊勢真名井(まない)神社が最古の呼び名と考えられて、養老3年3月22日(西暦719年4月下旬頃)に遷宮して、元伊勢籠(この)神社に改名して、真名井(まない)神社と籠(この)神社が天橋立(あまのはしだて)の西端(にしはし)のすぐ側(そば)である。
元伊勢籠(この)神社宮司家の海部(あまべ)氏は、2代目・火明命(ほあかりのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の直系子孫で、男性の古代太陽神の天照神(あまてるかみ)が元伊勢真名井(まない)神社に祭って、男神(おがみ)の豊受大神(とようけおおかみ)も共に祭って、元伊勢の外宮に祭ってなくて、内宮と外宮の成立が後世である。
崇神(すじん)天皇48年1月10日(西暦131年2月上旬頃)に崇神(すじん)天皇は、皇后の御井津比売(みいつひめ)との息子の豊城彦命(とよきひこのみこと)と垂仁(すいにん)天皇で、皇太子選びして、4月19日(5月中旬頃)に垂仁(すいにん)天皇を皇太子にして、豊城彦命(とよきひこのみこと)を島根県か鳥取県の統治者にした。
崇神(すじん)天皇58年8月(西暦141年9月頃)に崇神(すじん)天皇は、福井県敦賀(つるが)市の気比(けひ)神宮)に参拝して、加羅国(からのくに)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)に会って、敦賀(つるが)市より東の越国(こしのくに;福井県東部から山形県庄内地方の一部まで)を景行(けいこう)天皇60年(250年)以降に平定した。
崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に崇神(すじん)天皇は、102才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、崇神(すじん)天皇が歴代天皇の最高齢である。
垂仁(すいにん)天皇元年1月1日(西暦152年2月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇は、2代目天皇に即位した。
(『日本書紀』の垂仁(すいにん)天皇の即位年は、干支(えと)の壬辰(みずのえたつ)の年で、西暦152年で間違いない。)
垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)は、崇神(すじん)天皇の亡骸(なきがら)を山辺(やまのべ)に葬礼して、5人の従者を殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)して供葬した。
  前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は、築造年代が紀元前3世紀頃(約2200年前)の香川県高松市の高松空港跡地(あとち)遺跡が最古で、前方後円墳の形が天皇家誕生より前の時代で、天皇家と無関係で、高松空港跡地(あとち)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)が瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)につながったと考えられる。
  崇神(すじん)天皇陵の最有力候補は、奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、全長が約26メートルで、2016年に発掘結果を発表して、前方後円墳の形で、埋葬者が見つからず、2世紀中頃から後半頃の築造年代で、前方後円墳をネット検索して求めた。
  正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』は、前方後円墳の形の不明な伝承を伝えて、歴代天皇陵が全て前方後円墳の形と伝えるなら、西暦152年葬礼の崇神(すじん)天皇陵が瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)と確定して、正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』が古墳時代の前方後円墳の呼び名を伝える可能性も考えられる。
  垂仁(すいにん)天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に葬礼した崇神(すじん)天皇陵は、瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)なら、崇神(すじん)天皇12年3月11日(西暦95年4月中旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)が出雲王国(物部(もののべ)氏)の建国を報告して、前方後円墳の形の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)が出雲で出土しても、何の不思議もない。
垂仁(すいにん)天皇2年2月(西暦153年3月頃)は、狭穂姫(さほひめ)を皇后に迎えた。
垂仁(すいにん)天皇2年10月(西暦153年11月頃)に皇居の纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)を建てて、纏向(まきむく)遺跡(景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の近くに必ずあるが、考古学で確認されていない。
垂仁(すいにん)天皇2年12月(西暦154年1月頃)に狭穂姫(さほひめ)は、息子の誉津別命(ほむつわけのみこと)を生んだ。
垂仁(すいにん)天皇4年9月1日(西暦155年10月上旬頃)に2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、実妹で皇后の狭穂姫(さほひめ)に兄と垂仁(すいにん)天皇のどちらを慕(した)うか聞いて、狭穂姫(さほひめ)が兄と答えた。
倭国大乱(わこくたいらん)は、2世紀中頃に起きて、日本全土が寒冷期で戦争状態に入ったとか、邪馬台国(やまとこく)で内乱が起きたなど多くの説があって、邪馬台国(やまとこく)が初めて歴史に登場して、僕だけが西暦156年と特定できる。
垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に皇后の狭穂姫(さほひめ)は、垂仁(すいにん)天皇に実兄の狭穂彦王(さほひこのみこ)の謀反(むほん)を告白した日で、一年以上続いた戦争で、結果的に狭穂彦王(さほひこのみこ)と狭穂姫(さほひめ)の兄妹が焼死して終戦して、邪馬台国(大和国;やまとこく)と出雲王国(物部(もののべ)氏)の最初の内乱(倭国大乱;わこくたいらん)である。
  2代目出雲国王の狭穂彦王(さほひこのみこ)は、二種の神器を強奪して、狭穂彦(さほひこ)天皇になって、味方が多くて長期戦になって、狭穂彦王(さほひこのみこ)と狭穂姫(さほひめ)の兄妹が出雲に向かったか、大和に向かったかどちらでも解釈可能で、最終決戦地を三重県熊野市と島根県松江市のどちらか決め手がない。
  狭穂彦王(さほひこのみこ)は、この頃に娘の高田媛(たかだひめ)を生んで、後に三種の神器の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を献上して、景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)の年上女房(にょうぼう)になる。
垂仁(すいにん)天皇は、来目(くめ;奈良県高市郡)で、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱を知らされて、最終決戦地が三重県熊野市有馬(ありま)の花の窟(いわや)神社が伊弉冉尊(いざなみのみこと)と息子の軻遇突智(かぐつち)の母子の墓地で、島根県松江市東出雲町揖屋(いや)の伊賦夜坂(いふやざか)が黄泉国下(よみのくに)り神話の黄泉比良坂(よもつひらさか)として、2つの候補地にしぼった。
火傷(やけど)した伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)は、息子で火の神様の軻遇突智(かぐつち;狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)を生んで、後に火の神様でない伊弉冉尊(いざなみのみこと;樺井月姫(かばいつきひめ)と日葉酢媛(ひばすひめ)を神格化)の神話が作られた。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)は、死者の世界(黄泉国;よみのくに)に行った伊弉冉尊(いざなみのみこと;狭穂姫(さほひめ)を神格化)と三貴子(みはしらのうずのみこ;アマテラスとツクヨミとスサノオの3姉弟)を生んだ伊弉冉尊(いざなみのみこと;樺井月姫(かばいつきひめ)と日葉酢媛(ひばすひめ)を神格化)に分かれる。

垂仁(すいにん)天皇7年7月1日(西暦158年8月上旬頃)に樺井月姫(かばいつきひめ)は皇后で、妹の迦具夜姫(かぐやひめ)を妾(めかけ)にして、この時までに狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)が終わった。
垂仁(すいにん)天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)に皇后の樺井月姫(かばいつきひめ)を祝(いわ)って、日本最古のスポーツの相撲(すもう)をして、3代目出雲国王の野見宿禰(のみのすくね)が相手を殺して勝利した。
垂仁(すいにん)天皇7年7月1日(西暦158年8月上旬頃)に彦湯産隅命(ひこゆむづみのみこと)の子は、大筒木垂根王(おおつつきたるねのみこ)で、その娘の樺井月姫(かばいつきひめ)を皇后で、妹の迦具夜姫(かぐやひめ)を妾(めかけ)にした。
垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)に垂仁(すいにん)天皇と樺井月姫(かばいつきひめ)は、長子の卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)たち3つ子を生んで、古代中国語が邪馬台卑弥呼(やまとひみこ)で、女王と勘違いした。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と伊弉冉尊(いざなみのみこと;樺井月姫(かばいつきひめ)を神格化)は、娘で父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)を生んで、一生独身だから子孫がいない。
垂仁(すいにん)天皇13年12月1日(西暦165年1月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇と迦具夜姫(かぐやひめ)は、長男の祖別命(みおやわけのみこと)と三男の胆武別命(いたけわけのみこと)たち3つ子を生んで、長男と三男が吉備(きび;岡山県と広島県東部)の平定将軍で、吉備(きび)氏の先祖でもある。
  おとぎ話のかぐや姫は、垂仁(すいにん)天皇が結婚した妾(めかけ)の迦具夜姫(かぐやひめ)から名前を取って、かぐや姫が結婚しないで無関係で、長男の祖別命(みおやわけのみこと)が桃太郎のモデルで、樺井月姫(かばいつきひめ)と迦具夜姫(かぐやひめ)の姉妹が2022年11月25日に3つ子を生んだと求めた。
垂仁(すいにん)天皇15年2月15日(西暦166年3月中旬頃)に日葉酢媛(ひばすひめ)は皇后になった。
垂仁(すいにん)天皇20年の真冬(西暦171年1月頃)に垂仁(すいにん)天皇と日葉酢媛(ひばすひめ)は、景行(けいこう)天皇を生んで、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の男弟(だんてい;異母弟)である。
『新羅本紀(しらぎほんき)』8代目・阿達羅尼師今(アダラ・イサグム)20年5月(西暦173年6月頃)に女王の卑弥乎(ひみこ)が遣使して、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)が斎王(さいおう)になる前だが、仮(かり)の卑弥呼(ひみこ)共立の前年で、倭姫命(やまとひめのみこと)が3つ子の長子で特別視して、政治に参加した可能性も考えられる。
垂仁(すいにん)天皇15年2月15日(西暦166年3月中旬頃)に日葉酢媛(ひばすひめ)は皇后になった。
垂仁(すいにん)天皇20年の真冬(西暦171年1月頃)に垂仁(すいにん)天皇と日葉酢媛(ひばすひめ)は、景行(けいこう)天皇を生んで、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の男弟(だんてい;異母弟)である。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と伊弉冉尊(いざなみのみこと;日葉酢媛(ひばすひめ)を神格化)は、息子の月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)を生んだ。
西暦180年代頃に女王国の幼少の卑弥呼(ひみこ)は、女王に推薦(すいせん)して共立して、鬼道で民衆を惑(まど)わせたと勘違いした。
垂仁(すいにん)天皇23年1月1日(西暦174年2月上旬頃)に卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)は、2代目の伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に奉仕する未婚の皇女)となるため、初代の斎王(さいおう)の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に仕(つか)えて、斎王(さいおう)の見習い任命で、仮(かり)の卑弥呼(ひみこ)共立である。
垂仁(すいにん)天皇25年3月10日(西暦176年4月上旬頃)に初代の斎王(さいおう;太陽神に仕(つか)える未婚の皇女)の豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)は102才で、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)を女王国(伊勢国)で、正式な伊勢神宮の斎王(さいおう)に任命して、正式な卑弥呼(ひみこ)共立である。
垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(177年10月中旬頃)に伊勢神宮の内宮の遷宮で、17日に外宮の遷宮で、内宮の遷宮日が倭姫命(やまとひめのみこと)の14才の誕生日で、誕生日と遷宮日が同日で、3年後の2027年に遷宮1850年目を迎(むか)えて、完全な史実・真実・事実と証明した。
  伊勢神宮の内宮と外宮は、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)の遺産で、西暦177年に初めて伊勢神宮の内宮と外宮が登場した。
垂仁(すいにん)天皇27年2月5日(西暦178年3月上旬頃)に皇女の大中姫(おおなかひめ)は、4代目出雲国王の物部十市根(もののべのといちね)の正妻になって、以降に出雲王家(物部(もののべ)氏)の血筋を皇統に加える代償として、出雲王国の宮殿で保管した神宝の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を石上(いそのかみ)神宮に奉納して、二種の神器が三種になった。
  物部(もののべ)氏の狭穂姫(さほひめ)は戦死して、以降に皇統に物部(もののべ)氏の血筋を加えることを禁止して、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を献上して、再び皇統に血筋を加える許可を出して、物部(もののべ)氏の高田媛(たかだひめ)と弟橘姫(おとたちばなひめ)が景行(けいこう)天皇の妾(めかけ)になった。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)と伊弉冉尊(いざなみのみこと;日葉酢媛(ひばすひめ)を神格化)は、娘の和歌姫(わかひめ;またの名を昼子姫(ひるこひめ):大中姫(おおなかひめ)を神格化)を生んだ。
垂仁(すいにん)天皇28年10月5日(西暦179年11月上旬頃)に倭彦命(やまとひこのみこと)は亡くなって、11月2日(12月上旬頃)に場所不明の桃花鳥坂(つきさか)に葬礼して、垂仁(すいにん)天皇が殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)を禁止した。
垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)に3つ子で長男の祖別命(みおやわけのみこと)と三男の胆武別命(いたけわけのみこと)は、吉備(きび;岡山県と広島県東部)国王の温羅(うら)を殺して、温羅(うら)の墓(はか)と考えられるのが岡山県倉敷市の楯築(たてつき)遺跡(2世紀後半)で、特殊器台土器を立てて、この土器が後の埴輪(はにわ)である。
  楯築(たてつき)墳丘墓遺跡は、特殊器台土器を立てて、この土器が後の埴輪(はにわ)で、埋葬者施設に徳島県阿南(あなん)市の若杉山辰砂(しんしゃ)採掘遺跡(弥生時代後期から古墳時代初頭)で出土した赤色の水銀朱を使ったと考えられて、水銀朱の赤色が国旗の赤い日の丸と太陽神を想像させて、景行天皇40年代から50年代頃(西暦230年から40年代頃)の前方後円墳のホケノ山古墳と同じ水銀朱の埋葬方法である。
  吉備(きび)国王の温羅(うら)退治は、日本国内で2番目に古い鬼の伝承で、桃太郎のモデルが祖別命(みおやわけのみこと)で、人を鬼に例(たと)えて、祖別命(みおやわけのみこと)が武家の吉備(きび)氏の氏祖である。
垂仁(すいにん)天皇30年2月(西暦181年3月頃)に祖別命(みおやわけのみこと)は、初めて古代中国の後漢(ごかん)王朝に派遣して、遣漢使(けんかんし)で、遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語である。
『三国志・魏志倭人伝』は、西暦188年の遣漢使(けんかんし)を記さないで、「記紀」で遣漢使(けんかんし)を田道間守(たじまもり;祖別命(みおやわけのみこと)を祖先化)の常世国(とこよのくに;東北地方南部のどこかの日高見(ひだかみ)に当たる)への派遣に入れ替えて、偽装工作したことで混乱させた。
垂仁(すいにん)天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に皇后の日葉酢媛(ひばすひめ)は亡くなって、陵墓に殉死者(じゅんししゃ)の代わりに埴輪(はにわ)を立てて、最古の埴輪(はにわ)である最古の土師器(はじき)を立てて、歴史学(歴史書解釈)で最古の埴輪(はにわ)と考えられる。
後漢王朝への遣使(遣漢使;けんかんし;遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語)は、邪馬台国(大和国;やまとこく)を完全解釈できる僕なら、西暦年の特定が簡単だが、現代人(僕以外の人間)が絶対に不可能である。
垂仁(すいにん)天皇37年(西暦188年)に祖別命(みおやわけのみこと)は、後漢(ごかん)王朝の中平(ちゅうへい)5年(西暦188年)を『ホツマツタエ』と「記紀」に記して、国宝の東大寺山(古墳出土)鉄刀の「中平?年(ちゅうへい)…」が中平(ちゅうへい)5年(西暦188年)の可能性があって、10年ほど遣漢使(けんかんし)の使者たちが古代中国の文化(製紙業と漢字など)を学んだと考えられる。
垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇は、78才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、48日間の喪(も)祭り後の8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜に墓(はか)に埴輪(はにわ)を立てて、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に亡骸(なきがら)を纏向(まきむく)石塚古墳に葬礼した。
  最古の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳は、最古の埴輪(はにわ)である最古の土師器(はじき)が出土して、埴輪(はにわ)が土師器(はじき)の一種で、特殊器台埴輪(はにわ)が出土しなくて、岡山県倉敷市の楯築(たてつき)遺跡の神石(亀石)に孤帯紋様が刻まれて、纏向石塚古墳の孤文円板の孤帯紋様に直接続いて、吉備(きび;岡山県と広島県東部)と考古学的証拠が合致した。
  纏向(まきむく)石塚古墳の周濠(しゅうごう)のヒノキ材は、最外年輪が西暦177年で、垂仁(すいにん)天皇陵の公算が高くて、埋葬者施設が見つかっていなくて、埋葬者施設に徳島県阿南(あなん)市の若杉山辰砂(しんしゃ)採掘遺跡(弥生時代後期から古墳時代初頭)で出土した赤色の水銀朱を使って、水銀朱の赤色が国旗の赤い日の丸と太陽神を想像させると考えられる。
  垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳は、葬礼日が古墳時代の始まりで、西暦190年年末か191年年始頃で、大晦日(おおみそか)か元旦(がんたん)の可能性もあって、歴史学者が正しい西暦年月日を求める必要がある。
景行(けいこう)天皇元年3月(西暦191年4月頃)に遣漢使(けんかんし)で帰国した祖別命(みおやわけのみこと)は、父の垂仁(すいにん)天皇が亡くなったと知って、禁止した殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)をしたが、祖別命(みおやわけのみこと)が病(やまい)で、帰国して亡くなった可能性もある。
  古代中国の後漢王朝から帰国した使者たちは、古代中国の文化(製紙業と漢字など)を取り込んで、数年間で漢字を紙に書いて、漢字の音読みと訓読みを作って、音読みが中国語発音で、訓読みが日本語発音で、日本で漢字を初めて使ったのが191年である。
  天皇の名前の漢字読みは、「漢風諡号(しごう)」と呼んで、3世紀中頃の仲哀(ちゅうあい)天皇が仲(なか)の哀(かな)しい漢字の意味を理解して名付けて、5世紀の倭(わ)の五王である安康(あんこう)天皇から武烈(ぶれつ)天皇が生前に「漢風諡号(しごう)」を使って、「漢風諡号(しごう)」の頭文字(かしらもじ)が倭王(わおう)の名前に当たって、2024年5月22日の午後10時半頃に特定した。
  古代の紙(かみ)は、紀元前2世紀頃に古代中国で作成して、2世紀初めの西暦105年頃に後漢(ごかん)王朝の役人の蔡倫(さいりん)が製紙法を改良して、使いやすい実用的な紙(かみ)を大量生産して、遣漢使(けんかんし)が製紙法を勉強して、漢字の音読みと訓読みの開発・研究に紙(かみ)を使った可能性を考えられて、2024年6月10日の午前9時半頃に求めた。
景行(けいこう)天皇元年4月末日(西暦191年5月下旬頃)の夜半は、先に亡くなった祖別命(みおやわけのみこと)の妻の花橘(はなたちばな)が娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)を生んで、景行(けいこう)天皇の命令で、祖別命(みおやわけのみこと)によく似た3代目出雲国王を引退した野見宿禰(のみのすくね)に花橘(はなたちばな)が輿入(こしい)れして、野見宿禰(のみのすくね)が弟橘姫(おとたちばなひめ)の義父になった。
椋杵(くらきね;野見宿禰(のみのすくね)を神格化)と指美女(さしみめ;花橘(はなたちばな)を神格化)は、椋子姫(くらこひめ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)を生んだ。
卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい)は、実質的に邪馬台国(やまとこく)を統治して、女王国の卑弥呼(ひみこ)を邪馬台国(やまとこく)の女王と勘違いして、男弟(だんてい)が卑弥呼(ひみこ)を補佐したと誤訳した。
3世紀頃の邪馬台国(やまとこく)は、男弟(だんてい)の崇神(すじん)天皇が統治して、卑弥呼(ひみこ)が姑(おば)の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)で、邪馬台国(やまとこく)と女王国が同一国と勘違いして、日本武尊(やまとたけのみこと)が4世紀前半で、神功(じんぐう)皇后が4世紀後半で、5世紀の倭(わ)の五王が応神(おうじん)天皇から雄略(ゆうりゃく)天皇の7人の中にいると勘違いした。

景行(けいこう)天皇元年7月11日(西暦191年8月中旬頃)に邪馬台国(大和国;やまとこく)で男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇は、3代目天皇に即位して、女王国(伊勢国)の卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)が太陽神の神託で助言した。
景行(けいこう)天皇は、父の垂仁(すいにん)天皇の死後11か月後に即位して、伯父(おじ;父の兄)の祖別命(みおやわけのみこと)の死去、祖別命(みおやわけのみこと)の娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)と3代目出雲国王を引退した野見宿禰(のみのすくね)の養子縁組、古代中国の後漢王朝から帰国した使者から、古代中国の文化(製紙業と漢字など)などの報告など、ごたごたして即位まで、時間がかかったと考えられる。
(『日本書紀』の景行(けいこう)天皇の即位年は、干支(えと)の辛未(かのとひつじ)の年で、西暦191年で間違いない。)
景行(けいこう)天皇2年2月15日(西暦192年3月中旬頃)に景行(けいこう)天皇は、美濃(みの;岐阜県南部)に行って、八坂高依媛(やさかたかよりひめ)をみそめて、5月(6月頃)に皇后にして、12月15日(西暦193年1月中旬頃)に息子の日本武尊(やまとたけのみこと)が生まれた。
月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と瀬織津姫穂之子(せおりつひめほのこ;八坂高依姫(やさかたかよりひめ)を神格化)は、息子の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)を生んで、『ホツマツタエ』のスサノヲが日本武尊(やまとたけのみこと)の生まれ変わりと記す。
景行(けいこう)天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の纏向(まきむく)遺跡に景行(けいこう)天皇が入って、都(みやこ)として機能して、邪馬台国(大和国;やまとこく)の王都である。
  纏向(まきむく)遺跡は、2世紀末頃から4世紀前半頃の都市遺跡で、後世の皇居の藤原京や平城京に匹敵して、吉野ヶ里(よしのがり)遺跡より7〜8倍近く大きく、東西南北2キロメートルの範囲を持つ遺跡で、吉野ヶ里(よしのがり)遺跡のように大勢の人間が暮らす村落でなく、政治的や宗教的な役割を重視した。
  纏向(まきむく)遺跡は、特殊器台埴輪(はにわ)が出土して、3世紀中頃から後半の建物跡が出土して、伊勢神宮正殿の神明造(しんめいづく)りと出雲大社正殿の大社造(たいしゃづく)りの中間形式で、建物の柱の間隔が魏王朝の尺寸と一致して、出雲王国(物部(もののべ)氏)や古代中国の魏王朝と外交した証拠である。
  唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡の土器は、纏向(まきむく)1式が突然激減して、纏向(まきむく)遺跡の纏向(まきむく)1式が突然に始まって、纏向(まきむく)編年の土器区分が纏向(まきむく)遺跡の出現時期と重なる。
  纏向(まきむく)遺跡は、関東と九州などの土器が出土して、東北地方南部の土器も出土するはずで、東北地方の宮城県と福島県と山形県まで統治した。纏向(まきむく)遺跡は、3世紀末から4世紀前半の鍛冶(かじ)遺跡が5ヶ所で見つかって、鍛冶(かじ)炉が見つからないが、鉄器文化の普及を証明した。
  纏向(まきむく)遺跡は、1800年前の犬の骨が出土して、背中までの体高が48cmの中型犬で、骨が解体されず、儀式で供(そな)えられた可能性が高い。
  纏向(まきむく)遺跡のチャバネゴキブリは、3世紀後半の土壌から背中の破片が見つかって、世界最古のチャバネゴキブリと見られて、アフリカ北東部が原産地でなく、アジア起源説を有利にする発見である。
景行(けいこう)天皇5年6月(西暦195年7月頃)に景行(けいこう)天皇と物部(もののべ)氏の高田媛(たかだひめ)は、息子の武虎別皇子(たけこわけのみこ)を生んだ。
月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と速開津姫秋子(はやあきつひめあきこ;高田媛(たかだひめ)を神格化)は、兄の天津彦根命(あまつひこねのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)で、豊姫紋子(とよひめあやこ;高田媛(たかだひめ)を神格化)との間に弟の熊野久須日命(くまのくすびのみこと;少彦男心命(すくなひこおこころのみこと)を神格化)を生んだ。
速開津姫(はやあきつひめ)と豊姫(とよひめ)を合体した神名の豊秋津姫(とよあきつひめ;高田媛(たかだひめ)を神格化)は、孫の栲幡千千姫(たくはたちちひめ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が別名を万幡豊秋津姫(よろずはたとよあきつひめ;神功(じんぐう)皇后を神格化)で共通して、『三国志・魏志倭人伝』の台与卑弥呼(とよひみこ)が豊姫命(とよひめのみこと)の神功(じんぐう)皇后と『ホツマツタエ』で、知っていた証拠である。

景行(けいこう)天皇12年7月(西暦202年8月)に古代天皇家は、南九州の熊襲(くまそ)王国(熊本県球磨(くま)郡と鹿児島曽於(そお)郡と宮崎県の連合国)から貢物(みつぎもの)が献上されなかった。
吉備(きび;岡山県と広島県東部)王国の平定は、垂仁(すいにん)天皇29年(西暦180年)で、広島県西部と山口県の平定が181年から202年までの間で、202年までに中国地方と四国が完全に古代天皇家の統治下に入って、九州の平定を計画したと考えられる。
景行(けいこう)天皇12年8月15日(西暦202年9月中旬頃)に景行(けいこう)天皇は、自(みずか)ら九州全土を平定するために皇居を出発した。
景行(けいこう)天皇12年9月5日(西暦202年10月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、山口県の婆麼(さば;防府市佐波か?)に行って、多臣武諸(おおのおみのたけもろ)と紀伊国(きいのくに;和歌山県)の菟名手(うなで)と5代目出雲国王の物部夏花(もののべのなつはな)の3人を派遣して、九州の様子をうかがわせた。
景行(けいこう)天皇16年1月3日(西暦206年2月上旬頃)に景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)は、長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)を生んで、後に次男の稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が生まれて、稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が大分県直入(なおいり)郡で生まれたと考えられる。
  神櫛皇子(かんぐしのみこ)は、6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)と同一人物で、弟の稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が平安時代の藤原氏の先祖である。
月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と小益姫早子(こますひめはやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)は、6代目・大物主神(おおものぬしのかみ;神櫛皇子(かんぐしのみこ)を神格化)と津速産霊尊(つはやむすびのみこと;別名を兵主神(つわものぬしのかみ):稲背彦皇子(いなせひこのみこ)を神格化)を生んだ。
月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と小益姫早子(こますひめはやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)は、3つ子の娘の宗像(むなかた)三神を生んで、長女が瀛津嶋姫竹子(おきつしまひめたけこ)で、次女が江ノ嶋姫瑞子(えのしまひめたきこ)で、三女が市杵嶋姫田奈子(いちきしまひめたなこ)を生んで、3人とも誰を神格化したかも誕生日も不明で、3人とも結婚して子孫もいて、厳島(いつくしま)に祭って、実在が証明された。
月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の娘の宗像(むなかた)三神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)の娘3人でもあって、景行(けいこう)天皇の息子の日本武尊(やまとたけのみこと)が不倫したことを証明して、宗像(むなかた)三神が景行(けいこう)天皇19年頃(西暦209年頃)生まれの忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)より先に生まれた。

景行(けいこう)天皇17年5月12日(西暦207年6月中旬頃)に景行(けいこう)天皇とその軍は、子湯県(こゆがた;宮崎県児湯郡)の丹裳野(にもの;西都市三宅)に行った。
景行(けいこう)天皇17年12月5日(西暦208年1月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、熊襲(くまそ)王国(熊本県球磨(くま)郡と鹿児島曽於(そお)郡と宮崎県の連合国)の討伐の会議を開いて、2人の王女に何度も引出物(ひきでもの)を渡して、隙(すき)を狙(ねら)うことにした。
景行(けいこう)天皇18年3月(西暦208年4月頃)に景行(けいこう)天皇一行は、夷守(ひなもり;宮崎県小林市付近か?)の岩瀬川(いわせかわ;小林市を流れる岩瀬川か?)に至った。
邪馬台国(やまとこく)は、『後漢書』に記す拘奴国(くぬこく)と初めて戦争をして、南九州の熊襲(くまそ)と考えることが多くて、邪馬台国(やまとこく)が拘奴国(くぬこく)と海を挟(はさ)むと記して、これ以降に後漢王朝との外交がない。
景行(けいこう)天皇18年4月3日(西暦208年5月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、熊の県(あがた;熊本県球磨(くま)郡)に至って、熊襲(くまそ)王国の国王の兄弟を呼び寄せて、球磨(くま)郡を統治する兄の厚鹿文(あつかや)を長女の乾鹿文(ふかや)が殺して、乾鹿文(ふかや)を父殺しの罪(つみ)で殺した。
  厚鹿文(あつかや)の弟の鹿文(せかや)は、景行(けいこう)天皇が呼び出しても来ないため、襲国(そのくに;鹿児島曽於(そお)郡)を攻撃して、国王の兄弟が殺されて、次女の辺鹿文(へかや)を熊襲国造(くまそくにみやつこ;熊襲(くまそ)王国の国主)として、叔父(おじ)の子供の取石鹿文(とりいしかや)と結婚させて、代官を置いて監視した。
は「しんにょう」に乍の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
  『ホツマツタエ』から厚鹿文(あつかや)の娘は、乾鹿文(ふかや)と辺鹿文(へかや)の2姉妹で、弟の鹿文(せかや)の下にもう一人の名前の分からない弟がいて、その子(辺鹿文(へかや)から見て従弟)が取石鹿文(とりいしかや)で、『ホツマ辞典』(著者・池田満 発行・ホツマ刊行会)を参考にした。
景行(けいこう)天皇18年4月20日(西暦208年5月中旬頃)に景行(けいこう)天皇は、葦北(あしきた;熊本県葦北郡)の小島に至った時、日照りが続き暑いので、水を所望されて、清水(きよみず)の湧(わ)いた小島を水島(熊本県八代市球磨川河口の水島か?)と名付けた。
皇居の高屋宮(たかやのみや)にいること6年の景行(けいこう)天皇18年5月(西暦208年6月頃)は、別働隊で襲国(そのくに;鹿児島曽於(そお)郡)を攻撃して、弟の鹿文(せかや)を殺して平定した。
  熊襲(くまそ)王国は、これまで僕が熊本県球磨(くま)郡と鹿児島曽於(そお)郡が別国と考えたが、僕が球磨(くま)郡と曽於(そお)郡と宮崎県の連合国と考えて、『筑前国風土記(ちくぜんのくにふどき)』の球磨囎唹(くまそお)を参考にした。
景行(けいこう)天皇18年5月1日(西暦208年6月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、船に乗られて八代(やつしろ;熊本県八代郡)へ行って、日暮れに岸に着いて、そこに不思議な光があって、それが人の焚(た)いた火でなく、景行(けいこう)天皇が火(ひ)の国と名付けて、肥国(ひのくに;熊本県と長崎県と佐賀県)に当たる。
景行(けいこう)天皇18年6月3日(西暦208年7月上旬頃)に景行(けいこう)天皇の軍は、高来県(たかくのあがた;長崎県北高来郡と南高来郡)の船渡しの玉杵名邑(たまきなむら;熊本県玉名郡内か?)の土蜘蛛(つちぐも;天皇に抵抗する一族の蔑称)の津頬(つづら)と言う賊を殺した。
景行(けいこう)天皇18年6月16日(西暦208年7月中旬頃)に景行(けいこう)天皇は、阿蘇国(あそのくに;熊本県阿蘇郡)に至って、国津神(くにつがみ)の阿蘇津彦(あそつひこ)と阿蘇津媛(あそつひめ)と言う2神が現れて、景行(けいこう)天皇に社(やしろ)を再建してもらった。
景行(けいこう)天皇18年7月4日(西暦208年8月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、福岡県の高田(みやま市高田町)の仮宮(かりみや;仮(かり)の皇居)に滞在して、970丈もの御神木が倒れて、この国の名を御木(みけ;福岡県三池郡)と名付けた。
景行(けいこう)天皇19年頃(西暦209年頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)と海部(あまべ)氏の両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)は、息子の仲哀(ちゅうあい)天皇を生んだ。
  素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、息子の忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)を生んだ。
景行(けいこう)天皇19年9月8日(西暦209年10月上旬頃)に景行(けいこう)天皇は、九州から帰還して、皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の纏向(まきむく)遺跡に戻った。
  福岡市の那珂八幡(なかはちまん)古墳は、3世紀中頃の築造の前方後円墳で、九州全土の平定(3世紀初頭の202年から209年)後に作られた考古学的証拠である。
  邪馬台国(大和国;やまとこく)の王都と勘違いした佐賀県神埼(かんざき)郡の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は、2023年4月に出土した石棺墓(せっかんぼ)が有力者の墓(はか)で、北九州の統治者の国造(くにみやつこ;国主)か県主(あがたぬし)の可能性があって、傷ついた人骨が九州平定の戦死者の可能性が考えられる。
  景行(けいこう)天皇12年から19年(202年から209年)は、九州全土が古代天皇家の統治下に入って、熊襲(くまそ)王国(熊本県球磨(くま)郡と鹿児島曽於(そお)郡と宮崎県の連合国)が代官を置いて監視して、九州全土に古代天皇家の考古学的証拠が存在する。
景行(けいこう)天皇20年代(西暦210年代)以降に日本武尊(やまとたけのみこと)は、義父の野見宿禰(のみのすくね)が亡くなって落ち込んだ弟橘姫(おとたちばなひめ)と不倫して、景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)の息子の神櫛皇子(かんぐしのみこ)が母の不倫を父の景行(けいこう)天皇に密告した。
  不倫した日本武尊(やまとたけのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)の夫婦は、弟橘姫(おとたちばなひめ)の故郷の出雲にいる時、景行(けいこう)天皇と弟橘姫(おとたちばなひめ)の長男の神櫛皇子(かんぐしのみこ)を監視役として、6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと;神櫛皇子(かんぐしのみこ)と同一人物)に任命した。
  日本武尊(やまとたけのみこと)は、出雲王家(物部(もののべ)氏)の養子の弟橘姫(おとたちばなひめ)を皇太子妃(正妻)にしたが、父の景行(けいこう)天皇が皇太子妃(正妻)を認めなくて、彼女の故郷の 出雲に20年から30年ほど滞在して、7人の息子をもうけて、景行(けいこう)天皇57年(西暦247年)までに日本武尊(やまとたけのみこと)が奈良県に帰還した。
『ホツマツタエ』の素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、女神の小益姫早子(こますひめはやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)と不倫した。
景行(けいこう)天皇40年頃(西暦230年頃)に物部(もののべ)氏の武虎別皇子(たけこわけのみこ)と葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)は、娘の神功(じんぐう)皇后を生んで、卑弥呼(ひみこ)の宗女(同族;皇族)の台与(とよ)で、本名(ほんみょう)の豊姫命(とよひめのみこと)が台与卑弥呼(とよひみこ)で隠した。
7代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)の娘は、皇祖神(こうそしん;天皇家の祖先神)の母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)で、女系男子天皇の理由で、子孫で新しい血筋の継体(けいたい)天皇の即位を認めさせて、現在の皇室まで女系男子天皇が続くと伝えて、非常に大切な意味を持って、女系男子天皇と2021年11月9日に求めた。
景行天皇40年代から50年代頃(西暦230年から40年代頃)の前方後円墳のホケノ山古墳は、埋葬施設の水銀朱が徳島県阿南(あなん)市の若杉山辰砂(しんしゃ)採掘遺跡(弥生時代後期から古墳時代初頭)で出土した水銀朱と考えられて、赤色の水銀朱が国旗の赤い日の丸と太陽神を想像させて、築造年代が西暦252年か253年に葬礼の景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳よりも前で、皇族が古墳埋葬者と考えられる。
景行天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)に物部(もののべ)氏の屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)と倭影媛(やまとかげひめ)は、紀伊(きい;和歌山県)の阿備柏原(あびかしわばら;和歌山市相坂・松原の付近か?)ですごして、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を生んだ。
  『日本書紀』の武内宿禰(たけのうちのすくね)は、300年近く人名を記して、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が子孫の竹内(たけうち)氏に歴代の武内宿禰(たけのうちのすくね)の人名を襲名し続けて、複数人を300才近い一人の武内宿禰(たけのうちのすくね)にまとめ上げた。
月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)と小益姫早子(こますひめはやこ;弟橘姫(おとたちばなひめ)を神格化)は、景行(けいこう)天皇30年頃(西暦220年頃)生まれの孫の甕速日命(みかはやひのみこと;屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)を神格化)を生んで、景行天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)生まれの曾孫の樋之速日命(ひのはやひのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)を生んだ。
邪馬台国(やまとこく)は、魏(ぎ)王朝の景初(けいしょ)3年6月(西暦239年7月頃)に初めて遣使して、正始元年(西暦240年)に「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印を持って帰還して、卑弥呼(ひみこ)が受け取ったと誤解して、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)も卑弥呼(ひみこ)の銅鏡と勘違いした。
景行(けいこう)天皇49年(西暦239年)に男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇は、初めて魏(ぎ)王朝に遣使して、12月(西暦240年1月頃)に宝物を下賜されて、遣魏使(けんぎし)で、遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語である。
(『日本書紀』の神功(じんぐう)皇后39年は、干支(えと)の己未(つちのとひつじ)の年で、景行(けいこう)天皇49年(西暦239年)で間違いない。)
景行(けいこう)天皇50年(西暦240年)に遣魏使(けんぎし)は、古代中国の魏(ぎ)王朝から帰国して、「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印を景行(けいこう)天皇が受け取って、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)が受け取らず、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)を八咫鏡(やたのかがみ)の代用とした。
  「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印は、景行(けいこう)天皇陵(箸墓(はしはか)古墳)から出土しなくて、魏(ぎ)王朝が滅亡した西暦265年以降の古墳から出土すると考えられる。
  『三国志・魏志倭人伝』を重視するが、『後漢書』も完全解釈した僕の訳本を使えば、非常に役立って、僕の尽力が認められた。
魏(ぎ)王朝の正始(せいし)4年(西暦243年)に倭王(わおう;古代の日本王)は、また使者の大夫の伊聲耆(いせいき)や掖邪狗(えきやく)ら八人を派遣して、…掖邪狗(えきやく)たちが率善中郎将の印綬(いんじゅ)を拝礼した。
景行(けいこう)天皇53年(西暦243年)に景行(けいこう)天皇は、遣魏使(けんぎし)を派遣した。
魏(ぎ)王朝の正始(せいし)6年(西暦245年)に倭王(わおう;古代の日本王)は、また使者の太夫の伊声者邪狗ら8人を遣わして、献上品を届けた。
景行(けいこう)天皇55年(西暦245年)に景行(けいこう)天皇は、使者の難升米(なんしゅうまい;誰か不明)を派遣した。
魏(ぎ)王朝の正始(せいし)8年(西暦247年)に邪馬台国(やまとこく)は、狗奴国(くぬこく)と戦争して、『後漢書』の拘奴国(くぬこく)と同一国で、南九州の熊襲(くまそ)と考えることが多くて、魏(ぎ)王朝の最後の年号である。
景行(けいこう)天皇57年10月13日(西暦247年11月中旬頃)に南九州の熊襲(くまそ)王国は、反逆して男王(だんおう)の日本武尊(やまとたけのみこと)が討伐に向かった。
景行(けいこう)天皇57年12月頃(248年1月頃)に男王(だんおう)の日本武尊(やまとたけのみこと)は、狗奴国(くぬこく)の熊襲(くまそ)王国を滅亡させて、父の景行(けいこう)天皇が熊襲(くまそ)国王を娘に殺させて屈服して、息子の日本武尊(やまとたけのみこと)が女装して、熊襲(くまそ)国王の取石鹿文(とりいしかや)を騙(だま)し討ちしたのを重ねて、一方的に武力で制圧したと考えられる。
景行(けいこう)天皇58年2月1日(西暦248年3月上旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)一行は、皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の纏向(まきむく)遺跡に帰って、日本武尊(やまとたけのみこと)が景行(けいこう)天皇に報告して、西国の平定の功績を深く誉(ほ)められて、日本武尊(やまとたけのみこと)に褒美(ほうび)を与えた。
  景行(けいこう)天皇は、息子に日本武尊(やまとたけのみこと)の武名を与えて、熊襲(くまそ)国王の取石鹿文(とりいしかや)から武名をもらったと偽装工作して、皇太子の不倫の汚名返上もして、皇太子に返り咲いて、不倫した弟橘姫(おとたちばなひめ)を皇太子妃(正妻)と認めたと考えられる。
景行(けいこう)天皇58年2月11日(西暦248年3月中旬頃)に景行(けいこう)天皇は、近江国(おうみのくに;滋賀県)に行って、皇居の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)を建てて、合致する考古学的証拠が見つからない。
『ホツマツタエ』に天照神(あまてるかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)と入れ替わる月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の皇居は、2つあることから景行(けいこう)天皇の皇居が2つあるのがおかしくない。
景行(けいこう)天皇58年3月1日(西暦248年4月上旬頃)か景行(けいこう)天皇59年3月1日(西暦249年4月上旬頃)は、皇太子の日本武尊(やまとたけのみこと)が息子の仲哀(ちゅうあい)天皇を皇位継承者に任命して、異母兄弟の葦髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)も皇位継承者にしたと考えられる。
景行(けいこう)天皇60年6月2日(西暦250年7月頃)は、蝦夷(えみし;古代天皇家に抵抗する者を蔑(さげす)む呼び名)が反乱したが、古代天皇家が平定するための方便(ほうべん)の可能性があって、福井県東部と岐阜県北部と長野県と静岡県中部を含めた東日本が討伐対象だった。
景行(けいこう)天皇60年7月1日(西暦250年8月上旬頃)は、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を東海の平定に派遣する武将の一人に決めた。
景行(けいこう)天皇60年10月2日(西暦250年11月上旬頃)に男王(だんおう)の日本武尊(やまとたけのみこと)は、東海平定の総大将で、武渟川別(たけぬなかわわけ)と初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)と大伴武日(おおとものたけひ)と吉備武彦(きびたけひこ)と稲瀬彦皇子(いなせひこのみこ)が従軍して、日本武尊(やまとたけのみこと)の異母弟の武虎別皇子(たけこわけのみこ)が北陸平定の総大将で、彦狭島命(ひこさしまのみこと)が従軍して、それぞれが出陣した。
景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に男弟(だんてい)の景行(けいこう)天皇は、滋賀県の皇居の志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)で、79才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、皇太子で男王(だんおう)の日本武尊(やまとたけのみこと)が東海平定で不在だった。
月読尊(つくよみのみこと;景行(けいこう)天皇を神格化)の神名は、景行(けいこう)天皇の在位期間60年間を干支(えと)の年月(一周60年間)で読む意味である。
年代不明で卑弥呼(ひみこ)は死んで、男王(だんおう)が即位して、国中が服従しなくて、戦争で千人余りが戦死した。
天皇不在の年1月28日(西暦251年2月下旬頃)に東国平定の武将たちは、駿河(するが;静岡県中部)に入って平定して、静岡県と神奈川県の県境(けんざかい)の富士山が見えても、統治下に入ってないと考えられる。
天皇不在の年6月頃(西暦251年7月頃)は、相模(さがみ;神奈川県)の小野(おの;神奈川県秦野市の辺りか?)に城をかまえて、穂積(ほづみ)テシ(物部(もののべ)氏の人物で、日本武尊(やまとたけのみこと)の家臣のテチカか?)と桜根(さくらね)マシ(日本武尊(やまとたけのみこと)の家臣のマチカか?)と共に守りを固めた。
天皇不在の年8月1日(西暦251年9月上旬頃)は、東山道の武蔵国(むさしのくに;東京都と埼玉県)に入ったと考えられる。
天皇不在の年8月4日(9月上旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)は、三種の神器を強奪して、日本武(やまとたけ)天皇(本当の男王(だんおう)に即位して、歴代天皇に数えない)に強行即位して、日本武(やまとたけ)天皇と仲哀(ちゅうあい)天皇と息子の蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)の親子3人が皇位継承者で、日本武尊(やまとたけのみこと)と蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)の親子が仲哀(ちゅうあい)天皇と対立した。
(『日本書紀』の成務(せいむ)天皇の即位年は、干支(えと)の辛未(かのとひつじ)の年で、60年を引き算して、西暦251年だけで、皇族に認められない偽(いつわ)りの日本武(やまとたけ)天皇と同一人物である。)
素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)は、強行即位して太陽神殺しの大罪で、直系系図から外(はず)して、『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』が「倭武天皇命(やまとたけのすめらみこと)」で、『阿波国風土記(あわのくにふどき)』が「倭健(やまとたけ)天皇」で、『住吉大社神代記』が「父天皇」と記して、特別扱いの皇子でなく、皇太子と天皇である。
天皇不在の年9月15日(10月上旬頃)に武虎別皇子(たけこわけのみこ)が奈良坂に到着して、時期不明で日本武(やまとたけ)天皇の正妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)が大坂(奈良県香芝市逢坂(おうさか)付近)から出陣して、弟橘姫(おとたちばなひめ)が場所不明で戦死した。
天皇不在の年10月7日(11月上旬頃)に男王(だんおう)の日本武(やまとたけ)天皇は、88才の伯母(おば)で卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)を伊勢市の磯(いそ)神社で殺して、半月後の10月22日(11月下旬頃)に倭姫命(やまとひめのみこと)を伊勢市に葬礼した。
  倭姫命(やまとひめのみこと)の墓(はか)は、宇治山田陵墓(うじやまだりょうぼ)と呼んで、宮内庁指定の古墳が間違いで、宇治が三重県伊勢市宇治館町の伊勢神宮内宮を指して、殺害場所の伊勢市の磯(いそ)神社と陵墓名から考えて、三重県伊勢市の古墳に葬礼した可能性が高くて、古墳の形が分からなくて、3世紀中頃の築造年代が判明した。
素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、姉で太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)を殺して、同じく古代太陽神の八岐大蛇(やまたのおろち;伊勢神宮を神格化)も殺した。
天皇不在の年10月(西暦251年11月頃)に相模(さがみ;神奈川県)を平定した武将たちは、大礒(おおいそ;神奈川県中郡大礒町)から海路を上総(かずさ;千葉県中部)に船団で渡って上陸した。 天皇不在の年11月1日(12月上旬頃)に蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)は、諸国に伝令して、2日に父で男王(だんおう)のの日本武(やまとたけ)天皇と合流して、11月4日に蘆髪蒲見王(あしかみかまみのみこ)が山城(京都府南部)で戦死して、日本武(やまとたけ)天皇が出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命して、日本武(やまとたけ)天皇の反乱が終了した。
仲哀(ちゅうあい)天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、4代目天皇に即位して、邪馬台国(大和国;やまとこく)側の仲哀(ちゅうあい)天皇と出雲王国の日本武(やまとたけ)天皇の親子が対立して、それぞれ三種の神器を所持して、2朝廷並列時代に突入して、台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后が正妻になった。
(『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇の即位年は、干支(えと)の壬申(みずのえさる)の年で、西暦252年で間違いない。)
忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)は、栲幡千千姫命(たくはたちちひめのみこと;神功(じんぐう)皇后を神格化)と結婚して、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)と同一神である。
天岩戸隠(あまのいわとかく)れ神話は、素戔嗚尊(すさのおのみこと;日本武(やまとたけ)天皇を神格化)が父方の天照大神(あまてらすおおみかみ;倭姫命(やまとひめのみこと)を神格化)を殺して、天岩戸(あまのいわと)を開いて、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が出て来た太陽神が交代した神話である。

仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月8日(西暦253年3月上旬頃)に男王(だんおう)の日本武(やまとたけ)天皇は、出雲王国(物部(もののべ)氏)に亡命して、家臣のマチカとテチカに妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)の櫛(くし)と帯(おび)を渡して、弟橘媛(おとたちばなひめ)の死をなげいて吾妻(あづま;我が妻の意味)の歌を3度詠(よ)んだが、東日本の東(あずま)でなく、島根県から見た東(あずま)の奈良県で、弟橘媛(おとたちばなひめ)が戦死した。
仲哀(ちゅうあい)天皇元年2月13日(西暦252年3月中旬頃)に東国平定の武将たちは、勿来(なこそ)の浜(福島県いわき市勿来(なこそ)に入ったと考えられる。
関東地方の平定の2軍神は、経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)で、2軍神を東北地方南部に道案内したのが塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)である。
年代不明で、卑弥呼(ひみこ)の墓(はか)は、魏(ぎ)王朝の直径百歩余り(直径約144メートル前後)で、殉死(じゅんし;主人の後を追って従者が死ぬこと)者が百人余りと勘違いした。
仲哀(ちゅうあい)天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)か仲哀(ちゅうあい)天皇2年11月10日(西暦253年12月上旬頃)は、景行(けいこう)天皇を箸墓(はしはか)古墳に葬礼して、宮内庁指定陵の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと;倭姫命(やまとひめのみこと)を祖先化)の墓(はか)でなく、卑弥呼(ひみこ)の男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇陵である。
  箸墓(はしはか)古墳は、埋葬者が見つからず、大坂山(二上山;にじょうさん)の石を使用したと証明されず、古墳全体を発掘調査してなくて、証明できなくて当然である。
  箸墓(はしはか)古墳は、最古の特殊器台埴輪(はにわ)が出土して、殉死(じゅんし)者の代替物の埴輪(はにわ)を証明して、考古学(遺跡・遺物)上で最古の埴輪(はにわ)と考えられる。
  箸墓(はしはか)古墳は、魏(ぎ)王朝時代の直径百歩余り(約144メートル)が箸墓(はしはか)古墳の後円部150メートルで、全長280メートルを魏(ぎ)王朝に伝えず、魏(ぎ)王朝の薄葬思想(墓(はか)を小さく作ること)を知って、古代天皇家が伝えなかったと考えられる。
  初代の崇神(すじん)天皇陵の最有力候補は、瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)の全長が約26メートルで、2代目の垂仁(すいにん)天皇陵の纏向(まきむく)石塚古墳が全長96メートルで、3代目の景行(けいこう)天皇陵の箸墓(はしはか)古墳が全長280メートルで、3つ共に前方後円墳の形で、どんどん巨大化して、古代天皇家の勢力の拡大を証明した。
仲哀(ちゅうあい)天皇2年2月6日(西暦253年3月上旬頃)に福井県敦賀(つるが)市に到着して、行宮(かりみや;仮(かり)の皇居)の敦賀笥飯宮(つるがけひのみや)を建てて、その月に淡路島の屯倉(みやけ;天皇家の直轄地(ちょっかつち)を定めた。
仲哀(ちゅうあい)天皇2年3月15日(西暦253年4月中旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、京都府宮津市に行かれて、その時に神功(じんぐう)皇后が福井県敦賀(つるが)市で、百寮(色々な役人)をとどめ置いて、駕(が;乗り物をあやつる人)に従ったのが2人から3人の卿(きょう;臣下)と官人数百人である。
仲哀(ちゅうあい)天皇2年6月10日(西暦253年7月上旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、京都府宮津市の由良津(ゆらのつ)に泊(と)まって、神功(じんぐう)皇后が福井県敦賀(つるが)市から出発して、渟田門(ぬたみなと;美浜町(みはまちょう)丹生湾(にゅうわん)から常神(つねがみ)半島に至る海上)に到達して、船上で食事をした。
仲哀(ちゅうあい)天皇2年7月5日(西暦253年8月上旬頃)に神功(じんぐう)皇后は、京都府宮津市の由良津(ゆらのつ)に泊(と)まって、仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后の長男の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)が生まれたと考えられる。
忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)と天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、初代・火明命(ほあかりのみこと;誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を神格化)を生んだ。
仲哀(ちゅうあい)天皇2年9月(西暦253年10月頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、京都府宮津市に皇居の丹波由良宮(たにはゆらのみや;宮津由良宮(みやづゆらのみや)を建造して、居住し始めて、僕が命名したため、皇居に決まった名前がない。
仲哀(ちゅうあい)天皇2年の年月不明(西暦253年の年月不明)は、山梨県と群馬県を平定したと考えられる。
摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、実兄の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)でなく、実弟で2才弱の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を立太子(りったいし;皇太子になること)して、新しい三種の神器と共に日向(ひうが;宮崎県)に行かせた。
三種の神器の神剣は、2種類の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と1種類の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を入れ替えて、宮崎県に誉田別尊(ほむだわけのみこと)を行かせて、八重垣剣(やえがきのつるぎ)の別名が天逆矛(あめのさかほこ)や天沼矛(あめのぬぼこ)など多くある。
おとぎ話の浦島太郎は、母と乙姫(おとひめ)に一生会えなくて、大阪府から宮崎県に旅立って、誉田別尊(ほむだわけのみこと)が母の神功(じんぐう)皇后と一生会えなくて、仲姫(なかひめ)が乙姫(おとひめ)で、夫の誉田別尊(ほむだわけのみこと)が眠る宮崎県に残って、奈良県で即位した仁徳(にんとく)天皇が母の仲姫(なかひめ)と一生会えなかったのが真実である。
仲哀(ちゅうあい)天皇3年1月7日(西暦254年2月上旬頃)は、帰還してない武渟川別(たけぬなかわわけ)を左大臣で、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を右大臣に任命して、事後承諾(しょうだく)させたと考えられる。
忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀(ちゅうあい)天皇を神格化)の左大臣は、経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と布刀玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)で、右大臣が武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)である。
仲哀(ちゅうあい)天皇3年7月15日頃(西暦254年8月中旬頃)までは、長野県を平定して、翌日16日に古代天皇家の支配地の美濃(みの;岐阜県南部)に入った。
仲哀(ちゅうあい)天皇3年9月30日(西暦254年10月下旬頃)は、東国平定の将軍たちが仲哀天皇の皇居(おそらく京都府宮津市の丹波由良宮(たんばゆらのみや)に帰還して、平定が終了した。
仲哀(ちゅうあい)天皇4年2月1日(西暦255年3月上旬頃)は、詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、国郡(くにこおり)に長(おさ)で、県邑(あがたむら)に首(おびと)を選定した。
仲哀(ちゅうあい)天皇4年2月5日(西暦255年3月上旬頃)は、崇神(すじん)天皇の息子である豊城彦命(とよきひこのみこと)の孫の彦狭島王(ひこさしまのみこ)が東山道15国の都督(かみ)に任命されたが、春日(かすが;長野県佐久(さく)市春日)の穴昨邑(あなくいむら)に至って、病にかかって亡くなった。この時に東国の人民は、彦狭島王(ひこさしまのみこ)の屍(しかばね)を盗(ぬす)んで、上野国(こうずけのくに;群馬県)に葬礼した。
仲哀(ちゅうあい)天皇5年8月(西暦256年9月頃)は、仲哀(ちゅうあい)天皇が彦狭島王(ひこさしまのみこ)の息子の御諸別王(みもろわけのみこ)に命令して、御諸別王(みもろわけのみこ)が毛野国造(つけのくにみやつこ;群馬県と栃木県の国主)に任命したと考えられて、御諸別王(みもろわけのみこ)の子孫が上毛野(かみつけの)氏(群馬県の統治者)と下毛野(しもつけのくに)氏(栃木県の統治者)である。
仲哀(ちゅうあい)天皇5年9月(西暦256年10月頃)は、日本各地の国造(くにみやつこ;国主)を任命して、『先代旧事本紀』の10巻『国造本記』に国造(くにみやつこ;国主)を記す。
  1世紀中頃は、美濃(みの;岐阜県南部)を領土にして、岐阜県揖斐郡(いびぐん)大野町の前方後円墳の笹山(ささやま)古墳が西暦200年頃の築造で、3世紀中頃に飛騨(ひだ;岐阜県北部)を領土にして、飛騨(ひだ)最古の古墳が4世紀後半から5世紀中頃の三日町大塚(みっかまちおおつか)古墳と考えられる。
  福島県河沼郡会津坂下町の前方後円墳の杵ヶ森(きねがもり)古墳は、3世紀末から4世紀初頭の築造で、石背国造(いわせくにみやつこ)の建彌依米命(たけみよりまいのみこと)か阿尺国造(あさかくにみやつこ)の比止彌命(ひとねのみこと)が古墳埋葬者と考えられる。
  千葉県市原市の前方後円墳の神門(ごうど)3・4・5号墳は、3世紀後半の築造で、菊麻国造(きくまくにみやつこ)の大鹿国直(おおかくにのあたい)か上海上国造(かみうなかみくにみやつこ)の忍立化多比命(おしたちかたひのみこと)の一族が古墳埋葬者と考えられる。
  長野県中野市の前方後円墳の高遠山(たかとおやま)古墳は、4世紀前半の前方後円墳で、三野後国造(みののみちのしりくにみやつこ)の臣賀夫良命(おみかぶらのみこと)が古墳埋葬者と考えられる。
仲哀(ちゅうあい)天皇7年7月7日(西暦258年8月中旬頃)は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の父親で、男王(だんおう)の日本武(やまとたけ)天皇が京都府宮津市にある仲哀(ちゅうあい)天皇の皇居の丹波由良宮(たにはゆらのみや)またの名が宮津由良宮(みやづゆらのみや)を攻撃した。
仲哀(ちゅうあい)天皇8年9月5日(西暦259年10月上旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、群臣に詔(みことのり;天皇の述べた言葉)して、出雲王国(物部(もののべ)氏)の討伐を相談して、翌年の仲哀(ちゅうあい)天皇9年1月下旬から2月5日頃(西暦260年2月下旬から3月上旬頃)に次男の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を身籠(みご)もったと考えられる。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月5日(西暦260年3月上旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の攻撃中に戦場で傷ついて、翌日6日に51才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、戦死で間違いなくて、正妻の神功(じんぐう)皇后が舅(しゅうと)で、男王(だんおう)の日本武(やまとたけ)天皇を恨(うら)んだ。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月22日(西暦260年3月下旬頃)に大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、京都府宮津市の皇居の丹波由良宮(たにはゆらのみや)に帰還して、こっそり仲哀(ちゅうあい)天皇の遺骸(いがい)を収(おさ)めて、皇居で灯火(ともしび)を焚(た)かないで仮葬した。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)に台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、出雲王国(物部(もののべ)氏)を攻撃して、17日に67才の男王(だんおう)の日本武(やまとたけ)天皇を殺して、10年間の日本武尊(やまとたけのみこと)の反乱が完全に決着して、短時間で出雲王国の上層部を一掃(出雲王国の崩壊)して、戦死者が少なかったと考えられる。
  西暦260年神無月は、出雲王国(物部(もののべ)氏)の滅亡でなく、4代目出雲国王の物部十市根(もののべのといちね)が260年頃に80才頃と考えられて、息子が物部膽咋(もののべのいくい)で、孫の物部五十琴(もののべのいそこと)が西暦263年に登場して、ここまで物部(もののべ)氏本家の系図が正しい。
  物部五十琴(もののべのいそこと)の息子の物部伊弗(もののべのいこふつ)は、400年から419年頃で、孫の物部目(もののべのめ)が470年頃で、曾孫の物部荒山(もののべのあらやま)が530年頃で、曾曾孫の物部尾輿(もののべのおこし)が530年から550年頃に登場して、曾曾曾孫の物部守屋(もののべのもりや)が587年8月頃に戦死して、物部(もののべ)氏本家が滅亡して、物部(もののべ)氏本家の系図が途切(とぎ)れて、嘘(うそ)と証明できた。
は、「草かんむり」に呂の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
  物部五十琴(もののべのいそこと)の息子の物部伊弗(もののべのいこふつ)は、正しく求めると4世代から5世代ほど子孫がいて、物部(もののべ)氏本家の系図の途切(とぎ)れを証明して、僕が邪馬台国(大和国;やまとこく)時代と倭(わ)の五王を特定して、系図の途切(とぎ)れを2024年9月25日の午前10時頃に特定した。
  弥生時代後期に発展した出雲は、3世紀中頃に衰退して、弥生時代後期に入って、全国的に高地性集落遺跡が作られるが、出雲で3世紀中頃に多くの高地性集落遺跡が作られて、出雲王国崩壊の時期と重なる。
  神功(じんぐう)皇后の三韓征伐(古代朝鮮国家3国の平定)は、西暦320年とするが、60年間を引き算して、260年の出雲王国の平定と入れ替わって、三韓征伐の内容が出雲王国の平定の記述に書き直せて、正しく完全解釈できる僕にしか求められなかった。
  出雲大社は、3世紀中頃の仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に出雲王国(物部(もののべ)氏)が崩壊して、270年から290年頃(3世紀後半)に濡渟(うかずくぬ)が創建した可能性があるが、4世紀から5世紀の可能性もあって、出雲大社本殿の宇豆柱(うずばしら)が出土して、何世紀の物か分からない限り創建時期を証明できないと考えられる。
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
『出雲国造世系譜』の霊亀2年(西暦716年)は、島根県松江市大庭町の出雲大社の元宮(もとみや)と考えられる神魂(かもす)神社から島根県出雲市大社町杵築の出雲大社に遷宮したと記して、出雲果安(いずものはたやす)の時代の和銅(わどう)元年(708年)から716年までに遷宮して、藤原氏が出雲大社宮司家の千家(せんげ)氏を弱体化するためと考えられる。
  弥生時代後期に発展した出雲は、3世紀中頃に衰退して、弥生時代後期に入って、全国的に高地性集落遺跡が作られるが、出雲で3世紀中頃に多くの高地性集落遺跡が作られて、出雲王国崩壊の時期と重なる。
(神功(じんぐう)皇后の三韓征伐(古代朝鮮国家3国の平定)は、西暦320年だが、60年間を引き算して、西暦260年神無月の出雲王国の平定と入れ替わって、正しく完全解釈できる僕にしか求められなかった。)
出雲の国譲(くにゆず)り神話(出雲王国の崩壊)に登場する神様は、高天原(たかまがはら;天津神:あまつがみ)系の古代天皇家の人物と出雲系(国津神;くにつがみ)の物部(もののべ)氏の人物を神格化して、以下の神様が主に出てくる。
古代天皇家の人物は、7代目・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)と天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)のお腹(なか)にいた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)と経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)と武甕槌神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)などである。
物部(もののべ)氏側の人物は、大国主神(おおくにぬしのかみ;飯入根(いいいりね)を神格化)と須勢理比売(すせりひめ;忍布姫(ぬのおしひめ)を神格化)と事代主神(ことしろぬしのかみ;濡渟(うかずくぬ)を神格化)と建御名方神(たけみなかたのかみ;素戔嗚尊(すさのおのみこと)の日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)などである。

仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月18日から12月5日頃(西暦260年11月中旬頃から西暦261年1月上旬頃)まで台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、身重(みおも)の体で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊の後処理をして、出雲王国が統治した中国地方の各地に使者を飛ばして、対応に追われて1ヶ月以上も出雲に滞在した。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年11月頃(西暦260年12月頃)に濡渟(うかずくぬ)は、最後の出雲国王で、父の飯入根(いいいりね)が戦死して、後継者の出雲国造(くにみやつこ;島根県の国主)に任命されて、後で神功(じんぐう)皇后が船で、京都府宮津市に帰還した。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、仲哀(ちゅうあい)天皇の忘れ形見の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を生んで、出生地が京都市与謝郡(よさぐん)伊根町(いねちょう)の宇良(うら)神社で、祭神が『日本書紀』に記す浦島太郎で、浦島太郎の正体を出版してない3冊目で公表する。
  仲哀(ちゅうあい)天皇の息子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、神功(じんぐう)皇后が10月10日後に生んで、出雲王国で仲哀天皇が戦死した時、神功(じんぐう)皇后が一緒に戦争に参加して、夫の死を見届けて、死ぬ前にちょうど妊娠して、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)との間にできた不義の子の説を完全に否定した。
(神功(じんぐう)皇后は、西暦201年に摂政(せっしょう;天皇に代わって政治をする役職)になって、60年後の261年にも摂政(せっしょう)になったと計算して、翌年の仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)が生まれて、神功(じんぐう)皇后が269年に死去して、誉田別尊(ほむだわけのみこと)が270年に即位して、310年に死去して、計算を狂(くる)わせた。)
年代不明で、邪馬台国(やまとこく)は、遂(つい)に国中を平定した。
摂政(せっしょう)元年2月(西暦261年3月頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇の息子の鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟は、義母の神功(じんぐう)皇后から三種の神器を強奪する謀反(むほん)を起こして、鹿坂皇子(かごさかのみこ)が死んで、3月5日(西暦261年4月上旬頃)以降に忍熊皇子(おしくまのみこ)が溺死して、京都府宇治市で水死体が見つかった。
鹿は「鹿」の漢字の下に弭で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
  邪馬台国(大和国;やまとこく)の最後の内乱(皇位継承権争い)で神功(じんぐう)皇后は、教訓から三種の神器の神剣を変更しようと考えて、『三国志・魏志倭人伝』の「国中遂定」の記述が内乱を遂(つい)に平定して、魏(ぎ)王朝が滅亡した西暦265年までに遣使した。
摂政(せっしょう)元年9月6日(西暦261年10月上旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)陵は、出雲の陵墓と大和(おおやまと)古墳群の前方後円墳に葬礼して、嘘(うそ)の日本武尊(やまとたけのみこと)陵が三重県亀山市能褒野(のぼの)の古墳と2つの白鳥陵(しらとりのみささぎ)で、日本初の分骨と考えられる。
魏(ぎ)王朝が滅亡した西暦265年までに卑弥呼(ひみこ)の宗女(一族)の台与(とよ)は、13才で選ばれて、女王になったと勘違いした。
摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と同族(皇族)で、台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、33才(実年齢か数え年か不明)で摂政(せっしょう;天皇に代わって政治をする役職)に任命されて、この年が摂政(せっしょう)元年である。
(『日本書紀』の神功(じんぐう)皇后が摂政(せっしょう)に任命された年は、干支(えと)の辛巳(かのとみ)の年で、西暦261年で間違いなくて、『三国志・魏志倭人伝』が実年齢か数え年か分からなくて、卑弥呼(ひみこ)が幼少で女王になって、台与(とよ)も13才で即位したと勘違いして、神功(じんぐう)皇后が33才と考えられる。
摂政(せっしょう)2年11月8日(西暦262年12月上旬頃)に神功(じんぐう)皇后は、夫の仲哀(ちゅうあい)天皇を葬礼して、仲哀(ちゅうあい)天皇陵が大和(おおやまと)古墳群の前方後円墳と考えられる。
摂政(せっしょう)3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、実兄の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)でなく、実弟で2才弱の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を立太子(りったいし;皇太子になること)して、新しい三種の神器と共に日向(ひうが;宮崎県)に行かせた。
  三種の神器の神剣は、2種類の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と1種類の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を入れ替えて、宮崎県に誉田別尊(ほむだわけのみこと)を行かせて、八重垣剣(やえがきのつるぎ)の別名が天逆矛(あめのさかほこ)や天沼矛(あめのぬぼこ)など多くある。
  日向(ひうが;宮崎県)の天孫降臨神話で太玉命(ふとだまのみこと;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)は、神功(じんぐう)皇后の弟で、甥(おい)の誉田別尊(ほむだわけのみこと)を守る近衛(このえ)将軍である。
  塩土老翁(しおつちのおじ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)の息子の火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)を舟で送り出して、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が誉田別尊(ほむだわけのみこと)を舟で、大阪府から宮崎県に送り出した。
  おとぎ話の浦島太郎は、母と乙姫(おとひめ)に一生会えなくて、大阪府から宮崎県に旅立って、誉田別尊(ほむだわけのみこと)が母の神功(じんぐう)皇后と一生会えなくて、仲姫(なかひめ)が乙姫(おとひめ)で、夫の誉田別尊(ほむだわけのみこと)が眠る宮崎県に残って、奈良県で即位した仁徳(にんとく)天皇が母の仲姫(なかひめ)と一生会えなかったのが真実である。
西暦265年に建国した西晋(せいしん)王朝の泰始(たいし)2年(西暦266年)は、女王の台与(とよ)が遣使して、この後も何度か遣使して、この年号を最後に邪馬台国(やまとこく)が歴史上から消えた。
摂政(せっしょう)6年(西暦266年)に台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、西晋(せいしん)王朝に遣使して、遣西晋使(けんせいしんし)で、遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語で、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争で最後の年号である。
  韓国の都市の金海(キメ)は、狗邪韓国(くやかんこく)の加羅国(からこく)で、3世紀後半頃から日本製の遺物が出土しなくて、神功(じんぐう)皇后時代に中国や朝鮮の王朝と外交しなくなって、「記紀」の記述と合致した。
富士山の山頂と出雲大社を結びレイライン(太陽の道)は、古代天皇家の測量技術で調べて、線上に滋賀県の伊吹山(いぶきやま)と息吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;武虎別皇子(たけこわけのみこ)を神格化)と京都府福知山市大江町の元伊勢内宮と神魂(かもす)神社などがあって、西暦260年代以降にできたと考えられる。
西暦260年から290年頃に京都府福知山市大江町の元伊勢内宮は、富士山の山頂と出雲大社を結ぶレイライン(太陽の道)上にあって、福知山市今安(いまやす)の天照玉命(あまてるたまのみこと)神社と共に京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社宮司家である海部(あまべ)氏の大倉岐命(おおくらきのみこと)が創建したのが最古の可能性である。
西暦260年から290年頃に熱田(あつた)神宮は、日本武尊(やまとたけのみこと)の妾(めかけ)の宮簀媛(みやずひめ)が初代の神主として創建して、日本武尊(やまとたけのみこと)に縁(ゆかり)の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を奉納したのが仁徳(にんとく)天皇の即位した西暦334年よりも後と考えられる。
『ホツマツタエ』の熱田(あつた)神宮の熱田神(あつたかみ)は、日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化して、現在の熱田大神(あつたおおかみ)が日本武尊(やまとたけのみこと)と考えられる。
応神(おうじん)天皇元年1月1日(西暦年270年2月上旬頃)は、『日本書紀』の干支(えと)の庚寅(かのえとら)が摂政(せっしょう)9年で、神武(じんむ)天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日)以降から武烈(ぶれつ)天皇の即位年まで、西暦年に直した年数が完全な間違いで、僕の自論の年数が正しいと証明した。
(『日本書紀』の応神(おうじん)天皇元年1月1日(西暦年270年2月上旬頃)に誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)は即位して、応神(おうじん)天皇41年2月15日(西暦年310年3月中旬頃)に死去して、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦年313年2月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇が即位したと嘘の年代を作って混乱させた。)
摂政(せっしょう)25年頃(西暦285年頃)に仁徳(にんとく)天皇は生まれた。
  仁徳(にんとく)天皇から武烈(ぶれつ)天皇は、生没年月日が「記紀」でちゃんと記されなくて、神武(じんむ)天皇から武烈(ぶれつ)天皇までの在位期間を疑問視させるためと考えられる。
瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)は、大山祇神(おおやまつみのかみ;品陀真若王(ほむだまわかのみこ)を神格化)の娘の木花開耶姫(このはなさくやひめ;仲姫(なかひめ)と高城入姫(たかぎいりひめ)の姉妹を神格化)と結婚して、異母兄の火酢芹命(ほすせりのみこと;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を神格化)と火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)を生んだ。
摂政(せっしょう)天皇31年9月10日(西暦291年10月上旬頃)に誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、宮崎県から奈良県への里帰りの途中、吉備国(きびのくに;岡山県と広島県東部)の領土を分割して、吉備武彦(きびたけひこ)の息子と孫たちに与えられた。
西暦297年に亡くなった西晋(せいしん)王朝の文官の陳寿(ちんじゅ)は、『三国志・魏志倭人伝』に邪馬台国(大和国;やまとこく)を記した。
出雲大社は、3世紀中頃の仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月17日(西暦260年11月中旬頃)に出雲王国(物部(もののべ)氏)が崩壊して、3世紀末から4世紀初頭頃に濡渟(うかずくぬ)が創建した可能性があるが、4世紀後半から5世紀中の可能性もあって、出雲大社本殿の宇豆柱(うずばしら)が出土して、何世紀の物か分からない限り、創建時期を証明できないと考えられる。
摂政(せっしょう)天皇46年(西暦306年)は、『ホツマツタエ』の第一段階を6代目出雲国王の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)の神櫛皇子(かんぐしのみこ)と曾孫の2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)が2人でまとめて、神櫛皇子(かんぐしのみこ)の実弟の稲背彦皇子(いなせひこのみこ)が署名して、神功(じんぐう)皇后に献上したと考えられる。
  『ホツマツタエ』は、6世紀から7世紀中に完成して、『ホツマツタエ』の献上年の景行(けいこう)天皇56年(西暦246年)に干支(えと)の60年周期を加算すると、西暦546年と西暦606年と西暦666年の完成だが、6世紀から7世紀の年数が完全な僕の予測で、西暦672年の壬申(じんしん)の乱で、燃えないように『ホツマツタエ』を持ち出したと考えられる。
  古代の紙(かみ)は、紀元前2世紀頃に古代中国で作成して、2世紀初めの西暦105年頃に後漢(ごかん)王朝の役人の蔡倫(さいりん)が製紙法を改良して、使いやすい実用的な紙(かみ)を大量生産して、景行(けいこう)天皇元年(191年)に帰還した遣漢使(けんかんし)が製紙法を伝えて、4世紀初頭に『ホツマツタエ』を紙(かみ)に書いた可能性を考えられる。
『ホツマツタエ』は、6代目・大物主神(おおものぬしのかみ;神櫛皇子(かんぐしのみこ)を神格化)と直系子孫の2代目・大田田根子(おおたたねこ;2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖先化)がまとめて、藤原氏の先祖の大鹿島(おおかしま)が花押(かおう;自著の代わりに使う記号)で署名(しょめい)して、景行(けいこう)天皇56年に献上したと記すが、60年間を加算して、西暦306年の献上と考えられる。
摂政(せっしょう)49年1月24日(西暦309年2月下旬頃)に父の誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)を立てて皇太子として、大山守皇子(おおやまもりのみこ)が山川林野を管理させて、仁徳(にんとく)天皇を皇太子の補佐(ほさ)として、3人の皇子を皇位継承者にした。
摂政(せっしょう)50年2月15日(西暦年310年3月中旬頃)に誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、軽島豊明宮(かるしまとよあきらのみや;所在地不明)で、49才で亡くなって、一説によると大隅宮(おおすみのみや;鹿児島県東部の宮殿)で亡くなって、天皇でないため崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)と呼ばなくて、『日本書紀』に葬礼日も陵墓も記さない。
  摂政3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に2才弱の誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、立太子(りったいし;皇太子になること)して、三種の神器を持たせて、日向(ひうが;宮崎県)に行かせて、軽島豊明宮(かるしまとよあきらのみや)と大隅宮(おおすみのみや;鹿児島県東部の宮殿)が天皇でないため皇居でなく、皇太子の宮殿で、宮崎県から鹿児島県にあると考えられる。
  宮崎市の前方後円墳の生目(いきめ)1号墳は、3世紀末から4世紀前半の築造で、箸墓(はしはか)古墳(景行(けいこう)天皇陵)の相似形で、誉田別尊(ほむだわけのみこと)陵の有力候補である。
(誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)は、摂政(せっしょう)50年2月15日(西暦年310年3月中旬頃)に死去して、即位しない皇太子を応神(おうじん)天皇として、嘘(うそ)の天皇として組み込んで、歴史を狂(くる)わせて、「記紀」の混乱を解明する僕の存在を待ち望んだ。)
年代不明で、女王の台与(とよ)は死んで、邪馬台国(大和国;やまとこく)論争の登場人物の多くが死んだ。
摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、奈良県の皇居の磐余若桜宮(いわれわかざくらのみや)で、99才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、10月15日(11月中旬頃)に大和(おおやまと)古墳群か柳本(やなぎもと)古墳群の前方後円墳に葬礼したと考えられて、死後の諡(おくりな)を息長足姫尊(いきながたりひめのみこと)と言う。
  神功(じんぐう)皇后は、皇居と崩御(ほうぎょ)と記して、女系天皇と女性天皇の根拠で、女系男子天皇を応援する理由でもある。
(『日本書紀』の神功(じんぐう)皇后が亡くなった年は、干支(えと)の己丑(つちのとうし)の年で、西暦329年で間違いない。)
女性の太陽神で母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)が亡くなった。
神武(じんむ)天皇の兄弟は、実兄の五瀬命(いつせのみこと)と稲飯命(いなひのみこと)と御毛入野命(みけいりののみこと)で、それぞれ仁徳(にんとく)天皇の異母兄弟の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)と額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)と大山守皇子(おおやまもりのみこ)を祖先化して、神武(じんむ)天皇が仁徳(にんとく)天皇を祖先化した。
  逆賊の長髄彦(ながすねひこ)は、大山守皇子(おおやまもりのみこ)を祖先化して、神武(じんむ)天皇の東征(仁徳(にんとく)天皇の東征)の登場人物を仁徳(にんとく)天皇とその異母兄弟の名前に修正して記す。
摂政(せっしょう)69年6月以降(西暦329年7月以降)に大山守皇子(おおやまもりのみこ)は、奈良県にいて、伊勢神宮内宮から三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)を盗(ぬす)み出して、近畿地方を脱出した異母兄弟の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)が仁徳(にんとく)天皇のいる宮崎県に向かって、三種の神器を巡る皇位継承権争いが起きた。
(神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)は、神武(じんむ)天皇(仁徳(にんとく)天皇を祖先化)が5年間で、宮崎県から奈良県に行って即位して、祖母の神功(じんぐう)皇后の遺言(ゆいごん)で、亡き息子の遺児の仁徳(にんとく)天皇を奈良県に呼び寄せて即位させて、摂政(せっしょう)69年(西暦329年)を神武(じんむ)東征1年と計算した。
神武(じんむ)東征1年(紀元前667年)は、仁徳(にんとく)東征1年(西暦329年)で、神武(じんむ)東征5年(紀元前663年)が仁徳(にんとく)東征5年(西暦333年)で、紀元前663年と西暦333年の3の倍数を合致させて、旧暦(太陰太陽暦)と新暦(太陽暦)を熟知して、『ホツマツタエ』と「記紀」の暦法を作った証拠である。
神武(じんむ)東征5年(紀元前663年)の翌年は、『日本書紀』の己未(つちのとひつじ;紀元前662年)で、奈良県の敵軍を一掃して、神武(じんむ)天皇元年(干支(えと)の辛酉(かのととり;紀元前660年)1月1日(2月11日;建国記念の日)に皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で、初代の神武(じんむ)天皇が即位したと記して、神武(じんむ)東征と仁徳(にんとく)東征を合致できないように年数をワザとずらした。)

仁徳(にんとく)東征は、神武(じんむ)東征の物語に祖先化して、火酢芹命(ほすせりのみこと;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を神格化)と火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)の神話に神話化して、『ホツマツタエ』と対比して修正した。
仁徳(にんとく)東征1年10月3日(西暦329年11月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、異母兄の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)などの皇子と家臣と共に船団を揃(そろ)えて、自分たちが管理する三種の神器を持ち出して、宮崎県から船出(ふなで)した。
(『ホツマツタエ』神武(じんむ)東征1年10月3日(紀元前667年11月上旬頃)と『日本書紀』神武(じんむ)東征1年(干支の甲寅(きのえとら;紀元前667年)3月5日は、干支(えと)が完全な間違いで、僕の求めた仁徳(にんとく)東征1年10月3日(西暦329年11月上旬頃)が正しい。)
  この時代に存在する三種の神器は、2種類の八咫鏡(やたのかがみ)と1種類の草薙剣(くさなぎのつるぎ)と1種類の八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)で、3つの三種の神器を仁徳(にんとく)天皇が管理して、異母兄弟の大山守皇子(おおやまもりのみこ)が奈良県でもう1つの八咫鏡(やたのかがみ)を所持して、仁徳(にんとく)天皇が持つ三種の神器を強奪しようと考えた。
  景行(けいこう)天皇は、宮崎県を含む熊襲(くまそ)王国を平定して、日本武尊(やまとたけのみこと)が宮崎県を含む熊襲(くまそ)王国を滅亡させて、皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと)が宮崎県で暮らして、仁徳(にんとく)天皇が宮崎県で生まれて、宮崎県が3代目の景行(けいこう)天皇から5代目の仁徳(にんとく)天皇(仲哀(ちゅうあい)天皇を除く)の4世代が関係した皇室の故郷(ふるさと)である。
摂政(せっしょう)69年10月15日(西暦329年11月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后は、葬礼して大和(おおやまと)古墳群か柳本(やなぎもと)古墳群の前方後円墳が有力候補と考えられる。
仁徳(にんとく)東征1年11月9日(西暦329年12月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、筑紫国(つくしのくに;福岡県東部)の岡水門(おかのみなと;福岡県の遠賀川(おんががわ)の河口の辺り)に到着した。
(『日本書紀』神武(じんむ)東征1年11月9日(紀元前667年12月上旬頃)は、年代が完全な間違いで、僕の求めた仁徳(にんとく)東征1年11月9日(西暦329年12月上旬頃)が正しい。)
仁徳(にんとく)東征1年12月27日(西暦330年1月下旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、安芸国(あきのくに;広島県西部)の埃宮(ちのみや;広島県安芸(あき)郡府中町(ふちゅうちょう)に到着した。
(『日本書紀』神武(じんむ)東征1年12月27日(紀元前666年1月下旬頃)は、年代が完全な間違いで、僕の求めた仁徳(にんとく)東征1年12月27日(西暦330年1月下旬頃)が正しい。)
仁徳(にんとく)東征2年3月6日(西暦330年4月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、吉備国(きびのくに;岡山県と広島県東部)の高島宮(たかしまのみや;岡山市高島)に到着して、3年間で船団や食料などを準備した。
(『日本書紀』神武(じんむ)東征2年(干支(えと)の乙卯(きのとう;紀元前666年)3月6日(4月上旬頃)は、干支(えと)が完全な間違いで、僕の求めた仁徳(にんとく)東征2年3月6日(西暦330年4月上旬頃)が正しい。)
仁徳(にんとく)東征5年2月11日(西暦333年3月中旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、浪速(なみはや)の港(難波津;なにわづ)に着いた。
(『ホツマツタエ』神武(じんむ)東征5年2月(紀元前663年3月頃)と『日本書紀』神武(じんむ)東征5年(干支(えと)の戊午(つちのえうま;紀元前663年)2月11日(3月中旬頃)は、干支(えと)が完全な間違いで、仁徳(にんとく)東征5年2月11日(西暦333年3月中旬頃)が正しい。)
仁徳(にんとく)東征5年3月10日(西暦333年4月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、河内(かわち;大阪府東部)の山を越えて川をさかのぼって、草香(くさか;大阪市日下町(くさかちょう)の味方である天上諸(あうえもろ)の館に立ち寄って、軍備を整えた。
(『日本書紀』神武(じんむ)東征5年3月10日(紀元前663年4月上旬頃)は、年代が完全な間違いで、僕の求めた仁徳(にんとく)東征5年3月10日(西暦333年4月上旬頃)が正しい。)
仁徳(にんとく)東征5年4月9日(西暦333年5月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、歩いて竜田(たつた;奈良県北葛城郡王寺町竜田)に向かって、時期不明で長髄彦(ながすねひこ;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を祖先化)と孔舎衛坂(くさえざか;大阪府枚岡市日下町の山麓地帯から草香山を越える坂道か?)で戦って、菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)の肘(ひじ)に流れ矢が当たった。
(『日本書紀』神武(じんむ)東征5年4月9日(紀元前663年5月上旬頃)は、年代が完全な間違いで、僕の求めた仁徳(にんとく)東征5年4月9日(西暦333年5月上旬頃)が正しい。)
仁徳(にんとく)東征5年5月8日(西暦333年6月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇の軍は、八尾(やお;大阪府八尾市)へ退(しりぞ)いて、船で茅渟(ちぬ;大阪府東部)の山城(大阪府泉南市樽井)に至ると、そこで菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)が亡くなって、紀伊国(きいのくに;和歌山県)の竃山(かまやま;和歌山市の竃山神社)に埋葬した。
  多賀宮(たかのみや;伊勢神宮外宮の別宮)を統治した五瀬命(いつせのみこと)は、神武(じんむ)天皇の実兄で、皇太子の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)を祖先化して、統治者なのが共通して、祖先化を証明する証拠である。
  菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)は、和歌山市の竃山(かまやま)神社に埋葬して、竃山墓(かまやまのはか)が宮内庁指定陵の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)の陵墓だが、考古学的に発掘したわけでなく、年代が合致するか分からない。
(『日本書紀』神武(じんむ)東征5年5月8日(紀元前663年6月上旬頃)は、年代が完全な間違いで、僕の求めた仁徳(にんとく)東征5年5月8日(西暦333年6月上旬頃)が正しい。)
仁徳(にんとく)東征5年6月23日(西暦333年7月下旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、名草(なぐさ;和歌山市の名草山付近)に進んで、時期不明で磐盾山(いわたてやま;新宮市の神倉神社境内である神倉山か?)を越えて、海上に出て沖を行くと、旋風を受けて船が漂流して、仁徳(にんとく)天皇の異母兄弟の額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)を捕らえた。
  稲飯命(いなひのみこと)と御毛入野命(みけいりののみこと)は、神武(じんむ)天皇の実兄で、2人とも死んだが、仁徳(にんとく)天皇の異母兄弟の額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)と大山守皇子(おおやまもりのみこ)の実兄弟を祖先化したのが間違いなくて、どちらが誰と判断できず、神武(じんむ)天皇が4人兄弟で、仁徳(にんとく)天皇の兄弟の計算も正しい。
(『日本書紀』神武(じんむ)東征5年6月23日(紀元前663年7月下旬頃)は、年代が完全な間違いで、僕の求めた仁徳(にんとく)東征5年6月23日(西暦333年7月下旬頃)が正しい。)
仁徳(にんとく)東征5年8月2日(西暦333年9月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、穿村(うがちむら;奈良県宇陀市莵田野宇賀志(うたのうかし)に着いて、時期不明で弟猾(おとうがし)だけが来て、兄猾(えうがし)が来なくて殺した。
(『日本書紀』神武(じんむ)東征5年8月2日(紀元前663年9月上旬頃)は、年代が完全な間違いで、僕の求めた仁徳(にんとく)東征5年8月2日(西暦333年9月上旬頃)が正しい。)
仁徳(にんとく)東征5年9月5日(西暦333年10月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、高倉山(たかくらやま;奈良県の宇陀市の高倉山か東吉野町の高見山)で、敵の八十梟帥(やそたける)を偵察するため、椎根津彦(しいねつひこ;海部(あまべ)氏の明国彦命(あけくにひこのみこと)か難波根子健振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)の辺り)と弟猾(おとうがし)を行かせて、無事に帰ってきた。
(『日本書紀』神武(じんむ)東征5年9月5日(紀元前663年10月上旬頃)は、年代が完全な間違いで、僕の求めた仁徳(にんとく)東征5年9月5日(西暦333年10月上旬頃)が正しい。)
仁徳(にんとく)東征5年10月1日(西暦333年11月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、国見岡(くにみがおか;奈良市の国見山(くにみやま)で、八十梟帥(やそたける)を殺した。
(『日本書紀』神武(じんむ)東征5年10月1日(紀元前663年11月上旬頃)は、年代が完全な間違いで、僕の求めた仁徳(にんとく)東征5年10月1日(西暦333年11月上旬頃)が正しい。)
仁徳(にんとく)東征5年11月7日(西暦333年12月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、奈良県磯城(しき)郡で、弟磯城(おとしき)を服従させて、黒坂(墨坂;すみさか:奈良県宇陀市榛原区の西にある墨坂か?)で、兄磯城(えしき)を殺した。
(『ホツマツタエ』神武(じんむ)東征5年11月の弓張月(ゆみはりづき)の日は、『日本書紀』神武(じんむ)東征5年11月7日(紀元前663年12月上旬頃)で、年代が完全な間違いで、僕の求めた仁徳(にんとく)東征5年11月7日(西暦333年12月上旬頃)が正しい。)
仁徳(にんとく)東征5年12月4日(西暦334年1月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、饒速日命(にぎはやひのみこと;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)の助けで、場所不明で異母兄弟の長髄彦(ながすねひこ;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を祖先化)を殺して、皇位継承権争いが終わった。
(『日本書紀』神武(じんむ)東征5年12月4日(紀元前662年1月上旬頃)は、年代が完全な間違いで、僕の求めた仁徳(にんとく)東征5年12月4日(西暦334年1月上旬頃)が正しい。)
  仁徳(にんとく)東征は、神武(じんむ)東征の物語に祖先化して、火酢芹命(ほすせりのみこと;大山守皇子(おおやまもりのみこ)を神格化)と火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳(にんとく)天皇を神格化)の神話に神話化して、『ホツマツタエ』と対比して修正した。
仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、5代目天皇に即位して、『日本書紀』で3年間を皇位が空白で、祖母の神功(じんぐう)皇后の死去の329年から5年間を仁徳(にんとく)東征で、皇位が空白で合致する。
  誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)の崩年干支(ほうねんかんし)は、甲午(きのえうま)年9月9日(西暦334年10月上旬頃)だが、祖母の神功(じんぐう)皇后が西暦329年に亡くなって、皇位の3年間が空白で、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に即位して、計算が正しいと考えられる。
  西暦334年即位の仁徳(にんとく)天皇から西暦507年1月上旬頃に崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)の武烈(ぶれつ)天皇までは、『日本書紀』と『古事記』の干支(えと)が混乱して、混合して年代特定する有様で、5世紀の倭(わ;古代日本)の五王の遣使した年と合致させて、歴代天皇の年齢があり得ない計算だったりして、僕の自論の年代に死角が無い。
垂仁(すいにん)天皇陵と景行(けいこう)天皇陵を含む大和(おおやまと)古墳群と景行(けいこう)天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)である纏向(まきむく)遺跡は、放棄した4世紀前半の年代と合致した。
(神武(じんむ)東征5年(紀元前662年)の翌年は、『日本書紀』の己未(つちのとひつじ;紀元前662年)で、奈良県の敵軍を一掃して、神武(じんむ)天皇元年(干支(えと)の辛酉(かのととり;紀元前660年)1月1日(2月11日;建国記念の日)に皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で、初代の神武(じんむ)天皇が即位したと記して、仁徳(にんとく)天皇元年(西暦334年)と合致させない偽装工作である。
『日本書紀』誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)は、西暦270年に即位して、310年に死去して、息子の仁徳(にんとく)天皇が313年に即位したと嘘(うそ)の年代を作って、『古事記』の応神(おうじん)天皇の崩年干支(ほうねんかんし)が仁徳(にんとく)天皇の本当の即位年で、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)の即位が正しい。)

大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、仁徳(にんとく)天皇を98才で補佐して、武甕雷神(たけみかづちのかみ)と饒速日命(にぎはやひのみこと)と塩土老翁(しおつちのおじ)の3神に神格化して、火酢芹命(ほすせりのみこと)と火火出見尊(ほほでみのみこと)の神話と神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)に登場して、神武(じんむ)天皇の地位の移譲神話が日本神話の一番最後の神話である。
仁徳(にんとく)天皇2年1月11日(西暦335年2月中旬頃)は、家臣の役職の任命が神武(じんむ)東征(仁徳(にんとく)東征)で活躍した家臣が中心で、神武(じんむ)天皇が崇神(すじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇を祖先化して、崇神(すじん)天皇時代の家臣でないのが明白である。
仁徳(にんとく)天皇2年3月8日(西暦335年4月上旬頃)に磐之姫命(いわのひめのみこと)は、4つ子の履中(りちゅう)天皇と住吉中皇子(すみのえなかのみこ)と反正(はんぜい)天皇と允恭(いんぎょう)天皇を生んだことで皇后にして、6月(7月頃)に産後の病状が悪く亡くなって、2024年4月29日の午後10時半頃に4つ子の皇子と求めた。
  磐之姫命(いわのひめのみこと)は、2代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の息子である葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘で、実在年代が正しくて、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇が即位して、息子4人が生まれるまでの年月を計算して、4つ子としか考えられない。
(『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇2年(西暦314年)は、修正した仁徳(にんとく)天皇2年(西暦335年)が正しい。)
仁徳(にんとく)天皇32年(西暦365年)は、飛騨国(ひだのくに;岐阜県北部)にシャム双生児(結合性双生児)の両面宿儺(りょうめんすくな;「りょうめんすくね」とも言う)がいて、仁徳(にんとく)東征(神武(じんむ)東征)で尽力したが、謀反(むほん)を起こして、海部(あまべ)氏(和珥(わに)氏と同族)の難波根子健振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)が討伐した。
(『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇65年(西暦377年)は、仁徳(にんとく)天皇32年(西暦365年)が正しい。)
仁徳(にんとく)天皇33年3月1日(西暦366年4月上旬頃)は、卓淳国(とくじゅんこく;韓国の昌原(チャンウォン)市の付近)に斯摩宿禰(しまのすくね)を派遣して、百済(くだら;朝鮮半島西南部)王の近肖古王(きんしょうこおう)が斯摩宿禰(しまのすくね)を厚遇して宝物を託して、百済(くだら)と外交が始まった。
(『日本書紀』神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)46年3月1日(西暦366年4月上旬頃)は、仁徳(にんとく)天皇33年3月1日(西暦366年4月上旬頃)が正しくて、年数が合致した。)
仁徳(にんとく)天皇34年1月16日(西暦367年2月中旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は亡くなって、10月7日(11月上旬頃)におそらく柳本(やなぎもと)古墳群か佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群に葬礼したと考えられる。
(『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇67年10月5日(西暦379年11月上旬頃)に天皇陵は、土地を定めて、10月18日(11月中旬頃)に天皇陵を築造し始めて、仁徳(にんとく)天皇87年1月16日(西暦399年2月中旬頃)に仁徳(にんとく)天皇が亡くなった。
『古事記』仁徳(にんとく)天皇の崩年干支(ほうねんかんし)は、丁卯(ひのとう)年(西暦367年)8月15日で、仁徳(にんとく)天皇34年1月16日(西暦367年2月上旬頃)に亡くなったと考えられる。
『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇67年10月5日(西暦379年11月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇陵の築造は始まって、仁徳(にんとく)天皇87年1月16日(西暦399年2月中旬頃)までの20年間で、仁徳(にんとく)天皇陵を作ったと記して、最大の前方後円墳の大仙(だいせん)古墳を仁徳(にんとく)天皇陵と偽装工作したが、築造年代が20年以上の証拠である。)

履中(りちゅう)天皇元年2月1日(西暦367年3月上旬頃)に履中(りちゅう)天皇は、6代目天皇に即位した。
(『日本書紀』履中(りちゅう)天皇元年2月1日(西暦401年2月上旬頃)は、履中(りちゅう)天皇元年2月1日(西暦367年3月上旬頃)が正しい。)
履中(りちゅう)天皇元年4月(西暦367年5月頃)は、百済(くだら)と新羅(しらぎ;朝鮮半島南東部)が朝貢して、2国の貢物を調べると、新羅(しらぎ)の貢物が珍しい物が多く、新羅(しらぎ)が百済(くだら)のの貢物を奪って、千熊長彦(ちくまながひこ)を新羅(しらぎ)に派遣して、百済(くだら)の献上品を汚(けが)し乱したことを責めた。
(『日本書紀』摂政(せっしょう)47年4月(西暦367年5月頃)は、履中(りちゅう)天皇元年4月(西暦367年5月頃)が正しくて、年数が合致した。)
履中(りちゅう)天皇4年2月(西暦370年3月頃)は、荒田別(あらたわけ)らが帰還して、5月(6月頃)に千熊長彦(ちくまながひこ)が百済(くだら)から帰還して、百済(くだら)の使者に多沙城(たさのさし)を付け足し与えて、往還(おうかん)の道の駅とした。
(『日本書紀』神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)50年2月(西暦370年3月頃)は、履中(りちゅう)天皇4年2月(西暦370年3月頃)が正しくて、年数が合致した。)
履中(りちゅう)天皇5年3月(西暦371年4月頃)は、百済(くだら)王が朝貢して、この年に使者に付き従って、千熊長彦(ちくまながひこ)を百済(くだら)国に派遣した。
(『日本書紀』神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)51年3月(西暦371年4月頃)は、履中(りちゅう)天皇5年3月(西暦371年4月頃)が正しくて、年数が合致した。)
履中(りちゅう)天皇6年3月16日(372年4月中旬頃)に履中(りちゅう)天皇は、病気になって、体の不調から臭(くさ)みが増して、皇居の磐余若桜宮(いわれわかざくらのみや)で、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
(『古事記』履中(りちゅう)天皇の崩年干支(ほうねんかんし)は、干支(えと)の壬申(みずのえさる)年(西暦372年)で、『日本書紀』履中(りちゅう)天皇6年3月16日(405年4月中旬頃)に亡くなって、修正して履中(りちゅう)天皇6年3月16日(372年4月中旬頃)で合致した。)
履中(りちゅう)天皇6年9月10日(西暦372年10月上旬頃)は、百済(くだら)から使者が千熊長彦(ちくまながひこ)に従ってやって来て、七枝刀(ななつさやのたち)一口など様々な宝物を収めて、これ以後に毎年あいついで、朝貢するようになった。
  七枝刀(ななつさやのたち)は、石上(いそのかみ)神宮の国宝の七支刀(しちしとう)で、東晋(とうしん)王朝の太和4年(369年)を泰?(和)4年と記して、百済(くだら)王が倭王(わおう;古代の日本王)のために作らせたと文字が読み取れる。
(『日本書紀』摂政(せっしょう)52年9月10日(西暦372年10月上旬頃)は、履中(りちゅう)天皇6年9月10日(西暦372年10月上旬頃)が正しくて、年数が合致した。)
反正(はんぜい)天皇元年1月2日(西暦373年2月上旬頃)に反正(はんぜい)天皇は、7代目天皇に即位した。
(『日本書紀』反正(はんぜい)天皇元年1月2日(西暦406年2月上旬頃)は、反正(はんぜい)天皇元年1月2日(西暦373年2月上旬頃)が正しい。)
反正(はんぜい)天皇元年1月3日(西暦373年2月上旬頃)に反正(はんぜい)天皇は、4代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の息子で、前日に生まれた7代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)の人名ツクを鳥のミミズクから名付けて、反正(はんぜい)天皇が名付け親である。
(『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦313年2月上旬頃)は、反正(はんぜい)天皇元年1月3日(西暦373年2月上旬頃)が正しくて、干支(えと)の60年周期で、60年を足し算した。)
反正(はんぜい)天皇3年(西暦375年)に百済(くだら)の近肖古王(きんしょうこおう)は死去して、息子の近仇首王(きんきゅうしゅおう)が即位した。
(『日本書紀』神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)55年(西暦375年)は、反正(はんぜい)天皇3年(西暦375年)が正しくて、年数が合致した。)
反正(はんぜい)天皇5年7月(西暦377年8月頃)に反正(はんぜい)天皇は、正殿で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
(『古事記』の反正(はんぜい)天皇の崩年干支(ほうねんかんし)は、丁丑(ひのとうし)年(反正(はんぜい)天皇5年;西暦377年)で、『日本書紀』も在位期間が反正(はんぜい)天皇5年で終わって、完全に年数が合致した。)
允恭(いんぎょう)天皇元年12月(西暦378年1月頃)に允恭(いんぎょう)天皇は、すぐに即位しなかったが、皇后の忍坂大中姫(おしさかおおなかひめ)の説得で、群臣が大いに喜んで、即日に天皇の璽符(みしるし;三種の神器)を献上して、8代目天皇に即位した。
(『日本書紀』允恭(いんぎょう)天皇元年12月(西暦412年1月頃)は、允恭(いんぎょう)天皇元年12月(西暦378年1月頃)が正しい。)
允恭(いんぎょう)天皇7年(西暦384年)は、百済(くだら)の近仇首王(きんきゅうしゅおう)が死去して、息子の沈流王(とむるおう)が即位した。
(『日本書紀』神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)64年(西暦384年)は、允恭(いんぎょう)天皇7年(西暦384年)が正しくて、年数が合致した。)
允恭(いんぎょう)天皇8年(西暦385年)は、百済(くだら)の沈流王(とむるおう)が死去して、息子の阿花(あくえ)が年若く、叔父の辰斯王(しんしおう)が位を奪って即位した。
(『日本書紀』神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)65年(西暦385年)は、允恭(いんぎょう)天皇8年(西暦385年)が正しくて、年数が合致した。)
新羅(しらぎ)と百済(くだら)は、そもそも高句麗(こうくり)の属民で朝貢したが、やがて辛卯(かのとう;西暦391年;允恭(いんぎょう)天皇14年)年以降に朝貢しなくなったので、高句麗(こうくり)の好太王(こうたいおう)が百済(くだら)と日本と新羅(しらぎ)を破って臣民とした。
(好太王碑(こうたいおうひ)の辛卯(かのとう;西暦391年)は、允恭(いんぎょう)天皇14年(西暦391年)が正しくて、年数が合致した。)
允恭(いんぎょう)天皇15年(西暦392年)は、百済(くだら)の辰斯王(しんしおう)が天皇に失礼をして、そこで紀角宿禰(きのつののすくね)・羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)・石川宿禰(いしかわのすくね)・木莵宿禰(つくのすくね)らを派遣して責めて、百済(くだら)国が辰斯王(しんしおう)を殺して、阿花王(あくえおう)が即位した。
(『日本書紀』応神(おうじん)天皇3年(西暦272年)は、允恭(いんぎょう)天皇15年(西暦392年)が正しくて、干支(えと)の60年周期で、120年を足し算した。)
允恭(いんぎょう)天皇17年1月15日(西暦394年2月上旬頃)に允恭(いんぎょう)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
(『古事記』允恭(いんぎょう)天皇の崩年干支(ほうねんかんし)は、甲午(きのえうま)年(允恭(いんぎょう)天皇17年;西暦394年)で、『日本書紀』が允恭(いんぎょう)天皇42年(454)で終わって、干支(えと)の60年周期で、60年を引き算した。)
安康(あんこう)天皇元年12月14日(西暦395年1月中旬頃)に安康(あんこう)天皇は、9代目天皇に即位した。
(安康(あんこう)天皇の即位年干支法(そくいねんかんしほう)は、甲午(きのえうま)年(西暦454年)12月14日(西暦455年1月中旬頃)で、安康(あんこう)天皇元年12月14日(西暦395年1月中旬頃)に修正して、干支(えと)の60年周期で、60年を引き算した後、旧暦年と西暦年を直して繰り下がった。)
安康(あんこう)天皇元年2年9月(西暦396年10月頃)は、高句麗(こうくり)・百済(くだら)・任那(みまな;加羅(から)などの朝鮮半島中南部の諸国群)・新羅(しらぎ)などが来朝した。
(『日本書紀』応神(おうじん)天皇7年9月(西暦276年10月頃)は、安康(あんこう)天皇元年2年9月(西暦396年10月頃)が正して、干支(えと)の60年周期で、120年を足し算した。)
安康(あんこう)天皇3年3月(西暦397年4月頃)は、百済(くだら)が来朝して、『百済記』に阿花王(あくえおう)が日本に無礼をして、百済(くだら)の領土の枕弥多礼(とむたれ)・南(けむなむ)・支侵(ししむ)・谷那(こくな)・東韓(とうかん)の地を奪われて、このため息子の直支(とき)を日本に派遣して、阿花王(あくえおう)の好(よしみ)を修交したと記す。
は「山へん」に見の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
(『日本書紀』応神(おうじん)天皇8年3月(西暦277年4月頃)は、安康(あんこう)天皇3年3月(西暦397年4月頃)が正しくて、干支(えと)の60年周期で、120年を足し算した。)
安康(あんこう)天皇4年4月(西暦398年5月頃)に弟(同母弟か異母弟か不明)の甘美内宿禰(うましうちのすくね)は、兄の4代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)を殺すため、天皇に讒言(ざんげん;事実を曲(ま)げて、嘘(うそ)をついて人を悪く言うこと)して、結果的に4代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)が勝って、弟が火傷(やけど)した。
  初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の父の屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)は、別名が甘美内宿禰(うましうちのすくね)だが、年代から考えて、4代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の弟が讒言(ざんげん)したと考えて間違いない。
  参考文献『正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』の謎』から竹内(たけうち)氏に伝わる探湯(くがたち)という神事は、魔法みたいな話だが決して火傷(やけど)しない方法があるらしくて、4代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)と弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)が決着した方法である。
(『日本書紀』応神(おうじん)天皇9年4月(西暦277年4月頃)は、安康(あんこう)天皇4年4月(西暦398年5月頃)が正しくて、干支(えと)の60年周期で、120年を足し算した。)
安康(あんこう)天皇5年1月(西暦399年2月頃)は、羽田矢代宿禰(はたやしろのすくね)に娘がいて、平群木莵宿禰(へぐりのつくのすくね)が高位の役職に就(つ)いた。
(『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇87年1月(西暦399年2月頃)は、安康(あんこう)天皇5年1月(西暦399年2月頃)が正しくて、年数が合致した。)
安康(あんこう)天皇5年(西暦399年)は、百済(くだら)が先年の誓いを破って、日本と外交して高句麗(こうくり)の好太王(こうたいおう)が百済(くだら)を討伐するため平壌(ピョンヤン)に出向いて、多くの倭人が新羅(しらぎ)に侵入して、王を日本の臣下としたので、新羅(しらぎ)の使いが高句麗(こうくり)王の救援を願い出て、好太王(こうたいおう)が救援することにした。
安康(あんこう)天皇6年(西暦400年)は、五万の大軍を派遣して、新羅(しらぎ)を救援して、新羅(しらぎ)の王都に一杯いた日本軍が退却したため、これを追って任那(みまな)・加羅(から)にせまったが、安羅(あら;韓国の威安(ハマン)群にある国)軍などが逆をついて、新羅(しらぎ)の王都を占領した。
(好太王碑(こうたいおうひ)の西暦399年は、安康(あんこう)天皇5年(西暦399年)で、西暦400年が安康(あんこう)天皇6年(西暦400年)で、年数が合致した。)
安康(あんこう)天皇7年1月4日(西暦401年2月上旬頃)は、平群木莵宿禰(へぐりのつくのすくね)と蘇我満智宿禰(そがのまちのすくね)と物部伊沸大連(もののべのいこふつのおおむらじ)と円大使主(つぶらのおおみ)らが共に国の政治にたずさわった。
は「草かんむり」に呂の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
(『日本書紀』履中(りちゅう)天皇2年1月4日(西暦401年2月上旬頃)は、安康(あんこう)天皇7年1月4日(西暦401年2月上旬頃)が正しくて、年数が合致した。)
安康(あんこう)天皇9年2月(西暦403年3月頃)は、百済(くだら)王が真毛津(まけつ)と言う名前の縫衣工女(きぬぬいおみな)を奉(たてまつ)って、この女性が今の来目衣縫(くめのきぬぬい)の先祖である。
(『日本書紀』応神(おうじん)天皇14年2月(西暦283年3月頃)は、安康(あんこう)天皇9年2月(西暦403年3月頃)が正しくて、干支(えと)の60年周期で、120年を足し算した。)
安康(あんこう)天皇9年(西暦403年)に皇太弟の雄略(ゆうりゃく)天皇は、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)の妻の吉備稚媛(きびのわかひめ)を強奪して、後に2人の皇子をもうけて、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)が新羅(しらぎ)に救援を求めて、大きな戦争になった。
(『日本書紀』雄略(ゆうりゃく)天皇7年(西暦463年)は、安康(あんこう)天皇9年(西暦403年)が正しくて、干支(えと)の60年周期で、60年を引き算した。)
安康(あんこう)天皇10年(404年)は、日本が帯方郡(たいほうぐん;現在の北朝鮮西南部かソウルの辺り:所在地不明)に侵入して来たので、高句麗(こうくり)がこれを討伐して大敗させた。
(好太王碑(こうたいおうひ)の西暦404年は、安康(あんこう)天皇10年(404年)で、年数が合致した。)
安康(あんこう)天皇10年8月6日(西暦404年9月上旬頃)は、百済(くだら)王が阿直岐(あちき)を派遣して、良馬二匹を献上して阿直岐(あちき)に世話をさせて、阿直岐(あちき)を皇太弟である雄略(ゆうりゃく)天皇の学問の師とした。
(『日本書紀』応神(おうじん)天皇15年8月6日(西暦284年9月上旬頃)は、安康(あんこう)天皇10年8月6日(西暦404年9月上旬頃)が正しくて、干支(えと)の60年周期で、120年を足し算した。)
安康(あんこう)天皇11年2月(西暦405年3月頃)は、王仁(わに)が来て、皇太弟の雄略(ゆうりゃく)天皇の師とされて、諸々の典籍を学んで、全てによく通達して、王仁(わに)が学者の一族の書首(ふみのおびと)の先祖である。
  この年に百済(くだら)の阿花王(あくえおう)は死去して、天皇が直支(とき;阿花王(あくえおう)の長男)を呼んで語って、「あなたは国に帰って、位につきなさい」と、よって東韓(これは甘羅城(かむらのさし)・高難城(こうなんのさし)・爾林城(にりんのさし)のこと)の地を賜わって遣わされて、国に戻って直支王(ときおう)として即位した。
  8月(9月頃)に平群木莵宿禰(へぐりのつくのすくね)と的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅(から)に派遣して、兵を集めて新羅(しらぎ)の国境にせまり、新羅(しらぎ)王がこれを恐れて逃げて、弓月(ゆづき)の民を連れて帰還した。
  安康(あんこう)天皇11年(西暦405年)は、百済(くだら)の阿花王(あくえおう)が死去して、かつて奪った東韓(甘羅城(かむらのさし)・高難城(こうなんのさし)・爾林城(にりんのさし)の地を返して、日本から帰国した直支王(ときおう)が即位した。
(『日本書紀』応神(おうじん)天皇16年(西暦285年)は、安康(あんこう)天皇11年(西暦405年)が正しくて、干支(えと)の60年周期で、120年を足し算した。)
安康(あんこう)天皇15年9月(西暦409年10月頃)は、倭漢直(やまとのあやのあたい)の先祖の阿直使主(あちのおみ)と子の都加使主(つかのおみ)が仲間を連れてやって来て、この親子が帰化人である。
(『日本書紀』応神(おうじん)天皇20年9月(西暦289年10月頃)は、安康(あんこう)天皇15年9月(西暦409年10月頃)が正しくて、干支(えと)の60年周期で、120年を足し算した。)
『晋書(しんしょ)』と『梁書(りょうしょ)』は、東晋(とうしん)王朝の義煕(ぎき)9年(西暦413年)に倭王(わおう;古代の日本王)の賛(さん)が東晋(とうしん)王朝に初めて遣使して、方物を献上したと記して、南朝宋王朝に遣使した倭王(わおう;古代の日本王)の讃(さん)と同一人物である。
倭(わ;古代日本)の五王は、5世紀初頭の西暦413年に初めて歴史に登場して、6世紀初頭の西暦502年に歴史から消えて、専門家(歴史学会)の定説が応神(おうじん)天皇から雄略(ゆうりゃく)天皇の7人の中にいると勘違いした。
その盛大な間違いは、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代が崇神(すじん)天皇で、4世紀前半が日本武尊(やまとたけのみこと)で、4世紀後半が神功(じんぐう)皇后の時代と勘違いして、超天才の僕が全てを正した。

安康(あんこう)天皇19年(西暦413年)に安康(あんこう)天皇は、東晋(とうしん)王朝に倭王(わおう;古代の日本王)の賛(さん)として、初めて遣使して、遣東晋使(けんとうしんし)で、遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語である。
(昔の歴史学会(歴史書解釈)の定説は、允恭(いんぎょう)天皇2年(西暦413年)が確実な間違いで、安康(あんこう)天皇19年(西暦413年)が正しくて、年数が合致した。)
安康(あんこう)天皇23年7月14日(西暦417年8月中旬頃)は、地震が起こって、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の孫・玉田宿禰(たまたのすくね)が登場する。
(『日本書紀』允恭(いんぎょう)天皇5年7月14日(西暦417年8月中旬頃)は、安康(あんこう)天皇23年7月14日(西暦417年8月中旬頃)が正しくて、年数が合致した。)
安康(あんこう)天皇23年9月(西暦417年10月頃)は、高句麗(こうくり)王が朝貢して、その表上文に「高句麗(こうくり)の王、日本国に教(おし)う」と書かれ、皇太子がその表上文を読んで怒り、表上文の書き方の無礼なことで、高句麗(こうくり)の使者を責めて、その表上文を破り捨てた。
(『日本書紀』応神(おうじん)天皇28年9月(西暦297年10月頃)は、安康(あんこう)天皇23年9月(西暦417年10月頃)が正しくて、干支(えと)の60年周期で、120年を足し算した。)
安康(あんこう)天皇26年8月(西暦420年9月頃)は、諸国から5百の船が献上されて、それが武庫(むこ)の港に集まり、その時に新羅(しらぎ)の調(みつぎ)の使者が武庫(むこ)にいて、そこから失火して多数の船が焼けて、新羅(しらぎ)の使者を責めて、新羅(しらぎ)王がこれを聞いて大いに驚き、すぐれた工匠(たくみ)を奉(たてまつ)って、これが猪名部(いなべ)らの先祖である。
(『日本書紀』応神(おうじん)天皇31年8月(西暦300年9月頃)は、安康(あんこう)天皇26年8月(西暦420年9月頃)が正しくて、干支(えと)の60年周期で、120年を足し算した。)
南朝宋(そう)王朝の永初(えいしょ)2年(西暦421年)に天子(宋(そう)王朝の武帝)が言うには、「倭王(わおう;古代の日本王)の讃(さん)が万里わざわざ貢物を収めた。遠方からの忠誠心をうまく表すため、官位を授け賜うだろう」と、これより南朝宋王朝と倭王(わ;古代日本)の五王の外交が開始された。
安康(あんこう)天皇27年(西暦421年)に安康(あんこう)天皇は、南朝宋(そう)王朝に倭王(わおう;古代の日本王)の讃(さん)として、初めて遣使して、遣宋使(けんそうし)で、遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語である。
(昔の歴史学会(歴史書解釈)の定説は、允恭(いんぎょう)天皇10年(西暦421年)が確実な間違いで、安康(あんこう)天皇26年(西暦421年)が正しくて、年数が合致した。)
南朝宋(そう)王朝の元嘉(げんか)2年(西暦425年)は、倭王(わおう;古代の日本王)の讃(さん)が司馬曹達(しばそうたつ)を派遣して、表上文を奉(たてまつ)って、地方の産物を献上した。
安康(あんこう)天皇31年(西暦425年)に安康(あんこう)天皇は、南朝宋(そう)王朝に倭王(わおう;古代の日本王)の讃(さん)として遣使して、遣宋使(けんそうし)である。
(昔の歴史学会(歴史書解釈)の定説は、允恭(いんぎょう)天皇14年(西暦425年)が確実な間違いで、安康(あんこう)天皇31年(西暦425年)が正しくて、年数が合致した。)
安康(あんこう)天皇33年8月(427年9月上旬頃)は、安康(あんこう)天皇の皇后の中蒂姫命(なかしひめのみこと)が履中(りちゅう)天皇の娘で、前の夫が仁徳(にんとく)天皇の息子の大草香皇子(おおくさかのみこ)で、その息子の眉輪王(まゆわのおおきみ)が連(つ)れ子(ご)で、安康(あんこう)天皇と母の会話で、眉輪王(まゆわのおおきみ)が父を殺されたと知った。
8月9日(9月上旬頃)に安康(あんこう)天皇は、父の仇(かたき)として、眉輪王(まゆわのおおきみ)に殺されて、55才で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、3年後(430年)に所在地不明の陵墓に葬礼した。
(『日本書紀』安康(あんこう)天皇3年8月(西暦456年9月)は、安康(あんこう)天皇33年8月9日(427年9月上旬頃)が正しい。
最大の古墳で、前方後円墳の大仙(だいせん)古墳は、5世紀前半から中頃の築造で、宮内庁指定の仁徳(にんとく)天皇陵だが、本当の埋葬者が不明で、『日本書紀』から大仙(だいせん)古墳が20年以上の築造期間と証明して、20年以上を在位した天皇が本当の埋葬者の可能性が高いと考えられる。
在位期間が20年以上の天皇は、安康(あんこう)天皇と清寧(せいねい)天皇で、僕の自論が安康(あんこう)天皇から顕宗(けんそう)天皇の4人が大仙(だいせん)古墳の本当の埋葬者候補で、仁徳(にんとく)天皇34年1月16日(西暦367年2月中旬頃)に仁徳(にんとく)天皇が亡くなって、安康(あんこう)天皇33年8月9日(427年9月上旬頃)に安康(あんこう)天皇が亡くなって、歴史学(歴史書解釈)から安康(あんこう)天皇陵の可能性が高い。
大阪府に皇居を置いたのは、応神(おうじん)天皇からでなく、安康(あんこう)天皇の頃からで、大阪府に存在する世界遺産の百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群に大仙(だいせん)古墳が含まれて、ギネス記録でない世界最大の面積の墓(はか)で、大仙(だいせん)古墳が宮内庁指定陵で発掘調査できず、周囲の古墳を発掘調査して、築造年代を特定して、安康(あんこう)天皇陵の公算が高い。)

安康(あんこう)天皇33年10月1日(西暦427年11月上旬頃)に安康(あんこう)天皇は、かつて従兄弟の磐坂市辺押羽皇子(いわさかいちのべおしわのみこ)に皇位を譲(ゆず)ろうとして、皇太弟の雄略(ゆうりゃく)天皇が磐坂市辺押羽皇子(いわさかいちのべおしわのみこ)を殺して、息子の顕宗(けんそう)天皇と仁賢(にんけん)天皇が行方(ゆくえ)をくらました。
(『日本書紀』安康(あんこう)天皇3年10月1日(西暦年456年11月上旬頃)は、安康(あんこう)天皇33年10月1日(西暦427年11月上旬頃)が正しくて、干支(えと)の60年周期で、60年を引き算した。)
雄略(ゆうりゃく)天皇元年11月13日(427年12月中旬頃)に雄略(ゆうりゃく)天皇は、役人に命じて、即位の場所を泊瀬朝倉(はつせのあさくら;皇居の場所)に設(もう)けて、10代目天皇に即位して、皇居を定めて、平群臣真鳥(へぐりのおみまとり)を大臣(おおおみ)で、大伴連室屋(おおとものむらじむろや)と物部連目(もののべのむらじめ)を大連(おおむらじ)とした。
(『日本書紀』安康(あんこう)天皇3年11月13日(427年12月中旬頃)は、雄略(ゆうりゃく)天皇元年11月13日(427年12月中旬頃)が正しくて、年数が合致した。)
倭王(わおう;古代の日本王)の讃(さん)は死んで、弟の珍(ちん)が即位して、血縁関係が正しかった。
倭王(わおう;古代の日本王)の讃(さん)の安康(あんこう)天皇は死去して、弟で倭王(わおう;古代の日本王)の珍(ちん)の雄略(ゆうりゃく)天皇が年代不明で、2回に渡って南朝宋(そう)王朝に遣使した。
  倭王(わおう)の讃(さん)の元嘉(げんか)2年(西暦425年)と倭王(わおう)の済(せい)の元嘉(げんか)20年(西暦443年)は、その間に倭王(わおう)の珍(ちん)が年代不明で遣使して、雄略(ゆうりゃく)天皇に当てはめさせないため、『ホツマツタエ』の邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の記述を利用して、倭(わ)の五王時代の年代もワザとずらした。
雄略(ゆうりゃく)天皇2年2月(西暦428年3月頃)は、百済(くだら)の比有王(ひゆうおう)が妹の新斉津媛(しせつひめ)を派遣して仕えさせて、新斉津媛(しせつひめ)が7人の女を連れて来た。
(『日本書紀』応神(おうじん)天皇39年2月(西暦308年3月頃)は、雄略(ゆうりゃく)天皇2年2月(西暦428年3月頃)が正しくて、干支(えと)の60年周期で、120年を足し算した。)
雄略(ゆうりゃく)天皇3年7月1日(西暦429年9月上旬頃)に雄略(ゆうりゃく)天皇は、病気になって、命じて賞(しょう)と罰(ばつ)と掟(おきて)など事が大小となく、皇太子の清寧(せいねい)天皇にゆだねた。
(『日本書紀』雄略(ゆうりゃく)天皇23年7月1日(西暦479年8月上旬頃)は、雄略(ゆうりゃく)天皇3年7月1日(西暦429年9月上旬頃)が正しくて、干支(えと)の60年周期で、60年を引き算した。)
雄略(ゆうりゃく)天皇3年8月7日(西暦429年9月上旬頃)に雄略(ゆうりゃく)天皇は、病(やまい)がいよいよ重くて、百官と別れの言葉を述べて、手を握(にぎ)って歎(なげ)いて、大殿で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
(『古事記』の雄略(ゆうりゃく)天皇の崩年干支(ほうねんかんし)は、己巳(つちのとみ)年(雄略(ゆうりゃく)天皇23年)8月7日(西暦489年9月上旬頃)に亡くなって、干支(えと)の60年周期で引き算して、雄略(ゆうりゃく)天皇3年8月7日(西暦429年9月上旬頃)の死去が正しい。)
清寧(せいねい)天皇元年1月15日(西暦430年2月中旬頃)に清寧(せいねい)天皇は、役人に命じて、檀場(たかみくら)を磐余(いわれ)の甕栗(みかくり)に設(もう)けて、即位式をして、11代目天皇に即位して、皇居を定めた。
(『日本書紀』清寧(せいねい)天皇元年1月15日(西暦480年2月頃)は、清寧(せいねい)天皇元年1月15日(西暦430年2月中旬頃)が正しい。)
倭王(わおう;古代の日本王)の珍(ちん)は死んで、息子の済(せい)が即位して、血縁関係が正しかった。
倭王(わおう;古代の日本王)の珍(ちん)の雄略(ゆうりゃく)天皇は死んで、息子で倭王(わおう;古代の日本王)の済(せい)の清寧(せいねい)天皇が即位して、珍(ちん)と済(せい)の血縁関係を記さない。
清寧(せいねい)天皇14年(西暦443年)は、新羅(しらぎ)が朝貢して、使者を工事に使った。
(『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇11年(西暦323年)は、清寧(せいねい)天皇14年(西暦443年)が正しくて、干支(えと)の60年周期で、120年を足し算した。)
南朝宋(そう)王朝の元嘉(げんか)20年(西暦443年)は、倭王(わおう;古代の日本王)の済(せい)が使者を派遣して朝貢して、南朝宋王朝の皇帝が安東将軍・倭国王に任命した。
清寧(せいねい)天皇14年(西暦443年)に清寧(せいねい)天皇は、南朝宋(そう)王朝に倭王(わおう)の済(せい)として遣使して、遣宋使(けんそうし)である。
(昔の歴史学会(歴史書解釈)の定説は、允恭(いんぎょう)天皇32年(西暦443年)が確実な間違いで、清寧(せいねい)天皇14年(西暦443年)が正しくて、年数が合致した。)
清寧(せいねい)天皇21年7月3日(西暦449年)は、新羅(しらぎ)が朝貢せず、9月(10月頃)に的砥田宿禰(いくはのとだのすくね)と賢遺臣(さかのこりのおみ)を派遣して、朝貢しなかったことを詰問(きつもん)して、新羅(しらぎ)が恐れて貢(みつぎ)を届けた。
(『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇17年(西暦329年)は、清寧(せいねい)天皇20年(西暦449年)が正しくて、干支(えと)の60年周期で、120年を足し算した。)
清寧(せいねい)天皇21年頃(西暦450年頃)に武烈(ぶれつ)天皇は生まれて、武烈(ぶれつ)天皇の実年齢から逆算した。
南朝宋(そう)王朝の元嘉(げんか)28年(西暦451年)は、倭王(わおう;古代の日本王)の済(せい)を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加えて、安東将軍を元のままにして、並びたてまつる二十三人を軍郡に任命した。
清寧(せいねい)天皇22年(西暦451年)に清寧(せいねい)天皇は、南朝宋(そう)王朝に倭王(わおう;古代の日本王)の済(せい)として遣使して、遣宋使(けんそうし)である。
(昔の歴史学会(歴史書解釈)の定説は、允恭(いんぎょう)天皇40年(西暦451年)が確実な間違いで、清寧(せいねい)天皇22年(西暦451年)が正しくて、年数が合致した。)
清寧(せいねい)天皇25年11月(西暦454年12月頃)に履中(りちゅう)天皇の孫の顕宗(けんそう)天皇と仁賢(にんけん)天皇は見つかって、子供のいない清寧(せいねい)天皇が喜んだ。
(『日本書紀』清寧(せいねい)天皇2年11月(西暦481年12月頃)は、清寧(せいねい)天皇25年11月(西暦454年12月頃)が正しい。)
清寧(せいねい)天皇26年1月1日(西暦455年2月上旬頃)に顕宗(けんそう)天皇は、兄の仁賢(にんけん)天皇に従って、摂津国(せっつのくに;大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)に行って、臣(おみ)と連(むらじ)が節刀(しるしかたな)をささげて、王(みこ)の青蓋車(みくるま)に乗って、宮中に入った。
(『日本書紀』清寧(せいねい)天皇3年1月1日(西暦482年2月上旬頃)は、清寧(せいねい)天皇26年1月1日(西暦455年2月上旬頃)が正しい。)
清寧(せいねい)天皇26年4月7日(西暦455年5月上旬頃)に仁賢(にんけん)天皇は皇太子で、顕宗(けんそう)天皇を皇子にした。
(『日本書紀』清寧(せいねい)天皇3年4月7日(西暦482年5月上旬頃)は、清寧(せいねい)天皇26年4月7日(西暦455年5月上旬頃)が正しい。)
清寧(せいねい)天皇27年11月13日(西暦456年12月中旬頃)は、8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群臣真鳥(へぐりのおみまとり)を大臣として、大伴連室屋(おおとものむらじむろや)と物部連目(もののべのむらじめ)を大連(おおむらじ)とした。
(『日本書紀』安康(あんこう)天皇3年11月13日(西暦396年12月中旬頃)は、清寧(せいねい)天皇27年11月13日(西暦456年12月中旬頃)が正しくて、干支(えと)の60年周期で、60年を足し算した。)
清寧(せいねい)天皇28年1月16日(西暦457年2月中旬頃)に清寧(せいねい)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、年が明確でなくて、崩御(ほうぎょ)念を偽装工作したから正しい。
(『日本書紀』清寧(せいねい)天皇5年1月16日(西暦484年2月中旬頃)は間違いで、雄略(ゆうりゃく)天皇の即位年干支法(そくいねんかんしほう)が丁酉(ひのととり)の西暦457年で、清寧(せいねい)天皇28年1月16日(西暦457年2月中旬頃)が正しくて、年数が合致した。)
清寧(せいねい)天皇28年1月中(西暦457年2月頃)に顕宗(けんそう)天皇と仁賢(にんけん)天皇は、天皇を譲(ゆず)り合って即位しなくて、同母姉(同母妹)の飯豊女王(いいとよひめのみこ)が政治をして、自(みずか)らを忍海飯豊青尊(おしぬみいいとよあおのみこと)と尊称(そんしょう)して、11月(12月頃)に崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
  飯豊女王(いいとよひめのみこ)は、顕宗(けんそう)天皇の同母姉(同母妹)で、年齢不明の女性皇族として政治して、崩御(ほうぎょ)が女系天皇と女性天皇の根拠で、女系男子天皇を応援する理由でもある。
(『日本書紀』清寧(せいねい)天皇5年(西暦484年2月頃)は、清寧(せいねい)天皇28年(西暦457年2月頃)が正しい。)
顕宗(けんそう)天皇元年1月1日(西暦458年1月上旬頃)に顕宗(けんそう)天皇は、公卿(くぎょう)百官を近(ちか)つ飛鳥(あすか)の八釣宮(やつりのみや)に召(め)して、12代目天皇に即位した。
(『日本書紀』顕宗(けんそう)天皇元年1月1日(西暦485年1月上旬頃)は、顕宗(けんそう)天皇元年1月1日(西暦458年1月上旬頃)が正しくて、西暦485年と西暦458年の数字が合致した。)
倭王(わおう;古代の日本王)の済(せい)は死んで、世継ぎの興(こう)が即位して、専門家(学会)が誰か特定できなかった。
倭王(わおう;古代の日本王)の済(せい)の清寧(せいねい)天皇は、血縁断絶して、世子(せいし;世継ぎ)の興(こう)の顕宗(けんそう)天皇が跡継ぎで、年代不明で遣使した。
顕宗(けんそう)天皇2年7月(西暦459年8月頃)は、百済(くだら)の池津媛(いけつひめ)を宮中に入れようとしたが、石川楯(いしかわのたて)と通じていたことに天皇が大いに怒って、大伴室屋大連(おおとものむろやのおおむらじ)に命じて来目部(くめべ)を使って、池津媛(いけつひめ)と石川楯(いしかわのたて)の夫婦を焼き殺した。
(『日本書紀』雄略(ゆうりゃく)天皇2年7月(西暦459年8月頃)は、顕宗(けんそう)天皇2年7月(西暦459年8月頃)が正しくて、年数が合致した。)
南朝宋(そう)王朝の大明(たいめい)6年(西暦462年)は、倭王(わおう;古代の日本王)の興(こう)に爵号を授(さず)けて、安東将軍・倭国王にしてほしいと求めた。
顕宗(けんそう)天皇5年(西暦462年)に顕宗(けんそう)天皇は、南朝宋(そう)王朝に倭王(わおう;古代の日本王)の興(こう)として遣使して、遣宋使(けんそうし)である。
(昔の歴史学会(歴史書解釈)の定説は、雄略(ゆうりゃく)天皇6年(西暦462年)が確実な間違いで、顕宗(けんそう)天皇5年(西暦462年)が正しくて、年数が合致した。)
顕宗(けんそう)天皇5年4月(西暦462年5月頃)は、百済(くだら)の蓋鹵王(こうろおう)が池津媛(いけつひめ)の焼死を人づてに聞いて、議(はか)って今後に女を貢(みつ)いではならないとして、弟の軍君(こにきし)に日本に行って天皇に仕えろと告げた。
  軍君(こにきし)は、君の婦(みめ)を賜わってから派遣してほしいと願い出て、蓋鹵王(こうろおう)が孕(はら)んだ婦を軍君(こにきし)に与えて、共に天皇の元に派遣した。
  6月1日(7月上旬頃)に身ごもった女が佐賀県の加羅島(かからじま)で出産して、その子を嶋王(せまきし)と言い、軍君(こにきし)が一つの船に母子を乗せて国に送り、これが武寧王(ぶねいおう)で、百済(くだら)が加羅島(かからじま)を主島(にりむせま)と呼んで、7月(8月頃)に軍君(こにきし)が朝廷に入って、すでに5人の子があった。
(『日本書紀』雄略(ゆうりゃく)天皇6年(西暦462年)は、顕宗(けんそう)天皇5年(西暦462年)が正しくて、年数が合致した。)
顕宗(けんそう)天皇6年8月(西暦463年9月頃)に顕宗(けんそう)天皇は、物部(もののべ)の兵士(物部(もののべ)氏の兵士か軍事組織(物部)の兵士か不明)30人を派遣して、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)と同族の70人を殺した。
  岡山県は、考古学的に見て、5世紀前半に最盛期を迎えて、全国で4位の巨大古墳で5世紀前半頃築造の岡山市の造山(つくりやま)古墳、全国で10位の巨大古墳で5世紀中頃築造の岡山県総社市の作山(つくりやま)古墳などを作って、吉備(きび)氏の有力者の古墳と考えられる。
  5世紀後半は、吉備の3つの地域で中小規模の古墳の築造が主流になって、西暦463年の吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)の討伐で、吉備氏の勢力が衰退した時期と合致した。
(『日本書紀』雄略(ゆうりゃく)天皇7年(西暦463年9月頃)は、顕宗(けんそう)天皇6年(西暦403年)が正しくて、年数が合致した。)
顕宗(けんそう)天皇7年2月(西暦464年3月頃)は、身狭村主青(むさのすぐりあお)と桧隅民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を呉(くれ)の国に派遣して、この年まで新羅(しらぎ)が貢物を奉らないことが8年に及び、天皇の怒りを恐れて好(よしみ)を高句麗(こうくり)に求めて、そのため高句麗(こうくり)の王が精兵百人を送って、新羅(しらぎ)を守らせた。
(『日本書紀』雄略(ゆうりゃく)天皇8年2月(西暦464年3月頃)は、顕宗(けんそう)天皇7年2月(西暦464年3月頃)が正しくて、年数が合致した。)
顕宗(けんそう)天皇8年2月3月(西暦465年4月頃)は、天皇は自ら新羅(しらぎ)を討とうと思ったが、神に戒(いまし)められて行かず、そこで紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)と蘇我韓子宿禰(そがのからこのすくね)と大伴談連(おおとものかたりのむらじ)と小鹿火宿禰(おかひのすくね)の4人を大将として、新羅(しらぎ)討伐を命じた。
(『日本書紀』雄略(ゆうりゃく)天皇9年3月(西暦465年4月頃)は、顕宗(けんそう)天皇8年3月(西暦465年4月頃)が正しくて、年数が合致した。)
顕宗(けんそう)天皇10年7月(西暦467年8月頃)は、新羅(しらぎ)か呉(くれ)から人が逃げてきた者が貴信(くいしん)と名乗って、磐余(いわれ)の呉(くれ)の琴弾(ことひき)の坂手屋形麻呂(さかてのやかたまろ)らがその子孫で、坂手屋形麻呂(さかてのやかたまろ)が有名な楽師である。
(『日本書紀』雄略(ゆうりゃく)天皇11年7月(西暦467年8月頃)は、顕宗(けんそう)天皇10年7月(西暦467年8月頃)が正しくて、年数が合致した。)
顕宗(けんそう)天皇14年4月25日(西暦471年5月下旬頃)に顕宗(けんそう)天皇は、皇居の近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)で、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
(顕宗(けんそう)天皇5年4月25日(西暦487年5月下旬頃)は、顕宗(けんそう)天皇14年4月25日(西暦471年5月下旬頃)が正しい。)
仁賢(にんけん)天皇元年1月15日(西暦472年2月中旬頃)に仁賢(にんけん)天皇は、皇居の石上広高宮(いそのかみひろたかのみや)で、13代目天皇に即位した。
(仲哀(ちゅうあい)天皇の崩年干支(ほうねんかんし)は、壬戌(みずのえいぬ)年6月1日だが、仁賢(にんけん)天皇元年(壬戌;みずのえいぬ)1月15日(西暦472年2月中旬頃)に即位した。)
仁賢(にんけん)天皇3年8月8日(西暦474年9月上旬頃)に仁賢(にんけん)天皇は、正寝(おおとの)で、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
(『日本書紀』仁賢(にんけん)天皇11年8月8日(西暦497年9月上旬頃)は、仁賢(にんけん)天皇3年8月8日(西暦474年9月上旬頃)が正しい。)
倭王(わおう;古代の日本王)の興(こう)は死んで、弟の武(ぶ)が即位して、専門家(歴史学会)が誰か特定できなかった。
倭王(わおう;古代の日本王)の興(こう)の顕宗(けんそう)天皇は死んで、甥(おい)で倭王(わおう;古代の日本王)の武(ぶ)の武烈(ぶれつ)天皇が即位した。
武烈(ぶれつ)天皇元年12月(西暦475年1月頃)に武烈(ぶれつ)天皇は、役人に言って、高御倉(たかみくら)を泊瀬列城(しらせなみき;皇居の場所)に設(もう)けて、14代目天皇に即位して、皇居を定めて、この日に大伴金村連(おおとものかねむらのむらじ)を大連(おおむらじ)とした。
(成務(せいむ)天皇の崩年干支(ほうねんかんし)は、乙卯(きのとう)年3月15日だが、武烈天皇(ぶれつ)元年(乙卯;きのとう)12月(西暦475年1月上旬頃)に即位して、『日本書紀』武烈天皇(ぶれつ)元年12月(西暦498年1月頃)を否定した。)
武烈(ぶれつ)天皇3年(西暦476年)の冬は、高句麗(こうくり)王が大軍をもって攻めて、百済(くだら)を滅ぼして、その時に少しばかりの百済(くだら)の生き残りが倉下(へすおと)に集まり、食料も尽き憂(うれ)え泣くのみだった。
(『日本書紀』雄略天皇20年(西暦476年)の冬は、武烈(ぶれつ)天皇3年(西暦476年)が正しくて、年数が合致した。)
武烈(ぶれつ)天皇3年3月(西暦477年4月頃)は、武烈(ぶれつ)天皇が高句麗(こうくり)に百済(くだら)が敗れたと聞いて、武将の久麻那利(こむなり)を百済(くだら)の州王(もんすおう)に与えて、その国を救い興(おこ)した。
(『日本書紀』雄略天皇21年3月(西暦477年4月頃)は、武烈(ぶれつ)天皇4年3月(西暦477年4月頃)が正しくて、年数が合致した。)
は「さんずいへん」に文の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
南朝宋(そう)王朝と南朝斉(せい)王朝と南朝梁(りょう)王朝は、倭王(わおう;古代の日本王)の武(ぶ)が共通で遣使して、在位期間32年の武烈(ぶれつ)天皇と僕が証明した。
南朝宋王朝の昇明(しょうめい)2年(西暦478年)は、倭王(わおう)の武(ぶ)が使者を派遣して表上書を奉(たてまつ)って、南朝宋王朝の皇帝が使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王とした。

武烈(ぶれつ)天皇4年(西暦478年)に武烈(ぶれつ)天皇は、南朝宋(そう)王朝の昇明2年に倭王(わおう)の武(ぶ)として、最後に遣使した遣宋使(けんそうし)である。
(昔の歴史学会(歴史書解釈)の定説は、雄略(ゆうりゃく)天皇22年(西暦478年)が確実な間違いで、武烈(ぶれつ)天皇4年(西暦478年)が正しくて、年数が合致した。)
南朝斉(せい)王朝の建元(けんげん)元年(西暦479年)は、倭王(わおう;古代の日本王)の武(ぶ)に新たに進めて、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王「武」で、鎮東大将軍とした。
武烈(ぶれつ)天皇5年(西暦479年)に武烈(ぶれつ)天皇は、南朝斉(せい)王朝に倭王(わおう;古代の日本王)の武(ぶ)として、初めて遣使して、遣斉使(けんせいし)で、遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語である。
(昔の歴史学会(歴史書解釈)の定説は、雄略(ゆうりゃく)天皇23年(西暦479年)が確実な間違いで、武烈(ぶれつ)天皇5年(西暦479年)が正しくて、年数が合致した。)
武烈(ぶれつ)天皇6年1月15日(西暦480年2月中旬頃)は、大伴室屋大連(おおとものむろやのおおむらじ)を大連(おおむらじ)の役目で、平群真鳥大臣(へぐりのまとりのおおおみ)を大臣(おおおみ)の役目とした。
(『日本書紀』清寧(せいねい)天皇元年1月15日(西暦480年2月中旬頃)は、武烈(ぶれつ)天皇6年1月15日(西暦480年2月中旬頃)が正しくて、年数が合致した。)
武烈(ぶれつ)天皇16年10月(西暦490年11月頃)は、呉(くれ)国と高句麗(こうくり)国が朝貢した。
(『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇58年10月(西暦470年11月頃)は、武烈(ぶれつ)天皇16年10月(西暦490年11月頃)が正しくて、干支(えと)の60年周期で、120年を足し算した。)
武烈(ぶれつ)天皇25年8月(西暦498年9月頃)に大臣の平群鳥臣(へぐりのまとり)は、天皇になり替わろうと反乱して、息子の鮪臣(しびのおみ)が奈良山(奈良盆地の北にある丘陵)で殺されて、12月(西暦499年1月頃)に平群真鳥(へぐりのまとり)も殺されて、討伐した大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)を大連(おおむらじ)にした。
  平群真鳥(へぐりのまとり)は、8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の竹内真鳥(たけうちのまとり)で、その息子の鮪臣(しびのおみ)が竹内志昆(たけうちのしび)だが、9代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)か分からなくて、平群真鳥(へぐりのまとり)の失脚で、竹内(たけうち)氏が没落した。
  竹内(たけうち)氏の復権は、竹内志昆(たけうちのしび)の曾孫で、13代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群臣神手(へぐりおみのかみて)で、またの名を竹内塩手(たけうちのしおて)が物部守屋(もののべのもりや)を討伐した時である。
  平群(へぐり)氏は、本拠地が奈良県生駒郡(いこまぐん)平群町(へぐりちょう)で、歴代の武内宿禰(たけのうちのすくね)として隆盛したが、平群真鳥(へぐりのまとり)の失脚で、一族の衰退をまねいた。
  景行(けいこう)天皇の曾孫の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、子孫の8代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の平群真鳥(へぐりのまとり)が天皇になろうと反乱して戦死して、皇室の遠縁だが天皇になれるはずで、皇室の遠縁の継体(けいたい)天皇が即位できる理由である。
平群真鳥(へぐりのまとり)の失脚は、『日本書紀』に300年近く武内宿禰(たけのうちのすくね)の名前を記して、竹内(たけうち)氏が武内宿禰(たけのうちのすくね)の名前を襲名し続けた証拠と考えられる。
(『日本書紀』仁賢(にんけん)天皇11年(西暦498年)は、武烈(ぶれつ)天皇25年(西暦498年)が正しくて、年数が合致した。)
武烈(ぶれつ)天皇27年11月(西暦501年12月頃)は、百済(くだら)の意多郎王(おたらおう)が亡くなって、高田の岡の上に葬礼して、どこの古墳か分からない。
(『日本書紀』武烈天皇3年11月(西暦501年12月頃)は、武烈(ぶれつ)天皇28年11月(西暦501年12月頃)が正しくて、年数が合致した。) 南朝梁(りょう)王朝の天監(てんかん)元年は、倭王(わおう;古代の日本王)の武(ぶ)として、初めて遣使して、これで倭(わ;古代日本)の五王が歴史から消えた。
武烈(ぶれつ)天皇29年(西暦502年)に武烈(ぶれつ)天皇は、南朝梁(りょう)王朝に倭王(わおう)の武(ぶ)として、初めて遣使して、遣梁使(けんりょうし)で、遣隋使や遣唐使に基づいた僕の造語である。
(昔の歴史学会(歴史書解釈)の定説は、武烈(ぶれつ)天皇4年(西暦502年)が確実な間違いで、武烈(ぶれつ)天皇29年(西暦502年)が正しくて、年数が合致した。)
武烈(ぶれつ)天皇29年(西暦502年)は、百済(くだら)の東城王(とうせいおう)が無道を行なって民を苦しめて、国人がついに王を捨てて、嶋王(せまきし)を立てて、これが武寧王(ぶねいおう)である。
(『日本書紀』武烈(ぶれつ)天皇4年2月(西暦502年)は、武烈(ぶれつ)天皇29年2月(西暦502年3月頃)が正しくて、年数が合致した。)
武烈(ぶれつ)天皇33年12月8日(西暦507年1月上旬頃)に武烈(ぶれつ)天皇は、皇居の泊瀬列城宮(しらせなみきのみや)で、56才か57才で、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
  武烈(ぶれつ)天皇の年齢は、他書に数え年で、18才や57才や58才と記して、在位期間が武烈(ぶれつ)天皇元年(498年)から武烈(ぶれつ)天皇8年(506年)で、父の仁賢(にんけん)天皇が他書に50才や51才で、在位期間が仁賢(にんけん)天皇元年(488年)から仁賢(にんけん)天皇8年(497年)で、計算が正しいと思い込む。
  そして専門家(歴史学会)は、最後の倭王(わおう;古代の日本王)の武(ぶ)を雄略(ゆうりゃく)天皇で、西暦478年まで生きて、『日本書紀』の武烈(ぶれつ)天皇が実年齢17才で亡くなって、父の仁賢(にんけん)天皇が実年齢49才か50才で、亡くなったと計算した。
  専門家(歴史学会)は、西暦507年1月頃に武烈(ぶれつ)天皇が実年齢17才で亡くなって、継体(けいたい)天皇元年3月5日(西暦507年4月上旬頃)に実姉の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が実年齢20代で皇后になって、継体(けいたい)天皇3年(西暦509年)に欽明(きんめい)天皇を生んで、欽明(きんめい)天皇32年4月15日(571年5月下旬頃)に欽明(きんめい)天皇が62才ほどで、亡くなったと計算した。
  しかし歴史書の数え年は、本当か嘘(うそ)かを即位年干支法(そくいねんかんしほう)と崩年干支(ほうねんかんし)で、うまく偽装工作して、混乱させるために作ったが、超天才の僕が打ち破った。
(『日本書紀』武烈(ぶれつ)天皇8年12月8日(西暦507年1月上旬頃)は、武烈(ぶれつ)天皇33年12月8日(西暦507年1月上旬頃)が正しくて、年数が合致した。)
継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月上旬頃)に継体(けいたい)天皇は、新しい血筋の15代目天皇に即位して、尾張連草香(おわりむらじのくさか)の娘の目古媛(めこひめ)が安閑天皇(あんかん)と宣化(せんか)天皇を生んで、尾張(おわり)氏が彦坐王(ひこいますのみこ)を始祖とする古代太陽神氏族だから、天皇になれたと考えられる。
  神功(じんぐう)皇后の9世孫から11世孫ぐらいの継体(けいたい)天皇は、神功(じんぐう)皇后の息子である誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)の息子が稚野毛二派皇子(わきのけふたまたのみこ)で、系図が飛んで、彦主人王(ひこうしのみこ)の息子が継体(けいたい)天皇で、ここまでの系図の信憑性(しんぴょうせい)が高いと考えられる。
  仲哀(ちゅうあい)天皇の4世孫の倭彦王(やまとひこのみこ)は、正しく分析したら9世孫から11世孫くらいで、継体(けいたい)天皇の即位に遠縁が問題ない理由と考えられて、継体(けいたい)天皇の前に次代の天皇の候補になったが、行方(ゆくえ)をくらませた。
  皇室の遠縁の継体(けいたい)天皇は、確実に皇室の血筋で、皇祖神(こうそしん;天皇家の祖先神)で母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の直系子孫で、女系男子天皇の根拠だからで、皇室の遠縁の倭彦王(やまとひこのみこ)と平群真鳥(へぐりのまとり)と共に次代の天皇候補になった。
武烈(ぶれつ)天皇32年12月8日(西暦507年1月上旬頃)に武烈(ぶれつ)天皇は56才か57才で亡くなって、継体(けいたい)天皇元年3月5日(西暦507年4月上旬頃)に武烈(ぶれつ)天皇の実姉の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が60才以上で皇后になって、もっと若い頃に継体(けいたい)天皇の妻になって、欽明(きんめい)天皇を生んだことになる。
  継体(けいたい)天皇は、母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)の直系子孫だから女系男子天皇で、先代の武烈(ぶれつ)天皇の実姉である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后にして、この2つの理由で即位したと考えられる。
継体(けいたい)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)は、ある本が継体(けいたい)天皇28年(西暦534年)で、継体(けいたい)天皇25年2月(531年3月頃)に病(やまい)が重くなって、2月7日(531年3月上旬頃)に数え年82才で崩御(ほうぎょ)したと言う。
  『百済本記(くだらほんき)』は、辛亥(かのとい)の継体(けいたい)天皇25年(531年)に崩御(ほうぎょ)で、また聞く所によると、日本の天皇とおよび皇太子と皇子が皆死んで、継体(けいたい)天皇と皇太子の安閑(あんかん)天皇と皇子の宣化(せんか)天皇が皆死んで、欽明(きんめい)天皇が残されたと解釈できて、「記紀」の信頼性に問題があって、僕でも解明できない。
  政変が起きて欽明(きんめい)天皇以外は、全員殺害された可能性、安閑(あんかん)天皇と宣化(せんか)天皇が欽明(きんめい)天皇と対立して殺害した可能性などが考えられて、信憑性(しんぴょうせい)が薄(うす)くて信頼できない。
  継体(けいたい)天皇は、清寧(せいねい)天皇21年頃(西暦450年頃)に生まれて、継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月上旬頃)に新しい血筋の15代目天皇に即位して、継体(けいたい)天皇25年2月7日(531年3月上旬頃)に実年齢81才で亡くなった。
  継体(けいたい)天皇の享年(きょうねん)は、『日本書紀』が数え年82才で、『古事記』が数え年43才で、実年齢42才が武烈(ぶれつ)天皇15年頃(西暦489年頃)生まれの計算間違いで、実年齢81才で亡くなって、西暦470年代か480年代に息子の欽明(きんめい)天皇が生まれたと証明した。
武烈(ぶれつ)天皇32年12月8日(西暦507年1月上旬頃)に武烈(ぶれつ)天皇は56才か57才で亡くなって、武烈(ぶれつ)天皇の実姉の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が60才以上で皇后になって、欽明(きんめい)天皇32年4月15日(西暦571年5月中旬頃)に欽明(きんめい)天皇が亡くなって、逆算して享年(きょうねん)が90才から100才くらいと考えられる。
日本最古の書物『ホツマツタエ』は、6世紀前半の西暦525年にヨーロッパで西暦年ができて、7世紀までに西暦年を組み込んで完成して、8世紀初頭の712年に『古事記』を献上して、720年に『日本書紀』を献上したとするが、『古事記』と『日本書紀』を同時の720年に献上した可能性もある。
  漢字以前の古代文字のホツマ文字は、歴史学(歴史書解釈)から6世紀から7世紀頃の文字で、それ以上を遡(さかのぼ)ることが不可能で、神代(しんだい)文字の研究が未知数である。   『ホツマツタエ』は、文章を本にして残したから間違いがなかなか見つからなくて、「記紀」が口伝(くでん;言葉で伝えること)を文章にして製本したために間違いが多くて、製作段階で決定的に違ったと考えられて、漢字以前の古代文字である神代(しんだい)文字のホツマ文字で記して、非常に重要である。
  『ホツマツタエ』と「記紀」は、日本神話で伊弉諾尊(いざなぎのみこと;垂仁(すいにん)天皇を神格化)を最初の神様にして、皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で初代の神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇を祖先化)を作って、応神(おうじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇を初代天皇に見立てたりして、実在の初代天皇を混乱させて、求められないように偽装工作した。


西暦720年は、『日本書紀』を献上して、2020年が1300年目で、『古事記』を708年に献上したが、即位年干支法(そくいねんかんしほう)と崩年干支(ほうねんかんし)の関係から、720年に『日本書紀』と『古事記』を同時に献上した可能性が高い。
73代目・武内宿禰(たけのうちのすくね)の竹内睦泰(たけうちむつひろ)氏は、2020年1月13日に亡くなって、景行(けいこう)天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)生まれの初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が子孫の竹内(たけうち)氏に歴代の武内宿禰(たけのうちのすくね)の人名を襲名し続けたと証明できる。
2022年4月頃(崇神(すじん)天皇39年3月3日)は、第2の元伊勢を京都府宮津市の元伊勢籠(この)神社の奥宮である真名井(まない)神社に遷宮して、9月頃(8月18日)に瑞籬(みずがき;石の祭壇)を作って、場所が判明した最古の元伊勢で、2022年が遷宮1900年目である。
2022年4月8日は、聖徳太子が622年4月8日(7世紀前半)に亡くなって、1400年目だった。
2024年は、天皇家誕生(日本の建国)1940年目で、西暦84年から507年1月上旬頃まで14人の天皇で、507年3月上旬頃に即位した継体(けいたい)天皇から今上(きんじょう)天皇(今の天皇陛下)まで101人の天皇で、計115人の天皇である。
皇室の戸籍簿で初代天皇の神武(じんむ)天皇から今上(きんじょう)天皇までの126人の天皇は、論理的根拠から神武(じんむ)天皇と欠史(けっし)八代の8天皇と成務(せいむ)天皇(日本武(やまとたけ)天皇)と誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)の計11人を歴代天皇から外(はず)して、計115人の天皇が正しい。
僕が求めた母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、女系男子天皇の根拠で、皇位継承問題の女系天皇や女性天皇や女性宮家を解決する「きっかけ」になって、神功(じんぐう)皇后と飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)の2人を女性天皇に認定すべきと助言する。
天皇家の故郷(ふるさと)は、西暦84年(日本の建国)から260年頃まで奈良県で、263年から329年まで宮崎県で、334年から4世紀末まで奈良県のはずで、5世紀が大阪府で、6世紀から784年まで奈良県の平城京などを首都で、784年に京都府の長岡京を首都にして、794年に京都市の平安京を首都にして、1869年まで京都市を千年以上も首都で、1869年4月から元江戸城を皇居として、4つの都府県を首都にしたと考えられて、細(こま)かく求めない。
3年後の2027年10月頃は、『ホツマツタエ』から伊勢神宮の内宮と外宮が垂仁(すいにん)天皇26年9月16日と17日(西暦177年10月頃)に遷宮してから、1850年目と証明して、盛大な祭りを計画すべきである。

<参考文献>
『完訳秀真伝』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
編訳者・石原道博 発行・株式会社岩波書店
『出雲国風土記と古代遺跡』
著者・勝部昭 発行・株式会社山川出版社
『卑弥呼の居場所 狗邪韓国から大和へ』
著者・高橋徹 発行・日本放送出版協会
『出雲大社の暗号』
著者・関裕二 発行・株式会社講談社
『完全制覇 古代大和朝廷の謎』
著者・関裕二 発行・株式会社立風書房
『出雲大社と千家氏の秘密』
著者・中見利夫 発行・株式会社宝島社
『三輪山の考古学』
発行・株式会社学生社
『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』
発行・株式会社洋泉社
『正統『竹内文書』の謎』
著者・竹内睦泰 発行・株式会社学研パブリッシング
インターネットの不明サイトから少々拝借

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