古代天皇家の年表


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

西暦80年代初めに大阪府から奈良県に古代天皇家(謎の民族)が侵攻
崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に初代の崇神天皇が即位で、日本の建国で天皇家誕生
  崇神天皇を始源神の天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)に神格化
  大阪府で弥生時代中期の大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増する。
  崇神天皇の命令で支配下に置いた土地を整備したのか?
  兵庫県淡路市の舟木遺跡と五斗長垣内遺跡は弥生時代後期初頭から始まる遺跡で、古代天皇家が鉄器生産をした根拠になると考えられる。
崇神天皇6年9月16日(西暦89年10月中旬頃)に日本最古の神社の大和(おおやまと)神社を創建
  最古の元伊勢の笠縫邑(かさぬいむら)は所在地不明
崇神天皇11年4月13日(西暦94年5月中旬頃)に彦坐王(ひこいますのみこ)が丹波(たには;古代の京都府北中部)の平定を報告
  彦坐王を古代太陽神の天火明命(あめのほあかりのみこと)に神格化
  京都府北部と兵庫県北部にかけて弥生時代中期の大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増する。
  崇神天皇の命令で支配下に置いた土地を整備したのか?
  京都府北部で弥生時代後期の鉄器が大量出土して、古代天皇家が鉄器生産をした可能性が高い。
1世紀末〜2世紀前半(弥生時代後期初頭)に彦坐王が出雲を平定して出雲王国の建国
  彦坐王は初代の大物主神(おおものぬしのかみ)として神格化されて初代の出雲国王と考えられて、息子の狭穂彦王(さほひこのみこ)が2代目・大物主神として神格化されて2代目の出雲国王と考えられて、その子孫の物部(もののべ)氏が後の大物主神として神格化されて後の出雲国王とも考えられる。
  出雲の隆盛は弥生時代後期初頭からである。
  荒神谷(こうじんだに)遺跡で出土した銅剣が弥生時代中期後半製造でないかとされて、加茂岩倉(かもいわくら)遺跡で出土した銅鐸(どうたく)が弥生時代中期から後期の製造とされて、銅剣と銅鐸が弥生時代後期初頭(西暦100年前後)のものなのが間違いない。
  荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の銅鐸と同じ型の分布地域は、歴史書解釈から古代天皇家の勢力地と合致するのが間違いない。
  弥生時代中期に出雲で四隅突出型墳丘墓が作られて、弥生時代後期に最大級の中谷(なかだに)3号墳が作られて出雲王家の物部氏が葬礼されたと考えられる。
  鳥取県で弥生時代後期の鉄器が大量出土して、鳥取県が出雲王国の勢力下にあると考えられて、彦坐王が鉄器生産をさせた可能性が高い。
崇神天皇39年3月3日(西暦122年4月上旬頃)に2番目の元伊勢を京都府宮津市に遷宮
  現在の元伊勢籠(この)神社が西暦719年に創建されたなら、別の場所が2番目の元伊勢と考えられて、元伊勢籠神社の奥宮の真名井(まない)神社が2番目の元伊勢と考えられる。
崇神天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に崇神天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)されて、垂仁(すいにん)天皇元年1月1日(西暦152年2月上旬頃)に2代目の垂仁天皇が即位されて、垂仁天皇元年10月11日(西暦152年11月中旬頃)に崇神天皇を葬礼
  垂仁天皇を国生みの男性の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)に神格化
  初代の崇神天皇陵は弥生時代後期の大型陵墓で、宮内庁指定の天皇陵の中にあるか不明である。
垂仁(すいにん)天皇5年6月1日(西暦156年7月上旬頃)に2代目出雲国王の狭穂彦王の反乱
  狭穂彦王を火の神様の軻遇突智(かぐつち)に神格化
  歴史上初めて邪馬台国(やまとこく;大和国)が登場して、この皇位継承権争い(倭国大乱)の目的が三種の神器を奪うことで、最終決戦の地が三重県熊野市である。
垂仁天皇7年7月8日(西暦158年8月上旬頃)に日本最古のスポーツ・相撲(すもう)の始まり
垂仁天皇7年メ月1日(西暦158年何月かの上旬頃)に三輪山(みわやま)の祭祀
  狭穂彦王を古代太陽神の2代目・大物主神に神格化して、御神体山の三輪山(みわやま)の山頂に祭祀
垂仁天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)に倭姫命(やまとひめのみこと)が出生
  倭姫命を国生みの夫婦神の娘・天照大神(あまてらすおおみかみ)に神格化で、女王と勘違いされる王女の卑弥呼の誕生である。
西暦160年代頃から181年までに垂仁天皇の皇子の祖別命(みおやわけのみこと)が吉備(きび;古代の岡山県と広島県東部)を平定
  岡山県倉敷市の楯築(たてつき)遺跡などに特殊器台土器が立てられて、この土器が出雲の地に伝わってしばらくして、前方後円墳の出現と共に姿を消す現象が起こって、『ホツマツタエ』や『日本書紀』の記述通りである。
垂仁天皇20年(西暦171年)真冬に景行(けいこう)天皇が出生
  景行天皇を月読尊(つくよみのみこと)に神格化で、卑弥呼(倭姫命)の男弟(異母弟)が景行天皇である。
垂仁天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に倭姫命を伊勢神宮の斎王(さいおう;太陽神に奉仕する未婚の皇女)に任命
  いわゆる卑弥呼共立で、女王でなく王女の任命である。
垂仁天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)に現在の伊勢神宮内宮への最終遷宮
  何回も遷宮された伊勢神宮の遷宮の終わりである。
垂仁天皇32年7月6日(西暦183年8月上旬頃)に皇后の日葉酢媛(ひばすひめ)陵に埴輪(はにわ)を立てる詔(みことのり;天皇の述べた言葉)
  この時に初めて最古の埴輪である最古の土師器(はじき)が立てられたと考えられる。
垂仁天皇37年7月10日(西暦188年8月上旬頃)に後漢王朝の皇帝が田道間守(たじまもり;祖別命と同一人物)に宝物を下賜(遣漢使)
  邪馬台国の初外交で、元伊勢籠(この)神社の神宝の邊津鏡(へつかがみ)と息津鏡(おきつかがみ)と東大寺山(古墳出土)鉄刀と画文帯環状乳神獣鏡が後漢王朝から下賜された宝物だと考えられる。
垂仁天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に垂仁天皇が崩御で、8月16日(西暦190年9月中旬頃)の夜にお墓へ埴輪を立て、12月10日(西暦191年1月上旬頃)に葬礼
  最古の前方後円墳の纏向(まきむく)石塚古墳は垂仁天皇陵で、纏向石塚古墳から最古の埴輪である最古の土師器が出土する。楯築遺跡の神石(亀石)の孤帯紋様と纏向石塚古墳から出土した孤文円板の孤帯紋様は時期的な問題から直接続くのが間違いなく正しい。
景行(けいこう)天皇元年7月11日(西暦191年8月中旬頃)に3代目の景行天皇が即位
景行天皇4年11月1日(西暦194年12月上旬頃)に皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)に入る
  纏向遺跡は2世紀末から4世紀前半頃の遺跡で纏向日代宮に当たって、後世の皇居の藤原京や平城京に匹敵する都市遺跡で、邪馬台国の王都と考えられて、神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)69年(西暦329年)以降に放棄されたと考えられる。
景行天皇12年から19年(西暦202年から209年)に景行天皇が自ら九州を平定
  纏向遺跡から福岡県の土器が出土する。
景行天皇49年(西暦239年)に魏王朝へ遣使(遣魏使)
  「親魏倭王」の金印を受け取ったのは卑弥呼(倭姫命)でなく男弟(景行天皇)である。
景行天皇57年12月(西暦248年1月頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)が南九州の熊襲(くまそ)王国を平定
  日本武尊を素戔嗚尊(すさのおのみこと)に神格化
  纏向遺跡から鹿児島県の土器が出土して、狗奴国(くぬこく)攻撃に当たって、宮崎県と鹿児島県が熊襲王国の領土と考えられる。
景行天皇60年10月2日(西暦250年11月上旬頃)に日本武尊を東海平定の総大将として出陣
  西暦254年までに中部地方から東北地方南部までを平定して、纏向遺跡から静岡県と神奈川県と石川県と富山県(中部地方と関東地方)の土器が出土する。
景行天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に景行天皇が崩御
西暦251年(天皇不在の年)に日本武尊が皇位継承権争いを起こして、9月17日(10月中旬頃)以降に日本武尊が伯母(おば)の倭姫命を殺し(卑弥呼の死;太陽神殺しの意味)て、日本武(やまとたけ)天皇が強行即位して、全ての皇族から敵視されて、日本武尊が出雲王国に亡命して、出雲王国(日本武天皇)と邪馬台国(仲哀(ちゅうあい)天皇)の2朝廷並列時代に突入
  倭姫命(卑弥呼)の死後に日本武尊(男王)が天皇に強行即位して、反乱して双方で千人余りが戦死
仲哀天皇元年1月11日(西暦252年2月中旬頃)に4代目の仲哀天皇が即位
  仲哀天皇を忍穂耳尊(おしほみみのみこと)に神格化
仲哀天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)に景行天皇を葬礼
  箸墓(はしはか)古墳は景行天皇(男弟)陵と考えられて、最古の特殊器台埴輪が出土する。
仲哀天皇2年1月11日(西暦253年2月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后を迎える
  神功皇后を皇祖神(こうそしん;天皇家の祖先神)の天照大神と栲幡千千姫(たくはたちちひめ)に神格化で、神功皇后は台与(とよ)に当たる。
仲哀天皇4年9月(西暦255年10月頃)に国造(くにみやつこ)を任命
  福島県河沼郡会津坂下町の杵ヶ森(きねがもり)古墳は石背(いわせ)国造か阿尺(あさか)国造が古墳埋葬者と考えられて、千葉県市原市の神門(ごうど)3号墳と4号墳と5号墳が菊麻(きくま)国造か上海上(かみうなかみ)国造が古墳埋葬者と考えられる。
仲哀天皇9年2月6日(西暦260年3月上旬頃)に出雲王国攻撃中に仲哀天皇が崩御(おそらく戦死)して、神功皇后が仲哀天皇9年10月3日(西暦260年11月上旬頃)に出雲王国の攻撃を再開して、7代目出雲国王の飯入根(いいいりね)が日本武天皇に殺されて、神功皇后が命じて日本武天皇を殺させて出雲王国が崩壊
  弥生時代後期に発展した出雲が3世紀中頃に衰退して、出雲の国譲り神話が日本武天皇(天穂日命(あめのほひのみこと)と素戔嗚尊に神格化)と飯入根(大国主神(おおくにぬしのかみ)と7代目・大物主神に神格化)の戦死で、出雲王国の崩壊を意味する。
  出雲の神在月(かみありづき)と全国の神無月は、西暦260年11月頃(旧暦の10月)に出雲に神格化された人物が集中したことに由来する。
仲哀天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に神功皇后が皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を出産で、摂政元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に神功皇后が摂政(天皇に代わって政治する役職)に着任
  誉田別尊を天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に神格化
  台与の即位と勘違いされて、女帝に近い権限を持つ神功皇后の任命に当たる。
  出雲王国を平定したのが『魏志倭人伝』に「国中遂定」と記されたと考えられて、魏王朝が滅亡する西暦265年までに遣使したと考えられる。
摂政6年(西暦266年)に神功皇后(台与)が西晋王朝へ遣使(遣晋使)   韓国の都市の金海(キメ)辺りで3世紀後半頃から日本製の遺物が出土しなくて、神功皇后時代に古代朝鮮国家と外交関係をなくしたと考えられる。
3世紀後半以降に出雲大社を創建(おそらく濡渟(うかずくぬ)が創建)
は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
  古来より出雲大社は島根県松江市大庭町の地にあって、『出雲国造世系譜』で716年に島根県松江市大庭町から島根県出雲市大社町杵築の地に移ったと記されて、島根県松江市大庭町に最初の出雲大社があった可能性が考えられる。
3世紀末から4世紀前半の宮崎市にある箸墓古墳の相似形の前方後円墳である生目(いきめ)1号墳は誉田別尊が有力埋葬者
  日本神話で天皇家の故郷が日向(ひうが;宮崎県の古名)とされる理由は、誉田別尊が暮らして息子で5代目の仁徳(にんとく)天皇の出生地で、誉田別尊を瓊瓊杵尊に神格化で、仁徳天皇を神日本磐余彦火火出見尊(かむやまといわれびこほほでみのみこと)に神格化・祖先化した点にある。
摂政69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に神功皇后が亡くなって享年(きょうねん)百才
  台与の死で、神功皇后陵は渋谷向山(しぶたにむこうやま)古墳(伝・景行天皇陵)が有力と考えられるが正しいか分からない。
西暦330年代に祖母の神功皇后の死去を受けて、日向から東征した5代目の仁徳天皇が即位して、それまでの天皇陵や皇族の陵墓と各皇居を放棄して、新しい皇居の建造と古墳群を手配して大和朝廷を一新
  4世紀前半に纏向遺跡と大和(おおやまと)古墳群が放棄されて、奈良市にある4世紀中頃の狭城盾列(さきのたたなみ)古墳群に移行したことは、そこに仁徳天皇陵がある可能性が高いと考えられて、仁徳天皇を祖先化した神武(じんむ)天皇が日向から大和に入って即位した神武東征が、正しく求めると仁徳東征で決して作り話の物語でない。
西暦421年に倭王「讃」が南朝宋王朝に朝貢して、これより古代中国との外交の再開(遣宋使)
西暦425年に倭王「讃」が朝貢
  倭王「讃」が安康(あんこう)天皇だと考えられる。
年代不明で倭王「讃」が死去して弟「珍」が即位
  安康天皇が崩御して、実弟の雄略(ゆうりゃく)天皇が即位したと考えられる。
年代不明で倭王「珍」が二度に渡って朝貢
  倭王「珍」は雄略天皇と考えられて、比較的短い在位期間となる。
西暦443年に倭王「済」が朝貢
  倭王「珍」と「済」の血縁関係を記されないが、清寧(せいねい)天皇に間違いないだろう。
西暦451年に倭王「済」が朝貢
  清寧天皇が南朝宋王朝に朝貢したと考えられる。
年代不明で倭王「済」が死去して世子「興」が即位して朝貢
  清寧天皇が崩御して、世子(世継ぎか皇太子のどちらかの意味と考えられるが、おそらく血縁断絶から皇太子の方が可能性は高い)の顕宗(けんそう)天皇が即位したと考えられる。
西暦462年に倭王「興」が朝貢
  顕宗天皇が南朝宋王朝に朝貢したと考えられる。
年代不明で倭王「興」が死去して弟の「武」が即位して朝貢
  顕宗天皇が崩御して、異母兄の仁賢(にんけん)天皇が即位後まもなく崩御して、その息子の武烈(ぶれつ)天皇が即位して南朝宋王朝に朝貢したが、血縁関係を間違って「興」の甥「武」と考えられる。
西暦478年に倭王「武」が朝貢
  武烈天皇が南朝宋王朝に最後の朝貢をしたと考えられる。
西暦479年に倭王「武」を南朝斉王朝が鎮東大将軍に任命(遣斉使)
  武烈天皇が南朝斉王朝に朝貢して任命されたと考えられる。
西暦502年に倭王「武」を南朝梁王朝が征東将軍に任命(遣梁使)
  武烈天皇が南朝梁王朝に朝貢して任命されたと考えられる。
武烈天皇8年12月8日(西暦507年1月上旬頃)に武烈天皇が崩御して、継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月5日;西暦年月日に直すとこの日らしいが正しいか不明)に新しい血筋の継体天皇が即位
今年2019年で継体天皇から今上(きんじょう)天皇(今の天皇陛下)まで続いて、天皇家誕生(建国)の西暦84年から数えて1935年目で、後65年すると天皇家誕生二千年を数えることになる。

僕の求めた古代天皇家の年表は、「古代天皇家の歴史」の章と関連して年代の記述に一切間違いがなく、僕のコペルニクス的転回(非常識な考え方の集合体)が圧倒的だからで、これを専門家らが求められるわけがない。

<参考文献>
『出雲国風土記と古代遺跡』
勝部昭・著者 株式会社山川出版社・発行
『卑弥呼の居場所 狗邪韓国から大和へ』
高橋徹・著者 日本放送出版協会・発行
『出雲大社の暗号』
関裕二・著者 株式会社講談社・発行
『完全制覇 古代大和朝廷の謎』
関裕二・著者 株式会社立風書房・発行
『出雲大社と千家氏の秘密』
中見利夫・著者 株式会社宝島社・発行
『三輪山の考古学』
株式会社学生社・発行
『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』
株式会社洋泉社・発行

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