古代の皇族の年齢


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

古代の皇族の年齢を作成したのは、2019年8月中旬頃で僕の認識力が足りなかった根拠で、現代人(僕以外の人間)が絶対に求められない絶対的な知識で、2021年9月3日に追加した。
『日本書紀』は実年齢と数え年が混在して、正確な歴史書としての不備で、『ホツマツタエ』が数え年で、『日本書紀』がそれを踏襲する場合がある。
古代の皇族の年齢は、世界でただ一人の僕だけが正しく求められる知識で、現代人(僕以外の人間)に絶対に求められない情報である。

『ホツマツタエ』で開化(かいか)天皇10年5月12日(西暦33年6月中旬頃)に崇神(すじん)天皇は生まれて、開化(かいか)天皇28年1月5日(西暦51年2月上旬頃)に19才(数え年)で皇太子になって、崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に52才(数え年)で即位して、『日本書紀』で崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に120才(数え年)で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)した。
崇神(すじん)天皇の即位は52才(数え年)が嘘(うそ)で、崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)に娘の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の年齢が11才頃で、崇神(すじん)天皇即位時の本当の年齢が最低でも25才頃で、享年(きょうねん)が最低でも93才頃で、どう考えても90才を越えると考えられる。
現在の歴代天皇の最高齢は上皇様で、父の昭和天皇の年齢を上回って、現在も更新中だが90才まで行かず、崇神(すじん)天皇が90才以上と考えられて、実在の歴代天皇で事実上の最高齢で、この真実がどうしても変わらない。
『三国志・魏志倭人伝』に「其国、本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱(倭国大乱)」と記して、邪馬台国(やまとこく;大和国)は男性を天皇として、建国から72年目で、狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)が起こったと訳せて、崇神(すじん)天皇の在位期間の68年間を証明して、『日本書紀』の在位年数が正しいことを日中の歴史書が証明した。
このように『日本書紀』の崇神(すじん)天皇の年齢は数え年で、『ホツマツタエ』の古伝承を頼りにしても、崇神(すじん)天皇の実年齢を知らなかったと考えられて、崇神(すじん)天皇の生誕年月日が不明である。

歴代皇族の在位期間の年代順は、神功(じんぐう)皇后(台与;とよ)の69年間、崇神(すじん)天皇の68年間、昭和天皇の64年間、景行(けいこう)天皇(卑弥呼の男弟;だんてい:異母弟)の60年間が上位4つで、古代の方が在位期間の長い男女の皇族が多く、特に神功(じんぐう)皇后が邪馬台国(やまとこく;大和国)論争と天照大神(あまてらすおおみかみ)で、女性天皇・女系天皇などの女性皇族の皇位継承問題に深く関わる。

崇神(すじん)天皇29年1月1日(西暦112年2月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇は生まれて、垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に垂仁(すいにん)天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、享年(きょうねん)78才(実年齢)と考えられる。

垂仁(すいにん)天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)は103才(数え年)で、父親の崇神(すじん)天皇(西暦84年)元年に11才頃で、西暦73年頃の生まれと考えられる。

倭姫命(やまとひめのみこと;卑弥呼)は、垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)生まれで、崇神(すじん)天皇10年9月17日(西暦251年10月中旬頃)から末日(10月下旬頃)に亡くなって、享年(きょうねん)88才(実年齢)と考えられる。

景行(けいこう)天皇(卑弥呼の男弟;だんてい)は、垂仁(すいにん)天皇20年真冬(西暦170年12月から171年2月頃)に生まれて、景行(けいこう)天皇元年7月11日(西暦191年8月中旬頃)に数え年で21才だから、景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、享年(きょうねん)79才(実年齢)と考えられる。

景行(けいこう)天皇元年4月(西暦191年5月頃)に内侍(うちめ;皇后より下の妃の位)である吉備津彦(きびつひこ)の娘の播磨稲日大郎姫(はりまのいなひおいらつめ)が身ごもって生まれるはずが、景行(けいこう)天皇元年12月15日(西暦192年1月中旬頃)に双子の皇子を生んで、弟を小碓尊(おうすのみこと)と名付けて、後の日本武尊(やまとたけのみこと)に当たって、翌年の景行(けいこう)天皇2年5月(西暦193年6月頃)に播磨稲日大郎姫(はりまのいなひおいらつめ)を皇后にしたと記す。
吉備津彦は景行天皇の異母兄弟の祖別命(みおやわけのみこと)だが、その娘の播磨稲日大郎姫が架空の人物…作られた存在で、日本武尊の出生が間違いと考えられる。
インターネット検索で『ホツマツタエ』の解釈文を見ると、景行(けいこう)天皇2年12月15日が日本武尊の出生と記すが、『ホツマツタエ』の前後の文脈から考えて間違いと考えられる。
景行(けいこう)天皇5年11月15日(西暦195年12月中旬頃)に成務(せいむ)天皇が生まれて、成務(せいむ)天皇と日本武尊(やまとたけのみこと)が同一人物で、仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)に日本武尊(やまとたけのみこと)が戦死して、日本武尊(やまとたけのみこと)が享年(きょうねん)64才(実年齢)と考えられる。

仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月5日(西暦260年3月上旬頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、享年(きょうねん)52才(実年齢)である。
逆算すると、景行(けいこう)天皇17年頃(西暦207年頃)の生まれで、父の日本武尊(やまとたけのみこと)が景行(けいこう)天皇5年11月15日(西暦195年12月中旬頃)に生まれて、計算が正しいか分からないが、日本武尊(やまとたけのみこと)が仲哀(ちゅうあい)天皇をかなり早くにもうけたことになる。

神功(じんぐう)皇后(台与;とよ)の生年を逆算して、景行(けいこう)天皇38年頃(西暦228年頃)に生まれて、『日本書紀』の摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に神功(じんぐう)皇后が摂政(せっしょう;天皇に代わって政治をする役職)になって、神功(じんぐう)皇后が33才(実年齢)と考えられて、摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后が亡くなって、享年(きょうねん)百才(実年齢)である。
歴代皇族の最高齢は、昭和天皇の弟の三笠宮(みかさのみや)様が百才十ヶ月で、神功(じんぐう)皇后が同じ百才でも生誕年月日が分からず、事実上の最高齢が三笠宮(みかさのみや)様である。
『三国志・魏志倭人伝』に「復立卑弥呼宗女壱与、年十三為王、国中遂定」と記して、倭姫命(やまとひめのみこと;卑弥呼)と同じ皇族の神功(じんぐう)皇后(台与;とよ)が33才で摂政(せっしょう)になったが、台与(とよ)の即位が13才と勘違いした。

『ホツマツタエ』と『日本書紀』の歴代皇族の年齢は、実年齢と数え年の混乱が見られて、『ホツマツタエ』で崇神(すじん)天皇の年齢を娘の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の年齢から推定するしかなくて、正確な歴史書でも完全な年齢を把握できなかったと考えられる。

<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』 鳥居礼・著者 八幡書店・発行
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