古代皇族の年齢と在位期間
古代皇族の年齢と在位期間は、崇神(すじん)天皇の年齢を求めたことで作成して、『ホツマツタエ』も「記紀」も年齢が数え年で、「記紀」の違う年齢が混乱させるためで、僕が年齢を正しく計算して、2024年6月4日に修正した。
開化(かいか)天皇10年5月12日(西暦33年6月中旬頃)に崇神(すじん)天皇は生まれて、開化(かいか)天皇28年1月5日(西暦51年2月上旬頃)に19才で皇太子になって、崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に52才で即位して、崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に120才で亡くなった。
孝昭(こうしょう)天皇49年1月1日(西暦49年2月上旬頃)に孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)が生まれて、孝昭(こうしょう)天皇83年8月5日(西暦83年9月上旬頃)に父の孝昭(こうしょう)天皇が亡くなって、崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に崇神(すじん)天皇が即位して、崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に102才で亡くなった。
孝昭(こうしょう)天皇(崇神(すじん)天皇の実父)時代は、旧暦年と西暦年を合致して、実在の崇神(すじん)天皇時代も旧暦年と西暦年を合致して、崇神(すじん)天皇が娘の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)と同じ102才まで生きて、祖先化も年齢の計算も間違いないと考えられる。
崇神(すじん)天皇が亡くなった年齢は、『ホツマツタエ』と『日本書紀』が120才で、『古事記』が168才で、僕の自論の年齢が正しいと考えられる。
『三国志・魏志倭人伝』は、「其国、本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱(倭国大乱;わこくたいらん)」と記して、邪馬台国(大和国;やまとこく)が男性を天皇で、建国72年目に狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱が起きて、崇神(すじん)天皇の在位期間68年間を証明した。
歴代天皇の最高齢は、上皇様の90才だが、僕が崇神(すじん)天皇を102才と求めて、事実上の最高齢を特定した。
崇神(すじん)天皇29年1月1日(西暦112年2月上旬頃)は、垂仁(すいにん)天皇が生まれて、垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に78才で亡くなって、年齢の計算が間違いなく正しい。
垂仁(すいにん)天皇が亡くなった年齢は、『ホツマツタエ』が138才で、『日本書紀』が140才で、『古事記』が153才で、『ホツマツタエ』が60年引いて正しい。
『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)は、数え年103才で、実年齢が102才で、西暦74年頃の生まれで、102才以上生きたか分からない。
崇神(すじん)天皇の皇后の御井津比売(みいつひめ)は、西暦74年頃の生まれで、実兄の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ;崇神(すじん)天皇の甥(おい)が下に3人の兄妹がいて、垂仁(すいにん)天皇26年9月17日(西暦177年10月中旬頃)まで生きて、4つ子の長男なら最低でも104才以上で、皇族の最高齢だが、107才以上と考えるのが自然である。
丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、崇神(すじん)天皇11年(西暦94年)に初めて名前が登場して、21才以上の丹波(たんば;古代の京都府北中部)王国を平定した武将で、年齢の計算が間違いなく正しい。
卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)生まれで、3つ子の長子で、空白年(天皇不在の年)10月5日(西暦251年11月上旬頃)に甥(おい)の日本武(やまとたけ)天皇に88才で殺されて、10月22日(11月下旬頃)に三重県伊勢市へ葬礼した。
男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇は、垂仁(すいにん)天皇20年真冬(西暦171年1月頃)に生まれて、景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に79才で亡くなった。
景行(けいこう)天皇が亡くなった年齢は、『ホツマツタエ』が景行(けいこう)天皇56年までで、年数が途切れて記さず、『日本書紀』が106才で、『古事記』が137才で、僕の自論の年齢が正しいと考えられる。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、景行(けいこう)天皇2年12月15日(西暦193年1月中旬頃)に生まれて、仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月17日(西暦260年11月中旬頃)に66才で戦死した。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、成務(せいむ)天皇と同一人物で、日本武尊(やまとたけのみこと)と成務(せいむ)天皇の誕生日が混乱して、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の誕生日とも重なって、正しい年齢を求められなくて誤解した。
日本武尊(やまとたけのみこと)が亡くなった年齢は、『ホツマツタエ』が記さず、『日本書紀』が30才で、『古事記』が記さず、僕の自論の年齢が正しいと考えられる。
景行(けいこう)天皇19年頃(西暦209年頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は生まれて、仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月5日(西暦260年3月上旬頃)に51才で戦死した。
仲哀(ちゅうあい)天皇が亡くなった年齢は、『ホツマツタエ』が記さず、「記紀」が52才で、『日本書紀』成務(せいむ)天皇48年3月1日(西暦239年4月上旬頃)に31才で皇太子なって、逆算して求めると、僕の自論の年齢が正しいと考えられる。
神功(じんぐう)皇后は、景行(けいこう)天皇39年頃(西暦229年頃)に生まれて、摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に神功(じんぐう)皇后(台与;とよ)が33才で、摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に99才で亡くなった。
『三国志・魏志倭人伝』に「復立卑弥呼宗女壱与、年十三為王、国中遂定」と記して、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と同じ皇族の台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后が33才だが、台与(とよ)の年齢13才が実年齢で計算して、実年齢か数え年か調べる必要である。
神功(じんぐう)皇后が亡くなった年齢は、『日本書紀』が数え年100才で、僕の自論の年齢が正しいと考えられる。
景行(けいこう)天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)に屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)と倭影媛(やまとかげひめ)は、紀伊(きい;和歌山県)の阿備柏原(あびかしわばら;和歌山市相坂・松原の付近か?)ですごして、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を生んだ。
仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、5代目天皇に即位して、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が98才で補佐した。
成務(せいむ)天皇は、『ホツマツタエ』の名前が武内麿(たけうちまろ)で、『日本書紀』で初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)と同日生まれで、景行天皇5年11月15日と景行天皇45年11月15日の誕生日が合致して、偽装工作をしたと考えられる。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、武甕槌神(たけみかづちのかみ)と饒速日命(にぎはやひのみこと)と塩土老翁(しおつちのおじ)の3神に神格化して、海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の神話と神武(じんむ)東征に登場して、間違いなく98才まで生きた証拠で、2023年5月29日の午前中に特定した。
仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后は、息子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を生んで、応神(おうじん)天皇41年2月15日(摂政(せっしょう)50年2月15日;西暦年310年3月中旬頃)に亡くなった。
母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、息子の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)を日向(ひうが;宮崎県)に天孫降臨させて、日本神話と実話が合致した。
誉田別尊(ほむだわけのみこと)が亡くなった年齢は、『日本書紀』が数え年110才で、『古事記』が130才で、『日本書紀』の年齢が60年引いて数え年50才で、正しいと考えられる。
摂政(せっしょう)25年頃(応神(おうじん)天皇16年頃;西暦285年頃)に仁徳(にんとく)天皇は生まれて、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に5代目天皇に即位して、仁徳(にんとく)天皇34年1月16日(西暦367年2月上旬頃)に亡くなった。
仁徳(にんとく)天皇が亡くなった年齢は、『日本書紀』が記さず、『古事記』が83才で、『古事記』の年齢が正しいと考えられる。
仁徳(にんとく)天皇2年3月8日(西暦335年4月上旬頃)に履中(りちゅう)天皇は生まれて、履中(りちゅう)天皇元年2月1日(西暦367年3月上旬頃)に6代目天皇に即位して、履中(りちゅう)天皇6年1月3日(372年2月上旬頃)に亡くなった。
履中(りちゅう)天皇が亡くなった年齢は、『日本書紀』が70才で、『古事記』が64才で、どちらも参考にできない。
両親の仁徳(にんとく)天皇と磐之姫命(いわのひめのみこと)は、仁徳(にんとく)天皇2年3月8日(西暦335年4月上旬頃)に4つ子の履中(りちゅう)天皇と反正(はんぜい)天皇と允恭(いんぎょう)天皇を生んで、間違いなく事実である。
仁徳(にんとく)天皇2年3月8日(西暦335年4月上旬頃)に反正(はんぜい)天皇は生まれて、反正(はんぜい)天皇元年1月2日(西暦373年2月上旬頃)に7代目天皇に即位して、反正(はんぜい)天皇5年7月(377年8月頃)に亡くなった。
反正(はんぜい)天皇が亡くなった年齢は、『日本書紀』が記さず、『古事記』が60才で、間違いと考えられる。
仁徳(にんとく)天皇2年3月8日(西暦335年4月上旬頃)に允恭(いんぎょう)天皇は生まれて、允恭(いんぎょう)天皇元年12月(西暦378年1月頃)に允恭(いんぎょう)天皇は、8代目天皇に即位して、允恭(いんぎょう)天皇17年1月15日(西暦394年2月上旬頃)に58才で亡くなった。
允恭(いんぎょう)天皇が亡くなった年齢は、『日本書紀』が78才で、『古事記』も78才で、間違いと証明した。
安康(あんこう)天皇元年12月14日(西暦395年1月中旬頃)に安康(あんこう)天皇は、9代目天皇に即位して、安康(あんこう)天皇33年8月9日(427年9月上旬頃)に亡くなった。
安康(あんこう)天皇が亡くなった年齢は、『日本書紀』が記さず、『古事記』が56才で、年齢が間違いと考えられる。
雄略(ゆうりゃく)天皇元年11月13日(427年12月中旬頃)に雄略(ゆうりゃく)天皇は、10代目天皇に即位して、雄略(ゆうりゃく)天皇3年8月7日(西暦429年9月上旬頃)に亡くなった。
雄略(ゆうりゃく)天皇が亡くなった年齢は、『日本書紀』が記さず、『古事記』が124才で、60年引いても兄の安康(あんこう)天皇を越えて、ワザと隠したと考えられる。
清寧(せいねい)天皇元年1月(西暦430年2月上旬頃)に清寧(せいねい)天皇は、11代目天皇に即位して、清寧(せいねい)天皇28年1月16日(西暦457年2月中旬頃)に亡くなった。
清寧(せいねい)天皇が亡くなった年齢は、「記紀」がどちらも記さず、ワザと隠したと考えられる。
清寧(せいねい)天皇28年1月17日以降の1月中(西暦457年2月頃)に顕宗(けんそう)天皇は、即位しなくて、同母姉(同母妹)の飯豊女王(いいとよのひめみこ)が政治をして、自(みずか)らを忍海飯豊青尊(おしぬみいいとよあおのみこと)と尊称(そんしょう)して、11月(12月頃)に亡くなった。
飯豊女王(いいとよのひめみこ)は、顕宗(けんそう)天皇の同母姉(同母妹)で、女性皇族として政治して、年齢不明である。
顕宗(けんそう)天皇元年1月1日(西暦458年1月上旬頃)に顕宗(けんそう)天皇は、12代目天皇に即位して、顕宗(けんそう)天皇14年4月25日(西暦471年5月下旬頃)に亡くなった。
顕宗(けんそう)天皇が亡くなった年齢は、『日本書紀』が38才で、『古事記』が記さず、ワザと若くして、勘違いさせたと考えられる。
仁賢(にんけん)天皇元年1月15日(西暦472年2月中旬頃)に仁賢(にんけん)天皇は、13代目天皇に即位して、仁賢(にんけん)天皇3年8月8日(西暦474年9月上旬頃)に亡くなった。
仁賢(にんけん)天皇が亡くなった年齢は、「記紀」がどちらも記さず、ワザと隠したと考えられる。
清寧(せいねい)天皇21年頃(西暦450年頃)に武烈(ぶれつ)天皇は生まれて、武烈(ぶれつ)天皇元年3月2日(西暦475年4月上旬頃)に14代目天皇に即位して、武烈(ぶれつ)天皇32年12月8日(西暦507年1月上旬頃)に56才か57才で亡くなった。
武烈(ぶれつ)天皇は、32年間の在位期間を僕が証明して、即位年干支法(そくいねんかんしほう)と崩年干支(ほうねんかんし)を正しく求めて、年齢計算に隙(すき)がない。
武烈(ぶれつ)天皇の年齢は、他書に数え年で、18才や57才や58才と記して、在位期間が武烈(ぶれつ)天皇元年(498年)から武烈(ぶれつ)天皇8年(506年)で、父の仁賢(にんけん)天皇が他書に50才や51才で、在位期間が仁賢(にんけん)天皇元年(488年)から仁賢(にんけん)天皇8年(497年)で、計算が正しいと思い込む。
そして専門家(歴史学会)は、最後の倭王(わおう;古代の日本王)の武(ぶ)を雄略(ゆうりゃく)天皇で、西暦478年まで生きて、『日本書紀』の武烈(ぶれつ)天皇が実年齢17才で亡くなって、父の仁賢(にんけん)天皇が実年齢49才か50才で、亡くなったと計算した。
専門家(歴史学会)は、西暦507年1月頃に武烈(ぶれつ)天皇が実年齢17才で亡くなって、継体(けいたい)天皇元年3月5日(西暦507年4月上旬頃)に実姉の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が実年齢20代で皇后になって、継体(けいたい)天皇3年(西暦509年)に欽明(きんめい)天皇を生んで、欽明(きんめい)天皇32年4月15日(571年5月下旬頃)に欽明(きんめい)天皇が62才ほどで、亡くなったと計算した。
しかし歴史書の数え年は、本当か嘘(うそ)かを即位年干支法(そくいねんかんしほう)と崩年干支(ほうねんかんし)で、うまく偽装工作して、混乱させるために作ったが、超天才の僕が打ち破った。
継体(けいたい)天皇は、清寧(せいねい)天皇21年頃(西暦450年頃)に生まれて、継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月上旬頃)に新しい血筋の15代目天皇に即位して、継体(けいたい)天皇25年2月7日(531年3月上旬頃)に実年齢81才で亡くなった。
継体(けいたい)天皇の享年(きょうねん)は、『日本書紀』が数え年82才で、『古事記』が数え年43才で、実年齢42才が武烈(ぶれつ)天皇15年頃(西暦489年頃)生まれの計算間違いで、西暦470年代か480年代に息子の欽明(きんめい)天皇が生まれて、実年齢81才で亡くなったと証明した。
継体(けいたい)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)は、ある本が継体(けいたい)天皇28年(西暦534年)として、継体(けいたい)天皇25年2月(531年3月頃)に病(やまい)が重くなって、2月7日(531年3月上旬頃)に数え年82才で崩御(ほうぎょ)して、継体(けいたい)天皇25年の崩御(ほうぎょ)を『百済本記(くだらほんき)』に基(もと)づく。
その文が言うには、「25年3月に進軍して安羅(あら;韓国の咸安(ハマン)郡に存在した小国家)に至って、乞屯城(こっとくのさし)を造った。この月に高麗(高句麗;こうくり)は、その王の安を弑(しい;殺害した)した。また聞く所では、日本の天皇とおよび皇太子と皇子が皆死んだ」と、これに言う辛亥(かのとい)の年が25年に当たって、後世に調べて考える人が解明するだろう。
『百済本記(くだらほんき)』の記述は、辛亥(かのとい)の継体(けいたい)天皇25年(531年)に継体(けいたい)天皇と皇太子の安閑(あんかん)天皇と皇子の宣化(せんか)天皇が皆死んで、欽明(きんめい)天皇が残されて、政変が起きて、欽明(きんめい)天皇以外が全員殺害された可能性、安閑(あんかん)天皇と宣化(せんか)天皇が欽明(きんめい)天皇と対立して殺害した可能性などが考えられる。
しかし『百済本記(くだらほんき)』の記述は、朝鮮半島だけの記述で、信憑性(しんぴょうせい)に問題があって、古代天皇家の正史(正式な歴史書)「記紀」などの信頼性も考慮して、超天才の僕でも判断できない。
武烈(ぶれつ)天皇32年12月8日(西暦507年1月上旬頃)に武烈(ぶれつ)天皇は56才か57才で亡くなって、継体(けいたい)天皇元年3月5日(西暦507年4月上旬頃)に武烈(ぶれつ)天皇の実姉の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が60才以上で皇后になった。
継体(けいたい)天皇と手白香皇女(たしらかのひめみこ)の息子の欽明(きんめい)天皇は、欽明(きんめい)天皇32年4月15日(西暦571年5月中旬頃)が亡くなって、逆算して享年(きょうねん)が90才から100才くらいと考えられる。
現在の皇族の最高齢は、昭和天皇の弟の三笠宮(みかさのみや)様が100才10ヶ月で、2024年6月4日に三笠宮妃(みかさのみやひ)百合子(ゆりこ)様が101才の誕生日で、夫婦で100才を越えられた。
皇族の事実上の最高齢は、初代の崇神(すじん)天皇の甥(おい)である丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)で、最低でも104才以上である。
100才は、紀寿(きじゅ)と百寿(ひゃくじゅ、ももじゅ)で、昔に紀寿(きじゅ)などが数え年だが、今が満年齢を指すことも多くて、満100才を越えた皇族が古代から現代まで5人いて、ここに書き忘れた古代皇族を加えた。
神功(じんぐう)皇后の死去年は、『日本書紀』の数え年100才で、つまり実年齢が99才で、『日本書紀』の人物全員が数え年と知らず、神功(じんぐう)皇后が100才で亡くなったと長く勘違いした。
仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、5代目天皇に即位して、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が98才で補佐して、古代豪族の年齢がかなり長寿と証明して、中世などがなぜ短命なのか謎(なぞ)である。
『三国志・魏志倭人伝』は、「その人の年齢を考えると、あるいは100才か、あるいは80才から90才である」と記して、歴代皇族の年齢が高齢なのを証明した理由だが、生活水準や病気の有無など長生きの条件が分からなくて、考古学的証拠を示せるか不明である。
歴代皇族の在位期間の年代順は、西暦261年から329年までの神功(じんぐう)皇后の69年間、西暦84年から151年までの崇神(すじん)天皇の68年間、西暦1926年から1989年までの昭和天皇の62年間で、西暦191年から250年までの景行(けいこう)天皇の60年間が上位4つで、昭和天皇以外が確実な在位期間でなく、西暦年で数えた。
歴代皇族の在位期間は、西暦年で数えた年数と日数の違いで、昭和64年と在位期間の62年間の違いと同じで、後で正しく求めてほしい。
歴代王族の在位期間の年代順は、歴史上で間違いないのが西暦1643年から1715年までのルイ14世(フランス)の72年間、西暦1952年から2022年までのエリザベス2世(イギリス)の72年間、神功(じんぐう)皇后の69年間が続くと考えられる。
在位期間の長い男女の皇族は、古代の方が多くて、特に神功(じんぐう)皇后が皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)で母方の天照大神(あまてらすおおみかみ)に神格化して、女系男子天皇の根拠や女性天皇・女系天皇などの皇位継承問題に深く関わって、非常に重要である。
<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古事記(中)(下)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・著者 八幡書店・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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