古代皇族の年齢と在位期間


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

古代皇族の年齢と在位期間は、崇神(すじん)天皇の年齢を求めたことで作成して、『ホツマツタエ』も「記紀」も年齢が数え年で、「記紀」の違う年齢が混乱させるためで、僕が年齢を正しく計算して、2023年6月5日に修正した。

開化(かいか)天皇10年5月12日(西暦33年6月中旬頃)に崇神(すじん)天皇は生まれて、開化(かいか)天皇28年1月5日(西暦51年2月上旬頃)に19才で皇太子になって、崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に52才で即位して、崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に120才で亡くなった。
孝昭(こうしょう)天皇49年1月1日(西暦49年2月上旬頃)に孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)が生まれて、孝昭(こうしょう)天皇83年8月5日(西暦83年9月上旬頃)に父の孝昭(こうしょう)天皇が亡くなって、崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に崇神(すじん)天皇が即位して、崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に102才で亡くなった。
孝昭(こうしょう)天皇(崇神(すじん)天皇の実父)時代は、旧暦年と西暦年を合致して、実在の崇神(すじん)天皇時代も旧暦年と西暦年を合致して、崇神(すじん)天皇が娘の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)と同じ102才まで生きて、祖先化も計算も間違いないと考えられる。
崇神(すじん)天皇が亡くなった年齢は、『ホツマツタエ』と『日本書紀』が120才で、『古事記』が168才で、僕の自論の年齢が正しいと考えられる。
『三国志・魏志倭人伝』は、「其国、本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱(倭国大乱;わこくたいらん)」と記して、邪馬台国(大和国;やまとこく)が男性を天皇で、建国72年目に狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱が起きて、崇神(すじん)天皇の在位期間68年間を証明した。
歴代天皇の最高齢は上皇様だが、90才まで行かず、僕が崇神(すじん)天皇を102才と求めて、事実上の最高齢を特定した。

崇神(すじん)天皇29年1月1日(西暦112年2月上旬頃)は、垂仁(すいにん)天皇が生まれて、垂仁(すいにん)天皇39年7月1日(西暦190年8月上旬頃)に78才で亡くなって、計算が間違いなく正しい。
垂仁(すいにん)天皇が亡くなった年齢は、『ホツマツタエ』が138才で、『日本書紀』が140才で、『古事記』が153才で、『ホツマツタエ』が60年引いて正しい。

『ホツマツタエ』垂仁(すいにん)天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)は、数え年103才で、西暦74年頃の生まれで、皇族の最高齢が父の崇神(すじん)天皇と娘の2人で、102才以上生きたか求められない。
豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が亡くなった年齢は、『ホツマツタエ』が数え年103才で、僕の自論の年齢が正しいと考えられる。

卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)は、垂仁(すいにん)天皇12年9月16日(西暦163年10月中旬頃)生まれで、3つ子の長子で、空白年(天皇不在の年)10月5日(西暦251年11月上旬頃)に甥(おい)の日本武(やまとたけ)天皇に88才で殺されて、10月22日(11月下旬頃)に伊勢市で葬礼した。
倭姫命(やまとひめのみこと)が亡くなった年齢は、『ホツマツタエ』の没年月日を隠して、「記紀」が分からなくて、僕の自論の年齢が正しいと考えられる。

男弟(だんてい;異母弟)の景行(けいこう)天皇は、垂仁(すいにん)天皇20年真冬(西暦171年1月頃)に生まれて、景行(けいこう)天皇60年11月7日(西暦250年12月上旬頃)に79才で亡くなった。
景行(けいこう)天皇が亡くなった年齢は、『ホツマツタエ』が景行(けいこう)天皇56年までで、年数が途切れて記さず、『日本書紀』が106才で、『古事記』が137才で、僕の自論の年齢が正しいと考えられる。

日本武尊(やまとたけのみこと)は、景行(けいこう)天皇2年12月15日(西暦193年1月中旬頃)に生まれて、仲哀(ちゅうあい)天皇9年10月17日(西暦260年11月中旬頃)に67才で戦死した。
日本武尊(やまとたけのみこと)は、成務(せいむ)天皇と同一人物で、日本武尊(やまとたけのみこと)と成務(せいむ)天皇の誕生日が混乱して、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の誕生日とも重なって、正しい年齢を求められなくて誤解した。
日本武尊(やまとたけのみこと)が亡くなった年齢は、『ホツマツタエ』が記さず、『日本書紀』が30才で、『古事記』が記さず、僕の自論の年齢が正しいと考えられる。

景行(けいこう)天皇19年頃(西暦209年頃)に仲哀(ちゅうあい)天皇は生まれで、仲哀(ちゅうあい)天皇9年2月5日(西暦260年3月上旬頃)に51才で戦死した。
仲哀(ちゅうあい)天皇が亡くなった年齢は、『ホツマツタエ』が記さず、「記紀」が52才で、『日本書紀』成務(せいむ)天皇48年3月1日(西暦239年4月上旬頃)に31才で皇太子なって、逆算して求めると、僕の自論の年齢が正しいと考えられる。

神功(じんぐう)皇后は、景行(けいこう)天皇39年頃(西暦229年頃)に生まれて、摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に神功(じんぐう)皇后(台与;とよ)が33才で、摂政(せっしょう)69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に99才で亡くなった。
『三国志・魏志倭人伝』に「復立卑弥呼宗女壱与、年十三為王、国中遂定」と記して、卑弥呼(ひみこ)の倭姫命(やまとひめのみこと)と同じ皇族の台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后が33才だが、台与(とよ)の年齢13才が実年齢で計算して、実年齢か数え年か調べる必要である。
神功(じんぐう)皇后が亡くなった年齢は、『日本書紀』が数え年100才で、僕の自論の年齢が正しいと考えられる。

景行(けいこう)天皇45年11月15日(西暦235年12月中旬頃)に屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)と倭影媛(やまとかげひめ)は、紀伊(きい;和歌山県)の阿備柏原(あびかしわばら;和歌山市相坂・松原の付近か?)ですごして、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を生んだ。
仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に仁徳(にんとく)天皇は、5代目天皇に即位して、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)が98才で補佐した。
成務(せいむ)天皇は、『ホツマツタエ』の名前が武内麿(たけうちまろ)で、『日本書紀』で初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)と同日生まれで、景行天皇5年11月15日と景行天皇45年11月15日の誕生日が合致して、偽装工作をしたと考えられる。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)は、武甕槌神(たけみかづちのかみ)と饒速日命(にぎはやひのみこと)と塩土老翁(しおつちのおじ)の3神に神格化して、海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の神話と神武(じんむ)東征に登場して、間違いなく98才まで生きた証拠で、2023年5月29日の午前中に特定した。

仲哀(ちゅうあい)天皇9年12月14日(西暦261年1月中旬頃)に神功(じんぐう)皇后は、息子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を生んで、応神(おうじん)天皇41年2月15日(摂政(せっしょう)50年2月15日;西暦年310年3月中旬頃)に49才で亡くなった。
母方の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功(じんぐう)皇后を神格化)は、息子の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)を日向(ひうが;宮崎県)に天孫降臨させて、日本神話と実話が合致した。
誉田別尊(ほむだわけのみこと)が亡くなった年齢は、『日本書紀』が数え年110才で、『古事記』が130才で、『日本書紀』の年齢が60年引いて数え年50才で、正しいと考えられる。

摂政(せっしょう)25年頃(応神(おうじん)天皇16年頃;西暦285年頃)に仁徳(にんとく)天皇は生まれて、仁徳(にんとく)天皇元年1月3日(西暦334年2月上旬頃)に5代目天皇に即位して、仁徳(にんとく)天皇34年1月16日(西暦367年2月上旬頃)に82才で亡くなった。
仁徳(にんとく)天皇が亡くなった年齢は、『日本書紀』が記さず、『古事記』が83才で、『古事記』の年齢が正しいと考えられる。

履中(りちゅう)天皇元年2月1日(西暦367年3月上旬頃)に履中(りちゅう)天皇は、6代目天皇に即位して、履中(りちゅう)天皇6年1月3日(372年2月上旬頃)に69才で亡くなった。
履中(りちゅう)天皇が亡くなった年齢は、『日本書紀』が70才で、『古事記』が64才で、どちらも参考にできない。

摂政(せっしょう)58年頃(西暦318年頃)に反正(はんぜい)天皇は生まれて、反正(はんぜい)天皇元年1月2日(西暦373年2月上旬頃)に7代目天皇に即位して、反正(はんぜい)天皇5年7月(377年8月頃)に59才で亡くなった。
反正(はんぜい)天皇が亡くなった年齢は、『日本書紀』が記さず、『古事記』が60才で、『古事記』の年齢が正しいと考えられる。

允恭(いんぎょう)天皇元年12月(西暦378年1月頃)に允恭(いんぎょう)天皇は、8代目天皇に即位して、允恭(いんぎょう)天皇17年1月15日(西暦394年2月上旬頃)に亡くなった。
允恭(いんぎょう)天皇が亡くなった年齢は、『日本書紀』が78才で、『古事記』も78才で、316年頃の生まれで、兄の反正(はんぜい)天皇を越えて、間違いと証明した。

仁徳(にんとく)天皇元年6年頃(西暦339年頃)に安康(あんこう)天皇は生まれて、安康(あんこう)天皇元年12月14日(西暦395年1月中旬頃)に9代目天皇に即位して、安康(あんこう)天皇33年8月9日(427年9月上旬頃)に55才で亡くなった。
安康(あんこう)天皇が亡くなった年齢は、『日本書紀』が記さず、『古事記』が56才で、『古事記』の年齢が正しいと考えられる。

雄略(ゆうりゃく)天皇元年11月13日(427年12月中旬頃)に雄略(ゆうりゃく)天皇は、10代目天皇に即位して、雄略(ゆうりゃく)天皇3年8月7日(西暦429年9月上旬頃)に亡くなった。
雄略(ゆうりゃく)天皇が亡くなった年齢は、『日本書紀』が記さず、『古事記』が124才で、60年引いても兄の安康(あんこう)天皇を越えて、ワザと隠したと考えられる。

清寧(せいねい)天皇元年1月(西暦430年2月上旬頃)に清寧(せいねい)天皇は、11代目天皇に即位して、清寧(せいねい)天皇28年1月16日(西暦457年2月中旬頃)に亡くなった。
清寧(せいねい)天皇が亡くなった年齢は、「記紀」がどちらも記さず、ワザと隠したと考えられる。

清寧(せいねい)天皇28年1月17日以降の1月中(西暦457年2月頃)に顕宗(けんそう)天皇は、即位しなくて、同母姉(同母妹)の飯豊女王(いいとよのひめみこ)が政治をして、自(みずか)らを忍海飯豊青尊(おしぬみいいとよあおのみこと)と尊称(そんしょう)して、11月(12月頃)に亡くなった。
飯豊女王(いいとよのひめみこ)は、顕宗(けんそう)天皇の同母姉(同母妹)で、女性皇族として政治して、年齢不明である。

顕宗(けんそう)天皇元年1月1日(西暦458年1月上旬頃)に顕宗(けんそう)天皇は、12代目天皇に即位して、顕宗(けんそう)天皇14年4月25日(西暦471年5月下旬頃)に亡くなった。
顕宗(けんそう)天皇が亡くなった年齢は、『日本書紀』が38才で、『古事記』が記さず、ワザと若くして、勘違いさせたと考えられる。

仁賢(にんけん)天皇元年1月15日(西暦472年2月中旬頃)に仁賢(にんけん)天皇は、13代目天皇に即位して、仁賢(にんけん)天皇3年8月8日(西暦474年9月上旬頃)に亡くなった。
仁賢(にんけん)天皇が亡くなった年齢は、「記紀」がどちらも記さず、ワザと隠したと考えられる。

清寧(せいねい)天皇21年頃(西暦450年頃)に武烈(ぶれつ)天皇は生まれて、武烈(ぶれつ)天皇元年3月2日(西暦475年4月上旬頃)に14代目天皇に即位して、武烈(ぶれつ)天皇32年12月8日(西暦507年1月上旬頃)に56才で亡くなった。
武烈(ぶれつ)天皇は、32年間の在位期間を僕が証明して、数え年57才で亡くなって、年齢計算に隙(すき)がない。
専門家(学会)は、最後の倭王(わおう;古代の日本王)の武(ぶ)を雄略(ゆうりゃく)天皇で、西暦478年まで生きて、『日本書紀』の武烈(ぶれつ)天皇の在位期間が8年間で、叔父(おじ)の顕宗(けんそう)天皇が38才で亡くなって、実姉の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が20才代で、継体(けいたい)天皇の皇后になったと勘違いさせて、勘違いした根本理由である。

継体(けいたい)天皇元年2月4日(西暦507年3月上旬頃)に継体(けいたい)天皇は、新しい血筋の15代目天皇に即位して、3月5日(西暦507年4月上旬頃)に武烈(ぶれつ)天皇の実姉の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が60才以上の年齢で皇后になって、もっと若い頃に正妻にして、欽明(きんめい)天皇を生んで、欽明(きんめい)天皇の年齢が「記紀」でワザと隠して、勘違いさせるためと考えられる。
継体(けいたい)天皇は、海部(あまべ)氏の派生氏族である尾張連草香(おわりむらじのくさか)の娘の目古媛(めこひめ)が安閑天皇(あんかん)と宣化(せんか)天皇を生んで、手白香皇女(たしらかのひめみこ)が欽明(きんめい)天皇を生んで、古代天皇家と新しい血筋の混血の天皇で、今の皇室の直系先祖と伝える。

現在の歴代皇族の最高齢は、昭和天皇の弟の三笠宮(みかさのみや)様が100才10ヶ月で、2023年6月4日に三笠宮妃(みかさのみやひ)百合子(ゆりこ)様が100才の誕生日で、夫婦で100才を越えられた。
事実上の最高齢は、崇神(すじん)天皇と豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の102才で、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が何才で亡くなったか分からない。
100才は、紀寿(きじゅ)と百寿(ひゃくじゅ、ももじゅ)で、昔に紀寿(きじゅ)などが数え年だが、今が満年齢を指すことも多くて、満100才を越えた皇族が古代から現代まで4人いる。

歴代皇族の在位期間の年代順は、西暦261年から329年までの神功(じんぐう)皇后の69年間、西暦84年から151年までの崇神(すじん)天皇の68年間、西暦1926年から1989年までの昭和天皇の62年間で、西暦191年から250年までの景行(けいこう)天皇の60年間が上位4つで、昭和天皇以外が確実な在位期間でなく、西暦年で数えた。
歴代皇族の在位期間は、西暦年で数えた年数と日数の違いで、昭和64年と在位期間の62年間の違いと同じで、後で正しく求めてほしい。歴代王族の在位期間の年代順は、歴史上で間違いないのが西暦1643年から1715年までのルイ14世(フランス)の72年間、西暦1952年から2022年までのエリザベス2世(イギリス)の72年間、神功(じんぐう)皇后の69年間が続くと考えられる。
在位期間の長い男女の皇族は、古代の方が多くて、特に神功(じんぐう)皇后が皇祖神(こうそしん;皇室の祖先神)で母方の天照大神(あまてらすおおみかみ)に神格化して、女系男子天皇の根拠女性天皇・女系天皇などの皇位継承問題に深く関わって、非常に重要である。

<参考文献>
『新訂 魏志倭人伝 他三篇―中国正史日本伝(1)―』
石原道博・編訳者 株式会社岩波書店・発行
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古事記(中)(下)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・著者 八幡書店・発行
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