饒速日命(にぎはやひのみこと)


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

饒速日命は『日本書紀』で物部(もののべ)氏の祖先神とされて、火明命(ほあかりのみこと)と同一神の男性の古代太陽神である。
『先代旧事本紀』では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)と記されて、『先代旧事本紀』に末名「尊(みこと)」が記されて『日本書紀』に詳しい物部氏の人間によって書かれたと考えられる。
饒速日命はまたの名を神饒速日命(かみにぎはやひのみこと)命や膽杵磯丹杵穂(いぎしにぎほのみこと)などとも言う。

河内(かわち;古代の大阪府東部)に天孫降臨した饒速日命の原文を青字で記して、解釈文を赤字で記す。

饒速日尊は天神(あまつかみ)の御祖(みおや)の詔(みことのり)を受けて、天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国(かわちのくに)の河上の哮峯(いかるがのみね)に天降(あまくだ)り坐(ま)し、すなわち大倭国(やまとのくに)の鳥見(とみ)の白山(しらやま)に遷(うつ)り坐す。
いわゆる天磐船に乗って大虚空(おおぞら)を翔(か)け行(ゆ)きて、この郷(さと)を巡り見て天降り坐す。
すなわち「虚空見(そらみ)つ日本国(やまとのくに)」と宣(のたま)うはこれなるか。
饒速日尊つごうよく長髄彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしやひめ)をめとって妃(みめ)となし妊胎(はらま)したまう。
いまだ産む時に及ばざるに饒速日尊すでに神殞去(かむさ)り坐しぬ。
…(省略)…御炊屋姫を妃となし天降りて、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)を誕生(あれ)ましぬ。


饒速日尊(彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)は河内国(大阪府東部)の河上の哮峯(大阪府交野市私市の磐船神社)に降臨して、すなわち大和国の鳥見の白山(奈良県のどこの山か不明)に移ります。
いわゆる天磐船に乗って大虚空を翔け行きて、この郷を巡り見て天降り坐して、「虚空見つ日本国」と宣うはこれなるか。
饒速日尊は従った長髄彦(誰を神格化したか不明)の妹の御炊屋姫(沙本之大闇見戸女(さほのおおくらみとめ)を神格化)をめとって妃(きさき)として身ごもるが、産む時に饒速日尊がすでに亡くなって、宇摩志麻治命(狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)が誕生した。


彦坐王は春日建国勝戸女(かすがのたけくにかつとめ)と結婚して娘の沙本之大闇見戸女が生まれて、娘の沙本之大闇見戸女とも結婚して狭穂彦王が生まれたが、狭穂彦王が生まれる前に彦坐王が亡くなったとすると、長男の狭穂彦王と次男の袁邪本王(おざほのみこ)と長女の狭穂姫(さほひめ)と三男の室毘古王(むろびこのみこ)が四つ子の可能性が考えられる。
饒速日尊は長髄彦(誰を神格化したか不明)の妹の御炊屋姫を妃にしたとされるが、長髄彦が春日建国勝戸女の兄を神格化して、春日建国勝戸女の兄が河内を平定の時に彦坐王に従属した敵の武将の可能性がある。
彦坐王は天皇家誕生(日本建国)の前に河内を平定した時、敵将の長髄彦の妹の春日建国勝戸女をめとって、娘の沙本之大闇見戸女が生まれて妻として、息子の狭穂彦王が生まれて、長髄彦の姪の沙本之大闇見戸女を妹の御炊屋姫に神格化したと考えられる。

饒速日尊(彦坐王を神格化)が亡くなった後に宇摩志麻治命(狭穂彦王を神格化)が生まれた記述は重要で、初代出雲国王の彦坐王が亡くなった後、2代目出雲国王の狭穂彦王が立つまで空白期間がある可能性がある。
狭穂彦王は垂仁天皇5年(西暦156年)に皇位継承権争いの内乱(倭国大乱)を起こして、実妹で皇后の狭穂姫を死なせていて、彦坐王の子供でもかなり遅くに生まれたのが間違いない。
饒速日尊(彦坐王を神格化)は「虚空見つ日本国」と言って日本の国号を決めたのは、饒速日尊が古代太陽神で彦坐王が最古の太陽神の宮司と考えられるからである。
饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王を神格化)は、火明命(彦坐王を神格化)と同一神で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫か曾孫とされて、天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊(ほむだわけのみこと)を神格化)の天孫降臨神話と合わせるため、河内の天孫降臨神話が作られて、火明命が丹波(たには;古代の京都府北中部)の天孫降臨神話を伝える。。
饒速日命と火明命は同一神であることを隠して、『ホツマツタエ』や「記紀」などに様々な偽装工作をほどこしたが、世界でただ一人僕だけが日本神話を完全解釈できた。

『ホツマツタエ』ではナガスネ(長髄彦)と妹のミカシヤ(御炊屋姫)がフトダマ(武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)の孫で、武渟川別の孫が大山守皇子(おおやまもりのみこ)と考えられて、神武天皇(仁徳天皇を祖先化)に反乱したのが長髄彦(大山守皇子を神格化)で、仁徳天皇と大山守皇子が異母兄弟である。
大山守皇子の妹が饒速日命の妃として神格化されているわけではなく、大山守皇子が武渟川別の孫と考えられる。
この河内の天孫降臨神話は、参考文献の『先代旧事本紀 訓註』(大野七三・編者 批評社・発行)に基づいて、日本の建国や国号の由来や古代太陽神の饒速日命の血筋など興味深い情報が分かる。

『ホツマツタエ』によると2代目のホノアカリ(彦坐王を神格化)の息子がクニテル(狭穂彦王(さほひこのみこ)を神格化)で、初代のホノアカリの養子になってニギハヤヒを名乗って、十種(とくさ)の神宝(かんだから)を受け継いで、ニギハヤヒが物部氏の直系祖先神である。
2代目のホノアカリの息子がクニテルの弟タケテルは、狭穂彦王の異母兄弟の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)を神格化していて、海部(あまべ)氏の直系祖先神である。
十種の神宝は『先代旧事本紀』に瀛都鏡(おきつかがみ)と辺都鏡(へつかがみ)が記されて、元伊勢籠(この)神社の伝世鏡の息津鏡(おきつかがみ)と邊津鏡(へつかがみ)に当たると考えられる。

河内に天孫降臨した饒速日命(彦坐王を神格化)と『ホツマツタエ』のニギハヤヒ(狭穂彦王を神格化)は別神で、彦坐王と狭穂彦王が親子だが明確に区別すべきで、神武(じんむ)東征の時の饒速日命も別神である。
神武東征の時の饒速日命は、大臣の初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)と考えられる。
饒速日命は3人存在すると考えられて、彦坐王と狭穂彦王と初代・武内宿禰を神格化していて、3人とも物部氏の血筋にあるのが間違いない。
古代天皇家の歴史を正しく理解していれば、この程度のことを求めるのは簡単だが、僕がアインシュタイン博士以上の天才だからである。
饒速日命は物部氏の神様で、数奇な巡り会わせから複雑化したややこしい存在だった。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』
海部光彦・編著者 元伊勢籠神社社務所・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
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