日本の建国と国号

崇神(すじん)・・・崇(あが)める神の天皇は、崇拝(すうはい)する神様で、実在の初代天皇を意味して、生まれつきの神様でも人間でもある現人神(あらひとがみ)の天皇を崇拝(すうはい)する意味などとも受け取れて、崇(あが)める神の国…日本国も意味する。

西暦81年から83年に実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)と崇神(すじん)天皇は、大阪府から奈良県入りして、西暦84年に日本を建国して、三重県や和歌山県や京都府から奈良県入りしないで、饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;古代の大阪府東部)の天孫降臨神話が大阪府から奈良県入りした神話である。
最古の日本神話は、饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;古代の大阪府東部)の天孫降臨神話で、日本建国(天皇家誕生)の前の戦争を神話化して、僕がひもといて証明した。

饒速日命(にぎはやひのみこと)は、男性の古代太陽神で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の祖先神で、古代太陽神が彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した場合が多く、実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫が代々の太陽神の宮司で、古代太陽神に神格化した理由で、実弟の崇神(すじん)天皇と子孫が代々の天皇である。
古代太陽神の饒速日命(にぎはやひのみこと)の神位(神様の位)は、初代天皇の神武(じんむ)天皇の皇位(天皇の位)に譲渡して、太陽神の初代宮司の彦坐王(ひこいますのみこ)が太陽神の子孫の崇神(すじん)天皇を認めて、出雲王国(物部(もののべ)氏)と古代天皇家の関係が始まって、神武(じんむ)東征の神位と皇位の委譲と別物である。
神武(じんむ)東征の神位と皇位の委譲は、西暦84年に崇神(すじん)天皇が即位した日本の建国(天皇家誕生)と仁徳(にんとく)天皇の即位が合体した物語で、神武(じんむ)天皇が崇神(すじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇を祖先化したのが理由である。

崇神(すじん)天皇は、皇室の先祖である太陽神の子孫だが、実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した古代太陽神の子孫でなく、崇神(すじん)天皇の息子で、彦坐王(ひこいますのみこ)の孫の垂仁(すいにん)天皇の子孫なら、全ての子孫が彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した古代太陽神の子孫と定義付けて、この事実にもっと前に気付いたが、2024年9月29日の午前11時半頃に記した。

神武(じんむ)東征5年(紀元前663年)は、神武(じんむ)天皇の即位日(紀元前660年2月11日;建国記念の日)まで2年間の期間があって、仁徳(にんとく)東征5年(西暦333年)から仁徳(にんとく)天皇の即位日(西暦334年2月上旬頃)と合致せず、神武(じんむ)東征5年から神武(じんむ)天皇の即位日までの空白の2年間の前後に大阪府の平定神話が入って、2024年10月6日の午後に求めた。
日本の建国(天皇家誕生)は、崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)で、空白の2年間が『ホツマツタエ』や『日本書紀』の奈良県の平定で、その2年間よりも前の西暦81年に饒速日尊(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこを神格化)の河内(かわち)の天孫降臨神話が入ると考えられるが、空白の2年間の西暦82年と83年に入る可能性も0%でない。

『ホツマツタエ』神武(じんむ)東征5年の翌年(紀元前662年)に神軍は、巨勢祝(こせのはふり;奈良県御所市古瀬の神職)や添戸畔(そふとべ;奈良県大和郡山(やまとこおりやま)市の新城(にき)神社の領主)や猪祝(いのはふり;奈良県御所市名柄(ながら)の名柄(ながら)神社の神職)の行く手を阻(はば)む土蜘蛛(つちぐも)の一団をことごとく斬り殺した。
また高尾張部(たかおわりべ;奈良県葛城(かつらぎ)市の葛城山の麓(ふもと)は、背の低い土蜘蛛(つちぐも)や怪力(かいりき)の足長蜘蛛(あしながぐも)が岩や木を振り回して、神軍を寄せ付けなかった。
神武(じんむ)天皇は、多賀宮(たかのみや;伊勢神宮外宮の第一の別宮(べつぐう)を守る6代目・大物主神(おおものぬしのかみ)に土蜘蛛(つちぐも)を破る手段を考えさせて、考えた末(すえ)に葛網(くずあみ)を編(あ)んで、それを土蜘蛛(つちぐも)に被(かぶ)せて、ようやく殺せた。

このようにしてやっと国々は、平定されると筑紫(つくし;九州)から天種子(あめたねこ)が上京して、神武(じんむ)天皇が天種子(あめたねこ)と6代目・大物主神(おおものぬしのかみ)に「都(みやこ)を移(うつ)すのに国見(くにみ)をして、良い土地を探してほしい」と命令して、2人が国を巡って見た後に「橿原(かしはら)の地が良いでしょう」と報告した。
神武(じんむ)天皇も同じ考えで、天富(あめとみ;布刀玉命(ふとだまのみこと)の子)に宮殿を作らせた。
また神武(じんむ)天皇は、「また皇后を立てようと思うが、誰が良いだろうか?」と問うと、宇佐津彦(うさつひこ)が「積葉八重事代主(つみはやえことしろぬし)が櫛玉姫(くしたまひめ)と生んだ蹈鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)は、国を代表するような美しい姫で、阿波国(あわのくに;徳島県)にいて、この姫が良いでしょう」と進言して、神武(じんむ)天皇が微笑(ほほえ)んで、皇后にした。
積葉八重事代主(つみはやえことしろぬし)は、恵美寿神(えみすかみ;初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の祭主(まつりぬし)にして、孫の天立櫛根(あだつくしね)を三輪(みわ)の県主(あがたぬし)にして、社(やしろ)を造(つく)らせて、メ月の20日(旧暦の10月20日;11月中旬頃)に大三輪(おおみわ)の神奈備山(かんなびやま)の大祭を行なった。
祭神の倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)にちなんで神武(じんむ)天皇の讃(たた)え名は、神日本磐余彦天君(かんやまといわれひこのあまきみ)に定まって、天皇の即位をあまねく触(ふ)れた。

神武(じんむ)天皇元年(紀元前660年)を奈良県の橿原宮(かしはらのみや)とした神武(じんむ)天皇時代は、なんと偉大なことでしょう。

建国の2年前(西暦82年)に崇神(すじん)天皇の軍は、巨勢祝(こせのはふり;奈良県御所市古瀬の神職)や添戸畔(そふとべ;奈良県大和郡山(やまとこおりやま)市の新城(にき)神社の領主)や猪祝(いのはふり;奈良県御所市名柄(ながら)の名柄(ながら)神社の神職)に協力を求めて、奈良県の周辺地域の領主たちの調整役になったと考えられる。
巨勢祝(こせのはふり)や添戸畔(そふとべ)や猪祝(いのはふり)の行く手を阻(はば)む土蜘蛛(つちぐも)の一団は、奈良県の周辺地域の領主たちが崇神(すじん)天皇に寝返ることを恐(おそ)れて攻撃したが、ことごとく斬り殺した。
また高尾張部(たかおわりべ;奈良県葛城(かつらぎ)市の葛城山の麓(ふもと)は、背の低い土蜘蛛(つちぐも)や怪力(かいりき)の足長蜘蛛(あしながぐも)が岩や木を振り回して、崇神(すじん)天皇の軍を寄せ付けなかった。
崇神(すじん)天皇は、6代目・大物主神(おおものぬしのかみ)の先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)に土蜘蛛(つちぐも)を破る手段を考えさせて、考えた末(すえ)に葛網(くずあみ)を編(あ)んで、それを土蜘蛛(つちぐも)に被(かぶ)せて、ようやく殺せた。

このようにしてやっと国々は、平定されるとどこかからから上京した天種子(あめたねこ)と6代目・大物主神(おおものぬしのかみ)の先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)に「都(みやこ)を移(うつ)すのに国見(くにみ)をして、良い土地を探してほしい」と命令して、2人が国を巡って見た後に「橿原(かしはら)の地が良いでしょう」と報告した。
崇神(すじん)天皇も同じ考えで、天富(あめとみ;布刀玉命(ふとだまのみこと)の子)でなく、先祖の彦坐王(ひこいますのみこ)に宮殿を作らせた。
また崇神(すじん)天皇は、「また皇后を立てようと思うが、誰が良いだろうか?」と問うと、宇佐津彦(うさつひこ;武虎別皇子(たけこわけのみこ)の子で、彦坐王(ひこいますのみこ)を指す)が答えた。「積葉八重事代主(つみはやえことしろぬし;彦坐王(ひこいますのみこ)と櫛玉姫(くしたまひめ;息長水依媛;いきながみずよりひめ)の娘の蹈鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ;御井津媛(みいつひめ)は、国を代表するような美しい姫で、この姫が良いでしょう」と進言して、崇神(すじん)天皇が微笑(ほほえ)んで、皇后にした。
積葉八重事代主(つみはやえことしろぬし;彦坐王(ひこいますのみこ)は、崇神(すじん)天皇時代に古代太陽神の恵美寿神(えみすかみ;初代・大物主神(おおものぬしのかみ)の祭主(まつりぬし)にして、孫の天立櫛根(あだつくしね;子孫の濡渟(うかずくぬ)を三輪(みわ;出雲王国)の県主(あがたぬし)にして、3世紀末から4世紀初頭頃に出雲大社を造(つく)らせたと考えられる。
は、「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
三輪山(みわやま)の祭神の倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)にちなんで神武(じんむ)天皇の讃(たた)え名は、神日本磐余彦天君(かんやまといわれひこのあまきみ)に定まって、天皇の即位を祝福して、大和(おおやまと)神社の祭神の倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)と三輪山(みわやま)の祭神の大物主神(おおものぬしのかみ)が同一神である。
神武(じんむ)天皇の名前でなく、日本国(大和国)の国号が「やまと」になって、神名や人名に「日本;大和;倭(やまと)」と付けるようになった。

崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)は、日本の建国(天皇家誕生)で、奈良県橿原(かしはら)市で即位したと考えられる。

これは僕が『ホツマツタエ』の神武(じんむ)天皇時代を解釈して、西暦82年に崇神(すじん)天皇の軍が協力者を求めて、奈良県の周辺地域の領主たちの調整役になって、決して武力で制圧せず、懐柔(かいじゅう)して取り込んで、反抗の芽(め)を摘(つ)み取ったと考えられる。
神武(じんむ)天皇は、奈良県橿原(かしはら)市で即位して、同じく皇居を置いたと記して、実在の初代の崇神(すじん)天皇が奈良県のどこで即位したか不明で、奈良県磯城(しき)郡(桜井市全域と橿原市や天理市や宇陀市の一部)に皇居を置いて、橿原(かしはら)市の瀬田遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)が崇神(すじん)天皇陵の最有力候補で、橿原(かしはら)市を中心としたと考えられる。
積葉八重事代主(つみはやえことしろぬし)と櫛玉姫(くしたまひめ)の娘の蹈鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)は、彦坐王(ひこいますのみこ)と息長水依媛(いきながみずよりひめ)の娘の御井津媛(みいつひめ)と合致して、崇神(すじん)天皇の皇后で間違いなくて、御井津媛(みいつひめ)が西暦74年頃の生まれで、阿波国(あわのくに;徳島県)にいたか不明である。
彦坐王(ひこいますのみこ)は、崇神(すじん)天皇7年10月1日(西暦90年11月上旬頃)に初代・大物主神(おおものぬしのかみ)を祭って、子孫の濡渟(うかずくぬ)が出雲国造(島根県東部の国主)に任命して、3世紀末から4世紀初頭頃に出雲大社を造(つく)らせたと考えられる。
伊勢神宮内宮と大和(おおやまと)神社と三輪山(みわやま)と出雲大社の祭神は、全て同一神で、同一神でないとも言えて、僕の歴史研究の成果が全ての答えで、正しいか間違いかを日本中や世界中の人々の身と心で判断してほしい。

孝昭(こうしょう)天皇83年8月5日(西暦83年9月上旬頃)に孝昭(こうしょう)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、『ホツマツタエ』の彦坐王(ひこいますのみこ)や崇神(すじん)天皇の誕生日と建国年月日(天皇家誕生)が正しくて、孝昭(こうしょう)天皇時代の年代が西暦年と合致すると考えられる。
『ホツマツタエ』の建国年月日(天皇家誕生)は、西暦年月との対比が正しくて、西暦年と旧暦の使用が真実で、現代人(僕以外の人間)が把握できなかった。

崇神(すじん)天皇元年1月13日に初代の崇神(すじん)天皇は、数え年52才で即位して、二種の神器を授(さず)けられて、後に天皇の御飾(みかざ)りを民に拝(おが)ませて、この日が本当の建国記念日で、日本の建国(天皇家誕生)である。

孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)元年1月7日は、数え年35才で即位して、実年齢が34才で、即位の大礼を挙行して、翌日に民に天皇の御飾り(みかざ)りを拝(おが)ませた。

崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に35才の崇神(すじん)天皇は、おそらく奈良県磯城(しき)郡(桜井市全域と橿原市や天理市や宇陀市の一部)で即位して、二種の神器の神鏡と神剣が皇位継承の証(あかし)として、民に天皇の御飾り(みかざ)りを拝(おが)ませて、これが初代天皇の即位で、2024年が日本の建国(天皇家誕生)1940年目で、60年後が2000年目である。

崇神(すじん)天皇は、即位した場所を奈良県とだけ記して、崇神(すじん)天皇の皇居が所在地不明の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)で、崇神(すじん)天皇陵の最有力候補が奈良県橿原市の瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、崇神(すじん)天皇を祖先化した神武(じんむ)天皇が奈良県橿原市で即位したためである。
奈良県桜井市は、御神体山の三輪山(みわやま)と景行(けいこう)天皇の皇居の纒向日代宮(まきむくひしろのみや)である纒向(まきむく)遺跡と100%間違いない垂仁(すいにん)天皇陵と景行(けいこう)天皇陵を含む大和(おおやまと)古墳群があって、磯城(しき)郡(桜井市全域と橿原市や天理市や宇陀市の一部)で即位したと考えられる。

神武(じんむ)天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日)は、建国記念の日で、正しい歴史と認められない仮(かり)の日付で、皇室の戸籍簿で初代の神武(じんむ)天皇の即位日だが、神武(じんむ)天皇が崇神(すじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇を祖先化して、僕が100%確実に作られた人物と特定して、建国記念の日が嘘(うそ)の日付と証明した。
『ホツマツタエ』孝昭(こうしょう)天皇49年1月1日(西暦49年2月上旬頃)に孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)は生まれて、神武(じんむ)天皇が崇神(すじん)天皇を祖先化して、崇神(すじん)天皇の誕生日を初代天皇の神武(じんむ)天皇の即位日(建国記念の日)にして、崇神(すじん)天皇の誕生日が年齢計算などの証拠で、間違いなく正しいと考えられる。
崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)は、正式な建国記念日で、正しい西暦年月日を特定して、日本国の正式な建国の年月日を皇室の名の下に公表して、国民と世界中に知らせる必要がある。
僕は2003年7月頃に崩年干支(ほうねんかんし)を基に即位年干支法(そくいねんかんしほう)を命名して、翌年2004年が崇神(すじん)天皇元年と同じ甲申(きのえさる)の年で、2004年11月12日か13日に橿原(かしはら)神宮の絵馬に「天皇家誕生1920年目・・・」と書いて飾って、僕の超頭脳・超感性の偉大さを示した。
建国記念の日は廃止して、日本国の正式な建国記念日を西暦年月日で特定して、日本国政府が国民の休日に建国記念日を加えるのが急務で、僕の功績が世界中を震撼(しんかん)させる。

歴史学(歴史書解釈)で日本最古の年号は、後漢(ごかん)王朝の建武中元2年(西暦57年)で、福岡市志賀島(しかのしま)から出土した「漢委奴國王(かんいぬこくおう)」の金印が奴国(ぬこく)に送られて、2番目に古いのが日本の建国年(天皇家誕生)の崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)である。

崇神(すじん)天皇は、即位時の数え年52才が嘘(うそ)で、実年齢35才が正しくて、崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に102才で亡くなって、娘の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が西暦74年頃の生まれで、垂仁(すいにん)天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に102才まで生きて、親子が共に102才まで生きた。
崇神(すじん)天皇の実兄である彦坐王(ひこいますのみこ)の息子(おい)の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、四つ子の長男なら最低でも104才だが、少なくとも107才以上で亡くなったと考えられて、皇族で最高齢である。

孝昭(こうしょう)天皇の名前の観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)は、崇神(すじん)天皇の名前の御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいそにえのみこと)が「みま」の呼び方と「殖」の漢字が合致して、親子関係を証明できた。
崇神(すじん)天皇の実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)は、諱(いみな)が有祇(ありつみ)である。
崇神(すじん)天皇は、名前が御間城入彦(みまきいりひこ)で、諱(いみな)が五十瓊殖(いそにえ)で、諱(いみな)が真名(まな)とも呼んで、本名(ほんみょう)を指して、「忌(い)み名」と書き換えられて、古代に貴人や死者を本名(ほんみょう)で呼ぶことを避ける風習がある。
諱(いみな)に対して字(あざな)は、中国で姓や名以外に付けた別名や通称で、現代人の多くが諱(いみな)でなく、本名(ほんみょう)や字(あざな)を使って、僕に諱(いみな)がなくて、真也(しんや)が両親にもらった本名(ほんみょう)で、高校生か短大生で、自分の名前をヘボン式ローマ字に直して、シャイニー・アッシュ(輝く灰)の呼び名を見つけた。
僕の名字(みょうじ)の芦田(あしだ)氏は、清和(せいわ)源氏で長野県の芦田家光が兵庫県丹波市青垣町の東芦田・西芦田に引っ越しして、僕の暮らす京都府福知山市に土着して、日本国憲法を作成した委員長の芦田均(あしだひとし)元首相などを輩出して、僕の家系が養子を取ったため、天皇家の血筋が断絶した。

崇神(すじん)天皇の即位は、二種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)と八重垣剣(やえがきのつるぎ)を使って、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)が出雲王家(物部(もののべ)氏)の宮殿で保管して、垂仁(すいにん)天皇の最初の皇后が物部(もののべ)氏の狭穂姫(さほひめ)で、以降に皇室の血筋に物部(もののべ)氏の血筋を加えるのを許さなかった。
三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)は、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と別の神剣で、『ホツマツタエ』が記す三種の神器の神剣で、別名を逆矛(さかほこ)などと記して、本当の皇位継承物と考えられる。
5代目オオモノヌシの物部夏花(もののべのなつはな)は、養子にした6代目オオモノヌシの彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと;神櫛皇子(かんぐしのみこ)と同一人物)に先祖伝来のムラクモノツルギ(草薙剣;くさなぎのつるぎ)を譲(ゆず)って、物部(もののべ)氏の神剣が草薙剣(くさなぎのつるぎ)で、新しい三種の神器の神剣になったと考えられる。
4代目出雲国王の物部十市根(もののべのといちね)は、垂仁(すいにん)天皇の娘の大中姫(おおなかひめ)と結婚して、出雲王家(物部(もののべ)氏)の神宝の八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)を石上(いそのかみ)神宮に奉納して、三種の神器に加えて、以降にずっと皇室の血筋に物部(もののべ)氏の血筋を加える許可が出された。
二種の神器は、忘れ去られた皇室と出雲王家(物部(もののべ)氏)の密約で、『ホツマツタエ』や「記紀」の記述を正しく分析できる僕にしか求められなかった。

神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)時代は、饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が「空見(そらみ)つ日本国(やまとのくに)(大空から眺(なが)めて、良い国だと選ばれた日本(やまと)の国)」と日本の国号を名付けた。
彦坐王(ひこいますのみこ)は、最古の太陽神の宮司で、古代太陽神氏族の和珥(わに)氏の始祖でもあって、国号決めにふさわしい立場で、実弟の崇神(すじん)天皇が太陽神の子孫にすぎなくて、日本国(やまとのくに)が日本全土でなく、おそらく大和国(やまとのくに;奈良県)を指して、「記紀」時代の日本の国号を神話化したと考えられる。
崇神(すじん)天皇時代に大和国(やまとのくに)と名付けたのは、後世に拡大解釈して、日本全土を日本国(やまとのくに)と名付けて、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)も大和の土地神で、後世に日本(やまと)全土の土地神と拡大解釈して、大和(やまと)と日本(やまと)を同一視したと考えられる。

大阪府は、弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増して、天皇家誕生で平定した土地を整備したと考えられる。
参考文献『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』(発行・株式会社洋泉社)で、兵庫県淡路市の舟木(ふなき)遺跡と五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡は、弥生時代後期初頭から始まる遺跡で、古代天皇家が鉄器生産した根拠と考えられる。
舟木(ふなき)遺跡は、弥生時代後期末まで鉄器と手工業品を生産して、五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡が弥生時代後期初頭から100年ほど続いた鉄器生産集落だった。
弥生時代後期の奈良県や大阪府は、京都府や兵庫県や鳥取県や島根県などに比べて、鉄器の出土量が少ないが、天皇家誕生の他の考古学的証拠が多くて、鉄器だけが考古学的証拠でないと考えられる。
日本の建国(天皇家誕生)後は、弥生時代後期初頭から始まって、大阪府から奈良県の辺りを統治して、奈良県の考古学的証拠を知らなくて、京都府や兵庫県や鳥取県や島根県で鉄を大量に保持して、奈良県や大阪府の鉄が少ないが、弥生時代後期に鉄が増えて、弥生時代が稲作で栄えて、鉄と米が古代天皇家の権力の象徴と考えられる。

日本の建国と国号は、『ホツマツタエ』を基にして、僕以外に求められなくて、正しい血筋や特徴や神話などを求めて、考古学と歴史学を合致した建国(天皇家誕生)の証拠を列挙できる。

<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』
発行・株式会社洋泉社
インターネットの不明サイトから少々拝借

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