日本の建国と国号


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

西暦83年までに奈良県は、異民族が侵攻して武力制圧して、それが歴史上初めての古代天皇家の登場で、大阪府から侵攻して、三重県が出てくる時期が遅くて、三重県から侵攻した可能性が低い。
饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;古代の大阪府東部)の天孫降臨神話は、大阪府を平定して、奈良県入りした天皇家最古の物語で、日本神話と史実(歴史上の事実)で、最古の伝承と考えられる。

饒速日命(にぎはやひのみこと)は、男性の古代太陽神で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の祖先神で、古代太陽神が彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した場合が多く、実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫が代々の太陽神の宮司で、古代太陽神に神格化した理由で、実弟の崇神(すじん)天皇と子孫が代々の天皇である。
古代太陽神の饒速日命(にぎはやひのみこと)の神位(神様の位)は、初代天皇の神武(じんむ)天皇に皇位(天皇の位)として譲渡して、太陽神の初代宮司の彦坐王(ひこいますのみこ)から太陽神の子孫の崇神(すじん)天皇を認めて、出雲王国(物部(もののべ)氏)と古代天皇家の関係が始まって、神武(じんむ)東征の神位と皇位の委譲と別物である。

神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)時代は、饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が「空見(そらみ)つ日本国(やまとのくに)(大空から眺(なが)めて、良い国だと選ばれた日本(やまと)の国)」と日本の国号を名付けた。
彦坐王(ひこいますのみこ)は、最古の太陽神の宮司で、古代太陽神氏族の和珥(わに)氏の始祖でもあって、国号決めにふさわしい立場で、実弟の崇神(すじん)天皇が太陽神の子孫にすぎなくて、日本国(やまとのくに)が日本全土でなく、おそらく大和国(やまとのくに;奈良県)を指して、「記紀」時代の日本の国号を神話化したと考えられる。
崇神(すじん)天皇時代に大和国(やまとのくに)と名付けたのは、後世に拡大解釈して、日本全土を日本国(やまとのくに)と名付けて、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)も大和の土地神で、後世に日本(やまと)全土の土地神と拡大解釈して、大和(やまと)と日本(やまと)を同一視したと考えられる。

崇神(すじん)天皇元年1月13日に初代の崇神(すじん)天皇は、数え年52才で即位して、二種の神器を授(さず)けられて、後に天皇の御飾(みかざ)りを民に拝(おが)ませて、この日が本当の建国記念日で、日本の建国(天皇家誕生)である。

孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)元年1月7日は、数え年35才で即位して、実年齢が34才で、即位の大礼を挙行して、翌日に民に天皇の御飾り(みかざ)りを拝(おが)ませた。

崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に崇神(すじん)天皇は、年齢が35才で、奈良県磯城(しき)郡(桜井市全域と橿原市や天理市や宇陀市の一部)で、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)を除いた二種の神器を授(さず)けられて、民に天皇の御飾り(みかざ)りを拝(おが)ませて、これが初代天皇の即位である。

神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)即位日は、神武(じんむ)天皇1月1日(紀元前660年2月11日)の建国記念の日で、正しい歴史と認められなくて建国記念日でなく、建国記念の日と建国記念日が決定的に違って、崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)が本当の建国記念日で、この旧暦の日付が正しい西暦年月日を特定する必要がある。
僕は2003年7月頃に即位年干支法(そくいねんかんしほう)を命名して、崇神(すじん)天皇元年が甲申(きのえさる)の年で、2004年と同じ甲申(きのえさる)の西暦84年が建国年(天皇家誕生)と求めて、2004年11月12日か13日に橿原神宮の絵馬に「天皇家誕生1920年目」と書いて、すでに僕の才能の片鱗(へんりん)を見せたが、自分の超頭脳に気付いてなかった。

崇神(すじん)天皇は、数え年52才が嘘(うそ)で、即位時が35才で、崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)に娘の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の年齢が10才頃で、父娘が共に102才まで生きた。
崇神(すじん)天皇は、名前が御間城入彦(みまきいりひこ)で、諱(いみな)が五十瓊殖(いそにえ)で、『日本書紀』で御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいそにえのみこと)と記す。
諱(いみな)は真名(まな)とも呼ばれて、本名(ほんみょう)を指して、「忌(い)み名」と書き換えられて、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける風習があって、諱(いみな)に対して普通に人を呼ぶ名前を字(あざな)と言って、現代人の多くが諱(いみな)でなく、字(あざな)を使って、僕も諱(いみな)がなくて、字(あざな)である。

大阪府は、弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増して、天皇家誕生で平定した土地を整備したと考えられる。
参考文献『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』(発行・株式会社洋泉社)で、兵庫県淡路市の舟木(ふなき)遺跡と五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡は、弥生時代後期初頭から始まる遺跡で、古代天皇家が鉄器生産した根拠と考えられる。
舟木(ふなき)遺跡は、弥生時代後期末まで鉄器と手工業品を生産して、五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡が弥生時代後期初頭から100年ほど続いた鉄器生産集落だった。
日本の建国(天皇家誕生)後は、弥生時代後期初頭から始まって、大阪府から奈良県の辺りを統治して、奈良県の考古学的証拠を知らなくて、淡路島や京都府や鳥取県や島根県で鉄を大量に保持して、弥生時代が稲作で栄えて、鉄と米が権力の象徴と考えられる。

日本の建国と国号は、『ホツマツタエ』を基にして、僕以外に求められなくて、正しい血筋や特徴や神話などを求めて、考古学と歴史学を合致した建国(天皇家誕生)の証拠を列挙できる。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
インターネット

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