日本の建国と国号
崇神(すじん)・・・崇(あが)める神の天皇は、崇拝(すうはい)する神様で、実在の初代天皇を意味して、生まれつきの神様でも人間でもある現人神(あらひとがみ)の天皇を崇拝(すうはい)する意味などとも受け取れる。
西暦83年に実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)と崇神(すじん)天皇は、大阪府から奈良県入りして、翌年84年に日本を建国して、三重県や和歌山県や京都府から奈良県入りしないで、饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;古代の大阪府東部)の天孫降臨神話が大阪府から奈良県入りした神話である。
最古の日本神話は、饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)の河内(かわち;古代の大阪府東部)の天孫降臨神話が日本建国(天皇家誕生)の前年83年の戦争を神話化して、僕がひもといて証明した。
崇神(すじん)天皇64年(西暦147年)の伊賀(いが;三重県北西部)の隠市守宮(なばりいちもりのみや;所在地不明)は、三重県名張(なばり)市に候補地が複数ある元伊勢で、それ以前に三重県が平定された証拠がなくて、大阪府から奈良県入りして、初代の崇神(すじん)天皇が即位したと考えられる。
饒速日命(にぎはやひのみこと)は、男性の古代太陽神で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の祖先神で、古代太陽神が彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化した場合が多く、実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)と子孫が代々の太陽神の宮司で、古代太陽神に神格化した理由で、実弟の崇神(すじん)天皇と子孫が代々の天皇である。
古代太陽神の饒速日命(にぎはやひのみこと)の神位(神様の位)は、初代天皇の神武(じんむ)天皇の皇位(天皇の位)に譲渡して、太陽神の初代宮司の彦坐王(ひこいますのみこ)が太陽神の子孫の崇神(すじん)天皇を認めて、出雲王国(物部(もののべ)氏)と古代天皇家の関係が始まって、神武(じんむ)東征の神位と皇位の委譲と別物である。
神武(じんむ)東征の神位と皇位の委譲は、西暦84年に崇神(すじん)天皇が即位した日本の建国(天皇家誕生)と仁徳(にんとく)天皇の即位が合体した物語で、神武(じんむ)天皇が崇神(すじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇を祖先化したのが理由である。
孝昭(こうしょう)天皇83年8月5日(西暦83年9月上旬頃)に孝昭(こうしょう)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、『ホツマツタエ』の彦坐王(ひこいますのみこ)や崇神(すじん)天皇の誕生日と建国年月日(天皇家誕生)が正しくて、孝昭(こうしょう)天皇時代の年代が西暦年と合致すると考えられる。
『ホツマツタエ』の建国年月日(天皇家誕生)は、西暦年月との対比が正しくて、西暦年と旧暦の使用が真実で、現代人(僕以外の人間)が把握できなかった。
崇神(すじん)天皇元年1月13日に初代の崇神(すじん)天皇は、数え年52才で即位して、二種の神器を授(さず)けられて、後に天皇の御飾(みかざ)りを民に拝(おが)ませて、この日が本当の建国記念日で、日本の建国(天皇家誕生)である。
孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)元年1月7日は、数え年35才で即位して、実年齢が34才で、即位の大礼を挙行して、翌日に民に天皇の御飾り(みかざ)りを拝(おが)ませた。
崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に35才の崇神(すじん)天皇は、奈良県で即位して、二種の神器の神鏡と神剣が皇位継承の証(あかし)として、民に天皇の御飾り(みかざ)りを拝(おが)ませて、2024年が日本の建国(天皇家誕生)1940年目で、60年後が2000年目で、奈良県のどこで即位したと『ホツマツタエ』も『日本書記』も記さず、これが初代天皇の即位である。
崇神(すじん)天皇は、おそらく奈良県磯城(しき)郡(桜井市全域と橿原(かしはら)市や天理市や宇陀市の一部)で即位して、皇居が所在地不明の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)で、崇神(すじん)天皇陵の最有力候補が瀬田(せた)遺跡の円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)で、祖先化した神武(じんむ)天皇が奈良県橿原(かしはら)市で即位したためである。
歴史学(歴史書解釈)で日本最古の年号は、後漢(ごかん)王朝の建武中元2年(西暦57年)で、福岡市志賀島(しかのしま)から出土した「漢委奴國王(かんいぬこくおう)」の金印が奴国(ぬこく)に送られて、2番目に古いのが日本の建国(天皇家誕生)の崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)である。
神武(じんむ)天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日)は、建国記念の日で、正しい歴史と認められない仮(かり)の日付で、皇室の戸籍簿で初代の神武(じんむ)天皇の即位日だが、神武(じんむ)天皇が崇神(すじん)天皇と仁徳(にんとく)天皇を祖先化して、僕が100%確実に作られた人物と特定して、建国記念の日が嘘(うそ)の日付と証明した。
『ホツマツタエ』孝昭(こうしょう)天皇49年1月1日(西暦49年2月上旬頃)に孝安(こうあん)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)は生まれて、神武(じんむ)天皇が崇神(すじん)天皇を祖先化して、崇神(すじん)天皇の誕生日を初代天皇の神武(じんむ)天皇の即位日(建国記念の日)にして、崇神(すじん)天皇の誕生日が年齢計算などの証拠で、間違いなく正しいと考えられる。
崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)は、正式な建国記念日で、正しい西暦年月日を特定して、日本国の正式な建国の年月日を皇室の名の下に公表して、国民と世界中に知らせる必要がある。
僕は2003年7月頃に崩年干支(ほうねんかんし)を基に即位年干支法(そくいねんかんしほう)を命名して、翌年2004年が崇神(すじん)天皇元年と同じ甲申(きのえさる)の年で、2004年11月12日か13日に橿原(かしはら)神宮の絵馬に「天皇家誕生1920年目・・・」と書いて飾って、僕の超頭脳・超感性の偉大さを示した。
建国記念の日は廃止して、日本国の正式な建国記念日を西暦年月日で特定して、日本国政府が国民の休日に建国記念日を加えるのが急務で、僕の功績が世界中を震撼(しんかん)させる。
崇神(すじん)天皇は、即位時の数え年52才が嘘(うそ)で、実年齢35才が正しくて、崇神(すじん)天皇68年12月5日(西暦152年1月上旬頃)に102才で亡くなって、娘の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が西暦74年頃の生まれで、垂仁(すいにん)天皇25年3月8日(西暦176年4月上旬頃)に102才まで生きて、親子が共に102才まで生きた。
崇神(すじん)天皇の実兄である彦坐王(ひこいますのみこ)の息子(おい)の丹波道主王(たにはみちぬしのみこ)は、四つ子の長男なら最低でも104才だが、少なくとも107才以上で亡くなったと考えられて、皇族で最高齢である。
孝昭(こうしょう)天皇の名前の観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)は、崇神(すじん)天皇の名前の御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいそにえのみこと)が「みま」の呼び方と「殖」の漢字が合致して、親子関係を証明できた。
崇神(すじん)天皇の実兄の彦坐王(ひこいますのみこ)は、諱(いみな)が有祇(ありつみ)である。崇神(すじん)天皇は、名前が御間城入彦(みまきいりひこ)で、諱(いみな)が五十瓊殖(いそにえ)で、諱(いみな)が真名(まな)とも呼んで、本名(ほんみょう)を指して、「忌(い)み名」と書き換えられて、古代に貴人や死者を本名(ほんみょう)で呼ぶことを避ける風習がある。
諱(いみな)に対して字(あざな)は、中国で姓や名以外に付けた別名や通称で、現代人の多くが諱(いみな)でなく、本名(ほんみょう)や字(あざな)を使って、僕に諱(いみな)がなくて、真也(しんや)が両親にもらった本名(ほんみょう)で、高校生か短大生で、自分の名前をヘボン式ローマ字に直して、シャイニー・アッシュ(輝く灰)の呼び名を見つけた。
僕の名字(みょうじ)の芦田(あしだ)氏は、清和(せいわ)源氏で長野県の芦田家光が兵庫県丹波市青垣町の東芦田・西芦田に引っ越しして、僕の暮らす京都府福知山市に土着して、日本国憲法を作成した委員長の芦田均(あしだひとし)元首相などを輩出して、僕の家系が養子を取ったため、天皇家の血筋が断絶した。
崇神(すじん)天皇の即位は、二種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)と八重垣剣(やえがきのつるぎ)を使って、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)が出雲王家(物部(もののべ)氏)の宮殿で保管して、垂仁(すいにん)天皇の最初の皇后が物部(もののべ)氏の狭穂姫(さほひめ)で、以降に皇室の血筋に物部(もののべ)氏の血筋を加えるのを許さなかった。
三種の神器の八重垣剣(やえがきのつるぎ)は、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と別の神剣で、『ホツマツタエ』が記す三種の神器の神剣で、別名を逆矛(さかほこ)などと記して、本当の皇位継承物と考えられる。
5代目オオモノヌシの物部夏花(もののべのなつはな)は、養子にした6代目オオモノヌシの彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと;神櫛皇子(かんぐしのみこ)と同一人物)に先祖伝来のムラクモノツルギ(草薙剣;くさなぎのつるぎ)を譲(ゆず)って、物部(もののべ)氏の神剣が草薙剣(くさなぎのつるぎ)で、新しい三種の神器の神剣になったと考えられる。
4代目出雲国王の物部十市根(もののべのといちね)は、垂仁(すいにん)天皇の娘の大中姫(おおなかひめ)と結婚して、出雲王家(物部(もののべ)氏)の神宝の八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)を石上(いそのかみ)神宮に奉納して、三種の神器に加えて、以降にずっと皇室の血筋に物部(もののべ)氏の血筋を加える許可が出された。
二種の神器は、忘れ去られた皇室と出雲王家(物部(もののべ)氏)の密約で、『ホツマツタエ』や「記紀」の記述を正しく分析できる僕にしか求められなかった。
神武(じんむ)天皇(崇神(すじん)天皇を祖先化)時代は、饒速日命(にぎはやひのみこと;彦坐王(ひこいますのみこ)を神格化)が「空見(そらみ)つ日本国(やまとのくに)(大空から眺(なが)めて、良い国だと選ばれた日本(やまと)の国)」と日本の国号を名付けた。
彦坐王(ひこいますのみこ)は、最古の太陽神の宮司で、古代太陽神氏族の和珥(わに)氏の始祖でもあって、国号決めにふさわしい立場で、実弟の崇神(すじん)天皇が太陽神の子孫にすぎなくて、日本国(やまとのくに)が日本全土でなく、おそらく大和国(やまとのくに;奈良県)を指して、「記紀」時代の日本の国号を神話化したと考えられる。
崇神(すじん)天皇時代に大和国(やまとのくに)と名付けたのは、後世に拡大解釈して、日本全土を日本国(やまとのくに)と名付けて、倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)も大和の土地神で、後世に日本(やまと)全土の土地神と拡大解釈して、大和(やまと)と日本(やまと)を同一視したと考えられる。
大阪府は、弥生時代中期末に大規模集落遺跡の大半が消滅か断絶して、弥生時代後期初頭(西暦100年前後)に小規模集落遺跡が急増して、天皇家誕生で平定した土地を整備したと考えられる。
参考文献『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』(発行・株式会社洋泉社)で、兵庫県淡路市の舟木(ふなき)遺跡と五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡は、弥生時代後期初頭から始まる遺跡で、古代天皇家が鉄器生産した根拠と考えられる。
舟木(ふなき)遺跡は、弥生時代後期末まで鉄器と手工業品を生産して、五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡が弥生時代後期初頭から100年ほど続いた鉄器生産集落だった。
弥生時代後期の奈良県や大阪府は、京都府や兵庫県や鳥取県や島根県などに比べて、鉄器の出土量が少ないが、天皇家誕生の他の考古学的証拠が多くて、鉄器だけが考古学的証拠でないと考えられる。
日本の建国(天皇家誕生)後は、弥生時代後期初頭から始まって、大阪府から奈良県の辺りを統治して、奈良県の考古学的証拠を知らなくて、京都府や兵庫県や鳥取県や島根県で鉄を大量に保持して、奈良県や大阪府の鉄が少ないが、弥生時代後期に鉄が増えて、弥生時代が稲作で栄えて、鉄と米が古代天皇家の権力の象徴と考えられる。
日本の建国と国号は、『ホツマツタエ』を基にして、僕以外に求められなくて、正しい血筋や特徴や神話などを求めて、考古学と歴史学を合致した建国(天皇家誕生)の証拠を列挙できる。
<参考文献>
『古代日本史への挑戦』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『続・私の半生と古代日本史』
著者・僕 発行・株式会社オカムラ
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
『古事記(上)(中)(下)―全三巻―』
著者・次田真幸 発行・株式会社講談社
『完訳秀真伝(上巻)(下巻)』
編著者・鳥居礼 発行・八幡書店
『ホツマ辞典』
著者・池田満 発行・ホツマ刊行会
『別冊歴史REAL 地形と地図で読み解く古代史』
発行・株式会社洋泉社
インターネットの不明サイトから少々拝借
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