『日本書紀』
『日本書紀』は、天武(てんむ)天皇が天武(てんむ)天皇10年(西暦681年)に編纂(へんさん;色々な史料を集めて、整理や加筆などで書物をまとめること)を命じて、40年間を多くの官人が協力して、史料の研究・分析を繰り返して、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に『日本書紀』を養老(ようろう)4年(西暦720年)に献上したと記す。
『日本書紀』の編者(へんしゃ;書物などの編集者)は、舎人(とねり)親王(天武(てんむ)天皇の第6皇子)で、他に紀清人(きのきよひと)や三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)などが編纂(へんさん)の実務を担当して、『古事記』の編者(へんしゃ)の太安万侶(おおのやすまろ)も編纂(へんさん)に加わって、もっと多くの人数でまとめて、40年間の編集期間が僕の分析結果から正しいと考えられる。
『古事記』を暗誦(あんしょう;記憶したことを口に出して唱えること)した稗田阿礼(ひえだのあれい)は、『ホツマツタエ』を暗誦(あんしょう)した数少ない人物と考えられて、暗誦(あんしょう)した内容を編者(へんしゃ)の太安万侶(おおのやすまろ)が『古事記』を記録して、稗田阿礼(ひえだのあれい)が『日本書紀』の暗誦(あんしょう)をした記録がない。
『日本書紀』は、『ホツマツタエ』や『古事記』が内容を補完(ほかん;不十分な部分を補強して、完全な物にすること)して、当時の最高権力者の藤原不比等(ふじわらのふひと)が「記紀」を検閲(けんえつ)して、都合の悪い歴史を徹底的に改竄(かいざん)して、隠した可能性が高くて、西暦720年に「記紀」を同時に献上したと考えられる。
『ホツマツタエ』は、6世紀から7世紀中に成立した日本最古の書物で、『古事記』が西暦712年に献上した2番目に古い書物で、『日本書紀』が西暦720年に献上した3番目に古い書物とするが、「記紀」が同時の西暦720年に献上された可能性がある。
『古事記』は、西暦712年の献上と嘘(うそ)をついて、『日本書紀』と同時の西暦720年)に献上した可能性が高くて、「記紀」が即位年干支法(そくいねんかんしほう)と崩年干支(ほうねんかんし)の関連性を証明して、『古事記』が記述の2人だけでまとめたのが嘘(うそ)で、第三者の複数人でまとめたと証明して、僕を騙(だま)せなかった。
「記紀」の干支(えと)の即位年干支法(そくいねんかんしほう)と崩年干支(ほうねんかんし)は、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代と倭(わ)の五王時代の歴代天皇を隠すため、嘘(うそ)の年代を作るために利用したが、逆に僕だけが違和感を覚えて、本当に正しい年代を再構成して、特定する「きっかけ」になった。
西暦年は、6世紀の西暦525年にできて、『ホツマツタエ』が西暦年を利用して、6世紀から7世紀に完成して、「記紀」も西暦年を使用して、僕が『ホツマツタエ』と「記紀」の西暦年の使用を証明して、凡人(僕以外の人間)が「記紀」の西暦年の使用を証明してなくて、僕の実力が別格である。
『日本書紀』は、古代中国の『三国志・魏志倭人伝』や古代朝鮮の『百済記(くだらき)』などの内容を記して、日本のシルクロードが遣隋使や遣唐使が7世紀から9世紀頃で、『ホツマツタエ』と『日本書紀』の西暦年の使用を証明して、西洋の暦(こよみ;太陽暦)の使用で、ヨーロッパと天皇家が交流した可能性も排除できない。
『ホツマツタエ』は、実在の初代の崇神(すじん)天皇から5代目の仁徳(にんとく)天皇まで記して、3世紀中頃までの邪馬台国(大和国;やまとこく)時代まで記して、『日本書紀』が5世紀の倭(わ)の五王を付け加えて、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代と倭(わ)の五王時代を混乱させるため、嘘(うそ)の系図と在位期間を作り出した。
『ホツマツタエ』は、神武(じんむ)天皇元年(紀元前660年)から景行(けいこう)天皇56年(西暦126年)までの年代を記して、伊勢神宮内宮の遷宮年が垂仁天皇26年(紀元前4年)で、2000年以上前に遷宮したと計算して、『日本書紀』が景行(けいこう)天皇よりも後世の歴代天皇の在位期間も改竄(かいざん)して、混乱するように仕向けた。
『日本書紀』は、在位しない成務(せいむ)天皇60年が西暦191年で、神功(じんぐう)皇后の摂政(せっしょう)69年が西暦269年で、皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)元年が西暦270年で、仁徳(にんとく)天皇元年が西暦313年で、武烈(ぶれつ)天皇8年が西暦506年で、継体(けいたい)天皇元年が西暦507年で、新しい血筋で確実に実在した天皇とする。
『日本書紀』は、歴代天皇の在位期間や年齢を干支(えと)の年の60年間を利用して、たし算や引き算で60年間を増減して、神武(じんむ)天皇から武烈(ぶれつ)天皇まで実在したか分からない在位期間を混乱させた簡単な計算方法と考えられて、継体(けいたい)天皇元年(西暦507年)が史実・真実・事実で、信頼できる西暦年の特定法である。
神武(じんむ)天皇元年から武烈(ぶれつ)天皇8年までの在位期間は、「歴代天皇の在位期間の対比図」の章に詳細に記して、僕が特定した正しい在位期間と共に利用して、参考史料として使ってほしい。
『ホツマツタエ』は、出雲王国(物部(もののべ)氏)が崇神(すじん)天皇12年に建国して、崇神(すじん)天皇時代に出雲王国の崩壊を記して、『日本書紀』が成務(せいむ)天皇60年6月11日に成務(せいむ)天皇(日本武尊(やまとたけのみこと)と同一人物)が亡くなって、出雲大社の神在祭(かみありさい)が仲哀(ちゅうあい)天皇9年神無月11日から17日(西暦260年11月中旬頃)で合致して、『ホツマツタエ』と『日本書紀』の西暦年の使用を証明した。
『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇46年は、『日本書紀』で景行(けいこう)天皇51年に改められて、天皇不在の年(西暦251年)に当たって、『ホツマツタエ』と『日本書紀』の西暦年の使用を証明して、日本武(やまとたけ)天皇の強行即位日も証明して、これらを2024年6月7日の午後8時頃に記した。
『日本書紀』の仲哀(ちゅうあい)天皇元年閏年(うるうどし)11月4日は、天皇不在の年11月4日(西暦251年12月上旬頃)が251年ではみ出して、『日本書紀』が古代中国の太陰太陽暦の閏月(うるうづき)でなく、ヨーロッパの太陽暦の閏年(うるうどし)を指すと考えられて、これを2024年6月7日の午後10時頃に記した。
これらの理由は、『ホツマツタエ』と『日本書紀』の西暦年の使用を完全に証明して、100%否定することができなくて、理論的に確実な史実・真実・事実である。
皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)元年は、西暦270年で、雄略(ゆうりゃく)天皇23年が西暦479年で、応神(おうじん)天皇から雄略(ゆうりゃく)天皇の7人の中に5世紀の倭(わ)の五王がいて、現在の専門家(考古学会と歴史学会)の定説(常識)だが、僕が100%完全な間違いと証明した。
「歴代天皇の在位期間の対比図」や「歴代天皇の漢風諡号(しごう)」や「倭(わ)の五王の定説と自論」などの章は、専門家(考古学会と歴史学会)の定説(常識)が100%確実に間違いで、僕の自論が歴代天皇の年号の合致を論理的に証明して、どちらが正しいか考えるまでもない。
皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)元年は、西暦270年で、仁徳(にんとく)天皇87年が西暦399年で、60年間を引き算して、応神(おうじん)天皇元年が西暦330年で、仁徳(にんとく)天皇27年が西暦399年なら、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代を計算できると馬鹿の凡人(僕以外の人間)が考える。
崇神(すじん)天皇から神功(じんぐう)皇后までの年代は、年号を完全に無視して、卑弥呼(ひみこ)を倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)で、男弟(だんてい)を崇神(すじん)天皇で、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代が崇神(すじん)天皇までで、日本武尊(やまとたけのみこと)が3世紀後半で、神功(じんぐう)皇后が4世紀初めの人物と無理矢理に当てはめて、勘違いも滅茶苦茶である。
神武(じんむ)天皇元年(紀元前660年)から武烈(ぶれつ)天皇8年(西暦506年)までは、完全な嘘(うそ)の年代で、『日本書紀』が騙(だま)すために作った定説(常識)で、常識・固定観念・先入観・理屈・伝統・拡大解釈を利用して、思い込むように作られたが、思い込みを排除できる僕の神技(かみわざ)が全てを暴(あば)いた。
凡人(僕以外の人間)は、『ホツマツタエ』と「記紀」の編者(へんしゃ;書物などの編集者)の常識に無意識で捕らわれて、決して外(はず)れない罠(わな)にかかって、誰も絶対に抜け出せず、世界中でただ一人の僕だけが脱出して、解答を作り上げた教本(僕の本やホームページなど)で、基礎知識を他人に教えて、僕の偉大さを知らしめた。
『ホツマツタエ』と「記紀」は、簡単に読める歴史書でなく、超高度な作業で作り上げた歴史書で、超天才の僕でも特定に21年半以上の時間がかかって、未(いま)だに全てをひもとけなくて、非常に高いレベルで、意識的に勘違いするように作ったと考えられる。
崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)は、日本の建国(天皇家誕生)で、今年2024年が建国1940年目で、摂政(せっしょう)69年(西暦329年)で年代が途切れて、垂仁(すいにん)天皇5年(西暦156年)の狭穂彦王(さほひこのみこ)の反乱(倭国大乱;わこくたいらん)から摂政(せっしょう)6年(西暦266年)の古代中国の西晋(せいしん)王朝遣使までが邪馬台国(大和国;やまとこく)時代である。
崇神(すじん)天皇元年(西暦84年)から摂政(せっしょう)69年(西暦329年)は、2003年7月頃に『日本書紀』の干支(えと)の即位年干支法(そくいねんかんしほう)を西暦年で特定して、仁徳(にんとく)天皇元年(西暦334年)から武烈(ぶれつ)天皇32年(西暦506年)が2023年5月25日の午後5時頃に『古事記』の干支(えと)の崩年干支(ほうねんかんし)で特定して、正しい歴代天皇の在位期間を確定した。
正しい歴代天皇の在位期間は、約20年かけて僕が特定した奇跡で、僕の研究成果がなければ、一生かけても誰も求められない永遠の謎(なぞ)だったはずで、この圧倒的に偉大な功績が後世の伝説になる。
『三国志・魏志倭人伝』の卑弥呼(ひみこ)と男弟(だんてい)は、『ホツマツタエ』がヤマトヒメの異母弟を景行(けいこう)天皇で、「記紀」が景行(けいこう)天皇の実妹を倭姫命(やまとひめのみこと)と偽装工作して、「記紀」が真実を隠して、『ホツマツタエ』の方が古くて、正確な情報で100%間違いない。
垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)は、伊勢神宮内宮の最終遷宮日で、『日本書紀』から日付をワザと消して、『日本書紀』の一説で、垂仁(すいにん)天皇26年10月甲子(きのえね)の日に伊勢神宮内宮を遷宮したと記して、干支(えと)の日付が西暦年月日の特定に役立つか、研究・分析が必要である。
『日本書紀』は、年齢を数え年で記して、『三国志・魏志倭人伝』で台与(とよ)が13才と誤解して、摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に神功(じんぐう)皇后が33才か分からなくて、『三国志・魏志倭人伝』が実年齢か数え年か求めて、摂政69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に99才で亡くなって、年齢を正しく求める必要がある。
『日本書紀』の系図の祖先化・子孫化・神格化は、『ホツマツタエ』と同じく似た神様や人物を作って、特徴や系図などを混乱して求められないようにしたが、逆に僕に特定される結果で、僕が特定することを望んだとも言える。
『日本書紀』の神名と人名の末名「尊(みこと)」と「命(みこと)」の違いは、尊(とうと)い神様と人物を見分ける基準にして、「尊(みこと)」の神名が歴代の天皇皇后と重要人物を神格化した神様で、「尊(みこと)」の人名が歴代天皇と政治をした人物だけにあって、僕の最初の著書でも指摘した。
『日本書紀』の年代・内容の改変・変更は、祖先化・子孫化・神格化と同じで、年代や物語の内容を変化させて、古い物や新しい物に改変して、混乱させて特定不可能にしたが、これも僕が特徴などから原物を特定して、元の状態を再現した。
これらの『日本書紀』の偽装工作は、僕の最初の著書で指摘して、当時から僕の超レベルの偉業が形成して、20年間の歴史研究の片鱗(へんりん)を見せたと言える。
『ホツマツタエ』の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)は、『日本書紀』で神名を記して、『古事記』で神名を消して、『古事記』の建御雷神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)と同一神をほのめかせて、経津主神(ふつぬしのかみ)の存在を希薄(きはく)にして、危機的な立場にした。
『ホツマツタエ』の建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、『日本書紀』で神名を消して、『古事記』で神名を記して、長野県が建御名方神(たけみなかたのかみ)と日本武尊(やまとたけのみこと)がつながって、逆に僕が特定するきっかけを与えた。
『日本書紀』の神名の正式名称は、稚日女尊(わかひるめのみこと)や天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)や天津彦根火瓊瓊杵根尊(あまつひこねほのににぎねのみこと)や神日本磐余彦火火出見尊(かむやまといわれびこほほでみのみこと)などが特定や重要性のヒントになった。
このように「記紀」は、互いに神様をわざと消して、混乱させたりヒントを残したりして、『ホツマツタエ』の存在を知った僕を百戦錬磨(れんま)の鬼に変えた。
2023年1月24日は、蘇我(そが)氏と藤原氏が物部(もののべ)氏と同族と確信して、「記紀」の総合監督の藤原不比等(ふじわらのふひと)が徹底的に事実を隠したが、『ホツマツタエ』の藤原氏の系図と『古事記』の武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫の蘇我(そが)氏を僕が求めて、蘇我(そが)氏と藤原氏の血筋を偽装工作したと考えられる。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫の蘇我(そが)氏は、物部(もののべ)氏の子孫を「記紀」であいまいにして、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の直系子孫の竹内(たけうち)氏が正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』で詳細に蘇我(そが)氏の系図などを伝承するが、公表してないから真偽不明と考えられる。
天児屋命(あまのこやねのみこと;誰を神格化したか不明)は、藤原氏の祖先神で、他の藤原氏の祖先神に物部(もののべ)氏の出身が多くて、藤原氏と物部(もののべ)氏を同族視しても間違いないと考えられる。
蘇我(そが)氏と藤原氏は、皇室と深い姻戚(いんせき)関係で、物部(もののべ)氏の子孫や同族で、「記紀」にその形跡を消したりほのめかせたりして、藤原不比等(ふじわらのふひと)の策略と考えられて、重要な秘密の特定ができた。
『ホツマツタエ』の日本神話と邪馬台国(大和国;やまとこく)時代は、『日本書紀』が継承して、倭(わ)の五王時代も加えて、『ホツマツタエ』が無意識に歴代天皇時代を勘違いさせる特徴も継承して、無意識に歴代天皇時代を複数の歴代天皇時代に結び付けて、凡人(僕以外の人間)に勘違いを気付かせない偽装工作を作ったが、超天才の僕を騙(だま)せなかった。
『日本書紀』の神武(じんむ)天皇は、ユダヤ人の末裔(まつえい)と勘違いさせたり、神武(じんむ)天皇が子孫の崇神(すじん)天皇と同一人物と思わせたり、神武(じんむ)東征が邪馬台国(やまたいこく)時代で、宮崎県から奈良県の勢力を討伐したと勘違いさせたり、聖徳太子とイエスキリストが馬小屋で生まれたそっくりな話を作ったり、偽装工作の作成に忙(いそが)しかった。
神武(じんむ)東征は、邪馬台国(やまたいこく)論争の九州説で、九州の宮崎県の王朝が邪馬台国(やまたいこく)になったか、邪馬台国(やまたいこく)と入れ替わった説、崇神(すじん)天皇が邪馬台国(やまたいこく)の国王とする説など、『日本書紀』が無意識に複数の思い込みをするように作られた。
『三国志・魏志倭人伝』の卑弥呼(ひみこ)と男弟(だんてい)は、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)と崇神(すじん)天皇と思わせたり、他にも何例か思わせて、景行(けいこう)天皇の実妹を倭姫命(やまとひめのみこと)と偽装工作して、史実・真実・事実を隠したが、『ホツマツタエ』の正しい系図を僕が特定した。
『日本書紀』の日本武尊(やまとたけのみこと)や武内宿禰(たけのうちのすくね)は、複数の人物を一人の人物の功績にまとめたとか、実在しなかったとか、そういう人物が「記紀」に多く登場したが、超天才の僕だけが完全に正しい系図や歴代天皇時代の年表などを作成して、無意識の思い込みを排除した神技(かみわざ)を体得した。
『日本書紀』の倭(わ)の五王は、倭王(わおう;古代の日本王)の讃(さん)が応神(おうじん)天皇から履中(りちゅう)天皇、倭王(わおう)の珍(ちん)が反正(はんぜい)天皇、倭王(わおう)の済(せい)が允恭(いんぎょう)天皇、倭王(わおう)の興(こう)が安康(あんこう)天皇、倭王(わおう)の武(ぶ)が雄略(ゆうりゃく)天皇と凡人(僕以外の人間)が勘違いして、超天才の僕が論理的に間違いと証明した。
僕は無意識の思い込みを排除して、正しい物と間違った物に分別して、正しい方を新しい情報と結び付けて、新しい思い込みをまた正否判断して、どんどんと新しい情報を更新して、この考え方を説明するのが現代哲学理論「現象学」で、それら全てを理論的に定義付けた超天才が僕である。
『日本書紀』の無意識は、僕の考えすぎの可能性もあるが、絶対に間違いのない史実・真実・事実で、それを特定できた人類史上初めての人物の僕が凡人(僕以外の人間)に教えて、知らず知らずのうちに編者(へんしゃ;編集した人)の罠(わな)にはめられて、永久ループしたと考えられる。
『日本書紀』は、超天才の僕にしか求められなくて、現代人(僕以外の人間)に理解できる教本を作って、その所業が神の如(ごと)き偉大さで、西暦720年の献上から1300年以上たって、全体を2024年6月29日の午後2時半頃に修正した。
<参考文献>
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古事記(上)(中)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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