『日本書紀』


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

『ホツマツタエ』は、6世紀から7世紀中に成立した日本最古の書物で、『古事記』が西暦712年に献上した2番目に古い書物で、『日本書紀』が西暦720年に献上した3番目に古い書物で、この事実が僕の特定した功績で、誰も否定できない真実で、2023年5月26日に修正した。
『日本書紀』は、天武(てんむ)天皇が西暦781年に編集を命じて、舎人(とねり)親王など優秀な官人たちが国家規模でまとめて、当時の最高権力者で、編集の総合監督の藤原不比等(ふじわらのふひと)が徹底的に改竄(かいざん)して、都合の悪い歴史を隠した可能性が高い。
『日本書紀』は、『ホツマツタエ』を補強する正史(確実に正しい歴史)だが、『古事記』と同じく完全な間違いも多くて、それを僕が歴史研究して、公表することで後世の教本にして、役立てる未来に期待したい。
『日本書紀』は、古代の中国と朝鮮の歴史書を記述して、日本のシルクロードが遣隋使や遣唐使で7世紀から9世紀頃で、『ホツマツタエ』の西暦年の利用を受け継いで、西暦年を使ったことを僕が証明して、西洋の暦(こよみ;太陽暦)の使用が間違いなく、非常に国際色豊かである。
『日本書紀』は、どのような書物なのか僕が求めて、国家規模で編纂(へんさん)したことを細かく検証して、特徴などを色々と見ていこうと思う。

『日本書紀』の西暦年は、歴代天皇(弘文(こうぶん)天皇を除く)の即位年などを干支(えと)で記した即位年干支法(そくいねんかんしほう)を僕が求めて、邪馬台国(大和国;やまとこく)時代の西暦年に対応させて、仁徳(にんとく)天皇時代以降の西暦年に対応できないが、歴時研究を大きくひもとく一歩だった。
『日本書紀』の景行(けいこう)天皇51年は、『ホツマツタエ』の景行(けいこう)天皇46年に代わって、西暦251年に基づくことが証明されて、『ホツマツタエ』と『日本書紀』の西暦年の利用が実証された。
『日本書紀』の摂政(せっしょう)39年は、『三国志・魏志倭人伝』の西暦239年と合致して、摂政(せっしょう)66年が古代中国の歴史書の266年と合致したなど、西暦年の利用を実証した事例が多すぎる。
凡人(僕以外の人間)は、理解できない難しいことでも、超天才の僕からすれば求められて当然で、20年以上に渡って培(つちか)った圧倒的な経験と才能の差である。

垂仁(すいにん)天皇26年9月16日は、伊勢神宮の最終遷宮日だが、『日本書紀』からワザと消して、『ホツマツタエ』や伊勢神宮の伝承を疑わせて、混乱させるのが目的だったと考えられる。
『日本書紀』で一説には、垂仁(すいにん)天皇26年10月甲子(きのえね)の日に伊勢神宮内宮を遷宮したと記して、垂仁(すいにん)天皇26年9月16日(西暦177年10月中旬頃)と合致するか不明だが、干支(えと)の日付が西暦年月日の特定に役立つかもしれない。

『日本書紀』の系図の祖先化・子孫化・神格化は、『ホツマツタエ』と同じく似た神様や人物を作って、特徴や系図などを混乱して求められないようにしたが、逆に僕に特定される結果で、僕が特定することを望んだとも言える。
『日本書紀』の神名と人名の末名「尊(みこと)」と「命(みこと)」の違いは、尊(とうと)い神様と人物を見分ける基準にして、「尊(みこと)」の神名が歴代の天皇皇后と重要人物を神格化した神様で、「尊(みこと)」の人名が歴代天皇と政治をした人物だけにあって、僕の最初の著書でも指摘した。
『日本書紀』の年代・内容の改変・変更は、祖先化・子孫化・神格化と同じで、年代や物語の内容を変化させて、古い物や新しい物に改変して、混乱させて特定不可能にしたが、これも僕が特徴などから原物を特定して、元の状態を再現した。
これらの『日本書紀』の偽装工作は、僕の最初の著書で指摘して、当時から僕の超レベルの偉業が形成して、20年間の歴史研究の片鱗(へんりん)を見せたと言える。

『日本書紀』は、実年齢と数え年が混在して、『ホツマツタエ』の数え年の影響で、また実在の人物の年齢などが口承で混乱して、口伝(くでん)が文章の記録でなく、劣化した情報になって、実年齢と数え年が混在した理由でもあると考えられる。
開化(かいか)天皇10年5月12日(西暦33年6月中旬頃)に崇神(すじん)天皇は生まれて、開化(かいか)天皇28年1月5日(西暦51年2月上旬頃)に19才(数え年)で皇太子になって、崇神(すじん)天皇元年1月13日(西暦84年2月中旬頃)に52才(数え年)で即位して、『日本書紀』で崇神(かいか)天皇68年12月5日に120才(数え年)で崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、実年齢を隠したと考えられる。
神功(じんぐう)皇后は、景行(けいこう)天皇38年頃(西暦228年頃)に生まれて、摂政(せっしょう)元年10月2日(西暦261年11月上旬頃)に33才で摂政(せっしょう;天皇に代わって政治をする役職)になって、『三国志・魏志倭人伝』の台与(とよ)の13才と誤解して、摂政69年4月17日(西暦329年5月中旬頃)に100才で亡くなって、僕の最初の著書で特定した。
崇神天皇と神功皇后の年齢は、『三国志・魏志倭人伝』と『ホツマツタエ』と『日本書紀』で混乱するが、僕の最初の著書で、最初から特定して、僕の超技能がすごすぎる片鱗(へんりん)である。

『ホツマツタエ』の経津主神(ふつぬしのかみ;武渟川別(たけぬなかわわけ)を神格化)は、『日本書紀』で神名を記して、『古事記』で神名を消して、『古事記』の建御雷神(たけみかづちのかみ;初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)を神格化)と同一神をほのめかせて、経津主神(ふつぬしのかみ)の存在を希薄(きはく)にして、危機的な立場にした。
『ホツマツタエ』の建御名方神(たけみなかたのかみ;日本武尊(やまとたけのみこと)を神格化)は、『日本書紀』で神名を消して、『古事記』で神名を記して、長野県が建御名方神(たけみなかたのかみ)と日本武尊(やまとたけのみこと)がつながって、逆に僕が特定するきっかけを与えた。
『日本書紀』の神名の正式名称は、稚日女尊(わかひるめのみこと)や天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)や天津彦根火瓊瓊杵根尊(あまつひこねほのににぎねのみこと)や神日本磐余彦火火出見尊(かむやまといわれびこほほでみのみこと)などが特定や重要性のヒントになった。
このように「記紀」は、互いに神様をわざと消して、混乱させたりヒントを残したりして、『ホツマツタエ』の存在を知った僕を百戦錬磨(れんま)の鬼に変えた。

2023年1月24日は、蘇我(そが)氏と藤原氏が物部(もののべ)氏と同族と確信して、「記紀」を編集した総合監督の藤原不比等(ふじわらのふひと)が徹底的に事実を隠したが、『ホツマツタエ』の藤原氏の系図と『古事記』の武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫の蘇我(そが)氏を僕が求めて、蘇我(そが)氏と藤原氏の血筋を偽装工作したと考えられる。
初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫の蘇我(そが)氏は、物部(もののべ)氏の子孫を「記紀」であいまいにして、初代・武内宿禰(たけのうちのすくね)の直系子孫の竹内(たけうち)氏が正統『竹内文書(たけのうちもんじょ)』で詳細に蘇我(そが)氏の系図などを伝承するが、公表してないから真偽不明と考えられる。
天児屋命(あまのこやねのみこと;誰を神格化したか不明)は、藤原氏の祖先神で、他の藤原氏の祖先神に物部(もののべ)氏の出身が多くて、藤原氏と物部(もののべ)氏を同族視しても間違いないと考えられる。
蘇我(そが)氏と藤原氏は、皇室と深い姻戚(いんせき)関係で、物部(もののべ)氏の子孫や同族で、「記紀」にその形跡を消したりほのめかせたりして、藤原不比等(ふじわらのふひと)の策略と考えられて、重要な秘密の特定ができた。

『日本書紀』は、正しく理解できる僕にしか求められなくて、内容の把握と現代人(僕以外の人間)に理解させる教本を作って、その所業が神の如(ごと)き偉大さで、西暦720年から2020年で、1300年たって僕がようやく未来に託せる段階に作り上げた。

<参考文献>
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『古事記(上)(中)―全三巻―』
次田真幸・著者 株式会社講談社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
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