歴代天皇の認定と抹消
天皇の認定と抹消は、後世に歴代天皇に認められたて、また僕が自論の論理的根拠で、歴代天皇から消すべきと考えられる天皇を挙例する。後世に歴代天皇に認められた例は、弘文(こうぶん)天皇と南朝の天皇たちで、明治時代以降に歴代天皇に認定した。
『日本書紀』で天智(てんじ)天皇は、実弟の天武(てんむ)天皇を皇太子にしたが、息子の弘文(こうぶん)天皇を我が子かわいさで、弟との約束を破って、皇太子にしたと記す。
しかし『懐風藻(かいふうそう)』や『万葉集』は、父の天智(てんじ)天皇が弘文(こうぶん)天皇を立太子(りったいし;皇太子にすること)したと記して、これを支持した説もあって、また天智(てんじ)天皇の皇后の倭姫王(やまとひめのおおきみ)を立てて、弘文(こうぶん)天皇が皇太子に称制(しょうせい;君主が死んで、次代が即位せずに政治すること)した説もあって、称制(しょうせい)の場合に天皇がいない。
天智(てんじ)天皇の崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)から壬申(じんしん)の乱の戦死(弘文(こうぶん)天皇の崩御(ほうぎょ)まで約半年で、即位の儀式ができなかったと考えられて、歴代天皇に数えられなかったが、弘文(こうぶん)天皇が明治3年(1870年)に歴代天皇と認められた。
南朝の天皇たちは、後醍醐(ごだいご)天皇から後亀山(ごかめやま)天皇までの4人で、後醍醐(ごだいご)天皇が歴代天皇に数えられて、後醍醐(ごだいご)天皇の第7皇子の後村上(ごむらかみ)天皇から後亀山(ごかめやま)天皇までの3人が歴代天皇と認められず、南朝の天皇3人を認めるか論争になった。
南北朝は、1337年から1392年まで存続して、京都市の北朝と奈良県吉野(よしの)郡吉野(よしの)町を本拠地とした南朝の対立で、三種の神器の全てが南朝に奪われて、一種類の勾玉(まがたま)が南朝に渡って、北朝に三種の神器の剣と鏡の現物(オリジナル)か代用品(レプリカ)が残されて、北朝と南朝が当時からの記録の呼び名である。
南北朝時代は、鎌倉時代の1337年に北朝と南朝に分かれて、それぞれを擁立する勢力が対立して、後醍醐(ごだいご)天皇が南朝の初代天皇になって、三種の神器を強奪して4人の天皇が継いで、1392年に南朝の後亀山(ごかめやま)天皇が南北朝の統合後に皇統譜(皇室の戸籍簿)で100代目の後小松(ごこまつ)天皇が新しく即位して、三種の神器を渡して決着して、ちなみに後小松(ごこまつ)天皇のご落胤(らくいん)がお坊さんの一休さんと伝える。
南北朝正閏論(なんぼくちょうせいじゅんろん)は、「閏(じゅん)」が「本来ある物と他にある物」や「正統でないあまり物」を意味して、北朝と南朝のどちらが正統かの論争で、北朝正統論と南朝正統論と両統対立論と両統並立論の4つがあって、南北朝の統合以来ずっと繰り返した。
北朝と南朝の子孫の皇族は、それぞれに正統性を訴えて、両統対立論が百年近く続いて、南朝の子孫や縁(ゆかり)の人物が室町幕府に反乱して、この運動を後南朝と呼ぶ。
南北朝の統合後は、北朝側が北朝正統論で、南朝側の重鎮の北畠親房(きたばたけちかふさ)が『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』を書いて、三種の神器の保持と皇統の正統の概念で南朝の正統性を唱えて、現実問題で北朝と室町幕府に対して南朝の復権運動が続いて、北畠親房(きたばたけちかふさ)以外に南朝の正統性を唱えず、『太平記(たいへいき)』が1370年代に書かれて流布して、公家(くげ)や武士が愛読して、南朝側への同情的な見方が強まった。
徳川光圀(とくがわみつくに)が編纂(へんさん)した『大日本史』は、南朝正統論で後世に大きく影響して、この南朝正統論が水戸学に継承して、幕末に両統対立論が出てきて、現皇室の北朝正統論と水戸学を押す南朝正統論の尊王攘夷派が対立して、北朝正統論の公家(くげ)による京都の朝廷と南朝正統論の維新志士の明治政府が入れ替わった。
明治時代に入って歴史学会(歴史書解釈)は、『太平記(たいへいき)』や他書で南北朝時代を研究して、南北朝の正統性が問題視されて、1911年(明治44年)に明治天皇の裁断が『大日本史』を根拠にして、三種の神器の保持で、南朝の正統性を認めた。
戦前の皇室史観は、足利尊氏(あしかがたかうじ)を天皇に逆らった逆賊や大悪人で、楠木正成(くすのきまさしげ)や新田義貞(にったよしさだ)を忠臣と評価して、戦後に南朝が正統で、歴代天皇の数に南朝3天皇を加えて、足利尊氏(あしかがたかうじ)の功績を評価して、楠木正成(くすのきまさしげ)を悪党として、現代の研究に繋(つな)がった。
僕が抹消を考える天皇は、神武(じんむ)天皇と欠史(けっし)八代の天皇8人と成務(せいむ)天皇と応神(おうじん)天皇の計11人で、ずっと前から認めるべきでないと考えて、126代目の今上(きんじょう)天皇(今の天皇陛下)が115代目になるのが正しく、僕の望む最高の状態で、2022年6月24日に記した。
歴代天皇11人の抹消は、僕が求めた正当性を論理的根拠で、なぜ抹消すべきなのか納得理由を示す。
神武(じんむ)天皇は、宮崎県から東征して、奈良県まで武勇を示して、神武(じんむ)の呼び名を与えられて、神武(じんむ)天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日;建国記念の日)に奈良県で即位したが、実在性が疑われて、皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍)の初代かあやしい。
神武(じんむ)天皇は、実在の初代の崇神(すじん)天皇と5代目の仁徳(にんとく)天皇を祖先化して作られた人物で、初代天皇の功績が崇神(すじん)天皇の物だったり、東征の武勲が仁徳(にんとく)天皇と入れ替わったりと簡単に証明できて、実在しないため抹消を考える。
欠史(けっし)八代の天皇8人は、欠史(けっし)が歴史の欠(か)けた呼び名で、在位期間や年齢が百年以上の者もいて、皇子皇女が有力豪族の先祖や歴史に登場して実在性を考えさせて、欠史(けっし)八代の天皇8人が実在したか議論となる。
欠史(けっし)八代の天皇8人は、在位期間や年齢が百年以上を即位年干支法(そくいねんかんしほう)で60年分を引き算して解決して、皇子皇女が実在性を感じさせるのが系図の祖先化や子孫化で実在するためで、天皇8人が作られて実在しないため抹消を考える。
成務(せいむ)天皇は、西暦131年から191年に在位して、60年間の在位期間で、即位してから10年間以内の記述が目立って、実在性が薄くて疑われるが、歴代天皇に数える。
成務(せいむ)天皇は、異母兄弟の日本武尊(やまとたけのみこと)と同一人物で、在位期間60年間が引き算して、西暦251年(天皇がいない年)の1年足らずで、伯母の倭姫命(やまとひめのみこと;卑弥呼:ひみこ)殺し(太陽神殺し)の逆賊で、皇族に認められない強行即位した仮(かり)の天皇で、出雲王国(物部(もののべ)氏)の崩壊の原因で、他にも様々な理由から抹消を考える。
応神(おうじん)天皇は、応(おう)じる神の呼び名で、西暦270年から310年に在位して、大阪府に皇居と天皇陵があって、在位期間に渡来人が多く、儒教や漢字も伝わったと記す。
応神(おうじん)天皇は、母の神功(じんぐう)皇后が立太子(りったいし;皇太子にすること)して、三種の神器を持って宮崎県に行かせて、宮崎県にて息子で5代目の仁徳(にんとく)天皇をもうけて、宮崎県に皇太子陵があると考えられて、歴代天皇に数えられないはずで、様々な理由から抹消を考える。
僕が述べた11人の天皇は、抹消する理由が当然で、今の皇族や宮内庁や日本国政府や国民などが判断して、決めることで僕がわずかなきっかけを与えただけである。
神武(じんむ)天皇と成務(せいむ)天皇と応神(おうじん)天皇は、想像の在位期間を書くが、現代人(僕以外の人間)の多くが信じる嘘で、在位しない作られた天皇で、抹消する理由が十分と考えられる。
歴代天皇の在位期間は、考古学(遺跡・遺物)と歴史学(歴史書解釈)が合致して、証明した僕の自論が史実・真実・事実になって、いずれ後世の事績になる。
僕が天皇に認定すべきと考える人物は、神功(じんぐう)皇后と飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)を女性天皇(女帝)と認定して、神功(じんぐう)天皇と飯豊(いいとよ)天皇と名付けて、女系天皇や女性天皇の根拠として重要で、皇室や宮内庁の認識が重要で、僕の歴史研究の公表と共に国民や世界中に知らせるべきと僕は思う。
神功(じんぐう)皇后と飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)を女性天皇(女帝)に認定するのは、歴史上の功績から十分で、歴代天皇の認定の実例を検討して、日本国政府で議論する必要もあって、国家レベルの一大事で、非常に大切なことである。
神功(じんぐう)皇后と飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)は、女性天皇(女帝)と認めれば、西暦84年から現代の天皇陛下まで117人の天皇がいたことになる。
台与(とよ)の神功(じんぐう)皇后は、西暦239年頃の生まれで、仲哀(ちゅうあい)天皇の正妻で、出雲王国(物部(もののべ)氏)を崩壊させて、神剣の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)を交代して、261年に摂政(せっしょうい)になって、高湿で最長の69年間も政治して、329年に99才で亡くなって、息長足姫尊(いきながたりひめのみこと)の尊称が贈(おく)られた。
清寧(せいねい)天皇28年1月16日(西暦457年2月中旬頃)に清寧(せいねい)天皇は、崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、1月17日以降の1月中(西暦457年2月頃)に顕宗(けんそう)天皇が即位しなくて、同母姉(同母妹)の飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が政治をして、自(みずか)らを忍海飯豊青尊(おしぬみいいとよあおのみこと)と尊称して、11月(西暦457年12月頃)に亡くなった。
神功(じんぐう)皇后は、『摂津国風土記(せっつのくにふどき)』と『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』が息長帯比売(いきながたりひめ)天皇で、飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)を『扶桑略記(ふそうりゃくき)』が飯豊(いいとよ)天皇と記して、神功(じんぐう)皇后を『扶桑略記(ふそうりゃくき)』や『水鏡(みずかがみ)』で女帝の始まりと記して、女帝を疑問視しないと考えられる。
歴代天皇の抹消と認定は、女系天皇と女性天皇の皇位継承問題と直結して、女性天皇(女帝)の認定が非常に大きな意味を持って、検討する必要がある大問題で、2024年5月29日に修正した。
<参考文献>
<主な参考文献>
『日本書紀(上)(下)全現代語訳―全二巻―』
著者・宇治谷孟 発行・株式会社講談社
インターネットの不明サイトから少々拝借
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