仁徳(にんとく)天皇


これは出版していない3冊目以降の本の著作権を含む。

仁徳天皇は4世紀末から5世紀始め頃の人物で、倭の五王の最初の倭王「讃」に当たり、日本最大の古墳である大山(だいせん;大仙陵)古墳(伝・仁徳天皇陵)の埋葬者でないかと考えている人が多いと思う。
しかし、その認識には大きな誤りがあって、西暦506年以前の時代に天皇家が存在したか不明で、また倭の五王に天皇を当てはめるかも疑問視されているからである。
僕の研究結果によると、仁徳天皇は実在の人物だとするのだが、生きた時代が全く違っていて、その点を大きく考慮しないといけない。

仁徳天皇の父親である皇太子の誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)は、神功(じんぐう)皇后が出産直後の仲哀天皇9年12月14日(西暦261年1月下旬頃)に出雲王国から取り戻した三種の神器と共に日向(ひうが;宮崎県)に向かわせて、神功皇后が天皇の代わりに国政執行する摂政(せっしょう)の位を続けられなくなった時、日向から呼び戻して天皇として即位させるつもりだった。
しかし誉田別尊は母の神功皇后が摂政だった69年間に日向で亡くなって、次の天皇になるのが息子の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと;仁徳天皇の即位する前の名前)だったのである。
仁徳天皇の出生地は日向であって、日向が天孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)から神武(じんむ)天皇の4世代が過ごした天皇家の故郷とされているが、正しく求めると誉田別尊が瓊瓊杵尊に神格化されて、仁徳天皇が神武天皇に祖先化されているのである。
仁徳天皇を神格化したのが火火出見尊(ほほでみのみこと)で仁徳天皇を神武天皇に祖先化されている時、『日本書紀』に神日本磐余彦火火出見尊(かむやまといわれびこほほでみのみこと)の名前が記されているのは重要である。

仁徳天皇は父親が誉田別尊で、母親が景行(けいこう)天皇の息子である五百城入彦皇子(いもきいりひこのみこ)の孫娘の仲姫命(なかひめのみこと)で、古代天皇家の生まれだが大和を知らず日向にて生まれ育った。
大鷦鷯尊は祖母の神功皇后が摂政69年4月2日(西暦329年5月中旬頃)に大和で亡くなったのを知って、三種の神器を持って日向の地を旅立ち、大和に向かって船旅をしたのである。
神武天皇が日向から東の大和に向かって遠征したのを神武東征と言うが、正しくは仁徳天皇なので仁徳東征である。
神武東征はよく邪馬台国論争に持ち出されるが、何の根拠もないデタラメである。
神武東征では神武天皇の兄の五瀬命(いつせのみこと)らが亡くなったとされるが、大鷦鷯尊の兄弟が亡くなったのか疑問視すべきである。
神武天皇が大阪から大和に入ろうとすると、長髄彦(ながすねひこ)という豪族が抵抗して進軍できなかったため、迂回して三重県熊野市から進軍することにしたが、途中で神様が現れて毒気を吐いて皇軍を眠らせた。
熊野市に高倉下(たかくらした)という人物がいて、その人の夢で天照大神(あまてらすおおみかみ)が武甕雷神(たけみかづちのかみ)と会話しており、武甕雷神が高倉下に神刀を神武天皇に届けよとお告げした。
翌朝に夢のお告げに従って倉を開けると、倉の底板に逆さに刺さっている剣があり、それを取って神武天皇のところに届けると、天皇も皇軍も皆が目を覚ました。
この話は神功皇后(天照大神に神格化)が初代・武内宿禰(たけのうちのすくね;武甕雷神に神格化)に遺言されて、東征してくる孫を助けてほしいと願われて、初代・武内宿禰が家臣(高倉下)に神刀を大鷦鷯尊(神武天皇)の元に届けさせたのを神話化・神格化・祖先化したのでないかと考えられる。
この後に神武天皇は長髄彦を殺害したと記されるが、長髄彦の正体が仁徳天皇の異母兄弟の大山守皇子(おおやまもりのみこ)である。
大山守皇子の反乱を神話化したのは、海幸彦(うみさちひこ;大山守皇子を神格化)と山幸彦(やまさちひこ;仁徳天皇を神格化)神話である。
大臣の初代・武内宿禰が神功皇后のいない大和朝廷の実質的な統治者だが、全権を大鷦鷯尊に返上して、西暦330年代に5代目の仁徳天皇として即位された。

おとぎ話の浦島太郎は、『日本書紀』に京都府与謝郡伊根町の宇良(うら;浦島)神社が記されて、僕の出版していない3冊目の本に誉田別尊と仁徳天皇の親子を神格化したのでないかと記している。
これより始まる仁徳天皇の歴史がどのように動いたのか現在の僕でもよく分からない。

<参考文献>
『図説 天皇陵』
株式会社新人物往来社・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
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