仁徳(にんとく)天皇
仁徳天皇は4世紀末から5世紀始め頃の人物で、5世紀の倭の五王である最初の倭王「讃」で、日本最大の古墳である大山(だいせん;大仙:大仙陵)古墳(伝・仁徳天皇陵)の埋葬者と考える人が多いと思う。
しかし、その認識は大きな間違いで、西暦506年以前の時代に天皇家が存在したか不明で、また倭の五王に天皇を当てはめるかも疑問視される。
僕の研究結果は、仁徳天皇が実在の人物だが、生きた時代が全く違って、現代人(僕以外の人間)の常識が間違いで、その点を細かく説明していく。
出雲王国(物部(もののべ)氏)の日本武(やまとたけ)天皇は、二種の神器か三種の神器を持っていて、息子の仲哀(ちゅうあい)天皇も大和国(やまとこく;邪馬台国)で二種の神器か三種の神器を持っていて、2朝廷並列時代が成立していた。
仲哀天皇9年2月6日(西暦260年3月上旬頃)に出雲王国の攻撃中に仲哀天皇が崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)して、おそらく日本武天皇の軍勢が仲哀天皇を戦死させて、仲哀天皇の正妻の神功(じんぐう)皇后(台与;とよ)が義父の日本武天皇を恨(うら)んだと考えられる。
仲哀天皇9年神無月(西暦260年11月頃)に神功皇后は、日本武天皇を戦死させて出雲王国が崩壊して、日本武天皇が持ち去った三種の神器と草薙剣(くさなぎのつるぎ)を取り戻した。
仲哀天皇9年12月14日(西暦261年1月下旬頃)に神功皇后は、誉田別尊(ほむだわけのみこと;即位しない応神(おうじん)天皇)を出産して、出生地が島根県出雲市平田か京都府与謝郡伊根町の宇良(うら;浦島)神社と考えられる。
神功皇后は、2種類の三種の神器を入手して、摂政(せっしょう)元年2月(西暦261年3月頃)に仲哀天皇の息子で大人の鹿坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の兄弟が謀反(むほん)を起こして、三種の神器を奪(うば)おうとしたが、討伐して2皇子が戦死した。
鹿は「鹿」の漢字の下に弭で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
出雲王国の2度の皇位継承権争いと2皇子の皇位継承権争いの3つの内乱から神功皇后は、2種類の八重垣剣(やえがきのつるぎ)と1種類の草薙剣を入れ替えて、三種の神器の剣を草薙剣とした。
摂政3年1月3日(西暦263年2月上旬頃)に実兄の誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)でなく、弟の2歳弱の誉田別尊を立太子(りったいし;皇太子になること)して、2種類の八咫鏡(やたのかがみ)の片方と1種類の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)と草薙剣を持たせて、誉田別尊と共に日向(ひうが;宮崎県)に行かせた。
誉田別尊は、母の神功皇后が摂政(天皇の代わりに政治する役職)を続けられなくなった時、日向から呼び戻して天皇として即位させるつもりだった。
しかし誉田別尊は、母の神功皇后が摂政だった69年間に宮崎県で亡くなって、計画が変わってしまって、誉田別尊の息子の仁徳天皇に白羽(しらは)の矢が立った。
誉田別尊の陵墓は、仲哀天皇元年11月10日(西暦252年12月上旬頃)に曾祖父の景行(けいこう)天皇を葬礼した全長280メートルの前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳の相似形で、宮崎市にある3世紀後半から4世紀前半の生目(いきめ)1号墳が有力な墓(はか)と考えられる。
天皇家の故郷の宮崎県は、皇太子の誉田別尊が三種の神器を持たされて行って、息子の仁徳天皇の出生地でもあるからで、決して何の根拠もない作り話でなく、ちゃんとした歴史書解釈の基(もと)づいた史実である。
忍穂耳尊(おしほみみのみこと;仲哀天皇を神格化)と栲幡千千姫(たくはたちちひめ;神功皇后を神格化)の息子の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;誉田別尊を神格化)は、祖母の天照大神(あまてらすおおみかみ;神功皇后を神格化)の命令で、三種の神器を持って宮崎県に天孫降臨させられた。
瓊瓊杵尊は、『日本書紀』で火瓊瓊杵根尊(ほのににぎねのみこと;誉田別尊を神格化)と記して、息子の火火出見尊(ほほでみのみこと;仁徳天皇を神格化)を生んで、親子で火の神様に神格化された理由が物部氏出身の神功皇后の血筋だからで、物部氏の直系が火の神様に神格化されて、それまでの古代天皇家に物部氏の血筋が混(ま)じってなかった。
火火出見尊の息子の盧茲草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと;誉田別尊を神格化)は、架空の作られた存在だから事跡が少なくて、その息子で作られた系図の神武(じんむ)天皇(仁徳天皇を祖先化)が皇統譜(こうとうふ;皇室の戸籍簿)で、一応の初代天皇とされる。
盧は「盧へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
茲は「茲へん」に鳥の漢字で、ホームページで表示できるが注意書きにする。
神武天皇(仁徳天皇を祖先化)は、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)と呼ばれる名前で、『日本書紀』に火火出見尊(仁徳天皇を神格化)と合体した名前の神日本磐余彦火火出見尊(かむやまといわれびこほほでみのみこと)の名前を記して、火火出見尊と神武天皇が同一人物の仁徳天皇と知っていた根拠になる。
瓊瓊杵尊と火火出見尊と盧茲草葺不合尊の3世代は、宮崎県に陵墓があって、誉田別尊の陵墓が宮崎県内にある根拠でもある。
日向(ひうが)神話は、完全に僕が求めた歴史書解釈の史実に基づいて、決して作り話だと現代人(僕以外の人間)に言わせない神域である。
日本神話の神々の領域…神域を求められる意味で、「神様に最も近い人間」の僕は、誰も求められない神域にただ一人たどり着けて、人類史上最高の超天才と言っても過言でないだろう。
仁徳天皇は父親が誉田別尊で、母親が景行(けいこう)天皇の息子である五百城入彦皇子(いもきいりひこのみこ)の孫娘の仲姫命(なかひめのみこと)で、大和でなく日向で生まれた。
母親の仲姫命は、姉の高城入姫(たかぎいりひめ)が同じく誉田別尊の妃で、異母兄弟の額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかひこのみこ)と大山守皇子(おおやまもりのみこ)を生んだ。
和珥(わに)氏の日触使主(ひふれのおみ)の娘である宮主宅媛(みやぬしやかひめ)は、仁徳天皇の異母兄弟の菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)を生んだ。
『日本書紀』で誉田別尊の息子の皇位継承者は、太子(皇太子と記さない)の菟道稚郎子皇子、菟道稚郎子皇子の補佐で国事を見る仁徳天皇、山川林野を司(つかさど)る大山守皇子の3人である。
大山守皇子は、父が太子にしなかったことを恨(うら)んで、額田大中彦皇子が仁徳天皇の即位前に謀反(むほん)を起こして、結果的に殺されなかったが、この謀反の屯田(みた)で、大山守皇子が異母兄弟の仁徳天皇を恨んだ。
摂政69年4月2日(西暦329年5月中旬頃)に祖母の神功皇后は、奈良県で100才で亡くなって、息子の誉田別尊が亡くなっていて、孫の皇位継承者が即位することになった。
奈良県で大山守皇子が謀反を起こした時、同じく奈良県にいた皇太子の菟道稚郎子皇子は、仁徳天皇を頼(たよ)って宮崎県に行って、仁徳天皇が東征(仁徳東征)して、これを祖先化したのが神武東征である。
誉田別尊の息子の皇位継承者は、奈良県と宮崎県に分散して、それぞれの土地を統治したと考えられる。
神武東征は、よく邪馬台国論争に持ち出されるが、何の根拠もないデタラメで、仁徳東征が邪馬台国時代よりも後世である。
神武東征は、神武天皇(仁徳天皇を祖先化)の兄の五瀬命(いつせのみこと;菟道稚郎子皇子を祖先化)が亡くなって、『ホツマツタエ』で五瀬命が統治者だから菟道稚郎子皇子に当たって、仁徳東征で菟道稚郎子皇子が戦死したと考えられる。
神武天皇(仁徳天皇を祖先化)は、大阪から大和に入ろうとすると、長髄彦(ながすねひこ;大山守皇子を祖先化)という豪族が抵抗して進軍できなかったため、迂回(うかい)して三重県熊野市から進軍した。
大山守皇子の反乱は、4度目の皇位継承権争いで、仁徳天皇の持つ1種類の草薙剣(くさなぎのつるぎ)を奪って、剣と鏡の二種の神器をそろえて、大山守皇子が天皇になるつもりだった。
大山守皇子の反乱を神話化したのは、海幸彦(うみさちひこ;火酢芹命(ほすせりのみこと)と同一神:大山守皇子を神格化)と山幸彦(やまさちひこ;火火出見尊:仁徳天皇を神格化)の神話である。
海幸彦と山幸彦の神話は、火火出見尊(仁徳天皇を神格化)が火酢芹命(大山守皇子を神格化)を水死させて、大山守皇子の死で内乱が鎮圧された。
神武東征は、長髄彦(大山守皇子を祖先化)の主君の饒速日命(にぎはやひのみこと;初代・武内宿禰を神格化)が長髄彦を殺して、神武天皇(仁徳天皇を祖先化)に恭順(きょうじゅん)した。
仁徳天皇は、異母兄弟の大山守皇子を殺して、100歳近い長寿の大臣の初代・武内宿禰に指導されて、西暦330年代に5代目の仁徳天皇が即位した。
仁徳天皇が即位した4世紀前半頃は、大和(おおやまと)古墳群と集落遺跡の纏向(まきむく)遺跡(景行天皇の皇居の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)が放棄されて、皇族陵とそれぞれの皇居が放棄された考古学的証拠と考えられる。
仁徳天皇陵は、『日本書紀』に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)で、『古事記』に百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)と記す。
仁徳天皇陵は、世界一の面積の墓(はか)で世界遺産でもあって、国内最大の古墳(前方後円墳)の大仙(だいせん)古墳とするが間違いで、皇居も陵墓も奈良県と考えられる。
仁徳天皇は、生まれも崩御(ほうぎょ;天皇が亡くなること)も西暦年月が不明で、仁徳天皇陵が4世紀中頃から後半頃の築造と考えられるが、めぼしい候補が奈良県内に一杯あると考えられる。
仁徳天皇陵は、断定不可能と考えるのが妥当(だとう)だろう。
おとぎ話の浦島太郎は、僕の出版していない3冊目の本に誉田別尊と仁徳天皇の親子を神格化したのでないかと記す。
神武東征と海幸彦と山幸彦の神話は、間違いなく仁徳天皇の東征(仁徳東征)で、完全な史実である。
仁徳天皇は5世紀の倭の五王でなく、4世紀前半の天皇として実在したと歴史書解釈が証明して、僕以外にひもとけるはずもない。
<参考文献>
『図説 天皇陵』
株式会社新人物往来社・発行
『完訳秀真伝』
鳥居礼・編著者 八幡書店・発行
『日本書紀(上)全現代語訳―全二巻―』
宇治谷孟・著者 株式会社講談社・発行
『日本古代地名事典』
吉田茂樹・著者 新人物往来社・発行
インターネットの不明サイトから少々拝借
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